運命の岐路(四)
翌日、元綱は早朝から郡山城に登り、登城していた重臣たちに姉のお松が死去したことを告げた。
元綱の母である相合の方はお松の生母であるから、吉川氏の使者は相合の屋敷にやって来て訃報を伝えてくれたわけだが、当然その前にまず郡山城を訪れ、毛利本家の留守居役に事情を説明している。その報告を受けた兄の元就や志道広良などはすでに事態を把握していた。
が、公表はまだしてなかったらしい。
「お松さまはまだ三十代の半ばであろう」
「死病に憑かれなさったか・・・・」
「若い身空で、お気の毒に――」
多くの者が突然の訃報に驚き、口々にその死を悼んだ。病床にある幼き主君のことを思わず連想し、不吉を感じた者も少なくなかったであろう。
「興経殿も舅殿も、いまだ西条の戦陣におられるはずだ。葬儀には間に合わぬであろうな・・・・」
元就が思案顔で言った。急使は真っ先に西条へ走っているはずで、吉川興経らは今日にも訃報を受け取るに違いないが、彼らが大朝に帰着するまで、さらに三日も四日も葬儀を延期するというわけにはゆかぬであろう。季節は真夏であり、遺骸の腐敗は早いのである。
「ともかく、弔問には俺が行かせてもらうぞ」
異論を許さぬ口調で元綱が言うと、
「あぁ、それがよいだろう」
元就はうなずき、井上元景を副使につけ、香典と供物、葬儀用の装束などを手早く調えてくれた。
「姉上が亡くなったと知れば、次郎三郎殿(興経)は、軍勢を重臣らに任せて一足先に国許に帰るやもしれん。帰路は往路と同じく我らの領国を通ることになろう。もし次郎三郎殿が馬のことで困るようなら、換え馬を貸してやるよう、関所の番をしておる者たちに触れておいてくれぬか」
「ほう、よう気付いたな。わかった。必ずそのように周知しておく」
元就は即答した。
荷担ぎの従者を含めて一行は七人である。元綱の馬の口は重蔵が取った。
「急ぐぞ」
元綱は厳しい顔で馬腹を蹴った。
吉田から西へ馬首を向け、多治比を経て山県郡の千代田へ出る。千代田からは石見街道を道なりに北へ進み、三里半ほどで吉川氏の大朝へと至る。
この時期、日は長い。馬を急かせた元綱たちは、昼食以外はろくに休息も取らずに汗みずくになって進み続け、その日の夕刻に小倉山城の城門の前に立った。この城を訪れるのは実に七年ぶりである。
留守を守っていた吉川家の重臣たちが一行を出迎えてくれた。「お方さまの弟御」が弔問に来るということは関所からの先触れによって知らされており、多忙な中でも出迎えの準備にぬかりはなかった。
「このたびは、突然の訃報に、ただ驚いております」
元綱は深く頭を下げた。
「遠路のご来訪、痛み入る。ご実家から相合殿がわざわざお運びくだされたこと、お方さまも彼岸にてお喜びでありましょう」
応じたのは吉川経守という老人である。吉川国経の弟で、年齢は七十代であろう。当主の興経も長老の国経も不在のいま、留守の者たちのまとめ役をしているらしい。
「お方さまは、この老体の半分さえ天から定命を与えられませなんだ。長う生きるということは、それだけ多くの人の死を見るということでござるがな。若い身内にこうも次々と先立たれたのでは――、正直、やり切れませぬわい」
吉川家の人々にとって、主君・興経の生みの親であるお松は、まさに国母というべき存在であった。長く男児に恵まれず、世継ぎに困っていた先代・元経が、壮年になってから迎えた後添えがお松であり、彼女が吉川家の嫡男を生んだことで、家中の者たちがどれほど喜び、感謝したかわからない。夭く美しいこの正室は、常に物静かで控え目な女性であったが、夫の元経だけでなく、家中の誰からも愛されていた。
「家中を明るうしてくれておった灯火が消えてしもうたような――、そんな心持ちでござるよ」
老人は悄然と肩を落とした。
城山を登った元綱たちは御座所丸の居館に導かれ、一室を与えられた。
この時代、喪服の色は白である。白絹の直垂に着替えた元綱は、姉が瞑る居室へと案内された。
部屋は普段は嗅がぬ香の薫りに満たされていた。仰向けに寝かされたお松には白い夜着が掛けられ、その顔は白布によって覆われている。
「姉上・・・・」
枕頭に座った元綱はそっと白布をめくった。
