運命の岐路(三)
次の夜が明けた。
この日も毛利軍は早朝から鏡山城の大手門を攻めたが、戦いは常のごとく小競り合いに終始した。他の攻め口でも戦況は似たようなものらしく、城を取り巻く環境に変化らしい変化はない。
先陣を預かる元綱は、午になって持ち場を平賀氏の兵と交代し、毛利軍の本陣である満願寺へ引きあげた。
病の幸松丸はいまだ病床から立てず、兄の元就がその陣代を務めている。兄の前に座った元綱は、今日の戦果と諸将の戦いぶり、被害状況などを報告した。
「皆みな、ご苦労だった」
元就の労いの言葉もいつもと変わらない。夜まで兵を憩めることとし、諸将はそれぞれの陣屋へと帰っていった。
元綱は兄と共に最後に本堂を出た。境内の白砂を真夏の日差しが焼き、目に眩しいほどである。四方から響いてくる蝉の声がやけに耳にうるさい。
「幸松丸さまのご様子はどうだ?」
問う元綱に、元就は厳しい顔を向けた。
「一時の重篤な状態は抜けられたと思う。――が、まだまだご本復には遠い。粥さえ喉を通らぬらしく、無理に食べさせてもすぐに吐いてしまうのだ」
幸松丸の病状は一進一退を続けていた。意識こそ戻ったものの、水以外のものを受け付けず、食が通らないから、投薬治療もできていない。熱はやや下がったようだが、それでも高熱が続いていることに違いはなく、やつれが日に日に目立ってきている。
「お目に掛かれようか」
「いま起きておられるかはわからぬが――。枕頭でお顔を拝するくらいなら、構わぬ」
境内は広くもないが、本堂の他に僧坊、庫裏などの建物がある。幸松丸は寝所として使っていた僧坊の一室をそのまま病室にしていた。
病間には医僧がおり、次室には志道広良が座っていた。兄に続いて敷居をまたいだ元綱は、幼君の枕元に静かに座った。
幸松丸は眠っていた。額に汗を浮かべ、熱のためか頬は上気している。苦しげに眉を寄せ、浅い呼吸を繰り返している様子は、うなされているようにも見える。
「幸松殿・・・・」
思わず声を掛けると、掻巻がもそりと動き、少年の目が薄っすらと開かれた。
「あ、相合の叔父上・・・・」
「起こしてしまいましたか」
恐縮する元綱を前に少年は無言で息を整えていたが、しばらくして水を所望した。
枕元には水差しと湯呑みが置かれている。医僧と元就が両側から少年を支えて上体を起こし、元綱は湯呑みに水を注いで幼君に手渡した。
幸松丸は水をゆっくりと飲み、大きく息をついて、
「――夢を見ておりました」
と掠れた声で言った。
「首実検のとき見た武者の首が、私を睨んで口々に怨み事を申すのです。わしらが死んだはお前のせいじゃと。お前も早く冥土へ来いと――」
よほど怖かったのであろう、固く閉じた少年の目尻から一筋の涙が零れて落ちた。
奪った敵の首は主君の実検に供される。武者たちは主君に見てもらうために敵の首を取って来るわけで、主君にとってその儀式は義務でさえあるのだが、わずか九歳の少年にとっては、そのむごたらしい光景は衝撃が強すぎたのかもしれない。
――戦場に連れて来るには、やはり幸松殿は幼すぎたのだ・・・・。
元綱は思ったが、尼子経久からそれを命じられた以上、毛利家の立場では命令を拒絶できなかったという事情も理解はしている。
「我らがお側におるのです。お気を強く持たれませ」
元綱はあえて明るい声で励ました。
「亡者なぞ恐るるに足りませんぞ。たとえ地獄の牛頭馬頭が相手でも、我らが幸松殿をお守りします」
うなずいた元就が言葉を継いだ。
