運命の岐路(六)
幸松丸の死は、その翌日に吉田を発った使者たちによって各方面へと速やかに伝えられた。
国人一揆の豪族たちはその日のうちに訃報を受け取り、折り返すように弔問の使者を吉田に派遣した。地理的に近い高橋氏、吉川氏、平賀氏などは通夜にも間に合ったし、小早川氏、天野氏、野間氏、阿曽沼氏などの使臣も翌日の葬儀には顔を見せ、幸松丸の早すぎる死に悔みを述べた。
毛利は尼子家に臣従している立場であるから、主君である尼子経久へは真っ先に訃報を届けねばならない。
「とはいえ出雲は遠い。いずれ葬儀には間に合わぬことゆえ、道中はそう急がずとも良い。出雲往還は難所続きと聞くからのお。日が暮れてからも無理に山道を進むようなことはするなよ。くれぐれも怪我なぞせぬよう、気をつけて往くのじゃ」
志道広良は、出雲へ向かう正副二人の使者にそう訓示した。
安芸北東の吉田から、出雲東端の能義郡にある月山富田城まで、直線距離でも約百キロ。無論まっすぐに進めるわけがなく、江の川に沿って北上し、宍戸領の甲立を通り、三次、赤名、三刀屋と経て宍道湖の南岸へと至る備後路を使って中国山地を縦断し、さらに東進して安来郷の富田荘を目指すことになる。
宍戸氏を含め、道々の領主たちは尼子氏の傘下であるから、尼子経久への使者が関所で止められることはない。尼子氏に対して得点を稼ぎたいとか、毛利と友誼を深めたいとかいった領主側の思惑によっては、道中の護衛や宿所の世話といった便宜さえ受けられるであろう。道のりは長く厳しいが、鎧をつけて行軍するわけでもないので、この季節なら天候に恵まれさえすれば、早馬なら三日、歩いても五、六日あれば着く。
しかし広良は、
「まあ、十日ほどは掛かろうな・・・・」
と使者に聞かせるように独りごちた。
暗に「ゆっくり往け」と命じたのである。
――尼子にはよくよく用心しておかねばならぬ。
亀井秀綱の横紙破りで伯父を殺されている広良は、尼子氏をまったく信用していない。
この男の懸念は、毛利の家督相続問題に尼子氏から干渉が入ることであった。相手は何と言ってもあの尼子経久なのである。幸松丸が没し、毛利家当主が不在になったことを奇貨とし、たとえば経久の孫を毛利家に養子に入れ、家督を継がせるよう強要してくるといったことさえ考えられる。経久は実際にその手を常套的に用いており、次男と三男を出雲の有力豪族にそれぞれ養子に送り込み、家を乗っ取らせるということを行っているのである。
――それと同じ轍を踏むわけには断じていかぬ。
広良は――というより、これは毛利家とその庶家に生まれた人間に共通する想いであろうが――平安の昔から連綿と続く大江氏の血統に、強烈な誇りとこだわりを持っている。尼子氏の――宇多源氏・佐々木氏の血統を卑く見る気は毛頭なかったが、それでも毛利本家の乗っ取りなぞは許せるものではない。
しかし、広良あたりがいくら許せぬと憤ったところで、現状、毛利家は尼子氏に対して圧倒的弱者の立場にある。主君である尼子経久の命令だと言われれば、それがどんな横車であっても無下に突っぱねることは難しいであろう。いや、たとえあからさまな命令が下らずとも、「経久の意向」が伝えられるだけで、家中から尼子におもねようとする不埒者が出ることは十分考えられる。
広良はその長い政治経験のなかで、人間が他の人間に加える害の恐ろしさを厭というほど見てきており、その害を防ぐには、事が起こってしまってから対処するのではなく、事が起こること自体を未然に封じる方がはるかに実害や影響が少なくて済むということを心得ている。毛利家を守るためとあれば恩ある伯父さえ謀殺しようとした男である。現実認識に甘さはなかった。
――ともかくも隙を見せぬことじゃ。
