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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第六章 鷲の羽を継ぐ…
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新たなる船出(七)

 志道広良の意識のなかで、元綱は最初から坂広秀の与党である。

 坂広秀が元就政権の転覆をたくらむとすれば、現当主の弟であり毛利家嫡流の血を引く元綱を謀反の旗頭としてかつぎ出すことを考えるのは自然であり当然でもあろう。広秀は元綱の義父ということもあり、もともとひとつ穴のむじなと視ていた。当然ながらこの二人の動静についてはよほど注意を払っていて、坂広秀が、桂広澄や渡辺すぐるなどと密談を重ねているという事実を掴むのにもさして時間は掛からなかった。

 桂広澄は坂氏の嫡流であり、坂一門の重鎮と言っていい。渡辺勝はかつて元綱の傅役もりやくであった男であり、元綱側についたとしても何の不思議もない。

 ――左衛門尉さえもんのじょう殿(桂広澄)は隠居の身ゆえさほどのこともあるまいが、太郎左衛門(渡辺勝)が敵に回ったとすれば、これは容易ならぬ。

 なぜと言えば、渡辺勝は譜代衆の筆頭を務めるほどの重臣なのである。これが広秀側についたとすれば、下手に時間を与えれば、譜代衆のさらなる離反を助長することにもなりかねない。彼らがすぐに叛逆の兵を挙げるかどうかは別としても、衆議で元就を退隠させられるほどの政治勢力を築かれてしまってからでは、何もかもが手遅れになる。

 ――ここらがしおか。

 機は熟したというべきであろう。逆にこれ以上静観を続ければ、事態を制御しきれなくなる恐れがある。そうなれば破滅するのは自分たちなのである。

 ところが元就は、この段階に至っても決断することに躊躇を見せた。

 広良からすれば歯がゆいばかりであるが、それからほどもなく、相合の元綱の屋敷に張り付けておいた家来が深夜に馳せ返って来て、渡辺勝が人目を避けるように夜中に相合の屋敷を訪ね、元綱と密議を持ったという報告がもたらされた。

 元綱はその翌日から、人を集めて自分の城の普請を始めたという。

 なんのための普請か――。

 考えるまでもない。我が身を守るためであろう。

 元綱はいまだ部屋住みの身であり、独立して家を立てているわけではないので、私兵をほとんど持っていない。船山砦の加番(城将)という役割を元綱に与えたとき、本家から人数をけはしたが、歴とした武士は十指にも足りず、中間や小者といった雑兵まで合わせても、その総勢は七十人ほどに過ぎない。仮に坂広秀や渡辺勝の手兵をそれに加えたとしても、兵力としてはせいぜい三百というところであろう。こんな寡兵で叛乱の兵を挙げたところで郡山城を攻めることは不可能であるから、元綱が挙兵するとすれば、尼子軍が安芸にやって来るのと必ずタイミングを合わせるはずである。つまり船山砦の普請は、元就から粛清の兵を向けられた際に、尼子軍が援軍に駆けつけるまで、長くとも一日二日の時間稼ぎができるようにすることが目的と考えるのが自然であろう。これが逆意の証拠でなくて何だというのか。

 いや――。


「要は、世間がどう思うかじゃ・・・・」


 粛清を断行する以上、そうせざるを得なかったのだと世間を納得させる必要がある。「無実の弟を冤罪えんざいで殺した」というような悪評が立つようなことだけは、絶対に避けねばならないのである。家中の侍たち、領国の領民たち、あるいは周辺の豪族たちが、この粛清劇をどうるか――。元就が元綱を粛清するには、元綱が叛逆をくわだてたと断定するに足る状況証拠が必要不可欠であった。逆に言えば、それさえあれば、たとえ粛清対象が血を分けた弟であったとしても、元就の評判や評価にとって大きな傷にはならない。あくまで正当防衛――武家の当主として当然の成敗権を発動したというに過ぎないからである。

 いま元綱はそうでなくとも悪い噂の渦中にある。


 坂広秀と密談を重ねる渡辺勝との人目を避けての談合。

 戦さになることを想定した自城の普請。


 この二つの事実を挙げれば、いよいよ叛逆への行動を起こしたと判断するに足る。

 広良は、知り得たすべての情報を主君に報告し、


「どうかご決断を――!」


 と強い声で迫った。

 場面は郡山城の元就の私室である。灯明で照らされた薄暗い部屋で、この城の若き主は、苦悩の表情を満面に浮かべつつ、しかし即答は避けた。


「話はわかったが、それで謀叛の確たる証しとまでは言えまい」


 仮に坂広秀の策動が事実であるにしても、そしてその背後に尼子経久の陰謀があるのだしても、

 ――そのことに四朗は関わりがあるまい。

 と、元就は思うのである。

 これは、そう思いたいという希望的な観測なのかもしれない。が、それでも元就は、あの弟が自分を殺そうとするなどとは、どう考えても思えなかった。


「またぞろご舎弟をお庇いなさるか。先日も賊の一団に襲撃され、お命を狙われたばかりではござらぬか。何者かが裏で暗躍しておることは、もはや疑いないのですぞ」


 そんな元就のぬるさが、広良は腹が立つほどもどかしい。


「あれは土匪どひのたぐいであろう。あるいは当家に恨みを抱く者が差し向けた刺客であったやもしれぬが――、いずれにしても、あれが四郎の差し金ということはあるまい」


 もしあの弟が本気で自分を殺そうとするなら、もっと確実性の高い方法がいくらでもあったろうと、元就は思う。

 そもそも元綱には権力に執着するような性質はない。おそらく家督につきたいとは望んでさえいないであろう。あれは純粋な武人であり、政治の持つ曖昧さのなかに身を置かせてはならない種類の人間であった。兄として、そして主君として、弟の政治的進退を明快にしてやる責任が元就にはあったのだが、その務めを果たせず、事態を放置してきた結果として、このような危難を招いてしまったと言えぬこともない。元就はそのことに負い目のようなものさえ感じていたから、その口からは弟を庇う台詞がすべり出た。


「太郎左衛門が夜中、密かに相合の屋敷を訪れたというのは、確かに普通ではないが――。それにしても、それだけで四郎の謀叛に結びつけるのはちょっと乱暴だ。太郎左衛門は、尼子が当家に対して武を用いて来る懸念がなきにしもあらず、念のために郡山城の要害を少しでも堅固にしておくべきじゃと、私に意見して来よった。船山の普請のことも、尼子との戦いに備えてのものと考えるのが自然ではないか」


「殿・・・・!」


「船山の様子は勝一しょういちに探らせた。そうだな?」


「は――」


 二人の下座にくたびれた僧衣をまとった法師が座っている。その傍らには愛用の琵琶が置かれている。勝一と呼ばれたその男は、禿頭とくとうを深く下げた。


「本日のことでございますが、船山の砦に三、四十俵の米俵が運び入れられておりました。御舎弟さまは、長きにわたる城篭りができるよう備えておられる、と見受けました」


 この琵琶法師はめしいた風を装っているが、実は眼が見えている。その事実を知る者は、彼の主人である元就のほか数名しかいない。


「一日や二日の防戦なら、その気になれば腰兵糧でも戦えよう。そもそも船山の砦には、半月分ほどの兵糧を入れ置いてあったはずじゃ。謀叛のためというのであれば、さらに米を集める必要はあるまい。だいたい、本気で叛逆の兵を挙げるつもりなら、私が四郎の立場であれば、船山なぞは捨てて向原へ移り、長門ながと(坂広秀)の日下津ひげつ城に立て篭もるだろう。あそこなら南方の井原氏の助勢も見込めようしな」


