籠手斬り重蔵(一)
細い雨が静かに落ちている。
羽田重蔵は、物思いに耽りながら漫然と庭先の百日紅を眺めていた。
――なにやら妙な雲行きになってきたな。
気が乗らないというか、なんとなく物憂い。
「重蔵殿、重蔵殿――」
この屋敷の主人である熊谷孫次郎が足音を響かせながら離れに入って来た。
「いやいや、お待たせを致した」
鬼瓦のような面相をくしゃくしゃにして、満面で笑っている。
「殿にお話してみたら、おぬしの剣の腕前を是非見てみたいと仰せられてな。家中の腕自慢と仕合わせれば面白かろうなどと、大乗り気であったよ」
重蔵は眉をしかめ、あぁと無意味な声を発した。
――困ったな。
こんな西国で仕官するような気はまったくなかったから、正直に言えばあまり深入りしたくはないのだが、親切に世話をして貰っている手前、孫次郎の好意を無下にするのも気が引けた。
「弱りましたな。わしは熊谷の殿さまに買いかぶられたようじゃ。孫次郎殿の言葉で、わしの腕を大げさに飾ってくれたのでしょう」
重蔵は、兵法者である。
本人にはそのことに対して大した自覚や誇りはないし、自らそう名乗った事もないのだが、世間では兵法者とか武芸者とか呼ばれる人種であることは間違いない。この時代、兵法というもの自体がまだほとんど世の中に認知されていないから、世の人々が重蔵を見る目というのは旅芸人とほとんど変わらない。いや、実際のところ重蔵の安芸までの旅は、まさに旅芸人そのものであったわけだが――
「なんのなんの」
孫次郎は手を振って笑った。
「『籠手斬り重蔵』の技前は、吉岡兵法所で共に腕を磨いたわしが天下で誰よりもよう知っておる」
籠手斬り――
それが、重蔵の二つ名である。
重蔵の家に代々伝わっていた剣術の型のひとつで、相手の剣が振り下ろされたその瞬間に、相手の太刀筋を左右どちらかにかわしつつ下段から斬り上げて相手の籠手を斬る。手加減なしなら木剣でも手の骨を砕く。戦場で使う時は籠手で守られてない指を斬り飛ばす。重蔵はこの技を得意とし、この技で「吉岡兵法所」の門人たちから一目置かれる存在になった。
「その妙技を見れば、殿は勿論、家中の頭の古い連中も考えを変えるであろうよ」
孫次郎は、自ら進んで剣術の術理を学んだほどだからこの時代の武士にしては珍しく兵法に理解があり、「戦場で兵法など役に立たぬ」という一般の認識に強い不満を持っていた。剣術の兄弟子とも言うべき重蔵が訪ねて来たのを幸い、その腕前を衆人に見せ付けることによって兵法の有用さを認めさせ、家中での兵法の地位を向上させようとでも考えているのかもしれない。
それはそれで悪いことでもないのだが――
肝心の重蔵自身が、兵法というものに対して迷いを抱えている。
重蔵は、その迷いを払拭する契機を掴むべく、はるばる安芸くんだりまでやって来たのである。物見遊山でも仕官目当てでもないのだ。
重蔵が剣の道を志したのは、半ば以上は成り行きだった。
死というものが生と隣り合わせの乱世だから、己が身を己で守れるのは悪いことではないだろうし、男というのは本能的に強さを求める生き物でもあろう。自ら進んでその道に踏み込んだと言っても間違ってはいないし、だから自発的と言えば自発的なのだが、重蔵は人を斬ることが正直あまり好きではない。生れ落ちた環境が違っていれば、剣など握ることなく一生を終えていたかもしれないと思ったりもする。
太刀先をこう走らせれば相手のここを打てる、相手の太刀をこう流せば相手のあそこを斬れる――術理、合理としての剣は、確かに面白いと思う。身に付けた技を比べあい、勝った負けたを競うのは愉しいとも思う。それらを突き詰めてみたいという願望もないではないのだが、しかし、人殺しの技術であるという現実から乖離したところに剣術はあり得ない。さらに言えば、どれほど剣の腕を磨いたところで戦場ではさほど役には立たないということを、重蔵自身が身をもって知ってしまったのである。