「幸松殿のお父上や祖父君、我らの累代のご先祖の魂魄が、幸松殿を護ってくだされておりますゆえ、何も恐れることはありません。怖い夢をご覧になられたら、心のなかで念仏を唱えなさるとよい。南無阿弥陀仏の声明を唱えれば、御仏のご加護にて、亡者や死霊も必ず退散しましょう」
少年は気丈に笑みを作ってうなずいた。
「戦さの方は――?」
「小競り合いばかりが続いております。落城まではまだしばらく時が掛かりましょう」
元綱が答えた。
「たれぞ死んだりしておりませんか」
「雑兵に死傷者はありますが、主立つ者には深手を負った者もありません。どうかご懸念なく、戦さのことは我らにお任せくだされ」
それを聞いて安心したのか、少年は再び横になって目を閉じた。
病間を辞した元綱は、兄と共に真夏の日差しのなかに立った。熱せられた砂利で足が焼けそうである。戦場にあることを忘れるような真夏の静けさが耳に沁みた。
顎をあげると、正面に鏡山の威容がある。
「蔵田備中(房信)は思いのほか剛の者だ。雑兵の端々まで健気によう防ぎ戦っておるのを見れば、そのことがよくわかる。あの城はこのまま力で攻めておっても、とうぶん落ちぬぞ」
元綱は苛立ちを隠さず言った。
「調略の方はどんな様子だ?」
「備中守は『降伏も開城もせぬ』と明言した。翻意させるのはまず無理であろう。本丸を守る叔父の日向守(蔵田直信)と密かに繋ぎが取れぬものかと思案しておるのだが、その術がない」
元就は正直に言った。蔵田直信は城の最奥にある本丸を守備しているわけで、城外からは接触のしようがないのである。元就は日ごとに焦燥を深めており、
――忍びの技術に長けた者が欲しい。
と、この時ほど思ったことはかつてなかった。
「矢文でも射込んでみたらどうだ」
元綱の言に、元就は即座に首を振った。
「無駄だろう。たとえその矢が驚くほど遠くに飛び、運良く本丸の中に落ちたとしても、肝心の手紙が誰の目に触れるかもわからぬ。露見せぬまま日向守の元まで届くとは思えぬ」
「それはそれで構わぬではないか」
「なに?」
「その手紙を城内の者が見れば、日向守がすでに寄せ手に内応しておると、誤解してくれるかもしれん。疑心、暗鬼を生ず、というヤツだ」
「火のないところに煙を立てるわけか・・・・」
城主の蔵田房信と、叔父の蔵田直信の間柄が親密であれば、これはまったく効果がないであろう。しかし、「曾参人を殺す」という故事もある。「我が子が殺人を犯した」というありえないような噂話でも、三度も繰り返し聞かされれば母親でさえそれを真実と思い込んでしまうわけで、生死の極限状態に追い込まれている城兵たちに虚報を信じ込ませるくらいのことは、さして困難ではないかもしれない。言葉というのは使い方次第で人を殺すことさえできるのである。古今の歴史がそれを証明している。
「やり方が少々あざといな」
「あざといか? 謀略と呼ぶのも恥ずかしい小手先の謀り事だろう。引っ掛かる方が馬鹿なのだ」
「まあ、そうかもしれん」
「他に打つ手がないというなら、やらぬよりはマシだと思うがな」
元就は虚空を睨んで考え込んだ。
このまま正攻法で城攻めを続けたとしても、落城させるまでどんなに早くても一、二ヶ月は掛かるであろう。幸松丸の病状を想えば、一日でも早く戦さにケリをつけねばならないわけで、わずかでも戦局を動かす可能性があるなら、それがどんな陋劣な策でも、打てる手は打っておくべきではないのか。
――戦さは綺麗事でやるものではない・・・・。
