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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第六章 鷲の羽を継ぐ…
55/62

新たなる船出(二)

 毛利家の家督相続問題は元就が家督につくことで決着した。

 しかし、決着したと認めていない者もまだ少なからず存在する。

 たとえば尼子家の老臣である亀井秀綱は、尼子の血を引く人間を毛利家に送り込んで家督を継がせるという企図きとを、まだ諦めてはいなかった。

 相続問題に介入した秀綱にしてみれば、元就の家督相続を認めることは、元就との政争に負けたということに臭いが近い。この男はプライドが高いだけに非常な負けず嫌いであり、毛利家への養子入れの話をすでに主君に進言してしまった後だということもあって、このままおめおめと引き下がるような気は毛頭なかった。

 とはいえ、この相続問題は幕府の承認をもってすでに落着してしまっている。今さらこれをひっくり返すのは、自明のことだが普通の方法では不可能で、その不可能を可能にするには非常の手段が必要となるであろう。

 まず大前提として元就をして家督の座を空けねばならない。しかし、ただ元就を殺しただけでは、弟の元綱が空いた席に座って仕舞いということにもなりかねない。経久の孫――尼子国久の子――を毛利の家督に据えるには、あらかじめ元綱をこちら側に抱き込んでおく必要がある。

 後継候補(後の尼子豊久)はまだ元服さえ済ませてない少年であるから、当然ながらこれを後見する者が必要で、その後見役こそが実質的に権力を握るということになる。元綱にはこの後見役の席を用意すればどうであろう。今の元綱の立場は何の権力もないただの部屋住みであり、兄の元就が生きている限りその家来に甘んじざるを得ないのである。そのあたりの条件でも折り合いがつくのではないか――。

 そこまで考えた秀綱は、元綱という男の人となりを思い返し、心中でわずかに首をひねった。


「そうたやすく乗って来るとも思えんな・・・・」


 強欲な男なら釣りようもあるが、あの青年は権力を欲する型の人間には見えなかった。


「何もそう難しくお考えになることもありますまい」


 と知恵をつけたのは、謀臣というべき鉢屋弥之三郎である。


「元綱がどんな男であるかなぞ、さして関係ないことじゃ。逆心があろうがなかろうが、謀叛むほんをせねば己が滅ぶというところまであの男を追い込んでやれば、おのずとお望みの成果が得られましょう」


 相手に殺されるくらいなら、いっそ相手を殺す、というのが武士という生き物である。元綱を暴発させて元就を殺させ、その謀叛を尼子の権威で正当化してやることで恩を売ればよい、という意味のことを弥之三郎は言った。

 ――あざとい考えをするものよ。

 その知恵の使い方に秀綱はむしろ嫌悪感を覚えた。

 この亀井秀綱という男は、辣腕らつわんの実務家ではあるが、その主君であり師でもある尼子経久のような策謀家としての才能は大きくない。この男の才質はむしろその真逆のところにあり、法や道理、倫理などといった明快なものに基づいて堂々と物事を処理してゆくことに向いている。陰謀によって他人を陥れるといった腹黒さは本来持ち合わせていないのだが、毒が滴るような弥之三郎の提案に蠱惑こわく的な魅力を感じたということは、不本意ながら認めざるを得ない。

 世はまさに戦国乱世である。応仁の戦乱からこの半世紀、骨肉相食む末世の風潮が日本国中にはびこっている。足利将軍の後継候補を担いで大大名たちが争い合い、「錯乱」とまで評された永正年間の混沌とした争乱も、十五年続いている管領・細川家の内訌も、煎じ詰めていえば家督の相続争いであるに過ぎない。上は将軍、管領、守護から、下は国人、地侍といった地方の小領主まで、本家と分家、兄と弟、叔父と甥といった関係の者たちが、全国各地で家督や所領の奪い合いをしているというのが、南北朝の頃から続くこの乱世の実相の一側面であり、こういう時勢にあって、弟が兄を殺して家督を奪うことなぞは今さら珍しくもない。

 その意味で弥之三郎の発想は奇抜でも非凡でもなく、むしろ極めて実現性の高い謀略であると、秀綱は思った。毛利家の兄弟がどれほど仲が良かろうが、ねつ造した風聞で外堀を埋め、元綱に近い老臣たちをも巻き込んで対立の空気を煽り、元就とその周囲の重臣たちの危機意識を刺激し続けてやれば、事態を抜き差しならないところまでもってゆくことも決して不可能ではないであろう。元綱を粛清するしかないと元就が決断すれば、元綱の方も我が身を守るために叛逆せざるを得ない。

 そして、元綱が見事に元就を殺せば、それが考え得る最上の結果となるのである。

 なぜといえば、元綱は「主殺し」かつ「兄殺し」をすることになるわけで、そのまま家督の座についたところで家中の信望を得られるはずがない。たとえ正当防衛であろうが、どんな言いわけを並べようが、人はその倫理的な不潔さを必ず嫌悪する。「私欲のために兄を殺した」と後ろ指さされることを元綱が恥じるとすれば、なおさら自ら家督にはつき難いであろう。そこで、尼子経久の孫を幸松丸の姉とめあわせ、婿養子にして主君に推戴し、元綱はその後見をすればよいと示唆しさしてやれば、渡りに船とばかり話に乗って来るに違いない。

