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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
エピローグ
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エピローグ

 べん――


 平家琵琶の音がした。


 べべべん――


 それは夢のなかで響いた音だった。

 いや、本当に夢であるのかどうか。ここはすでに死後の世界で、六道りくどうで言うところの修羅道というヤツではないか――とも俺は思った。


 じゃんじゃんじゃんじゃんじゃん――


 激しくかき鳴らされる琵琶が間断なく鳴き続けている。

 視界は薄暗く、遠近おちこちで松明の炎が燃え、その揺れる火明かりのなかで無数の武者たちが殺し合いをしていた。

 近くにいる武者は俺にも次々と群がり襲って来る。

 俺はそれをひたすら討ち払い続けていた。

 右手には愛刀が、左手には折れた槍の柄があった。両腕を振るうたび、敵の血がしぶき、肉がはじけ、骨が砕ける。敵を斬った音、あるいは槍で殴り倒したときのそれや、敵が放つ断末魔の叫びといったものは、不思議とまったく聞こえない。頭の中で響いている音と言えば、うるさいほどの琵琶のだけだ。

 脳裡のうりに浮かぶ絵は時にゆっくりとなり、しばしば断絶し、かと思えば不意に脈絡なく繋がった。時間の感覚というものがないから、あるいは延々とそんな状態が続いていたのかもしれないが、混濁し朦朧もうろうとした意識にあるのは漠然とした不快感と――それとまったく矛盾するが――酒に酩酊するのともまた違う、恍惚こうこつとした陶酔感だった。

 肉体の状態を正しく認識することを、脳髄の方が無意識に拒んでいたのかもしれない。意識の上には疲労や痛みといった身体感覚がほとんど上って来ず、戦いながらも俺は世界と半ば溶け合っていた。心地良く冷えた液体の中でゆらゆらともがいているようでもあり、俺自身がその液体そのものであるような気もした。

 そんな時間がどれくらい続いたのだろう。

 漠然とした不快感が全身の痛みだと自覚したとき、夢の世界が唐突に破れ、琵琶の音が消え、無音の闇のなかで朧げながら自分の輪郭のようなものが意識できた。喉の渇きに気づくとその感覚はいっそう明瞭になったが、手足はおろかまぶたひとつ動かすことができなかった。

 自分が瀕死の状態であること――つまり生きているということに気づいたのは、だからよほど時間が経ってからのことだ。

 季節が冬に返ったかと思うほど全身が冷え切り、手足を動かそうにもまったく力が入らず、そのくせ心臓の脈動と共に身体中がずきずきと痛んだ。その痛みに自覚的になるにつれ、喉の渇きがいっそう酷くなった。

 時おり口に何かが吸い付き、口中にぬるい液体がわずかに入ってきた。

 そんな感覚が何度も何度もあった。

 水だ――と気づいたとき、薄く目が開いた。

 薄暗いなかに白いものがあった。

 光量が足らぬために目鼻もはっきりしないが、女の顔であるとわかった。同時にそれが妻のものであると直感した。

 身体がどうしようもなく重く、冷たい。

 ――血が足りねえ。

 働かぬ頭でそう思った。

 その瞬間、過去と現世とが繋がった。


「・・・・・」


 俺は――。

 そう。俺は船山の砦で死んだのではなかったか。

 切腹する気は最初からなかった。闘死することを選んだのは、それが俺らしいと思ったからだ。

 闘争のなかで郎党たちが次々とたおれてゆき、ついには立って戦っている者が一人もいなくなっても、それでも俺は戦い続けた。

 近づく者をただなぎ倒し、殴り倒し、蹴り飛ばす。

 力尽きた時が死ぬ時だと思い定めていたが、失血が増え、疲労が極限を超えると、もう何もかもが面倒くさくなってきた。

 心臓は早鐘のように鳴り続けている。呼吸を調えることも満足にできない。

 すでに精も根も尽き果て、立っているのがやっとになっているのに、敵は誰も俺にとどめをくれようとはしなかった。

 いつの間にか眼前に矢楯の壁ができ、それが四方から殺到した。

 抵抗もクソもない。

 俺は楯板で挟みつけられ、地べたに押し倒され、そこに重さが怒涛のように加わって、文字通り押し潰された。

 憶えているのはそこまでだ。

 凄まじい圧迫感と骨がひしがれる激痛のなかで俺は意識を失った。

 死んだ――。

 そう思っていた。


「四郎さま・・・・!」


 目が開いたことに気づいたのだろう、俺の顔を覗き込んだ妻が万感を込めた声で囁いた。

 触れている手からわななくような震えが伝わってきた。おとがいから零れ落ちた涙の粒が俺の顔を濡らした。人肌にぬくんだ水分が皮膚から沁み込んで来るようで、心地よかった。