死後すでに二日ほど経過しているが、死化粧を施された姉の貌は――七年前に見た時と比べればかなり痩せてはいたが――清らかなほどの美貌を保っていた。三十四歳の肌はまだ充分に若々しく、老いの翳なぞは微塵もない。その死顔を眺めても、姉が死んでいるということにどうしても現実感が持てず、涙も出なかった。それでも元綱は合掌して念仏を唱え、姉の後生を願った。
「葬儀は明日、洞仙寺にて執り行うことに相成りました。家中の者は多くが出払っており、喪主さえ不在ということになってしまいまするが、戦陣とあってはそれも武士のならい、致し方もござらぬ」
経守翁はため息まじりに言った。
子の興経はいまだ西条から戻らない。人情としては、母との最期の別れをさせてやりたいところであったろうが、保存技術などないこの時代、真夏に死後三日も経てば、遺体は腐乱して悪臭を放ち出すであろうし、蛆さえ湧き始めるかもしれない。いつ帰還するかもわからぬ興経が帰るまで、死者をこのままにしておくというわけにもいかないのである。
――俺が葬儀に間に合うたは、怪我の功名というべきか・・・・。
幸松丸が病に伏すということがなければ、今ごろ毛利軍も西条で滞陣していたに違いなく、こうして姉の顔を見ることも叶わなかったであろう。
ちなみに斎場となる洞仙寺は、曹洞宗に属する禅寺で、吉川家が後に周防の岩国へ移封となった際に岩国へ移され、それを期に洞泉寺と寺名を改め、岩国藩の歴代藩主の菩提寺として現在まで続いている。が、この当時は小倉山城のすぐ東――岩戸地区の丘陵に建っていたらしい。大朝に根をおろして以来の吉川氏代々の墓所であり、ここに吉川経基、国経、元経などが葬られたと伝えられている。
ほどなく日が没し、そのまま通夜となった。
吉川家の男子は老人と子供を除けばほとんど出払っているのだが、それでも重臣の子弟や領内の大百姓などが数十人も集まり、広間や庭で夜伽の酒食が振舞われた。元綱は井上元景や近侍らと共に広間で酒を酌み、夕餉を取りつつ、吉川家の侍女などから姉の思い出話を聞かせてもらった。
その元綱のところへ、老女に導かれて少女が挨拶に来た。
「お姫さま、こちらが相合の叔父上さまでございますよ」
「叔父上さま、こんばんは」
少女は抱いていた乳飲み子を老女に手渡し、座って深々と頭を下げた。
幸松丸と同い年くらいの小娘である。その容姿は、まだ元綱が幼かった頃、常に傍にいて優しく世話を焼いてくれた姉の面影に、どこか通うところがある。
「もしや――、お槙殿か?」
「はい、槙です。お初にお目に掛かります」
お松が生んだ娘で、興経の妹である。元綱にとっては姪になる。
「大きゅうなられたな。驚いた。七年ぶりとなればそれも当然か」
「槙はお会いした覚えがないのです」
申し訳なさそうな顔をする姪子を見て、元綱は笑った。
「はは。憶えておらぬのも無理はない。以前に会ったとき、そなたはまだ三つだったからな」
「あ、そうなのですか」
途端にお槙は明るい笑みを見せた。
隣で老女が抱いているのは彼女の妹で、お松が最後に生んだ子である。満年齢では二歳に満たない。両親の顔を知らずに成長してゆくこの幼児は、後に石見の豪族である小笠原長雄という男に嫁ぐことになる。
ついでながら小笠原氏は尼子氏に属する石見東部の有力豪族で、この三十六年後、石見奪取を企てる毛利元就によって本拠の温湯城を攻められ、壮絶な戦いの末、毛利軍に降伏した。小笠原氏は尼子氏の援軍と共に最後まで頑強に抗戦したのだが、元就はあえてこの家を滅ぼさず、長雄の命をも助けてやっている。この寛大な措置には、長雄の妻が元就の姪に当たるという縁故が少なからず影響していたであろう。
その夜、元綱は一睡もしなかった。
姉の部屋で灯明を絶やさぬよう番をしながら、鎌刃のような月を眺めて酒を酌み、いつしか黎明を迎えた。
「お方さまにはそろそろ寺の方にお移り頂きまする。湯灌や着替えは女どもがつかまつりますゆえ、いったん客間へお引き取りくだされ」
吉川経守翁がそう伝えに来た。
「二つ、願いがあるのですが――」
「どのようなことでござろうか」
「国許の母に遺髪を届けたいので、納棺の前に御髪を分けて頂きたい。それと、棺をかつぐ役に俺を加えてもらえませんか」