毛利家の次期当主について、尼子側がどういう意向を持っているのかは広良の知るところではないが、こちらが絶対に譲れぬ問題である以上、尼子側の動きに対して受け身になるより、むしろこちらから先手を打って動く方が良い。「毛利家中の総意」という形でさっさと元就を家督につけてしまい、それを既成事実化しておくのである。出来れば、新当主となった元就の方から出雲へいち早く挨拶の使者を送り、事後承諾の形で経久に元就の家督相続を追認させる、という形にまでもってゆきたい。この問題を毛利側の理想通りに落着させるには、そうするのがもっとも安全性と確実性が高く、波風が少なくて済む、と広良は信じていた。出雲への使者に時間稼ぎをするよう示唆したのも、幸松丸の訃報が出雲へ伝わるのを一日でも二日でも遅らせ、その使者が吉田に帰って来るまでの間に、相続問題に決着をつけてしまう肚だったからである。
しかし、広良にとっての誤算は、肝心の元就が家督を継ぐことを躊躇したことであった。元就が結論を出す前に――広良の想像さえ超える速さで――尼子側から横槍が伸びてきた。
幸松丸の死からわずか八日後の七月二十三日――。
亀井秀綱の家臣が吉田に弔問にやって来たのである。
――この早さは何としたことか・・・・。
広良は内心で瞠目した。
こちらから送った使者が出雲の月山富田城に辿り着いたかどうかというタイミングであり、常識的にはあり得ない速さである。吉田に居た何者かが幸松丸の死を出雲へ急報したとしか思えない。それが尼子方の諜者によるものか毛利家中の人間の仕業なのかは判然としなかったが、いずれにしても月山富田城まで往復する時間は必要になるわけで、それを考慮に入れれば対応があまりにも迅速すぎた。
二十三日といえば、元就に家督相続を要請した日からわずか四日後であり、この時点で元就はまだ家督を継ぐ意志を明らかにしていないのである。広良は内心で臍を噬んだが、そんな思惑違いをおくびにも出さぬ温顔で、正副二人の使者を応接した。
「わざわざのご弔問、痛み入りまする。いやいや、ご光来が思うていたよりあまりに早かったので、驚き入りましてござりまするわ。使いに遣った者らは、富田のお城で無事に役目を果たしましたかな」
「さあ、それはそれがしは存じませぬ」
正使の男が答えた。
「はて。知らぬとは――?」
「幸松丸殿が夭折なされたと耳にされたお屋形さまは、その早すぎる死を心から悼まれ、また毛利家の先行きを大いに案じられ、風聞の真偽を確かめるためにも、すぐさま吉田へ使いを出すよう、我が主人・能登守(亀井秀綱)にお命じになられました。主命を受けた我が主人は、それがしを名代としてお遣わしになったという次第でござる。ゆえにそれがしは、毛利家のご使者の方とはお会いしておりませぬ。風の噂は、ご使者の足よりも速う伝わったものらしゅうござるな」
ぬけぬけと言ったものだが、風聞ということなら、外交的に尼子側が嘘をついたことにはならない。
「左様でございましたか・・・・」
広良はいかにも「面目ない」という顔で、出雲へ送った使者が遅延したことを詫び、頭を掻いた。
外交家としての広良は、劫を経た古狸といった風情がある。一見すると醇篤な農夫にしか見えぬ風貌と語り口で、策謀家である本性をすっかり蔽い隠して尻尾を出さない。
仏間へと通された使臣たちは、幸松丸の位牌の前で拝跪し、持参した香典と供物の目録を進上した。
別室に移り、正使の男は亀井秀綱からの書状を広良に手渡した。
幸松丸の夭折を悼み、尼子経久が今後の毛利家を心配しているといった内容で、委細は使者の口上によって聞くように、と記されている。
「幸松丸殿が身罷られてすでに八日が経った勘定でござるが――。毛利家では、次の家督はすでにお決まりになられましたかな」
来た――と広良は心中で身構えたが、努めて温顔を崩さず、屈託ない風情で答えた。
「そのことについては、先日、家中の老臣、重臣を集めて論議を尽くしましてな。家中の総意として、多治比の少輔次郎殿をご本家にお迎えし、家督を継いで頂くことに決しましてござる」
「ほう、早くも」
正使の男は大仰に驚いてみせた。