 俺は身体を起こそうとした。が、わずかに全身が痙攣けいれんしただけだ。

 まったく力が入らない。気力も体力もまるで湧いて来ない。

 涙で濡れた妻の顔を呆然と見上げた。


「もう、もう大丈夫です。四郎さまは助かります」


 木椀を取り上げたゆきは、みずから水を含み、それを口移しに飲ませてくれた。

 水が身体に沁み込んでゆく感覚に、命が蘇えるのを感じた。

 ひとつ長く息を吐き、俺は再び意識を失った。



 次に意識が戻ったとき、ゆきは水と重湯おもゆのようなものを口移して与えてくれた。

 それであらためて空腹感を感ずるようになったのは皮肉と言えば皮肉だったが、お陰で飢餓感に苛まれることはなかった。

 身体中が痛い。この痛みで目を覚ましたのだと気づいた。呼吸するたびに横腹がきしむようで、刺すような痛みが走る。肋骨が何本か折れているのかもしれない。いや、折れているは肋骨だけではないらしい。動かそうとした左手の指に激痛が走り、うめき声が漏れた。

 疲労と失血によるものであろう、倦怠感が酷く、ろくに頭が働かない。熱も出ているらしかった。

 それでも、口だけは何とか動かすことができた。


「・・・・お、れ――は、なぜ――生きて、る?」


 かすかに声が出た。


「吉田の殿のお計らいと聞きました。私も確かなところはわからないのですが――」


「兄者、の・・・・?」


 腹も立たなかった。物事に腹を立てるには、それだけの気力が必要であるらしかった。疑問が次から次から湧いて来るが、しかし、何かをじっくり考えるには身体が疲弊しすぎていた。

 考えるでもなく考えているうちに眠ってしまったらしかった。

 時間の経過はよくわからない。

 どれくらい眠り、何度目覚めたのかもはっきりしない。

 ただ目覚めたときには常に妻がそばにいて、その献身的な介護のお陰で露命ろめいを繋いだということだけは、どうやら間違いない。

 俺が寝かされているのは粗末な小屋らしい。板壁の隙間からわずかに日が差し込んでいるから、昼夜で言えば昼なのだろう。むろん時刻はまったくわからないわけだが。

 ふいに夜具の汗臭さと自分の血膿の臭いが鼻についた。嗅覚が戻った、ということらしいが、その不快な臭いに鼻が慣れてしまうと、また匂いを感じなくなった。

 俺はほとんど全身にさらしを巻かれていた。身体のそこらじゅうが痛むのには閉口したが、幸い臓腑に達するような刀槍の怪我は負ってないようだった。もっとも、そんな致命傷を負っていたならいま生きているはずがない。

 相当な熱があるのだろう、頭がぼうっとして考えがまとまらない。が、それでも自分の置かれた状況に向き合おうとするだけの気力は戻っていた。


「ここはどこだ?」


 傍らの妻に訊ねると、


「無住になったれ寺です。吉田の近く――宍戸氏の領地との境にある部落の近くと聞きました。確かめたわけではないので、その話が本当かどうかはわからないのですが――」


 ゆきはすまなそうに答えた。


「お前はどうしてここにいる?」


「それが――、私にもわからないのです。相合のお屋敷で気を失って、目が覚めたらここに居て、四郎さまが寝かされておりました」


 どうも要領を得ない。

 詳しく話させると、あの夜、歩き巫女時代の昔馴染みがゆきを救いに現れて、ここまで運んでくれたものらしい。その男は出雲で「鉢屋はちや」と呼ばれる賤民せんみんの出で、尼子氏の諜者であるという。


「鉢屋の者は、士籍を与えられて尼子の御家に仕えおる者もありますし、その手下となって働いておる者も多いのです。その男は私の幼馴染で、蓮次れんじという名なのですが、私が目覚めたときにはすでにいなくなっておりました。どういうつもりでこんな事をしたのか、私にもその真意はわかりません」