 井原氏の井原元師もとかずは元綱の義弟であり、その昵懇なことは元就もよく知っている。しかも井原庄は向原からわずか一半里ほどの距離で、街道で直接つながる隣郷と言っていい。元綱が向原で兵を挙げ、その叛乱の後ろ盾が尼子経久であると知れば、井原氏が毛利家から離反し、元綱に味方することは充分にあり得るだろう。

 ちなみに坂氏の本拠である日下津城は、規模で言えば本家の郡山城(旧本城)より大きい。麓からの比高も百メートル近くある実に立派な山城で、要害は相当に堅い。

 元綱が手勢と坂氏の兵を率いてこの日下津城に篭城し、井原氏がその防戦を援助すれば、たとえ元就が毛利家の兵をこぞって攻めても、半月くらいは楽々と城を支えられるのではないか。そういう絶好の拠点があるにも関わらず、郡山城から指呼しこの距離にある船山砦をわざわざ選んで篭城支度をする必要がないではないか――。

 元就は弟を弁護するつもりで理をもって正論を並べたのだが、その言葉は広良のなかで意外なほどの効果を生んだ。

 ――殿の申される通りじゃ・・・・。

 顔面の筋肉がこわばるのを、広良はありありと感じた。

 これまでの広良のスタンスは言うなれば加害者側であって、元綱の生殺与奪を一方的に握っているつもりでいたからこそ余裕もあったのだが、元就の言葉を聞くうちに、その認識が一変した。もし元綱が日下津城へと逃げ込んでしまえば、これを討ち取ることは容易ではない。しかもこの反乱軍には尼子軍という強大な後ろ盾がある。元綱がその気になれば、毛利家の家督を奪うことも、元就とその与党を根絶やしにすることさえ、実際に可能なのだということに、広良はにわかに気づいた。

 いや、この陰謀の真の首謀者からすれば、元綱自身の意思すら必要としないであろう。

 たとえば坂広秀の立場なら、酒宴なり何なり適当な理由をつけて元綱を日下津城に招き、そこで元綱を幽閉し、元綱の名だけを借りて叛逆の兵を挙げることさえできるではないか。元綱を主君に擁し、広秀が執権として実権を握る。あるいは尼子氏から幼君を迎え、広秀がそれを傀儡かいらいとする。そのような体制を実現するために広秀が動いているのだとしても何の不思議もないし、広秀自身は自発的にそのように動いているつもりで、実は操り人形にされているだけという可能性さえ考え得る。あの尼子経久であれば、広秀にあらぬ夢を見させて暴走させることも決して不可能ではないであろう。

 ――わしは事の本質を見誤っておったのやもしれぬ。

 尼子氏からの養子入れをいかに防ぐか、という観点で広良は知恵を絞ってきた。その広良にとって、坂広秀の役どころは尼子氏の走狗そうくというに過ぎなかった。しかし実際は、尼子氏が意図することと坂広秀が目的とすることとの間には、微妙な齟齬そごがあるのではないか。あの男は、自分と元就を滅ぼすために、尼子氏の軍事力を利用しようとしているだけではないのか――。

 彼我の立場を入れ替えて考えてみればいい。自分が坂広秀の立場で、どんな手を使っても元就と広良を破滅させようとするなら、尼子氏の武力を利用することをまず考えるであろう。尼子軍がやって来るタイミングに合わせ、日下津城に元綱を迎えて挙兵するというシナリオは、実に魅力的ではないか。

 ――もしそんなことになれば・・・・。

 広良は慄然りつぜんとした。

 追い詰めていたつもりが、破滅の淵に立っていたのは、実は自分たちの方だったのである。尼子軍の安芸入りと共に広秀が行動を起こせば、いかなる手も打ちようがない。

 まだ青年であった昔から、広良は坂広秀という男をどこかで軽視してきた。名門・坂氏の宗家に生まれたことを鼻にかけ、能力もないのにプライドばかりが高く、坂の分家である自分を頭から見下し、何かというと否定して掛かるこの困った従弟いとこの言動に対して、常に片腹痛く、また苦々しく思いつつも、広良は宗家を立てる形で忍従し、これまで気を使い続けてきた。

 その広秀に、いつの間にか自分がここまで追い詰められている。

 ――ここでためらえば、逆にこちらが滅ぼされかねん。

 恐怖をともなったこの認識が、広良に肚をえさせた。


「これは先達ても申したことでござるが、相合殿が真実、逆意を構えておられるかどうかは、この際、二の次でござる。譜代衆の筆頭かしらたる太郎左衛門までが敵側にくみしてしまった以上、もはや事態は一刻の猶予もござらぬ。余人はともかく、元凶である長門と相合殿については、すぐにも討ち果たさねばなりますまい」


「だが、四郎は――」


「相合殿のご意志がどうあれ、相合殿がおられるがゆえにこうした陰謀が生じておるということは、殿もおわかりでござろう。現実に尼子の大軍は、遠からずこの吉田までやって来るのですぞ。その時もし事が起こってしまえば、殿に忠義の侍が何百人と命を落とすことになりましょう。おそらく我らは腹を切る仕儀となり、そのるいは殿のご妻子にまで及ぶやもしれませぬ。そこまでのお覚悟があってのご異見か」


 こう言われてしまえば、元就はぐうの音も出ない。


「ご舎弟を守りたいという殿のお心は、正しくもあり、またご立派であるとも存ずる。じゃが、そのために殿ご自身が滅びては何もなりますまい。これも武門に生まれてしまった者の宿命さだめと、肚をおくくりくだされ」


 若き主君の反論を許さぬよう、広良は厳然とした口調で言った。




 広良は、尼子氏による毛利家乗っ取りの陰謀を察知したときから、元綱を粛清するという形での事態の幕引きを密かに考えていた。それだけに、自分の思惑が情報として漏洩することを極度に恐れた。

 この粛清劇は、それが無事に終幕するまで、家中の誰にも絶対に気取られてはならない。そういう風聞が流れることさえ許されない。なぜと言えば、もし元綱や坂広秀がその気配に気づいてしまえば――たとえ両人に謀叛を起こす気なぞまったくなかったとしても――我が身を守るために暴発せざるを得ない、という状況に追い込むことになるからである。わざわざ窮鼠きゅうそを作るようなものであり、たとえば両人が日下津城に逃げ篭るようなことにでもなれば、粛清どころか家中を割った内訌に発展してしまう。元綱側についたらしい渡辺勝や桂広澄についてもまったく同様の事が言えるだろう。そういう間抜けな事態に陥ることだけは、絶対に避けねばならなかった。

 機密というものは、それを知る関係者が増えれば増えるほど、幾何級数的に情報が漏洩しやすくなる。それを知っている広良は、老臣衆はもちろん元就の側近衆さえ蚊帳の外に置き、元就との密議だけで事を決行する肚づもりでいた。

 しかし、この粛清劇を「完璧」に処理するには、現実問題として広良の私兵のみではやや手にあまる。

 というのも、元就が「謀殺」ではなく「夜襲」という手段を選択したのである。

 合戦となれば当然無駄な死傷者が出るし、下準備に手間が増えて面倒でもあるので、広良は二人を謀殺して事を済ますつもりであったのだが、元就は頑として譲らず、どうしても謀殺という悪辣あくらつを使うことには同意しなかった。主君が首を縦に振らぬ以上、いかに広良といえども勝手なことはできない。その意に沿う形で作戦を立て直すしかなかった。

 志道家の兵は総ざらえに掻き集めても八十人といったところである。これに郡山城に守衛として輪番で詰めている諸家の人数を加え、さらに毛利本家で飼っている雑兵を合わせれば、元就を護衛するための最低限の人数を城に残すとしても、三百五十人ほどの兵数が皮算用できる。陣触れをせずに広良が動かせる人数としてはこれが最大であろう。広良がみずからこの兵を率い、元綱を誅滅する。元綱は相合の屋敷か船山砦のいずれかに居るであろうから、船山砦を攻めることを想定をしてのこの兵数である。相合の屋敷に元綱がいてくれれば、もちろんそれだけ兵に余裕ができる。

