運命の岐路(二)
大永三年(1523)六月十四日の早暁――。
井原元師が放った鏑矢がうなりを上げて蒼天を切り裂いた。矢は驚くほど高く飛び、一町ばかり先にある城門をはるかに飛び越え、城内の二の丸の斜面に突き立った。
しばらくして大手の城門からその矢が射返される。
それを合図に、
「寄せよ!」
と元綱が叫び、四百ほどの武者たちが喚声をあげつつ「く」の字に折れた山道を駆け登った。
この時代、籠城戦といっても守備兵は城に篭りっぱなしということはない。城内に充分な兵力がある場合、城門から出撃して戦うのがむしろ普通である。矢石を雨のごとく降らせて寄せ手の勢いを止めると、百人ばかりの武者が城門から噴出し、山道を駆け下ってきた。
寄せ手の最前線にいたのは、渡辺、桂、井原の兵で、数は二百ほどである。そこに城兵が突っ込んで、猛烈な叩き合いとなった。
狭い山道での戦いだから、闘争の力点はごく小さくなる。実際に白兵戦に参加しているのは、両軍合わせてせいぜい四、五十人と思えばいい。後方の兵は味方の背中を見つつ、その頭越しに援護の矢を射ることくらいしかできない。
城門の守備兵より寄せ手の毛利兵の方が数は多いのだが、こういう戦いでは兵力の多寡はほとんど関係なくなる。しかも毛利方には頭上から無数の矢石が降る。当然ながら負傷者が続出した。渡辺勝は一歩も退かぬという形相で奮迅の働きをしているが、怪我人が次々と後送されるにつれ、前線の兵力がだんだんと痩せてきた。
その後方で二百ほどの兵を率いた元綱は、道に矢楯を並べさせ、敵を堰き止める形を作ると、先陣を後退させて兵を繰り代え、自ら陣頭に立った。
矢石に叩かれた矢楯が鳴り続けている。
寄せ手の退き足に合わせて進出してきた城兵が、ぐいぐいと猛烈に押し込んできた。味方の有利を見た武者たちが、さらに城門から飛び出して坂を駆け下って来る。
「押し返せ!」
と怒声をあげる元綱の兜に矢が当たり、大袖にも矢が突き立った。
その周囲では重蔵や近侍たちが槍を振るって奮戦している。近づく敵兵を二人、三人と突き伏せるが、押してくる敵の勢いは少しも衰えない。坂道の攻防ではどうしても上から攻め下る方に勢いがつくもので、元綱たちはじりじりと後退を余儀なくされた。
が、元綱は冷静さを失っていない。四半刻ほど敵を支えると、
「退け!」
と叫んで退き鐘を打たせ、敵の勢いに押し流されるように兵を後退させた。
城兵は転がるような勢いで追撃してくる。
山麓に近いところまで退いたとき、山道の左右の林間に埋めておいた伏兵が起って、城兵に無数の矢を浴びせた。まさにそのタイミングに合わせ、元綱は退く足を止め、攻め太鼓を乱打させ、全軍に逆撃を命じた。山麓に控えていた二陣の兵たちも猛然と駆け出した。
城兵は深追いしすぎたというべきであろう。勝ち戦さの興奮に酔っていた者たちは、夢から覚めたように恐慌状態となり、算を乱して城門へと逃げた。
毛利方の武者たちは、それまでの鬱憤を晴らすかのように、逃げてゆく敵に背後からさんざんに矢を浴びせかけ、五十人近くに手傷を負わせ、二十余の首を得る快勝を収めた。
鏡山城の大手口は城山の南東にある。
その麓に満願寺という小さな寺があり、僧たちはすでに逃げ出したらしく無人となっていたので、元就はその本堂を拝借して毛利軍の本陣とした。
「暑い、暑い」
鎧兜を脱いで小具足姿になった元綱が、顔の汗を二の腕でぬぐいながら本堂に入ってきた。福原貞俊、渡辺勝、赤川元保、坂広秀、桂広澄、国司有相、中村元明、井原元師、山県元照といった武将たちが、続いて階を登ってきた。
堂内は薄暗い。本尊の前に床几が据えられ、そこに幸松丸が小具足姿で腰を下ろしている。その左右に元就と志道広良が座り、さらに井上党の諸将、粟屋元秀、飯田元親といった武将たちが顔を揃えていた。彼らは立ちあがり、前線で戦ってきた武将たちを出迎えた。
「ご苦労だった」
元就の労いの言葉に元綱は苦笑を返した。
「戦さをするのは苦にもならんが、この暑さはかなわんな。死傷した者より暑気当たり(熱中症)で倒れた者の方が多いくらいだ」
