運命の岐路(五)
雲ひとつない晴天であった。
吉田の山間を縫うようにして流れる多治比川が、ほぼ天頂から注ぐ陽光を反射してキラキラと輝いている。あまりの暑さに、百姓さえ野良仕事を厭がって昼寝を決め込んでいるのか、田に出て雑草を引く人影もほとんどない。色づき始めた稲穂を揺らして吹く風はなまぬるく、涼気はまったく感じられなかった。
吉田の城下町の西の外れ――相合と呼ばれる地域で多治比川に流れ込む、相合川に沿う小道を、小柄な老人がひょこひょこと歩いていた。
相当にくたびれた菅笠を被り、粗末な麻の小袖一枚を身に巻きつけている。背負った大きな竹籠には柴が山盛りとなっているから、一見して焚きつけ用の柴を刈ってきた帰りと知れる。
川沿いに続く細い道は日に焼かれて白茶けて見えた。この半月ほどまともに雨が降っていないせいか、道端の雑草にまで生彩がない。
その同じ道を――老人のはるか後ろから――木箱を背負った行商人風の男が足早に歩いてきた。両者の歩く速さがかなり違っていて、男はほどなくして老人に追いついた。
「お暑うございます」
追い抜き様、男は歩調を落として老人に会釈した。
「はいはい、お暑うございますな」
「御老人、ちょいと道を訊ねたいんだがね」
「はいはい」
老人――市兵衛は笠をあげて男を見た。
男も笠をかぶっている。照りつける陽光のせいで笠の翳が濃く、鼻から上は塗り潰されたように見えない。頬の肉が薄く、もみあげから尖った顎にかけて無精髭が短く生えている。紺色の小袖に墨色の裁付袴を穿き、脚絆と草履で足元を固めた、いかにも旅商人といった風体である。
「達者そうだな、爺さん」
と笑ったのは、鉢屋の蓮次であった。
「お前さんも変わりなさそうじゃの」
市兵衛は驚くでもなくそう返した。
「おゆきのヤツも元気にやってるかい」
「このところはお静かに過ごしておられるよ。四朗さまが喪に服しておられるのでな」
「喪だぁ?」
と声をあげてから、蓮次は慌てて左右に目を走らせた。
五六人の子供が相合川で水遊びをする姿が遠くに見えるが、それ以外には人影はない。
それでも蓮次はやや声を落とした。
「まさか幸松丸が死んだのか?」
「何を言うておる。お亡くなりになられたのは、吉川家に嫁がれた四朗さまの姉上さまじゃ」
喜怒哀楽が磨滅してしまったかのようにこの老人は表情に変化が乏しい。
「あぁ――、そういうことか。驚たぜ。俺ぁてっきり、幸松丸がもう死んでんのかと・・・・」
「馬鹿なことを・・・・」
「馬鹿ってことはねぇだろう。鏡山城攻めの時に倒れたんだろ? 重病らしいじゃねぇか」
ご領主さまのご病状などというのは、吉田に暮らす武士たちにすれば最高の機密事項であろう。市兵衛あたりの耳に詳しい話が入って来るはずもない。もっとも蓮次が口にした程度のことは庶民の間でさえ周知の事実で、本復したという噂も未だ聴こえて来ないから、依然として病状は一進一退が続いているのかもしれないし、あるいはさらに悪化していたとしてもおかしくはない。
「幸松丸のことは出雲のお偉いさん方も気にしてるらしくてな。しばらく吉田に張り付いてろってお指図でよ」
「ふむ・・・・」
市兵衛は首をひねった。
幸松丸がもし死ぬようなことになれば、次の家督は、血筋から言っても長幼の序から言っても、多治比の元就が本家に戻って継ぐというのが順当であろう。元就は妻を通じて吉川氏との繋がりが深く、これまでの政治的進退も比較的尼子寄りであるから、その元就が当主となることで尼子の側に不都合があろうとは思われない。わざわざ相続問題に介入する必要があるのだろうか。それとも何か別の思惑があるのか――。
「さて、そこらへんの事はよくわからねぇな。そもそも誰がどういう図面を引こうとしてるのかも知らねえが――、上から見張れと命じられりゃぁ、言われた通りにするしかねぇのが下っ端ってもんでよ」
「それなら四朗さまを見張るより、多治比さまなり吉田のご重臣なりを見張る方がよかろうな。四朗さまは喪中ゆえ、大朝より戻られてからは、お城に出仕さえしておられぬ」