本丸を守っている叔父の直信が敵に内応した、と城主の蔵田房信が思い込めば、房信は叔父を粛清しようとするかもしれない。城兵たちがそうと信じ込めば、「裏切り者」の蔵田直信を殺そうとするかもしれない。周囲からそういう疑惑の目を向けられれば、身の危険を感じた蔵田直信の方が正当防衛の行動に出ることもあり得る。そこまで巧く運ばずとも、城兵たちの相互信頼に亀裂を生じさせることはできるかもしれない。結果として、戦況になんらかの変化をもたらす可能性はあるであろう。
「お前の言う通りだな。やってみるか・・・・」
元就は蔵田直信に内応を促す手紙を書き、それを城内に射込ませた。
この矢文は蔵田直信には届かなかった。
矢に結び付けられた手紙に気付いた兵は、それを大将である蔵田房信へと届けたのである。
それを一読した房信は、
「攻めあぐねた寄せ手の悪あがきよ。くだらぬ手を使うわ」
と笑殺し、手紙を破り捨てた。
――あの叔父御がわれを裏切るはずがない。
叔父の直信は温厚な常識人である。さほど器量は大きくないが、若い頃から数え切れぬほどの戦陣を踏みながら、卑怯な振舞いをしたことはかつて一度もない。家族や一族を大事にする男でもあり、裏切って敵に通ずるような悪辣さがあるとは思えない。だからこそ房信は安心して本丸の守備を任せてもいるのである。
手紙を使った謀略は離間策の常套手段であり、そんなものに引っ掛かるほど房信は粗忽ではなかった。「叔父御は敵に通じたか」などとわずかでも房信が疑念を持てば、その疑念は何層倍にもなって下の者に伝わるということさえ、この男は心得ている。こういう時は、毅然とした態度を保つことこそが城主の務めなのである。
元就の周到さは、さも蔵田直信と手紙のやり取りをしているという態の文面の手紙を複数作り、三夜にわたって城内に射込ませたことであろう。こんなことで蔵田房信を騙せるとは思っていなかったが、孤立無援で籠城している兵たちの心は、そうでなくとも暗澹と沈みがちになっているはずだ。噂や疑惑は独り歩きするものであるから、その伝言ゲームは、結果として雑兵たちの苛立ちや焦燥や絶望をさらに煽るに違いない。
城内に射込まれた矢文は、ひとつも本丸には届かなかったが、そのほとんどが城主の元へと運ばれた。
それでも房信は、手紙はいずれも寄せ手の謀略であると断じて、歯牙にも掛けぬという態度を保った。
「敵が偽作したものじゃ。使い古された手に乗ぜられてはなるまい。叔父御のことをとやかく申す者は、斬るぞ」
とまで言い、風説を封じようとした。流言が飛語となって飛び交えば、事実無根の虚報に実を与えてしまうことになりかねない。籠城戦においてもっとも重要なのは味方同士の信頼関係であり、それが崩れれば城籠りなどできるものではないのである。房信は、叔父を疑うような素振りを毛ほども見せなかった。
しかし、人の口に戸は立てられないし、誰もがこの城主ほど心胆が練れているわけでもない。
――ご本丸の日向守さまはすでに敵に通じておるらしい。
という噂は雑兵たちの間を駆け廻り、それがやがて蔵田直信の家来の耳にまで入った。
「日向守さまが、お主を殺して蔵田の家督を奪おうとなされておると聞いた。まことかや」
と同僚から尋ねられて、本丸に詰める雑兵は仰天した。
「阿呆なことを言うな。日向守さまは備中守さまの叔父上じゃぞ」
「じゃが、みながそう噂しとるぞ。すでに尼子と話はついとって、本領安堵はもちろん、裏切りの褒美に三千貫の地が授けられるちゅうことじゃ」
本丸に噂が蔓延するのに時は掛からなかった。
その風説を側近から聞かされた蔵田直信は、激怒した。
「馬鹿な。わしが敵に通じたというのか」
まったく身に覚えのない話である。笑い捨てたいところだが、しかし、事態はもはや笑って済ませられる段階を過ぎていた。
