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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第六章 鷲の羽を継ぐ…
46/62

幕間狂言

 大内氏の本拠である山口の町は、「西の京」と呼ばれている。

 もともと大内氏の本貫地は周防すおう国の国衙こくが(国司が政務を執った国府)である防府市にほど近い大内村であったが、この物語の現在から百五十年ほど昔――南北朝の時代――に、周防、長門ながとの二国の守護となった大内弘世ひろよが、山口盆地へと本拠を北移した。

 山口は周防国のほぼ西端にある。瀬戸内の海や山陰方面へと通じる陸路がいくつも交差する交通の要所で、長門国からもごく近い。防長二国を治めるには至便の地であった。

 大内弘世は、山口の町造りにあたり、京の都をその模範とした。山口盆地は北に急峻な高嶺こうみね(鴻ノ峰)、東西を低い山で囲まれ、南に向かって平野が拓けた、風水でいうところの典型的な四神しじん相応の地である。ちょうど京における淀川のように、盆地の南部を椹野ふしの川が南西に向けて流れ、周防灘すおうなだへ注いでいる。弘世は、付近を流れている一の坂川の川筋をわざわざ変え、京の鴨川に見立てて町の中央を南北に貫流するようにさせたという。また、祇園社や北野天神などを京から勧請かんじょうし、鍛冶、番匠、宮大工など多くの職人や各種の芸能者を招き、当時ほとんど輸入に頼っていた絹織物の国内生産にも尽力するなど、産業と文化の発展にも力を入れた。

 その大内弘世の時代から、当主が五代下って、この時代の大内氏の当主は義興よしおきである。本国である周防、長門に加え、安芸と石見、さらに北九州の豊前と筑前の守護を兼ねた、六ヶ国の太守であった。大内氏の勢力は、この義興の時代と嫡子である義隆よしたかの時代が最大で、当時の守護大名としては日本で並ぶもののない富力と武力を誇っていた。この時代の山口は、まさに西日本の政治・経済の中心であったと言って差し支えない。

 大内氏の本姓は多多良たたら氏で、百済くだらの聖明王の第三王子、琳聖りんしょう太子の後裔こうえいと自称している。いや、実際そうであったかもしれない。周防や長門、北九州といった地域は、地理的に朝鮮半島とは古くから繋がりが深く、大内氏は代々、朝鮮王朝との交易を通じて莫大な富を得ていた。また、琉球王国とも積極的に交易を行っていたらしい。さらに大内義興が明国との勘合貿易の利権を独占したことによって、大内氏の経済力はこの頃が最大となった。その富と文物の集積地たる山口の繁栄ぶりは、推して知るべきであろう。

 「応仁の乱」が起こって以来、戦乱で荒れ果てた京からは、平和と安定を求めて多くの公家や文人墨客ぼっかくが山口に逃れてきた。歴代の大内氏当主も彼らを歓迎し、京文化の伝播を喜んで奨励した。また、先述したように大内氏は朝鮮王朝との繋がりが強く、その文化も多く流入しており、京文化と大陸的文化の融合が行われた結果、国際性豊かな独自の「大内文化」と呼ぶべきものが、この山口の町で花開いている。

 現在、龍福寺がある場所に、この当時、大内氏の居館であり政庁ともいうべき「大殿屋形」が置かれていた。その領域はほぼ二町四方、舘は大内氏の発展と共に増改築が繰り返された。邸内の南東隅には大きな池があり、池泉庭園が作られ、さらに北西隅には枯山水の庭園もあったという。しかし、一重の堀と土塁で囲まれている他は防御施設のようなものはなく、日本一の富力をもった大内氏の本拠としては、いかにも頼りない。

 が、これは裏返せば、「この山口にまで敵軍が侵攻して来るようなことはありえない」という大内氏の自信の表現でもあったろう。

 大殿屋形に隣接する形で、一町四方の「築山舘つきやまやかた」という別宅がある。これは公家や文人墨客と交遊するための施設であったらしく、ここに招かれた連歌師の宗祇そうぎは、邸内の見事な庭を眺め、


