運命の岐路(一)
二人の童子が歓声をあげながら杣道のような小道を駆け登って行った。
アーチのように頭上を覆った枝々の隙間から朝日が斜めに差し込み、木の下闇をいっそう濃く見せている。季節はすでに夏だが早朝の暑気はそれほどでもなく、樹間の空気は涼しさを感ずるほどであった。
「鶴寿丸さま、そのように急ぎますと、転びますぞ」
と笑顔で注意した重蔵は、子供たちを追って足早に坂道を踏んだ。
鶴寿丸という童子は、ちょっと稀なほどの美貌を持っている。顔立ちは明らかに母親似で、眼が大きく、肌膚は皎い。京で絶世の美女と謳われた常盤御前から生まれた義経は、その母に似た美少年であったというが、
――牛若丸の幼き頃もこのようではなかったか。
と重蔵は思ったりしている。
その鶴寿丸に従う童子は、名を亥助という。元綱の近侍の息子で、鶴寿丸の傅人子として付けられた。年齢は鶴寿丸のひとつ上である。二人は主従ではあるが、竹馬の友という方が実情に近く、共に遊び、共に学びつつ成長し、おそらくは将来、亥助は鶴寿丸の手足となって共に戦場に立つことになるであろう。
辺りは常緑樹が鬱蒼と生い茂っている。杉の木立ちが多いが檜の森もあり、桜や楢、槿といった木々も枝葉を広げている。日当たりの良い斜面には竹が密生しているところもあるし、春には朱の色が鮮やかな山ツツジが目を楽しませてくれたりもする。
子供たちは駆け比べをするように坂道を走ってゆく。重蔵は落ち葉を踏む足を速めた。その道脇ではアセビの白い花が風に揺れていた。
この坂道を辿ってゆくと満願寺という真言宗の古刹がある。
郡山の中腹に建つその寺の門前では、小僧が掃き掃除をしていた。
少年たちが門内に入ってゆくのを見送った重蔵は、ひとつ大きく山気を吸い込んで踵を返した。また八つ刻(午後三時)に迎えに来ねばならない。
境内には大屋根を持つ本堂の他に、鐘撞き堂や庫裏、僧坊などが建っていて、僧坊のなかの二間が子供たちの修学のために提供されていた。その僧坊の北側にはふたつの蓮池があり、今まさに蓮の花が咲き誇っている。
冥い廊下をわたって鶴寿丸が部屋に入ってゆくと、上座で栄秀和尚が数人の子供に何かを語っていた。鶴寿丸はまっすぐにそちらに進み、
「和尚さま、おはようございます」
ぺこりと頭を下げた。その斜め後ろで亥助も平伏した。
「はい。おはようございます」
話を中断した老人は、鶴寿丸に向けて微笑を浮かべて合掌し、一礼した。
栄秀和尚は厳しさを優しさでくるんだような人で、親の身分で子供たちを分け隔てすることなく、大いなる愛情をもって接してくれる。
鶴寿丸は幾人かの子供たちの間を通って部屋の隅の席につき、習字の準備を始めた。
背を伸ばして墨を磨るその姿が良い。
――この子は父親よりも生真面目じゃな。
栄秀は眼を細めた。
鶴寿丸の父である元綱は、幼い頃は絵に描いたような腕白坊主で、やや粗暴な上に独尊のきらいがあった。理不尽に暴力を振り回すようなことはなかったが、その言動には子供ながらに独特の威があり、喧嘩口論となれば絶対に引かず、同世代の子供のなかでは誰よりも喧嘩に強かったこともあって、子供のなかには元綱を怖れて近づかぬ者もあり、毛嫌いする者もないわけではなかった。
幼少時の元綱は父の愛に飢えていたのであろう。叱る者が必要だと見た栄秀は、傅人の渡辺勝とも相談し、童子の頃の元綱にはことさら厳しく接していたのだが、そういう配慮は鶴寿丸には必要なさそうであった。鶴寿丸は父より性質が穏やかなようで、思慮深さもほの見える。
――この童子はこれからどのように変わってゆくかな。
そういう眼で栄秀は鶴寿丸を見守っている。それが「教育者」の愉しみというものであろう。
寺通いを始めてからすでに半年近くが経っている。鶴寿丸は同窓の子供たちの顔と名前をほとんど覚えた。
いちいち年齢を確かめたわけではないが、満願寺に通う子供たちは、どう見ても鶴寿丸よりも年長の者ばかりであった。威張っている者もいるし乱暴な者もいる。賢そうな者もあれば魯鈍そうな者もある。よくしゃべる子、寡黙な子など性質は様々だが、しかし、いずれの子も、幼少の鶴寿丸を侮ることも軽んずることもなく、それどころか好意とある種の憚りをもって接してくれている。
――なぜそうなのか。
通学を重ねるうちに、その理由がわかってきた。
強さに憧れる年頃の子供たちにとって、鶴寿丸の父である元綱は英雄なのである。その子である鶴寿丸に悪意をもって接するはずがない。
――父上はみなから尊敬されている。
ということが、鶴寿丸には誇らしかった。