噂はすでに雑兵の端々にまで行き渡っているらしいのである。城主の蔵田房信がその風説を信じてしまえばどうなるか――。あるいは下士や雑兵のなかの血の気の多い連中が、噂を信じて激怒し、暴走すればどうなるか――。
――このままでは、謀叛人の濡れ衣を着せられて、殺されかねん。
猛烈に居心地の悪さを感じた直信は、ここで初めて寄せ手への寝返りを考えた。どうせ城は孤立無援のまま落ちるのである。城主の房信が降伏・開城に応じない以上、蔵田の家名を残し、妻子の命を救うには、自分が蔵田本家から離れるほかない。このまま裏切り者として不名誉な死を強要されるくらいなら、本物の裏切り者になって生き延びる方がマシではないか――。
「和睦を周旋したのは毛利の元就であったな・・・・」
寄せ手に寝返るにしても、蔵田家の本領を自分に安堵してくれるよう、あらかじめ約束を取り付けておかねばならない。夜になるのを待って、直信は信頼する家来を城外へ出し、元就と繋ぎをつけさせようとした。
鏡山城の本丸は東西に長い城山の東端にあり、二の丸がある西側以外の三方は急峻な崖によって守られている。外から本丸へ直接侵入することは至難だが、城山の東側の崖を降りれば、他の曲輪を通らず城外に出ることはできる。
使者となった男は縄を使って手探りで崖を降り、竪堀の底を転がるようにして山肌を下り、闇の森を伝い歩いて、城の南東に陣を据える先鋒軍の陣屋へと走った。
その夜、大手の攻め口を受け持っていたのは平賀氏の兵であった。使者は毛利軍の本陣がどこにあるかを知りようがなく、寄せ手の陣に駆け込んでみて、そこが平賀氏の陣であることを知った。
「蔵田日向守の使者じゃと――?」
話を聞いた平賀弘保は困惑した。和睦・開城の話はすでに流れたと聞いている。元就はいわば勝手に謀略を仕掛けていた形であり、そんなことは弘保は知りようがなかった。しかしながら、これが重要な使者であることはまぎれもない。自分の裁量の分を超えると即断した弘保は、先陣の軍監である亀井秀綱の元へ使者を連れて行った。
「ほう、日向守が寝返りたいと申すのか・・・・」
使者を引見した亀井秀綱は薄く笑った。
秀綱は、先陣を務めるこの鏡山城合戦で華々しい戦果を挙げ、名実ともに安芸の旗頭として認められたいと思っているのだが、正攻法でどれほど攻めても城がビクともせぬことに、やや焦れ始めていた。このままではどれほどの長陣になるかもわからず、ぐずぐずと攻めあぐねておれば、秀綱の武将としての評価に疑問符が付くことにもなりかねない。
――渡りに船とはこのことじゃ。
本丸を守る直信が城内で謀叛を起こせば、もはや防戦どころの騒ぎではなくなるであろう。その機に一斉に全軍で攻めれば、城はあっけなく落ちるに違いない。
「よかろう。蔵田家の本領を、日向守に安堵して頂けるよう、お屋形さまには私から申し上げる。日向守には、夜明けまでに寄せ手を城内に引き入れるよう申し伝えよ」
その言葉に随喜し、使者は城へと馳せ帰った。
が、この企ては失敗した。
直信の家来が本丸を抜け、城門を開けるために密かに外郭へ移動しているところを、他の組の兵に目撃されたのである。兵たちの心理はそうでなくとも籠城で殺伐とし、さらに直信に対しては根深い不信感を持っている。雑兵たちが騒ぎ出し、押し問答が抜き差しならない殺し合いに発展してしまった。
蔵田直信は不安と恐怖で神経が鋭敏になっている。騒ぎの音を遠く聞くと、
――すわ、露見したか。
と慌て、ただちに行動に移った。本丸を堅固に固めると共に、兵たちに火矢を放たせたのである。火矢は主に二の丸に向かって飛び、城内の建物の屋根という屋根に突き立って燃えだした。
「敵の夜討ちか!?」