 池はうみ こずえは夏の 深山みやまかな


 という一句を遺している。

 山口盆地の中央に位置するこれらの施設の周囲には、大内氏の重臣たちの広壮な屋敷が並ぶ。大路、小路は碁盤の目に整備され、水はけを良くするために、道の土の下には砂利が厚く敷き詰められていたという。職人、鍛冶、番匠など、それぞれ職ごとに町が区画され、そこで生産された物品、あるいは国の内外からもたらされる産物を扱う商家も無数に軒を連ねている。一の坂川の河原近くには常設の市場も整備されていた。

 大内氏の富強を表すように、山口の町には実に多くの寺社仏閣がある。その中でもっとも新しい寺社といえば、二年ほど前に落成したばかりの高嶺こうみね太神宮だいじんぐう(現在の山口大神宮)であろう。

 大内義興は、在京していた永正十一年(1514)、伊勢に足を伸ばして伊勢神宮を参拝したことがある。その森厳しんげんとした威容に心打たれた義興は、伊勢神宮に劣らぬ荘厳な神宮社を山口に創建し、皇祖神こうそじんのご分霊を勧請かんじょうして祀ることを思い立った。このことは、出雲大社の遷宮せんぐうを独力でやってのけた尼子経久に対抗する意識もあったであろう。出雲大社は本邦でもっとも古く、もっとも格式が高い神社のひとつであり、祭神の大国主神おおくにぬしのかみ地祇ちぎ(国津神)の王のような存在である。神威でこれを圧倒できる神社といえば、「国譲り」の伝承で大国主を屈服させた天孫族の皇祖神を祀る伊勢神宮こそが相応しいであろう。

 おやしろを置く地は、大殿屋形からほぼ真西に十町ほど――山口盆地の北にそびえる高嶺こうみねの東山麓が選ばれた。

 莫大な資金を投じて宮大工や番匠や人夫を大動員した義興は、突貫工事で社殿の造営を急がせた。この工事は義興が京から帰国した直後の永正十五年十月に始められたのだが、そのわずか一年後には外宮げくうが、さらに半年後には内宮ないくうがそれぞれ完成した。義興は後柏原ごかしわばら天皇に上奏じょうそうして勅許ちょっきょを得、永正十七年(1520)六月二十九日、伊勢からご神霊を遷宮したのである。伊勢皇太神宮から直接にご分霊を受けて、太神宮社が創建されたことは、これ以前には過去に一度もなく、これ以後も明治時代になるまで例がない。江戸期に入ってお伊勢参りがブームとなると、この高嶺太神宮に参拝することは「西のお伊勢参り」と呼ばれて人気を博し、多い時には一日に一万人以上の参拝客があったという。

 その高嶺太神宮の表参道――。

 そびえる石の大鳥居を眺めながら、


「これが噂の『今伊勢いまいせ』か・・・・」


 と呟いた男がある。

 修験者の格好をしたその男は、供であろう、若い修験者を引き連れて鳥居をくぐり、参拝客で溢れる参道を颯颯さつさつと進んだ。

 吐く息が白い。凍雲からは牡丹雪がひらひらと舞い落ちている。高嶺の深い森には、どこもかしこも薄く雪が積もっていた。

 参道の中ほどに神楽堂と呼ばれる常設の屋根付き舞台がある。

 何か興行が行われているらしく、人出がやけに多いのもそのためだったかもしれない。神楽堂の手前に木戸が設けられ、幕が張り巡らされ、直接には中が覗けないようになっている。木戸口では入場を待つ人の行列ができており、左右には甘酒や焼き餅などを売る出店が並んでいた。

 張られた幕の紋様を眺めた修験者は、


「ほう、文五郎の一座か。これはよい巡り合わせじゃな」


 と独りごちて、口元だけで笑った。

 二人の修験者はそのまま木戸の前を素通りし、外宮と内宮にそれぞれ参拝した後、いったん引きあげた。その日の公演が終わるのを待って、再び夜中に鳥居をくぐり、神楽堂の舞台裏を訪ねた。