「いや、さもありましょう。筋目から言えば多治比殿を家督に迎えるが当然ではござる。――さはさりながら、多治比殿は、もう二十年も昔に本家から離れ、別家を立ててござろう。それが俄かに本家に戻るとなれば、不満を抱く者もあるのではないか・・・・。この吉田の本家には相合殿がござろうし、それが兄弟不和の元となり、ひいては内訌の火種になりはせぬかなどと――、お屋形さまは色々とお心に掛け、ご心配なされておられました」
「それはそれは・・・・。当家の事でお屋形さまのお心をわずらわせてしもうたとは、畏れ多いことでござる」
「むろん執権殿にはご承知の事とは存ずるが、お屋形さまは、若年の頃より世間の荒波に揉まれ、様々な苦労をなされたお方であられまするゆえ、我らのような凡夫には想いも及ばぬほど、実にきめ細やかな心配りを怠らぬお人でござりましてな。幸松丸殿の訃報をお聞きになるや、毛利家のために良きように計れと、我が主人・能登守にお命じになられたのでござる」
「能登守さまに・・・・」
「左様。我が主人は、毛利家のためにも良く、お屋形さまにも良かれと、様々に思案を巡らせましてな。そこで、内々のご相談でござるが――」
尼子から養子を迎える気はないか、と男は打診した。
「幸いにも幸松丸殿には姉上がおられる由、聞き及んでおりまする。お屋形さまのご令孫をその婿に迎え、家督となされるというのは如何か。このことは、毛利家にとっても決して損とはなりますまい。多治比殿と相合殿との無用な軋轢を避けられるばかりか、尼子と毛利の紐帯はこれ以上なく強まり、毛利はお屋形さまの後ろ盾を得て、ゆくゆくは吉川の若殿(興経)と共に、安芸の盟主ともなれましょうぞ」
「はぁ。それは――。いやはや、なんとも・・・・」
口籠る広良を尻目に、男は構わず言葉を継いだ。
「お屋形さまのご次男、吉田孫四朗(尼子国久)さまには三人のお子があり、なかでもご次男の新四朗さま(後の尼子豊久)は、才質、ご器量ともに優れ、末頼もしき若武者よと、お屋形さまの覚えもことのほか目出度うござる。元服は未だ終えてはおりませぬが、毛利の姫さまとは年齢の釣り合いも良うござろう。我が主人・能登守は、この新四朗さまをこそ、とお考えであられるが――。執権殿、如何思われまするかな」
「如何と申されましても――。いやいや、あまりに俄かなお話で、驚き入るばかりで――」
広良はことさら困惑した表情を作り、凡庸で優柔不断な姿を演じて見せた。
「このような大事は、それがしのような者の一存にては、とてもお返事ができかねまする。姫さまに婿養子を迎えるとなれば、まず北の方さまのご意向を伺わねばなりませぬし、当家の老臣にも諮り、論議を尽くさねばなりませぬ。そもそも家督の一件につきましては、すでに家中の総意として、多治比殿にと決まったことでもありますれば、それをもう一度ひっくり返してご養子に家督を継いで頂くとなれば、とてものこと、一日二日で話がまとまるとも思えませず――。いやいや、困じ果てましたな」
「さもありましょうな。我らもこの場で即答を得られるとは思うておりませぬ。さりながら、ここは毛利家百年のため、よくよくご思案あってしかるべきと存じまするぞ」
進むべき道を指南してやると言わんばかりの使者を見て、広良は内心で哂った。
この使者は、喩えて言えば、人を楽々と鏖殺できる凶器を振り回しておりながら、その凶器をもって広良を一撃のもとに殺してやるという殺気がないのである。それはそのまま背後に居る亀井秀綱の気分と見て良い。
養子の話を持ち込まれた毛利側がどういう反応を見せるか――。まずはその感触を探るために、秀綱は使者をもって下交渉をするという、いわば正統な手順を踏んだ。それは秀綱の生真面目さと慎重さを示しているとも言えるが、使者による交渉ということであれば、毛利側は、この使者が月山富田城まで帰って復命し、さらに尼子側の次なる使者が吉田に出向いて来るまでの時間的余裕が得られるわけで、それだけで広良は対応がずいぶんと楽になった。
