新たなる船出(一)
室町末期に成立したと推定される『人国記』という古書がある。
日本全国の人の気質をその土地の風土と関連付けて国別に書き記した書物で、嘘か真か、あの武田信玄が座右に置いて参考にしたという逸話が伝わっている。
その『人国記』の安芸国の項を見ると、武士の形儀(気質)として、
「人の気質実多き国風なれども、気自然と狭くして、我は人の言葉を待ち、人は我を先にせんことを常に風儀として、人の善を見てもさして褒美せず、悪を見ても誹る儀もなく、唯己々が一分を振舞ふ意地にして抜きんでたる人、千人に十人とこれ無くして、世間の嘲弄をも厭わざる風儀なり。
これによって頼みなき様なれども、底意は実儀より起こりたる事なれば、善き所多し」(『人国記・新人国記』岩波文庫版)
とある。
続く解説が面白い。
「この気質を離れたる人出来せば、名人とも謂うべき人出づべき国風なり。別して佐伯、沼田、賀茂郡の人律儀強く、弐心表裏少なく、行儀よきなり」
名も伝わっていないこの著者は、他国人の気質を糞味噌に酷評する人なので、芸州人の気質に関しては非常な褒め方をしていると言っても大袈裟ではない。
が、著者が取材をしたのは、あるいは瀬戸内の沿岸部だけだったかもしれない。
安芸という国は、芸北と芸南では同じ国とは思えないほど気候も風土もまったく違っている。人の移動が少なかった中世においては、おそらく人の気質も大きく異なったに違いない。
一例を挙げれば、たとえば瀬戸内沿岸と北部山間地域では、同じ安芸国内でも年間平均気温が最大で十度も違ってくる。瀬戸内沿岸部は気温で言えば九州の熊本市並みに温暖で、真冬でも積もるほどの雪はそうそう降らないが、対して山深い芸北は西日本で屈指の豪雪地帯である。なかでも「奥山県」と呼ばれる北西部の高原地域は、人が暮らす集落の標高が七百メートル以上に達し、年間の平均気温はわずか六度――これは北海道の旭川市並みの寒さである。
毛利氏の吉田は、同じ中国山地のただ中であるとはいえ平地の標高が二百メートルほどだから、寒さもそこまでは厳しくない。が、それでも秋の訪れは瀬戸内の沿岸部より半月は早いであろう。
大永三年(1523)は、八月十二日が現在の暦の十月一日に当たる。
この夏は暑気も残暑も厳しかったが、毛利家の家督相続問題が落着した頃には、吉田にもようやく爽やかな秋の風が吹くようになった。郡山の周囲の田圃では黄金色の穂波がさわさわと揺れ、よく実った稲穂が重そうに頭を垂れている。
元就が郡山城に入城したその翌日から――これは無論まったくの偶然だが――吉田では一斉に米の収穫作業が始まっていた。百姓たちは家族総出で我が田に出て、歌を唄いながら並んで稲を刈っている。
刈り倒した稲は三株ほどずつ藁で束ね、安芸で「ハデ」と呼ばれる干し棒に掛けて一ヶ月ほど天日で乾燥させる。その後、穂から籾を脱穀し、籾殻を落として玄米にし、俵詰めするというのが作業の流れだが、ちょうどその頃から二毛作の麦の植え付けが始まるので、それに合わせて田を畑に作り替えねばならない。
ちなみに畑作の作物には畠年貢が取られるが、裏作の麦は「作り取り」が許され、領主に年貢を納める必要がない。「田麦は農民の依怙(私利)」というのは鎌倉幕府が法として定めて以来、金銭による納税方式に代わる近代まで延々と続いた税制上の不文律で、その意味では麦こそが百姓の生活を支える土台の作物であったと言っていい。この畑作りと作付けには絶対に手を抜けない。
さらにこの時期、田の畔で栽培した大豆や小豆といった「連物」や、畑で育てた粟、きび、蕎麦などの収穫が重なってくる。加えて稲の刈上げ行事(収穫祭)も行われるし、領主に納める年貢の集積や運搬もせねばならぬ上、春までの長い期間を食いつなぐための冬ごもり支度もしておかねばならない。この時代は兵と農が未分化なので、事情は百姓も武士もそう変わらない。秋の農繁期は過酷なまでに忙しいのである。
重蔵はこの時期、身体が空いている時は近所の農家の手伝いをした。
共同体の中で農作業に協力するのは当然でもあるが、主人から禄も扶持も与えられていない重蔵にしてみれば、手間賃としてもらえる米は貴重な収入源でもあった。貨幣経済が未成熟なこの時代、米や布といった物品はそのまま銭の代わりになる。