「そうか・・・・」
蓮次はしばらく考え、邪魔したな、と一声残して踵を返した。
吉田の城下に戻った蓮次は、薬の訪問販売をしながら市井の情報を集めた。
鏡山城合戦が勝利に終わり、ほとんどの毛利兵が戦場から無事に命を持ち帰った直後だからであろう。吉田に暮らす武士や領民の間には、どこか戦勝の余韻のようなものが漂っており、領主が病に臥しているにも関わらず、町の雰囲気にはむしろ陽気な活気があった。
「さて、どうしたもんか・・・・」
幸松丸の病状については直接には探り様がない。
が、重臣たちの屋敷に目を配っていれば、彼らの動向はなんとなく知れる。その日常は普段と特に変わりはない。夜明けと共に城に出仕し、日暮れが近づくと三々五々屋敷に帰って来る。
――まぁ、餓鬼の病気が治って仕舞いってこともあるか。
などと考えつつ蓮次は数日を過ごしたが、変化は待つほどもなく現れた。
郡山南麓の「お里屋敷」――幸松丸が暮らす居館に、重臣たちが詰め切りになり、昼夜を問わずそこに出入りする人影がやたらに増え始めたのである。加えて、吉田から遠い地に領地を持つ者たちは自領に帰らなくなった。
――おいおい、いよいよ悪いのか?
お里屋敷に出入りする男たちの沈痛な表情を見れば、事態は一目瞭然である。
重苦しい空気のまま、さらに一日、二日と日が過ぎた。
そして七月十五日――。
陽が西の山並に没する頃、幸松丸はその短い生涯を閉じた。
報せを受けた元綱がお里屋敷に駆けつけた時、母屋の広間はすでに愁嘆の場となっていた。幼君の容態が明日をも知れぬと聞き、老臣、重臣の多くは広間に詰め切りであったらしい。
「若・・・・」
気付いた渡辺勝が悲愴な面持ちで出迎えてくれた。元綱はそれに目で応え、無言のまま薄暗い廊下を奥へと進んだ。
幸松丸の居室には十日ほど前に姉の部屋で嗅いだのと似た香りが漂っていた。中央に夜具が敷かれ、白い夜着に包まれた少年の亡骸が横たえられている。周囲には数人の重臣がおり、子の傍らには背を丸めたお夕が抜け殻のように座っていた。すでに声をあげる気力も尽きたのであろう、うつむいて静かに涙を流し続けている。
無言で枕頭に座った元綱は、拝礼し、合掌した。
身内の死が立て続いたせいか、心のどこかが麻痺しているようで、さほど悲しみは湧いてこない。ただ深い落胆と、どうしようもない虚しさがある。
「兄上、お子がそちらに旅立ちました。どうか迷わぬよう、導いてやってくだされ」
すでに彼岸の住人である長兄に心中で語りかけた。
甥子の幼い死顔はやつれてはいるが思いのほか安らかで、それが元綱にとって大きな救いであった。
――苦しまずに逝かれたか・・・・。
幸松丸の表情が苦悶で歪んでいたり、あるいは無念の形相であったとしたら、これほど平静としてはいられなかったであろう。
「良いお顔をなされておる。今ごろは彼岸で、久方ぶりに会うた父上に子供らしゅう甘えておられるか・・・・」
お夕は憔悴し切った顔をわずかにこちらに向けた。
「幸松丸はお父上の顔を憶えておらぬと申しておりました」
泣き腫らした目元が痛々しい。この女はこんなにも美しかったか、と元綱は目が覚めるような気分で再認識し、心中の狼狽を顔に出さぬよう努めねばならなかった。
「・・・・兄上が亡くなったのは、幸松殿が二歳のときでしたか。確かに憶えておらぬのも無理はないが、兄上の方は、我が子を成長をずっと見守っておったはずです。きっと幸松殿を迎えてくれておりましょう」
それに対する答えはなく、しばらく沈黙が続いた。
「母御の嘆きが過ぎれば、幸松殿の後生の障りとなる。気の済むまで泣かれたら、どうか少しでも横になってお身体を休めてくだされ」
他にかけるべき言葉もない。再び甥子の死顔に目をやり、その容貌を記憶に焼き付けようと努めた。
――重蔵や郎党たちにも別れをさせてやりたいな。