「本丸が謀叛ぞ!」
「日向守殿が逆心なされたのじゃ!」
闇のなかで兵たちは右往左往し、城内は大混乱となった。
「叔父御が謀叛じゃと!?」
事態を知った蔵田房信は、激怒する以前に心底から落胆した。
――なんと無様な・・・・。
この鏡山城合戦は、武将・蔵田房信にとってまさに一世一代の晴れ舞台だったのである。敵は山陰の覇者たる尼子経久が自ら率いる大軍であり、これ以上の相手はない。勝つにしろ負けるにしろ、大内氏の安芸守護代として、主君である大内義興に誇れるような籠城戦をしてみせるつもりであった。最後の最後まで潔く戦って、蔵田の家名を美しく飾るつもりであった。しかし、敵にはまだひとつの曲輪も落とされていないのに、味方の裏切りで本丸が落ちてしまうというのは、醜態以外の何物でもないではないか。しかも、裏切ったのは近親の叔父なのである。「蔵田房信は身内の推服さえ得られぬ無能な武将であった」と世間に思われ、後の世まで嘲笑されるに違いない。
「是非もない。本丸を攻め落とし、叔父御の首を刎ねるぞ」
と命じたが、この叫びは虚しかった。
城内から出た火が合図になる。寄せ手はすぐにも総攻撃を開始するに違いない。これまでは城兵が不屈の闘志で敵の猛攻を跳ね返してきたが、城内に裏切り者が出てしまえばどうにもならない。前途に絶望した兵たちの士気は崩壊し、夜陰にまぎれて逃散を始めるであろう。外郭が落ちれば、兵たちは二の丸の防備で手一杯になる。
実際、城内のあちこちから火を発したことで兵たちは大混乱を起こしており、消火活動に必死で本丸攻めどころの騒ぎではなかった。
亀井秀綱は先陣のすべての将に総攻めを命じ、城内の異変を知った周囲の寄せ手も城に総攻撃を掛けた。憩んでいた毛利軍も慌てて攻城に加わった。まず平賀氏の兵が城門を突破し、それに続いて城内に駆け込んだのである。
城門が破られると、城兵たちはほとんど抗戦することなく、闇の山肌を転がり落ちるようにして逃げ始めた。二の丸以外の曲輪は、夜明けさえ待たずに次々と落ちた。
ちなみにこの時、遅れて城内に入った毛利の武者たちは、ほとんど敵の首を挙げることができなかった。戦後に確認したところ、福原貞俊の家来がわずかに三級を得たのみであったという。この夜たまたま持ち場についていた平賀氏に手柄をまんまとさらわれた形であり、先陣の大将として苦労を重ねてきた元綱にとってみれば、なんとも釈然とせぬ結果であったろう。
それでも、蔵田房信が守る二の丸だけは陥落しなかった。夜が明け、酷暑の時間を過ぎ、夕日が西の山並に没しても、房信は自ら兵を叱咤して奮闘し続けた。
二の丸は、本丸へと続く東側以外の三方が切り立った崖のようになっており、これに続く急峻な山道の幅は人が二人通るのがやっとである。寄せ手の兵はすでに城内に満ち、山肌を這い登ってまで攻め続けているが、攻めあぐねているというのが実情であった。
寄せ手も攻め疲れたのか、夜になると戦いの喧騒は止んだ。
櫓の上から闇の中でうごめく無数の篝火を凝視していた房信は、
「これほど戦えば、もはやよかろう」
と、乾いた声で呟いた。
女子供や老人まで含めれば二の丸にはまだ三百人近い人数が残っており、粘ろうと思えばさらに数日は戦い続けられるであろうが、しかし、この日の戦いで名のある武者や心頼みの家臣が次々と討ち死にしたために、房信の気持ちの糸の方が先に切れてしまっていた。
外郭を見下ろすと、寄せ手のなかに毛利家の旗がある。
――元就は和睦に骨を折ってくれたな・・・・。
房信は使者を立てることにした。
「われ一人が切腹つかまつるゆえ、女子供と生き残った雑兵らの命をお助けくださらぬか」