この日、昼過ぎから田に出た重蔵は、腰の痛みを我慢しながらひたすら鎌を振っていたのだが、その夕刻、鶴寿丸が得意顔で駆け寄って来た。
「見よ見よ重蔵! こんなにとった!」
その両手には田螺が山盛りになっている。
「おお、これは凄い。よう探されましたな」
腰を伸ばした重蔵は少年を笑顔で褒めた。
収穫期のひび割れた田はちょっと掘れば田螺が簡単に採れる。鶴寿丸は亥助や近所の子供たちと採った数を競って遊んでいたのだが、これはこれで立派な仕事と言えなくない。しっかり泥を吐かせた田螺は味噌汁の具にしても良いし、味噌煮にすればお菜になり、甘辛い佃煮にすれば格好の肴にもなる。
「持って行ってお父上に自慢なさるとよい」
元綱は大いに喜ぶであろう。
その元綱は、今日は朝から郡山城に出仕したのだが、昼過ぎに逃げるように城山を降り、相合の屋敷に帰って来た。
「歌詠みの座なぞに連なっておれるか」
というのが本人の弁で、なんでも急に連歌会が催されることになったのだという。主人の供をした重蔵は、それで昼から暇になり、田仕事に出ていたというわけだ。
この連歌会は、元就が家督相続の祝宴を遠慮したことを受けて、それに代わる行事として重臣たちが急遽企画したものだった。
主賓はむろん元就である。
この時、毛利家当主となった元就がどんな発句を作ったか、ということは、翌日には家中の端々にまで知れ渡ることになった。
毛利の家 鷲の羽をつぐ 脇柱
という句がそれである。
それを聞き知った元綱は、後日、元就と二人きりになった時、
「あの発句はないだろう」
と兄をからかった。連歌の出来不出来は発句の善し悪しによるところが大きいと言われている。
「和歌や連歌のことは俺にはようわからんがな。それにしても、兄者ならもうちょっと気の利いた発句が作れそうなものだ」
「いや――、あれはな・・・・」
元就は気の毒なほど顔を赤くし、もごもごと言いわけをした。
あの連歌会は元就にしても寝耳に水の話で、心の準備が何もできていなかった。連歌の主題が、たとえば四季の風物などといったありきたりの物であればいくらでも誤魔化しが利いたであろうが、あの場面では「元就の家督就任」を主題とせざるを得ない。主賓である元就は当然真っ先に発句を求められたのだが、新当主としての抱負を乗せて発すべき最初の言の葉に、筆を迷わせて長々と長考し、優柔不断な姿を晒すというわけにもいかぬであろう。早く早くと気ばかり焦りつつ、せめて家督を継いだことに対する意気込みくらいは表現せねばと思って無理やりひねり出したわけだが、出来た句には情感のふくらみも知の煌めきもなく、思い返すのが面映ゆいほど出来が悪かった。何より致命的なのは季語が合っていないところである。連歌はその時の季節を発句に詠み込むことが重要なルールであるのだが、「鷲」は冬の季語であり、秋の連歌の発句にはいかにもそぐわない。せめて江家の末裔である毛利家を江の川の流れに掛けて何か作れなかったものか――などと後悔しきりなのだが、これは完全に後の祭りであった。
――何事にも備えが大切ということだ。
かいた恥が良い教訓になったと、自分に言い聞かせて心の折り合いをつけている。
ちなみに元就の死後百年以上経った江戸時代に書かれた『吉田物語』では、この発句は、元就の生母が夢に見たエピソードから出来たものであるとか、元就が夢に見たものであるとかいう噺を、古人の覚書きから採録したとしている。元就という人は、今川義元、細川藤孝、明智光秀、伊達政宗などと比べても引けを取らない戦国大名としては屈指の歌詠みであり、毛利家では神格化されたほどの英雄でもあるから、後世の毛利家に属する著者からすれば、元就の自作の発句とは認めたくなかったのかもしれない。
元就は逃げるように話題を変えた。
「まあ、そんなことより――。お前は本当にこれでよかったと思っているのか」
「ん? 何のことだ?」
「家督のことさ。お前が継ぐという道もあった」
元綱は鼻を鳴らして小さく哂った。
「俺が家督という柄か? 取りすました顔で聴政の席に座っておる絵なぞ、考えただけで尻のあたりがむず痒くなる」
その表情にわずかな自嘲の色はあるが、わだかまりはない。
「福原の母上から生まれた兄者は妾腹の俺とは違う。長幼の序から言っても、家督は兄者が継ぐのが道理だ」
「・・・・・・」
二人の間にしばしの沈黙が下りた。
その無言劇を嫌うように、元綱が言葉を継いだ。