あの厳島参拝の旅がずいぶん昔のことのように思われる。幸松丸と旅路を共にし、言葉を交わした重蔵たちにもそれなりの感慨があるであろう。が、このお里屋敷は毛利家当主の居館であるから、特別に招かれでもしない限り、彼らが当主の居室へ入ることなぞできるはずもなかった。
死者は冥れば仕舞いだが、生き残った者は、どれほど辛かろうが哀しかろうが、常に現実に追われ続けねばならない。通夜の準備や葬儀の手配、諸豪族に対する連絡などといった必要な雑務に重臣たちは駆け回った。
この薄幸な幼君に悪感情を向ける者は家中に一人もいない。訃報が伝わると、身分の上下を問わず、主君との接触が多かった者も少なかった者も、皆それぞれに悼痛を抱き、それぞれの仕方で傷心を慰めた。
この翌日には通夜が、続いて十七日には葬儀が執り行われ、幸松丸は荼毘に付された。
遺骨は郡山の中腹にある毛利家歴代の墓所に葬られた。父である興元の隣に建てられた墓石を前に、参列した家臣たちは次々に額ずき、主君の早すぎる死を悼み、その冥福と後生を祈った。
我が子の臨終に立ち会ったお夕はしばらく呆然自失していたが、武門に生まれた女の意地か、葬儀が始まると喪主の務めを立派に果たし切った。それまでほとんど食を取らず、眠ることさえしなかった彼女は――看病疲れも重なったのであろう――葬儀を無事に済ませるや、床に臥して立てなくなった。
十八日になって、十五人の宿老と二十人ほどの主立つ重臣が城の大広間に集められ、評定が開かれた。議題は言うまでもなく、毛利家の新たな当主を決めることである。
「私や四朗がこの場におっては、皆も何かと話しづらかろう。事はお家の一大事である。皆が納得するまで話し合うて決めてくれ」
という元就の配慮で、元就と元綱はこの評定には参加しないことになった。
ちなみに元就は「幸松丸の後見」としてこれまで権力を握っていたが、その幸松丸が死去してしまった現在、毛利本家の家政を担う立場ではなくなり、一門の貴臣というに過ぎなくなっている。郡山城はお夕が女城主ということだが、彼女は体調を崩して床に臥せっているので、執権の志道広良がすべてを取り仕切っていた。
「何ゆえ一同に集まってもろうたかは、あらためて申し聞かせるまでもないであろう。お隠れになられた幸松丸さまに代り、ご当家の新たな家督となる者を早急に決めねばならぬ」
と、まず広良は言った。
毛利家を継ぐ資格を持つ直系の男子は、この時点で四人存在している。先々代・弘元の次男である元就、三男の元綱、四男の就心、さらに隠し子として養育されている五男である。が、僧籍に入っている就心と庶子と認定されてない五男については最初から後継候補に入っておらず、話題にも上らなかった。多治比に分家している元就か、本家の部屋住みである元綱か――。男子ならこの二人から択ぶべきであろう。
それ以外の選択肢としては、幸松丸に十一歳になる姉がいるので、この姫に婿養子を迎えて家を継がせるという手も、あるにはある。
実はお夕はそのことを考えぬでもなかった。
夫も息子も喪ってしまったお夕だが、娘に婿養子を取ることができれば「毛利家当主の母」であり続けることができ、自身の役割と存在意義を新たに見い出せる。もし平穏な時代なら、あるいは彼女もそういう道を選択していたかもしれない。
しかし、時代は戦国乱世の真っただ中であった。武門の棟梁となるべき男は、何よりもその器量を優先せねばならない。迎えた養子が、元就や元綱と比肩するほどの良器なら良いが、どうしようもない暗愚な男であったとすれば、たちまち毛利家は滅亡の憂き目に遭うであろう。
お夕は感情的には元就を決して好いてはいない。それどころか病弱な幸松丸を戦場に引っぱり出し、結果として病死させたことについては怨みさえ抱いていたが、それでも、幸松丸を後見してこれまで家政を堅実に取りさばき、数々の戦場で毛利軍を勝利に導いてきた元就の手腕と実績は、認めざるをえない。