同窓といえば、毛利家の当主である幸松丸もこの寺に通っている。
鶴寿丸が初めて幸松丸を見たのは、郡山の雪が融け、梅が咲き始めた頃である。いつものように習字をしていると、昼近くになって立派な身なりの少年が同世代の子供を三人従えて部屋に入ってきた。
――幸松丸さまだ。
このときすでに初対面ではない。正月参賀や端午の節句、仲秋の月見といった年中行事が家中で行われるたび、鶴寿丸は父に連れられて郡山城にのぼっており、この少年君主とは年に数回は顔を合わせていた。
が、この場で見かけたのは初めてであったから、珍しいものを見るような顔で鶴寿丸がそちらを眺めていると、
「おい、ひかえよ」
主君に従ってきた傅人子の福原弥五郎に厳しい声で注意された。周囲の子供たちが頭を下げているのに気付いて、鶴寿丸も慌ててそれに倣った。
かつて母から、
「幸松丸さまは、ご当家でもっとも尊貴なお方です。お父上も幸松丸さまにお仕えしておりますし、鶴寿も大きくなれば、お仕えすることになるのです。決してご無礼があってはなりませんよ」
と諭されたことがある。
家のなかでは父が絶対の人である。その父よりもあの少年の方が偉い、ということに鶴寿丸は驚いたが、世の中には長幼の序とはまったく違った序列があるということを学んだ。
幸松丸はまっすぐに栄秀和尚の前まで進み、正座して一礼した。
「本日からまた通わせて頂きます」
老人はゆったりとうなずき、優しげに目元を細めた。
「やっと母上さまからお許しが頂けました」
「ふふ、お袋さまは、幸松殿が風邪などひかぬようにと、ご配慮なさったのであろう」
「私はもっと早くにこちらに来たかったのですが、暖かくなるまでは、と、なかなかお許しが頂けなかったのです」
「学問は、なにも寺のなかだけでするものではありませんぞ。どこにいても、何をしておっても、学ぶことはできる」
「はい」
「ひとつ、お大師さんの善いお言葉をさしあげよう。お大師さんは、物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り、と申された」
「物のこうはいは必ず人による。人のしょうちんは定めて道にあり・・・・」
少年は考えるような目つきをした。
「ある物が盛んになるか廃れるかは、それをする人による。人が天に向かって昇るか、地に沈むかは、その人が何をするか、どういう道をゆくかで決まる、ということじゃな」
「はい」
「幸松殿がこの寺で学問をし、智を蓄えることも道であれば、お袋さまに孝養を尽くすことも道であろう。幸松殿の昇沈は、そのまま毛利家の興廃に繋がる、ということさえおわかりであれば、それでよい」
「お教え、忘れずにおきます」
幸松丸は丁寧に頭を下げた。
この少年は、毛利家の当主という意味でどんなわがままも許される立場にありながら、理不尽に他人に迷惑をかけたというようなことがかつて一度もない。幼い頃から実に行儀がよく、栄秀から見てまったく手の掛からない子供であった。
ただし子供の行儀の良さは、必ずしも心の居ずまいの良さとは言い切れない場合がある。子供は大人が想像する以上に大人の視線やその情意に敏感である。教えられた礼儀という「形」をなぞってさえいれば、大人から褒められる、と子供なりに知恵を回し、あえてそうしているというだけなら、大人に対する媚びに過ぎぬであろう。
その点、幸松丸の特異さは、媚びるということが武士にとって卑しい在り方であるということを、この年齢ですでに知っていることであった。それは同時に、自分自身を見つめる眼に客観性が備わっていることをも表している。
――それだけでも非凡である。
と、栄秀は思っている。
幸松丸は、物心つく前に父を喪い、寡婦となった母と群臣からの期待を一身に背負い、四六時中そのことを自覚せざるを得ない環境に置かれて育ちながら、周囲からの重圧に押しつぶされることもなく、明朗な自我をしなやかに保ち続けていた。数えでたった九歳の子供が、人の主とはどうあるべきかを考え、あえて恣意を抑え、好悪をあからさまにすることを避け、子供ばかりか大人をも含めた周囲の人間たちの調和とバランスに気を使うことができるというのは、驚嘆すべきであろう。
泣きたいときに泣けず、怒りたいときに怒れないのが君主というものである。そうでなければならぬと、傅人である福原広俊と共に幸松丸を教育してきたのが、他ならぬ栄秀であった。
――幸松殿は、必ずご先代のような英主になられよう。
そう確信しつつ、この老僧は少年の成長を楽しみに見守っている。
