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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第六章 鷲の羽を継ぐ…
57/62

新たなる船出(四)

 張り詰めた冬の空気がややゆるんだ頃、山野のそこここで梅がほころび始める。

 郡山の南麓――元就らが暮らすお里屋敷の庭でも梅の古木が枝を広げており、ふくらんだ蕾の半分ほどが早くも花弁を開いていた。

 梅の良さは、上品で可憐なその花の美しさはもちろんであるが、馥郁ふくいくたるその香りにもあるであろう。母屋の濡れ縁に座ったお久は、微風が運んできた早春の芳香を胸いっぱいに吸い込んだ。

 春と呼ぶには早すぎる時期で、山間の日陰にはまだとけ切らぬ雪が目につくほど残ってはいるが、この日はうららかな陽光が降り注ぐ小春日和で、冷えた外気のなかでも暖かさを感ずることができる。


「桜もよいですけれど、やっぱり春の花といえば梅ですわね。わたくしは梅がいっとう好きです」


 隣で共に庭を眺める元就に、お久は微笑を向けた。

 生まれてまだ一年にも足らぬのに数え年ではすでに二歳になっている長男が、足をバタつかせたり身体を捻ったり手に触れる着物の端を掴んで引っ張ってみたりと、せわしなく動きまくって、それを落とさぬように抱きかかえている父親を手こずらせている。


「そうか。私はどちらかと言えば、華やかさと儚さがふたつながらある桜の方が好きだが、たしかに梅にはえも言われぬ気品と色香がある。やはりこの香りのせいなんだろうな」


「それもありますけれど、吉田こちらと比べると実家さとの大朝はずっと雪が深くて、春が遅いものですから、毎年この時期になると、梅の花が開くのがとっても待ち遠しかったのです、ほんの幼い頃から。それだけ思い入れが深くなってしまったのでしょうね」


「あぁ、そういうことか。朝夕に、花待つころは――というやつだな」


「夢のうちにぞ、咲き始めける――でしたっけ。たしか崇徳院すとくいんの御歌じゃなかったかしら。『古今和歌集』?」


「『千載和歌集』だ。崇徳院の御製ぎょせいというのは当たりだが、『古今集』が編まれたのは崇徳院の御代みよから二百年も前だから、かなり見当はずれだぞ」


「あら、それは浅はかなことを申しました。元就さまは貫之つらゆきがお好きのようですから、『古今集』と言っておけば間違いないかと思ったのですけれど、お里が知れましたわね」


 あっけらかんと笑う妻を見て、元就の顔にも自然と穏やかな笑みが出た。

 言うまでもなく紀貫之は平安前期の歌壇における最大の巨人であり、およそ歌道を心掛ける者ならば、その作品から本歌取りをしたり何かを学び取ろうとするのは理の当然だと元就は思っている。それはそれとして、「お里が知れる」などとお久は謙遜したのだが、彼女の実家である吉川家は藤原南家の流れを汲む歴とした名家で、その家風には濃い文雅の匂いがただよっている。たとえばお久の祖父である鬼吉川――吉川経基つねもとは歌道においても書道においても隠れもない達人であったし、お久自身も『伊勢物語』や『源氏物語』には大変な造詣ぞうけいを持っており、その教養の高さは元就をして感心させることさえ一再でなかった。ただ惜しむらくは、お久は歴史上の出来事や人物を時系列に並べて理解することが不得手であるようで、室町期より前のことは――鎌倉期も平安期もそれ以前をも――「遠い昔」という曖昧なくくりの中で一緒くたにしているきらいがある。たとえば『源氏物語』で光源氏が生きた設定上の時代に実際に紀貫之が生きていたことや、『古今集』と『新古今集』の間が三百年近くも離れており、貫之と崇徳院がまったく違う時代の人物であるといったことなどは、彼女の中では「どうでもいいこと」であるらしい。

 元就は性格が几帳面で細かなところまで気になる性質たちであるから、気付いた事があるとつい小うるさく教導してしまうのだが、この利口な妻は、夫のそんな説教癖を厭な顔もせず常にやわらかく受け入れてくれる。それが夫婦円満の秘訣になっているのかもしれないと、元就は思ったりもしている。