「あぁ、お方さまもお喜びなされよう。ぜひそのように――」
老人は何度もうなずいた。
この早朝――暑気が盛んになる前に――白装をした三十人ほどの葬列とそれを守る人々の列が小倉山城を発し、お松を納めた木棺を洞仙寺へと運んだ。先頭をゆく引導役の僧だけが黒衣である。喪主の代役を務める経守翁が位牌を持ってそれに続き、元綱を含めて六人の男たちにかつがれた木棺が葬列の中央を進んでゆく。気丈に歩くお槙の姿もある。道々には、家中の武士の妻女や老人・子供、近在の百姓や町屋の者たちなどが延々と並び、城主の母の死を悼んで涙を流し、手を合わせて念仏を唱え、その成仏を祈っていた。
洞仙寺が建つ小山までは四半刻も掛からない。
ゆるやかな坂道を登ってゆくと、樹影のなかに山門が見えた。
境内はすでに黒衣の人であふれていた。吉川領の寺という寺から僧侶が集まり、それらのお付きの侍僧や沙弥まで含めれば百人以上の宗教者が参道から本堂にかけて居並び、葬列を出迎えた。敷地の周囲には白黒の鰻幕が張り渡され、吉川家の関係者たちや参列の庶民などがそこここに十人、二十人とたむろしている。数人の山伏が弓弦を鳴らしながら境内を練り歩いている姿も見えた。この聖域へ邪悪なモノが侵入せぬよう呪いをしているのである。
葬法は火葬であるらしい。境内の片隅に竹の荒垣で仕切られた区画があり、その中に火屋が造られていた。
一般に庶民の間では明治期まで土葬が広く用いられていたのだが、火葬の風習自体は飛鳥時代から始まっており、京の貴人を中心に広まり、仏教の普及と共に次第に下々へと波及していったらしい。時代が下って戦国の頃にもなると、守護や地頭ほどの分限の武家の間では火葬がむしろ主流になっていたように思われる。
ちなみに火屋というのは臨時の火葬場と思えばいい。
今回の場合、三畳ほどのスペースの四隅に角柱を立て、その周囲に材木を井桁に組み、板で屋根を葺いた小屋の形をしており、全体が白布で覆われていた。その内部には石の炉台があるはずで、ここに棺を納め、炉に炭や薪を盛大にくべ、小屋ごと燃やして火葬をするのである。荒垣の入り口には真新しい木の鳥居が建っていた。
棺はまず本堂に安置され、厳かに法要が執り行われた。
僧たちによる読経があり、弔辞や法話があり、やがて参列者による焼香へと移ってゆく。遠方から駆けつけて参列する吉川傘下の地侍の使者なども引きを切らず、行事がすべて終わった頃には辺りは宵闇に包まれていた。
親族がお松との最期の別れを済ませると、棺は火屋へと移された。
いつの間にか境内には無数の篝火が焚かれ、群れ集った人々を照らし出している。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時――」
火屋の周囲に集まった宗教者たちが声をそろえて『般若心経』を唱え始めた。
その声明が荘厳に響き渡るなか、火屋の炉に火が入れられた。炎は見る間に大きくなり、ほどなく火屋全体が猛火に包まれた。この火付きを良さは、油を沁み込ませた布などを燃焼材として仕掛けてあったのかもしれない。その光量が増すにつれ、周囲の闇がますます濃くなるように元綱には感じられた。
まず火屋を蔽っていた白布が燃え尽きた。その頃には、屋根といわず柱といわず床といわず、焔が凄まじく燃えあがり、巨大な火柱のようになって黒煙を噴き上げた。木棺は灼熱の炎のなかで模糊としてその輪郭を失い、周囲の炎と一体と化して意思を持つ生き物のように燃え盛った。その様は、神聖な炎によって死者の肉体を浄化し、その罪業を滅却し、空へと昇華させるという作業を、まさに象徴しているかのように見えた。
――あの優しく美しかった姉上が・・・・。
もう二度とその姿を見ることはできず、その声を聴くこともできない。お松の五蘊は塵となって天に昇り、永久に虚しくなるのである。その炎を見つめ続けていた元綱は、ようやく涙を流すことができた。
やがて屋根が音を立てて焼け落ち、井桁の木組みが崩れ始める。それに代えるように薪や材木がどんどんと追加され、燃え上がる火柱は天を焦がし続けた。
それでも現代の火葬に比べれば当然ながら火力が弱く、遺骸を骨まで焼くには実際かなりの時間が掛かる。用意の木材や薪を次々とくべ足しつつ、四時間以上にわたって炎は燃え続けた。