 座長の文五郎は、社務所に付属する長屋に一室を借りてそこで憩んでいたのだが、修験者が面会を求めてきたと聞かされると、すぐさま客人を部屋へ通すよう言い、さらに手下に人払いを命じた。

 入って来た客は二人である。土間で衣服についた雪を払い落すと、板間にあがって背負っていたおいを床に置き、文五郎の前にゆったりと座った。


「文五郎、久しいな」


 目と口元に親しげな笑みが浮かんでいる。


「やはり司箭しせん院殿でしたか。お懐かしゅうございます」


 文五郎は丁重に頭を下げた。

 司箭院 興仙こうせんこと宍戸家俊である。


「こうして顔を合わすのは、かれこれ六年ぶりか」


「そうなりますかな。これまでに何度か――今年の正月にも――お国許の甲立こうだちへ寄らせて頂きましたが、折悪しくいつもご不在とのことで、お会いすることが叶いませなんだ。それが、このようなところで巡り会いますとは――」


 言いながら、茶碗に白湯さゆを注ぎ、二人の客にそれを勧めた。


「ありがたい。身体が冷え切っておったところよ」


 家俊は熱い湯を音を立てて喫し、ひとつ大きく息をついた。


「実はこの三年ほど、四国と九州の山々を巡り歩いておった。関門の瀬戸を渡ったのが一昨日じゃ。山口まで来たついでに、噂の『今伊勢』にご挨拶させて頂こうと思うたところ、そなたの一座と行き会うたというわけよ」


「左様でございましたか」


 うなずきつつ、自分よりわずかに年若な客をしげしげと眺めた文五郎は、

 ――お変わりになられたな。

 と心中で呟いた。

 若き日の宍戸家俊には、どこか抜き身の妖刀のような妖しい美しさと怖さがあり、向かい合えば常に張り詰めた緊張感を強いられたものだったが、今はその妖刀の刀身が鞘に納まっている。六年前にも感じたことだが、目の前にいる家俊は、歳月によってさらに圭角けいかくが削られ、まろやかさが増したように思えた。

 が、文五郎はそういう印象を口にはせず、


「――それにしても、お前さまは昔と少しもお変わりになりませんな」


 と容姿のことを言った。この修験者はすでに四十代も半ばのはずである。が、それより十は若く見える。その妖艶なまでの美貌には、老いのかげがほとんどない。


「いや、技はともかく、膂力りょりょくにせよ体力にせよ、若い頃に比べればずいぶんと落ちた。衰えが自覚できるようになった、というべきか。情けない話よ」


 家俊は自嘲するように笑った。


「後ろに控えおるこの者――わしの兵法の弟子で大蔵たいぞうというのじゃが――いずれはこれにも敵わぬようになろう。歳は取りたくないものじゃな」


「私など、まだ師の足元にも及びませぬ」


 二十歳前後のその若者は、真顔でそう言い、文五郎に頭を下げた。


「河野大蔵と申します。以後、お見知りおきを――」


 やや痩身そうしんな家俊と比べると、若者は体格が良い。上背があり、骨太な体つきで、若いに似ず沈毅な雰囲気を漂わせている。


「これに、修験の道をいろはから授けんがため、諸国の神山霊峰を巡り歩いておるところじゃ。まだまだ駆け出しのひよこじゃからな。先は長い」


「そういうことでございましたか」


「もとより浅学菲才ひさいの身です。師のご所期しょきに添うところまでは、千里も万里も到りません」


 その声に真摯さを聞いた文五郎は、この若者の心のかおを見た想いがした。

 ――よい若衆わかしゅじゃな。

 文五郎には人の才徳の大きさを一目で見抜くような眼力はない。が、この若者の心志しんしには粘り強さがあり、求道者のように、ひたむきに努力を続けることができる愚直さと執拗さがあると視た。それは、何も武芸に限った話ではなく、何かを極めようとする者には絶対に必要な資質であろう。