「梅と言えば――。江家ごうけにゆかりの者にとって、梅でまず思い浮かぶ人物は、和泉式部なんだ」


「江家に養子に入られた方のむすめであったとお聞きしました。お城の書庫に、『和泉式部日記』はおろか、彼女の歌集まで揃っていて、びっくりしましたわ」


「ああ。大江匡房まさふさ卿が養子に取った大江雅致まさむねの女であったと伝わってる。その和泉式部が手ずから植えた梅の木が、京の東北院というところにあるそうでな。彼女は死後、歌舞の菩薩となって、今もその梅に棲んでおられるのだそうだ。亡くなった兄上が上洛していた折りに、わざわざ出向いて眺めて来たと、自慢されたことがある」


「『軒端のきはの梅』ですわね。わたくし、その名だけは聞いておりますけれど、まだお能の『東北』をたことがないのです。江家の末裔すえに嫁いだ身としましては、お家にゆかりのお能を観ておらぬということに肩身が狭くって、それはもう、常々心を痛めておりました」


 大真面目な顔を作って大袈裟に言い募る妻を見て、元就は苦笑した。


「わかったわかった。役者が巡って参ったら、機会おりを作って演じさせるとしよう」


「まあ、嬉しい。きっとでございますよ」


 満面の笑みを浮かべる妻に抱いていた我が子を預け、元就は敷石を踏んで梅の根方まで進んだ。しばらく物も言わず枝についた薄桃色の花の群れを見上げていたが、やがて振り返って笑い、


「一首できたぞ」


 と言うや、低い声で和歌を詠じた。


  さく梅の深き色香をながめれば

    あさはかなりと 花や恨みむ


 咲き誇る梅の素晴らしさをんではみたが、そもそも菲才ひさいな私の言葉では梅の深き色香を表現し切れるはずもなく、詠まれた梅は「思慮の足らぬ男だ」と恨みに思っているだろうな、といった歌意である。それ自体が梅を詠んだ歌でありながら、梅に「あさはかなり」と断ぜられた歌そのものは虚空にあり、読者には窺い知れないという手の込んだ構造になっている。真の歌をあえて隠すことで読者に最上の歌を予感させつつ、その最上の歌でさえ、美の体現者たる梅自身から見れば「恨みを抱くほどの出来」に過ぎないとすることで、言葉というものの限界――詩人が宿命的に抱かざるをえない苦悩と哀しみ――さえ織り込んでいる。歌道の正道が、すくよかに詠む――つまり生真面目に素直に感動を表現することであるとすれば、やや技巧に走ったきらいはあるが、まだまだ若い元就が自らの未熟さを嘆いている率直な謙虚さが根底にあるので、厭味というほどではない。

 夫の作歌の巧みさに感心しつつも、お久は苦笑した。


「良く出来たお歌と思いますけれど――、何も梅にまで恨まれずともよろしいのに」


「はは。そうかもしれんが、まあ、そこは歌だからな」


 自嘲とも苦笑とも取れる表情かおで元就は続ける。


「私にしても当家にしても、数え切れぬほど多くの者から恨まれてることだろう。そう思えば、梅に恨まれるくらいは、可愛いものだ」


 それが元就の持論なのである。

 人の上に立つ者として家臣の前でそういう姿は決して見せないが、このネガティブな夫は、たとえば合戦に勝って帰って来た時でも、


「敵にも味方にもまた多くの死者を出してしまった。死んだ者たちには、それぞれ母があり妻があり子があったはずだ。それらの者たちは、今ごろ私を恨みながら嘆き悲しんでいることだろう。この殺生の因果が、いつか我が身に返って来るかと思えば、恐ろしい」


 などと愚痴ぐちるし、もっと良い選択ができたのではないか、もっと別の道もあったはずだと、済んだ事を思い返しては後悔ばかりしているのである。

 毛利元就といえば、血も涙もない謀略を駆使した戦国時代でも屈指の智将として知られるが、妻の前で愚痴愚痴とやくたいもない繰り言を並べている姿が、間違いなくこの人物のの一面であった。その場合、吐いているのはまさに繰り言で、相談をしているのでも答えを求めているのでもない。元就の深層意識は吐いた言葉を肯定されることも否定されることも実は欲しておらず、相手をするお久はただうんうんと頷きながら話を聞いてやるだけで良く、むしろそこにしか正解がないように思われた。理屈が多く、ある面で気難しく、しかも信心深いこの夫は、酒を嫌悪しているから酩酊めいていの世界に逃げ込むことさえできない。溜まったストレスを発散する方法として、ただ愚痴るという行為そのものが、あるいは必要なのかもしれない。そういうことが、六年も連れ添っているうちに自然とお久にもわかるようになった。