そのまま主君の前まで進んで座り、諸将と共に一礼した。
鏡山城は、城下の町屋がすでに昨日のうちに焼き払われ、城山は三万を超える尼子の大軍勢によって完全に包囲されていた。
先陣を務める毛利・吉川軍は、当然ながらもっとも激戦となる大手門攻めを割り振られており、亀井秀綱らと共に城山の南東に布陣していた。二陣の高橋氏らの軍勢は城山の南西の山に、後軍の諸豪族の軍勢は城の東方にといった風に、他の豪族たちもそれぞれに持ち場が定められている。搦め手口がある城山の北方は、尼子経久率いる出雲の大軍が陣を敷いた。
城山は東西に長い。山頂の本丸からほんの三町ばかり北に城山とほぼ同じ高さの山があり、「湯船の谷」と名付けられた谷によって山と山とが隔てられている。その山の西の峰――鏡山城から見ると北西にある「下見峠」と呼ばれるところに経久は自身の本陣を置いていた。谷に面した山の南側にびっしりと出雲の諸将の兵を並べ、北から城を睨み据えている。
この日、元就は、元綱に八百ほどの兵を預けて先陣の指揮を任せた。自らは四百ほどの兵を率いて後詰めの形で山麓に控え、城攻めの様子を眺めつつ、幸松丸に戦さのなんたるかを教えた。
実際に戦場での働きぶりを主君に見てもらえるわけで、毛利の軍兵たちは闘志をみなぎらせていた。狭い山道を登って何度も城門に攻め寄せたのだが、しかし、守備兵の戦意は旺盛で、城門から打って出て戦い、そのたびに毛利軍は坂下へと追い落とされた。元綱は兵を繰り代えながら早朝から六時間近くも攻め続け、午になって吉川軍と持ち場を交代し、本陣へと引きあげてきたのだった。
諸将はさすがに疲れた顔つきだが、若い元綱や井原元師には疲弊の色がほとんどない。
「幸松丸さまもご覧になられたでしょうが、兵たちは勇戦敢闘してくれました。が、城門はビクとも致しません。守将の蔵田なんとかは、なかなかの者と見受けました。あの攻め口は、坂の勾配はさほどではないものの、道が狭く、攻めにくう作られております。また城門が相当に堅固で、門扉を破るにはよほど苦労を致しましょう」
鏡山城は尼子と大内の争奪の的になっており、昨年この城を奪い返した大内義興は、守将の蔵田房信に命じて防備を強化すべく大改修を施した。大手の城門は、野積みながら石垣らしきものが作られており、門扉が鉄板で鎧われた立派な櫓門になっている。攻めた元綱の感触ということで言えば、この虎口(城への入口)を守っている兵だけでおそらく三百を超えるであろう。
鏡山城の城域はほぼ三町四方に及ぶ。城山の比高は百メートルほどに過ぎないが、城の周囲には畝状の竪堀が幾筋も穿たれ、斜面にも多くの削平地が作られ、山全体が要塞化されていた。もちろんそれぞれの曲輪には兵が充満している。大将の蔵田房信はもっとも広い二の丸(「中のダバ」と名付けられていた)に入って自ら防戦を指揮し、本丸には叔父の蔵田直信を入れて守らせていた。ちなみに城内には井戸が五つもあったと伝わっており、充分な兵の収容能力があった。どれほどの人数が篭っていたかは史書に明らかでないが、千人をはるかに超えていたであろう。あるいは二千に近かったかもしれない。
野天の合戦に比べ、城攻めというのは戦術の入り込む余地が少ない。毛利軍は大手門攻めを受け持たされているわけで、それを指揮する元綱にすれば、大手口から愚直に山道を攻め登るという以外にほとんど選択肢がないのである。
それでも元綱は、城兵を城から引きずり出すべく色々と手を尽くした。佯敗して敵をおびき出し、二十余の首をもぎ取るというような場面もあった。が、敵はこれに懲りたのか、それ以後は不用意な長追いをするようなこともなくなったので、捗々しい戦果は挙げようがなかった。
「深手を負った者が二十人ばかり出ましたが、討ち死には六人で済みました。雑兵首ばかりながら、三十二もの首級を挙げましたゆえ、今朝の戦さはまずお味方の勝利と申せましょう」
報告を聞き終えた幸松丸は、
「皆みな、苦労であった」
とあらためて諸将を労い、その後を元就が引き取った。