 ――武芸も芸には違いない。

 たとえ天与の才能に恵まれなくとも、ある一定の高みまでは、人は努力で昇ることができる、と文五郎は思っている。諦めさえしなければ、人はどこまでも歩き続け、昇り続けることができるのだが、実際には、極めたと言えるほど努力を続けられる心力を持つ者が稀なのである。

 本当の意味で人の才能が開花し、大輪の華を咲かすことがあるとすれば、それは努力を極め尽くしたその先にしかないであろう。その場所に辿り着く前に、勝手に自分の才能に見切りをつけ、努力を放棄したときに、人の成長は止まるのである。その点、この若者には才走った感じがないのが良い。師の言葉に愚直に従い、その教えを全身で咀嚼そしゃくして、一歩ずつ着実に歩み続けてゆくであろう。


「大蔵殿、わしも司箭しせん院殿の凄味は身に沁みて知っておる。その司箭院殿が見込まれたほどのお前さまじゃ。将来すえは必ず一廉ひとかどの武芸者になられよう」


嘉言かげんを賜りました。身命をして師についてゆくつもりです」


 若者は再び深く頭を下げた。

 微笑してうなずいた文五郎は、その師の方に視線を戻した。


「して、司箭院殿、わざわざお訪ねあったは、何かご用件があってのことと拝察しましたが――」


「そのことよ。そなたにふたつほど頼みたいことがあってな」


 文五郎は目でうなずいた。


「私にできることならば、何なりと――」


「ひとつは路銀のこと。さしあたり三貫文ばかり用立ててくれぬか」


「お安い御用です」


「もうひとつはコレじゃ」


 家俊は、二重底になっているおいの側面の板を抜き、そこから油紙に包んだ帳面の束のようなものを取り出した。


「旅廻りのついででよい。コレを五龍城の兄上まで届けてもらいたい」


「それは一向に構いませぬが――」


 両手でそれを受け取りつつ、文五郎はやや曖昧な顔をした。

 文五郎は周防でこのまま越冬するつもりでいる。山陰地方は豪雪地帯だから、冬場に歩き回るには苦労が多い。比較的雪が少ない瀬戸内側の周防で、山口を拠点に海辺の村々を巡り、春を待って日本海側に回ろうと思っていたのである。長門、石見と巡ってから安芸北部の甲立に入るのは、おそらく初夏を過ぎるであろう。


「もしお急ぎであれば、手の者を走らせましょうか」


「急ぎの用なら、わざわざそなたに頼みはせぬよ。わしがこの足で甲立へ帰れば済む話じゃ」


 家俊は小さく笑った。


「兄上にとって、四国や九州の様子なぞは、取り立てて今すぐ必要な事柄ではなかろうからな。届くのは半年先でも構わぬよ。ソレさえそなたに託せれば、わしが安芸へ寄る手間がはぶけるという、ただそれだけのことじゃ。わしは屋代やしろ島あたりから船に乗り、大三島おおみしまに渡り、大山祇おおやまづみ神社にご挨拶してから、上方へ行く」


「上方へのぼられますか」


「うむ。紀州へとくだり、高野山に登り――、その後は熊野の山々を巡り歩こうかと思うておる。ついでに、しばらくぶりに畿内の様子も見ておくかな。兄上にはそのように伝えておいてくれぬか。借りた銭も兄上が倍にして返してくれよう」


 宍戸家俊にとって文五郎は、自家の機密や諜報を託せるほど、信頼の置ける男なのである。

 この二人の繋がりを語るには、少々昔話をせねばならない。



 司箭院 興仙こと宍戸家俊が、かつて幕府管領・細川政元の側近であった、ということはすでに触れた。

 この物語の現在から三十年ほど昔――。

 細川氏の嫡流たる京兆家けいちょうけの当主であった細川政元は、時の将軍・足利義材よしき(後の義稙)を「明応の政変」と呼ばれるクーデターで京から追放し、管領の座を奪い、傀儡かいらいの将軍(足利義澄)を担いで幕政を牛耳るようになった。この時、政元はわずか二十八歳である。室町幕府の創設以来、幕臣が将軍の首をすげ替えたことなどかつてなく、政元は「半将軍」と呼ばれるようになる。以来、四十二歳の若さで非業にたおれるまでの十四年間、政元は敵対勢力と戦い続け、しかも勝ち続けた。

