新たなる船出(五)
大内軍の出陣が近い、という意味のことを、その使者は言った。
「様々な筋からもたらされた報せによれば、周防の山口では戦さ支度が忙しく、大内はこの春にも大軍を動かす気配であるとのこと。出陣の期日まではハキとはわかりませぬが、先年のように雪解けと共に動くか、遅くとも田植えが終わる頃には、出陣ということになりましょう」
「なるほど、ありうべき事だ」
元就は静かにうなずいた。このまま安芸の支配を尼子経久に任せてしまうつもりは、大内義興には微塵もないであろう。奪われた鏡山城を奪回すべく、雪解けと共に再び動き出すことは十分にあり得る。
「昨年のように、鏡山城を巡る攻防になると、お屋形さまは見ておられるのか」
「それは左京大夫(大内義興)の打つ手次第でありましょう。武田の銀山城を先に攻め取ろうとするなら、お屋形さまは武田を援けるため、佐東へ兵馬を進めることになろうかと」
使者は冷静な観測を述べた。
鏡山城がある西条まで大内軍が出向く場合、銀山城の武田氏をそのままにしておいては背後に大きな敵を抱えることになる。村上海賊衆が大内氏と協力関係にあるから、広島湾を除いて瀬戸内の制海権はほぼ大内側にあるものの、糧道と退路に不安を抱えたままでは、強大な尼子軍と腰を据えて戦うことは難しい。大内義興が、着実に足場を固めつつ進むことを択ぶとすれば、まず廿日市の桜尾城を取り、太田川河畔にそびえる己斐城(平原城)を潰し、太田川河口に陣取る海賊衆の白井氏を降参させて、広島湾の制海権をまず押さえるというのが手順であろう。その先、武田氏の銀山城へ兵を向けるか、銀山城には抑えの兵を置き、太田川を越えて西条へ進むかは、大内義興の選択次第である。
「いずれにしても、お屋形さまは大内の安芸討ち入りに合わせて自らお馬をお出しになり、左京大夫と雌雄を決せられるご所存。毛利家の方々には、抜かりなく兵馬と糧食を調え、お屋形さまのご出馬をお迎えなさるべし」
「しかとうけたまわった。私は必ずお屋形さまに馳走する。そのように能登守さま(亀井秀綱)までお伝えくだされ」
元就がそう明言すると、正副二人の使者はそそくさと郡山城を辞し、芸南の豪族たちにこの動員令を伝えるべく南方へと去った。
元就はただちに老臣と重臣を招集して評定を開き、尼子氏から参陣要請があったことを伝え、陣触れがあり次第すぐさま長期の外征に出られるよう、抜かりなく戦さ支度を調えておくことを厳命した。
昨年そうだったように、尼子軍は石見の高橋領を通って芸北に入って来るであろう。鏡山城がある西条にゆくにせよ、武田氏の銀山城を目指すにせよ、吉田はその通り道になる。
――早ければ来月にも尼子の大軍がこの吉田にやって来る。
この現実は、志道広良の危機感を強烈に煽りたてた。
その夜、広良は若き主君に内謁し、あえて人払いをしてもらった上で、
「尼子よりの養子入れのうわさ、うわさで終わらぬやもしれませぬぞ」
と深刻な声音で言った。
元就はその言葉をまともには受け取りかねた。
「武威をもって婿養子の縁組を迫り、家主の座を奪う肚だとでも言うのか。経久公はたしかに恐いところのあるご仁だが、いくらなんでもそこまで強引なことはするまい。私はこれまで尼子に楯突いたことはなく、かの人から憎まれる理由がない」
「こちらに理由がないと思うても、どこで誰がどのような理由を構えておるかまではわかりますまい。尼子の力を利用して、奸悪なたくらみを遂げようとしておる者があるかもしれませぬ。我らから見えぬ力が、経久公を動かそうとしておるかもしれませぬ」
政治や軍事において、根拠のない楽観ほど害の多いものはない。大丈夫だろう、などと希望的観測に安座するのは簡単だが、それでは凶事が起きてしまった場合に取り返しがつかないのである。後になって臍を噛まぬためには、常に最悪の展開までを視野に入れ、入念かつ確実に対応の手を打ってゆかねばならない。
「尼子の軍勢が吉田に入るや、やにわに矛を逆さまにし、この城を囲んだとしたら、どうなさる」
広良は恐い顔で怖いことを言った。
いま領内でささやかれている養子入れのうわさが、尼子側の謀略から発したものであるとすれば、そういう展開がまったくありえないとは言い切れないのである。
尼子経久なり亀井秀綱なりが毛利家の乗っ取りをたくらんでいるとすれば、いずれ尼子経久の名で正式に養子入れの打診があるであろう。毛利家とすれば、元就の家主の座を守るためにはその申し入れを拒絶するよりないのだが、尼子側はその拒絶を「毛利家の敵対の意志」であると決めつけ、それを口実にして戦端を開き、毛利家を武力で屈服させるという筋書きである。