たとえばこの時点で、「経久の意向」を奉じた態で秀綱が自ら吉田に乗り込んで来て、「話を受けぬようなら毛利家を潰すぞ」といった覚悟をもって要求をつきつけてきたとすれば、さしもの広良もよほど対処に困ったであろう。亀井秀綱といえば尼子家の老臣筆頭を務めるほどの重臣であり、それほどの男が遠く他国へ使いするとなれば、主君である尼子経久から外交についての全権を与えられていると考えるのが当然だからである。しかしながら、その秀綱の名代というのでは、尼子経久の意志を体現する使者としては、いささか格が低い。それだけでこの養子の話が、尼子経久の意志ではなく、亀井秀綱の発案から出ていると察することができる。
――能登殿も若いわい。
広良は亀井秀綱の正確な年齢を知らない。見た感じでは三十代前半といったところか。あの男は二十代の頃から尼子家の老臣筆頭を務めており、尼子経久に認められるだけの優れた才智があるのだろうが、大勢力に常に翻弄されざるを得ない弱小勢力という立場の毛利家を、執権として二十年以上も切り回して来た広良から言わせれば、まだまだ経験不足であった。
そもそも武力を用いずに他家を乗っ取るということが、どれほどの難事であるかを、秀綱はわかっていない。乗っ取られる側の心情に想いが及んでいないと言い換えてもいい。尼子経久が出雲で行った他家乗っ取りの成功事例しか知らないからかもしれないが、経久がそれを行うのと、秀綱が行うのとでは、似ているようでもまったく違うのである。
たとえば今回の場合、広良が秀綱の立場なら、何よりまず毛利の執権である広良をどんな手を使っても密かに味方に抱き込むか屈服させるかしたであろう。その上で、広良の顔と人脈を使って毛利家の老臣、重臣を説かせ、元就の家督相続を諦めさせ、尼子派の囲い込みと票固めをし、実際に評定が行われる時には、経久の孫を擁立することが既定路線になっている、というところまで入念な根回しをしたに違いない。感情の生き物である人間の集団を、外から思い通りに操ろうとするなら、その程度の深謀とそれに沿った手配りが当然あってしかるべきだし、それだけの布石を打ってもなお、後に家臣団のなかで通した無理に対する揺り返しが必ず起こり、内訌や粛清といった形で多量の血が流れることも珍しくない。他家の乗っ取りとはそれほど難しいものなのである。
しかし、眼前のこの使者には――つまり亀井秀綱には――その手の配慮がほとんど感じられない。
実際、秀綱は、これまでの毛利家との接触における経験から、多治比元就という男を見くびり切っていたし、毛利の老臣にはたいした人物はおらぬものと高をくくっていた。
――あの者らに何が出来るものか。
強大な尼子氏から圧力を受ければ、泣き寝入りをするか憐れみを乞うか――それ以外に術はないだろうと楽観していたのである。
驕る者は往々にして細かなところを疎かにするものだが、秀綱は生まれた時から常に強者の立場にあり、弱者の苦衷や思考を知る機会がなかったわけだから、これは彼の能力の問題というより、その性格を形成した環境の問題とすべきかもしれない。
いずれにしても、そういう秀綱の尊大な油断が、使者となった男の意識にもしっかりと影響を与えている。
「これは老婆心ながら――、まずは多治比殿の家督相続をいったん白紙に戻されて、ご養子の一件を老臣の方々とご相談なされては如何か。こう申しては何じゃが、お屋形さまのご令孫を養子に頂けるなぞというのは、めったにあることではござりませぬぞ。このような良縁をふいになさるのは、毛利家のためにいかにももったいないと、それがしなぞは思いまするがな」
広良はいかにも篤実そうな顔でうなずいた。
「仰せの通りにござりますな。能登守さまのお心遣いには、この上野、感じ入りましてござる。ご養子の一件につきましては、近日中にも評定を持ち、皆で話し合うと致しましょうが――。ひとつだけ念を入れてお聞きしておきたいのは、このお話、能登守さまのご意向と受け取っても、よろしゅうございましょうかな」
「申すまでもなく」
「なるほどなるほど。ようわかり申した」
その言質が取れれば広良は十分である。話の出処はあくまで亀井秀綱であり、尼子経久の命令というわけではない。