 京を追われた足利義材は、諸国の大名や寺社勢力と結び、二度にわたって京の奪回戦を挑んだが、いずれも敗亡し、大内氏の富強を頼って西国に亡命した。政元は合戦には不思議なほど強く、五畿内はもちろん、近江、越前、若狭、紀伊、丹波、丹後などを軍を率いて駆け回り、敵対する者を次々と降伏させ、広大な版図をその勢力下に置いたのである。

 なかでもこの男の凄まじさは、比叡山 延暦寺が敵側に通じたと知るやこれを躊躇ちゅうちょなく焼き討ちし、根本中堂をはじめ主要な伽藍がらんを全焼させ、さらに奈良北部の喜光寺、法華寺、西大寺などを焼き滅ぼし、興福寺を中心とする南都の寺社勢力まで屈服させたことであろう。敵対するなら宗教勢力とて容赦しない、というその冷徹な果断さは、信心深い当時の人々の常識から見れば「天魔てんまの所業」と呼ぶほかなく、天下の人心を震撼させた。

 南都北嶺ほくれいを服従させたといえば、さらに六十年ほど昔、「第六天だいろくてん魔王まおう」と恐れられた第六代将軍・足利義教よしのりの例があるが、政元は将軍ですらなく、管領であったに過ぎないのである。傀儡の将軍を立てて天下の権を握ったという点をも含めて、後の織田信長に驚くほどよく似ている。

 この細川政元という人は、周囲の人々の理解を超える言動や振舞いが多かったらしい。京に居ながらにして諸国の事情や大名たちの動静に精通し、ときには京から忽然こつぜんと姿を消し、わずかな供のみを連れて諸国を放浪したり、地方の大名の元をいきなり訪れたりして、人々を仰天させることさえあったという。政元のこの奇行は、幕府の政務を混乱させることもたびたびであり、細川家の重臣たちの中にも不満や不信感を抱く者が少なくなかったが、政元が細川京兆家けいちょうけの最盛期を築き上げたということも、一方では厳然とした事実であった。

 政元は男色家で、女人には一切手を触れず、子も成さなかったという。修験道や密教に凝り、霊験名高い司箭院 興仙に弟子入りし、自ら魔法を修したとも伝わる。それはそれとしても、周囲の人々が「第一の家臣」と呼ぶほど政元が興仙を寵遇ちょうぐうしたのは、ただ信仰上の理由、愛欲の上の理由というだけではなかったであろう。

 政元の不思議な強さとその奇行の種は、政元の帷幕いばくに加わり、その謀臣となった司箭院 興仙――宍戸家俊の存在と、彼が作り上げた諜報組織の優秀さに求められる。宍戸家俊は、修験者や芸能者といった卑賤の身分の者たちを束ねて広範な諜報網を築き、諸国の情報を吸い上げ、諜報、謀略、政戦略といった分野で、政元の強力なブレーンとなっていたのである。

 かつて文五郎は、その宍戸家俊の片腕を務めていたという過去がある。

 文五郎はもともと細川典厩家てんきゅうけの家来筋の下士の子で、細川家では賤臣せんしんに過ぎなかったのだが、その才質と器量を宍戸家俊に見出され、密命を与えられて旅一座の座長に化けた。主に近畿から中国地方の国々を旅しながら情報を集め、大名や豪族への密使となり、時にはさらに後ろ暗い仕事をもこなしていたのである。言うまでもないが、文五郎と旅を共にする一座の中にも、その事実を知っている者はわずかしかいない。