群臣の子弟がやがて自分の家来になるということを、幸松丸は当然のように心得ている。部屋の隅の方に見慣れぬ顔があったと思い出し、自分の席につく前に、その幼童の元に自ら歩み寄った。
「おお、鶴寿丸ではないか。そなたをここで見るのは初めてじゃな」
親しげに破顔した幸松丸は、従弟の手元を一瞥し、
「そのような幼さで、早くも真名を学んでおるのか」
と驚き、
「偉いな」
と褒めてくれた。
その優しさ、気遣いが、素直にかよってきて、
――兄上がおれば、このようではないか。
と鶴寿丸は思い、この従兄が好きになった。
この日、その幸松丸は姿を見せなかった。鶴寿丸は幸松丸に会うことを密かに楽しみにしていたので、わずかに落胆したが、それよりも気になったことがある。
子供たちが交わす雑談のなかに、鏡山城とか尼子とか大内とかいった単語が、さかんに飛び交っているのである。鶴寿丸の理解をはるかに超えた話で、内容はよくわからなかったが、
「もうすぐ、また戦さが始まるらしい」
ということはわかった。
その戦さというものも鶴寿丸にはよくわかっていないが、
――また父上と男たちが家からいなくなる。
という風に理解した。
寺からの帰路、迎えに来た重蔵に、
「もうすぐ戦さがあるのか」
と聞いてみた。
「誰からお聞きになったのですか?」
その質問に重蔵は驚いたが、もとより隠すようなことでもない。
重蔵は木々の切れ間の見晴らしの良い場所に鶴寿丸を導いた。眼下に吉田の城下町が一望できる。手をあげて南方を指差した。
「あちらの方角に二日ばかりゆくと、西条という町があり、そこに鏡山城という城があります。大内のお屋形さまの持ち城です。その城を、尼子のお屋形さまが攻めるのです。我らは尼子のお屋形さまにお味方し、戦いに加わることになりました」
「それはいつ?」
「おそらく半月のうちでしょう」
これは予言というより確定した予定であった。尼子家の亀井秀綱の使者が先日やって来て、尼子軍の出陣の予定日を伝えたのである。
梅雨の雲が去ると共に、安芸に巨大な戦雲がやって来た。
時日がやや前後する。
大永三年(1523)閏三月、高橋興光が行った青屋城合戦に毛利軍が加勢していた頃――。
時を同じくして芸南でも大きな動きがあった。昨年に大内氏に臣従した厳島神主家が大内氏に叛いたのである。武田氏の後援を受けた友田興藤が、大内氏の駐屯兵を桜尾城から追いだし、再び城を乗っ取って反大内の姿勢を鮮明にしたのだ。
この政治現象は、当然ながら厳島神主家の単独の反攻であったはずがない。武田氏の挙兵に呼応した動きと見るべきであろう。
以下のことは証拠はなにもないのだが――。
このとき武田氏は、大内氏に奪われた己斐城をも奪い返し、己斐直之を城主に復帰させたのではないか。また、太田川河口に盤踞する白井氏は、長く武田氏の警固衆(水軍)を務めていた豪族であるから、やはりこのとき武田氏の挙兵に呼応し、大内氏から離れたのではないか――。そのように考える方が自然であるように思われる。
いずれにしても、広島湾岸地域が再び武田氏に奪い返されたわけで、大内氏からすれば、西条の鏡山城への陸路を封鎖された形になった。その三ヶ月後の六月、尼子軍が安芸へ侵攻し、鏡山城を攻め始めることを想えば、この武田氏の挙兵そのものが尼子経久の指嗾ではなかったかと思いたくなるのだが、それも証拠はない。
ともあれ、尼子軍出陣の報が毛利家に届けられたのは、六月四日であった。
細雨に煙る郡山城に亀井秀綱の使者がやってきたのである。
「お屋形さまは、雲州の精兵三万を率いて、去る五月の晦日、予定通りに月山富田城をご出陣なされました。兵馬はすでに石見に入り、今ごろは邑智郡を進んでおりましょう。おっつけこの芸北にお入りになられまする」
「三万・・・・!」
広間に集まった重臣たちの顔色が変わった。
誇張し過ぎだ、と元就は思ったが、尼子経久が出雲・伯耆・美作・備後・石見の豪族たちに残らず出陣を命じたとすれば、三万どころか五万は集められるはずである。さらに高橋氏、吉川氏、宍戸氏など芸北の諸豪族の兵がこれに加わるわけで、よほどの大軍になることは間違いない。
――出雲のお屋形は本気で大内と決戦なさる肚か。
元就は生唾を飲み込んだ。
「毛利家の方々には、抜かりなく軍用を調え、人数を集め、お屋形さまを馳迎なさるべし」
「承った。兵馬と糧食を調え、お屋形さまのご到着をお待ち申しまする」
元就は言明した。
すでに邑智郡を進軍中ということは、尼子軍は遅くとも数日後には安芸に入るであろう。猶予はわずかしかない。この日から家中は出陣の準備で大忙しとなった。
が、ここで思わぬ問題が生じた。