言うまでもないが、盟友である高橋氏、吉川氏をはじめ国人一揆の豪族たちは残らず尼子に臣従しており、援軍はどこからも来ない。ひとたび戦さになってしまえば毛利方に勝ち目はなく、戦いがどういう経過を辿るにせよ、おそらく短日月で降伏に追い込まれるであろう。本拠を攻め落とされ「城下の盟」を強いられるという最悪の形であり、そうなれば毛利家を滅ぼすことも、現当主の元就を処断することも退隠させることも、新たな家督として経久の孫を送り込むことも、尼子側の思うままということになる。
が、元就はそういう未来を認めたくない。
「尼子は大内と雌雄を決するために安芸へやって来るのだ。当家を攻めるとなれば、吉田で長く足止めされることになる。それは経久公にとって本意ではあるまい」
そう反論すると、広良は静かに首を振った。
「この城を落とすのに百日掛かると観れば、おっしゃるように経久公も攻めることを躊躇するやもしれませぬな。しかしながら――お怒りを覚悟で申し上げますが――殿の御代はいまだ半年と若々しく、家臣のすべてから心服を得られておるとまでは申せませぬ。たとえ殿が戦えとお命じになったとしても、尼子の武威を恐れるのあまり陣触れに応じぬ者が続出しましょう。我が身可愛さから敵に寝返り、あるいは自ら城門を開いて敵を迎え入れるような不心得者も、必ず出て参りましょう。はっきり申し上げて、とても戦えませぬ」
戦ったところで足止めにもならない。それ以前の問題で、威圧されただけで味方が足元から崩壊する、と広良は言うのである。
当主がひとたび決断すれば、すべての家臣が命を捨てて戦う。重臣から賤臣までが心をひとつにし、一門が団結して、主君と運命を共にする覚悟で徹底抗戦する――。そういう気概と結束力が家臣団に備わっていれば、たとえ万余の大軍が相手でも、恥ずかしからぬ戦いができるであろう。そういう家であればこそ、敵も「事を構えるのは面倒だ」と考える。「戦争」という外交カードを切るのに、より多くの覚悟と準備とが必要になる。敵に与えるそうした印象や影響は立派な「戦争抑止力」であり、それがあるというだけで大名家は重みを増し、政略的にも戦略的にも択べる選択肢に幅ができる。
しかし、現在の毛利家はどうか。
兄の興元が病に斃れてから、元就は長く毛利武士団の総大将として戦さをやって来た。が、それは当主である幸松丸が幼かったからで、「幸松丸の後見」という資格で麾扇を執っていたに過ぎない。この間、毛利に属する武士たちは、亡き興元への忠節と、その忘れ形見である幸松丸に対する憐憫、同情、愛着などを忠義心の核としてきた。彼らは元就の家来であったわけではなく、広い意味での同僚朋輩だったのである。彼らの主君として戦さに臨んだ経験は、元就はまだ一度もなかった。
武家の君臣関係は、主君の「御恩」に対して家来が「奉公」するという互恵的な関係によって成り立っている。言うまでもなく元就は半年前に家を継いだばかりであり、家来たちに掛けてやった「恩」と言えば、幸松丸時代からの領地や利権を新当主の名で安堵してやったことぐらいであった。
「元就さまのためなら命もいらぬ」
と、元就個人への忠誠心から戦ってくれる家臣がどれほどいるであろう。元就の色に家臣団を染め直すには、君臣の一体感を醸成するための期間があまりに短すぎた。
むろん毛利家は長い歴史と伝統を持つ家であるから、一門や譜代の家臣の多くは父祖から仕えている「家」に対する忠誠心や義理によって、あるいは武士として己の美意識を満足させるために、死を賭して戦ってくれるだろう。が、保身に走る者が一人も出ないと考えるほど、元就は能天気ではなかった。
この時代の大名というものは絶対君主ではない。傘下の土豪、地侍たちにとって、主家とは盟主であるに過ぎないのである。毛利家の場合、井上氏、国司氏、中村氏、井原氏、山県氏などが家臣としての歴史が浅い外様出身であり、なかでも井上氏は勢力が大きいこともあって独立心がやたらと強い。彼らは自家の繁栄が保証されるという期待があるからこそ毛利の傘下に入っているわけで、その期待が叶えられぬと見れば、主君を見限って新たな庇護者を択ぶという自衛上の権利を持っていた。主家あるいは主君に対する情義や愛着といった感情を脇に置いて利害だけを論ずるなら、勝ち目のまったくない戦いに自身と一族を投ずるより、自家の保全をまず考えるというのが当然なのである。
尼子の狙いが毛利家の乗っ取りであるとするなら、元就個人が没落することと毛利家が滅びることとは同義ではない。ことに外様出身の家臣たちにすれば、主家が存続するのであれば家督が代わることにさして痛痒を覚えないであろう。そんな彼らに対して、「家主の座を譲りたくない」という元就の個人的事情によって、
「滅びるまで戦え」