 細川政元が暗殺されたのが、永正四年(1507)――この物語の現在から十五年前である。近習であった竹田孫七という男が、湯殿ゆどので政元を斬殺した。

 その後の細川家は、政元の三人の養子がそれぞれに与党を募り、細川家の家督を巡って泥沼の内訌を始めた。理想も理念もビジョンも持たぬ者たちが、家督相続権を持つ若者をそれぞれに担ぎ、ただ利と権力とを求めて擾乱じょうらんを繰り返していたと極言しても、そう外れていないであろう。この細川家の内紛に、さきの将軍・足利義稙よしたね奉戴ほうたいした大内義興が割って入ったことで、将軍後継争いや幕府内の権力争いの色合いが加わり、諸国の大名たちもそれぞれの陣営に参入し始め、事態はさらに混迷を極めた。

 兄とも慕った細川政元を全身全霊をもってたすけることで、その先に天下静謐せいひつの夢を描いていた若き日の宍戸家俊は、陰謀を察知できなかったことと主人を守り切れなかったことを痛烈に悔いた。が、どれほど悔いたところで取り返しはつかない。復讐心も手伝って、政元が後継者と定めていた細川澄元すみもとを擁立する陣営に、家俊は迷わず身を投じた。敵対派に澄元の居館が襲撃され、京を遁れねばならなくなったときなぞ、命を張って澄元の脱出を手助けし、近江の甲賀郡へ避難させたりもした。

 しかし、澄元擁立派の重鎮である三好之長ゆきながをはじめ、細川家の貴臣きしんたちは、卑賤な上に胡乱うろんな修験者などは好まず、細川政元の奇行が修験狂いのせいであるという悪印象も手伝って、家俊をまともに遇しようとはしなかった。


「政元さまを色でたぶらかし、魔法狂いの奇行に走らせ、いまの御家の凶運を招いた、諸悪の根源である」


 と家俊を決めつけ、目のかたきにする者さえ少なくなかった。

 政元暗殺の実行犯である竹田孫七、それを画策した香西元長、薬師寺長忠らは、うち続く争乱のなかで次々と討ち死にした。復讐の対象さえ失ってしまった家俊は、いつ果てるとも知れぬ権力争いの馬鹿馬鹿しさに愛想を尽かせたこともあり、三年後には失意のうちに京を去った。家俊が政元のために作り上げた諜報組織も、資金源と指導者とを失ったことで、事実上消滅した。

 それでも、文五郎と細川家との個人的な繋がりは残った。

 文五郎には細川家に対する忠誠心といったものはほとんどない。むしろ宍戸家俊という個人に心服してその仕事をたすけているつもりであったから、頭目おかしらたる家俊が細川家から離れた時点で、ただの旅一座の座長になったとも言えるのだが、細川政元に仕えていた細川典厩家てんきゅうけのさる重臣が、政元の死後、現在の幕府管領・細川高国に仕えるようになり、文五郎をそのまま諜者として便利使いするようになった。

 管領・細川氏の密使などを務めていれば、諸国の大名の重臣や豪族たちとも裏の繋がりができ、その便宜を引き出しやすくなるという利点がある。これまで諸国に築き上げた人脈もそのまま利用することができる。文五郎は文五郎で、細川氏の権勢を利用し続けていたとも言えるであろう。

 無論、そういう文五郎の現状を、宍戸家俊はよく知っている。

 家俊は、細川政元という無二の主君をうしなってからは、天下の趨勢すうせいといったものに関してはほとんど興味を失っていた。その志向はもっぱら個人的なところに向かい、自ら編み出した司箭しせん流の技を、体系化して次代に継ぎ、後世に伝えるといった仕事に情熱を注ぐようになっている。旅で知り得た情報を兄の宍戸元源もとよしに伝え送っているのも、この男の感覚で言えば物のついでに過ぎない。