 が、この作戦の難しさは、元綱と坂広秀を同時に葬らねばならぬというところにある。広良が出陣したタイミングで同時に坂広秀を討つには、どうしても協力者が必要であった。

 ――やむを得ぬ。

 広良は、福原貞俊・広俊親子にだけ、あらかじめ事情を説明し、いざという時の助力を求めた。

 福原氏は代々家臣筆頭を務める名家である。貞俊は元就の母方の叔父、その子の広俊は従兄いとこに当たり、老臣衆の首座として親子二代にわたって元就の片腕となっている。この二人は無二の元就派であるから元綱側に情報をリークすることはありえないし、親子共に周密な頭脳を持ち、諸事抜かりない気配りができる。

 胸襟を開いて話してみると、この親子は広良の懸念と危機感を過不足なく理解してくれ、全面的な協力を約束してくれた。

 あとは、事を起こすタイミングである。

 向原の自城に帰っている時は坂広秀には手出しができない。いざ作戦決行という段になって、あの男が吉田にいない、などということになれば、目も当てられない。広秀が確実に吉田にいるタイミングで事を起こさねばならぬわけだが、この点についても広良には策があった。評定の名目で、老臣衆に登城するよう元就に命じてもらうのである。広秀を夕刻近くまで郡山城に拘束できれば、そこから遠い向原まで帰るというのは考えにくいから、その夜は、広秀はまず間違いなく吉田の屋敷でやすむことになろう。よほどイレギュラーな事態が起こらない限り、必ずそうなる。

 広良は慎重居士であるが、肚を決めてからの行動には果断さがある。

 元就に決断を迫った夜、広良は自領の志道城へ家来を走らせ、志道家の私兵を密かに集めた。

 その翌々日、元就に老臣衆を招集してもらい、適当ないくつかの議題について討論させ、八つ刻(午後三時ごろ)まで老臣たちを城に縛りつけた。広良は見事な狸親父ぶりを発揮して、何食わぬ顔で主宰の役を務めつつ、夕刻までの時を過ごした。

 集めた志道家の兵には、日が完全に落ちるのを待って、人目につかぬよう三々五々、郡山城に入るよう命じてある。

 この日――大永四年(1524)四月七日――天は厚い雲に覆われ、月はもちろん星の光さえ差さない。夜の闇はどこまでも深く、暗闇のなかにうずくまる吉田の町は死んだように寝静まっていた。

 が、郡山城内の馬場では武装した軍兵がひしめき、彼らの握る槍の穂先と身に付けた鎧の金属部分だけが篝火の明かりを跳ね返して鈍く輝いている。


「今宵は夜討ちの調練をする。出発が、夜中の何刻なんどきになるかは、まだ明かさぬ」


 と広良は説明し、兵たちに食酒を与え、命令があるまで待機するよう命じた。

 一方、福原親子には自領の鈴尾城で密かに兵を集めてもらっている。こちらの人数は、広良からの合図があり次第、吉田の坂広秀の屋敷を襲うよう命じであった。福原氏の動員力は百人ほどだが、吉田の屋敷に詰めている坂広秀の家来はせいぜい二十人ほどであろうから、広秀を討ち果たすには充分であろう。

 最悪、二人を討ち漏らしてしまった場合でも、向原の日下津城へ逃げ込ませるようなことだけは絶対にあってはならない。広良は街道の関所を封鎖し、その番兵を増やし、新たな命令があるまで何人も通さぬよう厳命しておいた。

 ――これで手落ちはないはずじゃ。

 じりじりしながら待っていると、やがて坂広秀の屋敷を見張らせていた配下の一人が馳せ返って来た。


「長門殿はお屋敷から動いてはおりませぬ」


 さらに待つほどに、琵琶法師の勝一がやって来て報告した。


「ご舎弟さまは相合のお屋敷にはおりませぬ。朝から船山の砦に入られ、いまだお帰りになってはおられぬご様子」


 日暮れと共に、船山では山腹の帯曲輪に多くの篝火が焚かれたという。元綱は今宵は屋敷には帰らず、そこで普請作業を続けるつもりなのかもしれない。相合の屋敷で寝ていてくれれば簡単であったのだが、こればかりは注文を付けられるものでもない。

 ひとたび兵を動かした以上、もう躊躇ちゅうちょは許されない。広良は鈴尾城へと使者を走らせ、二更(午後十時)の鐘を聞き次第、行動を起こすよう、福原貞俊に命じた。

 広良はすでに黒糸縅の大鎧に身を包んでいる。元就の居室の庭に回るや、濡れ縁の前で片膝をついた。


「万事、調いましてござる」


 濡れ縁に立った元就は平服である。無言で闇色の天を睨んでいる。

 最後に念を押すように広良は訊ねた。


「お気持ちに、お変わりはござらぬか」


 元就は強い眼を広良に向けた。


「変わらぬ」


「されば――、吉報をお待ちくだされ」


 広良はひとつ頭を下げ、立ち上がるや武者草鞋のきびすを返した。



 郡山を黒々と覆う森の闇のなかを三百五十余の影が出陣した。

 この集団は先頭を行く者が松明を持つほかは無灯火である。縄を使って前の者が後ろの者を牽引する形で、ぞろぞろと一列縦隊で進んでゆく。兵たちは、槍や薙刀、熊手といった長柄ながえをそれぞれ杖代わりにし、その背には弓矢を背負い、あるいは矢楯をかついでいる。馬は一頭もいない。むろん私語は禁じてあるから誰も声を立てない。粛々とした無音の行軍であった。

 広良がみずから率いたこの軍勢は志道家の私兵を除けば即席の混成部隊で、その意味で精鋭とは呼べないが、兵たちは雑兵にいたるまで敵勢力との小競り合いが日常茶飯という戦国人であるから、この種の部隊運動にはよく慣れており、夜中の出陣にも混乱はなかった。

 目的地である相合の船山は郡山城の西――直線距離にして約十五町、道のりにしても半里に満たない。普通であれば子供でも難儀しない道行きであるが、しかし、多くの家臣らが暮らす吉田の町中に軍勢を入れることを、広良はあえて避けた。坂広秀や渡辺勝らに異変を悟らせてはならないからである。

 これまでにも何度か触れたが、郡山城(旧本城)は郡山の南東尾根に築かれている。

 広良は、あえて北方の搦め手門から城を出て、深く広い堀切を梯子をもって乗り越え、北西方向に山を登るルート――つまりいったん郡山の山頂を目指す経路を取った。この時代、まだ郡山全山の築城工事は始まっていない。山中にはろくな道もなく、平坦地も少ないが、山の中腹にある満願寺まではとりあえず細道が繋がっており、そこから西へ進んで山を下れば、後に常栄寺(毛利隆元の菩提寺)が建立こんりゅうされる山麓まで降りることができる。そこは郡山と天神山の狭間に当たる「大通院谷」と呼ばれる谷で、谷の開口部から最奥部まで南北に五町ほどの広さがある。郡山城の大拡張後は長大な堀が掘られ、防御拠点も兼ねた武家屋敷群が営まれることになるのだが、この頃はまだ人家も少なく、拓かれた山畠がとりとめもなく広がっていた。ここを横切って天神山の山陰まで移動するルートを取れば、大人数でも人目につくことはまずない。

 闇中の山路の移動は至難と言ってよいが、この郡山であれば毛利家の人間にとって庭のようなものであるから、一行は一人の脱落者も出すことなく、一刻ほどの行軍で山麓まで無事に降りることができた。広良は還暦に近い年齢だが、戦場で鍛えた身体は頑健であるし、闇の中では足で道を探るようなゆっくりしたペースでしか進めないから、息があがることもなかった。