その火が果てたのは深夜である。
集められた遺骨は、山内にある墓所へと運ばれ、亡夫・元経の墓石の下に埋められた。傍に菩提樹の若木を植樹し、墓石の代わりとした。
――これですべてが終わった・・・・。
元綱は万感のため息をついた。
疲れ切った顔の経守翁が寄って来た。
「さぞやお疲れのことでござろう。まずはお城に参られ、ゆるりとお憩みになられては如何か」
と言ってくれたので、元綱はその厚意を受け、小倉山城で眠らせてもらうことにした。
元綱はここしばらくまともに寝ていない。空っぽの胃にあり合わせの食べ物と酒を流し入れ、横になると、落ちるように意識を失い、夢も見ずに熟睡した。
目を覚ました時、日はよほど高くなっていた。
むくりと夜具から身を起こすと、猛烈な空腹感がある。
――こんな時でもちゃんと腹は減るものだな。
とうに朝餉は次室に用意されており、井上元景らは食事を済ませていたので、元綱も箸を取った。砂を噛むようで味も感じなかったが、それでも腹が満ちると、やや哀しみが薄らいだような気がした。
「では、そろそろ帰るか」
口数少ない重蔵や近侍らに、元綱はあえて穏やかな笑みを向けた。
一行が帰り支度をしているところに、なんと吉川興経が帰って来た。帯同した軍勢のことは祖父の国経に任せ、わずかな近侍だけを連れ昼夜兼行して駆けつけたのである。興経は疲弊しきっていたが、叔父が弔問に来てくれていると知ると、衣服を着替え、元綱たちがいる部屋まで挨拶に来た。
「母上はすでに骨になったと先ほど聞きました。死に目に会うことさえできず、無念でござる・・・・」
「次郎三郎殿・・・・」
元綱は掛ける言葉もない。
興経が墓参にゆくというので、元綱はそれに同行することにし、再び洞仙寺へと足を運んだ。
父母の墓石の前に跪き、合掌した興経は、静かに哭泣した。誰も口をきかない静寂のなかで、風の音と蝉の声だけが空々しく響いている。
心のなかで別れを済ませたのか、やがて興経は立ちあがり、元綱の方に向き直った。
「帰路は急ぎに急ぎましたので、何度も馬が潰れそうになりましたが、毛利の関所を通りますたびに、元気な馬と取り換えて頂きました。叔父上があらかじめそのように手配りしてくだされたとも聞きました。お心遣いに感謝しています」
若者は丁重に頭を下げた。
「俺が次郎三郎殿の立場であれば、やはり急ぎに急いで帰るであろうと思うたまでです。そのようなことはお気になされるな」
吉川氏の当主が乗っていたほどの馬であれば、相当な名馬であろうことは見なくともわかる。武人が我が馬を愛する気持ちは深い。
「次郎三郎殿の愛馬は、俺が吉田に帰ったらすぐにこちらへお送りしましょう」
元綱が言うと、
「それはありがたい。かたじけなく存ずる」
興経はようやくわずかな笑顔を見せた。
元綱はそこで興経と別れ、そのまま帰路についた。
まず吉田の郡山城まで戻り、兄らに復命をし、相合の屋敷に帰り着いたのは、七月六日の夜である。
「母上・・・・」
懐から折り畳んだ懐紙を取り出した元綱は、それをそのまま母に手渡した。
開いて出てきたのは、ひとふさの艶やかな髪である。
娘の遺髪を愛おしげに捧げ持った相合の方は、
「わたくしより先に逝くとは、なんと親不孝な娘でしょう」
と冗談めかして言ったが、言ったきり身体を折り曲げ、肩を震わせて泣いた。
伯耆の山名氏が出雲に侵攻したことを受け、尼子軍が西条の陣を払い、帰国の途についたのは、七月五日であった。
ちなみに国許からの訃報を受けた吉川興経が西条を去ったのは七月四日であり、先鋒軍を束ねる亀井秀綱の耳にもその報告が入っている。
この時の秀綱は、諸将の軍功の調査や整理、陣払いの準備などに忙殺されていたに違いなく、興経の母の死などにさほど関心を払わなかったであろう。が、その一方で、早々と帰国した毛利氏に対しては――つまりその当主である幸松丸の病状に関しては――強い関心と興味とを持っていた。
「もし仮に、幸松丸が死んだとすれば――」
毛利の家督はどうなるであろう。多治比元就が本家に戻って家を継ぐのか。あるいは部屋住みの相合元綱がそのまま当主になるのか。尼子家にとって、そのどちらがより利益になるか――。