「兄者は鷲の羽を継いだのだろう。せいぜい力強く羽ばたいて、毛利の家を天高く飛ばしてくれ。俺は――、そうだな、さしずめその鷲の爪であればいい。戦うことくらいにしか使い道がないからな」
武門の家に庶子という立場で生まれた者に、家を背負うという未来はそもそもない。生涯、兄の下にいてその家来同然に働くことが宿命づけられているのである。そこをわきまえているからこそ元綱は、自らの役割を合戦という部分にあえて限定し、政治から意識的に遠ざかるように振舞ってきたのであろう。これは処世というより家を保ってゆくための知恵であり、それこそ政治的配慮の結果であるとも言える。そういうことがわかっているというその一点だけでも、元綱には政治的識見もバランス感覚もある、と元就は見ている。このわきまえた弟に、武将としての華やかな働き場を与えてやることが、兄として、主君としての自分の務めだと、元就はあらためて思った。
「私が羽で、お前が爪か・・・・」
元就は穏やかに笑った。
「能ある鷹は爪を隠すものらしいが――。鷲はどうなのだろうな」
「そうそう、俺は昔から疑問だったんだがな。鷹と鷲というのは、一体どこが違うのだ?」
「――そう言われてみれば、どこが違うのだろう。ようわからんな」
父の弘元が鷹狩に興味を示さなかったからか、兄の興元もそれをせず、自然、郡山城では鷹が飼育されていなかった。狩猟は元綱がもっとも好む趣味のひとつで、鷹狩にも大いに興味があるのだが、鷹の飼育にはもちろん、鷹狩の装束や道具を揃えるにもそれなりの銭が掛かるから、これまで手出しができずにいた。このあたりの事情はおそらく兄も似たようなものであろう。
「いずれ鷹匠を雇い入れた折りにでも、じっくり聞いてみるとしよう」
「お。兄者は家督となるや、猿掛城主の頃にはできなんだ贅沢をさっそく始めるということか。ならば俺も一羽くらい鷹をわけてもらわぬことには、納得せんぞ」
「おいおい、家督となった私をさっそく強請るのか」
二人は屈託なく笑い合った。
安芸は連日の好天で、高い空にいわし雲が薄く広がっている。
鏡山城合戦が尼子軍の勝利に終わり、毛利家の周囲の豪族たちが尼子方で固まったからでもあろう、この秋は珍しく戦さもなく、吉田の日々は農繁期の慌ただしさのなかでも平穏に流れていた。
そんなある日の夕暮れ、元綱の母である相合の方が、幸と鶴寿丸、亥助ら子供たちと侍女らと共に、裏庭で賑々しい嬌声をあげた。
元綱が覗いてみると、どうも天神山の辺りで栗拾いをしてきたらしい。逆さまにした頭蛇袋から、地面に広げられた筵の上に数十個の栗の実がこぼれ落ちた。
「おお、今夜は栗飯だな」
元綱は我が子の頭をくしゃくしゃと撫でた。
海がない毛利領では魚貝は川魚くらいしか獲れないが、秋の山には自然の恵みが実にたくさんある。山菜、野草、きのこ類はもちろん、貴重な甘味としてはまず柿があり、栗、あけび、野いちご、山ぶどう、ぐみ、山梨、ゆずといった果実が採れる。これらはいずれも無ければ冬が越せないというほど重要な食料であり、主に雨天の日や、多忙な農作業の寸暇を盗むようにして女子供が拾い集めるのが通例である。
ところで、幸はこの一、二年で輝くような美しさを見せるようになった。
緑髪というのであろう、陽光を受けた長い下げ髪の艶が深い緑に見える。黒目がちの眼は大きく、まつ毛が濃い。ゆきの美貌には冷たい冴えがあるが、幸のそれには健康的な明るさがあり、笑顔になるとさらに年若く見えた。
幼い頃から旅の空を歩いてきたこの少女は、ゆきと共に様々な危険を踏破してきたという経験を持っているからか、芯の部分に頸さと厳しさを持ち、農村の生活しか知らない同世代の少女たちに比べ言動に大人びた落ち着きがある。たとえばこの数年後、男の愛を知った肌膚に女のうるおいが加われば、人目を惹くほどの美女になるだろうと元綱は思っている。
「幸は幾つになったのだったかな」
その声を受けた幸は、栗を選り分ける手を止め、頬を染めて控え目な微笑を返した。
「はい。十四になりました」
この少女にとって元綱は、姉とも師とも慕うゆきの夫であり、父と兄と主人を兼ねたような存在である。それだけに、年頃になってからは、どういう距離感で元綱と接するべきかということがわからず、正直なところ少々困っていた。声を掛けてもらったり、用を言いつけられたりするだけで、心が弾んで赤面してしまう自分を、我ながら持て余すことがある。