 が、それはそれとして、せっかく家族でうららかでふくよかな時間を過ごしているのに、それが陰々滅々とした雰囲気に変わってしまうのは、やり切れない。


「さっきのお歌、なかなかの秀作と思いましたけれど――。筆硯ひっけんと手文庫をお持ちしましょうか?」


 と、お久がさりげなく話題を戻すと――そういう妻の気遣いに気付いているのかいないのか――この面倒くさい夫はもっともらしい顔でうなずいた。


「そうだな。そうしてくれるか。忘れぬうちに書き留めておこう」


 先の歌は後年、元就が遺した和歌と連歌をまとめた『春霞集』に採録されることになる。

 大名家の家風というものは、その創業者の個性が少なからず投影されるものである。元就が風流や文雅を愛した心は、お久が抱いている長男とこれから生むことになる二人の息子たち――毛利隆元、吉川元春、小早川隆景――にも色濃く受け継がれ、そういう英主を仰ぐ群臣たちの間にも広く深く浸潤し、後に大大名となった毛利家の家風を構成する重要な要素となってゆくのである。




 時日がやや前後する。

 吉田では晩冬の頃から、領民たちの間で妙なうわさがささやかれ始めていた。


「吉田のご城主さまと執権の志道さまとの間がおかしなことになってるらしいぜ」


「へぇ、初めて聞いたよう。なんでーね?」


 食いつき気味に訊ねる女に、男は酒を注いだ木椀を勧めながら続けた。


「うわさだけどよ、新しいご城主さまが自分の言いなりにならねぇのが、志道さまは気に食わねぇんだろうなぁ」


「気に食わんいうても、執権いうのはお武家の番頭さんみたいなモンじゃけぇ、番頭さんよりご城主さまのが偉いんが、当たり前じゃろ」


「俺らみたいなモンには当たり前でも、雲の上の辺りでは当たり前じゃねぇんだろうさ」


 吉田の城下――葵屋という旅籠はたごの薄暗い一室である。

 床のなかでうつ伏せになった男――鉢屋の蓮次である――は、その隣で横臥している宿場女郎から木椀を取り返して喉を湿らせた。ちなみにこの女の名はキネという。


「まあ、聞きなよ。こういう話だ」


 執権の志道広良は、つい半年ほど前まで、幼君の幸松丸を擁して好きなように家政を動かしてきた。その幸松丸が死ぬと、広良は本家の元綱に家督を継がせず、すでに別家を立てていた元就を強引に本家に戻して家督につけた。早くに両親を亡くした元就にとって、広良は父親代わりとも言える存在であったわけで、その元就を家督につけたのは、広良がそれまで通りの専横を続けるつもりだったからであろう。しかし、思惑違いなことに、家主となった元就はそれまでの従順な姿勢を捨て、事あるごとに我を立て、すこしも広良の言いなりにならない。それで二人の間に軋轢あつれきが生じ始めたらしい――。


「腹を立てた志道さまは、ご本家の姫さまに尼子家から年少の婿養子を迎えて、家督を継がせるおつもりなんじゃねぇかって話だ」


「継がせる言うたって、今のご城主さまをどうするんじゃね」


「どうするってお前、っちまうに決まってるじゃねぇか」


「そがいな阿呆なこと・・・・」


「まぁ、うわさだからなぁ。阿呆みたいな尾ひれも付いてんだろうよ。あぁ、うわさって言やぁ、相合にご城主さまのご舎弟がいるだろ」


「今義経さまじゃね。あん方の事なら、ご城下の女どもはみんなよう知っとるよう」


「志道さまはよ、あのお人を使って、ご城主さまを亡きものするつもりなんだとよ」


「なんでそがいなことになるんじゃ? 仲の良えご兄弟じゃないん」


「知らねぇよ。本家の家督を継がせてやるとかなんとか言って、志道さまがそそのかしたんじゃねぇか?」


「あんたぁ、それ本当ホンマなんじゃろうね。ええ加減なことばっか言うちょると――」


 眉をひそめるキネを見て、蓮次は気軽く笑った。


「いい加減に決まってるだろうが、うわさなんてモンはよ。どこで聞いたかまでは俺もいちいち憶えちゃねぇが、行商の合間に小耳に挟んだ事をまとめてお前さんに教えてやっただけさ。そんなモンいちいち真に受けたってしょーがねぇし、雲の上の方でどんなおかしな事が起ころうが、俺らみたいなモンにはそもそも関係ねぇじゃねぇか」