そうした仮定にも想いを巡らし、いざという時に己が何を成すべきか、あらかじめ想定しておくことが、自分にとって当然の責務であると秀綱は考えている。今回の鏡山城合戦では武将としての評価をやや落とした感のある秀綱であったが、それでも、いずれ遠くない将来、主君・経久の守護代として自分が安芸に君臨するものと信じていたし、その自覚と責任感までは失っていなかった。
「順当にゆけば、多治比の元就が家を継ぐことになりましょうな」
と常識的な言を揚げたのは、謀臣というべき鉢屋弥之三郎である。
元就は毛利弘元の正妻の子であり、先代・興元の同腹の弟である。同じ弘元の子ではあっても元綱は妾腹に過ぎず、血筋という点で大きく劣る。元就はこの数年、幸松丸を後見して家の舵取りをしてきた実績もあり、あの武田元繁を討ち取った「有田合戦」以来、数多くの戦場を踏みながら大きな失敗を犯すこともなく、武将としての評判も悪くない。後継候補として最有力であることは間違いなく、仮に家督を継いだとしても家中からそれほど異論は出ないであろう。
弥之三郎が論拠としてそれらを挙げると、
「そうと決まったものでもあるまい」
秀綱は不機嫌そうな顔をした。
「元就はすでに毛利本家を出て一家を立てておる。本家には元綱という立派な後釜が残っておるぞ」
「ほう、相合の元綱でござるか。能登守さまは、元綱に肩入れなさるおつもりですかな」
「いや、別にそういうわけではないが・・・・」
実際、秀綱には元綱に肩入れしてやるような義理はない。
そもそも元綱は坂一族との繋がりが深い男である。坂氏の総領である坂広秀はかつて元綱の後見役であり、今は舅であるという。その坂広秀の父であり坂氏の長老でもあった坂広時を、秀綱は死に追いやっているから、元綱が秀綱に好意を持つはずがない。感情的には尼子嫌いであり、政治的には大内寄りではないか、と秀綱は憶測していた。
尼子の圧力によって元綱に家督を継がせてやることで、毛利家を遠隔支配できるならそれも悪くないが、元綱を立てたことでかえって毛利を大内方に奔らせる結果になれば最悪である。政治的に尼子寄りということで言えば、吉川氏との繋がりが深く、主君・経久の姪婿に当たる元就に家督を継がせる方が穏当であろうということも、秀綱は理性ではわかっていた。
秀綱自身は元就の才智や能力をさほど評価していないから、元就が毛利家を継いだところで、それが尼子にとっての脅威になるとはまったく考えていない。脅威どころか、これまでの元就の政治的進退は尼子方の要求に対してむしろ犬のように従順であり、このまま毛利家の舵取りをさせ続けたところで大過はないだろうと思っている。
が、それはそれとしても、
――あの元就めが毛利の当主になる・・・・。
とあらためて思えば、感情的にはやはり面白くない。
秀綱は、この鏡山城合戦で、元就の勝手な謀略によって面目を丸潰れにされたばかりなのである。なろうことならその素っ首を刎ねてやりたいと思うほど元就に腹を立てていた。
この男は尼子家における重臣筆頭の家に生まれ、戦国乱世の権化というべき尼子経久の側近くで成人し、その薫陶と庇護の下でエリートコースを歩んでここまできた。秀綱自身は自分のことを「虎の威を借る狐」であるなどと思ったことは一度もなかったが、たとえば尼子傘下の豪族といった立場で秀綱に接する人々は、その背後に尼子経久の巨大な像を見ざるをえない。秀綱を怒らせることは尼子経久から睨まれることと同義なのである。彼らは常に秀綱に気をつかい、その不興を買うことを恐れ、その意を迎えることに汲々とした。
そういう秀綱にとって、敵将ならともかく、味方である傘下の武将によってあれほどの恥をかかされるなどということは、かつてない。その自然な帰結として、深く根に持った。
――元就なんぞに毛利家の権力を握せてなどやるものか。
という想いが、肚の裡で黒煙をあげていたのである。
そんな秀綱の意中を見透かしたように、
「なるほど、元就はお嫌いでござったか・・・・」
弥之三郎が意地の悪い笑みを浮かべた。