一方、元綱に対しては、お夕は素朴な好意と感謝の想いを持っている。実際に見たことこそないものの、元綱の戦場での勇猛さ、武将としての有能ぶりもよく聞き知っており、その将器には不安を感じなかった。政治家としてはまったく未知数だが、元就と志道広良は政治力が皆無の幸松丸さえ立派に輔佐してこれたのだから、その二人が両翼となって支えれば、足らぬ部分を埋めることはできるであろう。
――あの二人のどちらが家督となっても、立派に家を率いてゆけよう。
ということが、武門に生まれた女の直感としてよくわかっている。
そういう後継候補があるにも関わらず、どこの馬の骨とも知れぬ男に毛利家を預けるような賭けをする気には、お夕はとてもなれなかった。夫が懸命に大きくし、我が子が命を張って守ろうとした毛利という家を、彼女もやはり愛していたのである。
「次の家督は、皆でよう話し合うて決めてください。衆議で決まったことであれば、どういう結論であっても、わたくしは従います」
お夕はあえて我執を殺し、志道広良にそう明言した。
「北の方さまは、おそらくは断腸の想いで、我らにすべてを預けてくだされた。それだけに、我らに課せられた責任はまことに重大じゃ。次の家督につき、申したきことあらば、この場で遠慮のう声をあげ、論議を尽くしてくだされ」
広良が重々しい声で言うと、大広間は粛然となった。
しばらくの沈黙を破って、まず口火を切ったのは、老臣筆頭の席に座る福原貞俊であった。
「ご当家は、家督の相続に際しては、これまで何より筋目を尊んで参った。そういう先例を踏むならば、多治比殿に本家を継いで頂くのが、もっとも正しい形であるように思われる」
これに多くの重臣が賛意を表した。
元就はなんといっても血筋が良い。妾腹に過ぎない元綱に対して、元就は弘元の正妻の子なのである。筋目を尊ぶならば、元就に家督を継がせるというのが当然であろう。ちなみにこの「弘元の正妻」というのは福原貞俊の姉であり、貞俊から見て元就は甥に当たる。
「多治比殿こそ、しかるべし」
「これまで幸松丸さまを後見なさってきた多治比殿ならば、家督となってもまずまず大過はあるまい」
「左様。それがしも同意いたす」
などと、支持する声が次々とあがった。
が、これに激しく反発したのが坂広秀である。
――冗談ではない。
広秀の父である坂広時は、大内傘下であった毛利が尼子家に鞍替えする際、文字通り詰め腹を切らされた。広秀は心中に根深い怨みを蔵しながらも、父の遺命に従い、幸松丸に仕えることで、肚のなかの怨怒と撞着にどうにか折り合いをつけていた。そういう広秀にとって、
――元就を主人と仰ぐくらいなら、死んだ方がマシじゃ。
という心の声は強い。なんといっても元就は、父を自刃に追い込んだ元凶なのである。
「多治比殿はすでにご本家から離れ、一家を立てておる。ここは、御曹司たる四朗殿に家督を継いで頂くが、自然な形というものであろう」
広秀は語気強く主張したが、その論陣は孤独であった。
「ではないか、渡辺殿」
と渡辺勝に加勢を求めたが、かつて元綱の傅人であったこの男でさえ、兄弟の順逆を冒してまで元綱を推すことには躊躇を見せた。
毛利興元が死んだ七年前――幸松丸の家督相続を議論していた頃であれば、当時の元就は「戦場を知らぬ文弱な青二才」に過ぎず、対する元綱は「武勇に傑出した若き有望株」と見られていた。次男の将器に対する不安と、三男のそれに対する期待とがあって、それでようやく二人の兄弟は後継候補として互角であり得た。しかし、あれから七年の時が経ち、元就の将器の豊かさはすでに数々の合戦によって証明されているのである。まして元就は幸松丸の後見として家政を大過なく運営してきており、その実績に対する安心感もある。さらに言えば、いまの毛利は尼子家に臣従している立場であるから、尼子経久の姪婿である元就を当主にする方が、余計な波風が立たずに済むだろう、というような気分もある。
――多治比殿が当主であれば、御家はこれまで通りにやってゆけよう。
と多くの者が思っており、あえて筋目を乱してまで元綱を主君にかつぎ上げる必要性がなかったのである。