 その時、部屋の戸が音を立てて開き、薄暗かった室内が眩しいほど明るくなった。


「おお、もう喋るようになられたか」


 俺の足の方からした声は、男のものだ。身体が起こせないので相手が見えないのだが、その声にはどこかで聞いた覚えがあった。

 立て付けが悪いのだろう、男はやや手こずりつつ扉を閉めた。むろん部屋はもとの暗さに戻った。


「さすが武勇の誉れ高き相合さま、強靭なお身体をお持ちのようじゃな。この分ならもう大丈夫じゃろう」


「・・・・たれだ?」


 男が俺の枕元まで歩いてき、どかりと座った。


岩阿弥がんあみでござるよ。お見忘れかな。乞食聖こつじきひじりの岩阿弥でござる」


 ごつごつした岩のようなその相貌には確かに見覚えがある。

 俺はやや混乱した。ほとんど縁もゆかりもないこの男がなぜ俺を庇護してくれているのか。ここはどこなのか。今はいつなのか。何もかもさっぱりわからない。


「・・・・ここはどこだ?」


 その質問に、僧形の男は俺の顔を覗き込むようにして答えた。


「野僧のいおじゃな。まあ、れ寺の庫裏くりに勝手に棲みついておるだけじゃが」


「・・・・なんで俺が生きてる?」


「お手前はもう生きてはおらんよ。残念ながら、すでに死んでおる」


 岩阿弥は噛んで含めるような口調で言った。


「相合四郎元綱の首は、すでに丁重に葬られ、お手前はこの現世うつしよにはおらぬことになっておる。すなわち死人しびとじゃ。吉田の殿のお計らいでな」


「俺が、死人・・・・?」


「まったく、吉田の殿も面倒な道を択びなさったものよ。事情はどうあれ、仮にも武門の当主であれば、一殺いっさつ多生たしょうを考えるが当然。たとえ弟御であろうと、こうとなっては殺しておくのが当たり前じゃと、野僧あたりは思うがな。にわかに仏心を起こされたのやも知れぬが、とてものこと、賢い選択せんじゃくとは言えぬな」


「兄者が、な・・・・」


 俺はすべてを領解りょうげした。いや、本当はあのぬるい夜討ちを受けた時から薄々気づいていた。兄は最初から俺を殺すつもりなぞなかったのだ。俺が他国へ落ちれば善し、もし徹底抗戦したとしても、捕らえた上でこういう処置をする計画だったのだろう。

 乾いた笑いが湧いてきた。


「・・・・しがたい馬鹿だ」


「同感じゃな。まあ、それで救われた女性にょしょうもおることゆえ、あながち悪いことばかりでもないがの」


 枕頭でゆきがじっとこちらを見つめている。


「お手前が本当に死んでおったとすれば、こちらの奥方も生きてはおらなんだであろう」


 その点に関しては坊主の言う通りかもしれない。

 一度は死を決した俺だが、今さら死に直す気にもなれなかった。


「御坊は兄者の諜者であったか」


「諜者――か。ふむ。まあ、そう言えぬこともない。吉田の殿はどういうわけか、このような生臭なまぐさ坊主に昔から目を掛けて下されてな。野僧のような者でも殿のお役に立つならば、いかようにも使うてもらえばよい、とは思うておるがな」


 毛利家臣でもない者からこんな言葉が出るのだから、兄は立派だな、と皮肉でなくそう思った。

 俺の言葉が途切れるのを待っていたのであろう、ゆきが坊主に向かって訊ねた。


「御坊は蓮次を知っておられるのですか」


「おお、よう存じておるよ。古い馴染みじゃでな」


「では、私がここにおりますのも、御坊のお計らいなのですね」


「いやいや、そうではない。野僧はまったくあずかり知らぬことじゃ」


 その返答にゆきは意外そうな顔をした。


「野僧らがここに相合さまを運び込んだ折り、あの鉢屋者は魂消たまげに魂消て腰を抜かしておった。それで奥方を置き捨てにして、ほうほうのていで逃げよったのよ」


 坊主はさも可笑しそうに笑った。


「これは野僧の揣摩しま憶測おくそく(いい加減な当て推量)に過ぎぬがな、あの男は、おそらくドサクサ紛れに奥方を盗もうとしたのではないかな。夜が明けるまでにひとまず身を落ち着ける場所が欲しゅうて、ここに連れ込んだのであろうが、その同じ場所に奥方の夫が担ぎ込まれたのじゃからな。野僧も驚いたが、アレはもっと驚いたじゃろう。いやいや、奇縁というのはあるものじゃな」


 その話が本当ならまさに奇縁か――。

 いや、考えてみれば、吉田からそう遠くないところで毛利家の人間が寄り付かず、しかも人がかくまえるような場所、というのは、当然限られてくる。ゆきがここに連れて来られたのは偶然らしいが、その蓋然がいぜん性はもともと高かったのだろう。

 人の妻を盗もうというのだからとんでもない話だが、その男を責める気にはならなかった。経緯はともかく、結果としてそのお陰で妻が俺の側に居られているのである。むしろ感謝すべきかもしれない。

 俺は頭を切り替えた。


「今日は何日だ? 俺はどれくらい寝ていた?」


「今日は卯月うづきの十四日じゃな。お手前は四日ほどの間、生死の境を迷われたのち黄泉よみがえられた。最初に目覚めた時からは二日が過ぎた勘定じゃ」


「船山では何人死んだ? 最後まで俺と共に戦った者で、生き残った者が一人でもあるか?」


「さて。野僧も詳しゅうは知らぬがな。本丸で最後まで抵抗した者は過半がその場で討たれたと聞いた。裏返せば何人かは生き残ったということになるが――、その時の手傷が元でその後に死んだ者もあろうしな。ハキとしたところはようわからんな」


「そうか・・・・」


 あの馬鹿どもは、俺と共に死ぬためにあの場で戦ったのだ。肝心の俺がこうして生きているのでは、あの者らを裏切ったことになる。俺がいないためにあの世で迷っているかと思えば、重い罪悪感が湧いた。