幸松丸の母であるお夕が、我が子の出陣に大反対したのである。
「幸松丸はまだ十歳にも満たぬのですよ」
お夕はややヒステリックに叫び立てた。
「元服など早すぎます。まして戦さに連れてゆくなぞ――!」
「戦さに出る、戦場に立つ、と申しても、実際には幸松丸さまは、ご本陣の奥で座っておるというだけで、まったく危ないことはないのです」
この戦陣に幸松丸を出陣させることと、尼子経久が烏帽子親となって幸松丸を元服させることは、尼子家と主従の盟約を交わした去年の段階で、尼子経久から念を押されている。毛利は尼子家に臣従したばかりであり、最初の戦陣となる今回の合戦は毛利家の忠誠が試される場であると言っていい。毛利家の動静や戦場での戦いぶりを尼子経久はじっくりと観察するに違いなく、そういう状況で、初手から主命を反故になどできるわけがないではないか。もしそれをすれば経久が激怒するのは間違いなく、さらにどんな無理難題を押し付けられるかわかったものではない。
義姉の感情を刺激しない言葉を選びながら、元就は根気強く説いた。
「ここで幸松丸さまを出さねば、毛利は尼子に忠勤を尽くす気がないのかと、必ず出雲のお屋形の気色を損ねます。かの人から憎まれるようでは、かえって幸松丸さまのお為になりませぬぞ。そこのところを、よくよくお考え頂きたく――」
お夕は義弟を睨みつけた。
厳島参拝のとき、幸松丸の一行が刺客に襲われたということをお夕は仄聞している。幸い元綱の機転で難を逃れたらしいが、我が子に凶刃が向けられたという事実が、彼女の危機感をさらに煽り立てていた。
――戦場などに出したら、今度こそ幸松丸は殺される。
誰が刺客を放ったのか、その首謀者さえわかっていない。実行犯は熊谷家の旧臣であったらしいが、疑えば、元就が毛利家の家督を奪うために、邪魔な幸松丸を始末しようとした、とさえ考えることができるであろう。いまのお夕にとって、すまし顔で出陣を勧める元就は死の使者にしか見えない。
「駄目なものは駄目です。出雲のお屋形さまには、幸松丸が十五になったとき、改めて烏帽子親になって頂けるよう、わたくしからお願いします」
その頑なさに元就は嘆息せざるをえない。
――義姉上は思い違いをなされている。
元服さえ許さなければ幸松丸を戦場に出さずに済む、とでもお夕は考えているのかもしれないが、現実にはそういう話にはならない。確かに武士が戦場に出るには元服を済ませることが前提だが、それは実際に敵兵と殺し合いをせねばならぬ兵卒の話である。大将は自ら戦うことなどまずないわけだから、本陣に据える飾り雛のようなもので、そういう形で戦場に出た童子はいくらでもいるのである。たとえ幸松丸の元服を先延ばしにしたとしても、尼子経久から「出陣させよ」と命じられている以上、連れてゆかざるをえない。
「幸松丸さまを出さぬというその一点で、当家の忠節が疑われるのです。幸松丸さまを出さぬまま、我らが戦陣でどれほど懸命に働いても、お屋形は当家の誠意を認めてはくださらぬでしょう。そうなれば、兵たちの戦さでの辛苦、流した血と汗が、すべて無駄になってしまうのですぞ」
元就はそう言い立てたが、義姉は首を縦にふらない。
「あの子は病弱です。篤い病でどうしても立てぬ、ということにでもすれば、それで済むではありませんか」
「相手はあの尼子経久ですぞ。佯病ではないかと必ず疑われます。もし事が露見し、お屋形を騙しておったことが知れれば、どうなさるおつもりですか」
「いいえ。佯病なぞではありません。幸松丸は熱を出して臥せっているのです」
眼を据えたお夕は、
「それでも無理やり連れてゆくというなら、わたくしは死にます」
とまで言ったから、その語気に元就は辟易した。
「勝手になされよ」
と怒鳴りつけてやろうかと何度も思ったが、幼君を後見すべき立場では責任を放擲するわけにもいかない。
元就は、志道広良や幸松丸の傅人である福原広俊などとも相談し、出陣の準備で多忙を極めるなかでも無理やりに時間を作り、粘り強く説得を繰り返した。が、どうしても「お袋さま」をうなずかせることができない。
そうこうするうちにも刻々と時間は過ぎ、六月九日、尼子軍が、吉田の北方――高橋領の北池田に着陣したという報せが届いた。
この北池田という地名は現在はない。美土里町の生田ではなかったかと考えられる。出雲往還を南下してきた尼子軍は、赤名から江の川筋に出て、三国山あたりで進路を南西に取り、川根を経由して生田まで進んだのであろう。生田は高橋領のほぼ中央――芸石国境の安芸側にあり、吉川氏の大朝からも毛利の吉田からも宍戸氏の甲立からも、ほぼ等距離――急げば半日ほどで行くことができる。芸北の豪族たちが参集しやすい地であった。