「まあ、それはそうじゃけど・・・・」


 吉田の領民は一般に、長くこの地で善政を行ってきた毛利家そのものに愛着を持つ者が多いから、領主家に血生臭い騒動が起こるようなことはあってもらいたくない。武家の内輪もめなんてものは、庶民にはほとんど関係がない、という蓮次の言葉はその通りだとキネも思うが、事が武力を伴った内乱にまで発展されてはかなわない、という想いはある。


「まあ、それでもまったく火のないところにゃ煙は立たねぇからなぁ。ご城主さまを交代させたがってるヤツが、どっかにいるんだろうよ。それが志道さまなのか相合のご舎弟なのか、俺ぁ知らねぇが、穿った見方をすりゃあ、案外、大内のお屋形さまが裏で糸を引いてるのかもしれねぇなぁ」


「大内さま? なんでそがいな話になるん?」


「毛利家は大内から尼子に鞍替えしたんだろ? その証拠に、去年も尼子の先陣を務めて鏡山城を攻めたじゃねぇか。大内のお屋形さまにすりゃあ、飼い犬に手を噛まれたようなもんだ。それこそ怒り心頭、この野郎ってな気分になるのが当たり前だろう」


 蓮次の舌は実になめらかに動いてゆく。


「たとえば大内のお屋形さまがよ、毛利家を大内方に引き戻すために、尼子に寝返った今のご城主さまを成敗して、ご舎弟さまを新しい家督につけようとしてるってのはどうだ? 志道さまは、大内のお屋形さまの策謀はかりごとに乗って、ご城主さまを亡きものにしようと悪だくみをしてんのよ。それでご城主さまと志道さまが不仲になったってことなら――、お、奇麗に筋が通っちまったな」


 なぜこの小商人こあきんどが愉快そうに笑うのか、キネにはさっぱりわからない。


「さっきは尼子から婿養子を迎えて家督にするとか言うとったじゃろ。大内さまが黒幕じゃあ、さっきと話があべこべじゃ」


「あぁ、あべこべだが、本当のところはわからねぇだろ、うわさなんだからよ。たとえば大内のお屋形さまと通じてるのは、志道さまじゃなくて、本当は相合のご舎弟さまかもしれねぇぞ。ご城主さまがいなくなりゃ、一番喜ぶのはご舎弟さまだ。次の家督が回って来るんだからなぁ。こっちの方があやしいって考えることもできるじゃねぇか」


 蓮次は巧みに煙に巻く。聞いているキネにすれば、安芸の取り合いをしている尼子氏と大内氏という二大巨頭が、弱小の毛利家を東西から潰しに掛かっているような印象で、その争いに元就や元綱や志道広良の思惑がそれぞれ複雑に絡んで、考えれば考えるだけ頭がぐちゃぐちゃになってくる。根拠も論拠もないうわさ話にどれだけ推論を重ねたところで、結論らしい結論が出るはずもないのだが、たとえ考えないようにしたとしても、先の見えないもやもやとした不安感だけは勝手に肥大化してゆくのだから始末が悪い。


「毛利さまは大丈夫なんじゃろうか・・・・」


「さぁなぁ・・・・」


 すっかり元気をなくしてしまったキネを見て、蓮次はすこしばかり気の毒になったらしい。


「まあ、でも、なるようになるさ。そうなるように出来てんだ、浮世ってヤツはよ。国破れて山河ありって言葉、聞いたことねぇか? たとえ毛利さまに何が起ころうが、極端な話、お家が滅亡しちまったとしても、それでこの辺りの山や川がなくなっちまうわけじゃねぇ。なるようになるってだけのことだから、心配なんざ要らねぇよ」


 河原者らしい不思議な論理であるが、それでもこれは、蓮次なりの励ましの言葉であったろう。

 蓮次の他にも複数の諜者たちが、毛利領の様々な場所で、不穏の空気をゆっくりと醸成している。これは元綱を追いつめ、暴発させるために、鉢屋弥之三郎が配下を使って意図的にばら撒かせている流言であった。

 この事に坂広秀や中村元明はまったく関与していない。関与どころか知らされてさえおらず、その意味でもっとも当惑していたのは彼ら二人であったろう。真綿で首を絞められていくような、逃げ道が知らぬ間に塞がれていくような、追いつめられてゆく気分を味わっていたに違いない。




