新たなる船出(三)
尼子経久の孫を毛利の家督につける――。
亀井秀綱からそれを命じられた中村元明は、困惑した。
――なにゆえ、今さら。
という想いが強い。
新当主である元就は、毛利が尼子家に臣従することを決めて以来、尼子からの要求に対しては極めて従順で、尼子方に不都合な動きをしたことは一度もない。鏡山城合戦においても真摯に働いていたし、再び大内方へすり寄るような気配を見せているわけでもない。その元就を家督の座から追うことで、尼子にどんな利益があるのか。相続問題が無事に片付いてから約半年、新体制がようやく落ち着きを見せてきたところだというのに、なぜわざわざ平地に波瀾を起こすような真似をするのか――。
そうは思ったが、元明の立場からすれば、亀井秀綱の言葉は尼子経久の意志と受け取らざるを得ない。尼子経久は、西国最大の大名である大内義興の影響力を安芸から駆逐してのけたほどの男であり、今や安芸の太守というべき存在なのである。今後の毛利家の発展と繁栄を願うなら、その太守の意を迎えてゆくしかないであろう。
実際、尼子経久の孫を当主に戴けば、経久の毛利家への信頼は揺るぎないものになるであろうし、家の安泰が図れるばかりか、尼子家から有形無形の援助を得られるようにもなろう。それは確実に毛利家の伸長に繋がってゆくはずである。
この中村元明という男は、毛利本家の一門でも譜代重恩の臣でもないから、「毛利の血統」に対して特別なこだわりなどはない。別に新当主の元就に悪感情を持っているわけでもなかったが、正直なところ、毛利家自体が繁栄し、その結果として自身と一族の安泰に繋がるならば、主家の当主が直系であろうが養子であろうがどうでもよかった。
だからといって、それだけでこの男を「不忠の臣」と決めつけることはできないであろう。
尼子から迎えた養子を幸松丸の姉に娶せる算段である以上、「毛利の血統」が絶えるわけではないからである。現当主・元就に対しては不忠に当たろうが、尼子から養子を迎えることが毛利家の繁栄に繋がるとすれば、それは毛利家に対する忠であるとも言える。重要なのは毛利家がこれから伸長するかどうかであり、元明が忠義の功臣となるか不忠の奸臣となるかは、どういう未来を招来したかで判断されるべきであろう。
そもそも元明は、兄を殺して中村家の家督を奪い、一代で毛利家の二番家老にまで成り上がったような男である。陰謀家としての体質をもともと備えており、保身感覚とバランス感覚には特に優れたものがある。
――わしが首魁になったのでは、この謀計は成就せぬ。
と、まずこの男は思った。
これほどの陰謀を行うとすれば、その首謀者は、家中でそれなりの権勢を持ち、さらに与党を吸引できる大物でなければならぬであろう。元明は十五老臣に名を連ねる家老の一人であり、その席次は首座に次ぐ二番の高さにあるが、老臣の中ではもっとも新参で、家中に縁戚も少なく、毛利家に臣従した経緯の悪さから諸人に決して好かれていない。とても大事を起こせるような輿望はなかった。
家中に縁戚や与党が多く、毛利家の現体制に対して不満を抱いているか、あるいは元就個人に強い怨みを持っている人物――。
――となれば、まず坂広秀か。
真っ先に浮かんだのはその名であった。
特に懇意にしているわけではないが、長く同僚として過ごしているだけに、元明は坂広秀の人物についてはよく知っている。実務家としては堅実であり、決して無能な男ではない。ただし性質は口数の多い理屈屋で、気位が高くやや偏屈でもあり、どちらかといえば人に好かれぬタイプと言える。人望を集めるような良器ではなく、衆望を担えるほどの大器でもない。
――庸人ではあるが・・・・。
ここでは広秀の個人的な資質よりもその政治的な立場を重視すべきであろう。
