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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第六章 鷲の羽を継ぐ…
47/62

青屋城合戦

 大永三年(1523)閏三月の上旬――。

 高橋興光おきみつは、隣国・備後の三吉氏の出城である加井妻かいづめ城(青屋城)を攻めた。

 加井妻城に篭る青屋友梅ゆうばいは、興光にとって祖父・久光の仇であり、久光の娘を母とする幸松丸にとっても、祖父の仇ということになる。

 元就は、高橋軍を支援するために、出兵することを決めた。

 井原氏と山県やまがた氏を傘下に収めた毛利家の最大動員力は二千ほどにまで増えているが、領内の主な城には守備の人数を残さねばならないから、無理なく出兵できる規模は、千三百といったところである。

 元就は全軍を二手に分けた。

 七百ほどの人数を志道広良に預け、甲立の五龍城を牽制させ、自らは残る六百ほどを率いて横田の松尾城へ出向いたのである。

 元綱は五十人ほどの配下の兵を率い、元就の軍勢に加わった。

 松尾城には高橋氏の軍勢が三千ほども集まっていた。高橋の兵に毛利の兵を加えた総勢は、およそ三千五百余ということになる。

 毛利・高橋連合軍は、横田から北東に道を取り、山襞の間を縫うようにして五里ばかり進んだ。美土里みどり町から中国自動車道に沿って三次みよし市方面へ向かったと思えばいい。やがて甲立から北流してきた江の川にぶつかる。その江の川河畔の山に築かれているのが、加井妻城である。

 城山から西に五、六町ばかり手前の山麓でこの軍勢は足を止めた。

 すでに日が傾き始めている。この日はそのまま宿営することになった。


「あれが話に聞く加井妻の城ですか・・・・」


 城山を遠く見上げて重蔵が呟いた。

 麓と山頂の高低差は百メートルばかりであろう。小ぶりな山だが傾斜はかなりきつそうである。その山裾を川幅広い江の川が流れ、城の東側の外堀の役目を果たしている。

 毛利は高橋氏の加勢としてたびたび三吉氏と戦っているから、将兵の大半は、一度や二度はこの地に来たことがある。元綱も数年前に一度だけこの加井妻城攻めに加わっている。が、この辺りの兵要地誌にそれほど詳しいわけではない。


「とりあえず物見といくか」


 日が暮れる前に、元綱は近侍たちを引き連れ、加井妻城の周囲をひと渡り眺めて回ることにした。

 この辺りは飛びぬけて高峻な山はないものの、それでも比高が五十メートルから百メートルに近い大小の山々が隆起する起伏の激しい地形で、山林の隙間にわずかな平地がある。谷状の平地はごく狭く、せいぜい二町ほどの幅しかない。南の宍戸領から流れてきた江の川が、加井妻城の山裾で向きを変え、蛇行しながら北東に流れてゆく。江の川より北はさらに高い山々が並ぶ山地で、平坦地も道らしい道もない。城山の東にも江の川を挟んで山が連なっている。そのさらに東にやや広い平地があり、地名で言えば下青河しもあおが、その南は牛淵うしぶちと呼ばれている。その南方には青河村の集落がある。

 牛淵の西の丘に登った元綱は、


「三吉の軍勢はあちらから来る」


 と北東に顎を向けて言った。江の川はそのまま三次みよし盆地へ向けて流れてゆくから、三吉氏の援軍は川下から川に沿ってやって来ることになろう。


「三吉と戦うなら、ここかあの左手の丘に陣を据え、前方の野に敵を誘い、見下ろしながら戦うのが最良だな。江の川の南のあの山中にでも兵を伏せておき、戦さが始まってから側背そくはいを衝かせるのも悪くない」