「どうしても知りたいというのであれば、明日にでも調べてくるが――」


「いや、よい・・・・」


 それを知ったところで、死んだ者が生き返るわけでも彼らに自分の生存を伝えられるわけでもないのである。いずれ気休めに過ぎないのなら、あの者らの内の何人かは生きている――と、そう思えるだけで十分ではないか。


「それより、此度こたびの事に兄者はどういう幕引きをした。俺の他にも誅された者があるのか?」


「それを問われるか・・・・」


 岩阿弥はやや当惑したようなかおをした。


「まあ、隠したところでいずれは知れることじゃな。その後のことも含めて知っておかれるのも良いかもしれぬ。ただこれだけは先に申しておくが、此度の粛清劇は、尼子が毛利家の乗っ取りを策したところから端を発しておる。吉田の殿は御家を護るために、尼子に内応し謀叛をくわだてた者を、討たねばならなんだのじゃ」


「四郎さまは謀叛なぞたくらんではおりませなんだ」


 ゆきが挑むような語気で言った。声音に相当な怒気が篭っている。


「うわさはいずれも根も葉もない虚妄きょもうです。それを――。事の真偽をただしもせず、謀反人と決め付けるとは、あまりに理不尽ではありませんか」


「そうじゃな。奥方の申される通りじゃ。吉田の殿も同じような事を申されておった。じゃがな――」


 岩阿弥はその巨大な眼で妻をめつけた。


「謀叛をたくらみおった者が、旗頭として相合さまを担ごうとしたのじゃよ。相合さまが毛利嫡統の血を持つゆえに、な。そうと知れば、吉田の殿も事を放っておくわけにもゆくまい」


 謀叛を主導したのは坂広秀だが、たとえその広秀を粛清したとしても、家督を継ぐ資格を持つ俺が生きているままでは、この先、第二、第三の「坂広秀」が出かねない。今回の黒幕は尼子経久か――あるいは亀井秀綱あたりなのだろうが、毛利の敵は何も尼子氏ばかりではないのである。たとえば安芸の再奪取をたくらむ大内氏や、毛利を憎む豪族たちの誰かが、兄を排除するために、あるいは毛利家を傀儡化するために、俺をどのように利用しようとするかもわからない。兄としては、俺という存在自体をそのままにしておけなかった、ということなのだろう。


「――相合さまを殺さずに事を収めようとすれば、誅したことにして世から隠すよりない、と――吉田の殿は考えられたのじゃろうな」


「そんなことは言われずともわかっている」


 そう割って入ることで、俺はゆきの口を封じた。


「一殺多生――御坊の申された事の方が正しいのだ。兄者の甘さには呆れるが――、済んでしまった事をあれこれ言うたところでせんもない。俺はただ、俺が寝ておった間に何があったのかを知りたいだけだ」


 岩阿弥はひとつうなずき、大きく間を取ってから言った。


老臣おとなの方々で亡くなられたのは三人。まず坂長門ながと殿が討たれ、桂の隠居殿が腹をお切りになった。加えて渡辺殿が長見山城で兵を挙げ、結果、族滅の憂き目に遭われた」


「!?」


 俺は絶句するほど驚いた。


「・・・・なぜそんな事になった。長門はともかく、左衛門尉さえもんのじょうと太郎左までが死んだのか? 渡辺が族滅とはどういうことだ」


「話せば長うござるぞ。ややこしく込み合うてもおるしな。それでも良ければ、わしが知り得た限りの事は、話して進ぜようかの」


 郡山城での評定の様子や多くの関係者の言動など、この乞食聖こつじきひじりがいちいち詳細を知るはずもない。その話はあくまで事件の表面をなぞったものでしかなかったが、後に俺が様々な筋から聞いた話を含めて想像すると、事態はおおよそこんな流れであったらしい。

 まず、俺が船山砦で戦っている頃に、吉田では福原氏の兵によって坂広秀が討たれていた。

 広秀の本拠は向原の日下津城であり、このとき吉田の装束屋敷に詰めていた家来はわずか十数人に過ぎなかったであろう。襲撃をまったく予期してなかった広秀は、ほとんど為すところがなく、腹を切る間もなく討ち殺されたようだ。

 夜明けを待たず、郡山城から複数の早馬が飛び出して、主立つ家臣の元にそれぞれ走った。緊急の評定をすべく、兄が重臣を召集したのである。

 夜中に叩き起こされた重臣たちが、おっとり刀で登城した頃には、すでに坂広秀の首は広間に届いていた。それを目の当たりにした者はそれぞれ声を呑み、事態の重大さに否が応にも気づかされた。