坂氏は家中でも屈指の名門で、一門衆の中でもっとも大きな枝葉を広げた族党であり、広秀はその宗家の当主――つまり坂一族の総領である。一族や縁戚は家中に多く、その勢力は小さなものではない。また、なんと言っても広秀は、元就によって父を殺されている。しかも広秀は執権の志道広良とは犬猿の仲で、このことは周知の事実であった。これらを考え合わせれば、毛利家の現体制に強い不満を持っていたとしても何の不思議もない。さらに言えば、尼子経久の孫を毛利の家督に据えるには元就を排除するだけでは不十分で、家督相続権を持つ元綱に家督を諦めさせるか、あるいは消えてもらうかせねばならない。いずれを択ぶにしても、元綱の義父である坂広秀であれば、そちらの工作もしやすいであろう。
それやこれやを熟考した元明は、
「坂広秀を首魁とする以外に絵の描きようがござらんな」
と、息を大きく吐き出すような風情で言った。
対座しているのは鉢屋弥之三郎である。
元明はこれまでの行き掛かりから、亀井秀綱とは密かな繋がりを保っていた。心を売ったとまでは思っていなかったが、毛利が尼子家に臣従している以上、尼子家の筆頭家老と個人的な繋がりを持っておくことは何かと有益であったし、何か事があった場合の保身にもなる。
その亀井秀綱が元明と繋ぎを取る時は、弥之三郎配下の鉢屋者が使いとなるのが常であったのだが、今度の場合は異例なことに、弥之三郎自身が自ら吉田に潜行して来ていた。事の重大さを表していると言うべきであろう。
「坂広秀か・・・・」
蛇を連想させる三白眼を細め、弥之三郎は顎をひとつ撫でた。
「毛利が尼子に臣従する際、日下津城の隠居に詰め腹を切らせたな。坂広秀といえばその子であろう。尼子の走狗となることを、果たして肯んじようか。尼子に怨みを抱いておって当然と思えるが――」
「あの男の怨みは、元就と志道広良に向けられておると、わしは見ておりますが――。そのあたりのことも含めて、一度探りを入れてみましょう。とにもかくにも、あの男を動かさぬことには、いかにお屋形さまのご意向といえども、事は成りますまい」
芸北が雪で閉ざされている間、城地を持つほどの重臣は出仕のない日は多くが自領に帰っている。元明は向原の日下津城まで足を運び、広秀の胸中を叩いてみた。
むろん叩くと言っても、
「元就を家督の座から引きずり降ろしたくはないか」
などと、あからさまな表現を使うほど元明は粗忽ではない。
杯を傾けつつ、酔態のくだけた風情で、元就や志道広良に対する愚痴や不平不満をこぼしてやるのである。自分の方から肚を割って見せねば、相手の警戒感はゆるまない。杯が重なり、酔いが進むにつれて、広秀の口からも元明のそれと同質の言葉が転び出るようになり、やがてその語気に熱気と情念のようなものが篭り始めた。
――要するにこの男は、元就よりむしろ志道広良を憎んでいる。
ということが、元明にもだんだんわかってきた。
広秀の溜まりに溜まった憤懣は、坂氏宗家の当主でありながら権力の枢要を握れないことに対する不遇感がその根本にある。分家の分際で執権の席に座っている志道広良に対する嫉妬と言い換えてもいい。男が男に向ける嫉妬心ほど始末の悪いものはないが、広秀の場合は父親を理不尽に殺されているだけに、その怨恨の情には血のしたたるような生々しさがあった。
――この怨恨を、使うべし。
志道広良を失脚させる、という方向なら、広秀は話に飛びついて来ると見た。
「昨年、幸松丸さまがお隠れになられた時に、ご当家に養子入れの噂がござったろう」
「うん?」
「出雲のお屋形のご令孫を頂けるという話でござるよ」
「おお、そのような噂が立ったな。じゃが、粟屋縫殿允が京より持ち帰った御教書で、ご領地がそのまま元就さまに安堵されたゆえ、その話はうやむやに立ち消えた」
「左様。元就さまが家督となることで、相続の問題はまずまず円満に収まった」
「うむ」
「じゃが、これを落着と呼んで良いものかどうか。どうも出雲のお屋形は、元就さまが家督となられたことを、納得しておられぬらしい」
「なに?」
「お屋形に何の断りもなく、密かに幕府に手を廻した執権殿のやり様に、たいそう腹を立てておられると、さる筋から聞こえて来ましてな」