 谷間を横切り、天神山の南側をぐるりと回るように三町ばかり進めば、目的地である船山は、そこから西にわずか二町の距離に過ぎない。

 ちなみに天神山の終端と船山との間の谷を「細声峠」という。もともとは尾根のピークとピークの間のなだらかな山越え道であったものが、船山砦を築くにあたって、船山の山頂の東側を掘り崩して切崖としたために、いまは切り立った谷のような姿になっている。この夜襲の際、兵たちが声を殺してここを歩いた、というわれから、「細声峠」と呼ばれるようになったという俗信が、現在いまも地元に残っている。

 広良はこの細声峠の手前――天神山南端の山陰を戦闘のための最終準備地とした。

 全軍から精強な武人とその郎党を選び出し、そこに志道家の私兵を加え、百五十人ほどの決死隊を編成した。これが攻撃の主力で、船山砦の大手口がある南方から強襲を掛ける。残った二百人は十組に分けて小部隊を編成し、船山の四方に配置し、山すそをぐるりと包囲するよう命じた。この包囲部隊の者たちには全員に松明を持たせた。

 吸い込んだ夜気が、やや湿り気を帯びている。


「霧になれば面倒じゃな・・・・」


 と広良は心中で呟いた。

 霧はこの場合、好ましくない。そうでなくともこの暗夜、松明の明かりだけでは心もとないのである。濃霧となれば数メートル先も見分けがつかなくなるであろう。元綱を取り逃がしてしまっては何もならない。


「敵は相合のご舎弟殿である。相合殿は、恐れ多くも殿さまに対して謀叛をくわだてた。その確たる証拠もすでに掴んであり、殿さまは相合殿を討つご決断をなされたのじゃ。今宵、先手を打ってこちらから押し出し、敵を誅滅する」


 ここで初めて広良は兵たちに作戦の意図を明かした。


「よいか。城をのがれ出た者は一人残らず捕らえよ。降参する者は決して殺してはならぬ。ただし、あくまで手向かいを止めぬ者については、討って捨てても構わぬ」


 物頭たちにそう厳命した広良は、包囲部隊を配置につくよう走らせ、みずからは主力を率いて船山の大手口へと駆けた。




 船山砦は、船山山頂から東西に伸びる尾根に堀切で区切られた曲輪がふたつあり、東の曲輪が本丸、やや低い西の曲輪は出丸のように西方に突き出している。本丸から階段状に山腹南側の帯曲輪に道が繋がり、そこに大手の虎口こぐち(入り口)がある、というシンプルな構造になっている。

 東の天神山の山陰から三百近い松明の光が流星群のように流れてきたとき、元綱は山腹の帯曲輪にいた。

 それまで木戸であった大手の虎口を、食い違いの櫓門に作り変える作事さくじ(建築工事)をしていたのである。門扉はすでに建っており、この日、その門上に分厚い楯を並べて囲った簡単な見張り用の矢倉を作った。矢倉の上に板屋根を付けるつもりで、元綱はたまたまその上にいたために、異変に気づくのは早かった。


「なんじゃ、あれは・・・・?」


 重蔵の不審げな呟きに、


「これは――どうも尋常の事態ではないな」


 と返した元綱は、麾下の兵たちに武器を取るよう命じた。

 いま船山にいるのは、近侍を含めて武士が数名と五十人ほどの雑兵ばかりで、いずれも大工仕事をするために集まった者たちだから、足拵えこそしているが戦闘のための装備や武器を持ち込んではいない。ただ、本丸に武器庫を兼ねた矢倉があり、備蓄した矢石しせきと共に弓や槍の予備がそれぞれ二十ばかり、雑兵のための腹巻なども十領ほどは備えてあった。

 兵たちは突然の事態にかなり戸惑っていたが、どうすれば良いのかにわかに判断がつかないだけに、大将である元綱の下知に従うしかないと、かえって肚をくくったらしかった。近侍が駆け出すとそれに続いて本丸へと走り、武器を取ると共に矢櫃やびつや防具などを帯曲輪まで運んで来た。

 眼下の松明の光は南北二筋に分かれて船山を巻くように流れてゆく。この丘のような小山をぐるりと包囲するつもりであるらしい。


「四郎さま・・・・!」


「あぁ、どうやら俺は謀反人にされたらしい」


 松明群の正体は、毛利本家から派遣された討ち手なのであろう。東方――吉田の方角から現れた、という時点で、それ以外には考えられない。

 ――中途半端なことをするものだ。

 兄のやり様に、元綱は首をかしげたくなった。

 あの聡明な兄が、風聞に踊らされて自分を討つ決断をしたこと自体ももちろん意外であったが、ただ自分を殺すという目的だけであれば、わざわざ兵を催して――余計な死傷者を出すような真似までして――夜襲をする必要はないではないか。自分を郡山城に呼び出して、取り込めて殺せばそれで済むのである。

 ましてこの包囲陣はどうしたことか。

 船山砦は規模はごく小さいが、それでも比高が三十メートルほどの小山をまるまる城塞化しており、これを包囲するには相応の人数が要る。ましてこの暗夜である。松明程度の明かりでは闇がほとんど見通せず、城から逃れ出る人影を隠してしまう。落人おちうどを一人残らず捕えるなり殺すなりするには、松明の数が少なすぎるのである。

 この夜襲の目的が、自分を捕える――あるいは殺す――というところにあるなら、それなりの人数をもって水も漏らさぬ包囲体勢を築くべきであろう。それだけの兵数が用意できないのであれば、夜が明けるのを待って、早暁から寄せ始めればそれで済む。日の射す時間帯であればどこにも逃げ隠れなぞできないのだから。城主を確実に捕えるなり殺すなりしたいのであれば、落城に到るようなトドメの攻撃は夜には行わない、というのが城攻めの常識なのである。にも関わらず、わざわざ闇夜の日を選んで、この夜中に松明を掲げてあからさまに攻め寄せて来たということは、そこに別の意図を考えるよりない。


「城を落ち、他国へ逃げよ」


 そんな元就の心の声が聴こえるようであった。

 この青年の奇妙さは、ここでにわかに腹を立てたことであろう。

 ――兄者は何をやっておるのだ・・・・!

 自分を殺すことが毛利家のためであると決断したのなら――それが毛利家百年のためだというのなら――堂々とそれを完遂すればいい。この自分の血をもって家督の土台を突き固めればいい。なぜこんな迂遠な方法を選ぶのか。肉親に対する情に溺れたのか知らないが、兄は明らかに判断を誤っている。

 毛利家のために戦い、毛利家のために死ぬことを、元綱は幼い頃から己に課してきた。毛利家のためにそれが必要である、と家主である兄が判断したのであれば、自分はいつでも命を投げ出す覚悟がある。謀反人というみっともない形での死は確かに不本意ではあるが、人間はいずれ必ず死ぬのである。「毛利家のための死」であれば、自分はそれも厭わない。事理をわけて「死んでくれ」と兄が頭を下げたなら、腹だって切っただろう。

 それができない兄の心の弱さを、元綱は心中でののしった。


「甘すぎるわ。それでも武士か」


 必要とあれば弟を殺すくらいの冷徹さを持てぬ者に、この乱世が渡っていけるか、と元綱は怒鳴りつけたかった。自分がこの船山をのがれ、尼子氏の庇護が得られるところまで逃げ延びれば、どういう事態になるか、本当にわかっているのか――。

 その意味では、この夜襲を企図した志道広良の見積もりそのものが、かなり甘かったと言わねばならぬであろう。広良は老練を絵に描いたような男で、むろん戦場の経歴にも不足はなかったが、その気質はもともと参謀型であり、武辺者というタイプからは遠い。元綱という男の、戦術家としての凄みと武人としての力量を、測り切れていなかった。