 さて――。

 この大永四年(1524)、中国地方で起こった重大な出来事と言えば、


 大永の五月さつき崩れ


 に触れないわけにはいかない。

 毛利家とも安芸とも直接には関係がない。この年の五月に、尼子経久が出雲東隣の伯耆ほうき国に電撃侵攻し、山名氏に属する六つの城を一朝にして攻め落とし、さらに伯耆中部の小鴨氏、山田氏、東伯耆の南条氏などを次々と降し、津波のような勢いで伯耆一国を奪い取った大事件のことを指している。この争乱によって伯耆では死者が数知れず、村という村が焼かれ、寺社仏閣のほとんどが灰燼かいじんに帰したという。

 これは江戸時代の地誌である『伯耆民談記』に見られる記事で、『鳥取県史』や『島根県史』といった自治体史をはじめ多くの歴史書で採用されたために現代においても長く通説となっていたが、実は史実ではない。近年の研究によって「五月崩れ」の実態が徐々に解明され、そのような大政変はなかったということが明らかにされた。

 この物語ではすでに触れたが、尼子経久は数年前の永正年間から段階的に伯耆への勢力の扶植を行っている。守護・山名氏の内紛に介入する形でたびたび伯耆に兵を出し、政戦交えた手を慎重に打ち続けていた。この物語のこの時期、西伯耆はすでに尼子の強い影響下にあり、一方で伯耆中部から東部にかけては尼子の支配を快く思わない豪族たちが反抗の姿勢を崩しておらず、この抵抗は紆余曲折を経つつ天文年間まで延々と続いている。尼子が伯耆を完全に掌握したのは天文九年(1540)ごろと推定されており、これはこの時期から十六年も後――尼子経久が死没する前年のことなのである。

 この大永四年について言えば、去る正月中旬、尼子経久が伯耆へ兵を出したという記述が『陰徳太平記』をはじめとする幾つかの軍記物語にある。これを裏付ける一次史料は見つかっていないので確証に欠けるが、軍記作家がそう書きたくなるような軍事行動が実際にあったのかもしれない。伯耆の諸城を一気に攻め崩し、短期間のうちに伯耆一円を奪い取ったというのは物語らしい誇張であるにしても、伯耆の中央部で何度かの合戦が行われ、山名方の数ヶ所の城が落ちたということなら、あっても何ら不思議はない。たとえば伯耆国内で尼子傘下の豪族と山名傘下の豪族の間で軍事衝突が起こり、それに経久が援軍を送り、戦勝の勢いに乗った尼子軍が幾つかの敵城を攻略した、というような話ではなかったかと筆者は想像したりもするが、詳細はまったくわからない。

 いずれにしても、山陰地方が豪雪地帯であることを想えば、経久が大規模な軍を長期にわたって国外に出し続けたとは考えにくい。この外征はごく短期間で終結し、二月中には争乱は収まっていたとしておきたい。

 退屈な解説を長々と続けてしまったが、つまるところ何が言いたかったかと言えば、「五月崩れ」に該当するような軍事作戦がこれから行われることはない、ということである。東方の問題はすでに片付いていたわけで、この時期の経久にとっての主なる懸案は、一昨年から続く大内氏との角逐かくちくに移っていたであろう。その目は東方ではなく、むしろ西方に向いていたのである。

 経久は昨年、鏡山城を再奪取することで安芸の支配権をほぼ確立した。しかし、あの大内義興がこれを黙認するはずがなく、早ければこの春にも再び安芸に大軍を送り込んで来るであろうことはまず間違いない。そう見切っている経久は、安芸の豪族たちの向背に注意を払いつつ、山口に諜者を送って大内家の動きを巨細となく探り、再び大内軍と戦うための準備を着々と調えていた。

 ――雪がとければ、再び大規模な安芸への遠征がある。

 それが春であるか、夏になるのか。鏡山城を防衛するための戦いか、反大内の武田氏を援ける出兵になるのか――。そのあたりは敵将である大内義興の戦略次第であるが、いずれにしても大内軍の動きに合わせて尼子軍も安芸へ遠征することになろう。安芸の守護代を自任する亀井秀綱は、この外征の機を利用して、毛利家への養子入れを実行に移すことを考えた。

 ――大軍をもって脅せば、元就めの腰なんぞは容易に砕けよう。

 たとえ獰猛な人食い虎の咆哮であっても、それが鼓膜を震わすほどの近距離で発せられたのか、対岸からの遠吠えであるのかによって、人に与える恐怖感はまったく違ったものになる。恫喝どうかつ外交を行うなら、大軍が間近に迫っている時機をえらぶのが利口であるだろう。実際、毛利家が尼子に臣従した際には、毛利側の全権代表であった元就は、尼子軍の圧倒的な武威を前にして土下座外交に終始したのである。その良き前例を踏襲すればいい。