叔父の裏切りによって蔵田の家名はすでに汚濁にまみれている。こうなった以上、せめて潔い最期を飾ることで、蔵田房信という名にわずかでも香気を添えたい。それがこの男の最後の願いであった。
「それも許さぬと申されるなら、すべての者が一人残らず死に絶えるまで戦い抜き、寄せ手に冥途の道連れになって頂く所存でござる」
もとより無駄な人死には元就も望むところではない。
元就は自ら亀井秀綱の元へと走り、話を聞いた秀綱は開城の許可を得るために下見峠の尼子本陣へと使者を駆けさせた。
鏡山城の落城は翌日――六月二十八日である。
蔵田房信は、尼子方の検視を二の丸に迎え入れ、その前で見事に腹を切って果てた。房信の妻子と生き残った雑兵たちは、約束通りすべて助命されることとなった。
ちなみに房信には三人の子があったとされる。下の二人はまだ幼児であり、妻女と共に竹原の木谷氏に預けられることになった。このとき八歳だった嫡男の菊法師は竹原の寺に入れられることになったが、数年後に還俗して蔵田市之助と名乗り、旧主である大内家に仕えた。この少年はなかなかの勇士に育ったようで、大内氏の滅亡後は、元就が召し出して毛利家に仕えるようになり、蔵田豊後守を名乗ったという。
ところで、落城の契機を作った蔵田直信という男は、やや滑稽な形で残された。
尼子経久は、亀井秀綱から開城の是非を尋ねられたとき、事後承諾の形で蔵田直信の寝返りの一件を知らされた。
――なるほど、昨夜の異変はそういうことであったか。
と納得したのだが、しかし、蔵田直信の寝返りを許した憶えなどない。
その後、秀綱自身が本陣へやって来て内謁したとき、
「日向守に蔵田の本領を安堵するなぞ、誰が許したか!」
と、経久は珍しく怒声を発した。
――しまった、独断が過ぎたか。
秀綱は心中でうろたえた。
先陣の軍監である秀綱は、大手門攻めの総大将のようなものであり、政戦に対してある程度の独断は許されている。鏡山城を手早く落とせるなら、三千貫ばかりの領地をくれてやるくらいは安いものだと計算していただけに、主君の怒気はやや意外であった。経久も自分と同様の判断をするはずだと思い込んでいたのである。
「火急のことでもあり、また夜分遅くのことでもありましたゆえ、それがしの勝手料簡で事を取り計らいました。お屋形さまに御報告が遅れましたることは、平にお詫び致しまする」
「備中守が降参するという話なら、本領安堵もしよう。いくらか采地を加増してやってもよい。じゃが、日向守とは何者か。備中守の近親でありながら、逆心して甥を殺し、蔵田の家督を我がものにしようというその心底、恥知らずにもほどがある」
経久は吐き捨てるように言った。
城主の奮戦ぶりと進退の見事さを知った直後であるだけに、蔵田直信という男の振舞いはことさら醜悪に映った。こういう忠義も情義もわきまえない男を、経久は臣下に加えたいとは思わない。そんな男を大喜びで受け入れるようでは、尼子家は不義の家臣を喜ぶということになるではないか。
むろん経久の元には、秀綱以外の筋からも多くの情報がもたらされている。蔵田直信を実際に調略したのが多治比元就であるらしいということも知ったし、秀綱本人から事情を聴取することで、秀綱はどうやら事態に引きずられる形で直信の寝返りを許し、その機に乗じて城を一気に落としに掛かっただけだということも理解した。
――つまりは、元就の謀略によって城が落ちたというわけか。
この認識は経久にとって愉快ではない。