志道広良は尼子経久から怨みを買っており、あの男が執政の席についている限り、経久は毛利家を信頼も優遇もしない、という意味のことを、元明は力説した。
「お屋形は今やこの安芸の太守と呼ぶべきお方じゃによって、わしはご当家の行く末が心配でならぬのよ。上野殿がいつまでも執政の席におったのでは、この先、尼子からどのような無理難題を押し付けられるか知れたものではない」
「その懸念はもっともじゃ。臣従の盟約を交わした上は、毛利にとって尼子は主家、お屋形は主君じゃからの。お屋形から睨まれたのではご当家は立ちゆくまい」
今後の毛利家のためには、志道広良に表舞台から退いてもらった方が良いのではないか、という意味のことを言うと、広秀は我が意を得たりとばかり大いにうなずいた。
「上野めには、もともと執政の席に座る資格なぞありはせんのよ。あれは我が家の分家のなかでも末弟の家の子でな。わしの親父殿に取り入って権要の地位を得たのじゃが、それにしても、その地位に居座ることが長すぎたわ。水は流れねは濁り、やがては腐る。人も同じじゃな。上野ももう年じゃ。いい加減に隠居でもさせたが良い」
吐き捨てるような語気でそう言った。
――簡単に乗ってきおった。
憂国の情には私憤を公憤にすり替えるという不思議な性質があり、扇動者や謀略家はしばしばこの感情を利用する。ここまでは元明の目論見通りであった。
「じゃが、そうは言うても、上野殿はまだとうぶん隠居なぞはなさるまい。元就さまと上野殿の繋がりの深さを想えば、元就さまが執政の職を解くとも思われぬ」
現実問題として、まともな方法で志道広良を失脚させるのは相当に難しいのである。
執権としての広良は、政治力が皆無であった幸松丸を輔弼していた時期でさえ恣欲をちらつかせず、秕政を行ったわけでもなく、失政と呼べるような瑕疵がない。早くに父親を亡くした元就にとって広良は師父のごとき存在でもあり、その信頼は揺るぎないものがあった。法理上、家宰を罷免したり交代させたりする権限はその家の家主にしかないのだが、たとえ元就に広良を罷免するよう訴えたとしても、必ず讒訴と見られ、決して聴許は得られぬであろう。
となれば、合法的な手段の範囲で――つまり暗殺や武力蜂起といった非常手段を用いずして――広良を執権の位置から叩き落とす方策は、ただひとつしかない。それは、尼子の権勢を利用して家主を交代させ、つまり政権交代を起こさせ、元就と広良を同時に政治の表舞台から退場させることである。
「そうではないか、長門殿」
と水を向けると、広秀は酔いが吹き飛んだような顔をし、目を据えて黙り込んだ。
元明は声を立てて笑った。
「あっはっは。愚痴よ愚痴よ。そのように恐い顔をせんでくだされ。上野殿やら福原殿やらが、元就さまから重う用いられておることに比べ、我が身が朽木のごとく見捨てられておることが哀しく、つい言わでもの愚痴をこぼしてしまいましたわ。酔って舌がすべったまでのことにて、他意はござらぬ。いやいや、昼間から悪酔いをしたものじゃ。酒の上の妄言と忘れてくだされ。御辺にこれを吹聴されると、わしは腹を切らねばならぬ」
おどけて言った元明は、その日は早々に退散した。
広秀にも考える時間が必要であろう。こちらの諷意を察せられる男であればこそ、その先の話もできるというものである。
坂広秀が吉田の元明の屋敷を訪ねて来たのは、その数日後のことであった。
重い沈黙の中でしばらく盃を重ねた広秀は、人払いをするよう元明に頼み、隣室や廊下から足音が消えると、
「肚を割って話したい」
と声を落として言った。
「そこもとは、出雲のお屋形の意を体して動いておるのか」
とんでもない、と言いながら元明は大きく手と首を振った。
「出雲のお屋形がどのようなご意向をお持ちであるかは小耳に挟んだが、わしはあくまで、毛利家のお為よかれとのみ願っておる者でござる」