「もうそんな年か。ここに落ち着いた頃はまだほんの小娘だったがなあ」
言いながら元綱は、この少女が相合の屋敷に居ついてからの年月の経過に淡い驚きをおぼえた。妻のゆきは時間が凍りついたかのように容姿がほとんど変わらないが、幸の時間は瞬刻も止まらず、その肌体を少しずつ成熟させ続けていたということであろう。
「そろそろ嫁ぎ先を考えねばならんか」
この時代、女が十四にもなれば、結婚の適齢期と言っていい。
「・・・・・・」
少女は一瞬切なそうに眉根を寄せ、頬を染めて俯いた。
「どうです、母上。幸を母上の養女にすることも、俺の養女にすることも、できます。母上は幸を可愛がっておられるゆえ、嫁に出すとなればお寂しいかもしれませんが――」
「そうですねぇ・・・・。寂しいのはもちろんだけれど、そろそろ考えてやらなければいけないかしら」
母はやや曖昧に笑った。
「あら。私はてっきり四朗さまのお手が付くものと思うておりましたのに」
と言って艶然と笑ったのは、いつの間にか縁側に出て来ていたゆきである。
「蕾もそろそろ開きかけ。摘みごろまであと少しと見えますけれど」
この女は元歩き巫女であり、性をひさぐこともその仕事に含まれていただけに、世間並みの嫉妬心といったものからは超然としたところがある。
「馬鹿め。幸はほんの女童の頃から一緒に暮らしておるのだぞ。気分はすっかり娘というところだ。今さら同衾なぞ出来るか」
「光源氏は紫の上をほんの幼女の頃に引き取って、己が理想の女性に育てあげた上で、生涯の妻としましたわ」
物語に登場する架空の――その意味で絶世の――美女と比べたのでは幸が可哀そうだが、和歌に対する教養や、唄、踊り、笛などの技術も含めて――まだまだ発展途上ではあるが――たとえ武門の家に嫁いだとしても恥ずかしくない娘に仕込んだという自負が、ゆきにはある。
「光源氏と同じことを四朗さまがして悪いということはないと思いますけれど」
「あれは作り話だろうが。妙なそそのかし方をするな」
元綱は苦く笑った。
この若者は色を好むが、色に溺れるような性質ではない。酒に酔うことはあっても、酒に呑まれることはないのと同じで、その点、どこか醒めたところがある。
大人たちの会話の中に自分にとって不都合な香りを嗅いだのであろう、鶴寿丸が祖母に不安げな眼を向けた。
「幸はどこかへ行ってしまうのですか」
この少年にとって幸は、乳母と姉とを兼ねたような存在である。
元綱が何か答えるより早く、鶴寿丸の前にかがんで目線を合わせた幸は、
「いいえ。幸はどこへも参りません。鶴寿丸さまが大人になられ、奥方さまをお迎えになるまで、ずっとお側にお仕えします」
と言い聞かせるように言った。
それが元綱に対する敬慕の表現であり、ゆきに対する報恩の言行であるとすれば、幸は自らの女を意識するようになった後に、心志の撞着に長く苦しんでゆくことになるかもしれない。その苦しみを脱する方策は色々とあるだろうが、最短の近道は、幸が元綱の情けを受け、その子を産むことであろう。それがわかるゆきは、夫の鈍感さにため息をつくような気分で、未だ穢れのない愛弟子の将来を思いやった。
ただし、幸がこれから苦しみ抜いた末に見い出すであろう道と、今のゆきが最善と思うそれとが必ずしも一致するとは限らない。未来にどういう運命が待っているのか知るすべがない以上、「塞翁が馬」の故事が示すように、長い目で見た時、どういう選択が幸にとっての幸福に繋がるかということは、幸が人生の終幕を迎える時に我が人生を振り返ってみないことには、わからない。
わからないがゆえに苦しみ、それゆえに救われているのが、人間というものであろう。
これは別に幸に限った話ではなく、ゆきも元綱も、この半年後に自分たちに降りかかる運命の過酷さを知りはしない。知らぬがゆえに、今この瞬間、平穏な時間の流れのなかで幸福を実感することが出来ていた、とも言えるのである。
さて――。
元就の新体制は順調に船出したかに見えた。
変わらず執権を務めている志道広良は、桂元忠、児玉就忠、国司元相、井上光俊、粟屋元宗、平佐就有といった十代、二十代の俊英たちを抜擢し、新たに元就の側近に登用した。新当主が立ったこの機に、政治体制の刷新を図ったのである。