 ざわざわと私語でうるさい広間に、やがて首桶を抱えた鎧姿の志道広良が現れた。

 広良は、上座で座る元就の前まで進んで座り、床に置いた首桶を前に押し進めた。


「殿、相合殿の御首みしるしでござる。――ご検分なれさますか?」


 その言葉に、元就は視線を床に落とし、わずかに首を振った。


「いや、見とうはない。ねんごろに――、丁重に葬ってつかわせ」


「これは――!」


 真っ先に声をあげたのは渡辺勝である。


「これはどういうことでござるか! まさか、四朗さまをお討ちになったのか!?」


 誰もこれに答える者はいない。広良がじろりと横目で勝を睨んだ。


「相合殿は坂長門ながとと共に謀叛をくわだてたゆえ、共々に成敗した」


「馬鹿な・・・・! 濡れ衣じゃ。四郎さまには一片の叛心ほんしんもありはせなんだ・・・・!」


「聞け太郎左衛門、これは――」


 元就の声を勝の怒声が遮った。


「聞く耳なぞ持たぬ!」


 勝が憤怒の形相で立ちあがったので、左右の者たちが勝の身体に取り付き、他の者たちは上座の元就へ飛びかかれぬよう人垣を作った。


「血を分けた御舎弟の忠心を信ぜぬばかりか、釈明の場さえ与えずに殺すとは、日ごろの殿とも思えぬやり様ではござらぬか。いや、この血も涙もない仕打ちは、血を分けた兄のものではあるまい。大方、君側にはべる奸臣の嚢中のうちゅうより出た陰謀と見た」


 広良の冷眼に、勝は燃えるような憎悪の目を向けた。


「執権殿よ、おぬしが生きて権要の座にある限り、わしは金輪際、主家の指図には従わぬぞ」


「指図に従わぬとは、太郎左衛門、言葉に気をつけよ。おぬしは御家から離反するというのか」


「おお、今度はわしを謀反人にして殺すか。殺すなら殺せ。おのれの手足をおのれで喰いちぎって、それで御家が栄えると思うなら、父祖の代より仕えし譜代の家臣をことごとく殺すがよいわ」


 激昂した勝は、壮絶な捨て台詞を残して広間から出て行った。

 元就にはその背に掛ける言葉がない。掛けたくともこの衆目のなかでは真実を語れなかった。

 勝は居城の長見山ながみやま城に篭り、これ以後出仕をしなくなった。使者さえ門前払いするという断交状態であり、事実上の敵対宣言である。

 長見山城の位置は宍戸氏の五龍城からごく近い。もし勝が自身と一族を守るために宍戸氏に庇護を求めるようなことをすれば、毛利は渡辺氏の領地をそっくり奪われることになる。宍戸氏からの介入を許す前に早急に事態を収束させねばならぬわけで、元就としては勝を敵として討つほか選択肢がなくなった。

 この渡辺氏の離反は、元就にとって想定外の大誤算であったろう。

 元就は陣触れして兵を催し、長見山城を攻めた。むろん降伏すれば受け入れるつもりであったが、勝が意地を通して最後の最後まで戦い抜いたため、渡辺氏の男子はほぼ族滅状態となった。わずかの例外は、嫡子のとおるが侍女に護られて城を落ち、隣国・備後へと逃げ延びたことであろう。この少年は母方の縁故を頼って山内やまのうち氏の元で庇護され、後に毛利家に帰参することになるのだが、これはまた別の話。

 皮肉なことだが、渡辺氏が「合戦」によって派手に滅ぼされたために、坂広秀の存在がまったく霞んでしまい、事の真相を知りようがない世間では、あたかも渡辺勝こそが「元綱叛逆事件」の首謀者であったかのような印象になった。

 この長見山城攻めと時期を同じくして、桂広澄がみずから腹を切って死んでいる。

 坂一族の宗家当主が起こしてしまった大逆という最悪の不祥事に対して、坂氏の嫡流として死をもって詫びる、という意志を元就に伝えた上でのことだが、これは理由の半分であったろう。広澄は元綱の冤罪えんざいと今回の事件の真相をほぼ察しており、無実の弟を誅し、さらにまた渡辺氏まで攻め滅ぼそうという元就のやり様に激怒したのである。憤懣ふんまんやる方ないその想いを表現するための、抗議の自死であったに違いない。

 この父の自殺を受け、子の元澄と元忠は、自城の桂城で謹慎するという姿勢を取った。

 桂元澄はもともと無二の元就派を自認していたし、弟の元忠は幼い頃から元就の近侍を務めているほどで、この兄弟は元就という主君を信頼し切っていたのだが、その自分たちが何の相談にもあずかれずに今度の粛清が断行され、それに対する面当つらあてのようにして父が自死したことに、二人は小さくない衝撃を受けていた。元就から信頼されていない、という現実を突きつけられたようなものであり、そうである以上、桂氏が渡辺氏のように族滅される可能性がないとは言えない。坂一族の度重なる不祥事の責任を感じたということもあったろうが、謹慎を口実に自城に篭ったのは、むしろ粛清を恐れたというところが本音であったかもしれない。


「これ以上、此度の事で人を死なせてはならん・・・・!」


 驚くべきことに、元就はみずから桂城へ赴き、ほとんど単身で城内に入り、命懸けでこの兄弟を説得した。

 桂元澄と元忠、さらに二人の弟たちは、この時の元就の真摯さに感動し、あらためてこの主君に生涯の忠誠を誓った。以後は元就の無二の股肱となり、死ぬまで毛利家と元就のために犬馬の労を尽くすことになるのだが、これもまた別の物語であろう。