 傘下の豪族の軍勢を加えれば尼子の外征軍はどう少なく見積もっても二万を超える。毛利家の最大動員力の十倍以上であり、外からの圧力としては申し分ないであろう。家督交代を成功させるには、あとは毛利家内部への工作を急がせる必要がある。

 秀綱は、中村元明の元へ密使を走らせ、尼子軍の安芸入りの時期までに養子を迎え入れる態勢を調えるよう命じた。

 が、言われた中村元明にすれば当惑せざるをえない。

 ――いては事を仕損ずる、ということを知らんのか。

 物事には時宜じぎというものがある。養子を迎え入れるための情勢作りも、元就を廃立して家主を交代させるための政治工作も、まだちょいたばかりであり、まったく煮詰まっていないのである。元明は一、二年を掛けてじっくりと下準備を進めるつもりであったのだが、その構想は崩壊したと言わざるをえない。それが尼子経久の意向であるのか亀井秀綱の独断であるのかは知らないが、これほどデリケートで手間の掛かる陰謀に、尼子側の都合だけで期限を切られるのは、正直たまったものではなかった。

 家主の交代というのはあくまでその家の内政問題で、外圧に屈する形でそれをしたというのでは外聞が悪すぎ、毛利家の面子が立たない。武士は恥をもっとも嫌う生き物であるから、時宜を外せばまとまる話もかえってまとまらなくなるであろう。軍事力を使った強硬策は、万策尽きたときの最後の手段にすべきであり、それを選択するにはまだ時期が尚早にすぎる。

 そうは思うのだが、上からそうしろと命ぜられれば、元明の立場ではその方向で動かざるを得ない。元明はとりあえず坂広秀に尼子側の意向をそのまま伝えた。


「おお、尼子の軍が安芸にやって来た時が、広良と元就の年貢の納め時じゃな」


 広秀は半白になった顎髭を揺らして嗤った。


「尼子の武威を前にすれば、養子入れに反対できる者はおらぬであろう。これで一息に話が進むわ」


「そんな簡単な話ではありませぬぞ」


 元明は苦虫を噛み潰したような顔でたしなめた。


「尼子の後ろ盾があることは、味方を増やす際の力にはなりましょうが、その武力を借りて強引に事を成せば、たとえ本懐を遂げたとしても、後々まで家中に大きな禍根を残すは必定。当家の問題は当家において片付けるのが、本来あるべき筋というものでござる」


 その通りだ、という風に広秀は何度もうなずいた。


「大内が雪解けと共に動くとすれば、尼子の軍が安芸に入るまで、もういくらも時が残っておらぬ。早急に事を進めねばならぬな」


「ですが、できますか。率直に言って、間に合うとは思えませんが」


 毛利側の受け入れ態勢が整っていない状況で、尼子が武威をもって強引に養子入れと家主交代を強行するような事態になれば、それこそ最悪である。武門の意地として元就と共に徹底抗戦をする者と、元就を見限って保身に走る者とに必ず家中は割れる。尼子軍の後ろ盾がある以上、戦いには勝つだろうが、仮に元就派を殺し尽くして養子擁立派が権柄を握ったとしても、結果として毛利家は疲弊し切って独立大名としての実質を失い、尼子の奴隷になり果てるであろう。


「それでも、やるしかあるまい。こうとなれば、もはや後戻りはできぬ」


「・・・・・」


 元就と志道広良に復讐できるのであれば、毛利家がどうなろうと知ったことではない、と広秀は肚を据えたのかもしれないが、元明はそこまで破滅的ではない。毛利家の繁栄と自身の栄達というのが元明の目指すところであり、「毛利家の繁栄」というもっとも重要な前提条件を外してしまえば、元明でさえ広秀に同調できないし、家中の誰からも賛同を得られないであろう。それでも無理やりに事を推し進めようとすれば、その広秀の策動がどこかから告発され、尼子軍がやって来る前に元就側に察知されるのではないか。

 この段階で元明は、

 ――この陰謀は、必ず失敗する。

 と鋭く予断した。

 この中村元明という男は、保身に関しては小動物のように危険に敏感で、狡猾なほど知恵が回る。尼子氏との密かな繋がりは残しておくとしても、坂広秀からは一線を引いておかねば、この陰謀が露見し、広秀が断罪されることになった時、自分も巻き添えになりかねない。万一にも広秀が成功したとすれば、当然という顔でその余光にあずかれば良いだけのことだが、失敗した場合には、その累が自分にまで及ばぬように身を処しておかねばならない。