「それはもちろんそうじゃろう。じゃが、それはそれとして、どうか真実のところを明かしてもらいたい。そこもとは尼子に通じておるのであろう」
「通じるもなにも、ご当家は出雲のお屋形に臣従したではござらぬか。尼子はいわばご当家の主家であり、たとえば仮に、主家の重臣の方とわしのと間で使者の往来があったとしても、その事をもって敵に内通しておるように言われるのは心外でござる」
「なるほど、わしの言い方が悪かった。では、そこもとにお屋形の意向を漏らしたのは、尼子のどなたであるのか、それを教えてもらいたい」
元明はしばらくもったいを付けてから言った。
「あらぬ誤解から先方に迷惑をかけるのも本意ではござらぬゆえ、あえて名を明かすことはしませぬが、尼子の老臣衆の中で首座に座っておられる方――と申しておきます」
「おぉ、やはり――」
ここで亀井秀綱の名が出ることは広秀も予想していたらしい。
「して、その方は、そこもとにどのような事を囁かれたのか」
「あの養子の一件、立ち消えになったわけでござるが、あれは当方の事情で断ったというだけで、尼子の側が養子を出すことを渋ったわけではござらぬ。当方から望めば、お屋形は大いに乗り気になられるであろうと――」
それを聞いた広秀は露骨に不快そうな顔をした。
「ご当家に養子を入れ、家督に据えようというのか・・・・」
「別にわしは元就さまに対して意趣も逆意もござらぬが、お屋形から憎まれておる上野殿を執政の席から降ろすには、その他に手がありますかな」
問いかけに対する応えはない。元就が志道広良を罷免するはずがないことは、広秀もわかっている。
「ござるまい。元就さまが家主である限り、上野殿が執権として長く居座り続けることになる。上野殿を貶降し、尼子との好誼を確かなものとするには、憚りながら、元就さまと諸共にご退隠頂くしか手がなかろうかと存ずる」
「主家を売るようなものではないか。そのようなことができようか」
広秀は視線を下げ、絞り出すような声でそう言った。
この点、広秀と中村元明とでは、価値観の基礎がまったく異なっている。
中村元明はもともと毛利家とは縁もゆかりもない安芸地生えの小豪族の出であるが、広秀は毛利庶家の中でも屈指の名門である坂氏の宗家に生まれ、大江氏から連綿と続く毛利の血が自分に流れていることに強烈な誇りを持っている。保身を図りつつ陰謀を成就させるには尼子の後ろ盾が絶対に必要だとわかっていても、毛利本家の血の正統を犯す行為は許せない。
――覚悟のぬるいことじゃ。
広秀を首謀者とすることに、元明はこの時点で少なからぬ不安を覚えた。
家主の首を挿げ替えるというこの陰謀は、現当主の元就から見れば許し難い大罪であり、元明や広秀が十分に与党を増やす前に事が露見すれば、元就はためらいなく粛清の刃を振るうであろう。処罰は個人に留まらず、一族郎党を残らず死に至らしめるほど凄惨なものになる。逆に言えば、その危険を承知の上で、白刃の上を素足で踏破する度胸とあらゆる犠牲を厭わぬ覚悟がない者は、そもそもこんな悪事に首を突っ込むべきではないのである。
元明は声音に厳色を込めた。
「尼子の力を恃みとするなら、尼子にも利を与えねばならぬ。でなければ、わざわざ他家の政争に肩入れなぞしてくれるわけがない。尼子の側からすれば、我らに肩入れする以上は、次の家督をお屋形の血縁に相続させることを望みましょう。それが条件ということになる。さはさりながら、これはご当家にとっても損な話ではござるまい。お屋形のご令孫を家主に戴くことは、ご当家に大きな利をもたらす、とは思われませぬか」
「それは、そうかもしれぬが・・・・」
「尼子の後ろ盾があればこそ、味方を増やすことができる。我らだけではどうにもなりますまい」
「それはわかっている・・・・」
と煮え切らない。
「では御辺は、元就さまにご退隠を願ったとして、その後をどうしたいとお考えじゃ」
「言うまでもない。弟君の四朗殿に家督を継いで頂く」
予想した通りの答えである。