などと絶望的な戦いを強いることはできない。よしんば命じたとしても、その命令に応じぬ者、元就を見限って尼子側の意向に迎合する者などが、続出するだけであろう。
――広良の申す通りか・・・・。
現状ではとても戦えない。それが客観というものであった。
戦えぬ以上、戦争を回避して毛利家が生き延びるためには、土下座して和を乞い、尼子からの要求を呑むほか選択肢がないということになる。
「ひとたび戦さになれば、後に和議が成ったとしても、尼子に楯突き、家を誤らせた責任を問われ、執政のそれがしは首を刎ねられましょうな。話がそれで済むならよろしいが、経久公の孫が当家の家督を継ぐようなことになれば、殿は押し込められて逼塞を余儀なくされるか、悪くすれば――申すも憚ることながら――お命を取られますぞ」
殺される――。
にわかには受け入れがたい未来だが、この乱世にはそういう実例が無数にある。あるどころか、元就自身が後にこの策を使って吉川家の家督を自らの次男に継がせ、甥の吉川興経を謀殺してさえいる。他家の乗っ取り――家督を巡る暗闘は、奇麗事では済まないのである。
そもそも大名家の家督というのは、その家の重臣たちの合意の下に相続者が決まる。その正当な当主を無理やり排除し、武家にとって重い価値を持つ血胤の正統を犯してまで人を送り込むのであるから、事前にどれほど周到な内部工作を施したとしても、静穏のうちに禅譲が行われるようなことはまず少ない。主家や主君に対して誠忠な者、倫理的に潔癖な者ほど「正義」の感情を刺戟されて猛烈に反発し、妥協を許さないから、新当主が権力を確立する過程において、謀殺、粛清、叛逆、内訌といった流血をともなうのは、むしろ当然であった。
それはそれとしても、元就にすれば自分が殺されるというのはどう考えても理不尽であり、とうてい甘受できるものではない。憤然と反発を覚えたのだが、この男のおかしさは、直後に我に返り、己の憤りこそが不当であると思い直したことであろう。
――殺されても当然のことを、私はしてきているではないか。
無辜の民草を戦さに巻き込み、無能な采配で兵たちを無駄に死なせた。敵とはいえ謀略で他人を陥れ、その首を刎ねることで自身が生き延びてきた。それが乱世を武将として生きる男の宿命であるとはいえ、どれほどの多くの人々がそのために血と涙を流し、怨嗟と呪詛を自分に向けているであろう。たとえ理不尽な死が強要されたとしても、それこそ因果応報というものではないか。
「ない、とは言えぬな・・・・。たしかに、あり得る事かもしれぬ」
「そのような事態に立ち至ることだけは、絶対に避けねばなりませぬ」
そのためには――と広良は続ける。
「こちらから先手を打って、殿のお覚悟のほどを世に示しておくが上策であると存する」
「覚悟?」
不審げな元就の反応を受け、広良はうなずいた。
「当家の家督は殿のほかにはあり得ぬ。たとえどれほどの犠牲を払おうと、どれほどの血を流すことになろうと、家督については我らは一歩も退かぬ、という決意を、行動によって示すのです。そうすることによって、尼子にこの問題から手を引かせる」
「・・・・どうするというのだ」
「当家に孫を送り込んでも、謀殺されるだけじゃと思わせる。孫を出すことに経久公が二の足を踏むよう仕向けるのです」
尼子経久が毛利家の乗っ取りを考えているとしても、養子に出した孫が殺される危険性が高いと見れば、すぐにそれを行うことはさすがに躊躇するであろう。それで経久が乗っ取り自体を諦めてくれればそれが最上だが、たとえ諦めぬとしても、毛利側の受け入れ態勢をしっかりと整え、「孫にはまず危険はない」という確信が得られるまでは、養子入れの実施を先送りさせることができるのではないか。そうなるように、まず当方の強硬姿勢を見せつけておくというのが、広良の策であった。
「どういう経緯であれ、経久公の孫を殺せば、尼子は当家を敵とせざるを得ず、結果として大内を利することになりまする。経久公にとれば、当家を滅亡させることもさしたる難事ではありますまいが、そういう結果になることが最善であるとも考えますまい。滅ぼすつもりであれば、一昨年の夏にそうしておったはず。大内軍との決戦を目の前にして、当家の家督に下手に手を出して面倒を起こすより、此度はひとまず妥協して殿の頭を撫でておく方が安いと、計量なさるのではありますまいか」
経久の気分がそう傾けば、養子入れの打診そのものを一時的に引っ込めさせることができるのではないか。
「それはわかった。だが、どうやってそう仕向けるというのだ」
苛立たしげに繰り返すと、鈍く光る目で元就を見返した広良は、乾いた声で続けた。
「坂長門(広秀)と相合殿とを、弑逆をくわだてた謀叛人として、討ちまする」
「・・・・!?」