 実際このとき、元綱が麾下の兵をまとめて、北の搦め手口なり西の曲輪の切崖を駆け下りるなりして出戦したとすれば、薄い囲みを蹴散らして突破することはさして難しくなかった。北方の高橋氏の領地まで逃げ込めば、その後のことはわからないにしても、さしあたっての危機からは逃れられたであろう。元綱がその気になれば、毛利家を売ることを条件にして尼子経久から兵を借り、吉田へ攻め返すことさえ不可能ではない。

 そういう危険を承知の上で、それでも兄はあえて自分を逃がそうとしているのである。裏返して言えば、弟は何があっても毛利家に仇なすような選択はしない、と、元就が信じているということでもある。

 だがそれは、男として見くびられている、あるいは舐められている、ということとも同義ではないか。

 そう気づいて元綱はヘソを曲げた。

 ――兄者の思い通りになぞ、してやるものか。

 今日この日、この場で、死んでやる、と、元綱は肚を決めたのである。


「四郎さま、とにかく鎧をおつけくだされ」


 運ばれてきた腹巻を手早くつけながら重蔵が叫ぶように言った。


「そんなことは後だ。それより弓を貸せ」


 門上に担ぎ上げられた矢櫃から矢を抜くと、元綱は弓を引き絞り、闇のなかをこちらに駆け上ってくる松明の光に向けて、ひょうと射た。

 ぎゃっという叫びがあがり、ひとつの影が倒れ、坂下の松明群の進行が止まった。


「それより寄るなら容赦せぬぞ! 大将は名乗れ!」


 元綱の叫びに応えたのは志道広良である。


「相合殿の謀叛のたくらみ、すでにあらわれたり! この上野介こうずけのすけが主命により誅滅つかまつる!」


「ほう、執権殿か。この夜中に、わざわざ苦労なことだ」


 元綱はあざ笑った。


「この俺が謀叛とは片腹痛いが、問答無用というなら、是非もない。兄者は出張っておるのか」


 その問いに広良は答えなかった。


「相合殿はあの上ぞ! それ射取れ!」


 一拍おいて数十の矢音が闇を切り裂いた。

 とっさに元綱は傍らの矢楯を取り、前に掲げるとそれが立て続けに鳴った。

 門上には重蔵と近侍が三人。いずれも矢楯に隠れたので怪我もない。


かがりを投げ捨てろ」


 元綱は短く命じ、みずから鉄かごのひとつを坂下へ放り投げた。

 大工仕事のために矢倉の四隅で燃やしていた篝火がなくなり、門上は闇に溶けた。見えない相手には矢を放ちにくい。逆に坂下が明るくなればこちらは敵を狙撃しやすくなる。


「寄せよ!」


 広良が叫び、先陣の五十人ほどが喚声をあげながら坂を駆け上がってきた。

 その先頭に向けて、元綱は矢継ぎ早に矢を放った。重蔵らも矢楯の隙間から次々と射放った。その矢にはほとんど無駄がない。五人、十人と射倒されると、その怪我人のために道がふさがり、さらに足元がほとんど見えぬために、転ぶ者や坂から転がり落ちる者が続出し、寄せ手は初手からやや混乱した。


「又二郎、しばらくここを防げ。俺は鎧をつけてくる」


 本丸の殿舎には元綱の換えの鎧が置いてある。


「うけたまわった!」


 井上又二郎が弓を引きながら叫んだ。


「重蔵、俺と来い」


 梯子を飛び降りるように降りた元綱は、けしかけるように叫んだ。


「本家の執権殿が、我らのつよさをその目で検分に参られたぞ。せっかくの機会おりだ、お前たちの日ごろの鍛錬の成果、存分に見せてやれ!」


 元綱は、いざという時はこの船山砦をもって尼子の大軍と戦い、「削り役」を務める覚悟であったから、そのつもりで麾下きかの兵を相当に鍛えている。防戦する場所によって役割をそれぞれ分担し、火線が交差するキルゾーンへの効果的な攻撃法や、籠城戦の鬼才であったかの楠木正成まさしげが千早城で用いたいくつかの戦法を応用して兵たちに教え込み、油壷や松明、鉄菱てつひしといった小道具を大量に作るなど、着々と準備を積み重ねているところだったのである。その有用性が、毛利家の兵を相手に試されることになったのは皮肉と言うしかないが、いずれにしても元綱麾下の兵たちは、この船山砦での防戦という局地戦に限定すれば、志道広良が率いた寄せ手の兵よりはるかに錬度が高かった。

 彼らはいちいち大将に指図を仰ぐこともなく、有機的な機械のように役割どおりの動きをし、防戦を開始した。帯曲輪の塀の矢狭間やざまからあるだけの弓を使って矢を射降ろし、弓のない者は石を投げ、縦隊になった敵の側面を頭上から攻撃する。


「ありったけの松明に火をつけよ。やつらを門の近くまでよう引きつけた上で、帰り道を明るくしてやれ。油の壷やあみはその後だ。こちらからも打って出るから、まだ菱は使うなよ」


 時間稼ぎのためにそれだけ指示すると、元綱は本丸へ駆け上がった。

 殿舎の廊下を足音高く踏み鳴らしながら私室へ入る。

 重蔵に着付けを手伝わせて手早く鎧をつけた。


「あれっぽちの人数でこの俺を討つつもりとは、舐められたものだ」


 元綱は吐き捨てるように言った。

 もし麾下の兵が全員揃っており、その武装が完全であったなら、あの程度の敵なら楽々と撃退できる、と元綱は叫びたい。

 が、実際のところを言えば、兵たちの武器と装備がまったく足りてないことが致命的であった。大半の者が普段着同然の姿で、槍すら満足に持っておらず、投石で戦っている始末なのである。この体たらくでは、いずれ落城は免れぬであろう。

 どうせ負けるなら、いっそこちらから打って出て、東側の薄い包囲を蹴散らし、天神山から郡山に駆け登り、その中腹を横断して兄がいる本城まで攻め込んでやるか、とまで元綱は考えた。いずれ力尽きて死ぬにしても、元就や志道広良の心胆を寒からしめ、自分の武勇のほどを存分に表現して死んでやる方が、痛快ではないか。

 しかし――。

 殺すべき「敵」が毛利家の兵たちであるという現実に気づいた時、戦いによって沸き立っていた血の温度が急激に冷めた。

 ――俺が殺せば殺すだけ、毛利家の損か。

 と思えば、猛烈な虚しさと物悲しさが襲ってきた。

 元綱は、傍らの文机の上に無造作に置かれたはこに眼をやった。


 『闘戦経』――


 毛利家の当主が代々相伝してきた家宝であり、大江流兵学の精髄たる書物である。

 その文言のなかに、


鴟顧しこして狐疑こぎする者は智者依らず』


 という一節がある。

 ふくろうのごとく後ろばかり気にし、狐のように物事を疑ってばかりいる者は、智者ではない、という意味である。決断できぬ者こそが愚者であり、将にとってもっとも重要なことは決断であると説いている。

 ――俺はどうやら愚将だな。

 苦い笑いが浮かんだ。

 元綱はその函をむんずと掴み、重蔵に押し付けた。


「十人ばかりけてやる。お前はそれを持って城を落ちよ」


「な・・・・!?」


 その言葉に重蔵は憤激した。


「主命であろうと、そればかりはお断りじゃ。わしは、わしが主人と決めた男と命運を共にする。四朗さまが落ちるというならお供もするが、ここで死ぬなら、わしは四郎さまより一足先に討ち死にさせて頂く」


「俺の望みを聞け!」


 元綱は怒鳴った。


「よいか、この『闘戦経』は、亡き父上からこの俺が受け継いだものだ。これだけは、死んでも兄者などにはやらぬ。だが、遠く平安の昔から伝わった宝のようなこの書を、破り捨てることも燃やすことも俺にはできぬ。これはさらに後の世にまで伝えてゆかねばならぬものだからだ。おのれが俺の家来だというなら、この俺の願いを聞け。主人の下知に従え」