 主君とは、それを仰ぐ群臣にとっては日輪のようなものである。毛利家の家臣たちにしても、穢れた日輪を喜ぶはずがなく、血塗られた醜行に手を染めた元綱をそのまま容認する気にはとてもなれぬであろう。尼子傘下の毛利の立場からすれば、他家から婿養子を入れるとすれば、尼子経久の孫であればこれ以上ない良縁であるわけで、自然の成り行きとして、婿養子を迎えて再出発する方が良いと考えるようになるのではないか。

 ――そのように転んでゆけば言うことはないが・・・・。

 毛利家が勝手に起こした不祥事に、尼子が好意で手を差し伸べてやる形にすれば、尼子に対する怨みや反発も残さずに済む。まさに万々歳である。

 しかし――。


「だが、元綱が謀叛を起こすまで元就が待ってくれるとは限らぬぞ。元就の方が先手を打って弟を殺してしまえば、何もならぬ」


 元就が死ぬということがこの陰謀の大前提なのである。


「元綱がいつまでも煮え切らぬようなら、元就が動く前に、我らの手で元就を亡きものにすればよい。元綱が兄を暗殺したと、世間が思うところまで事態を煮詰めてしまえば、後は何とでもなりましょう。真相なぞというものは常に闇の中――たれも知ることができぬものでござるゆえ」


 弥之三郎は蛇を思わせる三白眼を細めて笑った。

 秀綱は暗殺などという陰湿な行為を喜ぶ体質ではない。しかし、尼子の人間に毛利家の家督を継がせるには、非常の手段を取る以外にないこともよくわかっていた。元就との政争に敗れるくらいなら、陰謀をもって元就を殺す方がマシであり、この選択に躊躇はなかった。

 ――やるからには、手駒が要る。

 密謀は加担する者が増えるほど漏洩ろうえいしやすくなるものだが、元綱に叛逆を決意させるところまでもってゆくには、どうしても毛利家の老臣の二人や三人は味方に引き入れねばならぬであろう。


「弥之三郎、吉田の中村宮内少輔くないのしょうのもとへ密かに使いせよ」


 感情の篭らない声で秀綱はそう命じた。




 「安芸門徒あきもんと」という言葉があるほど安芸は念仏が盛んな国柄である。

 念仏信仰や浄土信仰といったものは古くからあるが、特に「門徒」という言葉を使う場合、宗派としては鎌倉新仏教のひとつで親鸞しんらんが創始した「浄土真宗」のことを指す。この宗派名を使うようになったのは実は明治以後で、この時代、単に念仏宗とか門徒宗とか一向いっこう宗などと呼ばれていた。

 親鸞自身は自派を起こすつもりはなく、一人の念仏信者として念仏の素晴らしさを広く民衆に教化する活動に終始し、寺院も教義も教団も持とうとしなかったのだが、「親鸞の教え」はその弟子たちによって数系統に分派した(現在、真宗教団連合に加盟しているのは十派)。安芸にこの教えが伝わったのはこの時期から二百年ほど昔のことで、備後の三次みよしにある照林坊から芸北へと伝えられたのだという。ちなみに宗派としては浄土真宗でも専修寺系――つまり真宗高田派であったらしい。いわゆる「一向一揆」で有名になるのは真宗本願寺派であり、高田派は本願寺派とは当時は犬猿の仲であった。

 それはそれとして、本願寺派は長く衰退の極みにあったのだが、この半世紀ほどの間に爆発的な普及と発展を遂げている。本願寺派を再興し、中興の祖といわれた八世・蓮如れんにょの登場が、その起爆剤であった。

 南都六宗、天台宗、真言宗といった伝統的な旧仏教はこの頃まで公家と武家の専有物のような側面があったのだが、庶民と賤民に深く浸透することで民衆の圧倒的支持を得た蓮如は、近畿から北陸、東海地方へと教団の勢力を拡大し、加賀では一向一揆の狼煙をあげ、守護・富樫とがし氏を滅ぼし、加賀一国を「一揆の持ちたる国」に変えてしまった。三十年ほど前に起こったこの大事件は日本中世史上に特筆されるべきであろう。

 先述したように安芸の一向宗は高田派であったから、一向一揆の名のもとに国人・地侍・百姓が大同団結して領主である大名に歯向かうというような事態は発生しなかったのだが、本願寺派はこの時期、他宗や真宗諸派の末寺をつぎつぎと改宗させては吸収し、全国でその勢力を飛躍的に増大させていた。その波はやや遅れて芸北にも達したようで、毛利の領国内でもこれから十五年ほどのうちに、天台宗、真言宗、禅宗などから一向宗に改宗する寺が三つ四つと出てくることになる。