 元綱の隣に立った重蔵は、北東の山野を眺めた。


「三吉の人数は二千といったところですか」


 高橋氏と三吉氏の合戦の様子は毎年のように聞いているから、重蔵でさえその程度の推量はできる。


「加井妻の城にどれほど兵を籠めたかにもよるがな。宍戸が兵を出してくれば面倒だが、執権殿が五龍城に張り付いておるから、宍戸雅楽頭うたのかみもそう派手には動けまい。祝屋いわいや城の深瀬隆兼が加勢に来たとしても、五百を超えることはない」


「宍戸家俊殿が国許に帰っておらねばよいですが・・・・」


 重蔵は本心からそう言った。

 その夜、高橋軍の本陣で諸将を集めて軍議が行われた。

 将たちは様々な意見を述べたが、加井妻城をいかにして落とすか、というところに話が終始した。何十年も三吉氏と戦っている割りに、作戦面にはほとんど進歩がない。

 毛利・高橋連合軍は、兵数の点ではかなり優位に立っているのだが、加井妻城の周囲では細長い谷底で戦うようなもので、せっかくの兵の多さを生かせない。しかも敵はこの辺りの地理に精通しているから、どの山から奇襲の兵が駆け下りて来るか知れたものではない。攻めるはずの毛利・高橋軍の方が受け身になっているようなもので、そのゲリラ戦術にこれまでさんざん手を焼かされてきたのではないか。


「こんな狭いところに陣を敷いて、捗々しい戦さなどできようはずがない。城からさらに東に十町ばかり進み、そこで江の川を南へ渡り、下青河の広い野を前に置いて、牛淵の丘に布陣するのがよい」


 いっそ加井妻城を無視し、江の川に沿って東へ深く踏み込むべきだと元綱は主張した。


「加井妻の城が攻められておると知れば、三吉は二、三日のうちには必ず援軍に来る。我らはまず、出て来た三吉軍を全力で叩き、大敗させて追い返しておいて、その後にじっくりと城攻めに掛かるべきだ。たのみの援軍が逃げ帰ったと知れば、城に篭っておる兵の気もくじける」


「それはいかにも危うい」


 と発言したのは佐々部通祐みちすけという中年男である。

 佐々部氏は高橋氏傘下の小豪族で、高宮郡佐々部村の面山めんざん城に住している。佐々部郷は加井妻城から西に一里ほどという近さであり、この辺りの地理には当然詳しい。


「加井妻の城を置き捨て、我らが三吉軍と戦さを始めれば、青屋友梅は必ず城から出陣して我らの背後を衝いてくる。前後に敵を受けることになれば、苦戦は必至じゃ」


 元綱はうんざりしたように顔をしかめた。

 ――いい歳をして、他に言うことはないのか。

 少しは頭を使え、と元綱は言いたい。敵方の反応を計算に入れた上で作戦を立てるのが、武略というものではないか。


「城から東に離れて布陣すべしと申したのは、青屋勢を城から引きずり出すための計略だ」


 佐々部の言う通り、毛利・高橋軍が三吉軍と戦い始めれば、加井妻城の青屋勢は必ず毛利・高橋軍の背後を衝こうと動くであろう。


「城の東の山にでもあらかじめ伏兵を埋めておき、城から出た青屋勢が江の川を渡るところを叩いてもよいし、あるいは敢えてやり過ごし、本軍の方に引きつけた上で、城への退路をやくし、本軍との間で挟撃するという手もある。崩れた青屋勢を追い討てば、そのまま城に繰り込むこともできよう」