その夜、広良は全身全霊をもって使者を接待し、翌日、毛利家の「感謝」を表す夥しい香典返しの品々を持たせて城から送り出した。
ここからの広良の動きは素早かった。
まず十四人の宿老に使者を送り、「明日、評定を行うので、郡山城に参集すべし」と伝えさせ、さらに帰路についた使者の一行を密かに監視し、それが安芸から去ったことを確認するや、その夜のうちに自ら密かに多治比の猿掛城へ出向き、事態を元就に伝えた。「元就が家督を継がねば、尼子に毛利家を乗っ取られるぞ」と脅しつけ、元就に決断を迫ったのである。
「確かに、尼子が乗り出して来たとなれば、もはやぐずぐずと逡巡しておる場合ではないな・・・・。わかった。菲才の身ではあるが、力の限り、毛利の二字のために尽くす」
元就はついにうなずいた。皮肉なことに、亀井秀綱の策動は、元就の決断を後押しする結果になったと言えるであろう。
さらに翌二十五日、招集した十四人の宿老が揃うや、広良は、新たな家督となる元就に対して忠誠を誓う連署状を作るよう迫った。
「家督相続の件については、すでに多治比殿の内諾は得られておるが、多治比殿に安んじて家督の座について頂くためにも、我らは向後、多治比殿を主君に戴き、そのお下知に従い、忠節を尽くす旨、皆に起請で誓って頂きたい。我ら老臣衆が率先してそれをすれば、下々も我らに倣い、自然と多治比殿を主君と仰ぐようになろう」
もとより老臣の多くは元就擁立に異存はない。大半の者は広良の発議に素直に賛同した。しかし、あからさまに不服顔の坂広秀をはじめ、渡辺勝、中村元明など、その真意が不明瞭な者もある。
尼子氏から弔問使があったことは、この場にいる皆が知っている。それは当然としても、関係者に緘口令を敷いておいたにも関わらず、尼子側から養子の打診があったことが早くも噂となっていた。考えたくはないが、家中にはすでに尼子側に通じている者がいるのかもしれない。
噂の真偽について、中村元明が広良に質した。
この場合、半端に言い繕うと衆望を失うことになりかねない。広良は経緯を正直に説明した。
「尼子がご当家の乗っ取りを策しておることが分明した以上、事は一刻の猶予もござらぬ。多治比殿に家督を継いで頂くことは、先の評定において論議を尽くし、衆議によって決したことであり、皆も異存はないはずじゃ。もしこの起請にご賛同頂けぬという者は、僭越ながらこの上野が、亡くなられた幸松丸さまになり代わって、その者の籍を剥ぎ、ご当家より放逐致す。これからの毛利家に、多治比殿のお下知に従えぬという者は、居てもらわずともよい」
広良が果断に宣告すると、その気迫に押されたのか坂広秀らも口をつぐんだ。
新たな当主が立つ時というのは、一国の政治の転換点になり得る。
この場で桂広澄は、
「ご当家はこれから新しき時代を迎える。若き主人を支えるのが、親のような年齢の者ばかりでは、多治比殿も何かとやりにくかろう。わしはこれを機に嫡男の元澄に家督を譲ることに決めた」
と言った。
この男は性格にやや圭角があるが、その心根は高潔で誇り高く、権力に対する執着も薄い。まだ五十に届かぬ働き盛りでありながら、二十代の息子にあっさりと家長の座を渡してしまったことでもそれがわかるであろう。
広澄のこの清々しい態度に福原貞俊が大いに感心した。
「なるほど達見でござる。この際わしも桂殿を見習い、これからは愚息に物事を任すとしよう」
貞俊の嫡男である広俊は、元就から見て母方の従兄弟に当たる。元就が西の多治比で暮らしていたこともあり、幼い頃はあまり交流はなかったのだが、この七年間、「後見」と「傅人」という立場で幸松丸を共に支えてきた二人は、いつしか互いの人格や能力を認め合うようになっていた。福原氏は家臣筆頭を務める別格の家柄であり、広俊がその当主となれば、元就を輔翼する人材としてはまさに理想的な右腕ということになるであろう。
もちろん「主君」と「第一の老臣」が共に若いというのは、不安な面がないわけではない。が、息子の経験不足な点は自分が陰から支えてやれるだろうし、群臣をまとめる執権には老練な志道広良が座ってくれてもいる。十分にやっていけるはずだと確信した貞俊は、次室に控えていた長男に、自分に代わって連署状に名を記すよう命じた。