 ちなみに蓮如は元綱が二歳の時に鬼籍に入っているのだが、安芸の一向宗寺院が高田派から本願寺派へと改宗し始めるのが、ちょうどその頃からだったようである。本願寺派の中心となったのは、武田氏の銀山かなやま城の山麓に建つ龍原山・仏護寺(現・本願寺広島別院)で、住職は武田氏の一族であり、武田氏は一向宗を庇護していた。

 よく知られるように、後年、蓮如の曾孫の子である十一世・顕如けんにょが天下布武への道を邁進まいしんする織田信長に敵対し、本願寺は大阪・石山の地で十年にわたる籠城戦を戦い抜くことになる。元就没後の毛利家は、その本願寺を後援し、織田家と戦ったという関係上、宗教的には安芸門徒と共に一向宗一色というイメージが強いが、少なくとも元就が若かったこの時期、毛利家の宗旨は一向宗ではなかったし、安芸門徒にも一向一揆的な性格はなかった。

 毛利家はもともと臨済宗に帰依きえしていた形跡があるが、この時代、武家は一般に「八宗兼学」で、特定の宗派のみに偏らず多くの宗派の教義を併せて学ぶ者が多かった。仏神に限らず天神地祇ちぎはすべからく尊ぶべきもので、その本質は同じである、というのが神仏混淆こんこうの当時の考え方であり、各宗派の教えの違いは極楽往生するための方法論の違いという風に理解されていたらしい。

 元就は、幼い頃に旅の僧から念仏の秘事を授けられ、ご来光に毎朝手を合わせて十念を唱えていたことがよく知られている。この僧は日蓮宗の徒であったと伝わるが、法華の遊行僧というのも珍しいし、題目だいもく(「南無妙法蓮華経」の七字)ではなく名号みょうごう(「南無阿弥陀仏」の六字)を授けたというのも不思議な話ではある。ともあれ元就が日輪信仰の持ち主であったことは間違いないのだが、熱心な信仰者であった元就も宗派自体にはあまり頓着しなかったようで、真言宗に属する郡山の満願寺にも篤い敬信を示していたし、曹洞宗の禅にも傾倒した。なかでも厳島大明神への崇信は熱烈なものがあり、自ら何度も厳島へ渡り、あるいは代人を参拝させ、社領や金銭を寄進したり、建造物を建てたり、社殿を大修築したり、多くの甲冑や武具を奉納したりしている。

 そんな元就もただ一点、日本のすべての宗教を邪教と断じて攻撃する伴天連バテレンの教えだけは受け入れられなかったようで、後年、ルイス・フロイスから「悪魔」呼ばわりされたりする。宣教師から憎まれたことを見ても、元就はキリスト教には好意的ではなかったらしい。

 ところで、元綱は宗教に対してどんな思想を持っていたか――。

 このことについては、残念ながら何ひとつ史料が遺されていない。

 家の宗旨が臨済宗で、異母弟が曹洞宗の僧になっていたから、禅宗には一定の理解があったであろう。殺生が稼業である武士に生まれた以上、ごく素朴な意味での念仏信者ではあったろうが、兄ほど真面目な信仰心は持ってなかったとした方が、この物語の元綱にはふさわしい気がする。


「我、神仏を尊びて、神仏に頼らず」


 と言ったのは宮本武蔵だが、元綱の気分もそれに近かったのではないかと想像したい。

 兵法ひょうほうという世に出て間もないこの技術は、こうすれば必ずこうなるという身体運動のことわりがその根本にある。真剣勝負で敗れれば即死ぬという過酷極まりない世界で、常に命賭けというぎりぎりの緊張感と危機感の中で日々この芸を磨き続けていれば、自分を救い得るのは自分の技術の精妙さだけであり、神仏も護符もまじないも何の役にも立ちはしないという現実に向き合わざるを得ない。妖しげで非合理的で猥雑で混沌とした――それだけにどこか淫靡ですらある――中世的なくらさから脱したところに、兵法という技術の冷徹な合理性があると言ってもいい。

 その点、軍略家という生き物は、この兵法者にどこか匂いが近い。

 戦争という、人間にとって究極とも言える勝負事の世界に身を置く軍略家は、彼我の戦力や士気、兵要地誌や季節天候といった目の前にある現実と、敵将や人間集団の心理といった眼に映らぬさまざまな要素までを計算に入れた上で、合理に徹して思考を巡らさねばならない。敵味方の状況が千変万化する戦場で、時に応変の才を発揮して物事を即断即決せねばならない。人心操作のために神仏を利用することはあっても、神頼みで戦さをやる気にはなれるはずがない。

 こうして考えてみると、兵法者である重蔵が元綱と肝胆相照らす仲になったのも、この二人が思想的な部分で共鳴するところが多かったからに違いない。



 その重蔵は、この一、二年、兵法者というより書生のような生活をしている。

 相合あいおうの屋敷で暮らすようになって以来、多くの書籍に触れられるようになった重蔵は――蓄えた知識の量がそれなりに増えてきたからでもあろう――余暇を見付けては元綱と兵学論議に明け暮れるようになった。