もともと毛利家は、一門衆や傘下の族党の力が強く、毛利本家の支配力が相対的に弱いという体制的な欠陥を持っている。これは各族党の独立性がそれだけ強いということをも意味していた。先々代の興元にはある種の人徳があり、そういう家臣団をよくまとめてはいたが、その興元の死後、幼君を戴いた毛利家は、各族党の総領である老臣たちによる合議体制となり、結果として老臣の発言力や影響力はこれまで以上に強まっていた。
「これから当家が飛躍してゆくためには、これまでのようではいかぬ」
と広良は考えた。
乱世とは軍事と政治に独裁が必要な時代である。大名家は、当主が英明である限りにおいて、そこに権力が集中する体制である方が諸事に都合が良い。広良は、元就の才質と器量を見込んでおり、元就を中心とする強力な首脳部を作ることによって、老臣たちの力を相対的に弱めようとした。トップリーダーたる毛利本家の当主の下、家臣団がより強固な一枚岩になるよう図ったのである。
「わしが到仕する頃には、執権という職も必要なくなりましょう」
主君となった元就にだけ広良はこの改革の意義を説明した。
広良はこのとき五十七であり、区切りの還暦まで残すは三年である。三年もあれば元就の新体制も固まり、群臣は元就に心服し、その下知に心から従うようになるであろう。そうなれば自分も安心して引退できる。
この男は清々しいほどの私心のなさで毛利家の未来像を描いているのだが、そういう広良の真意を察している者は、家中にほとんどいなかったであろう。殊に毛利本家の政治に嘴を入れにくくなった老臣たちの中には、広良が主導するこの改革を不快に思う者もいないわけではなかった。そもそも広良は早くに父を亡くした元就にとって父親代わりの存在であったわけで、広良の行動を悪意をもって見れば、若き当主を傀儡にし、その背後で専横を振るっているとさえ取れるであろう。
「執権殿がそういう魂胆であれば、我らは我らで自儘にさせてもらうわ」
性格が傲慢な井上元兼などは、広良のやり方に露骨に反発し、領内に勝手に関所を作って関銭を徴収したり、本城の城普請に井上党の人数を過少にしか出さないなどといった、面当てとも取れる横暴を始めるようになる。
井上党の勢力は家中で強大であり、それだけに元就もこの横暴を実力行使で抑え込むというわけにもいかず、辛抱に辛抱を重ねつつ折り合ってゆくことになるのだが、家臣の側から強いられた元就の憤懣と怨怒は、積もりに積もってこの二十七年後、井上一族の大量粛清という最悪の形で爆発することになる。
この井上元兼の例は行動に現れているだけにわかりやすいが、根深いところでそれ以上に憤慨していたのが坂広秀である。
「広良め・・・・!」
坂氏の総領が座るべき執権の席に分家の分際で長々と居座り、あまつさえ自分たち老臣を政治の中枢から遠ざけ、毛利家をいいように専断するつもりか――。
亡父の仇である元就を主君と仰いでいることも耐え難いが、分家の広良に顎で使われるような未来はどう考えても許せなかった。広秀にとって志道広良という存在は、事あるごとに自分の邪魔をする、害悪以外の何物でもない。あの男がある限り、広秀はこれからも驥足を伸ばしようがないであろう。我慢にも、限度というものがあった。
――広良を失脚させ、元就を家督の座から引きずり降ろすには・・・・。
単純な話である。
元綱を家督につけ、政治体制を一変させれば良い。
「いっそ殺すか・・・・」
広秀は心の深いところで呟いた。
あの二人をこの世から消してしまうことがもっとも手っ取り早い。元就さえ死ねば、次の家督は考慮の余地なく元綱ということになろう。ついでに広良も消してしまえば、この鬱屈から晴れて抜け出すことができる。
しかし、これは失敗すれば身の破滅であった。陰謀が露見すれば、自分はもちろん坂氏本家は族滅されるであろう。いや、仮に元就や広良を殺せたとしても、私怨によって彼らを討ったとなれば、家中の者は誰一人納得するまい。後に必ず広秀自身が訟獄につながれ、切腹か斬首か、いずれ死を強要されることになる。それは上手くない。
――後ろ盾が要る。
と広秀は思った。
家中の誰もが楯突けない強大な権力者を味方につけ、その権力を利用する。保身を図りつつ志望を遂げるには、それ以外にないであろう。
「尼子経久――」
真っ先に広秀の脳裏に浮かんだのは、その名であった。