 あえて敵に勝てそうな形を見せてやり、誘い込んでその裏を取る。『孫子』の兵法へいほうである。


「善動敵者 形之 敵必従之 予之 敵必取之 以利動之 以卒待之」


『よく敵を動かす者は、これに形すれば敵必ずこれに従い、これにあたうれば敵必ずこれを取る。利をもってこれを動かし、そつ(兵)をもってこれを待つ』


 元就の脳裏にその語句が浮かんだ。

 が、佐々部には浮かばなかったらしい。


画餅がべいじゃな」


 小馬鹿にしたように鼻でわらった。


「言うは易いが、そのように事が巧く運ぶなら、誰も苦労はせんわ」


「巧く運ぶか運ばぬかは、やってみねばわからぬではないか」


 男の態度に煽られて、元綱もつい声を荒げた。

 この佐々部通祐みちすけというのは相当にアクが強い男である。佐々部氏は近隣の大豪族と婚姻を通じて同盟することによって生き残ってきた小豪族で、道祐は高橋久光の娘を母とし、高橋興光や毛利の幸松丸から見れば従兄弟いとこに当たるのだが、一方で敵である宍戸元源もとよしの娘を妻にしている事実を指摘すれば、その立場の複雑さが理解できるであろう。そういう続柄ぞくがらのせいであるからかどうかは別としても、かんが強く自尊心の塊のような性格で、口論となれば絶対に引かず、他人ひとの心を忖度そんたくするような優しさや、他人の言葉に素直に従うような謙虚さは、欠片かけらも持ち合わせていない。その性質の悪さのためか、この二年後に実の息子によって誅殺されることになる。


「下青河まで踏み込むなぞ、わざわざ袋の鼠になりに行くようなものではないか。北から三吉の本軍、西に加井妻の青屋衆、南からはいつ宍戸が現れるかもわからぬ。三方から敵に攻められれば、お味方は必ず敗亡しようぞ。相合殿は、我らを殺そうという魂胆で、そのような世迷い事を申されるのか」


「なんだと・・・・!」


 元綱が怒気を発し、床几から立ちあがる勢いだったので、元就はとっさにその肩を押さえた。

 確かに元綱の作戦案は、やや技巧的に過ぎるかもしれない。が、このまま普通に加井妻城を攻め始めれば、いつものように三吉の援軍がやって来て、城攻めどころではなくなり、城の周囲の狭い戦場で地味な局地戦や小競り合いを繰り返した挙句、さしたる戦果もなく引きあげることになるであろう。そのことが元就にはわかる。


「これまでと同じような戦立てで戦うなら、何度やってもこれまでと同じ結果になるだけだ」


 と元綱は断じた。

 この言葉が、主将である高橋興光を動かした。


「いずれ三吉の援軍が出て来ることは間違いない。此度は、まず相合殿の申されることに乗ってみよう」


 全軍を牛淵まで進め、高橋軍は三吉の援軍に備えて北東に向けて布陣する。毛利軍は後詰めの形でその背後に布陣し、戦況を見ながら臨機応変に動く。加井妻城から青屋勢が出戦したり、南方から宍戸氏の援軍が現れた場合は、毛利軍がこれに対処する。

 反対意見を封殺した興光は、


「まずは三吉の本軍と決戦して追い崩し、その勝利ののちに、あらためて加井妻の城を攻める」


 その語気で断固たる決意を示した。

 翌早暁、毛利・高橋軍は、加井妻城の兵を警戒しつつその山裾を素通りして東へ進み、江の川を渡河して南岸の下青河に到り、さらに二町ほど南に下がって牛淵の丘に陣を敷いた。

 三吉軍が出て来ないなら、このまま本拠の三次みよし盆地へ攻め込むぞ、と脅した形である。

 果たして、その二日後には三吉軍が現れた。江の川に沿って走る出雲往還を南下して下青河に入り、高橋軍が布陣する丘から東に五町ばかり離れた山裾に布陣した。

 その兵数は二千強である。備後衆の加勢も何百人か加わっているらしい。

 戦場に先着し、先に高地を占めた高橋軍の方が、当然ながら地形的に有利な態勢である。江の川と山で囲まれた戦場は平坦で、南北に四町、東西に六町ほどの広さがあり、全軍を展開して駆け合わせることができるであろう。二千対三千の戦いである。高橋軍がよほどまずい駆け引きをしない限り、まず負けることはない。