 いや、論議というよりは、元綱から兵学の講義を受けていると言った方が実情に近い。漢文をやすやすと読みこなす元綱は、様々な兵法書に対する理解が深く、その論旨は重蔵の理解の許容量を超えることが少なくなかった。

 たとえば、


「つまり『闘戦経とうせんきょう』と『孫子』とは、ひとつの物を別の方角から見たようなものなのだ」


 などと元綱は言う。


「ひとつの物の、別の側面――ですか・・・・」


 元綱が亡父から受け継いだ『闘戦経』にはこれを納めるためのはこがあり、そこに金文で「闘戦経は孫子と表裏」といった内容の函書きが記されている。そのことは知りつつも、重蔵は首をひねらざるを得ない。


「『六韜りくとう』や『呉氏ごし』、『尉繚子うつりょうし』なども優れてはいるが、俺の見るところ、武経七書のなかでは『孫子』がやはり一頭優れている。これは千五百年以上も昔に唐土もろこしで書かれたものだが、異国であるこの日ノ本で、今の世で実際にやっている戦さに当てはめても、わずかな応用でそのまま通用する。それほど戦さの本質を知り尽くした者が書いたということだ。だがな、『孫子これ』だけで十全であるなら、俺の先祖はわざわざ『闘戦経』を書いたりはしない。書く必要がないからな。それでもあえて『闘戦経これ』を書いたのは、日ノ本の戦さにおいて『孫子』だけでは足りないところがあると気付いて、その部分を補おうとしたからだと、俺は思う」


 『孫子』を軍略の教書とするなら、『闘戦経』はむしろ思想書に近い、という意味のことを元綱は言った。実際、『闘戦経』は戦術書としてはすぐに使える具体的な用兵の記述が少なく、将の心構えや戦争に対する理念のようなものに多くが割かれており、その点でより難解な書物であった。


「たとえば鳥は、翼が一対いっついあってはじめて飛べる。片羽では飛びようがあるまい。あるいは手を叩いて音を出すには、右手と左手が両方あってこそ、こう音が出る」


 そこで元綱は我が手を叩いて乾いた音を立てた。


「『孫子』と『闘戦経』は、ふたつがふたつながら揃ってはじめて軍略の蘊奥うんのう(奥義)に到れるのだ」


「片手落ちでは真髄に届かぬと?」


「届いてしまう者もなかにはおるのかもしれんがな」


「まずは両書をそらんずるほどになるべきでしょうか」


「そういうことではない。お経じゃないんだ。憶えりゃいいってもんでもないさ」


「わかりません」


「あのな、兵書には多くの戦さの例が書かれているが、それとまったく同じ条件の戦さが起こると思うか? どれほど優れた兵書でも、その文言の一言一句にとらわれて目の前の戦さを見失ったのでは本末転倒だ。『孫子』も『闘戦経』も、その程度のものと高をくくっておかねば、実際の戦さで大事を誤ることになる。だが、軽視して良いってわけでもない。一度や二度読んだだけではすぐに忘れてしまうから、忘れたらまた読まねばならぬ。何度かそうしておれば、諳んずることができぬとしても、文言の中の精髄のようなものがお前のなかに染みついて残る。その残ったモノを、真髄とか蘊奥と呼ぶんじゃないかと俺は思う。そうじゃないのかもしれんが、これ以上は言葉で説明しようがない。お前にとっての真理は、お前が自分で感得したところにしかないんだからな」


 真理とは仏語で、普遍の道理にかなった法則といったほどの意味である。


「わしにとっての真理、ですか・・・・」


 心にずしりと残る言葉であったから、自分の裡に何かが染みついて残るように、重蔵は前にも増して熱心に学ぶようになった。



 一方、元綱の方の日常には変化らしい変化はない。

 毛利家の家督問題が落着し、元綱に本家相続の目がなくなったことで近侍の若者たちは一様に落胆していたが、元綱本人は気落ちした様子もなく、気ままな生活を続けていた。

 事件――というほどではないが、あるとき元綱は評定の席で志道広良から釘をさされたことがある。


「相合殿は殿のご舎弟であるとはいえ、『君、君たり、臣、臣たり』という言葉もござる。ただのご兄弟であったこれまではともかく、これからは君臣のけじめをつけて頂かねばなりませぬぞ」


 元就への態度や口のきき方などが気に入らなかったらしい。

 元綱は一瞬むかっ腹を立てたが、言われてみれば確かにその通りだと思い直した。元就は兄であるというより、すでに「主君」なのである。少なくとも公けの場では、臣下の礼を踏み外してはならぬであろう。