元就はその切れ長の眼を大きく見開いた。と同時に、広良が引こうとしている図面の大要を即座に理解した。
坂広秀が、家督相続権を持つ元綱をかついで謀叛を起こそうとした。それを事前に察知した元就が、先手を打って謀叛人たちを誅戮する。血の粛清を断行することで元就の断固たる意志を内外に示し、その衝撃と恐怖とをもって家臣団の引き締めと再統制を計る。と同時に、「毛利家に孫を送り込んでは命が危ない」と尼子経久に思わせる。
あざといが無駄のない、見事と言えば見事な策である。
が、元就は当惑した。
「・・・・あの二人が尼子に通じたという証拠でもあるのか」
「証拠と呼べるほどの物はまだ掴んではおりませぬ。しかしながら、長門は近頃しきりと桂城や長見山城を訪ね、左衛門尉殿(桂広澄)や太郎左衛門(渡辺勝)などと密談を重ねておる様子。これは憶測でなく、事実でござる。かの者が、尼子を利用して殿を廃する陰謀をたくらんでおるとすれば――」
「待て」
元就は声を荒げた。
「私は先年、坂の隠居殿を自刃させた。長門は私に対して怨みを蔵しておるやもしれぬ。謀叛をたくらむようなことも、ないとは言い切れぬだろう。だが、あの四朗が逆意なぞ持つわけがない。四朗がいかなる男であるかは、そなたもよう知っておろう。つい先日、誓紙まで書かせたばかりではないか」
「相合殿が真実、敵に通じておるかおらぬかは、この際、二の次でござる」
目を据えた広良は顔を紅潮させ、ひとつ大きく息を吸い込んだ。
「この数年、尼子と大内とが当国の覇権を争うことによって、大小名の旗色は目まぐるしく変わり申した。当家においても、人心が尼子で落ち着いたとはとても申せますまい。尼子に臣従したこととは別に、長年にわたって恩を受けた大内に密かに心を残しておる者は、多くおりましょう」
現に自分がそうである、と広良は明言した。
敬愛した伯父を理不尽に殺されている広良は、尼子氏を信じて恃むという気にはそもそもなりにくい。尼子氏に臣従してゆくことが毛利家の安泰と繁栄に繋がるとはどうしても思えなかった。それでも尼子氏に頭を下げたのは、広良の肚の中ではあくまで現形――滅亡を回避するために権謀として一時的に臣下の礼を執ったというに過ぎない。大内氏と尼子氏の戦況次第、安芸の政情次第によっては、尼子氏と手を切ることに未練はなかった。
毛利家は尼子氏に臣従してまだ日が浅く、しかも尼子側の申し次ぎ(外交担当者)である亀井秀綱がこれまで元就や毛利家に対して好意を示してくれたことがほとんどなかったので、物事を見る目に公正さがある広良でさえ、尼子経久という男に対する計量にはやや偏りがある。
――当家に対する尼子の姿勢には優しさも温かみもない。
そういう尼子を主家と仰いでいる限り、毛利家に陽光が当たることはないであろう。それが広良の観測であり、広良でさえそう思っているくらいだから、尼子経久や亀井秀綱に悪意を感じ、密かに反感を抱いている者は、貴臣の中にも賤臣の中にもおそらく少なくない。
これは、陰謀が非常に発生しやすい温床のような政情であると言える。狙っているのは何も尼子氏だけとは限らず、尼子方の豪族を寝返らせたい大内氏にとっても、毛利家の没落や滅亡を望んでいる勢力にとっても、あるいは元就に怨恨を抱いて政権転覆を狙っている獅子身中の虫にとっても、謀略を仕掛けるには絶好の状態なのである。
今回はたまたま尼子からの養子入れのうわさが表面に現れてきているが、その背後にどれほどの陰謀が存在するのか、広良にはまだ見切れていない。流言を広めた首謀者が、尼子氏であるのか大内氏であるのか、あるいはそれ以外の勢力であるのか、それさえわかっていない。たとえば大内氏の側が、毛利家を再び大内方に寝返らせるために、裏切者の元就を廃し、元綱を家督につけるというような謀略を仕掛けて来ていて、その結果として現在のような状況になっているというだけかもしれないのである。加えて言えば、この先、外敵から同じような謀略を受けるたびに、今回のように家中が動揺し、人間に疑心暗鬼の瘴雲を生じさせ、内訌の危機を招いているようでは、どうにもならない。
「我らがいま本当になすべきは、殿の下に家中の人心を一枚岩にまとめることでござる。殿をお支えする群臣の土台をしっかり固めることさえできれば、いかなる難事が起ころうとも恐るるに足りませぬ」
いま必要なのは、何よりもまず元就の政権基盤を盤石にすることであり、そのために元綱と坂広秀を殺すことが必要なのだ、という意味のことを、広良は強調して繰り返した。
「半年前のことを思い返してくだされ。嫡統である殿が家督を継ぐことを喜ばず、脇腹にも関わらず相合殿こそ家主に相応しいと考える者が、少なからずおりましたろう」