「そういうことならば、わしもご一緒させてもらおうかの」
と粟屋元国が続いて声を上げた。
「わしよりも一回りも若いご両所が、浮世の面倒事から逃れて楽をするというなら、わしのような死に損ないこそ、真っ先に楽隠居をさせてもらわねば、世の釣り合いが取れぬわい」
元国はすでに還暦を幾つか超えている。粟屋一族の中で俊英と認める粟屋元秀に宿老の座を譲り、この機に一線から退くことを言明した。
ちなみに粟屋元秀は通称を縫殿允といい、この署名の時、病気の父の平癒を祈願するために寺社参詣の旅に出ており、吉田を留守にしていた。
「縫殿允めは、粟屋一門の総領をやれと繰り返し言うておるのじゃが、わしの子らに遠慮してか、どうしても受けようとせなんだのじゃ。この場におらぬを幸い、連署状にあやつの名を記し、引導を渡してやろう」
この老人は悪戯でもするような浮き浮きした顔で筆を動かした。その様子を眺めていた志道広良は、苦笑とも微笑ともとれる笑いを目元に浮かべた。
広良が起草した連署状の文言は、かなり強引である。尼子氏への手前もあり、元就がすでに家督相続を受諾していたという意味の一文をわざわざ明記し、宿老は元就を主君に戴き、その命令には絶対服従する、といった内容で、広良を含め十五名の宿老とその代理者がそれぞれ名を記した。ちなみにこの連署状は、翌二十六日に井上有景によって多治比に届けられ、元就の手に渡っている。
これだけの手続きを踏めば、元就を新当主に擁立するための形式は完全に整ったと言っていい。しかし、これはあくまで毛利家内部での話であった。亀井秀綱の策動を掣肘し、「主君」である尼子経久に元就の家督相続を認めさせるには、「重臣の総意による擁立」というだけでは決め手に欠ける。
――この半月ほどが勝負じゃな。
広良にはひとつ「奥の手」があった。
新当主・元就の正統性を権威づけ、尼子から養子を迎えるべきだとする者たちを黙らせ、尼子側からのさらなる介入を封じる、一石三鳥の策――。つまり広良は、元就の家督相続に幕府のお墨付きを得ようとしていたのだ。
毛利家は歴とした吉田荘の地頭であり、その地頭職を任命してくれたのは室町幕府である。尼子経久がどれほど実力を持っているにしても、守護・地頭の任命権を持っているわけではない。地頭職などという冠は室町中期に守護領国制が成熟した頃には有名無実化し、「国人」と呼ばれる有力在地領主と扱いは変わらなくなっているのだが、それでも毛利家が地頭出身の豪族である以上、その家督相続を承認し、新当主の領地を安堵する権限は、本来はあくまで幕府に帰属するのである。本領安堵の御内書を元就に対して発給させれば、いかに尼子経久でもその正統性を無視はできないであろう。
このあたり、志道広良という男の策謀家としての面目が躍如している。
広良は、宿老の粟屋元国と相談し、その一族の縫殿允を密かに上洛させることにした。
「風聞じゃが、宍戸の五龍城下に文五郎一座という旅芸人の一座が参っておったはずじゃ。今も甲立におるかはわからぬが、ともかくもその座長の文五郎という男を探し、助力を頼め」
広良は自らしたためた手紙と多額の銭を縫殿允に手渡した。
かつて毛利の執権であった坂広時は、大内氏と幕府との間で二面外交を展開しており、表向き大内氏に臣従しつつ、一方では幕府管領である細川氏との繋がりをも維持していた。その接触にはたびたび文五郎を利用していたのだが、伯父から執権職を引きついだ広良は、そうした裏面の事情をも教えられていたのである。
大内義興が在京していたならば、広良は迷わず大内氏の重臣を頼ったであろう。しかし、いま京を押さえているのは細川氏である。大内義興が上洛戦を行って以降、毛利は大内傘下として動いており、細川氏との直接の繋がりは薄い。殊に細川氏は「両細川の乱」によって代替わりと権力交代が目まぐるしく、現在の細川家の内情を知らぬ広良にすれば、正直なところ誰に伝手を求めるべきかさえわからなかった。縫殿允を京に遣るにしても、頼った相手が毛利家に好意を持っていなければ、話を店晒しにされることだってあり得るだろう。幕府の要路に根回しをし、将軍まで話を通してもらい、その御内書を下げ渡してもらうまでには、どれほどの日数を要するか知れたものではない。