「なるほど、執権殿の申される通りであった。兄者――、いや、――殿。無礼をお許しくだされよ」


 軽く頭を下げる弟に、元就は複雑な表情を向けた。

 もともと元就は次男であり、幼少の頃から当主になるべく育てられたというわけではない。にわかに家督を継いだからといって、先日まで同僚朋輩だった家臣たちに対して威丈高いだけだかに臨むつもりはなく、まして血を分けた弟にそこまでさせずとも――と個人的には思うのだが、当主の権威をより重くしたいという広良の真意も理解はしている。

 この日の評定は領内の作柄や収穫状況、年貢の集まりなどに関する報告が主題であった。今年の作柄は「やや良」といったところであろう。決して悪くはない。

 この物語では触れなかったのだが、この年から四年前、日本では三年にわたる大飢饉が起こっていた。「日本中で大飢饉」、「諸国で餓死者」、大干ばつ、大風雨洪水、悪作、不作といった文字が、公家や僧侶の日記に踊っている。それ以後も、たとえば京の周辺では長雨による水害や冷害、疱瘡ほうそうの大流行といった被害が連続したりして、世情が大変に荒れていた。

 一度飢饉が発生すると、百姓たちは生きるために翌年の種もみまで食い尽くしてしまうため、農業生産が元の水準まで回復するのに三年は掛かると言われる。永正十四年(1517)から十六年まで三年連続した大飢饉による食糧難の波は、もちろん安芸をも襲ったのだが、それ以後、中国地方では天候が比較的安定していて、収穫もまずまずあがっていた。また毛利の領国では戦さによって田畑が荒廃するといったこともなかったので、吉田に暮らす民にしても武士にしても、平素の暮らしにやや余裕が持てるまでになっている。今年の収穫状況も順調であり、そのことが、家中の人心の安定に寄与して大きいと、広良などは鋭く分析していた。新当主が立ったその直後に不作となるようでは、どうにもならない。こういう巡り合わせも、元就がもって生まれた運の強さなのであろう。

 ところで、様々な話が出るなかで、今後の元綱をどうするか、という話題になった。


「ご本家の家督も定まったことであり、この機にそろそろ相合殿にも家を立てさせればどうか――」


 ということである。

 領地を与えて自立させるか、家中で筋目の良い家に養子に出してその家を継がせるか、いずれかということになるが、新たに領地を与えるには領土を広げる必要があるわけで、これはなかなか難しい。重臣の家へ養子に入れるという形が現実的であるだろう。

 しかし元就は、


「四朗には新たな家を立てさせることを考えている。今すぐにというわけにはいかんがな」


 と腹案の方針だけを示した。


「いや、お考えはまことに結構なこととは思いまするが、新たに他郷を得るとなれば、これはなかなか難しゅうござるぞ」


 と言ったのは、元綱のことには親身になってしまう渡辺すぐるである。

 毛利領の周囲には、北方に高橋氏と宍戸氏がおり、西の千代田には吉川氏が、南方には熊谷氏と平賀氏が勢力を張っていて、当面、安芸国内では領地を広げる余地がほとんどないのである。


「よくわかっている。――が、当家がいつまでも今のままというわけではあるまい。私にすこし考えがある。この件はしばらく預けてくれ」


 元就の視線を受け、元綱は軽くうなずいた。


「俺は別に今のままでも構わぬよ。殿にご思案があるのであれば、思うようになさってくだされ」


 元綱は単に環境が変化することを面倒がっているだけなのだが、無欲な男に見えぬこともない。

 吐いた言葉はどこまでも無責任に広がってゆくのが常だから、元就はその腹案についてはそれ以上口にしなかった。それは今後の毛利家の戦略方針に関わることであり、噂になって敵を身構えさせてもつまらない。

 どいういことかと言えば、元就は、


「これから毛利が力を伸ばすには、東の備後に活路を見い出すしかない」


 と密かに考えていたのである。

 向原の辺りから東方に向けて勢力を伸ばし、その地に元綱を置く。元綱の家をもって、吉田を防衛する東方の藩屏はんぺいとし、同時に備後方面の旗頭にするというのが、元就の構想であった。毛利家は芸備の境目に根を張る豪族であり、備後に対して「他国」という気分はない。


「いずれ敷名しきなを奪い返して、四朗に任せたいと思うている」


 元就は志道広良にだけこの構想を語った。

 敷名郷というのは、吉田の東方――山を越えてて四里ほど行った備後の世羅郡にある。この物語の現在から二十六年前、元就の父である毛利弘元が、備後での合戦に加勢を出し、その褒美として備後守護の山名氏からもらった飛び領地であった。

 敷名郷は地理的には吉田のほぼ真東にあるのだが、しかしながら吉田から敷名郷へ行くには、道の関係で宍戸氏の甲立を横切らねばならず、宍戸領を迂回して行くにはいったん向原まで南下し、そこから山道を北東へ進むという、とんでもない遠回りをせねばならない。それが厭なら道もない大土山の山こぶをふたつ三つ越えて行くしかない。そういう地理的条件のために、連絡にも移動にも日数が掛かり、いざ敵に攻められたとなった場合も素早い援軍が出しにくい。つまり維持するのが非常に難しい土地であった。むろん代官を置いて統治していたのだが、地元の豪族でかつての領主であった敷名氏に実力で奪い返され、わずか数年で支配権を失ったという苦い経緯がある。