それは何も下士、賤臣に留まる話ではなく、老臣や重臣の間でさえ同様である。家中のすべての者が元就の家督相続を支持したわけではなく、忠誠を誓う誓紙を取った老臣の中にさえ心から元就に心服してない者がある。元就の新体制を喜んでいないのは、何も坂広秀に限った話ではないであろう。
広良に言わせれば、元綱自身に反逆の意志があろうがなかろうが、そんなことは大した問題ではない。武勇に優れ、士心を得、家を背負えるだけの器量を有した人間が、家督相続権まで持っているということ自体が問題なのである。流言を撒き広めようとする者にとって、あるいは叛逆や内訌を指嗾する者にとって、元綱はこれからも格好の道具になり続けるからだ。元就の家主の座は、その元綱を殺し、他の選択肢をなくすことによって、はじめて揺るぎないものになる。家のためであれば弟さえ粛清するというその峻厳さは、どこかで元就を軽く見ている家臣たちの気分を引き締め、その統制力と統帥力とを飛躍的に強化させるであろう。同時に他勢力からの謀略を防ぐことにもなり、尼子氏に養子入れを強行せぬよう警告することにも繋がる。まさに一石四鳥の効果であり、元綱をそのための人柱にするというのが、広良の策の要諦であった。
悪辣さを秘めたこの策は、いわば劇薬である。元就の威徳と福徳とをもって家臣団の体質改善を図っているような時間的余裕はない。事がややこしく拗れてからでは取り返しがつかぬことにもなりかねない。家中の人心に対する悪影響という副作用を覚悟してでも、この難しい政局を乗り切るために、さらに毛利家の今後のためにも、この機会に病根そのものを壊死させておく方がよい、と広良は判断したわけである。戦国乱世の政争のなかで半世紀にわたって胆知を練り上げてきたこの男は、当然ながら筋金入りの現実主義者であり、政治目的の重さによっては権謀術数を用いることもあえて排除しないという意味で冷徹なマキャベリストであった。
広良の真の狙いとその論の正しさを元就は理解したが、無実の罪を着せて家臣を粛清するなどということは、感情がそれを許せない。まして生贄の祭壇に捧げるべき人間が、血を分けた弟というのでは・・・・。
「当家にとって、そして殿にとって、害毒となり得る芽は、早々に摘んでおくに如かず。それが『転ばぬ先の杖』というものでござる」
「そんな杖なら私は要らぬ」
元就は吐き捨てるように言った。
元綱には何の怨みもない。それどころか磊落で爽快なその気質を元就は愛してさえいた。抵抗を感ずるのも当然であろう。
「殿!」
「そなたの意図するところはようわかった。あるいはそれがもっとも賢いやり方であるのやもしれぬ。だが、謀叛の確かな証拠を掴んだというならともかく、あるかないかもわからぬ将来の危難を恐れるあまり、罪なき者を断罪するような真似ができるか」
怒鳴るような主君の語気を受け、広良は不満そうに口を結んだ。
この潔癖さは元就の青臭さであったろう。政治家、謀略家として劫を経てゆくにつれ――いわば自身が汚れてゆくにつれて、この種の甘さは見られなくなるのだが、この時の元就はまだ二十八歳の――家を背負ってまだ半年の――青年でしかない。
――他に何か策はないのか・・・・!
どうすれば外からの不当な干渉を跳ねのけることができるか。どうすれば尼子のような大勢力から毛利家と自分を守ることができるのか。現状の毛利家や自分にそれが不可能であるなら、どのように変わればそれが可能となるのか――。
これはやや余談になるが、このときから元就は、毛利のような小勢力が尼子氏クラスの大勢力を相手にして戦うにはどうすれば良いかということを、現実問題として真剣に考え始める。
それが端的に顕われているのが、この頃から始まる郡山城の大改修であろう。
この当時の郡山城は、郡山の南東尾根に築かれた現在「旧本城跡」と呼ばれる地域のみの規模で、いかにも小豪族の本拠にふさわしい吹けば飛ぶような小城であった。元就は、圧倒的な大軍を相手にしても長期の籠城戦に耐えうるよう、郡山全山を要塞化することを決意した。郡山の山頂を本丸とし、そこから放射状に伸びる尾根に大小併せて二百七十にも及ぶ曲輪や小砦、削平地を置き、要所に空堀、堀切りを穿ち、土塁を積み上げ、櫓をあげ――ついには城域が約一キロ四方にもなる西日本でも屈指の山城を築きあげるのである。
その拡張工事は長い年月をかけて執拗に続けられることになるのだが、元就のこの長期構想とたゆまぬ努力は、この十六年後に起こる「吉田郡山城の戦い」において結実する。尼子経久の嫡孫・詮久(後に晴久と改名)が率いる三万余の大軍を引き受け、約百日に及ぶ籠城戦を戦い抜き、元就はついに勝者となるのである。さらに付け加えれば、その勝利は、毛利家を安芸の盟主の座へと押し上げ、「戦国大名」として大発展するまさに契機となった。