「――それにしても、いまの山口の賑わいは大変なものじゃな」


 用向きを終えた家俊は、雑談らしい気安い口調で言った。


「大内のお屋形が春に遣明船を出されるそうじゃが、そのせいか」


「そのようでございますな。商人あきんど衆はもちろん、町衆や日雇い人夫のたぐいまで銭回りが良いようで、ウチの小屋にも連日客がよう入ってくれまする」


「そなたまで嬉しい悲鳴か。結構なことじゃな」


 家俊は眼だけで笑った。


「じゃが、大内が遣明船を出すと知れば、細川の管領殿も愉快ではあるまい。噂では、大内のお屋形は『勘合の符』を独り占めして山口に持ち帰ったと聞いたが――。さすがの管領殿も、此度ばかりは泣き寝入りか?」


「まさか。明国への朝貢ちょうこうは十年に一度の好機でございますからな。黙っておるはずがありますまい。すでに堺あたりで、交易のための品々を調ととのえ始めておるやに聞いております」


「さもあろう。明国との交易の利権を博多衆に奪われたままでは、堺衆もたまらぬであろうからな。じゃが、『勘合の符』がなければ明国の朝廷との交易はできまい。そのあたりの事は、管領殿はどうなされるのか・・・・」


「さて、そこまでは私にも見通しはつきませぬが――。ないものは仕様がありませぬからな。あるいは、正徳せいとく年号(明の正徳帝時代の年号)の符ではなく、昔の符でも持って行って、力づくで横車を押し通すおつもりやもしれません」


 勘合貿易を行うことは長く室町幕府の特権であったが、その実務を執っていたのは管領である細川氏であり、家俊が細川政元の側近であった時代にも一度、政元が暗殺された二年後にも一度、遣明船が出ているので、家俊や文五郎はその内情やもたらされる利の巨大さをよく知っていた。


「大内と細川が、遠い明国の海で船戦さをするとなれば、これは面白いな。大内の船も細川の船も、守っておるのは同じ村上海賊衆の警護船であろう。三島さんとう村上の者たちは、果たしてどちらに華を持たせるか――。なかなか興深い見物じゃ」


「確かに――。ですが、そもそも外海そとうみを無事に往来し、帰って来られるという保証もないわけで・・・・。こればかりは風任せ、運任せでございますからな」


「違いない。いずれかの船が日の本に無事帰り着いたとして――」


 東シナ海に南東の季節風が吹くのは初夏から秋にかけての時期である。この時期を外すと、中国大陸から日本へ渡ることが一年先までできなくなる。秋は台風の季節でもあるから、可能な限り速やかに帰国の途につくべきなのだが、勘合貿易には様々な事務手続きが必要であり、明国の首都である北京ペキンまで使者を何度も往来させねばならない上、明朝政府の役人たちは常に鷹揚おうよう、悪く言えば怠慢で、敏速にその事務を片づけてはくれないから、どんなに早くとも二月や三月は寧波ニンポーの港で待たされることになろう。


「事の顛末てんまつが知れるのは、来年の秋といったところか・・・・。ふふ、その頃にでも、堺に行ってみるとするか」


 長屋を出た修験者は、弟子と共に夜の闇に溶けて消えた。



 冬が深まり、やがて大永三年(1523)が明けた。

 毛利家にとって――元綱や元就にとっても――この大永三年は重大な変化の年になるのだが――。

 この時期、両人にその自覚は一切なかったであろう。

 鶴寿丸かくじゅまるが五歳になったことを期に、元綱は我が子を郡山の満願寺に通わせることにした。寺で真名まな(漢字)を習わせ、同時に様々な耳学問をさせるためである。

 満願寺は毛利氏が安芸に入部する以前から郡山の中腹に建っていた真言宗の古刹で、郡山に本拠を置いた毛利氏とは代々深い縁を結んでいる。郡山城は郡山の南東尾根に築かれており、その本丸より満願寺の方がはるかに高い位置にある。城の搦め手(裏門)からでも登れるのだが、相合から行く場合、すが神社の脇から山道を登る方が距離的にはずっと近い。