 向原は坂氏の領地であるから、敷名郷に坂広秀と不仲な人間を配することは不都合が多い。その点、広秀との繋がりが深い元綱であれば、仮に敷名郷が敵に攻められたとしても、広秀は援助の手を惜しまないであろう。

 そこまで考えた志道広良は、


「なるほど。妙案でありまするな」


 と言いつつ二度うなずいた。

 それはそれとしても、敷名郷を取るとすれば、その地への最短経路を通じておくことがやはり絶対条件である。そのためには宍戸氏との関係を改善せねばならないわけで、これは一朝一夕に出来ることではない。


「四朗がもし一刻も早く己の家を立てたいと思うておるようなら、あまり待たせるのも気の毒だ。先々まで見通しが立たぬと見たら、一旦、猿掛の城に入れ、多治比の地を与えてやってもいい」


 これまで元就が治めていた多治比郷・三百貫をそのまま譲ると聞いて、広良は驚いた。

 多治比は元就が二十年以上暮らしたいわば本貫の地であり、成長して自ら民政をみるようになってからは我が子を慈しむように丹精してきた土地である。そこに暮らす領民たちとも強い繋がりがあるだろうし、愛着も深いであろう。それを譲るというのだから、元就がいかに弟を信頼し、期待を掛けているかが、そのことでもわかる。


「――だが、いずれ四朗には、備後で働いてもらうことになろう」


 元就が宍戸氏との同盟を現実問題として考え始めたのは、この頃だったに違いない。




 さて――。

 収穫の時期も過ぎ、極彩色に染まった山々から生彩が失せると、吉田では肌を刺すような寒風が吹き始めた。

 芸北の百姓たちにとって、冬は内職の季節である。雪深い芸北では雪が積もれば野外での仕事は雪下ろし以外はほとんどない。男たちはもっぱら、家の中で囲炉裏を囲んで内職に明け暮れることになる。

 まず何と言っても粉ひきの作業がある。収穫した米の中のくず米、もち米、小麦、蕎麦そばといった作物を大量に石臼でひいて粉にするのである。これは一般に「かき粉」と呼ばれ、水で練って餅状にし、汁に入れて食べる。イメージは雑煮やすいとんに近い。あるいは粉のまま茹でてご飯に混ぜたり、団子やうどん状に加工して食べたりもする。冬季の重要な食料である。

 海の幸が獲れない芸北では、山の恵みと雑穀が人の命を繋いでいる。主食は玄米に五割近く麦をまぜた麦飯や、大根飯、雑穀や野菜をたくさん入れて量を増やした雑炊といったもので、米はなるだけ節約する。山間の芸北は平野の土地に比べて耕作地が少ないから、そうでもしないと食いつないでいけないのである。こういった食糧事情は百姓も武士もそう変わらなかったであろう。この時代、百姓たちにとって白米は常用の食物ではなく、お祭りや盆・正月、田植え行事といった特別な日か、合戦や普請ふしんといった「公事」に参加した時にしか食べられなかった。

 さらに重要な仕事は、消耗品を手作りすることである。

 すげでみの脚絆きゃはんを作り、藺草いぐさでござを編み、わらをなって縄や草鞋わらじむしろ、米俵、牛馬の草履ぞうりなどをこしらえる。こういった内職を安芸では「居業いわざ」という。女は家事の合間に木綿や麻から糸をつむぎ、布を織る。「百姓百品」という言葉があるが、自分たちが使う物は共同体の中で自給するというのが中世の山村の原則であった。

 元綱も内職というほどではないが、自分で使う草鞋や馬沓うまぐつくらいは自分で編む。ちなみに部屋住みの元綱は領地を持っていないので、当然ながら自分の田がない。つまり藁が手に入らないわけで、必要な量をまぐさなどと共に本家からもらっていた。

 この時期の元綱は、出仕の必要がない日はもっぱら矢を作ったり、鎧の繕いをしたりしているが、血が鬱してくると船山砦に登って留守兵を鍛えたり、雪の山野で鹿や兎を追いかけたりして過ごしていた。たとえ雪に降り込められても、屋敷に重蔵がいるのでそれほど退屈はしない。兵法へいほう書を共に検討したり、軍記物語を読み比べたりしていると飛ぶように時が過ぎるし、重蔵には妙な特技があって、将棋や囲碁といった遊戯がけっこう強い。