「今日からは、昼夜を分かたず攻め、城兵を眠らせるな、とのお屋形さまのお下知だ。日暮れにまた吉川の兵と交代せねばならぬが、それまではゆっくり憩んでくれ」
諸将は散会し、それぞれの陣屋に帰って休息することになった。
ところで、戦さとなれば常に先陣を主張して譲らぬ井上元兼は、どういうわけか今回の戦さに限っては乗り気でないようで、幸松丸の守備役を買って出て、井上党の兵を城攻めに加えようとしなかった。
元兼はもともと大内贔屓である。この合戦は、懸命に働けば働くほど大内義興から憎まれるだけであり、尼子経久のために奮戦してやる義理もない。まして亀井秀綱のような色の白い若造に手柄を立てさせるために、一族の者たちに血と汗を流させるのは真っ平である。
――こんな戦さで我が族人を殺すなど、阿呆らしい。
とでも思っていたのに違いない。
この男の性質は、狷介というより傲慢というに近い。利害を度外視して毛利家のために骨を削って尽力するというような殊勝さは欠片も持ち合わせておらず、
――井上あってこその毛利家よ。
とふてぶてしく思っているから、常に勝手料簡で物を決めるようなところがあった。元就はそういう元兼を苦々しく見ているのだが、強く命じることもできかねた。元就は幸松丸の後見役であるとはいえ、毛利本家の当主であるわけではなく、分家の身に過ぎない。諸将を顎で使えるような立場ではないのである。まして井上党は家中で最大の勢力を持つ族であり、その総領である元兼と軋轢を生じさせたくない。
――情けないことだ。
とも思うのだが、今の元就の立場では、こればかりはどうしようもなかった。
尼子経久は、昼夜ぶっ通しで鏡山城を攻めさせた。
が、城兵は決死の防戦を続け、ひとつの曲輪も陥落させなかった。守将である蔵田房信の偉さというべきであろう。尼子軍の牙爪は城に食い込んでいるものの、致命傷を与えるというところまでは到らない。
攻め続けて三日を過ぎると、寄せ手の兵たちにもさすがに疲労の色が濃くなった。その後も連日のように攻防は行われているものの、さしたる戦果も挙がらない。寄せ手の死傷者は城側のそれよりはるかに多いであろう。
――前に落とした時のようにはゆかぬか。
経久は短期決戦を諦め、じっくりと腰を据えて攻めるよう諸将に通達した。
そうして五日ほどが経った夜――。
亀井秀綱は、先陣の諸将を集めて軍議を行った。毛利、吉川に加え、平賀氏の兵も先陣に配されている。それぞれ主立つ重臣が顔を揃えた。
「さほどの要害とも見えぬのに、未だ大手の城門さえ抜けぬとは、いかなることか。このように手ぬるく戦っておっては、百日経っても城は落ちぬであろう」
秀綱は不機嫌さを隠さず言った。
「方々は、お屋形さまから先陣の大役を任されておりながら、恥ずかしゅうはないのか」
あえて諸将を挑発し、怒らせ、その怒気をもって城攻めに懸からせよう、という狙いである。若い元綱や吉川興経などはその暴言に眼を怒らせたが、
「恥ずかしいか・・・・。ふむ」
そんな秀綱の思惑をいなすように、座で最年長の吉川国経がのんびりした口調で言った。
「我らが疲れておる以上に、城兵は疲れ果てておる。いずれ長くは保つまい。このまま攻め続けておれば、熟柿が枝から落ちるがごとく、やがて落ちるとは存ずるが――。経久殿が、力攻めで速やかに城を落とせとあえてお命じになったとすれば、なにか焦っておられるのかな」
「ご老体、お屋形さまに焦りなどあろうはずもござらぬ。また、無理攻めをせよなどとお命じになってもおられぬ。私見を申したまででござる」
この老人は扱いにくい――と感じた秀綱は、バツが悪そうに苦笑した。さすがに国経は年季が入っており、若い上役を転がすことにも巧みである。
攻城を前線で指揮する元綱の苦しさは、軍監たる秀綱から火攻を禁じられていることであった。
「火矢を使うことをお許しくだされ。あの城門さえ焼き落とせば、山腹の帯曲輪を奪うのは造作もないこと」
と元綱は強く主張したが、秀綱は許さなかった。