一対一で平装で斬り合うというなら兎も角、戦場では敵も味方も鎧兜に身を固めているわけで、実際問題として剣などはほとんど歯が立たない。まして足軽による集団戦が確立されつつあるこの時代、一列に並んだ数十人の足軽たちが振るう数十本の槍を前にすれば、術も理もあったものではない。戦場において、個人の尊厳と誇りを賭けて一騎打ちをするというような、個々の武勇がものを言った時代は、すでに終わろうとしているのである。そのことは、何度も足軽として戦場に出てみて重蔵は痛感した。
――平時の人殺しが巧くなるというだけなら、たとえ技を極めたところで何になるというのか。
そう考えるようになって、重蔵は迷路に迷い込んだ。迷いを抱えたまま剣の修行を続けてきたが、何年経っても迷いを振り切ることはできなかった。
だから、迷妄の壁を突き破る何かを求めて重蔵は安芸にやって来た。この国に、会って教えを乞うべき人物がいる――かもしれぬと思ったからである。
重蔵はもともと京の武士の子であった。
姓を秦、諱を武元と言う。
秦氏というのは神代の昔に朝鮮から集団で日本に移住したという帰化人の姓で、 秦の始皇帝の末裔であるとかいう眉唾な伝説がある。聖徳太子の側近であった秦河勝が歴史に名高いが、自分の家がその遠い子孫に当たるのかどうか、本当のところは重蔵も知らないし、そんな大昔の事にはほとんど興味もない。
重蔵は、山城国葛野郡――京の西郊・太秦にほど近い山里で生まれた。
――我が家は代々「上北面」であり、出羽守の官職を頂戴していたのだ。
というのが、重蔵の父の誇りであった。
重蔵の秦家は、曾祖父の頃まで京の御所を守る「北面の武士」であったのだそうだ。「北面の武士」というのは、上皇に直に仕え、朝廷の警衛をその任務とする武士団である。「上北面」と「下北面」があり、「下北面」は地下(蔵人を除く六位以下の官人と一部の庶民)の武士であったことに比し、「上北面」は院への昇殿を許された者、つまり五位以上の官位を持つ貴族武士で編成された。
重蔵の秦家は、その「上北面」であったと父は言う。
父は常に先祖の氏素性を誇り、秦家の名誉を誇る人であったが、父にあるのは誇りだけで、屋敷にはその日食う米さえなく、畑で作った稗とか粟や、山で採った山菜などで辛うじて食い繋ぐような生活だった。
「北面の武士」は源平の昔には大そうな人気と実力を誇ったらしいが、鎌倉に政権が移って以降、朝廷がその権威を失うに従って衰微した。足利の世には完全に形骸化し、有名無実となってからすでに数十年が経っている。当然だが、重蔵は「北面の武士」の栄光の時代を知らないのである。秦家は重蔵が子供の頃にはどうしようもなく貧窮していたし、血の尊貴さを誇ってみたところで零落した姿を嗤われるか同情されるかするだけで、腹が膨れるわけでも銭が貰えるわけでもなかった。
父は、武士として先祖の名をあげるという夢に生き、その夢のために十四年前に死んだ。「応仁の乱」以後、戦乱が続く京のどこかの戦場で討ち死にしたらしい。らしいというのは死体すら帰って来なかったからで、正確には行方知れずと言うべきなのだろうが、多くの戦死者がそうであるように、身ぐるみを剥がれて鴨川の河原にでも捨てられたのだろうと重蔵は思っている。
父の二年後には母が病で死に、重蔵は十七歳でまったく家族を失った。兄弟はおそらくいない。物心つく以前に死んだり売られたりした兄や姉はいたかもしれないが、少なくとも重蔵は知らない。親戚くらいは何処かにいるのだろうが、それも系図の上だけのことで、重蔵は会ったこともない。
――上北面の秦家は滅びたのだ。
そう思うといっそサバサバして、秦という重々しい姓も捨てる気になった。重蔵はそれ以後、羽田と名乗っている。
重蔵の手元に残ったのは父から貰った太刀と脇差と、家に代々伝わっていたという古びた数巻の巻物と数冊の書籍――それだけだった。家にさして愛着もなかったし、そのまま田仕事で一生を終える気にもなれず、掘っ立て小屋のような屋敷とわずかな田畑を売り、重蔵は身ひとつで京の都へ上った。