「足軽稼業で暮らしておった頃、戦さのない日は仲間と博打ばくちばかりしておりましたので――」


 というのが本人の弁で、実に手ごわい敵手てきしゅになった。将棋なら五度のうち三度は元綱が勝つが、囲碁ではほとんど勝ったことがない。

 話がやや卑俗になるが、娯楽ということで言えば、この時代の人間にとって性交に優るものはなかったであろう。元綱はどちらかといえば暑がりで、真夏と比べればこの時期の方をむしろ好んでいる。夏の情交には互いの汗と粘液を擦り合わせるようなところがあって、その暑苦しさには閉口せざるを得ないが、冬なら二人で身体を温め合っているようなもので、いつまでも睦み合っていられるからである。

 朝寝をした日など、ねやがすっかり明るくなってからゆきと戯れていると、

 ――この女は少しも容色が衰えんな。

 ということに、我が妻ながら感心することがある。

 あと一月もすれば年が改まるから、ゆきはひとつ歳を加えて三十になるはずだが、その肌膚きふにはたるみもゆるみもなく、手触りには極上の絹のような冷たい滑らかさがある。色はもともと目立つほどしろかったが、旅歩きを止めて日を浴びることが少なくなったためか、乳房や内腿といったあたりでは血筋が透けて見えた。

 巫女であった頃のゆきは、美しさの中にどこか妖の気が漂っていて、元綱はその気に当てられたように強烈にこの女に惹かれたのたが、相合で暮らすようになったゆきは――ことに鶴寿丸を生んでからは――かつての妖の気がすっかり抜けて、美しさにある種の明朗さを加えるようになった。それは女として枯れたということではなく、喩えて言えば水面みなもで揺れていたはすの花が大地に根を張って咲くことを覚えたといった感じで、匂い立つような美しさは少しも損なわれていない。


「それにしても不思議だ」


 汗で湿った妻の下腹のあたりを撫でながら、元綱は言った。


「何がです?」


「この腹に次の子が宿らぬことさ」


 ゆきは首を傾げ、眼だけで笑った。


「またすが神社のお長屋を仮寝の宿にしましょうか」


「あぁ、それは名案だな。またお前の夢寐むびに神があらわれてくれるかもしれん」


「そうなればきっと、ここにおたねが宿りましょう」


 たまにはそういう変化があるのも悪くない。

 ゆきにとって相合での日常は静かすぎるほど平穏で、それが淡々と過ぎてゆく。旅路を棲家としていた頃と違い、食べ物や寝床の心配をせずに済み、路傍の暑さに苦しむことも、極寒の吹雪にふるえることも、土匪に脅かされて死を覚悟するようなこともない。日々、夫や子供の世話を焼き、日常の雑務に追われているうちに日が暮れる。単調なその繰り返しこそが人の幸福であるということを、ゆきは初めて実感として知った。

 しかし、そういう日々のなかで、ふと、物狂おしいほど旅の空が恋しく思い出されることがある。そんな日の夜は、ゆきは遊び女になったつもりで挑むように夫の愛撫を求めた。そうすることで、無意識のうちに心のバランスを取っていたのであろう。

 河原者の出であるゆきは、出世欲だの権勢欲だのといったものははなから持ち合わせていないから、夫が毛利本家の家督を継ぎ損ねたことについては、なんのわだかまりも持っていない。どころか、本音を言えばむしろほっとしていた。

 側室に過ぎぬとはいえ、自分がお城の「奥」に収まって、多くの侍女にかしずかれている絵なぞは正直ぞっとしない。ゆきが武家の窮屈さをさほど感じずに済んでいるのは、元綱が部屋住みで領地も家来も持たず、その暮らしぶりに気楽な自由さがあったからであり、義母である相合の方が家格の低い家の出で、権高さのない気さくな婦人であったからでもあろう。

 ゆきに望みがあるとすれば、我が子が大病なぞせず健やかに育って欲しいということであり、今の生活が平穏に続いてくれることであった。

 ただ平穏といっても、実際はそう簡単なことでもない。時代はこの乱世であり、夫は武士なのである。常に死と隣り合わせの世界で暮らしているとも言えるのだが、その点、ゆきは不思議なほど心配していない。

 ――今義経が戦場で死ぬはずがない。

 そういう信仰にも似た想いを持っていたからであろう。



 年の瀬は時間の流れが早い。

 屋敷を大掃除したり、粉をひいたり餅をついたりして慌ただしく過ごしているうちに、暮れもよほど押しつまってきた。


廿日市はつかいちの紀ノ屋の使いの者でございます」


 と名乗る中年男が、雪を踏み分けて相合の屋敷にやって来たのは、よく晴れた日の夕刻であった。紀ノ屋の嘉兵衛かへえが、歳暮を贈ってくれたものらしい。男が差し出した葛籠つづらのなかには干しアワビやハマグリ、酢締めした牡蠣かき、塩漬けにしたサバやイワシなどが詰まっていた。


「やあ、これは有難い」


 元綱は素直に喜んだ。これで正月三が日の食卓が格段に贅沢になる。


「当家にご逗留くださいました幸松丸さまが、去る夏に身罷られましたよし、遅ればせながら、謹んでお悔やみを申し上げます。相合さまには、出雲のお屋形さまのご出陣を報せて頂きましたそうで、その御礼のしるしであると主人は申しておりました」