それでも坂広秀は執拗に元綱擁立を力説し続けたが、衆議においては数が力である。元就との縁が薄い重臣のなかには元綱を推すことに賛同する者も皆無ではなかったが、元就を推す人数が圧倒的多数であり、さすがの広秀も自説を押し通しようがなく、ついには沈黙せざるを得なくなった。
巳の刻(午前十時)あたりから始まった評定は、休息を挟みつつ日暮れ過ぎまで続いた。
「多治比殿を家督に迎え、相合殿にはこれまで通りの形で本家を支えて頂くのが、まず穏当なのではあるまいか」
衆議を代表するように福原貞俊がまとめると、井上党の面々をはじめ重臣のほとんどがそれに同意を示した。
執権として群臣を総覧する立場の志道広良は、個人的な好悪や依怙によって跡目を決めたと人に思われてはならないから、中立の立場を堅持して一切の発言をせず、黙然と議論の成り行きを見守っていたのだが、内心では元就が家督を継ぐことを熱望している。衆議で一定の合意が得られたと見て取ると、
「それでは、我らの総意として、多治比殿に家督を継いで頂くよう、明日にも使いを出すことに致そう」
と総括した。
「して、ご使者の役じゃが――」
「わしが参ろう」
井上元兼が自ら申し出た。
井上党の総領であるこの男は、
――我ら井上党は、多治比殿の家督相続を後押ししましたぞ。
と、新たな当主に対して恩を売っておきたいのだろう。
「されば、河内殿ともう一人――。そうじゃな、渡辺殿にもご足労を頂きたいが、いかがであろうか」
この発言にもやはり政治的な思惑がある。元綱との繋がりが濃い渡辺勝を、あえて元就を招聘する使者に立てることで、その政治的立場を内外にはっきり示そうというのである。家督相続権を持つ元綱に余計な野心を起こさせぬよう、念押ししたとも言える。
「その役を、このわしにやれと申されるのか」
渡辺勝は怒気を眉根に溜め、広良を睨んだが、
「左様。なんと言っても渡辺殿は、ご当家の譜代衆を代表するお立場でござるゆえ、な」
と言われれば拒絶するわけにもいかず、不承不承にうなずいた。
翌十九日の朝、渡辺勝と井上元兼は駒を揃えて多治比へ向かい、猿掛城の元就に面会を求めた。
毛利元就の長男であり、後に毛利家を継ぐことになる毛利隆元は、この大永三年(1523)、多治比の猿掛城で生を受けたと伝承されている。生まれた月日を詮索することにあまり意味はないが、時期としては四月か五月ごろではなかったかと筆者は考えている。いずれにしても、元就が本家の家督を継ぎ、郡山城に居を移す以前に隆元が生まれていた、というのが事実であるとすれば、以下のことは言える。
隆元は仮名(通称)を少輔太郎と称するが、この「少輔太郎」は毛利本家の当主が代々継いできた名であるから、元就が息子の初名に用いることはあり得ない。それは本家の幸松丸が成長後に名乗るべき通称であり、分家の元就がそれを子につけたとすれば、不遜を通り越して下剋上の野心の顕われと取られても言いわけできないのである。隆元の初名は不明とするのが正しいが、父である元就が使った「松寿丸」の幼名を与えたと考えるのが自然であるかもしれない。数年後、あるいは成人時に改名させ、「少輔太郎」を名乗らせたのであろう。
ともあれその隆元は、この時期まだ首も据わらぬ幼児であり、襁褓に包まれてお久の腕に抱かれていた。
多治比の猿掛山の山頂――。
本丸殿舎のお久の居室である。
東側の濡れ縁に面する障子は大きく開け放たれており、吉田方面の遠景が見える。季節はそろそろ晩夏であるが暑気は一向に衰えず、生まれ遅れた蝉がじいじいと鳴いていた。
そこに元就がふらりと現れたのは、時刻で言えば午を少し過ぎた頃であった。
「あら、もうお話はお済みになりましたの?」
「ああ。とても即答できるような話題ではなかったからな。とりあえず聞くだけは聞いたが、今日のところは帰ってもらった」
お久の前に腰を下ろした元就は、愛児の寝顔を覗き込むように眺め、その頬に軽く触れた。