 これ以後、元明は、坂広秀に対しては協力者としての態度は保ちつつ、広秀との個人的な繋がりは断ち、味方を誘引するといった陰謀を推進するための直接的な行動も一切止めた。証拠として残りかねない手紙の類を用いないのはもちろん、広秀との連絡には深夜に密かに人を遣わして口頭で行わせるといった風に、細心の注意を払って身辺の清浄化に努めた。

 この用心深さが、きわどいところでこの男を救い、天寿をまっとうさせることになる。




 元就がまだ二十代だったこの頃、毛利家でもっとも政略と謀略の能力が高かったのは、経験の豊富さから言って間違いなく志道広良である。

 この時期、広良は水面下で進みつつある家主交代の陰謀に関してはまったく気付いていなかったが、

 ――長門ながと殿は、わしや殿のことを怨んでおろう。

 と自覚があるだけに、坂広秀の動静に関しては日頃からそれとなく注意を払っていた。

 広良の志道氏は坂氏の分かれであり、分家の中でも末弟の家に当たる。広良にとって広秀は宗家の総領であり、三十年近くにわたって確執を続けてきた相手でもあるから、その人柄については善いところも悪いところも知り過ぎるほどに知っていた。

 坂広秀という男は、剛腹さをよそおうようなところがあるが、その実、小心者である。正邪善悪を並べて置けば、まず正と善とを択ぶという常識人でもある。どちらかと言えば優柔不断なタイプで、たとえ広良や元就に対する恨みが骨髄に達するほどの深さであったとしても、毛利家に大きな不利益となるような無茶な行動を取るとまでは思えない。それが広良の持つ坂広秀観であり、

 ――しょせん、大それたことはできまい。

 と、どこかでタカをくくっていた。

 他人ひとあなどって善いことなぞひとつもないが、難問であった家督相続問題が無事に片付き、元就の新政権がそれなりに順調に来ているということもあって、広良ほどからい現実家の心にさえ、ゆるみのようなものが出ていたのかもしれない。

 その広良が、家中にただよう異臭のようなものを嗅いだのは、吉田の桜がそろそろ見ごろを迎えようとする頃であった。

 うわさというものは、当事者の周囲を巡りめぐって、結果として当人の耳にはもっとも遅く達するものであるらしい。広良は元就とは緊密で親密な繋がりを維持していたから、その周囲に居る者たちも、聞こえて来たうわさを歯牙にもかけなかったということもある。たとえば元就と広良の不仲説などは、広良の耳に入る前に自然と立ち消えてしまっていたのだが、しかし、根も葉もないうわさの中で、尼子家から婿養子を迎えるという話だけは、さも実体のあるもののごとく領民たちの間で語られるようになっていた。

 そうと知った広良は、下士や卑女などを使ってあらためて実態を調べさせてみて、内心で暗然とした。

 尼子家から養子を迎えるらしい、という根拠のない虚説を前提にして、そこから様々な想像、憶測、推量、空想、妄想といったものが、雨後のタケノコのように次々と生まれていたのである。こんな話もある、こんな話も聞きました、という報告を受けるたび、広良はやり切れない気分になった。

 ――わしとしたことが、とんだ不覚じゃったな。

 確かに毛利家では幸松丸の姉姫が養育されている。まだ十三歳で、適齢にはわずかに早い。この姫は心身の発育が実年齢よりさらに遅そうだということもあって、婚儀は三、四年先で良かろうと広良は漠然と考えていたのだが、しかし、そのまま放置しておいたのは誤りであった。うわさの温床になり得るということを失念していたのである。家督問題が落着した時点でともかく婚家を決め、婚約だけでも正式に済ませてそれを公表しておけば、こんなうわさは立ちようがなかったであろう。元就の家督相続に幕府のお墨付きを得たことで、家督の問題はすべて落着したものと独り決めしていた自分に、油断があったと認めざるを得ない。