 ――懸合かけあいで決戦すれば勝敗は一日でつく。

 それが野戦の勝負に持ち込んだ元綱の狙いであった。宍戸氏の援軍が出て来る前に、三吉軍を大破してしまえばいいのである。

 宍戸氏が援軍に出せる程度の兵力では、毛利・高橋軍にはとても太刀打ちできないわけで、三吉軍にしばらく立ち上がれぬほどの打撃を与え、これを追い払えば、宍戸氏の方も加井妻城の救援は諦めざるをえないであろう。

 自軍から攻める不利を悟った三吉軍は、宍戸氏などの援軍の来着を待ちたい気持ちもあり、自ら仕掛けようとはしなかった。


「三吉はすくんで動けぬか」


 不敵に笑った高橋興光は、先陣の部隊を敵陣に接近させ、自らも本軍を率いて丘を降り、先陣を支えるように陣を前進させた。

 そのまま黙視していれば、三吉軍は背後の川と山に押しつけられるように攻められる形になり、いかにも苦しい。退却しないのであれば、前進して応戦するしか選択肢がなく、先陣がじりじりと前に進み始めた。

 両軍の距離が矢頃まで近寄り、やがて矢戦が始まった。

 飛矢を交換しながらさらに両軍の距離が縮まる。兵たちは弓を刀槍に持ち替え、白兵戦を始めた。

 その頃、示し合わせたように加井妻城から青屋勢が出撃した。


「おお、出たな」


 元綱は匂い立つような新緑のなかでその様子を遠望していた。一手の大将となり、加井妻城の東にそびえる山の中に埋伏まいぶくしていたのである。

 元綱には渡辺党、桂党の兵が付けられ、二百人ほどの別働隊が編成されていた。

 残る四百ほどの本軍を率いる元就は、高橋軍が本陣を置いた丘の上に布陣している。高橋軍の背後を守りながら四方を睨み、変事に備えていた。

 ところで、城から出戦した青屋勢の兵数が、元綱が想定していたよりかなり多い。

 ――せいぜい三百と踏んでいたが・・・・。

 江の川を渡河している兵は、ざっと見てその倍はいるであろう。城を留守りゅうしゅしている人数もあるはずだから、つまり城内には七、八百の兵が篭っていたことになる。三吉氏の側も抜かりなく守備態勢を調えていたらしい。


「数は我らよりやや多いか。押し包んで討つというわけにはいかんな」


 青屋勢は、元綱らがいる山を北から廻り込み、東に駆けた。目立つ江の川筋を避け、木々が生い茂る丘の間をすり抜けるようにして下青河に出るつもりらしい。

 そう見切った元綱は、


「ゆくぞ!」


 と叫んで隊を進発させた。

 山の斜面を斜めに駆け下り、北に進んで青屋勢の背後に出て、敵を追うのである。

 元綱が上げさせた狼煙のろしによって青屋勢の出戦を知った元就は、敵を視認すると本軍を率いて丘から駆け下り、青屋勢が下青河の平地へ出ようとする山間の道に陣を据え、矢楯を並べ、これを封鎖した。

 そこに青屋勢が勢いを止めずに突撃したため、こちらは最初から激烈な白兵戦となった。

 両軍の激突から十数分後に、元綱隊が青屋勢に背後から襲い掛かった。山間の谷のような戦場で、理想的な挟撃が完成したのである。

 背後に敵を受けたと知った青屋友梅は、


「伏兵は必ず小勢じゃ! 慌てるな!」


 と叫んで兵たちを落ち着かせ、侍大将の一人に元就の本軍をしばらく押さえるよう命じた。友梅自身は五百ほどの兵を率い、退路を確保するために猛然と反撃に転じたのである。

 この戦いは壮絶なものとなった。

 青屋勢は三吉軍のなかでは精鋭と言っていい。死に物狂いになったその総攻撃を、わずか二百の元綱隊が必死に支える形である。激流を薄い板で遮っているようなもので、至近まで敵兵に迫られた元綱は、馬から降りて弓を捨て、自ら槍を取って群がり寄せる敵と戦わねばならぬほどだった。