「大事なお話だったのですね」
「私にとってもお前にとっても、松寿丸にとっても、この上なく重大な話だ」
時期が時期でもあり、お久もその内容には察しが付く。
「ご本家の、次の家督についてのお話でございましょうか」
重々しくうなずいた元就は、吉田の本家から宿老の渡辺勝と井上元兼がやって来て、本家の家督相続を要請されたことを正直に告げ、その事に対する妻の意見を求めた。
一度我が子を見つめ、しばらく間をおいたお久は、
「元就さまが家督をお継ぎになるのは、当然のことと思います」
顔をあげてはっきりとそう言った。
「元就さまは亡きお義父上さまの正室のお子、先代・興元さまと同腹のご兄弟でございますもの。本家を相続なさっても何の不思議もございません。むしろそれが筋目だと思います」
「ふむ」
「それに元就さまがご本家をお継ぎになれば、この子は多治比・三百貫の跡取りではなく、ご本家の跡取りになれますもの。その方がやっぱり嬉しゅうございます。そりゃ、幸松丸さまが夭折なされたのは、本当においたわしい事でございますし、そのご不幸を喜ぶようで我ながら浅ましいとも思いますけれど――。それでも、それがわたくしの本心です」
「母親とはそういうものかな」
元就はやや曖昧な笑みを浮かべた。
「元就さまは、少しも嬉しそうなお顔をしておられませんね。お迷いになっておられるのですか」
「私はすでに本家を出た人間だ。それが本家に戻るとなれば、面白く思わぬ者も当然あるだろう。本家には四朗もおるしな」
「元綱殿は元就さまのご舎弟――長幼の序というものがあります。加えて元綱殿の母御である相合の方さまは、お義父上さまの側室でございましょう。ご兄弟とは申しても、元就さまとはそもそも対等ではありません」
「そう考える向きもあるんだろうがな。私は、そんなことはどうでも良いと思うている」
「どうでも良い――と申されますと?」
「血筋が良かろうが筋目が正しかろうが、毛利の家を持ち崩し、滅亡させるようでは、元も子もないだろう。正妻腹だとか筋目がどうだとか――そんなことは二の次だ」
この言葉は元就の本心から出ている。
この時代、武門に生まれた嫡男と、それ以外の子との間には、主人と家来といったほどの厳然とした区別がある。大名家の子ともなればその格差が殊に顕著で、嫡男は幼い頃から「王」となるべく教育され、次男以下はその臣下として躾けられるのである。そういう教育環境のなかにあって、次男と三男の差というのは、嫡男とのそれに比べれば相対的にごく小さい。いずれも「嫡男の家臣」であることに変わりはなく、いわば並立的なのである。まして元就と元綱は年子であり、年齢もひとつしか違わない。元就は確かに正妻の子ではあったが、肝心の母は元就がわずか五歳の時に病没し、それ以後は父の側室であるお杉に養育された。おまけに父の死後は後見役となった井上元盛によって領地を横領され、猿掛城から追い出され、世間から「乞食若さま」と渾名されるほどの貧窮を味わってさえいる。
その元就にしてみれば、生い立ちの上で己が特権的な貴種であるとか、元綱に対して無条件の上位者であるとかいうような優越感を、抱きようがなかったのである。
「私と四朗と、どちらが優れた器量であるか、どちらが家督に相応しいか――。重要なのはそれだけだ。たとえば――仮の話だが――私より四朗の方が毛利を大きゅうできるのであれば、四朗が本家を継げば良いと、私は本気でそう思う」
別に「良い人」になりたいわけでも無欲を気取っているわけでもない。毛利家が繁栄することは、我が妻や子の安泰にそのまま直結するわけで、元就は利害損得を冷徹に見つめているつもりでいる。
「そんな・・・・」
お久は一瞬戸惑ったが、あえて目と声音に力を込めた。
「元就さまのご器量が元綱殿に劣るとは、わたくしは思いませぬ。ご本家の重臣の方々も、そのように思えばこそ、元就さまに家督相続を要請なされたのではございませんか」