鏡山城は、三万を超える尼子軍が半月近くも攻めて、ひとつの曲輪も落とせなかったほどの堅城である。それが、元就の調略によって一夜にして落城となった。城が手早く落ち、味方の死傷者も少なく済んだという意味で、経久の理性はそれが最善手であったということを認めているが、感情はそのようには割り切れない。
鏡山城を攻め落とすという勲功は、本来、亀井秀綱に与えられるべき栄誉であった。経久はそのためにこそ秀綱に先陣の束ね役を命じたのである。普通に攻めて城が落ちていれば、多少の時間は掛かったにせよ、先陣を指揮した秀綱こそが最大の功労者ということになったであろう。しかし、落城の決定的な原因が元就の手柄であると認めれば、首功は元就ということにせざるを得ない。
――元就が余計なことをしたせいで、備中守が死なねばならぬ。
というのも気に食わない。
経久は、敵とはいえ、蔵田房信という男を気に入っていたのである。その潔さはさらに経久に好印象を与え、一個の武人として敬意を持つと共に、その忠勇を高く評価する気分になっている。調略などを用いずそのまま城攻めを続けていれば、あるいは房信を降参させられたかもしれないし、蔵田直信という薄汚い男の処分に心をわずらわされることもなかったであろう。
いや、そういう瑣末な事の以前に、秀綱が先鋒軍を支配し切れていなかったということが、経久は腹立たしい。
「そもそも、お前が元就の謀略を知らなんだというのは、どういうことか。先陣の諸将を督率する立場にありながら、お前はいったい何を視ておったのじゃ」
経久のこの叱声は、秀綱のプライドを大きく傷つけた。
――私に一言もなく、元就めが勝手になしたことなのです。
と秀綱は反論したかったが、そう開き直ったところで意味がないことに気付いた。「鏡山城さえ落ちれば、経過はどうでもよい」というような話ではないのである。主君に問われているのは、秀綱の大将としての器量と言うべきであろう。
「たかだか数家の豪族さえ統御できん者に、安芸の旗頭が務まるか」
と痛罵されたのに等しい。
――元就めが小賢しい策を弄しおったばかりに・・・・!
逆恨みとわかっていても、そのスタンドプレーを呪わざるを得ない。
「・・・・二度と此度のような醜態をさらさぬよう努めまする」
忸怩たる想いを噛み殺すように、秀綱はそれだけを言い、深く頭を下げた。
翌日、蔵田房信は見事に腹を切り、鏡山城は開城された。
城主の親族は捕え、城兵の武装を解除させる。雑兵と女子供は約定の通りその場で解放された。城内の武器、什器、兵糧を点検するなど、当面済ますべき処置を終える頃には日も暮れた。
夜になると、諸将は下見峠の尼子本陣に続々と詰めかけた。経久に戦勝を寿ぐためである。
ともかく武将の人数が多いので、全員が一度に本陣に押し掛けるというわけにはゆかず、先陣、二陣といった風に軍団ごとに経久に拝謁することになった。元就は幸松丸の陣代として、主立つ重臣と共に本陣へ出向いた。吉川興経、平賀弘保なども重臣と共に帷幕に連なった。
経久は機嫌よく諸将の挨拶を受け、その働きをねぎらっていたのだが、亀井秀綱に付き添われて蔵田直信が現れると、別人のように表情を険しくした。
「うぬが蔵田日向守か・・・・」
意外にもこの最大の功労者を断罪したのである。
「うぬは備中守の叔父であると聞いた。総領たる備中守に逆心し、甥子を攻めるなどは、不義の至りである。このような仕儀になりたることは、そもそも我が本意ではなかった」
「な、なんと仰せある・・・・!」
蔵田家の本領を安堵してもらった上、寝返りの功を賞してもらえると思い込んでいた直信は、魂が消え去るほどに驚いた。