 が、それを後悔したところでどうなるものでもないであろう。

 広良は、掴んだ情報を整理して元就に報告し、善後策を協議した。


「ともあれ、姫さまに尼子から婿を取るといううわさに関しては、早急に火消しをせねばなりますまい」


 これについては、百の反論を並べるより、実際に姫の婚家を探し、婚約を正式発表してしまうのがもっとも確実で手っ取り早い。


「お輿入れ先につき、殿は何かお考えがおありになりますかな」


「そうだな・・・・」


 元就は思案顔で腕を組んだ。


「国人一揆の衆の中で、これはという良縁があれば良いのだが・・・・。当家の北には高橋と吉川がいずれも縁戚としてある。新たな縁を求めるとすれば南方――瀬戸内に面する豪族が望ましいように思うが、どうか」


「ご慧眼けいがんと存ずる。となれば、まず浮かぶのは小早川ですな。竹原か沼田ぬたか――。ともかくも両家を調べてみましょう。姫さまと年の近い男子がおってくれれば良いのですが」


 婚家を調査し、相手の家老と面談して感触を確かめ、実際に縁談を進めて無事婚約までこぎ着けるには、どうしても相当の時間が掛かる。現時点では、これ以上手の打ちようがない、とも言えた。


「姫さまの話はそれでひとまず措くとしても――。問題なのはむしろ、此度のうわさがどこから出たかという事でござる」


 広良が厳しい顔で話題を戻すと、元就も重い面持ちでうなずいた。


「どうも流言を撒かせた者がおるらしいな」


「左様。つまり元就さまを廃し、家督のすげ替えを画策する不埒者ふらちものが、どこぞにおるということになる」


 流言飛語の厄介なところは、出処を特定しにくく、それを封じる有効な対処法もないということである。これを仕掛けて来たのはそもそも本当に尼子経久なのか。裏読みすれば大内義興ということもあり得るだろう。毛利家を敵視する豪族、あるいは毛利の力を弱めたいと思う勢力の仕業という線も、この時点では捨て切れない。

 いや、深読みというなら、毛利家中の人間をも疑って掛からねばならぬであろう。

 元就を呪い、現政権の転覆を喜ぶ者といえば――。

 広良の脳裏に真っ先に浮かんだ顔がある。

 ――坂広秀。

 あの従兄弟が本件にどういう関わり方をしているのか。その背後に黒幕があるのかないのか。どれほどの奥行きを備えた陰謀が進行しているのか。そういう事はまだまったくわからない。しかし、何らかの形で広秀が一枚噛んでいるのではないか――。

 予断というより予感である。何の確証もありはしない。しかし、蓋然がいぜん性は乏しくない、と広良の直感が言っている。

 彼我ひがの立場を入れ替えて考えてみればいい。自分が坂広秀の立場で、元就の追い落としと政権奪取を画策するとすれば、家督相続権を有する元綱を旗頭に担ぎ、密かに家中に味方を増やし、謀叛することが「正義の行動」になるよう陰謀を巡らせるだろう。尼子からの養子入れのうわさと、広秀の思惑がどう繋がるのか。様々なうわさの中でどの説に迫真性があり、どの説がまったくの出鱈目なのか。いずれさっぱりわからないが、この不穏な情勢と坂広秀が無関係とは、広良にはとうてい思われない。


「謀叛人に心当たりがないこともござらぬが、何の証拠もなく名を挙げるのは誣告ぶこくそしりを免れませぬ。また、この流言がそれだけのものであるのか、さらに深い陰謀から発せられたものなのか、背後に黒幕がおるのかどうか、そのあたりもよくよく調べてみねばなりませぬ。ついては、しばらくのご猶予を賜りたい。事によっては、微妙で難しい処断を必要とすることになるやもしれませぬゆえ・・・・」


 広良は、謀叛人という言葉をあえて使うことで、敵に繋がる者が家中にいることを匂わせた。元就であれば、広良の真意まで十分伝わるであろう。

 しばらく黙考した元就は、


「わかった。我らはしばらく素知らぬ顔をし、成り行きを見るとしよう。私も手の者を使って密かに調べてみる」


 憂鬱そうな表情を隠さずそう言った。

 元就の名の下に毛利家をひとつにまとめるには、どうしても元就に従えぬという異分子は排除するしかない。しかし、仮に粛清の大鉈を振るわねばならない事態になったとしても、毛利家中への悪影響は出来得る限り最小限に留めたい。それが元就と広良の本音であり、この問題に関しては十分な時間を掛けて慎重に対処するつもりであった。

 少なくとも、この時点においては。

 しかし、そんな二人の思惑は、毛利家の外側から不意にもたらされた情勢の変化によって、まったく瓦解することになる。

 この数日後、亀井秀綱の使者が吉田へやって来たのである。





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