このとき幸松丸は、
「私も出陣します」
と決然と言い、お夕を慌てさせた。
幸松丸はすでに稚児着の大鎧に身を包んでいる。母には内緒で、傅人の福原広俊に着付けを手伝わせ、いきなり母の居室を訪れたのである。
正面からの説得では無理だと諦めた元就が、幸松丸に直接訴えるという搦め手を選んだ結果だった。この賢明な少年は、元就や福原広俊から話を聞き、毛利家が置かれた政治状況を理解するや、己がなすべきことを即断した。
「母上がならぬと仰せですから、前髪を落とすことはしません。ですが、私が出雲のお屋形さまのお下知に従わねば、みなが迷惑するのです」
「幸松丸・・・・!」
「また誰かが、坂の爺のようになっては困ります」
「あぁ――」
お夕は床に突っ伏した。
この少年はこれまで母の言いつけに逆らったことはない。そういう幸松丸が、自分を悲しませることを承知で出陣を決意したこと自体も衝撃であるが、同時に、たった九歳にしてこれほど立派な台詞を言える我が子が誇らしく、そのことに対する感動もある。それに加えて幸松丸が戦場で殺されるかもしれぬという恐怖が濃厚にあり、それらの感情がない交ぜになって、言葉が出て来ない。ただ彼女にわかるのは、我が子が戦場に行ってしまうということであり、自分にはそれをどうすることもできないということである。虚しい諦念と共に、涙が止めどなく溢れてきた。
「お方さま、出陣に涙は不吉でございますぞ」
福原広俊が慌ててたしなめた。
この広俊は、家臣団の長老である式部大輔広俊の孫で、元就の従兄弟に当たる。年齢ははっきりしないが、このとき三十代前半であったろうか。嫡子の弥五郎の年齢から逆算すれば二十代という可能性もある。とりあえず三十歳前後の青年武将ということにしておきたい。
「幸松丸さまのことは、誓って我らがお守り致しますゆえ、どうか御心静かにお帰りをお待ちくだされ」
袖で涙を拭きつつ、お夕はついにうなずいた。
幸松丸にとってこれが初陣ということになる。幼き主君が自ら出陣すると知った群臣の士気は、当然ながら大いに騰がった。
元就は報せを受けた九日のうちに先発し、初更の頃に北池田の尼子本陣へと赴き、亀井秀綱に面会して、毛利軍が参陣することを確約した。
「明日、主君・幸松丸が自ら軍を率い、出迎えに参じまする」
「承知した。お屋形さまもお喜びなされよう」
当然だ、と言わんばかりの秀綱の表情である。
「それはそれとしまして、幸松丸さまの元服の話でございますが――」
「ふむ?」
「当家は春先より戦さ続きにて、式のための準備も、城にお屋形さまをお迎えするだけの支度も、調えておる暇がありませず――。元服のことは、お屋形さまのせっかくの肝煎りではございますが、また後日、改めて、ということにして頂ければと――」
「そちらに格別な支度なぞはご無用。明日、幸松丸殿がこちらに出向いて来られた折り、当方のご本陣にて、略式ながら、前髪を落としてさしあげよう。戦陣のこととて祝宴というわけには参らぬが、加冠の役は、お屋形さまが自ら務めてくださる」
亀井秀綱という男は実務者としては実に辣腕である。経久の意向を受け、すでに家中の重臣にも話を通し、そのなかの二人に理髪の役をやってくれるよう頼み、祝いの品などもわざわざ出雲から持参し、幸松丸が出向いて来ればすぐにも式を始められる準備を調えてある。
「お心遣いはまことに痛み入りまするが――。元服の儀となれば、やはり一生に一度ことでもあり、当家のお袋さまにも我が子の晴れ姿をご覧になっていただきたくもあり、また父祖の霊前で式を挙げさせたくもござりますれば、なにとぞご配慮をたまわりたく――」
「ふむ・・・・」
さすがに秀綱は不快げな色を浮かべた。
尼子経久が烏帽子親になって幸松丸を元服させるという企画は、そこに政略的な意味合いはあるにせよ、いわば経久の好意から出ている。
烏帽子親は仮親とも言い、元服する子供と加冠の儀式を通じて疑似的な親子関係を結んだことになる。言うまでもなく、主従のきずなをより親密にするという意味がある。毛利氏程度の小豪族が、尼子経久ほどの大物に烏帽子親になってもらおうと思えば、当然のことながら幸松丸の方から出雲まで出向いてゆかねばならない。毛利家の重臣たちが郡山城での元服にこだわるなら、加冠役は経久の代人が務めることになろう。戦陣のついでであるとはいえ、経久自身がわざわざ安芸まで足を運び、自ら加冠役を務めてやろうというのは、よほどの好意と解するべきなのである。それほどの殊遇を、毛利の側が拒絶するというのはどういうことであろう。毛利家は、経久のせっかくの企図を潰し、尼子家との誼みを深める好機をあえて棒に振り、それどころか尼子側に強い不快感を与えているわけで、この政治感覚のなさは救いようがない。