「あれからもう一年以上になるか。あの折りはたいそう世話になった。嘉兵衛殿もその後息災かな」


 一通りの挨拶を交換すると、元綱は勢い込んで尋ねた。 


「ところで、厳島の新九郎殿は無事に明国から帰って来られたか。この秋には遣明船が戻ると聞いたが――」


 あの海の男の風姿を思い出し、元綱はなんとも言えず好ましい、懐かしい気分になっている。


「はいはい。あれは七月の末でしたか、お命も積荷も無事に、お帰りになられました。色々とご苦労をなさったらしゅうございましてな。わたくしのような凡人からすれば、もう、おとぎ話のような話で、二晩かけても聞き尽くせぬほどの冒険譚でございました」


「おお、さもあろう」


 せっかくの機会である。元綱は、重蔵や近侍たちも母屋に呼び、酒肴を出して男を持て成しつつ、じっくり話を聞かせてもらった。

 厳島の商人あきんど衆の船は、新九郎が船大将となって予定通りこの年の早春に、大内氏の遣明船団を追うようにして明国へ出航していた。幸い時化しけに逢うこともなく、東シナ海を無事渡り切り、浙江せっこう省の寧波ニンポーに辿り着いたのだが、そこで新九郎は、明朝政府が全土に海禁令を出していることを知った。それまで許されていた民間レベルの私貿易が禁止されていたのである。勘合符をもった正規の遣明船は入港を許されたのだが、新九郎の船は私貿易船であり、寧波ではもちろん、南海の広州へも立ち入りが許されなかった。

 新九郎はやむなく明国での交易を諦め、中国沿岸をさらに南下し、海賊の襲撃を掻い潜りながら呂宋ルソン(フィリピン)まで往き、そこで染料や香料、陶磁器といった物を大量に積み込み、黒潮に乗って一路帰ってきたという。予定していた唐物はそれほど手に入らなかったが、日本では採れぬために珍重されている蘇芳すおうという赤い染料を大量に持ち帰ったので、この中継貿易で相当な儲けを出したらしい。

 一方、寧波に寄港した大内氏の船団は、わずかに遅れて到着した細川氏の船団と悶着もんちゃくを起こしていた。

 正規の勘合符を持たない細川氏は、堺の商人衆と共に明の商人を抱き込み、古い勘合符をもって貿易を行おうとしていた。実際、明朝の役人に金品を贈って買収し、先着の大内の船よりも先に入港検査を行わせ、より有利な条件で貿易を行うところまで持っていったのである。

 しかしながら、このことを知った大内側は当然のように激怒した。怒りに任せて細川側の宿舎を襲い、正使の僧を殺し、細川の船を焼き払った。生き残った副使たちが明国の役所へ逃げ込むと、あろうことかその役所まで襲撃し、明朝の役人を殺傷するという大不祥事を引き起こした。

 世にいう「寧波ニンポーの乱」である。

 大内氏のこの暴挙に明朝政府は激怒し、事件は国際的な外交問題にまで発展し、以後、しばらく勘合貿易自体が行われなくなる。


「大内のお屋形さまの船は、噂では晩秋に帰国なさったそうでございますが、肝心の交易を行うことさえ出来なかったようでございます。さらに哀れであったのは管領さま(細川高国)の船で、焼き払われて日ノ本に帰って来られなかったのだとか。交易のための品々は明国の役人に没収されたか、大内方に奪われたか、あるいは警護の村上海賊衆の者らが漁夫の利とばかりさらっていったのか――。ハキとしたところはわかりませぬが、いずれにしても、とんだ骨折り損で」


「大内のお屋形が上洛して管領代となられて以来、お屋形は細川家とは仲直りをされたように聞いていたが・・・・。これで両家は不倶戴天の敵となったな。しかし、それらの船の醜態に比べ、新九郎殿の水際立った仕事ぶりは、実に見事ではないか」


 元綱は我が事のように嬉しくなった。


「いずれまた厳島には往く機会もあろう。その話を肴に、また酒を酌み交わしたいものだと、新九郎殿に伝えておいてくれぬか」


「必ずそのようにお伝えいたします」


 男は屋敷で一泊し、廿日市へと帰っていった。



 年が明けると大永四年(1524)である。

 正月の松が取れる頃に、元綱は大風邪をひきこんだ。


「鬼の霍乱かくらんというヤツかな」


 と言って本人は気弱く笑ったが、かなりの高熱が数日続き、熱が下がった後も全身がだるく、咳も一向に治まらない。

 いわゆる流感――今でいうインフルエンザであったろう。


「雪が融けるまでは戦さもありますまい。ゆっくり養生なさいませ」


 看病するゆきはそう言って夫を慰めた。

 雪深い芸北では厳冬期は合戦ができない。つまり芸北に暮らす豪族たちにとって冬は外交の季節であり、謀略の季節であった。





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