「そう思うてくれる者たちの気持ちは有難いとも思う。だが、重臣のすべてが同じ意見というわけではあるまい。四朗の器量こそ家督に相応しいと考える者もあるはずだ」
実際、多くの戦場で毛利軍の先鋒大将を務め、その重責を立派に果たしてきた弟の将器を、元就自身が誰よりも高く買っていた。
元就という人間は、思考がネガティブに流れやすく、自己採点が常に辛い。あの有田合戦以来、総大将として数多くの戦場を踏んできたが、周囲の武将たちに比して、己の将器が飛び抜けて優れているなどと感じたことは、ただの一度もなかった。無才覚、無器量とまで己を卑下する気はなかったが、たとえば個人的な武勇を競えば、自分は弟にはまったく及ばないであろう。
――将として比べても、私は四朗より下だ。
とさえ元就は思っていた。
この時代の戦争は、先鋒隊の強さこそが合戦の勝敗の鍵を握るもっとも重要な要素であるのだが、元綱に先陣を任せた戦場では、毛利軍はただの一度も無様な敗軍を演じたことがなかった。これは裏返せば、元就が総大将となってからは――初陣の有田合戦を除けば――毛利軍は一度も負けてないとも言い換えられるわけだが、この男の思考はそう前向きには巡らないように出来ている。
――家督を継ぐのは、私より四朗の方が相応しいのではないか。
という心の声を、どうしても払拭し切れなかった。
もちろん元綱を当主に戴くことに不安がまったくないわけではない。
そもそも武門の棟梁というのは、家が進むべき舵取りを担うことはもちろんだが、同時に傘下の族党の利害調整を行い、その働きに対して賞と罰とを与えるという権能を持った一個の「機関」であり、自然人として気ままに振舞うことなぞ許されない。怒りたい時に怒れず、泣きたい時に泣けず、その言動の一挙手一投足に至るまでが政治でなければならない、過酷で孤独な役割なのである。
兄の目から見ても、元綱はこれまで政治をほとんど顧慮したことがなく、面倒事や厄介事からは意識的に遠ざかるというような無責任でいい加減なところがあった。向き不向きはともかく、好悪で言えば、あの弟は政治の面倒くささを毛嫌いしているのであろう。地位が人を作るということはあるにせよ、家督となった元綱が忍耐強い政治家へと豹変できるか、と考えれば、確かに疑問はある。
しかし、そういう弟の足りない部分を、元就の政治力と調整力とで支えてやることなら、できぬことはない気がする。
この頃の元就の志は、この乱世に毛利の二字を守り抜き、いかなる外敵にも脅かされぬほど家を強く大きくしたい、というあたりにある。そう思って幸松丸を支えてきたし、その大願が叶うのであれば、極言すれば家督は誰であっても構わないとさえ思っていた。元就の性質は必ずしも無欲というわけではなかったが、この男には広く長い視野で利害を量れる無類の計算力があり、大願を成就するためであれば己の利害を後回しにできるだけの自制力と生真面目さをも備えていた。
「私が家督を継いで四朗に支えてもらう形と、四朗を家督に据えて私がそれを支える形と、どちらが毛利家にとってより良いのか――。私にはそれがわからないのだ」
うつむいた元就は、握った拳の親指辺りでコツコツと額を叩いた。
お久には返す言葉がない。元就が列挙した政治体制のどちらがより優れているか、客観的に評価できる材料をお久は持っていないのである。ただ妻として夫の味方をしているというだけだった。
「いや、それもこれも、自分に対する言いわけだな」
元就は大きくため息をつき、顔をあげて自嘲気味に笑った
「ご先祖が――父上や兄上が命を賭して守り抜いてきた毛利の二字は、私にとって重い。本心を言えば、私が家督を継いだせいで家を滅亡させるようなことになるのが、怖いのだ。それだけは何としても厭だから、心のどこかで逃げたがっている」
家督を継ぎたくないと言えば嘘になる。しかし、家督の重責を独りで背負うことに気の重さがあるというのも、偽らざる元就の本音であった。