――この家の老臣には人がおらんのか。
内心で毒づいた秀綱は、毛利家とその代表たる元就という男をいよいよ軽侮した。
しかし、そもそも幸松丸が元服するとかしないとかいうのは問題の本質ではない。重要なのは、大内氏との戦いに毛利家当主の幸松丸を参陣させること自体であり、
「毛利家は尼子に臣従し、大内と戦うのだ」
ということを実景として世間に示すことなのである。つまり極言すれば、幸松丸が元服しようがしまいが、尼子家にとってはどちらでも良い。わずか九歳の童子を戦場に出せと無理を強いているのだから、枝葉の部分で尼子側が譲歩するのは、不快ではあるが不可能というわけではない。
――こちらの厚意を、要らぬというなら、勝手にせよ。
突き離すような気分で秀綱は思った。
「戦陣のご多忙の折り、当家のことで余計な煩慮を押しつけまして、まことに畏れ多いことと恐懼しておりますが――。どうかお屋形さまには、よしなにお取り成しくださいますよう、伏してお願い申しあげまする」
「そうか・・・・。まあよい。お屋形さまには、多治比殿の言葉の通りに申しあげておく」
深く頭を下げる元就の背後には、副使の中村元明が控えている。
二人が下がると、秀綱は密かに中村元明を呼びつけ、毛利家の真意を質した。
「真意というほどの裏はござりませぬ。幸松丸さまのご生母たる北の方さまが、我が子の元服をどうしてもお許しにならず、多治比殿が苦慮した末のことでありましょう」
「ふむ」
「もとより我らに二心などはござりませぬ。勿体なくもお屋形さまに烏帽子親になって頂くという幸運を、このような形で無にせねばならなかったこと、お屋形さまには申し訳なく、また我らとしても残念でなりませぬ」
元明は大汗をかきながら言い訳を並べたが、崇敬する主君の好意を踏みにじられた形であることに違いはなく、秀綱の不快はどうしようもない。
この不快さは、報告を聞いた尼子経久にしても変わらなかった。経久は己の言動がすべて政治に繋がるということを弁えているから、感情をそのまま言葉にすることはないが、さすがに苦く笑いながら、
「幸松丸が自ら馬を出すというなら、それでよい」
と言ったきり、この件に関しては一切何も言わなくなった。
翌十日の早暁――。
相合の屋敷の前庭で軍列を調えた元綱は、
「父は戦さにゆく。父が帰るまで、この相合の家の総領は鶴寿じゃ。母上や祖母さまや、この家の女どもを、そなたが守るのだ」
と息子に諭した。
「はい!」
大声で応える鶴寿丸の頭をひとつ撫で、元綱は颯爽と愛馬にまたがった。
八の字に開いた表門から五十人ほどの一隊が出陣した。近侍を含めて騎馬武者が九騎。徒歩の雑兵が四十人ばかりである。雑兵には、荷物持ちや馬の口取りといった雑役夫までが含まれている。
この行列のなかに、栗毛の馬に乗った重蔵の姿があった。
春先の「青屋城合戦」で抜群の働きをした元綱は、本家から兵糧と馬を褒美にもらった。元綱はその馬をそのまま重蔵に下げ与えてくれたので、重蔵は初めて騎乗して戦陣に臨むことになったのである。もっとも、当の重蔵にすれば元綱の「替え馬」を預かっているだけのつもりであったし、戦場ではもちろん馬から降りて戦う気でいるのだが、移動は足で歩くより馬に乗った方がはるかに楽だし、何より馬上から四方を眺めるのは気分が良い。重蔵は常になく上機嫌であった。
大鎧をつけず兜もかぶらず、雑兵の腹巻きと鉄笠をつけた騎馬武者というのは奇妙なもので、その姿を見た見物の群衆は、
「見よ、足軽が馬に乗っておるぞ」
「馬足軽とは珍かなものを見たわ」
などと笑う者もあり、呆れる者もあった。
元綱たちが郡山城に到ると、すでに城には数百の軍兵が集結しており、さらに続々と兵馬が集まってきた。
毛利軍の出陣はこの十日の朝である。
このとき、多治比勢が出払ってしまうことで猿掛城が手薄になることを危惧した元就は、桂広澄の長男である元澄を猿掛城に入れ、守備させた、と『吉田物語』にある。そのように領内の主要な城には充分な守備兵を配したため、出戦する軍勢の規模は、山県氏の加勢を含めて千百人ほどということになった。
吉田を出陣した毛利軍は、多治比を経て横田へと北進し、さらに北西の生田まで――道のりにして五里ばかりを歩いた。陽が傾く前に生田に到り、尼子軍に合流を果たした。