 これはもちろんとっさの方便である。実際、『闘戦経』には複数の写本があり、そのうちの一冊は元就の手元にもある。だが、元綱が持っているのは平安末期から大江氏の後裔たる毛利家に相伝された原本であった。元綱は、その「家宝」を護る、という使命を与えることで、このくだらない内輪もめの渦中から重蔵を逃がそうとした。

 亡父から『闘戦経』を受け継いだことを元綱は誇りとしている。それを知っている重蔵にとって、この命令は重かった。いわば遺命も同然であり、ないがしろにして良いものではない。


「しばらく大手口で防いだら、俺は帯曲輪を捨て、この本丸に立て籠もる。敵を城内に引き入れて引きつけるゆえ、お前は機を見て西の曲輪から切崖を駆け下り、西へ走れ。多治比から千代田へと落ちるのだ。敵の目当ては俺の首ひとつ。おそらく追手も掛かるまい。夜のうちに他領まで出てしまえば、後はどうとでもなろう」


「四郎さま・・・・!」


「しかと任せたぞ」


 呆然と立ち尽くす重蔵をその場に残し、元綱は大手門へと駆け出した。




 時間をわずかに遡る。

 志道広良の軍勢が天神山の山すそで三百あまりの松明に火をつけたころ、相合の元綱の屋敷に忍び入ったひとつの影があった。

 鉢屋の蓮次れんじである。

 今宵、この屋敷に残っていたのは女子供と老人だけであり、それを知っている蓮次にとって、忍び込むのは造作もない。低い芝土居を越えて裏庭に下りると、躊躇なく中庭を突っ切り、濡れ縁から寝静まった母屋にあがり、足音も立てずに廊下を奥へと進む。

 母屋の大まかな間取りと夫婦の寝室の位置は市兵衛翁からあらかじめ聞いてある。迷うことなく目指す部屋の次室の襖を開いた。

 そこは不寝番のための詰め間であり、元綱の近侍が出払っている今宵は侍女としてさちが詰めていた。

 眠気を払うために縫い物をしながら時間をつぶしていた幸は、音もなく突然襖が開いたことに自失するほど驚き、廊下の暗がりに浮かぶ幽鬼のような影を認めて気を失いそうになった。我に返って悲鳴をあげる前に、滑るように間合いを詰めた侵入者によってその口を塞がれ、同時に床に押し倒された。


「んーーっ!」


 幸は必死にもがいたが、力が違いすぎてどうにもならない。


「おう、お幸坊。久しぶりだな」


 耳元でしたその声に、幸の身体は硬直した。


「あの乳臭い子供ガキが、すっかり娘らしくなったもんだ。俺のことは覚えてるか? おゆきの昔馴染みの鉢屋者よ。お前さんに悪さする気はねぇから、そう暴れてくれるな」


 そのとき、ゆきはすでに床についていたが、まだ眠ってはいなかった。

 次室から聞こえた音と声に驚き、掻巻かいまき(掛け布団)を跳ね除けて素早く身を起こし、傍らの懐剣を握った。

 一息に大きく襖を開くと、少女の上に覆いかぶさった鉢屋者の姿があった。


「蓮次か。何の用じゃ。無体をすると人を呼びます」


 押し殺した低い声で、しかし鋭く言った。


「無体なんざしやしねえよ。呼ぼうにもこの屋敷にゃ男衆はたれもいねぇじゃねえか。慌てなさんな。俺ぁ、お前らを助けに来たんだからよ」


「何を言いやる。幸を放して早うね」


「いいから話を聞け――!」


 ドスの聞いたその声音と、蓮次の眼の異様さとによって、かつて経験したことのない、名状しがたい禍々しい不安がゆきの胸に湧き、それがみるみる大きくなった。


「四郎さまに――、なんぞあったのか?」


「毛利本家の兵がいま船山を囲んでる。元就は弟を謀反人として討つつもりらしいな。お前さんには気の毒だが、元綱はもう仕舞いだよ」


 ゆきは眼を見開いて絶句した。


「・・・・四郎さまは謀叛なぞ考えてもおられぬ。濡れ衣じゃ」


「おっと。繰り言は時間ときの無駄だ。この屋敷にも、いつ討ち手が来るかもわからねぇ。いまのうちに逃げるんだよ。もし捕らえられてみろ。お前はどうなるか知らねぇが、お前の子供ガキは男だろ。必ず殺されるぞ」


 呼吸も思考も――生体機能のすべてが止まったような気がした。

 夫がいままさに殺されようとし、我が子までやがて殺される――!?

 そのとき、深夜の静寂を破って北東の方角から喚声が遠く流れてきた。それに気づけたのだから、ゆきの聴覚も思考も生きてはいたらしい。船山からこの屋敷までは三町ほどしか離れていない。戦さの気配は直に届くのである。


「おゆきさま・・・・!」


 事の重大さを理解したのか、幸も血の気の失せ切った顔をしている。

 そんな少女を気遣うでもなく、蓮次は立ち上がってゆきと向き合った。


「とにかく迷ってる暇はねえ。すぐここを出るんだ」


 出て何処へ行くというのか――。

 ゆきは一瞬で多くのことを考えた。

 幼い子を連れ、女一人で諸国を放浪するなぞできるものではない。我が子のためなら物乞いすることも身体を売ることもあえて厭いはせぬが、それで鶴寿の将来がどうなるというのか。流民るみんのようになって極貧のなかで苦しみぬいて朽ちるのか。この蓮次のように無頼ぶらいの人生を歩むのか。あるいは出雲大社の神人じにんにでもするか――。

 ゆきは振り返って寝室を見た。ゆきの床の奥で、鶴寿丸が夜具にくるまって健やかな寝息を立てている。


「幸――」


 ゆきは厳しい声で命じた。


「鶴寿を連れていますぐ多治比へ走りなさい。悦叟院えそういんにいるお義母かあさまにおすがりするのです」


「おゆきさまは――」


 ゆきはその声を背で聞きながら部屋に入り、鶴寿丸を揺り起こした。

 いきなり目覚めさせられた少年は、わけがわからぬままに身を起こされ、その身体が抱きしめられるのを感じた。


「白い夜着は夜目にも目立ちますね」


 枕元に畳んだ小袖が置かれている。ゆきは息子に無理やり袖を通させ、手早く帯を締めた。

 そのわずかな時間で少年は意識がしっかりしてきた。目を強くこすって覚醒をうながし、状況を理解しようと務めた。部屋はとても暗い。まだ朝ではないらしい。隣室から漏れるわずかな明かりの逆光となって目鼻もわからないが、目の前にいる影が母であることは声と匂いでわかった。


「母上・・・・?」


 不思議そうに自分の顔を眺める我が子を、ゆきはもう一度抱きしめた。


「これからあなたは、悦叟院にいらっしゃるお祖母ばあさまのもとへ参らねばなりません。幸が案内しますから、ついて行きなさい。暗い夜道で危ないですが、できるだけ急いで、駆けて行くのです。いいですね?」


 有無を言わせぬ真剣さで、ゆきはそう命じた。

 義母である相合の方には、「謀反人の側室」に過ぎぬ自分よりずっと政治力がある。その知恵と人脈と政治力とを駆使して――場合によっては鶴寿丸を仏門に入れるという非常手段を取ってでも――必ずこの子を庇護してくれるであろう。この状況で我が子の将来を託せる人といえば、他には考えられなかった。鶴寿丸にとって、祖父の菩提寺たる悦叟院は、この毛利の領国のなかではもっとも安全な場所であるに違いない。