この時から三十四年の後、老年を迎えた元就が隠居する意思を示した時、毛利家の全権を譲られると知った長男の隆元は、「自分は無才覚、無器量である」と卑下し、「無能な自分では家を滅亡させるのは間違いなく、とてもその重責を背負えない」という意味の嘆願を繰り返して元就の隠居を引き止めるということをする。この長男ほど極端ではないにせよ、そのように自身を過小評価するきらいが、父である元就にもやはりあった。
家督を継ぐべきか、継がざるべきか――。
己にとって、家族にとって、毛利の家にとって、どちらがより良い選択であるのか。
元就の心は左右にゆらゆらと揺れていたのである。
「元就さまが家督となれば、毛利は栄えることはあっても滅ぶはずがありません。わたくしは、わたくしが嫁いだ殿御の天運を、信じております」
何の根拠もなくそう言い切れる妻の性格が、元就は時に羨ましい。
「器量より私の天運を問うか――」
天の与うるに取らざれば、かえってその咎を受けるという。毛利本家を継ぐことが天与の運命であるならば、逃げることを考える前に、まず全霊で享けねばならぬのではないか。その結果、それが毛利家の福となるか禍となるかは、元就の天運次第であろう。
なるほどお久の言う通りだ、とは思ったが、元就は常に決断に時間の掛かる男である。
「四朗はどのように考えておるのだろうな・・・・」
弟と肚を割ってじっくり話してみたい、と元就は思ったりした。
こういう元就の煮え切らぬ態度は、志道広良にとってはまったく予想外であった。
渡辺勝と井上元兼から復命を受けた広良は、
「謙虚、謙譲、謙遜も、時と場合によるわ!」
と心中で元就を怒鳴りつけた。
広良は次代の毛利家当主は元就しかないと信じている。筋目が正しいことはもちろんだが、老練な広良の目から見ても、元就はまだ三十にも届かぬ若さでありながら、およそ武門の棟梁に必要と思われる資質を高い水準でバランス良く備えていた。少年期に苦汁を舐めたことが結果として良かったのであろう、観察力や洞察力が鋭く、状況判断と現実計算に甘さがなく、身内や家臣に対しては思いやりの心が深い。
――多治比殿が家督となれば、毛利は必ず隆盛する。
夭折した幸松丸に対する哀悼と憐憫の想いは強くあるものの、その気持ちを脇に置けば、元就が当主となった次代の毛利家に明るい未来を夢見るような気分にさえなっていたのである。
それだけに、この絶好の機会を前にして躊躇を見せる元就が腹立たしい。
この日の夕刻、広良は、国司有相と井上元景を再度の使者に立て、猿掛城へ遣った。この二人は宿老の座にはないが、先代・興元の時代から奉行職を務める重臣で広良とは付き合いが長く、気心の知れた仲である。
「本家の家督相続につき、多治比殿より色良きお返事が頂けなかったこと、老臣の方々をはじめ我ら重臣一同、驚き入っておりまする」
正使の国司有相が言い、あらためて元就に家督相続を要請した。
「衆議の総意であったということについては、了解した。私を家督にと推してもらい、嬉しくも有難くも思うている。だが、このような大事を、はいそうですかと即答することはできぬ。話を受けるべきか、否か――。毛利にとってどちらがより良い道であるのかを、よくよく考えてみたい」
元就はあくまで返事を保留した。
「何を悠長な――。お気持ちはわからぬでもないですが、この乱世に当主が不在では、その隙をいつ何時敵に衝かれぬとも限らぬのですぞ。家督を早急に決めねばならぬのは、多治比殿とてようおわかりでござろう」
有相が語気を荒げたので、それを制して井上元景が話を継いだ。
「いったい多治比殿は、いかなるおつもりであられるのか――。我らはもとより、執権殿さえ、その真意を量りかねておるのです。どうか我らに、肚をうち割ったところをお明し願えませぬか」
「真意もなにも――、私の想いは今朝ほど渡辺らに申した通りじゃ。いずれにしても、まず数日は、熟慮するための時間をもらいたい」
二人の使者は粘りに粘ったが、元就はこの日、ついに諾否を明らかにしなかった。