生きるためには喰わねばならない。父から弓馬刀槍の初歩と家伝の剣術を叩き込まれていたから、戦場に出さえすれば何とかなるだろうと思った。父のように武士として名をあげようとか出世しようとかは考えなかったが、重蔵は剣の振り方くらいしか知らなかったから、他に選択肢はなかった。
京では細川氏や大内氏といった大大名がそれぞれの将軍を担ぎ、いつ果てるとも知れない戦乱を繰り返している。まったくどうしようもない世の中ではあるが、そういう世であるからこそ、重蔵のような人間が飢えずに済んだ、とも言える。京の周辺は常に戦場であり、足軽稼ぎの口ならいくらでもあったのである。そこで重蔵は集団で行う足軽の戦闘という現実に直面し、己の技の無力を思い知らされたわけだが、それでも身に付けた技のお陰か生き残ることはできたし、足軽をやってさえいればとりあえず喰うには困らなかった。
ところで、京には「京流」とか「京八流」とか呼ばれる兵法の流派が古くからある。本当に八流派あったのかは判らないが、少なくともその一流である「吉岡流」は代々足利将軍家の兵法指南役として栄えていて、京の今出川に「吉岡兵法所」という道場まで開いていた。
「京流」は天狗が生み出した兵法と伝承されていて、鞍馬山での修行時代、牛若丸と呼ばれた義経がそれを学んだという伝説があり、「鞍馬流」とか「義経流」とかの名でも知られている。天狗とは、おそらく修験者、山伏といった連中のことであろう。源平時代の「北面の武士」たちがこの兵法を学び、武芸の技を練っていた――のかどうかは知らないし、確かめようもないのだが、重蔵の家にはその「義経流」と謂われのある剣術の型が代々伝えられていて、重蔵は物心つく前からそれを父に叩き込まれた。
それが本当に義経が学んだ剣術である――と、重蔵が信じていたわけではない。重蔵の家には剣術の型がいくつか伝わっており、それはそうした由来のものであると伝承されていて、三百年に渡って代々そう信じられて来た、というだけのことである。
――わしの剣術とは、どういうものであるのか。
その事は、昔から純粋に興味があった。
それを知るには、同じ根を持つ「京流」の技を知り、重蔵の技と比較するのがもっとも早いであろう。重蔵は足軽稼ぎの合間に「吉岡兵法所」に出入りするようになり、また鞍馬山や醍醐山といった京周辺の修験の山に足を運んで修験者と接し、古くから伝わる兵法を自分なりに研究しつつ、己の剣の技を磨いた。
「吉岡兵法所」は単に剣術の道場というわけではなく、槍、薙刀、柔術、弓術などの武芸に加え、軍略の研究も盛んに行われていた。古今の合戦を調べ、その勝因敗因を分析したり、あるいは『孫子』、『呉子』といった唐土の兵法書を訓読したりして、軍の動かし方、戦法、軍略などを議論するのである。
幼い頃から厳しい父に武士としての教育を施された重蔵は、拙いながらも漢文の読み書きができる。初めて接した軍学は、机上の空論とはいえ非常に面白かった。もちろん重蔵が軍勢を率いることなどあり得ないし、軍学を身に付けてどうなるという話でもなかったが、強く惹かれるものを感じたから熱心に学んだ。剣の道で生きてゆくことに迷いを抱いていた重蔵は、そちらに逃避していたと言えぬこともない。
そんな暮らしを七、八年は続けただろうか。
修験者に関わっているうちに、重蔵は司箭院 興仙という男の名前を知った。
司箭院 興仙――本名を宍戸家俊と言う。
一種の怪人である。
興仙は二十年ほど前に突然京に現れた修験者で、薙刀術、剣術、柔術、杖術、弓術など武芸百般に通暁し、さらには神業のような魔法を修し、飛行自在の術まで使うという事で世の評判を取った。
時の幕府管領・細川政元は、幕政を牛耳って絶大な権力を握り、足利将軍の廃位さえ行って『半将軍』と謳われたほどの大物だが、どうしたわけか修験道に凝り、自ら魔法を行ったという風変わりな人で、興仙の霊験を聞いてその弟子になっている。興仙は細川政元に仕え、「第一の家臣」と呼ばれるほど寵遇された。