「申した通りじゃ。うぬのような恥知らずは、我が家来には要らぬ。生かしておいても世のためにはならぬゆえ、連れて行って首刎ねよ」
駆け寄った近臣たちが直信の身体を左右から押さえつけた。
「そんな・・・・! 能登殿は本領安堵をお約束くだされたのですぞ。今になって知らぬ存ぜぬとは――!」
騙されたと知った直信は激憤して暴れ出したが、数人がかりで押さえつけられ、口以外は自由にならない。
「の、能登殿、なんとか言うてくだされ。これではまるで犬死にではないか・・・・!」
亀井秀綱という男の本質は尼子家の忠良な官僚であり、主君の意に逆らうような争臣ではない。独断で蔵田直信に本領安堵と加増を約束してはいたが、そんなことは忘れたような顔で、この哀れな投降者を冷やかに見下ろし、弁護することも一切しなかった。
むろん他の諸将もそれは同様で、寂として誰も声をあげない。
――気の毒に・・・・。
このような顛末を予期していなかった元就は、かえって信直のために助け舟を出してやりたくなった。城を落とすための謀略であったとはいえ、結果的に直信をこのような窮地に追い込んだ元凶は自分なのである。そこに責任を感じ、直信に同情してしまうところが、元就の甘さと言えなくはない。
「城がこのように素早く落ちたは、日向守の寝返りによることは明らか。味方に参じたる者を殺せば、経久殿の徳望の瑕にもなる。本領安堵はともかく、命ばかりは助けてやってもいいのではないか」
というのが心の声である。
とはいえ、この雰囲気のなかで尼子経久ほどの大物に諫言するというのは、かなりの勇気がいる。
「畏れながら――!」
と声をあげることが元就にはできなかった。
喚き叫ぶ蔵田直信はそのまま本陣から引きずり出され、ほどなく首を刎ねられた。直信の妻子が、蔵田房信の妻子らと共に助命されることになったことは、せめてもであったろう。
哀れな受刑者が幕の外に消えると、
「多治比殿――」
経久は厳しい眼を元就に向けた。
「そなたは此度、総大将たるわしの許しも得ずに調略などを用い、勝手に敵将を籠絡したな。落城に役立ったことゆえ、あえて罪に問うことはせぬが、これは抜け駆けの功名も同じである。賞するわけにはゆかぬぞ」
「は。出過ぎた真似を致しました。お詫び申しまする」
低頭する元就の背にも冷たい汗が流れた。
後味の悪い結末になったが、皮肉なことに、経久と尼子家にとっては、元就の謀略と蔵田直信の寝返りにむしろ感謝せねばならぬハメになった。というのも、出雲の東――伯耆国で山名氏が尼子に叛き、出雲国境へと侵攻したという急報が、この三日後に届けられたのである。
論功行賞と戦後処置のために鏡山城で滞在していた経久は、大急ぎで政務を片付け、七月五日にいそいそと陣を払い、帰国の途についた。
毛利軍の陣払いはそれより早い。
元就は、幸松丸の病状を経久に訴え、論功の沙汰が下るのを待つことなく、落城の翌々日に戦場から引き揚げさせてもらったのである。
陰暦では不定期に大の月と小の月があるが、大永三年(1523)の六月は小の月であり、二十九日で月が終わる。つまり毛利軍が西条を去ったのは七月一日であり、吉田に帰還したのは二日の夕刻以降ということになるが、病体の幸松丸は輿で移動せざるを得なかったはずであるから、行軍は通常より時間が掛かったに違いなく、郡山城に帰り着いたのは三日の昼であったとしておきたい。
戦さが終われば、城では慰労のための酒宴が開かれる。
夕刻から痛飲した元綱は、深夜になって相合の屋敷に帰ったのだが、そこには酔いも凱旋の喜びも吹き飛ばすような悲報が待っていた。
去る七月二日――。
姉のお松が大朝で病没していたのである。