 その元綱を守っている重蔵の働きは凄まじい。


「死にたい奴からかかって来い!」


 瞬く間に五人ばかりの雑兵を槍玉にあげ、さらに数人を突き伏せ、殴り倒し、その槍が折れると、今度は大刀を抜いて敵を斬りまくった。

 この男の器用さは、敵兵の鎧にはほとんど刃を当てず、手、顔、膝など、鎧われてない部位だけに攻撃を集中していることであろう。結果として刃こぼれすることが少なく、刀が折れることもない。重蔵の周囲には、斬り落とされた指や、槍や刀などの獲物が無数に転がった。負傷者が続出し、怖れた敵兵は重蔵に近づけなくなった。

 元綱の近侍たちはもちろん、その麾下の兵も、一人も逃げることなく奮戦した。渡辺すぐる、桂広澄も、麾下の兵を叱咤して見事に戦った。

 が、いかんせん敵の兵数が多く、その鋭気はなかなか衰えない。乱戦模様であるから飛矢を浴びることがないのが救いで、辛うじて五分の戦いで踏みとどまっているが、次第に元綱隊の傷が増え、それが深くなった。それでも元綱は陣頭から一歩も退かず、声をらして兵を励まし、半刻ばかりも耐えに耐えた。

 戦さには流れがある。

 青屋勢の猛攻をどうにか支えているうちに、その流れが変わった。元就の本軍が押さえの青屋兵を四散させたのである。毛利本軍は猛然と攻め進み、青屋勢の背後から痛撃を与えた。

 戦場は完全な乱戦となった。

 敗色を認めざるをえなくなった青屋友梅は、戦闘の継続を諦め、退き鐘を打たせ、自らは馬を捨て、わずかな兵に守られつつ北側の山林に駆け込んだ。それを合図に青屋の兵たちは散り散りになって左右の山林に逃げ落ち始めた。


「追うぞ!」


 馬に飛び乗った元綱は、素早く兵をまとめ、加井妻城へ駆けた。

 逃げ帰って来た味方を収容するために、城門は開け放たれているであろう。敵の防戦態勢が調わぬうちに城に繰り込みたい。

 元就も麾下の兵をまとめ、元綱隊を追うように走り始めた。

 城山までは直線距離で七、八町ほどである。

 青屋兵の小集団がそこここで走っており、毛利兵に捕捉されて戦闘している集団もあちこちに見えるが、元綱はそれには眼もくれず、麾下の兵を猛進させた。

 江の川筋に出ると視界が開ける。

 城山へ駆け登ってゆく青屋兵が見えた。

 元綱隊の兵たちは次々と江の川に飛び込み、頭上から降って来る飛矢をものともせずに渡河し、山の斜面を駆け登って、大手の城門に殺到した。城門といっても堂々たる櫓門ではなく、いわゆる木戸である。

 先登せんどしたのは、元綱麾下の渡辺党の兵だった。

 一の曲輪の守備兵が猛然と頭上から襲いかかってくる。

 城に残った留守の兵は精鋭ではないが、疲労がないだけに溌剌としており、しかも山上から攻撃できるという強みがある。矢やつぶてが無数に降り、渡辺すぐるも負傷したが、この男は驚異的な粘り腰で敵を曲輪の中へと押し返した。