山間に走る街道に沿ってごく狭い平地があり、そこに凄まじい数の人馬が長々とたむろし、幟や旗が林立している。幸松丸とその重臣たちは、人垣を掻き分けるようにして尼子軍の本陣へと赴いた。無論、元就と元綱もこれに同行している。
軍兵に幾重にも守られた本陣の近くで、立ったまま長く待たされた。
毛利家の主従を引見した尼子経久は、
「出迎え、大儀である。此度の毛利家の馳走、わしは心嬉しゅう思うておる」
と感情を殺した声で言い、冗語を省いてすぐ本題に入った。
今日はこのまま生田で芸北の諸将の参集を待ち、明日の早暁から再び軍を進める。明日は向原の辺りまで進み、明後日には西条盆地に入ることになるであろう。行軍順序の関係で、毛利軍は今宵は横田に近い地で宿営すべし、などということを、亀井秀綱が説明した。
「方々には、吉川の兵と共に、城攻めの先手を務めてもらうつもりでおる。異存があるかな」
経久の言葉に、幸松丸の背後に控えた元就が即座に返答した。
「先手を仰せつけられるは、弓矢の面目、これに過ぎたるはござりませぬ。ありがたき仕合わせに存じまする」
「多治比殿、此度は幸松丸殿の初陣である。わかっておるとは思うが、武将の初陣には、それなりの手柄がなければ、武名が華やがぬぞ」
「我ら重臣一同、幸松丸さまをお輔けし、懸命に務めまする所存――」
経久は鷹揚にうなずいた。
「せいぜい励まれよ」
このとき元綱は、初めて尼子経久という男を間近に見た。
――これが出雲の老雄か。
想像していたより優しげな風貌だが、まとう雰囲気に峻厳とした威がある。歳は六十代も半ばのはずだが老耄の翳はなく、身体つきは痩せているのにその存在にどっしりとした重みがあった。ただ、経久から明朗なものが通って来ないことが気になる。その気色にはわずかながら不快の匂いが漂っているようにさえ感じた。
――我らは好かれていないのか。
確かに、毛利家が尼子に臣従した経緯はお世辞にも容儀の良いものではなかった。尼子と大内を両天秤にかけ、最後の最後まで日和見をした挙句、尼子軍の脅威が間近に迫ったと知るや、大内派の重臣の首を差し出すという、実に恥知らずな形で恭順したのである。
――そういう家を好む者など、あるはずもない、か・・・・。
この自嘲には哀しい虚しさがある。
元綱は誇り高く生きたいと願っているが、「家」という集団組織を個人的な好みに沿って動かせるものではないし、まして部屋住みの立場に過ぎぬ元綱が、毛利家を主導しようなどという野心を持てば、さらに生き方がややこしく難しいものになるであろう。己の撞着に苦しむなどというのは元綱のもっとも嫌うところで、ただまっすぐにシンプルに生きるという方が元綱にとっては楽なのである。「政治」というものが矛盾に満ちた現実をひたすら根気強く他人と擦り合わせてゆく作業であるとすれば、元綱の体質はそれにもっとも向いてないということは、言えるかもしれない。
本陣から下がり、毛利軍の屯営へと戻る道すがら、
「吉川と両先鋒ではあるが、お屋形さまの軍の先陣を我らが預かることには違いない。名誉なことだ」
歩きながら元就が言った。
「その我らの先陣を、お前に務めてもらいたいが、どうだ?」
この言葉は、憮然としていた元綱の気分を直した。
「俺がこの大軍の真っ先を進むというわけか・・・・」
数万の軍勢の先頭を駆ける自分の姿を想像し、自然と笑みがこぼれた。
「悪くない」
戦場での華々しい働きは、政治的な醜悪さを糊塗してくれる。ここまでの毛利家の進退は確かに無様なものだったが、戦場で人を驚かすほどの武功を挙げれば、世人は手のひらを返すように毛利家に向ける眼を変えるであろう。自分が毛利家のために出来ることは、そういうところにしかない、と元綱は思い定めている。
蝉の声がかまびすしい。
足を止めた元綱はふと顎をあげた。
黒々とした翠の山並の上に晴れわたった夏空がある。正面の大狩山の背後にはたくましい入道雲が立っていた。
この日、吉川氏、宍戸氏、三吉氏などの軍勢も続々と生田に集まってきた。
吉川氏は――若い興経が心配なのであろう――祖父の国経翁が自ら出張って来ていた。夕刻になってそのことを知った元就は、幸松丸と数人の重臣を伴い、吉川氏の屯営に挨拶に出向いた。
「おお、婿殿――」
この舅は老いるということを知らないのか、八十を超えても実に矍鑠としている。
「此度は共に先陣を馳せることになったな。次郎三郎は未熟ゆえ、迷惑をかけるかもしれんが、足らぬところは容赦なく叱咤してやってくだされ」
辞を低くする国経に、