その点、文五郎を噛ませれば話はずっと円滑になる。
中国筋を往来している文五郎であれば、どういうルートを取ればいち早く京にのぼれるかを熟知しているであろうし、細川氏の影響下にある海賊衆に船を出させることもできるに違いない。さらに重要であるのは、管領・細川高国の重臣にまで直接に話を通すことができるということであった。将軍である足利義晴はいまだ十三歳の少年に過ぎず、実質的に幕政を牛耳っているのは細川高国なのである。
――管領殿を動かすことさえできれば、御内書はその日のうちにも発給されよう。
広良はそう想到した。
この時期に文五郎が吉田の隣郷に居たのは、司箭院興仙こと宍戸家俊から頼まれた用向きがあったからで、鏡山城合戦に出向いていた宍戸元源が国許へ帰って来るのを待っていたというわけだが、この偶然の巡り合わせは、毛利にとっては僥倖だったと言うしかない。
縫殿允は、病気の父の平癒祈念のための寺社参り、という名目で、二十三日のうちに吉田を発ち、その夜――つまり尼子氏の弔問使を広良が接待していた頃である――には宍戸領内の村を廻っていた文五郎一座を見つけ、文五郎と接触した。
細川高国にとって――つまり幕府にとって――地方領主の統治権を再承認してやるのは、悪い話ではない。書きつけ一枚を発給するだけで、失墜してしまっている将軍の権威を世に示すことにもなり、その家に恩を売ることができる上、多額の謝礼を取ることさえできるからである。相続を願い出た人間に正統性がなく、無法を通すために将軍の権威を利用するとかいう類の話ならともかく、毛利家の相続問題の場合、筋目で言えば元就が家督を継ぐのが理の当然であるから、その訴願を拒絶する理由がない。細川氏は大内氏と争い合っていたこともあり、大内傘下から脱した毛利家に、細川高国は悪印象を持ってはないであろう。それどころか、この乱世に筋目を尊ぶ謙虚な姿勢を見せていることに、可愛げさえ感じるかもしれない。
そのあたりの機微を忖度した文五郎は、
「執権の志道さまからのご依頼ということであれば、喜んで合力させて頂きましょう」
と頼もしげに請け合った。
文五郎の配下の男の道案内で、昼夜兼行して急ぎに急ぎいだ縫殿允は、直線距離でさえ三百キロ以上もある吉田と京との間を――驚くべきことに――わずか十日ばかりで往復し、元就の家督相続を承認する将軍家の御内書を持ち帰った。
「ようやってくれた!」
疲労困憊で復命する縫殿允を抱きかかえ、広良は心から叫んだ。
痺れを切らした亀井秀綱が次の手を打つのが先か、将軍家の御内書が届くのが先か――。ここが勝負の分かれ目であったが、どうやら賭けは広良の勝ちであった。
元就の家督相続に幕府のお墨付きを得て来たのだから、これは大手柄というべきであろう。まだ三十代と若く、粟屋一族の嫡流でもない縫殿允が宿老の座を得ることになったわけだが、家中の誰もが納得するほどの巨大な功績であった。そうなることを見越し、粟屋元国と志道広良が示し合わせた上での使者の人選であったことは、言うまでもない。
広良は、すぐさま主立つ重臣を城に招集し、元就の家督相続が幕府によって公式に認められたことを公表し、新当主である元就に忠節を尽くすよう群臣にあらためて誓約させた。同時に新当主就任を報せる使者を出雲の月山富田城へ走らせた。
「お申し越しのご養子の件につき、家中で話し合うておりましたところ、過日、幕府より、多治比殿を吉田の地頭職に補任し、本領安堵する旨の御内書を頂戴しました。将軍家のご承認を頂きました上は、多治比殿を家督に戴くほかなしと、衆議が一決致しました。そういう次第でございますので、まことに心苦しくはありますが、ご養子の件はお請けできぬ事態となりましたことを、お報せします」