が、むろんそれはまだ先のことで、このときの元就は、外圧を実力で跳ね返せない毛利家の非力さと、広良の策に代わるような妙案や奇策を思いつけぬ己の無能さに、打ちひしがれていただけである。「力」がないということが、無性に腹立たしかった。
無言の主君を黙って見つめていた広良が、長い沈黙を破った。
「ご不興はごもっとも。この老骨も、当家と殿のことを想えばこそ、お怒りを覚悟で愚見を申し上げました。しかしながら、此度の養子入れのこと、これが尼子の策した陰謀であるとすれば、手をこまねいておれば命取りになりかねませぬ。尼子の軍が吉田にやって来る前に、養子入れのたくらみを掣肘する何らかの手を打たねばなりますまい」
どれほど厭でもどんなに辛くとも、やらねばならぬことはやらなければならない。決断すべきときには決断せねばならない。人の上に立つ者の、それが責任であると、広良は言外で言っている。
「謀叛人の有無、その証拠については、急ぎ掴むよう努めまする。では――」
下がろうとする広良の背に向け、元就は力なく声を掛けた。
「ありもせぬ証拠をねつ造するようなことだけはするな」
「・・・・御意」
振り返った広良は深く頭を下げた。
不穏で不快なうわさが吉田の城下を覆っている。
それは「毛利家の姫に尼子から婿養子を迎える」という虚説が核となって様々に憶測されたものであり、あるいは最初からねつ造され流布されたものでもあった。はじめのうちは何の責任もない庶民たちの間で面白半分に語られていたのだが、薄暗く湿った場所を好む隠花植物のように繁茂し、いつしか毛利家の下士たちの間でさえ公然とささやかれるようになっていた。
「――出雲のお屋形さまのご令孫が当家に養子に入って家督をお継ぎになり、殿はご退隠を迫られることになるらしい。若いご養子の後見を相合殿が務めなさるについては、すでに尼子の側と話がついておるというぞ」
「――殿に『不慮の事』でもあれば、次に家督を継ぐのは悦叟院さま(毛利弘元)の血を引く相合殿しかあるまい。出雲のお屋形は、相合殿を使って殿を除こうとなさっているのではないか」
「――いや、それは大内のお屋形の策謀であろう。相合殿をそそのかして謀叛を起こさせるつもりなのじゃ。そうと知った出雲のお屋形は、当家を大内方に寝返らせぬために、ご令孫を家督につけるお肚なのじゃろう」
「――わしは、坂殿と渡辺殿らが相合殿をかついで、近々謀叛を起こすというようなことを聞いたぞ」
「――殿は相合殿の叛意をお知りになり、かえって相合殿を誅殺なさるお肚を固められたらしい」
「――御兄弟が争うようでは、お家はこれからどうなってしまうのじゃ・・・・」
「――いずれにせよ、大内、尼子の大軍が安芸にやって来た折りに、必ず何事か大事が起こるに違いない」
いくつかの小さな疑惑の芽が、成長して毒々しい不安の花を咲かせていたのである。
元綱にせよ重蔵にせよ、相合の屋敷に篭りがちで外部の人間との接触が少ないので、晩冬から流れ始めたそのうわさの存在を知ったのは、よほど遅かった。
元綱らの耳までそれを運んだのは、近侍の青年たちである。
先にも触れたが、この時点で元綱は家来を養うための領地を持っておらず、近侍の青年たちは元綱付きではあるが正確には元綱の家来ではない。彼らは交代で相合の屋敷に詰めているだけで、非番の日は自家で暮らしている。彼らが元綱付きであることは周知のことだから、周囲からある種の「つんぼ桟敷」に置かれていたという点は変わらないが、それでも外で暮らしている分だけ庶民の声が聞こえやすい。
おずおずとそれを報告した青年に向け、元綱は珍妙な顔をした。
「俺が謀叛?」
「そのような根も葉もないうわさが流れておるようなのです」
「俺が兄者を討って家督を奪うというのか」
まるで身に覚えがないだけに、失笑するしかない。不審顔で首をひねった元綱は、すぐさま屋敷裏の船山にのぼり、輪番で砦を守っている下士たちに話を訊いてみた。
驚いたことに、居合わせた雑兵のほぼすべてがうわさの存在を知っていた。直接に元綱と接する彼らは、当然ながら元綱の人となりをよく知っており、元綱の様子や生活態度にそれらしい変化がまるでないこともわかっているから、そんな妄説を誰も本気にしてはいなかったが、他愛ない虚から抜き差しならぬ実が出ることもある。不穏なうわさが元綱に何かしら悪影響を及ぼすのではないかと、大なり小なり心痛していたらしい。
その夜、元綱はゆきや幸にも同じことを訊ねてみたが、返ってきた答えは似たようなものだった。うわさには多くの亜種があるようで、そのうちのいくつかが耳に入っていたという。知らぬは亭主ばかりなり、とはよく言ったものである。
――火のないところに煙を立てた者があるわけか。