「一番乗りは太郎左か!」


 喜笑した元綱は、兵とともに坂を登った。

 毛利方の兵が続々と一の曲輪へ乗り込んでゆく。曲輪のなかで彼我の兵力が逆転した頃、青屋勢は戦闘の継続を諦め、さらに上の曲輪へ退き、そこで態勢を調えた。

 自ら一の曲輪に入った元綱は、大手の木戸を焼き払わせた。

 続いて攻め登ってゆきたいところだったが、さすがに兵たちの疲労が激しい。負傷した者も相当な数で、戦える兵が半減したと言っても大袈裟ではない。


「高橋の戦さの様子も気になる。今日のところは、この曲輪を維持できれば御の字か・・・・」


 毛利軍の独力で戦うのはこのあたりが限界であろう。

 その頃、東の主戦場では、高橋軍が三吉軍を圧倒していた。

 高橋興光は戦さがまずくない。彼我の兵力差を生かして堅実な駆け引きをし、久光時代からの老練な武将たちもそれぞれに奮戦した。徐々に三吉軍を追い詰め、二刻ほどの激闘の末、敵を潰走に追い込んだ。

 三吉軍は大怪我を負ったというべきであろう。高橋軍は逃げる敵を追って、江の川に沿って三次盆地の手前まで猛烈に追撃し、日が暮れる前に兵を返した。

 夕陽を浴びながら江の川筋を進んで来る高橋軍を遠望して、毛利の兵たちは歓声を放った。

 興光は、加井妻城の東の山に本陣を据え、城を包囲する態勢を取った。

 四散して山林に隠れた青屋の兵たちは、夜陰に乗じて加井妻城の南尾根などから山を登り、三々五々城内に引きあげた。毛利軍は青屋兵を二百人近く討ったが、それでも城内には五百人以上が立て籠ったわけである。



 本格的な城攻めはこの翌日から始まった。

 毛利・高橋軍には戦勝の勢いがある。元綱たちが城門を焼き落とし、一の曲輪を奪ったことも大きい。

 毛利軍は負傷者が多く、戦える兵も疲労が深かったので、包囲部隊に回って城攻めには加わらなかったが、高橋興光は、元気な兵を繰り代えながら三日にわたって激しく城を攻めた。

 加井妻城は連郭れんかく式の城で、山の斜面に沿って階段状に曲輪が置かれており、山頂の本丸に到るまでひとつずつ曲輪を落としてゆくしかない。

 一の曲輪を足場にして、高橋軍は二の曲輪を猛攻したが、城兵の反撃も熾烈を極めた。興光がどれほど兵を叱咤しても、一の曲輪から先にはどうしても登れない。何度かは二の曲輪まで侵入したが、すぐに城兵に押し戻された。

 寄せ手に負傷者が続出したことで、さしもの興光も閉口し、兵に休息を与えることにした。力攻めを諦め、持久戦の態勢に切り替えたわけである。

 この時代の城はほとんどが山城か丘城で、高所に築かれているだけに守るには適しているが、反面、水を確保するのが難しいという弱点がある。井戸を作ろうにも相当に深くまで穴を掘らねば水は出ず、天然の湧水などの水場も当然限られてくるからである。

 加井妻城もその例外ではない。平時なら城内の井戸の水だけで問題はないが、戦時はその数倍の人数で籠城するわけで、消費する水のすべてを井戸から得ることは物理的に不可能であった。必要な水は城山の足元を流れる江の川から汲んでいたのだが、毛利・高橋軍に一の曲輪を奪われ、山麓へ下りる道を失ったために、山中で得られる水量が激減したのである。

 城兵たちは夜間に、南の峰伝いに歩いて戦場から離れたところで山を下り、川から得た水を運ぶなどしていたが、持久戦を覚悟した毛利・高橋軍は、当然ながら水の手を切るために警戒線を敷き、監視の目を強化したから、水を得ることがさらに困難になった。何度か雨が降ってくれたこともあって、どうにか凌いでいたものの、半月も経つと城内では備蓄しておいた水も枯渇し、兵たちに食わせるだけの米を炊くことも難しくなってきた。