いわゆる「永正の政変」でその細川政元が暗殺されたのが十年前である。<*注1>
興仙はその後も三、四年ほどは京の周辺に居たようだが、近頃はその消息をまったく聞かなくなった。一説には故郷の安芸国に帰ったとも言う。
重蔵は京の愛宕山で偶然にこの高名な修験者の話を聞いたのだが、興仙の使う技が「義経流」の兵法であると知って、俄然興味を持った。
――興仙という人に教えを乞えば、「義経流」兵法の真髄に触れられるのではないか。
そう思った。
別に魔法を使いたいとか空を飛びたいとか思ったわけではないが、「義経流」を極めたという先達に師事し、研鑽を積めば、必ず得るものがあるだろう。自分の裡にある迷いを吹っ切る契機になるのではないか――
興仙――宍戸家俊は、安芸の豪族・宍戸氏の一族で、当主・宍戸元源の弟であるという。あまり詳しくは知らないが、宍戸氏は安芸の豪族たちと共に大内義興の上洛戦に従軍し、四年ほど在京して各地の合戦で戦っていたから、常に大内氏の陣営で足軽稼ぎをしていた重蔵は、宍戸元源という勇将の名前くらいは聞いたことがあった。
ちなみに大内義興は現在も幕府の管領代として京に居座り、幕政を牛耳っているが、安芸の豪族の多くは六年前の「船岡山の合戦」を最後に続々と国許に帰ってしまっていて、宍戸家の人間も京には残っていないはずだ。
――安芸へ行ってみるか。
京では「船岡山の合戦」以来大きな戦がなく、重蔵にとっては景気が悪かった。京にしがみ付いていなければならない理由もない。
瀬戸内海に沿って山陽道をひたすら西に進み、摂津、播磨、備前、備中、備後と歩けば、次が安芸である。道々、国々の寺社・仏閣、名所旧跡などを訪ね、古今の戦場を我が目で見て廻りながら旅をするのは悪くない。懐には足軽稼ぎで貯めた銭があるから、二月や三月なら飢えの心配はないであろう。
――よし、決めた。
重蔵はそうして京の都を離れ、旅に出た。
が、この思惑はまったく無謀だった。
重蔵はせいぜい京の周辺の二里四方しか世間を知らず、西国に土地勘もなく、知人もなく、おまけに旅の知識もない。街道筋はニ里も歩けば必ず関所があり、手形を持たない重蔵は通行するたびに銭を取られてしまうから、さして多くもない持ち金はたちまち目減りした。山の民や修験者などが使う山越えの道なら関所はないのかもしれないが、土匪(賊)に会わぬとも限らないし、そもそも重蔵はどの道がどこに繋がっているのかさっぱり判らない。山里育ちの重蔵は山の怖さは知っており、迷ったら命が危ないということくらいは心得ている。
――甘かったな。
そろそろ三十路も近いというのに、己はあまりに世間を知らぬ。京を離れてみて、その事に初めて気付かされた。銭をケチらず堺あたりから船便を利用するか、京で西国に向かう修験者なり連歌師なりを探して、ついて歩かせてもらえば良かったと気付いたが、後の祭りである。
周防国山口へ向かうという旅芸人の一座と行き会うことがなかったら、おそらく重蔵は備前あたりで立ち往生するハメになったであろう。
「ほうほう、ご浪人さんは剣術を使いなさるかい」
座長の文五郎という四十男の計らいで、芸として剣術を披露する事と荷担ぎや雑用などの仕事をする事を条件に、重蔵は一座と行動を共にさせてもらえる事になった。
一行は、美濃国青墓宿(重蔵はそれがどこにあるか知らないが)を根城にしている旅一座で、傀儡子(人形遣い)、放下師(奇術師)、猿回し、歌舞をする女など、総勢三十数人の大所帯であった。在所在所の有力者の膝元で小屋掛けして興行し、銭を稼いではまた次の在所へと向かう。大名小名の城下町や大寺社の門前町といった都市部は稼ぎ所で、数日腰を据える場合もあり、その間、女たちは求められれば権力者や有徳人(金持ち)の夜の伽も務める。