――この阿呆め。
元就から元綱に家主を替えたところで、尼子には何の利益もない。それで尼子経久が満悦するはずがないではないか。元明はやや苛立ったが、その苛立ちを気取られぬよう、ことさら慎重な口ぶりで言った。
「それはご浅慮じゃ。相合殿が家督を継げば、欲望のために兄を蹴落としたと必ず見られる。世間の蔑みを買うばかりか、家中からの信望は決して得られぬじゃろう。そもそも、かつて相合殿が家督を欲するような素振りを見せたことがござろうか。あのご仁のお人柄は、子供の頃から後見してこられた御辺がこそ、ようおわかりであろう。当人が望みもせぬ針の筵に、無理やり座らせることが、相合殿にとって幸か不幸か――。さらにまた、輿望を得られぬ者を当主に戴いて、ご当家がこの乱世を生き抜いてゆけるかどうか――。そのあたりをようお考えあれ。相合殿にはむしろ、この一挙には関わらせぬ方がよい」
倫理的な汚穢をかぶるような場所からあえて遠ざけておけば、元綱の衆望に疵はつかない。醜悪な政争と無関係であればこそ、元就が表舞台から消えた後、家中の期待はかえって元綱に集まるであろう。
「お屋形のご令孫はまだ元服前と聞いた。相合殿にはその後見役になって頂くのが形としては良いように思われる。相合殿は妾腹とはいえ悦叟院さま(毛利弘元)の血を受けた歴とした嫡流であり、一門衆からも譜代の者どもからも非難の声はあがらぬでしょう」
それで元綱に実質的な権力を握らせることができるのである。広秀にはそのあたりで妥協してもらわねばならない。
「・・・・・」
酔眼を据えた広秀は再び黙り込んだ。
このとき元明が考えていたのは、比較的穏便な無血クーデターである。
この時代の大名は絶対君主ではなく、家中の重臣たちの承認の上で推戴されている存在であるから、密かに家中に与党を募り、重臣の半数程度を一味に抱き込めば、当主に正面から隠退を迫ることが出来る。養子擁立派の後ろ盾には尼子の武力があるわけで、政治的対立が武力対立にまで発展し、尼子の軍事介入を許してしまえば、元就支持派に勝ち目はない。しかも家中が割れて殺し合いをすれば、当然ながら毛利家の力を大いに殺ぐことになり、最悪、滅亡の端緒ともなりかねない。内訌を避けるために、元就も要求に応じざるを得なくなるであろう。こういう形の政変劇は、この時代、そう珍しくない。
そういう形にまでもってゆくには――。
まず坂広秀に坂一族をまとめさせる。坂氏には桂氏、光永氏、志道氏という主要な分家があり、現体制の中心に居る志道広良は倒すべき政敵であるから除外するとしても、桂氏と光永氏の人数は吸引したい。次に志道広良との間で軋轢が生じ始めた井上元兼を一味に引き入れる。井上元兼は井上一族の総領であるから、井上党の大多数を味方に付けられるであろう。一門衆で最右翼の坂一族と家中で最大勢力である井上党が組めば、強大な勢力になる。さらに幸松丸とその姉姫の生母であるお夕を抱き込みたい。彼女が尼子から婿養子を迎えることを支持してくれれば、家督交代の運動そのものに正統性が与えられるし、お夕の実家である高橋氏の後ろ盾さえ得られるかもしれない。水面下でそこまで下拵えを済ませれば、あとは簡単である。志道広良に反感を持つ者を募り、元就支持派の切り崩しを行うなどして、重臣を一人二人と与党に引き込んでゆけば良い。養子擁立派の背後に尼子経久がいると知れば、慌てて勝ち馬に乗ろうとする者も出始めるに違いない。養子擁立派が元就支持派を数で圧倒するところまでゆけば、血を見ずして家督の交代劇が実現するはずである。
元明はさして切れ者というわけではないが、根が陰謀家だけにこの程度の構想ならすらすらと脳裏に描くことができた。
「まずは長門殿に坂一門をまとめてもらわねばならぬが――。そのためには左衛門尉殿をこの一挙に引き込むことが肝要と存ずる。このこと、お任せしたいが、よろしいか」
元明が言うと、広秀はしばらく考え、やがて重々しくうなずいた。