「再び大内が攻め返してきた時のためにも、城はなるだけ無傷で手に入れたい。多少の時間が掛かっても構わぬ。城門は力で押し破って頂こう」
「しかし、いたずらに時を浪費すれば、大内の援軍がやって来ぬとも限りませぬぞ」
とっさに元就は弟に助け船を出した。理のない力攻めを繰り返し、毛利の兵に死傷者が増えるのは、正直たまったものではない。
しかし秀綱は、
「義興は安芸へ出張っては来れぬ」
と断言し、煩わしそうに元就を一瞥した。
「なぜそのように言い切れますのか」
「肥前の少弐が筑前を攻めておる。義興は関門の瀬戸を渡り、北九州へ出陣中よ」
事実であった。
強大な大内氏と戦う尼子氏にとって、反大内を掲げる家はすべて味方であると言っていい。経久は遠く肥前まで使者をやり、大内氏を仇敵視する少弐資元と同盟を結び、この夏に呼吸を合わせて東西から大内領を攻める形を作っておいたのだ。
先に動いたのは少弐資元である。少弐氏にとっての本貫地である大宰府を奪回すべく、資元は五月中旬に兵を挙げ、筑前へ電撃侵攻した。筑前の守護代である杉興長は、傘下の豪族たちに防戦態勢を取らせると共に、山口へ急使を走らせた。
凶報を受けた大内義興は、当然ながら激怒した。
「肥前の小倅め、余との盟約を反故にしおったか」
少弐資元とは一昨年に和睦し、互いの領国を侵さぬという約定を取り交わしている。その際、義興は管領・細川高国を動かし、少弐氏の肥前支配を公認する証拠として資元を肥前守護に補任してやった。それほどの殊遇を受けながら、恩を仇で返すとは、なんという恥知らずか。昨日結んだ盟約を今日破るのが戦国乱世のならいとはいえ、義興はこういう変節漢が生理的に許せない。
筑前は大内氏にとって準本国というべき国である。なかでも大宰府、博多津などは、海外貿易のためにも絶対に確保しておかねばならない拠点であった。なんと言っても、十二年ぶりに発した遣明船がこの秋にも帰って来るのである。桁はずれの莫大な富が手に入るはずであるのに、その前に博多津を焼くわけには断じていかない。
すぐさま大軍を動員した義興は、迅速に山口を出陣した。兵馬と共に自ら関門海峡を渡り、今まさに少弐軍と戦っている最中であった。
「盟約を一方的に破った少弐を、義興は許すまい。和睦は難しく、つまり戦さは長引くということよ。加えて銀山城の武田も兵を挙げ、桜尾城や己斐城に人数を篭めておる。この西条まで大内の援軍が出張って来れるはずがない」
わかったら黙ってわしの命令に従え――。
声にこそ出さないが、そういう顔で、秀綱は軍議を打ち切った。
諸将がばらばらと座を立っているとき、
「相合殿――」
吉川国経が珍しく元綱を呼びとめた。
「なにか・・・・?」
眼で誘われ、国経に従って元綱が鰻幕の外に出ると、数間先の闇を睨んだ国経は、視線を合わさぬまま小声で言った。
「実は――、春からお松が長患いをしておってな。具合があまり良うない」
「姉上が・・・・」
松姫――吉川興経の母は、元綱の同腹の姉である。
元綱はやや心を乱された。わざわざ国経がそれを報せてくれたということは、姉の容態は、ある種の覚悟をしておかねばならぬほど悪い、ということではないのか――。
「お悪いのですか?」
その質問に国経は答えなかった。
「いや、今頃はすでに本復しておるやもしれぬ。大朝を出てからもう十日以上も経っておるからな。――が、血を分けた姉弟のそなたには、一応報せておいた方が良いかと思うたまでじゃよ。あまりお気になされるな」
振り向いた国経は、元綱の肩をひとつ叩いて、そそくさと鰻幕のなかに戻って行った。
居ても立ってもいられぬような――名状しがたい気分である。が、戦陣にあっては見舞いにゆくというわけにもいかない。
北方の闇空を眺めた元綱は、瞑目して神仏に祈りを捧げた。
そうする以外、何をしようもなかった。
その翌日のことである。
季節外れの寒気が日本海から降りてきたらしい。午前の空は晴れ渡っていたのだが、午後になって毛利軍が攻め口につくと妙に涼しい風が吹き始め、雲行きが怪しくなってきた。雲間にまだ青い空が見えるのに、霰のような大粒の雨がぽつぽつと落ち始めた。