 ゆきは壁近くに掛け置かれた夫の脇差を取り、それを息子の手に握らせた。


「幸」


「はい」


「行きなさい。鶴寿のこと、たのみましたよ」


 毅然として言ったつもりであったが、その語尾は震えていた。涙をこらえるのに必死だった。ここで我が子に無用の不安を与え、要らぬ問答を繰り返していては、出立がさらに遅れてしまう。その数分の差が、生死を分けかねないのである。時は、いま砂金よりも貴重であった。

 鶴寿丸の手を引いた幸が部屋を去った。


「お前は一緒に行かねえのか」


 不審げな蓮次の問いを無視し、ゆきは屋敷にいるすべての侍女と老僕を起こして回った。

 元綱が不在のいま、ゆきにはこの屋敷の女主人として、家来に対して指示を出すべき責任があった。戦さになっている以上、元綱の住処であるこの屋敷は、略奪対象になる可能性が高い。このまま屋敷に残っていれば、押し入って来た兵たちに殺されぬとも限らない。

 義妹の竹姫が他家にとつぎ、義母の相合の方もすでに去っている。それぞれの侍女もいなくなったので、この屋敷にはあまり人が残ってない。卑女はしためまで含めて女が五人と、門番を務める市兵衛とうまやの世話をする老僕が一人。それですべてである。ゆきは手短に状況を説明し、ひとまず多治比の悦叟院へ避難するよう命じた。この騒動の一時さえやり過ごせば、後になって「元綱に仕えていた」という理由で女や老人まで殺されることはないであろう。


「おゆきさまは如何なさる」


 市兵衛老人の問いに、


「わたしもすぐに参ります。早う行きなさい」


 ゆきは厳しく命じ、全員を去らせた。


「危急を報せてくれたこと、礼を言います。お前ももう去りなさい」


 蓮次はいぶかしげに女を見た。


「おいおい、お前さん、なに考えてる」


「今義経とまで呼ばれた四郎さまが、無実の罪でころされようとしておる。妻たる者として、このままにはしておけぬ」


「どうするってんだ」


「別にどうもせぬ。いまさら私にできることなぞありはせぬ。せめて、少しでも夫の近くで死にたいと願うておるだけじゃ」


「そんなこったろうと思ったぜ。そういうのを無駄死にってんだ、この馬鹿だらが――」


 ゆきの肩に後ろから蓮次の手が掛かった。

 振り払おうとしたが、記憶が定かなのはそこまでである。

 次の瞬間、顎の辺りに横から強い衝撃を感じたのを最後に、ゆきは意識を失った。




 武士という生き物にとって、戦場とは、己の「おとこ」を見せるための晴れ舞台である。

 山腹の帯曲輪へ駆け戻った元綱は、十人ばかりの兵と共に城門から打って出て戦い、その武勇のほどを志道広良に存分に見せ付けた。

 大手前の坂道は狭く、多数の敵に押し包まれるようなことはない。先頭で登って来る二、三人の敵を立て続けに突き倒し、何度も坂下へ蹴落とした。


「ええい、なにをやっておるか・・・・!」


 坂下からその様子を見上げる広良は、激怒した。


「敵はわずかな小勢ぞ! 一息に揉みつぶせ!」


 が、無理に攻めるほど寄せ手は負傷者が続出した。もともと元綱の武名は毛利家では突き抜けていたが、その武勇の凄まじさを敵として間近に見た兵たちは恐れおののいて進むことを躊躇し、ついには誰も立ち向かえなくなった。矢楯を前面に押し並べて道を塞ぐと、距離を取って矢を放ち始めたのである。

 これにはさすがの元綱も閉口し、


「引き上げるぞ!」


 飛矢を払いながら素早く門内に逃げ込んだ。

 一息つき、あらためて鎧を見てみると、大袖や胸板、佩楯はいだてなどに計六本の矢が立っていた。興奮して気づかなかったが、胸と腕、太ももに薄手うすでを負ったらしい。

 元綱はその矢を次々と引き抜き、折り捨てた。

 この船山を「死に場所」と定めた限り、元綱は、己の矜持に賭けて恥ずかしい戦さぶりを見せるわけにはいかない。しかし、味方はもちろん、敵も同じ毛利家の兵であり、この愚かしい内乱で無駄な死者はできるだけ出したくない、という想いがあるのも偽らざる本心であった。その矛盾があるために、戦いつつも元綱の心は晴れない。常の戦場であれば、身体の内側から戦いの悦びのようなものが湧き上がってき、その高揚感に酔えるのだが、今夜ばかりはそれが少しもなかった。

 闇を裂く矢音が間段なく鳴り続けている。

 戦闘が長引くにつれ、曲輪内でも矢による負傷者が増えてきた。鎧を着てない者が多いからそれも当然であろう。寄せ手はひっきりなしに越矢こしやを射込んで来て、それが兵たちを苦しめた。

 ちなみに「越矢」というのは当時の弓矢の戦術用語で、土塁や石垣、塀などの内側にいる敵に対して攻撃する戦法を指す。数十人が天に向かって一斉に射放ち、狙った場所の周囲に雨のように矢を降らせるのである。弓隊の人数が多ければ、これを複数の組で間段なく行うことで、恐るべき殺傷力を発揮すると同時に、敵の戦闘行動を著しく妨げることができる。

 弓矢は武士にとって鎌倉以来の表芸である。その効果的な使用法については研究され尽くしていて、他にもたとえば遠矢、数矢、横矢、指矢さしやといった戦法が考案され、実際に使用されていた。射線が通らない(目標が見えない)と使用できない鉄砲などに比べて、弓矢の戦術には大きな幅があり、非常に使い勝手が良い。だからこそ、鉄砲が全盛の時代になってからも弓矢は廃れなかったのである。

 ――そろそろしおか。

 元綱は思った。

 死者こそまだ少ないが、すでに大半の者が大なり小なり手傷を負っている。自分のために健気に戦ってくれる者たちを、これ以上無益に苦しめるのは、忍びなかった。


「この曲輪は捨てる。俺と共に死ぬことを願う者だけ本丸へ入れ。死にたくない者は武器を捨てて戦うのを止めよ。降伏する者を執権殿は決して殺しはせぬ」


 動ける兵たちに向け、元綱はそう訓示した。


「よいな、生きたい者は武器を捨ててこの場で降伏するのだ。死にたい者だけ俺について来い」


 大声で言い捨てると、兵たちの返事も待たず、元綱は本丸への坂道を駆け上がった。

 近侍のなかで動ける者はすべて本丸へ登って来た。雑兵も十人ばかりがそれに続いた。

 二十人に満たないこの男たちが、元綱の死出の供であった。

 ――馬鹿の周りには馬鹿が集うわ。

 この場にいるのは、元綱のことが好きで好きでしょうがない者たちであり、この大将のために死ぬことを是も非もなく喜ぶという救いがたい馬鹿どもであった。


「お前たちには、あらためて言うべきこともない。この場で共に死のうぞ」


 己のなかにあった迷いを元綱は吹っ切った。

 やがて寄せ手の松明の群れが帯曲輪に続々と侵入し始めた。

 あれらはほどなく、つづら折れの山道を登って本丸の虎口に殺到するであろう。

 元綱は、本丸殿舎の台所にあった酒樽の蓋を叩き割り、柄杓でもってそれを飲んだ。男たちもそれぞれに末期の酒を酌み交わした。


「――よし! じゃあ、せいぜい派手に暴れてやるとするか!」


 元綱の声に、男たちは壮絶な笑顔で応えた。



 本丸で始まった戦いの喧騒を背で聞きながら、重蔵は西の曲輪の切崖の上に立った。


「では、頼む。くれぐれも命を大事にな」


 重蔵が声を掛けると、十人ばかりの雑兵たちが無言でうなずき、わざと目立つように喚声を上げつつ次々と崖を駆け下った。西の外堀の役目を果たす山辺川を勢いのままに越え、大声で喚きながら松明の群れのなかに踊り込んでゆく。