「ならば元綱に家督がゆくよう、毛利の重臣どもにあらかじめ耳打ちしておかるるとよい。聞くところによれば、アレは勇はあっても思慮はなし。万事に卒のない元就に比ぶれば、世慣れず底も浅そうじゃによって、踊らせるにも追い使うにも、たやすかろうと存じまするが」
弥之三郎の元綱評に、秀綱は内心で首をひねった。
――あれはただの猪武者だろうか。
この西条の戦陣で、秀綱は直に元綱と接している。その面つきは精悍で、どこか利かん気の悪童のような匂いがあり、一見したところ直情型の武人のようにも思えたのだが、軍議での言動や戦場での進退などを見ていると、他人をやり込めてでも自説を強引に押し通そうとしたり、功名のためなら抜け駆けも辞さぬといった、猪武者に特有なアクの強さがない。あの青年は名家のお坊ちゃん育ちであるだけに、脂ぎった顕示欲のようなものが薄いのか、あるいは根源的なところで欲望の量が過少であるのかもしれない。
――欲得に飛び付く阿呆なら御しやすいのだが・・・・。
元綱が、兄の元就を押しのけてでも家督に執着するような男なら恩の着せようもあり、あるいは兄弟仲が悪ければそれを利用しようもあるのだが、これまで諜者などから報告された情報によっても、今回の戦場で実見した感触から言っても、あの兄弟はそれぞれに分をわきまえていて、兄の方は弟に相応の敬意を払い、弟の方もそれなりに長幼の序を憚り、この戦国の世には珍しく、兄弟仲はむしろ良好であるように見えた。
――しかし、先々のことはわからぬ。
とも秀綱は思う。
今でこそ元就と元綱の関係は良好であるかもしれないが、それは二人の上に常に共通の「主君」という存在があったからこそではないか。かつては父と兄が、今は幸松丸という甥子が「主君」としてあり、その下で兄と弟が対等に近い立ち位置でいられたからこそ波風が立たなかった、ということはあり得る。もし幸松丸が死ねば、二人のうちどちらかが毛利家当主となり、その選に漏れたひとりは、もう一方を「主君」と仰がねばならなくなるわけで、自尊心が強い男なら、臣下の座に甘んじることに辛抱ができなくなり、ついには暴発する、などということがあっても不思議はない。そういう実例が武家には無数にあるのである。
――兄弟が相食み、骨肉の内訌にでもなれば・・・・。
それはそれで面白い。
が、現状、毛利家は尼子傘下の豪族として違背もせず働いてくれている。その家に内訌を起こさせ、力を損耗させたところで、実際のところ尼子にとっては何の利益にもならないのである。やがては安芸の豪族たちを総覧しようという立場の秀綱にすれば、毛利家が尼子にとっての忠良な犬でありさえすれば良いわけで、必ずしもお家騒動を望んでいるわけではなかった。
そのあたりの秀綱の複雑な心情を、弥之三郎はおおむね察している。
要するに秀綱は、ただ元就という男の存在が気に食わず、目障りだというだけなのである。ただし個人的な好悪の感情を政治に持ち込むというのも体裁が悪いので、元就を公然と排除できるようなもっともらしい大義名分を欲しているのであろう。
「ならばいっそ、元就でも元綱でもなく、お屋形さまの縁者のどなたかを、毛利家に送り込むというのは如何でござろうかな」
「お屋形さまの――?」
尼子経久の孫の一人を養子として毛利家に入れ、その家督を継がせるのである。元就にその補佐なり後見なりを命じれば、元就には直接的に権力を握らせることなく、現在の幸松丸体制と似た政治体制のまま、毛利家を遠隔支配できることになる。
この提案は蠱惑的なほど秀綱の心を引きつけた。
「ふむ。なるほど、それも悪くないな・・・・」
気のない表情のままそう呟き、唇を舐めた。
――いずれ、あの童子が死んでくれた後のことだ。
幸松丸はもともと腺病質な性質であるそうだから、その病は何も死病と決まったわけではないであろう。ただ夏風邪をこじらせたというだけかもしれない。持ち直す可能性はもちろんあり、先行きはまったく不透明というしかない。それでも、いざそうなった場合に後手を踏まぬよう、あらかじめ準備だけは調えておくべきであろう。むろん事態に即応するには、正確な情報を迅速に得られるようにしておくことが絶対条件である。
「毛利に何か動きがあれば、すぐに報せが入るよう手配りしておけ」
「承って候」
弥之三郎は口元だけで笑い、うやうやしく低頭した。