 水がなければ長期籠城などできるはずがない。そのことを毛利・高橋軍の将士に知られれば、落城も近いと気を強くし、その士気はますます高まるであろう。

 守将である青屋友梅は窮した。

 ここで、逸話がある。

 青屋友梅は、城内の水の欠乏を隠すために一計を案じ、寄せ手から見える所へ馬を引きだし、米を水に見立てて馬を洗っている振りをしてみせたのだという。

 実際、精米した米は陽の光を反射してよく輝き、遠目から見ると水で馬を洗っているようにしか見えない。その様子を目撃した寄せ手の将兵は、「城内には水が豊富にあるのだ」と思って、大いに落胆した。

 が、その話を伝え聞いた元就は、


「さてこそ、城ではいよいよ水が尽きたとみえる」


 と瞬時に青屋友梅の策略を見抜き、さらに厳しく城を攻めたので、友梅は絶望し、城兵の命の無事を条件に開城勧告に応じ、城から退去した――。

 これは『安西軍策あんざいぐんさく』という古書に書かれているエピソードである。

 三吉氏の本拠である三次みよし盆地には馬洗ばせん川という大河が流れていることもあり、つい関連性を考えたくなるが、この「米で馬を洗う」という逸話は、実は加井妻城に限ったものではない。能登のとの七尾城、豊後ぶんごの鶴賀城、近江おうみの音羽城、信濃しなのの戸石城など、全国の多くの城にそれと同様の伝説が残っているのである。一例を挙げれば、美濃みのの苗木城には、敵兵にその様子を見せるために、馬を乗せて白米で洗ったと伝わる「馬洗い岩」という巨岩が現存したりしている。

 この「米で馬を洗う話」には二通りのパターンがあって、寄せ手の将兵が「あれは米で、城内に水はない」と見破った場合、その城はほどなく落城する。見破れず、「城内には水がたくさんある」と落胆した場合、寄せ手は城攻めを諦めて退却する。あるいは城兵の反撃を受け、大敗北するのである。

 このような伝説が見られるのは、なにも戦国時代に限ったことではない。戦国期より以前――建武年間や南北朝期にも同様の逸話が見られるし、逆に時代が下った豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本軍が朝鮮の禿山城を兵糧攻めにした時にも、守将の権慄クォンユル将軍は、やはり米で馬を洗ってみせ、日本軍を失望させ、撃退したということになっている。

 この「米で馬を洗う話」は、籠城戦における典型的な逸話なのである。

 明治時代の大碩学だいせきがく南方みなかた熊楠くまぐすの論考である『十二支考』の中の「馬に関する民族と伝説」によれば、「米で馬を洗う話」の初出は古代中国で、かんの時代の逸話であるらしい。十八世紀にまとめられた中国の地誌『大清一統志だいしんいっとうし』に、漢代の逸話として、米花こめのこで馬を洗って水の豊富さをアピールし、敵軍に城攻めを諦めさせたとするエピソードがあるという。中国雲南省の米花洗馬山にその名が残っている。

 この類話が日本全国の城で散見されるようになったのは、軍記物語の作者や語り物の芸能者などが、籠城の場面を描くとき、その面白さを増すために、好んでよく用いた逸話だったからであろう。加井妻城を巡る戦いで、青屋友梅が米で馬を洗わせ、元就が智略によって城内の水不足を見破った、などということは、実際にはなかったに違いない。

 しかし、毛利・高橋連合軍が加井妻城の水の手を切り、青屋友梅が籠城に窮したことは、おそらく事実である。

 城内の水不足を見透かした元就は、軍議の席で、開城勧告を行ってはどうかと提案した。城主と城兵の生命を保証し、城から退去させようということである。


「馬鹿な!」


 高橋興光は怒声を放った。


「この戦さは祖父の弔い合戦じゃ。城兵の命はともかく、友梅めの命を助けるなぞは、とうてい承服できぬ」


 祖父の久光を殺した青屋友梅を、あと一歩で殺せるというところまで追い詰めているのである。興光にしてみれば、元就の生ぬるい妥協案が信じられなかったであろう。

 が、元就にも言い分がある。

 城兵たちは城主の命を守るために戦っているわけで、青屋友梅の首を開城の条件にしてしまえば、話がすんなり通るはずがないのである。城兵に最後の一兵まで頑強に抵抗されれば、さらにどれほどの血と時間が失われるかわかったものではない。