 彼らには、重蔵が囲みをすり抜けるまで騒ぐだけ騒ぎ、その後は武器を捨てて降伏するよう命じておいた。同じ毛利家の家来同士であり、敵の目標は元綱ただ一人であろうから、降伏さえすれば殺されることはない、と因果をよく言い含めてある。ほんの寸刻だけ敵の目を引きつけてくれれば、それで十分だった。

 突出した雑兵たちの周囲に四十ほどの松明が群がって、その分だけ西側の闇に濃淡ができた。片手に松明を持ったままでは満足に戦えない。長柄を扱うために半数以上の兵が地面に松明を置いたこともあって、人の密度がになった場所の光量が極端に減った。

 重蔵は、闇の濃いところを選んで切崖を転がり落ち、そのまま身を低くして全速力で駆けた。

 山辺川の川筋の茂みの中に飛び込み、川を渡って南西へ走る。

 その物音に気づいた兵が五人ばかり、誰何すいかの声をあげつつ追って来た。

 重蔵は身を隠すと腹巻を手早く脱ぎ、それを川の対岸の藪に向けて放り投げた。静寂のなかで茂みが派手に騒ぎ、その音に反応した兵たちの探索の向きが変わった。音を立てぬように注意を払いながら、重蔵は追手からそろそろと距離を取った。

 周辺の農家の陰に隠れるようにして闇のなかを二町ばかり慎重に進み、そこから進路を南に変えて一気に走った。

 あえて相合の屋敷に立ち寄るつもりになったのである。そこが通り道であったこともあるが、何より闘争の気配がまったく感じられないのが気になった。屋敷の方にも兵が派遣されたとすれば、必ず略奪が行われているはずで、家人がそれに抵抗すれば容赦なく殺されたに違いないが、いずれにしても静寂に包まれていることはあり得ない。敵はいない、と重蔵は判断した。

 ――お方さまと鶴寿丸さまをお落としせねば。

 船山の戦いの喧騒はここまで届いているから、ゆきたちがまだ事態に気づいていないとは思われないが、進退に迷って屋敷でぐずぐずしているようなら、安全な場所まで逃がさねばならない。

 裏門は開いたままになっていた。

 そのまま屋敷に駆け込んだが、人の気配はない。すでに家人は逃げたのであろう。

 ――杞憂きゆうだったか。

 それならそれでいい。

 念のために母屋の奥まで入ってみたが、寝間さえもぬけの殻だった。

 長屋の自分の部屋には旅の荷物をまとめて入れた頭陀袋ずだぶくろがある。素早く裏庭まで戻った重蔵は、部屋に飛び込んでそれを引っ掴み、懐に入れていた『闘戦経』のはこと、これまで書写した書籍の類をそこに押し込むや、一散に駆けだした。

 走るうちに船山の喧騒はどんどんと小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 山間の街道は多治比川に沿って北西へ曲がり、さらに西へと向きを変える。道なりに半里も行けば多治比である。

 追手の気配はまったく感じない。

 どこまで行っても、追って来る馬蹄の音などは聞こえなかった。

 多治比の街道沿いには猿掛城があり、これはいわば敵城だから、重蔵は警戒したが、特に篝火が多く炊かれているということもなく、静かなものだった。それでも城からはできるだけ離れ、田のあぜ道を駆けに駆けた。

 やがて街道は山路に変わる。関所を避けるためにあえて街道を南に逸れ、名も知らぬ山の斜面を登った。無灯火の重蔵は移動には難儀したが、それでも止まることなく進み続け、なんとか江の川筋まで出たところで、落ち延びたことを確信した。


「なんという夜じゃ・・・・」


 相合を離れてから二刻(四時間)は経ったろうか。まだ空は白んでないが、時刻はすでに明け方に近いであろう。

 ――もはや四郎さまは首にされたろうか・・・・。

 河原の大石に腰を降ろすと、疲労と共に猛烈な虚しさが襲ってきた。

 たまらなく悔しかった。重蔵にとってあんない主人は他にいなかった。元綱と同じ戦場で死ねなかったことが無念だった。

 しかし、


「死んでも兄者に『闘戦経』を渡すな」


 という元綱の最期の願いを無下にはできなかった。

 重蔵は痛いほど唇を噛み、男泣きに泣いた。

 元綱がいない毛利家には何の未練もない。ないどころか、無実の罪で元綱を誅した毛利家と兄の元就とには、言葉にならぬほどの怨みがあった。毛利領にもそれがある安芸にも、もう居たいとも思わない。鶴寿丸のことだけは心配であり、心残りでもあったが、のこのこと毛利領に戻るわけにもいかない。重蔵は深い落胆と失意のなかにあり、正直、いまは何も考えたくなかった。


「帰るか、京へ・・・・」


 誰にともなく呟いて、重蔵は蹌踉そうろうと腰をあげた。

 夜はどこまでも無限に続いていて、日が永遠に昇らないような錯覚を起こさせる。

 闇のなかで、砂礫されきを踏む乾いた音だけが、いつまでもいつまでも、虚しく響いていった。



 これは余談、というより、あるいは蛇足であるかもしれないが――。

 この重蔵――はた武元たけもとという男は、この時代に実在した人物である。船山砦での戦闘によって焼失したり散逸したりしてもおかしくなかった『闘戦経』の原本が、失われることなく後世まで伝えられたのは、この男のお陰であったと言えなくもない。

 安芸を去った重蔵のその後の足取りはまったくわからない。結局、兵法ひょうほう者としては大成しなかったようだが、その晩年は京において、江戸期に大流行する兵法へいほう(兵学)の学者として、その草分けのような存在になっていたらしい。その名は『闘戦経』の原本の奥付部分に書き加えられた一文にあるのみで、他の同時代史料にはまったく現れないので、その限りにおいてそれほど世の評判を取ったわけでもなかったようだが、兵学の講義所を開き、幾人もの弟子を育てたようである。

 重蔵は大江流兵学の正統を受け継いだことを生涯の誇りとし、


「我が主君あるじ、我が師は、大江おおえの元綱である」


 と死ぬまで弟子たちに言い続け、二度と人に仕えようとはしなかった。

 毛利元綱でなく、あえて大江元綱と主張するあたりに、重蔵の肚のなかが透けて見える。「毛利」という姓は口にするのも厭だったのだろう。毛利元就という男については、重蔵は死ぬまでゆるせなかったに違いない。

 実際、元就が生きている間、『闘戦経』の原本が毛利家に戻ることはついになかった。

 しかし、江戸時代の初期――すでに重蔵の死後であったが――元就の孫(吉川元春の次男)である毛利元氏もとうじが、所用で上洛した折りに、大江流兵学を看板に掲げる講義所が京に存在することを知った。あるいは家来が市井のうわさを聞きつけてきたのかもしれない。重蔵の直弟子で師範であった眞人まひと正豊という人物にうて、『闘戦経』の原本は毛利家へと返還されることになった。

 ちなみに毛利元氏の家系は長州藩の一門家老として幕末まで続いている。幕末に回天の原動力となった長州藩の軍学といえば、吉田松陰しょういん山鹿やまが流兵学ばかりが名高いが、大江流兵学も何かしらの役割を果たしたと思いたい。

 維新後、この『闘戦経』の原本は、毛利家から明治新政府の海軍兵学校へと寄贈され、昭和の戦前まで海軍大学校で実際に講義に用いられていたという。

 元綱と重蔵の兵学に対するこだわりと研鑽けんさんが、遠い未来の明治時代における「日本海海戦」にまで貢献した、などと考えるのはロマンチシズムに過ぎるが、明治期の海軍将校が実際にそのテキストを学んでいたという事実を踏まえれば、現代を生きる日本人に、泉下の彼らに対する多少の感謝があってもいい。





物語としてはこれが最終話。次はエピローグになります。

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