鶴寿かくじゅは――、鶴寿がどうなったか、御坊はご存知ではありませんか」


 我慢できなくなったのか、話の腰を折ってゆきが言葉を挟んだ。


「むろんご無事じゃよ。多治比の悦叟院えそういんで過ごしておられる。幼童には何のとがもない、成人の暁には、しかるべき領地を与え、取り立てるつもりであると、吉田の殿は申されておった」


「あぁ・・・・」


 ゆきは安堵のため息をついた。

 この女の感情は複雑であったであろう。元就は無実の夫に謀叛の罪を着せ、世の表舞台から退場させた張本人だが、同時に夫や子が殺されずに済んだのは、元就の格別の配慮のお陰であったことも間違いない。感謝すべきなのだろうが、素直に感謝できるものでもない。すべてが天の計らいであったと、受け入れるしかないのかもしれないが、そう達観するにはもう少し時間が必要であった。

 ついでながら触れておくと、真っ先に誅された坂広秀には元祐もとすけという嫡男がいる。おそらく二十歳前後であったろうこの青年は、父の広秀が誅殺されたことを知るや、家族を連れて毛利領を逐電ちくでんした。日下津城に篭城して抗戦しても勝ち目はなく、無駄に人が死ぬだけであるから、それを嫌ったということもあるが、もともとこの元祐は生真面目な木強漢ぼっきょうかんで、主家に仇なすようなアクの強さは持っていない。謀叛をくわだてた父に非があることもわかっていたから、戦う気になれなかったのであろう。元祐は南方へと逃れ、平賀氏の領国に落ち着いた。

 毛利にとって平賀氏は長年の同盟者であり、当主の平賀弘保ひろやすと元就とはそれなりの信頼関係が築けている。その気になれば罪人を送還するよう要請することもできたはずだが、元就はそれをせず、それどころか坂元祐の罪を一切問わず、そのまま平賀家へ仕えさせ、後に毛利家への帰参をさえ許している。この事実は、今回の事件に対する元就のスタンスを如実に表していると言えるであろう。


「――吉田の殿は、出来うる限り人を殺したくなかったのじゃな」


 そう締めくくって岩阿弥の長い話は終わった。


「頭がまともだったのは新五しんご(坂元祐)だけか。勝手に腹を切った左衛門尉も馬鹿だが、俺なんぞのために一族郎党を死なせた太郎左の馬鹿さ加減はどうだ・・・・」


 泣きたくなるほどの強烈な後悔と自責の念が湧いた。

 こういう結果になると事前に見通せていれば、いくらでも巧く立ち回ることができたであろうし、多くの者が死なずに済んだであろう。周囲の人間を巻き込んだ、まさに元凶――もっとも愚かであったのが、この俺ではないか。

 心の底からそう思ったが、しかし、済んでしまったことには取り返しがつかない。

 ――俺はこれからどうすればいいんだ・・・・。

 ため息をつくような気分でそう思った。

 船山で死ねていればいっそ楽だったろう。だが現実に俺は生きていて、一方で「毛利元綱」は世間的にはすでに死んでいるのである。これからの俺は別人となって、これまでとはまったく違った人生を歩んでゆかねばならないというわけだ。雙六すごろくで俺だけ振り出しに戻されたような徒労感と面倒くささがある。が、それと同時に、生まれた時から幾重にも己を縛りつけていた「家」という桎梏しっこくからようやく解き放たれたような、何とも表現しがたい開放感をどこかで感じていることも、偽らざる事実だった。

 こうなってしまった以上、毛利領にはもはや留まりようがない。坂元祐のように逐電するより他に選択肢がなさそうである。結局は兄の当初の思惑通りということになるわけで、その点はややしゃくでもあったが、いま生きているだけで善しとせねばならぬのだろう。

 ――恩着せがましい小細工をしやがって・・・・。

 すまなそうな兄の顔が脳裏に浮かんだ。

 兄の打った手が最善手であったかどうかは俺にもわからない。ただ、兄はあの性格だから、のたうつように苦しみながら兄なりの最善を尽くしたのだろうとは思う。だから怒りや憎しみといった感情は不思議なほど湧いて来なかった。

 それはそれとして、さしあたって当面の問題は、このままここで寝ていたら、いずれ兄がこの枕辺に現れるということだ。

 この場所がどこなのかさえ、俺は未だにわかってないのだが、そのうち兄は必ずここへやって来る。それも夜にだ。人目をはばかって、こっそり忍んで来るに違いない。そして俺に向かって頭を下げ、済んでしまったことに対してくどくどと詫び言を言うのだ。放っておいたら必ずそうなる。