そういう内容の書状を一見した亀井秀綱は、
「幕府が、な・・・・。なるほど、委細承知した」
と使者の前では平静を繕ったが、別室で独りになると、
「元就め・・・・!」
と吐き捨て、その書状を破り捨てた。
尼子経久は、毛利家の次期当主については、姪婿である元就でそもそも異存がなかったであろう。亀井秀綱の策動について、この時点で関知していたかどうかも疑わしい。確証はないが、おそらく知らなかったのではないか。下交渉が「好感触」であったこと受けて、秀綱は養子の一件を経久に進言し、これから本格的に話を進めようとしている矢先というところではなかったかと思われる。いずれにしても、元就の家督相続に幕府の承認を得てきたと言われてしまえば、これを無理やりひっくり返せば無道の誹りを受けることになろう。経久は毛利側の小癪な策動を不快に思っただろうが、表面的には元就の家督相続を寿ぎ、就任祝いの品々を持たせて使者を帰した。
この使者が吉田に帰還するのは数日後ということになるが――。
元就が、多治比の猿掛城を出て吉田の郡山城へ入城したのは、八月十日であった。
広良が「幕府の承認」を公表した日からさらに五日ほど間が空いたわけだが、これはお久が、満願寺の栄秀和尚に郡山入城の吉日を占ってもらった結果である。この日の申酉の刻限(午後五時ごろ)が大吉だということで、元就は家族と郎党を引き連れ、夕刻に郡山を登った。
すぐさま大広間で群臣との対面が行われた。
実はこの日まで、元就は弟とは顔を合わせていない。時期が時期だけに、元就はこれまで猿掛城に篭ってそこから一歩も出ないようにしていた。事は家督相続という重大事であり、元就の相続を喜ばない者から暗殺される危険さえ皆無ではなかったからである。むろん元就は弟の性格を知っており、そんな陋劣なことを企むはずがないということはわかっていたが、元綱がどう考えているかということとは関わりなく、誰がどのような理由で元就を亡きものにしようと謀るかまではわからない。身を危険にさらすような真似は極力避けるべきであり、戦国に生きる武人として元就もそのことはわきまえていた。
群臣が平伏して居並ぶ大広間に足を踏み入れた元就は、一段高くなった上座の中央に座した。
老臣、重臣がずらりと顔を揃えていることはもちろん、毛利家の侍帳に名が載るすべての士が参集しており、大広間に入り切れない下士は廊下にまで詰めて座っていた。
元綱は一門筆頭の席にある。
元就と眼が合うと、元綱は小さくうなずき、口元だけで笑って見せた。普段通りと言えば普段通りの所作であり、その表情に翳りはなく、眼に遺恨の色もない。それは元就がよく知っている弟の姿であった。
――そういう男なのだ。
血を分けた弟であり、直に逢えば言葉を交わさずともわかる。元就は少しだけ心が軽くなった。
「元就である。皆の総意によって、本日この時より、私がこの席に座ることとなった。浅学菲才の身ではあるが、父上や兄上や幸松丸殿が、立派に守ってきたこの毛利の家を廃らすことがないよう、知恵と力の限りを尽くすつもりじゃ」
そこで言葉を切った元就は、
百万一心――。
とよく通る声で言い放った。
「亡き兄上が愛されたこの言葉を、私も座右の言葉とする。皆も心をひとつにして、毛利の二字を支えて欲しい」
群臣は声をあげて一斉に平伏した。
家臣筆頭の席に座る福原広俊が、群臣を代表して元就の家督相続を寿ぎ、あらためて元就のために忠節を尽くすことを誓った。
そのまま酒宴となるのが当然であったが、幸松丸の四十九日さえ済んでいないこともあり、元就は派手な祝宴を遠慮した。
主従の誓いの盃ということで、順番に前に進み出る重臣たちに一杯ずつ酒を注いでやり、短く言葉を掛けた。下士には別室で酒を振舞い、それでその夜はお開きとなった。
大永三年(1523)八月十日――。
長い雌伏の刻を経て、「多治比の元就」は名実ともに「毛利元就」となったのである。
二十七歳の新たなる船出であった。