左衛門尉とは桂広澄のことである。広澄の桂氏は、坂一族の中で特別な位置にある。
坂氏の宗家は広秀が家主を務める向原の家であるが、広秀の父である坂広時には広明という兄がおり、この坂広明が桂村に分家し、桂氏の初代となった。なぜ長兄が宗家を出なければならなかったのか、この辺りの事情は詳らかでないのだが、いずれにしても桂氏は、坂氏の主要一門・四家の中で長兄の家に当たり、言うなれば名門・坂氏の嫡流ということで、家中からも特別な敬意を受けていたわけである。
その桂氏は、元就が新当主に立ったことを画期として桂広澄が隠退し、嫡男の元澄が家督を継いでいる。しかし、元澄は未だ二十五の若造に過ぎず、家主となってまだ半年にも満たないわけであるから、実権は依然として広澄が握っていると見るべきであろう。
――あの男は苦手じゃ。
という想いが元明にはある。
元明が毛利家に加わり、二番家老の地位を得た二十数年前から、桂広澄は一貫して元明に冷眼を向け続けていた。広澄は物事に対して好悪をはっきりと表す性質で、嫌いなものは死んでも受け入れないというような情の強さがある。おそらくあの男は、欲望を原動力にして権力の階梯を登攀しようとするような型の人間を毛嫌いしているのであろう。
自分との相性は最悪としか言いようがないのだが、それでも、桂広澄がこの陰謀のキーマンであると元明は考えていた。
桂広澄は沈毅な雰囲気と独特の威を持った男で、武人としては家中で屈指の精兵(弓の巧者)であり、武将としては練達の合戦上手である。戦場往来の男たちの間では人気が高く、坂一族の中でさえ宗家の広秀よりむしろ人望がある。広秀が旗を振るだけで坂一族をまとめ切れるかどうか、実際のところは心もとないのだが、広澄が養子擁立を支持してくれれば風向きは決まるであろう。
広澄も尼子の強大さと尼子経久という男の恐ろしさはよくわかっているはずであるから、一味に引き込むことは必ずしも不可能ではない、と元明は見ている。希望的観測かもしれないが、つまるところは広秀の説得能力次第であるとも言える。この陰謀を軌道に乗せるために、この男を味方につけられるかどうかが最初の分水嶺ということになるであろう。
「これは老婆心で申し上げるのだが、大事が成った暁には、御辺はご嫡男の元祐殿に世を譲られるのが良い。他人を説く時は、必ずそう明言するべきです。私怨や私欲を捨てて掛からねば、たれも加担してはくれませぬぞ」
さしたる失政もなく、家臣たちから疎まれているわけでもない元就を、家督の座から引きずり降ろすのである。陰謀が成功したとして、その後にもし広秀が権力の枢要を握れば、結局は私利私欲からの行動であると世間に見られる。この手の陰謀から生臭さを消すには、私怨や欲得による行動ではなく、主家の将来を想う心から出た無私の行動であることを言行で示すしかない。一途に尼子氏を恃み、その紐帯を強くするための養子入れであり、それ以外の目的があってはならないのである。広秀はたとえ表舞台から身を引いたとしても、家督を譲った我が子を後ろから動かすことはできるのであるから、家中の批判や指弾をかわすためにも、潔く身を引く姿勢を明示しておく方がよい。
その指摘はいちいち道理であり、この点は広秀も納得したようだった。
私利私欲を捨てよ、というこの示唆は、一方で元明自身の私利私欲が多分に含まれている。
どういうことかと言えば――。
いま毛利家臣団の首座に座っているのは福原広俊である。福原氏は元就の母の実家であり、広俊は元就とは従兄弟の関係で、無二の元就派と言ってよい。その元就派を追い落として政権交代を実現すれば、元就の腹心である広俊も首座から転がり落ちざるを得ない。当然、その空いた席には、二番家老であり養子擁立派である自分が座ることになろう。
この想像をさらに推し進めれば――。