重蔵は「天下無双の剣術使い」などと偽りの看板で大仰に囃され、居合いの技を見せたり、飛び入り客と木刀で勝負させられたり、それを賭けの道具にされたりした。謳い文句がいかにも挑発的だから、売名を目論む旅の兵法者や地元の無頼漢に勝負を挑まれるようなこともあった。歴とした武士や「本物」の兵法者は旅芸人ごときに関わらぬもののようで、幸いなことに重蔵が負けてしまうほどの手練には出会わなかったし、素人の客に大怪我を負わせるようなヘマもしなかったから良かったが、後になって考えれば、ひとつ間違えば大変な事態になっていただろうと思わぬでもない。
日にニ度の飯は食わせてもらったが、基本的に無報酬だったから、本当のところは騙されてこき使われたというだけかもしれない。けれど重蔵はそれで少しも文句はなかった。これまで知らなかった世の中の裏側を見ているようで面白かったし、何より銭と飯と寝床の心配をせずに旅ができるのは有り難かった。
移動は何とものんびりした速度である。重蔵が京を出たのは永正十四年(1517)の桜が散る頃であったが、気が付けば夏も過ぎ、秋と呼ぶべき季節になっていた。天候に恵まれさえすれば船で三日で済む距離に、三ヶ月以上の日数が掛かったわけである。それでも、ともかく安芸へと無事に辿り着くことができた。
廿日市の町で打った興行を最後に、重蔵は一座と別れることにした。
座長の文五郎は、この旅の間に大そう重蔵を気に入ったようで、
「我誇りで粗暴なだけって奴が多いから、俺ぁ兵法者って連中はあまり好きじゃなかったんだが、あんたぁ人柄が好いよ。このままウチに居て貰いてぇくらいだ」
そう言って何度も引き止めてくれた。
――それも悪くない。
馴染みになった女も居たし、笑い声が絶えぬ一座での日々は快適で、足軽稼業よりよほど性に適っていた。諸国をこうして旅する人生も面白いと思ったりもしたが、しかし、いざとなると不思議と兵法へのこだわりを捨てることができなかった。
重蔵の意志が変わらぬと知ると、
「どこに居たって同じ空の下だ。生きてさえいりゃぁ、またどっかで会うこともあるでしょうよ」
文五郎は餞別に多少の銭をくれた。
この文五郎というのも不思議な男で、身ごなしに隙がなく、教養もありそうであり、男ぶりも好い。とても卑賤の出とは見えず、武家の出ではないかと重蔵は直感したのだが、一座の誰に聞いてもその素性はまったく知れなかった。
ともあれ、いつかの再会を約して一座と別れた重蔵は、廿日市から広島へと少し道を戻り、太田川に沿って北へ足を向けた。
――安芸では孫次郎殿を頼ろう。
安芸にはただ一人、重蔵の知り合いがいる。熊谷孫次郎という男で、大内義興の上洛に従って京へ従軍した安芸の豪族・熊谷氏の家臣である。「戦場では兵法なぞは役に立たぬ」と剣術に見向きもせぬ武士が多い中で、孫次郎は珍しく兵法に関心があり、在京した四年ほどの間に何度も「吉岡兵法所」に足を運び、熱心に剣術を学んでいた。重蔵とはそこで知り合い、年が近いこともあって打ち解けた。型を指南してやったり稽古相手を務めてやったり、時には連れ立って遊女屋で酒を飲んだりした間柄である。剣の筋はさほどでもなかったが、よく笑う人柄の爽やかな男だった。六年前は二十五、六であったから、現在は三十一、ニということになろう。
熊谷氏は安芸の有力豪族で、安芸郡の北部――可部の高松山城(広島市安佐北区可部町)に本拠を置いている。
地元の領民に聞けば屋敷の場所はすぐに判った。熊谷孫次郎は当主・熊谷 民部少輔 元直の縁者であるらしく、城下の一等地に立派な屋敷を持っていた。
重蔵は孫次郎がこれほどの武士とは知らなかったから、広壮な屋敷を前にして多少の気後れや不安もあったのだが、思い切って訪ねてみると、幸いなことに孫次郎は在宅しており、重蔵が驚くほどに再会を喜んでくれた。
「朋有り、遠方より来たる、とはこの事じゃ。わしが京へ再び上るということでもない限り、二度と会えぬお人と思うておった」
名もない素浪人に過ぎぬ自分を、孫次郎は家を挙げて持て成してくれたから、重蔵はえらく恐縮した。