元綱と兄との仲を裂き、家中に疑心暗鬼の不協和音を生じさせるための離間策であろうか。だとすれば、流言を放ったのは大内氏か、あるいは尼子氏か――。
「わからん。というより、考えるだけ無駄だな」
土台が根も葉もない虚説である以上、その上に推論をどれほど構築したところで真実に辿り着けるはずがなく、まったく意味がない。
「しょせんは実のない虚説だ。そのうち収まるから、そう気に病むな」
幸が心配そうに顔を曇らせたので、元綱はあえて気軽に言った。
が、事態は元綱が予想したよりはるかに深刻なことになっていたらしい。
元綱がそれと気づいたのは――その数日後――兄の元就が何者かに襲われたという話を聞いたときである。
この時期――大永四年(1524)の三月下旬は、現在の暦の五月上旬に当たり、晩秋に植え付けた二毛作の麦がそろそろ収穫できる時期であった。それは同時に、次の田植えのための田起こしの時期でもある。この春は、大内軍がいつ軍事行動を起こしてもおかしくなく、つまり毛利の領民たちも、いつ軍役に動員されるかわからないという事情があって、なるだけ早期の麦の収穫と次の田植えを百姓たちに奨励していた。新領主である元就は、これまで繋がりのなかった領民たちに親しみを持ってもらうためと、農作業の進捗状況を確認し、百姓たちの働き振りを直に見、それを激励する意味もあって、領内の村々をひとつひとつ巡視していたのである。
毛利の領国は南北に長い。吉田から南西に三里――熊谷氏との境界に近い八千代という地に元就が赴いたときに、その帰路の夕闇のなかで、土匪の襲撃を受けたのだという。むろん元就には多数の従者が護衛についており、彼らが身体を張って主君を守り抜いたので、大事には到らなかった。
己の領国内で領主が襲われるということ自体、恥ずべき不祥事である。元就は事件を表沙汰にしなかったのだが、主君を守って奮戦した従者たちにすれば、我が功を声高に誇りたい気持ちを抑えられるものではない。重臣の子弟に死傷者が出たこともあり、関係者の口に戸は立てられず、事件は数日後には吉田の領民の間に知れ渡ることになった。
そのうわさを、事件から三日後に近侍の青年が聞き込んで来たのである。
「そんなことがあったのか・・・・」
「殿を警護しておった従者には死人まで出たという話です。襲撃してきた賊のなかに、手練れの剣術遣いが混じっておったとか」
「剣術遣いだと?」
元綱は重蔵と顔を見合わせた。かつて幸松丸が厳島神社を詣でたとき、その帰路に暗殺をくわだてた剣術遣いがいた、という話は、元綱も聞いている。
「賊は残らず討ち果たしたのか」
「何人かは返り討ちにしたそうですが、首魁を含め大半を取り逃がしたらしゅうござる。詳しいところまではわかりませんが・・・・」
警護の従者たちにすれば主君の命を守ることが第一義であり、逃げる賊を執拗に追いかけるような状況でもなかったろう。賊の捜索と追捕は現在も行われているのかもしれないが、隣接する熊谷領にでも逃げ込まれてしまえば、毛利家の検断権は及ばない。すでに三日も経っているのである。毛利の領内をうろついているはずがないであろう。
重蔵は思わず嘆息した。
あの厳島参拝のとき、重蔵たちは神崎弾正やその弟子数人を見ているのだが、賊の首魁や主立つ者の遺骸さえないというのでは、何を証明しようもない。せめてこの件に元綱が関わっていないことを立証したいところであったが、これだけの情報では、賊が本当に土匪であったのか、元就を狙った刺客団であったのかを含めて、何ひとつ断定はできそうにない。
一方の元綱は腕を組んで考え込んでいる。
――どうも風向きが悪いな。
元綱には何ひとつ後ろ暗いところはない。ないのだが、元就の生命が危機にさらされたというその事実によって、元綱が謀叛をたくらんでいるという類のうわさが、これまでとは次元の違う深刻さと真実味を帯びるのではないか。下手をすれば、元綱が刺客を使って兄の暗殺をくわだてたというような虚説を生み出しはしないか。いや、生まれる以前に、そういう流言を意識的に広める者さえあるのではないか。
元就やその周囲の者たちが、その流言を真実だと思い込んだとすれば――。
この想像は、恐ろしい結末を想起させる。
つまり自分が、無実の罪によって断罪される、という未来である。
――そんな事があってたまるか。
と元綱は思うし、笑殺したくもあるが、笑って済ませられない深刻さが元綱を憮然とさせた。
「登城して、兄上さまにお会いしておかれては、いかがですか」
重蔵はそう勧めたが、元綱の腰は重い。
「のこのこ出かけて行って、ご無事でようございました、とでも言えというのか。兄者が襲われてからもう三日も経っておるのだぞ。今さらご無事もクソもあるか、しらじらしい」