 ――そんな茶番につき合わされてたまるか。

 正直、兄には会いたくなかった。兄がどうこうというより、俺の方が、合わせる顔がない、という感じで、自分のこのていたらくがどうにも情けなく、やり切れないのである。だいたい、謝ってもらったところで何が変わるわけでもないし、許すとか許さないとかいう問題でもないだろう。ひたすら気詰まりだし迷惑なだけだ。そう想えば、兄が現れるその時までここで無為に寝ているのは、何としても厭だった。

 身体を起こそうとしたら、脇腹に激痛が走った。


ぅ・・・・!」


「おいおい、無理をしてはいかん」


 岩阿弥が肩のあたりを押さえて俺の動きを制した。

 その時に掻巻かいまきがずれ、それで気づいたのだが、左手の薬指と中指には副木そえぎが当てられ、布でぐるぐる巻きに固定されていた。


「これは御坊が・・・・?」


 訊ねると、岩阿弥はさも当然という風情でうなずいた。

 時宗の僧として戦場に出入りする岩阿弥は、死者以上に戦傷者に接する機会が多い。長年の経験から、簡単な外科術と共に骨接ぎの技術をも体得しているのだという。その言葉を信ずるなら、俺は左手の指と肋骨を何本か骨折しているらしいのだが、指の骨についてはすでにズレを元に戻して固定してあるし、肋骨については幸い大きなズレもなく、内臓を傷つけてもないらしい。つまり放っておけば勝手にくっついて元に戻るのだそうだ。


「・・・・御坊にはすでに世話をかけ通しのようだな。迷惑ついでに、もうしばらくここで厄介になっても構わぬか」


 岩阿弥は鷹揚にうなずいた。


「むろんでござる。いかなるご懸念も要り申さぬよ。野僧に出来ることであれば、気兼ねせず何なりと申さるるとよい」


「ならば御坊、頼みがある」


「なんじゃな?」


「相合の俺の屋敷から、衣服や銭といった持ち出せる物をここへ移したいのだ。すでに分捕ぶんどりにうておるようならどうにもならぬが――、ともかくも一度、様子を見にこの女を屋敷へりたい」


 俺が死んだことになっているのなら、屋敷への出入りは細心の注意を払わねばならぬであろう。往来するにも物を持ち出すにも、人目を避けねばならぬのはもちろんだし、兄の許可をもらっておく必要もあるだろう。


「なるほど、ごもっともじゃな。お屋敷がその後、どうなっておるのかは、野僧も存ぜぬ。閉門にしてあるものとは思うが、物盗りの類がないとも限らぬしな。――承知した。野僧がまずは様子を見て参ろう」


 その上で兄とも相談し、俺の希望に沿うよう善処する、という意味のことを坊主は明言した。


「それと、これは仏弟子に頼めた筋ではないが――御坊はどうせ生臭なまぐさだろう。すまんが鳥なりししなり、肉気にくけを食わせてくれぬか。腹が減ってたまらんが、粥ばかりでは力が出ぬ」


 岩阿弥は声を立てて笑った。


「そのお顔では、まだ熱も下がっておらぬように見えるがな。嘘でもそれだけ吹ければたいしたものじゃ。よかろう、今宵は牡丹ぼたん鍋でも振舞うて進ぜようわい」


 折れた骨が治癒するにはどうしたって長い時間が掛かるが、それでもともかく動けるところまで体力を回復させぬことにはどうにもならない。食欲などまるでなかったが、滋養のある物を無理やりにでも腹に入れ、一刻も早く身体を治す。

 ――すべてはそれからだ。

 と、俺は思いを決した。



 俺が岩阿弥の庵を出たのは、それから三日後のことである。

 相合の屋敷から衣服や銭といった荷が届けられたということもあるが、この三日間で熱がほぼ下がったということも大きい。これならどうにか動けそうだと判断し、俺は決断した。これ以上この場で寝ていたら、いつ兄が現れるかわからない、という直感が働いたからでもある。

 岩阿弥は常に俺の傍らにおり、その目を盗んで抜け出せるような状況ではなかったので、旅立つことを堂々と告げた。


「それはあまりに性急でござろう。まだ傷さえ癒えておらぬのに――」


 岩阿弥は止めようとしてくれたが、


「俺はすでに死んだことになっているのだろう。ここにおることが世間に漏れては何もならぬ。一刻も早く国を出た方がよい」


 こう言い張ると、さすがに返す言葉がないようだった。


「もし兄者と顔を合わせたら、怒りに任せて打ち殺してしまいそうだしな」


 このダメ押しが効いたのだろう、岩阿弥は岩のような顔を苦渋に歪ませはしたが、それ以上は引き止めようとはしかった。

 ゆきの才覚によって旅に必要な物はほとんど揃っている。最低限の荷と衣服、数日分の食料とあるだけの銭を頭陀袋ずだぶくろに詰め、俺とゆきの身体に肩掛けに縛りつけた。持ち切れぬ物はすべて置き捨ててゆく。世話を掛けた岩阿弥が自由にしてくれればいい。