「天気雨か。珍しいな」
空を見上げる元綱に、
「狐の嫁入りというヤツですか」
重蔵が気軽に応じた。
――これで多少は暑さもしのげよう。
などと元綱が思っているうちに、みるみる天が暗くなり、北方から遠雷が聴こえてきた。雨脚は次第に凄まじくなり、同時に風も強くなり、ついには眼を開けていられぬほどの豪雨となった。
昼とも思えぬどす黒い空に閃光が走り、天が破裂したかと思うほどの轟音が大気を震わせた。
攻め口の坂では雨水が激流のように奔っている。足元がぬかるみ、視界も悪く、もはや城攻めどころの騒ぎではない。
やむをえず元綱は全軍を山麓まで下ろした。
この機に城兵が打って出るという可能性がないわけでもない。元綱は四百ほどの兵を率いて山麓に陣を張ったが、半数の武将には暇を与えた。兵たちは焼け残った町屋の屋根に入って雨宿りをし、あるいは鰻幕を張って臨時の避難所を作り、濡れた衣服を乾かしたり着替えて憩んだりした。
元就の本軍でも事情は変わらない。俄かな天候の悪化で幸松丸がびしょ濡れになり、元就は慌てて本陣の寺へと主君を避難させた。
豪雨は二時間ほどで収まり、その後は嘘のように晴天が戻ってきた。一時は真夏とは思えぬほどに下がっていた気温も、日差しが戻ると共に温み始め、夕刻には過ごしやすい程度に戻った。
連日の暑さで体力が落ちていた幸松丸は、この時の寒さですっかり体調を崩してしまったらしい。この日から倦怠感と悪寒に苦しめられることになったのだが、この少年は、周囲に心配と迷惑をかけまいとして、そのことを伏せて一切不調を訴えなかった。不快な色を出さずにあえて温顔を作り、懸命に我慢し続けたのである。
翌々日の朝、周囲の大人たちが異変に気付いたとき、幸松丸は四十度近い高熱を発し、臥所から立つことさえできなくなっていた。
「医者を――!」
元就は慌てた。虚弱な幸松丸の体調には注意を払っていたつもりであったが、このようなことになるとは思ってもみなかった。
軍勢には必ず医僧が帯同している。その者を呼んですぐに診せたが、幸松丸が昏々と眠り続けているから投薬することもできず、手の施しようがなかった。
「食が通るようになりましたら、熱下しを飲ませられるのですが、それまではご様子を見守っておるほかございませぬ」
医僧は申し訳なさそうに言った。
すぐにも吉田へ連れ帰りたいところだが、ある程度熱が下がって小康を得るまでは病体を動かすことも憚られる。
「ともあれ軍務を疎かにはできぬ。お前はこれまで通り皆を指揮して城攻めに当たってくれ」
元就は弟にそう頼み、自らは志道広良と交代で本陣に詰めることにした。
幸松丸が病に倒れたことは極秘とされたが、人の口に戸は立てられない。武者たちの気分はなんとなくうち沈み、気勢があがらなくなった。
――もはや戦さなどやっておる場合ではない。
というのが元就の本音だが、毛利は尼子軍の先陣を務め、もっとも重要な大手門攻めを受け持っているわけで、尼子経久に「帰らせてくれ」などと言えるものではない。
一日も早く戦さにケリをつけねば、という切実な想いが、元就に別の着想を生んだ。
つまり、調略である。
城将を調略して開城させることができれば、城攻めに時間を浪費することもない。
元就は志道広良にこの案を相談した。
「備中殿(蔵田房信)は頑固にして古武士のごときお人柄。死んでも裏切りには応じますまい」
広良はそう断言した。
大内義興の上洛戦に参加した広良は、蔵田房信とは実際に顔を合わせたことがある。元就は面語したことはなかったが、交流はあった。房信は大内方の安芸の豪族たちの旗頭を務めていたわけで、毛利が大内方であったときには当然ながら使者のやり取りがあったし、毛利が尼子家に臣従したときにも、広良は房信に密使を送り、毛利が大内家に心を残していることを訴え、密かに繋がりを残しておいた。幸松丸の厳島参拝を実現させるために便宜をはかってもらったこともある。
「備中守は無理か・・・・。城の本丸を守っておるのは、備中守の叔父の日向守(蔵田直信)であると聞いた。そちらならどうか」