 元就は焦っていた。


「もうあまり時がないのです。いたずらに滞陣を長引かせれば、これまでの兵たちの苦労が、徒労になりかねませんぞ」


 すでに四月に入っている。閏月があった大永三年は、四月八日が現在の暦の六月一日に当たり、季節はすでに初夏というに近い。つまり、いつ梅雨入りしてもおかしくないのである。大雨が降れば、いまは枯渇している城が息を吹き返すかもしれない。

 まして――。

 実はこの夏、鏡山城を攻めるために尼子軍が安芸にやって来ることがすでに決まっており、亀井秀綱から「抜かりなく支度を調えおくべし」という正式な触れが来ていた。まだ出陣の具体的な期日までは確定していないのだが、それほど時間が残っているわけではない。

 毛利や高橋氏にとって、尼子氏傘下という意味では三吉氏は味方であった。いつ尼子経久から「争うのをやめ、和睦せよ」という命令が来るかもわからないし、城を落とす前に尼子軍が安芸に出張って来るようなことにでもなれば、どれほど落城が近くともそこで城攻めを中止せざるをえなくなる。そうなれば、それまでに兵たちが流した血と汗が、まったく無駄になってしまうのである。

 尼子氏から余計な横槍が入る前に、ともかく一日でも早く城を開かせ、加井妻城にひるがえる旗の色を変えてしまい、それを既成事実化しておくべきであろう。

 元就がそう主張すると、興光は眼を怒らせた。

 が、道理がわからぬほど暗愚な男でもない。


「無念じゃ・・・・」


 と唇を噛みつつも、渋々ながら元就の案に同意した。

 元就が城に使者を送り、城兵の無事を条件に開城を打診すると、


「ふむ・・・・。我が主君あるじが許すということならば、城を渡さぬでもない」


 青屋友梅は脈ありの返答を返した。

 友梅はこの合戦が復讐戦であることを知っていた。高橋興光にとって友梅は祖父の仇であり、この戦いは自分の死によってしか終わらぬものと覚悟を定めていたのである。それだけに、延命の光明が見えたことは望外であったろう。三吉軍が逃げ去って孤立無援となってから、さらに二十日以上も城を守り抜いている。友梅の武士としての面目は充分に立っており、胸を張って三次みよしへ帰ることができる。

 友梅は、主君である三吉致高むねたかへ使者を立て、開城の許しを得た。

 ついでながら友梅は本名を三吉久高といい、三吉氏の一族である。名字の「青屋」は領地の地名である「粟屋あわや」が転訛てんかしたもので、「友梅」は出家したときにつけた入道号である。三吉氏当主である三吉到高との関係ははっきりしないが、兄弟か、あるいは叔父とか従兄弟いとこといった、近しい血縁者であったことは間違いない。

 両軍それぞれに証人(人質)を交換し、加井妻城の受け渡しが行われたのは、四月十五日である。

 元就と興光は、青屋友梅と交わしたちかいを順守した。友梅と配下の兵たちは整然と城から退去し、江の川沿いの道を北東へ去っていった。


「この城を得ることは、父祖の代よりの念願でござった。多治比殿、毛利の此度のご助勢、まことにかたじけなく存ずる」


 本丸に入った高橋興光は、舘の広間に主立つ者たちを集め、ささやかな祝宴を張った。

 この合戦の主体は高橋氏であり、毛利は加勢したに過ぎない。興光は毛利軍の骨折りへの謝礼として、城に備蓄されていた兵糧をそのまま贈ってくれたが、城そのものは、当然ながら高橋氏の所有するところとなった。

 ――尼子がやって来る前に、なんとか間に合ったか。

 やれやれ、というのが、元就の実感であったろう。



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