 庫裏くりを出ると、茫々とした雑草に埋まった境内があり、半ば朽ちた築地塀が見えた。

 久しぶりに浴びる陽光が嬉しい。痛みに用心しながら身体を伸ばし、俺は深呼吸して新鮮な空気を何度も肺に送り込んだ。

 ついでに四方の山並みを確認すると、ようやく自分がどこに居るのかがわかった。話で聞いた通り、ここは宍戸領との境目あたりらしい。

 顔を見られぬよう、編み笠を深くかぶって顎紐を締めた。


「では、往くか」


「はい」


 俺を支えるように立っていたゆきは、市女笠の庇の下で笑顔でうなずいた。

 川辺の部落を背にして俺たちは歩き出した。左右に山が並んだ谷状の街道に沿ってしばらく南へ進み、芸備国境にあたる東の山へと登る道を取る。吉田は毛利領の北東であり、すぐ北は敵である宍戸領である。毛利領は南北に長く、これを出るには東方の山を越えて備後に入るのが早い。

 獣道のような山道をゆっくりと登り、大土山の尾根まで出て見晴るかすと、手前の小山の向こうに深い緑に覆われた郡山の姿が見えた。


「家を離れて生きるなぞこれまで考えたこともなかったな。明日からどうやってかてを得れば良いのか、正直見当もつかん。途方に暮れるような気分だ」


「あら、四郎さまお一人くらいなら、私が食べさせてさしあげますわ」


 この点、かつて「旅の空が棲家」とまで豪語していた妻は、俺などよりよほど肝が据わっていた。


「出雲の社家と切れて巫女は廃業しましたけれど、それくらいの芸は持っております。心配ご無用――」


 ゆきは明るく笑った。


「女房に食わせてもらうというわけか。まったく良い身分だな・・・・」


 路銀があるうちは問題はない。それが底を尽く前に、とりあえず何処かに落ち着く場所を決め、生活の基盤を作る、というのが当面の目標ということになるだろう。

 が、いったいどう落ち着くというのか。

 俺は武士以外の生き方を知らないが、主取りをして他人に仕えるというのも気が乗らない。毛利以外の家で武家奉公がしたいわけではないのである。しかし、百姓をやるにも耕すべき土地がないし、人に頭を下げることが嫌いな自分に商家の手代が勤まるとも思えない。

 ――困ったもんだ。

 まるで生活力がない己を再確認し、思わずため息が出た。

 が、そこでふと、廿日市で出会った新九朗の事を思い出した。

 広大無辺な海の世界を自在に行き来する、船乗りであり、海商であり、時には海賊ともなる――海の男。

 ――ああいう生き方もあるか。

 そんな自分を空想するのは悪くなかった。


「さしあたり、まずはどちらへ向かいましょう。京の都にでも上ってみますか」


 ゆきが問うたので、俺は即座に答えた。


「いや、義経に京は鬼門だろう。東よりむしろ西が良い。周防の山口は京にも勝る賑わいだと聞くし、堺にも劣らぬという博多の津も一度見てみたい。お前は行ったことがあるかもしれんが――」


「ええ、どちらもございます。そういうことでしたら、瀬戸内まで出るのが良いですね。小早川さまのご家中には四郎さまを見知った者もあるかもしれませんから、まずは世羅せらの方へ抜けて、尾道あたりに出て、西へ向かう船を探しましょう」


 俺の手を引くようにしてゆきは歩き出した。


「・・・・まったく、ありがたい女を妻に持ったものだ」


 つい独りごちた。

 これが、運命の過酷さに抗する術を知らず、ただ泣き暮れるだけの女であったとすれば――想像するのも気が滅入るが――これからの苦難が何層倍にも増したことであろう。我が妻ながら、ゆきの明るさと前向きさ、その芯の強さに、俺は救われていた。

 これから自分がどうなるのか、その前途についてはまるで見えないけれど。

 ――この女と共に往く限り、まあ何とかなろう。

 そう思えるのだから、きっと何とかなるのだ。


「なんです?」


「いや、なんでもない」


 不思議そうな顔で振り返った妻に、俺は笑顔を返した。

 見上げた空はどこまでも高く、蒼かった。

 日差しは強いが風は心地よく、暑くもなければ寒くもない。時期で言えばそろそろ梅雨が始まるはずで、季節は遠からず夏へと移ってゆくのだろう。

 自分が何歳いくつまで生きられるのかは知らないが、人の人生に四季があるのだとすれば、もしかしたら俺は、いまやっと「春」を終えたばかりなのかもしれない。これからようやく人生の「夏」が始まろうとしているのかもしれない。だとすれば、実りの「秋」をどんな風に迎えるかは、これから俺が何をするかで決まって来るのだろう。

 毛利元綱という男は死んだ。

 毛利という家と元綱という名を捨てることで、俺はまったく新しい人生を得たのだ。

 たとえ振り出しに戻されたのだとしても――。

 ――またき直せば良いだけのことさ。

 自然に湧き出したその心の声は、暗くも弱くもなかった。






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