「こちらこそ、鬼吉川の武勇に助けてもらうことになりましょう。幸松丸さまは此度が初陣ですので、何分にもよろしゅうお頼みします」
元就は如才なく挨拶を返した。
幸松丸は今回の鏡山城合戦から武将としての人生が始まるわけで、この吉凶は重大である。また戦場での評判は、武将としての幸松丸の評価に、ひいては今後の毛利家の伸長にも関わってくる。元就は吉川氏の兵の強さには信頼を置いており、これと密に連携することで、先鋒の役目を無難に果たしたい。
その元就の背後に元綱の姿を見た吉川興経は、
「あ――、叔父上!」
と叫んで破顔した。
「お久しゅうございます」
「おぉ、次郎三郎殿、ずいぶんと立派になられましたな。見違えましたぞ」
元綱は親しげにその肩を叩いた。
興経を見るのは実に七年ぶりである。九歳だった童子は、十六歳の見事な若武者に成長していた。風貌にはまだ幼さが残っているが、「鬼吉川」の血が濃く出たのか、見るからに強靭そうな身体つきをし、上背などはすでに元綱と変わらない。
「叔父上の戦陣でのご活躍はかねがね聞いておりました。此度は同じ戦場で共に働くことができ、嬉しゅう思うています」
「姉上のお子と共に戦えるというのは、俺も嬉しい」
元綱はこの甥子に幸松丸を引き合わせた。
二人は短く言葉を交わしたが、興経は弟を見るような優しげな眼を幸松丸に向けてくれた。
――あの童子が、よい漢に育ったものよ。
元綱は嬉しくなった。この二人が昵懇となれば、毛利と吉川は長く良好な同盟関係を維持してゆけるであろう。
翌日の早暁、尼子軍は行軍を再開した。
真っ先に進む先鋒軍は約四千。毛利と吉川の軍勢・二千数百を先頭に、千数百の兵を率いた亀井秀綱がそれに続いた。秀綱は先鋒軍の軍監といった役割を兼ねている。二陣は高橋氏の兵を主力とし、宍戸氏、石見の佐波氏、福屋氏などの兵を加えた約六千。三陣が尼子経久の本軍で、出雲の兵が約一万。さらに備後北部、伯耆、美作の豪族たちが八千ほどの後軍を形成している。総勢三万に近い大軍勢であった。
文字通りの長蛇の列である。この兵馬が横田から多治比を経て吉田に入り、さらに向原へと歩を進め、その辺りで宿営した。ここで及美氏、平賀氏などの兵が合流し、さらに備後中部から和智氏、有福氏などが参陣した。井原元師が百人ばかりの兵を率いて毛利軍に加わったのも、この日の夕刻である。
元綱が全軍の先陣を務めることを聞き知った井原元師は、
「それなら私は、ぜひ四朗殿の手に属したい」
と意気を漲らせ、元綱を喜笑させた。
「小四朗殿の頸弓は、この大戦の嚆矢となるに相応しい」
酒があれば酌み交わしたいところだったが、戦陣ではそうもいかない。元綱はこの心気が爽やかな義弟と夜食を共にし、気分よく就寝した。
翌日、軍列は早朝から再始動し、向原から南下し、井原市、志和口を経て山間の細道を進み、北西方向から西条盆地へ向かった。
鏡山城が建つ鏡山は、広々とした西条盆地の中央に屹立する独立峯である。その鏡山を望むところまで尼子軍が進んだのは十二日の夕刻であった。すでに夜が近く、この日は攻城のための陣を敷くというわけにはいかない。尼子方の豪族たちは、城山から半里ほど手前で、思い思いの場所に宿営地を築いて憩むことになった。全軍の先頭を進んで来た毛利と吉川の軍勢は、当然ながら城山からもっとも近くに陣を敷いた。
この夜、尼子軍の攻撃態勢が整う前にその出鼻をくじいてやろうと、城方の小部隊が何隊か出戦し、夜襲をかけてきた。
「やはり出たか」
そういう事があるかもしれぬと予想していた元綱は、元就とも相談して、あえて憩むことをせず、三百ほどの一隊を率いて毛利本軍から離れ、近くの林間に埋伏していた。敵地で宿営するとき、用心のために陣地の近くに伏兵を置いておくのは常識のようなものだが、ここではこれが剴切であった。
元綱隊は林の闇の中から踊り出て、敵部隊の横腹をえぐり抜くように痛撃し、ほとんど一瞬でこれを壊乱させた。敵兵は四散し、後ろも見ずに逃げてゆく。
「『一文字三つ星』の旗を覚えたか! 毛利の武威を舐めると痛い目を見るぞ!」
と、元綱は闇に向かって高らかに叫んだ。
老巧の吉川国経も防戦に抜かりはない。落ち着いて兵を指揮し、あっさりと敵を敗退させた。
他の豪族たちもそれぞれ自儘に小競り合いをし、この敵を城へと追い返したのだが、勢いに乗った武者たちは、敵を追ってそのまま城山に肉薄し、城下の町屋に火を放ったり略奪に駆け回ったりした。その炎は燃え広がり、数百軒の家屋を焼き、明け方まで消えなかった。
尼子軍の本格的な城攻めが始まったのは、この翌日の六月十三日である。