「今さらでも、しらじらしくとも、です。四朗さまが直に兄上さまとお会いし、言葉を交わされること自体に意味がありましょう。お二人の睦まじい様子をお歴々がご覧になれば、くだらぬうわさなぞは立ち消えます」
「お前、兄者を見くびってるだろう。くだらぬうわさというなら、そんなものに踊らされるほど兄者は愚かではないぞ」
元綱はあえてそういう言い方で重蔵の言葉を封じ、近侍たちの不安を払った。
実際、元綱は兄の聡明さには信頼を置いている。
「うわさはおそらく作られた流言だ。ご苦労なことに、わざわざ作って流してくれた黒幕がいるということだ。俺たちが案じるくらいのことは、兄者の方は先刻お見通しだろう。すでに何らかの手を打っておるやもしれん。つまらぬ心配はいらぬさ」
このとき元綱は、自分の存在そのものが兄にとってのアキレス腱になっている、ということを、考えもしなかった。
これは知能の問題ではなく、むしろ性格や思考法の問題であったろう。そもそも元綱は、兄にとって代わって毛利家の家主になりたいという野心を欠片も持っていなかったし、陰謀や権謀といったものとは無縁に生きたいと望み、そんな手段で身内を破滅させるというような発想をしたことがなかった。その裏返しとして、元就に対して自分が加害者になり得るということを、まったく考慮に入れていなかったのである。
自分に謀叛を起こす気がない以上、無責任な外野が何を言おうが、他人からどれほど疑われようが、うわさはうわさ以上のものには成り得ない。時間が経てば煙が消えるように立ち消えてゆくだろう。兄の元就がその妄説に惑わされない限り、事態がいまより悪化することはないだろうし、あの兄が確たる証拠もないまま、弁明の機会を与えることさえせず、いきなり自分を誅殺するとも思えない。たとえ話が多少こじれたとしても、自分が兄と直に語り合えば、そもそもが無実であるのだから、疑惑も必ず氷解するはずだ。
いささか独りよがりだが、元綱はそう考えて、脳裏にわいた不快な予感に蓋をした。
「だいたい、俺を殺して兄者や毛利家に何の得がある。生かして使う方がよっぽど利口だろう」
この青年は、武人としてシンプルな人生を歩んでゆきたいと願っていた。現にこれまでそうしてきたし、自分の志操が変わらぬ限り、これからもそうし続けることができるはずだと素朴に考えていた。
――毛利家のために戦い、いずれどこかの戦場で死ぬ。
それが元綱の理想であり、それ以外の生き方をあえて考えないよう己に課してきた。
むろん己の武人としての武勇、武将としての統率、指揮、戦術の能力に対しては、幼少の頃から常に磨きあげるよう努めてきたし、その結果としての今の自分にそれなりの自信も持っている。少なくとも毛利家においては、自分こそがもっとも優れた武人であり武将であると自負していたし、その部分における己の価値に重きを置いていた。戦場においては、兄が総大将として全軍を統率し、自分が先陣の大将となって戦いを主導する。現在のこの形が毛利家にとって最善であり、兄も同じように考えているはずだと信じていた。
実際、この点に関する元綱の想像は、まさしく正鵠を射ている。
元就は、こと軍事面における弟の能力と価値を誰よりも高く評価していたし、その評価が身びいきでなく、しごく正当なものであるとも思っていた。そもそも元就は、弟が家督欲しさに謀叛を起こすなどとは思ってさえいない。毛利家の内部分裂を謀ろうと画策する者が元綱の存在を利用することはあるかもしれないが、それだけのことなら破局を回避する方策はいくらでもある。元就が弟と膝を突き合わせて話し合えば、誤解を解き嫌疑を晴らし、かえって陰謀の作者をあぶり出すくらいのことは、苦もなくできるであろう。
「相合殿が謀叛をたくらんでいる」
という風説によって、元綱の思考はやや視野狭窄を起こしてしまった感がある。自分の冤罪に直結することだけにやむを得ないところであったろうが、元就にとってみれば、問題の本質はそんなところにはない。
尼子氏による毛利家の乗っ取り。
これをいかに防ぐかが、元就にとって焦眉の急なのである。
元就はこのとき、己の生命と政治生命の切所に立たされていた。尼子経久の孫に家督を奪われるようなことになれば、毛利家そのものは存続できたとしても、元就自身は、政治的廃人に追い込まれるか、殺されるか――いずれかの道しか残されていないであろう。
兄がそれほどの苦境にあることを、元綱はまったく気づいていない。
元綱が忖度する兄の心境と元就のそれとには大きなズレがあるのだが、そのことに気づけなかったからこそ、あるいは回避できたかもしれない破局を、甘んじて受けるしかないところへと、元綱は追い込まれてゆくのである。