「はてさて、どうでござろうかな・・・・」
広良は首をひねった。蔵田直信の人物については多くを知らない。
「大内の援軍が見込めぬ以上、遅かれ早かれ城は落ちる。この大軍に包囲されておるのだ。囲みを破って逃げ落ちるなどできるものではない。最期まで手向かっての落城となれば、蔵田の家名は絶える。家を滅ぼさぬためには、城を明け渡して退去するほかないであろう。そのことは、備中守も日向守も、ようわかっておるはずだ」
「たしかに、申される通りでござるが・・・・」
成功するかどうかは別にしても、開城を打診してみるのは悪い手ではない、と広良は思った。こちらが投げたボールに対して、城側がどういう反応をするかを見ることで、敵将の思考を読むことができるし、城内と交渉のパイプを作っておけば、その交渉のなかで蔵田直信の人となりがわかるかもしれない。加えて、寄せ手の使者が往来していることを城兵が知れば、「和睦があるかもしれぬ」、「命が助かるかもしれぬ」と兵たちは思い、決死の気分を萎えさせるに違いない。結果として守備側の士気を削ぐという効果も期待できる。
そこまで思案した広良は、大きくうなずいた。
「どこぞに手蔓を探してみましょう。この辺りの寺社を当たれば、備中殿か日向殿と親交の深い僧が必ずおるはず。その者に使者の役をやってもらうのがよろしい」
とはいえ、この手の政治判断は、合戦の主体である尼子氏の意向がすべてであり、勝手に話を進められるものではない。元就は亀井秀綱に面会し、開城の是非について尋ねた。
「城が無傷で手に入るというなら、わしに異存はないが・・・・。開城の条件の仔細については、お屋形さまのご意向を伺ってみねばなんとも言えぬ」
と秀綱は即答を避けた。
が、そもそも条件を詰めるところまで話が進むかどうかさえ、わからない。見込みのまったくない策を主君に献ずることなどできないし、それを行うのは手間と時の浪費でしかない。
「開城の見込みがあるのかないのか、それを探っておくのは無駄ではないか・・・・」
思案顔の秀綱は、やや曖昧さが残る表現で、城に使者を遣ることを許可した。
元就は家臣を駆け回らせ、その日のうちに適任の僧を探し当てた。大内の援軍が来られぬ以上、もはや城側に勝ち目はなく、流血を少なく合戦を終わらせるには開城するしかないと、よくよく因果を含め、翌日にその僧を城内へ送り込んだ。
「城を明け渡すなぞ思いもよらぬ」
城主の蔵田房信は言下にこの申し出を拒否した。
「御坊のお心遣いには感謝致すが、この備中は、山口のお屋形に多大な恩を受けた者であるゆえ、お屋形を裏切るような気は毛頭ござらぬ。お屋形から城を死守せよと命ぜられた上は、死ぬまで城を守るが備中の覚悟。この城が落ちるときは、我が命運の尽きるときとお思いくだされよ」
「まことにご立派なお覚悟とは存じますが――。多治比殿は、なにも備中守さまに裏切りをせよと申されておるのではありませぬ。一族郎党、城に籠りおる者たちの命を助けるために、城から退去なされてはいかがかとお勧めなされておるのです」
僧が元就の名を出した途端、
「多治比殿とは、毛利の元就がことか!」
この男は怒気を漲らせた。
「元就めは、幼主を善導すべき後見の身にありながら、毛利家が父祖三代にわたって山口のお屋形からこうむった恩を忘れ果て、恥知らずにも尼子の手先となり、長年の主家に向かって弓を引いた。我らに対して二枚舌を弄し、まだ物もわからぬ幸松丸を背信の徒に貶めた。武士の風上にも置けぬとは、彼奴のことじゃ。そのような男の言葉なぞ、誰が信じられるか!」
その憤怒の形相と荒々しい語気に、僧は辟易した。
「そのように短慮を起こされますな。開城のご意向、あるかなしかをお尋ねになったは、出雲のお屋形さまであり、多治比殿はただ間に立っておるだけでございましょう。このまま籠城を続けておっても、城は孤立無援。百にひとつも勝ち目はありますまい。よくよくご思案あってしかるべしと存ずる。また明日にでもご意向を伺いに参りますゆえ、ご親族、ご重臣の方々ともご相談なされた上で、択ばれる道をお決めになられるとよい」