重蔵の腹づもりでは、孫次郎から安芸の政情を聞き、宍戸氏が拠るという安芸北部の地理なども教えてもらい、宍戸家中に知人が居るようなら紹介状でも書いてもらい、居ないならどこかに伝手を探す便宜を計ってもらいたい。
酒を飲みながら話をしてみると、重蔵が探している男を孫次郎はよく知っていた。
「厳島神領家には懇意の兵法者が幾人かおるんじゃ。神人とか修験者とかいう輩は兵法を齧っておる者が多いでな。その連中から聞いた。細川政元殿の側近であったというのには驚かされたが・・・・。その興仙――宍戸家俊か、何でも若い頃、誰それ言う師匠について兵法を学び、二十年ほど前に厳島神社に参篭し、厳島大明神の神託を得て京にのぼり、修験の山で修行して、兵法の蘊奥(極意)を極めたという話じゃ」
「二十年ほど前・・・・。宍戸家俊殿とはお幾つなのですか?」
「宍戸雅楽頭には深瀬の隆兼という舎弟がおると聞く。そのさらに下の弟というのであれば、おそらく不惑を越えてはおるまい」
「三十代ですか・・・・!」
重蔵は仰天した。宍戸元源の年齢など知らなかったから、それほどの若さとは思いもしなかったのである。飛行自在とか魔法に堪能とかいう印象が強く、それこそ仙人のような老人の修験者を勝手に想像していた。
「しかし、宍戸の甲立へ往くというのは・・・・」
そこで孫次郎は罅の入った鬼瓦のような面相を歪め、難しい顔をした。
「いま、安芸はややこしいのじゃ」
と、孫次郎は言う。
重蔵の認識では、安芸は大内氏の属領で、守護の武田氏をはじめ、熊谷氏、宍戸氏、吉川氏、毛利氏、高橋氏、小早川氏といった安芸の豪族たちは大内義興の上洛戦に揃って従軍していたから、いわば味方同士であると思っていた。
しかし、実情はどうもそうではないらしい。
「安芸の北におる毛利と吉川というのが厄介でな。さほどの力もないが、安芸の九家の豪族を纏めて国人一揆(豪族連合)の盟約を結び、安芸のご守護たる武田殿の言うことを聞かんのだ。我が熊谷家は、ご守護殿の第一の盟友だからな。この数年、国人一揆の連中とは諍いが絶えん」
「では、宍戸もその国人一揆とかに加盟しておるのですか?」
「いや、宍戸は宍戸で、我こそが安芸の守護であるというような顔をしておってな。国人一揆とは争うておるが、ご守護殿にも従わぬ。備後の三吉と結んで、毛利、高橋なんぞと合戦をしておるらしい」
どうも一筋縄ではいかぬようだ。
よくよく話を聞いてみると、安芸の騒乱は、そもそも厳島神領家の家督相続争いが発端であったらしい。安芸の守護である武田元繁がこれに介入し、さらに大内義興から離反したことで事態が大きくなった。
武田元繁は西国の雄・大内義興に服属を強いられ、その下知によって京に出張っていたわけだが、厳島神領家に相続争いが起こるや、その鎮定を口実にして安芸に帰国した。大内義興が在京している隙をついて、大内氏からの独立と安芸一国の制覇を目論んだ、というあたりがその真相であろう。
反大内の旗幟を鮮明にした武田元繁は、大内氏から貰った嫁を離縁し、出雲の強豪・尼子経久と結ぶや、大内方の豪族を次々と攻め、勢力を拡大したのだと言う。
大内義興にすれば、飼い犬に手を噛まれたようなものであったろう。当然これに激怒したが、京の幕府政権は大内義興の威望と兵力と財力とで保っているようなものだから、自身は京を離れられない。已む無く、毛利氏、吉川氏など安芸の豪族たちを京から帰国させ、叛いた武田元繁を討つよう命じた。安芸に戻った毛利氏の毛利興元、吉川氏の吉川元経らは、安芸の大内方の豪族を国人一揆という形で連合させ、守護である武田氏に対抗したのである。
「なるほど・・・・」
重蔵は安芸の歴史に詳しくないからここ数年の表面的な理解しかできなかったが、およそ乱世の典型のような話だと思った。
「実は去年、その毛利興元が病で死んだ」
孫次郎は口元だけでニヤリと笑った。
安芸国人一揆の盟主的な存在であった毛利氏の当主が若くして病死し、ニ歳の嬰児が家を継いだのだと言う。