このクーデターの立役者となる坂広秀は、隠居することで表舞台から消えてくれる。擁立する尼子経久の孫はまだ元服前の少年であり、新たに坂氏の総領となって執権の座につくであろう坂元祐は二十代の若造に過ぎない。若い主君の後見を務めることになるのが元綱であるが、あの男は自己表現は戦場でするものだと思い込んでいるような節があり、合戦以外のことにはほとんど関心を示さない。となれば、行きつくところ、養子擁立派の有力者である元明と井上元兼の二人が派閥の領袖として浮上する。新たな毛利家の政治体制は、坂氏と組んだ元明の派閥と井上党を握る井上元兼の派閥による二頭体制ということになるであろう。
――悪い絵ではない。
これまで権力の中枢で大きな顔をしていた一門衆の有力者たちが奇麗にいなくなる。元明は新当主の功臣となり、しかも尼子経久を後ろ盾に持っているわけだから、家政を思うままに主導できるであろう。その立ち位置は、実に居心地が良さそうである。
――まずまず、じっくり腰を据えてやることよ。
杯をあげ、ごくりと酒を飲み下しながら元明は黙考した。
急ぐ必要はない。
元就や志道広良が事態の重大さに気付いた時には、すでに粛清を断行することができないというほどの勢力を密かに築かねばならないのである。すべての根回しを極秘のうちに行うことはもちろんだが、じっくりと時間を掛けて着実に事を運んでゆくべきであろう。
さて――。
新年も早々に大風邪を引き込んだ元綱は、ほとんど半月ばかりを寝所で横になって過ごした。
そうして病床を温めている間に、二度、定例の評定があった。一度目はまだ高熱が引いてさえいない時期であり、二度目の時も体調が回復していなかったため、元綱はそれを理由に出仕を断った。自分が居ても居なくとも大して問題にならないような議題だったということもある。陣触れというなら這ってでも往くが、小政治のための会議やら年中行事の類いには、元綱はそもそも関心が薄い。
かつて病気らしい病気をしたことがない元綱が、二日酔いというならともかく、罹病して起てないというのだから、これは真夏に雹が降ったというほどの珍事である。その病状を確かめるように、城から見舞いの使者が来た。
――人が寝ておる時に、迷惑な・・・・。
主君からの使者を迎えるとなれば、病床を片付け、着替えなどもし、それなりの容儀を調えねばならないのである。はっきり言って億劫であり、元綱は対応を重蔵に任せて使者を追い返した。
「あいにくと主人は御病気にて、せっかくのご足労ながら、とてもお会いすることは叶いませず――」
と、遁辞を構えたのである。
すると数日後、志道広良が自ら相合の屋敷まで出向いて来た。
これも珍事と言っていい。父の弘元が死んでから、不仲な坂広秀が元綱の後見役であったこともあり、広良は招かれでもしない限り相合の屋敷に足を向けるということがなかったからである。
広良ほどの顕貴な要人を門前払いするというわけにもいかないから、元綱はしぶしぶ病床を払い、小袖の上に温かな綿入れの胴服を重ねて書院に出た。妻の配慮であろう、たっぷり炭を入れた火鉢で部屋はよく温められていた。
「これは――。おやつれになりましたな」
元綱の顔を見た広良は、その衰弱ぶりに驚いたようであった。
「もう半月も寝てばかりおる。ようやく粥なども食えるようになったが、手足の節々にまだ熱が溜まっておるのか、起きるのも大儀なのだ。咳も収まらぬしな」
「病気とは聞いておりましたが、これほど重いとは思いませなんだ。殿も相合殿のご病状を案じておられまする」
「それでわざわざ執権殿が拙宅に足を運んでくだされたというわけか」
「まあ、それもござる。――が、本日の元来の趣きは、相合殿に、殿に忠節を誓う起請文を書いて頂きたいと思いましてな」
「起請文?」
「左様。殿に対し、二心表裏なく奉公申すべき旨を、誓紙にしたためて差し出して頂きたいのでござるよ」
元綱はさすがに不快になった。
「書けと言うなら書くが――。何やら痛くもない腹を探られておるようで、気分の良いものではないな。執権殿は、俺が寝込んだと聞いただけで、謀叛でも企んでおると邪推をしたわけか」