と言い残し、そそくさと城を去った。
独りになって冷静さを取り戻すと、僧の言い分にももっともなところがあると、蔵田房信も認めざるを得なかった。房信自身は城を枕に討ち死にする覚悟を固めていたが、多くの命を巻き添えで殺してしまうことには、抵抗がないわけでもない。ましてこの城には房信の妻子がいる。嫡子を菊法師といい、その幼名が示す通り元服前の八歳の童子であった。自分と共にこの長男が死ねば、蔵田家の嫡流は絶えることになる。
――菊法師は殺したくない。
大内義興からこの城を授けられたとき、家族を帯同して城に入ったことを、房信は悔いた。山口に人質として妻子を置いておけば、後顧の憂いなく戦うことができたのである。
思い悩み、迷い考えた末――。
房信は、妻子を犠牲にしても武士の意地を貫き通すとことを再び決意した。死に物狂いで抗戦し、一日でも長く城を保ち、大内の援軍がやって来るまで城を持ちこたえることができれば――。そこに希望がある。城には二千近い兵がおり、充分な食糧と武器が備蓄されている。半年は無理としても百日は城を支える自信が、房信にはあった。よしんば孤立無援のまま滅んだとしても、蔵田家の忠烈と蔵田房信という男の壮志は天下に美しく喧伝され、後世まで語り継がれるであろう。
――命より名を惜しんでこその武士ではないか。
いったんそう肚を決めると、迷いはなくなった。
「降伏も開城もせぬ。お屋形さまの援軍あるまで、堅固に城を保つのみ」
房信は重臣たちを集めてそう宣言し、使僧にもそう明言した。
この時点で、和睦した上での開城、城兵の無血退去という道は完全になくなったと言っていい。先陣の軍監である亀井秀綱は、下見峠の尼子本陣へと自ら足を運び、主君にそう報告した。
城主が徹底抗戦する肚だと知って、尼子経久は相当な長陣を覚悟したが、同時に、
――武士とはそうでなければならぬ。
蔵田房信の男らしさに感心し、敵ながら好感を持った。
そうであろう。いま経久に臣従している国人一揆の武将たちは、長年にわたって大内氏を主家と仰いでおりながら、尼子軍の脅威が迫るや、命惜しさにその主家を見限り、経久に頭を下げた。こういう連中は、命の危険にさらされれば、またぞろ保身に走り、平気で経久をも裏切るに決まっている。味方とはいえまったく信用できないのである。それに比べれば、たとえ敵であっても、命を捨てても忠義を貫こうとしている男こそ、信用するに足る。そういう者は、ひとたび味方につけば、経久のためにやはり命を捨てて働いてくれるに違いないからである。
味方を憎み敵に好意を持つというのもおかしなものだが、
――落城となったとき、蔵田備中が降参するなら、命を助け、我が臣下としたい。
と経久は密かに思った。
しかしながら、城内のすべての者が城主の覚悟に殉ずる意志を固めていたというわけではない。城の副将を務める蔵田直信は、そのような悲愴な美に酔えなかった。
――どう考えても、城を保てるはずがないではないか。
大内義興は北九州へ出陣中であり、援軍がやって来ることはまずありえない。城は幾重にも包囲されており、城から落去することも不可能であろう。このまま落城し、一族の主立つ者たちと共に菊法師までが殺されてしまえば、蔵田の家名は絶えてしまう。
しかし、大将の房信が説得の利く男ではないということも、叔父の直信にはわかっていた。房信は古武士のように志操が堅固で、いったん口に出したことを決してひるがえさない。あの男が「降伏も開城もせぬ」と言った以上、たとえ城兵が一人残らず死に絶えても、自身が闘死するまで戦い続けるであろう。
要するに房信は、美しき死に花を咲かそうとしているとしか見えない。
それはそれで構わないが、しかし、城主の美意識を満足させるために、巻き添えで自分の妻子まで死なせるのは、たまらない。まして蔵田の家名が絶えるとあっては――。
曇天の夜空を見つめているうちに、いつしか己の心の闇を覗き込んでいるような気がしてきて、直信はひとり煩悶した。