「国人一揆は、安芸の北の豪族と南の豪族とをくっつけておった膠を失い、力を弱めたわけじゃ。ご守護殿は、この機に毛利、吉川を一息に攻め潰すお肚であるらしい。この冬までには大きな戦があるぞ」
「ほう――」
「重蔵殿、どうせ北へ往くつもりなら、来年の春まで待ってはどうか」
孫次郎の提案に、重蔵は首を傾げた。
「春まで――ですか」
「戦がいつ始まるかはハキとは判らぬが、そう先の話ではない。始まってしまえば道の往来などはできぬから、往くなら今のうちに発つしかないわけじゃ。冬は安芸の山奥は道が雪で閉ざされようから、旅には向かんしな。じゃが、何の伝手も方策も持たずに宍戸の城下に着いたところで、立ち往生になるかもしれん。その宍戸家俊は消息が知れず、いま国許におるかどうかさえ判らぬのであろう?」
「まぁ、それはそうです」
「毛利が滅び、吉田がご守護殿の手に落ちれば、宍戸の五龍城は目と鼻の先よ。毛利、吉川が滅べば、宍戸雅楽頭もご守護殿に従うようになるやもしれんし、そうなれば話はぐんと早くなる。我が殿はご守護殿とは義兄弟の契りを結んだほどの間柄じゃ。宍戸にも話が通せるじゃろう」
「ふぅむ・・・・」
重蔵は腕を組んで考え込んだ。
宍戸家俊の事もあるが、それより「大きな戦」という言葉には心惹かれるものがある。安芸でそれが行われるなら、この眼で見てみたいという好奇心である。
京で行われる合戦と言えば、足軽同士の小競り合いがそのほとんどと言っていい。大内氏、細川氏の双方が雇っている足軽同士が殺し合うだけで、本物の武士が大合戦をする様子は実際のところあまり見られない。
安芸の守護・武田氏が、その威信を賭けて行う国取りの戦とは、どれほどの規模であるのか。安芸の武士たちはどのように戦うのか。陣立ては? 軍略は? 城攻めの方策は? そう考えると興味は尽きない。
「この家にはいつまでおってくれても構わぬぞ。我が屋敷と思うて使うてくれればよい。共に剣を磨いた友垣じゃ、遠慮はいらぬ。あぁ、そうじゃ、どうせならわしの家来にも剣の手ほどきをしてやってくれんか。おぬしほどの手練に仕込んで貰えれば、わしが教えるよりずっと腕が上がろう。そうなれば合戦で我が手勢の手柄も増えよう。わしも大いに助かる。――あぁ、こりゃ名案かもしれんな。そうせい、そうせい」
孫次郎は重蔵の肩を叩き、豪快に笑った。
何となく言い包められたような気がしないでもないが、興仙――宍戸家俊の消息を確かめねばならぬのは事実だし、どうせ急ぐ旅でもない。流されるままに往くのも、また面白かろう。
「・・・・判った。ならばしばらくご厄介になろうか」
「おぉ――!」
孫次郎は厳つい顔をくしゃくしゃにして大いに喜んだ。
「よし、そうと決まれば今宵は大いに飲もうぞ。昔の思い出も語り合いたい。近頃の京の話も聞きたい。おぬしが旅した国々の様子なぞも聞かせてもらわねばならぬ」
酒豪の孫次郎に明け方までつき合わされ、翌日の重蔵はひどい二日酔いに苦しめられることになった。
<*注1>
「永正の政変」とは、永正四年(1507)に細川政元が暗殺された事件を指す。室町幕府管領・細川家(京兆家)の内訌である。
第十代将軍・足利義材を廃立し、強大な権力を握った管領・細川政元には子が無く、澄之、澄元、高国という三人の養子を迎えていたのだが、澄之を擁する家臣団が政元を湯殿で暗殺し、澄元を近江へ追い、細川家の家督を奪った。
高国は在京の有力者と語らい、澄元を細川家の家督に擁すことを決め、近江で味方を募って上洛した澄元と共に澄之方を攻めて滅ぼし、澄之を自刃させた。
その後、政元が廃立した足利義材が大内義興の武力を頼って上洛し、細川澄元と対立するや、高国は澄元から離れて大内義興と結んだ。澄元を再び近江へと追い、高国が細川家の家督の座に就いたのである。近江へ逃れた細川澄元は再び味方を募って勢力を蓄え、京の再奪取を目論んだ。
大内義興が参戦したことによって細川家の内紛に足利家の将軍後継争いや幕府内の権力争いが加わり、京や近江などを舞台に泥沼の戦乱が繰り返されることになった。