 住職は栄秀えいしゅう法印という老人である。元綱や元就にとっても、初等教育を施してもらった学問の師ということになる。すでに七十を超えているであろう。行儀に厳しい「恐い爺さん」で、さすがの元綱もこの老人にだけは今でも頭があがらない。

 父である元綱の身分がさほど高くなく、親子が一緒に暮らしていることもあって、鶴寿丸には傅人めのと(養育係)と呼べる存在がいなかった。近侍の若者たちの息子のなかに六歳の子供が一人いたので、その子を鶴寿丸の傅人子めのとご代わりにし、共に学ばせることにした。

 相合の屋敷から郡山の中腹にある満願寺まで、平時なら子供の足でも一刻もあれば着く。が、冬場は雪が深いため、当然ながら余計に時間が掛かるし、それなりに危険でもある。


「せめて春になってからでもよろしいではありませんか」


 などとゆきは反対したが、


「一年の計は元旦にありと言うだろう。何事も、物事は最初が肝心なのだ。雪山といっても郡山は我らにとっては庭のようなものだ。雪があるから登れぬというのでは毛利の武士は務まらん」


 と元綱は厳しいところを見せた。

 山に登ることは足腰を鍛えることであり、冬山の怖さや危険さを知ることも学ぶということに他ならない。学習の場はなにも寺の境内にだけあるわけではなく、すべてが鶴寿丸の血肉になるのである。

 束脩そくしゅう(授業料)を持参した元綱が、我が子を初めて満願寺へ連れて行ったとき、鶴寿丸を見た栄秀和尚は、


「おぉおぉ、四朗さまの幼き頃に生き写しでございますな」


 と言って相好を崩した。


「鶴寿殿、そなたの父御ててごも幼き頃は鶴寿丸と申して、今のそなたと同じ年頃の頃に、この寺に参って学ぶようになりましたがな。父御は文事より武事をお好みでな。はじめの頃は、習字をさせてもじっと座っておることができず、同窓の子供と喧嘩をしたり、その辺りの森のなかを走り回ったり、そこの蓮池はすいけに飛び込んでみたりと――、それはそれは、弟子たちの手を煩わせることばかりしておりましたわ。その父御に比べれば、そなたはずっと行儀がよろしい」


 などと鶴寿丸を褒めて、元綱を汗顔させたりした。

 三日に一度ほどの頻度で、重蔵や近侍の若者たちが――時には元綱自身が――交代で子供たちを満願寺まで引率した。

 満願寺に通っているのは鶴寿丸ばかりではない。毛利家の当主である幸松丸を筆頭に、吉田に暮らす上級武士の子弟は、この寺で初等教育を受ける者が少なくないのである。顔ぶれは日ごとに違うし、年齢も身分もまちまちだが、常時二、三十人の子供が文机ふづくえを並べて学んでいた。

 鶴寿丸は朝食を終えると満願寺へ出掛けて行く。午前は栄秀の弟子について習字をし、昼食を挟んで午後からは栄秀自身が語る毛利家の歴史や先祖の人物についての話を聞くのである。法話で鍛えた栄秀の話術は巧みで、子供にとってもわかりやすい上に面白い。折りに触れて日本や唐土もろこしの故事なども軽妙な語り口で語ってくれる。ひつじの下刻(午後三時)には講話も終わり、子供たちは日が暮れる前に相合の屋敷に帰って来る。鶴寿丸は性質が明朗で、あまり人見知りをしないこともあり、新しい環境にもすぐに馴染んだようだった。

 この冬は降雪が多く、雪解けは例年よりやや遅かった。

 大永三年は三月が二度あり、閏三月に入る頃には郡山の山桜も散り落ちた。

 朝夕の寒さが去ると、当然のように戦火の騒がしさがやって来る。


「青屋友梅ゆうばいを討ち、祖父の無念を晴らす。多治比殿、是非とも毛利家のご助勢を願いたい」


 自ら郡山城に出向いてきた高橋興光おきみつが、元就に丁重に頭を下げたのである。




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