「そのような――。謀叛なぞという不穏当な言葉を、気安う使うてはなりませぬぞ」
広良は困ったような怒ったような顔でたしなめた。
「他家のことは知らず、ご当家においては、君臣のご兄弟の間で誓紙を差し出して頂くのは、慣例のようなものでござってな。これは何も相合殿に限った話ではないのですわい。かくいう殿も、今は亡き秀岳院さま(兄・興元)に別心なくお仕えする旨、誓紙を書いて頂いたことがござった。あれは確か、殿が十七、八の時でござったろうか」
「ほう、兄者が、な・・・・。それは初めて聞く」
元綱はそんなものを書いた覚えはない。その当時、元綱には何の政治力もなかったから、そもそも問題にされなかったのであろう。一方の元就は、すでに多治比家の当主として自立しており、毛利本家から半ば独立した立場であったから、広良はあえて長兄・興元に対して忠誠を誓わせたのに違いない。
「これがその時、殿がわしに宛てて書いてくだされた起請文でござる。ご披見くだされ」
広良が差しだしたのは熊野権現の牛玉宝印――いわゆる熊野誓紙である。その裏面を見ると、元就の筆跡で「御契約申す条々の事」と題する五箇条の文言が列挙されていた。
意訳すると、
・元就は今後、何事についても志道広良の扶助を受けつつ毛利家のために奉公すること。
・もし元就と広良の間について何かと良からぬことを言う者があれば、二人で腹蔵なく相談し合い、互いに逆心を構えないこと。
・元就が若気の至りで道理に叶わぬことを申し立てるようなことがあれば、広良がそれに異見し、それでも元就が承引しないときはこの誓約に違背したことにすること。
・毛利家のことについては広良とよく申し合わせ、兄の興元に対して二人で忠勤を励むこと。
・元就は毛利家のために事の大小に関わらず誠実に尽くし、ひとえに広良の扶助を頼むこと。
といった内容で、この誓約に背いた時は神罰を蒙るよう、梵天帝釈、四大天王、八幡大菩薩、厳島大明神、天満大自在天神の名を挙げて誓っている。
「要は、これと同じものを執権殿に宛てて書けということか」
「要は、神にも殿にも背いてくださるな、ということでござる」
広良は語気と眼に力を込めた。
「武門の兄弟というのは、そもそもが難しいものでござる。遠くは源家の頼朝と義経、近くは足利将軍家の尊氏と直義など、悪例を挙げれば枚挙に暇がない。武門は、兄弟の仲が睦まじゅうあってこそ、家門が栄えまする。逆に兄と弟が嫉み合えば、必ず家の衰亡の兆しとなるものでござる。この老骨の願いと言えば、殿と相合殿とがこれまで通り、いつまでも睦まじゅうおってもらいたいということに尽きまする」
広良は、新当主である元就の権力基盤が十分に固まるまで、いかなる間違いも起こさぬよう、念には念を入れておきたいのであろう。誓いは己の心に立てるものだと思っている元綱にすれば、神仏に誓うという行為自体が笑止だし、毛利家に対する誠心を疑われるのは不愉快でもあったが、一筆書くことで兄や広良が安心できるというなら、それはそれで構わないかとも思った。
「ようわかった。――で、どうする? 神前で書けというなら、今から清神社にでも出向くか?」
「いやいや、ご病身の相合殿を、この寒空に外へ連れ出そうとまでは思いませぬ。この場でお書きくだされば結構」
「そうか。やすいことだ」
元綱はゆきを呼んで筆硯と誓紙を持って来させ、手本と同じ内容の文言を名だけ差し替えてさらさらと書き、広良に手渡した。
「かたじけない。さっそくこれより城にのぼり、殿にご披見頂きまする。殿もお喜びになられましょう」
広良が預かることになったこの誓紙は、しかし、『毛利家文書』の中には存在しない。
この時から七十日ほど後――大永四年(1524)の四月初旬に起こったある不祥事を毛利家の歴史から蔽い隠すために、元綱の名が出るあらゆる関連文書が後に意図的に破棄されたからである。
元綱はこの時、そういう自分の運命をまったく予見していなかった。