海の男(二)
夕闇に包まれた紀ノ屋の離れに灯明の火が灯った。
襖を取りはらって二部屋を繋げた二十畳ほどの空間で、二十人近い男女が談笑している。
上座には毛利家の主君である幸松丸が座り、向かってその左側に元綱が、右隣に傅人子の福原弥五郎が座を占めている。棚守の野坂房顕、重蔵や元綱の近侍たちが左右に居並び、もっとも下座には房顕の従者や幸松丸の影武者役を務めた子供の姿まである。それぞれの座の前には豪勢な膳が置かれ、男たちの間には紀ノ屋の女中や卑女などが侍り、愛想を振りまきながら男たちに酒を勧めていた。
「お楽しみのところ失礼をば致します」
廊下に面した襖が開き、紀ノ屋の主人が顔を見せ、頭を下げた。
「相合さまのご所望に、うってつけのお方をお連れしました。ご相伴させて頂いてもよろしゅうございましょうか」
「おぉ、紀ノ屋殿、手数をお掛けした。ぜひ入ってもらってくだされ」
元綱は笑顔で手招いた。
紀ノ屋は名を嘉兵衛という。生まれは瀬戸内の弓削島という島だそうで、若い頃は因島村上氏の船に乗っていたといい、当然ながら瀬戸内の海には詳しいのだが、外海を渡った経験はないらしく、異国のことについては伝聞以上のことは話せないと語っていた。元綱の希望を容れて、海外渡航の経験を持つ船乗りを探してくれたのであろう。
襖が大きく開き、嘉兵衛に続いて六尺を超す見事な体格の大男が部屋に入ってきた。
年は三十くらいであろう。ボサボサの蓬髪を後で無造作に束ね、鬢のあたりは毛がそそけ立っている。服装は浪人風だが、いかにも海の男といった精悍な顔つきで、皮革を煮しめたような肌の色をしている。
「新九郎殿ではないか――!」
野坂房顕の驚いたような声に、男は笑顔で会釈を返した。
二人は部屋の中ほどまで進んで腰を下ろした。
嘉兵衛は幸松丸に向けて一度平伏してから顔をあげたが、大男の方の礼にはそこまでの篤さはない。
「厳島の新九郎でござる」
潮錆びた声で名乗り、それでも丁重に頭を下げた。
――骨がありそうな男だな。
と元綱は人物を量った。雄偉な体躯のためか声量も豊かで、その威風だけで立派に物頭が務まりそうである。
「こちらの新九郎殿は、瀬戸内では知らぬ者とてない村上海賊衆にゆかりのあるご仁でございましてな。私とは、まだほんの子供の頃からの古馴染みでございますし、そちらの野坂房顕殿とは竹馬の友といったところで、決して素性の怪しい者ではございません」
と嘉兵衛が紹介した。
「この三年ほど、当家の荷船の船頭を務めて頂いたり、色々と商売の手伝いをして頂いたりしております。所用で出ておりましたが、折よくさきほど戻って参りましたので、こちらにご案内した次第で――」
「瀬戸内に威を張る村上海賊衆の噂は耳にしたことがある。源平の昔、『一ノ谷の合戦』で大いに働かれた村上二郎基国殿の後裔であろう」
元綱の言葉に、大男――新九郎は苦笑した。
「さて、先祖のことはようわかりません。清和源氏・頼信流ということになっておりますが、北畠親房公の孫の顕成公から始まるという者もおります。いずれ遠い昔のことでござるゆえ、ハキとはしませんな」
先祖という以上、村上氏と血縁関係があるらしい。しかし、この男は「村上新九郎」とは名乗らず、「厳島の新九郎」と名乗った。名字を名乗らないのは、武家ではなく庶民であると宣言したようなもので、そのあたりに何かしら事情があるのだろうが、他人の過去を穿鑿するような趣味は元綱にはないから、話の方向を元に戻した。
「いや、これは俺が悪かった。異国の話に新九郎殿の出自は関わりがなかったな」
元綱は、未だ名乗っていなかった無礼を詫び、主君である幸松丸と主立つ近侍を新九郎に紹介した。
「それで新九郎殿は、実際に異国へ渡ったことがおありか」
新九郎は人懐っこい笑みを浮かべてうなずいた。
「明国に三度、朝鮮には二度、琉球へも何度か渡りました」
「それはそれは――」
重蔵をはじめ、近侍の若者たちも目を見張った。
この時代、陸で暮らす武士からすれば、外海を渡って異国へゆくなどということはおよそ日常感覚になかったであろう。瀬戸内の港町や北九州地方に暮らす者ならともかく、安芸の山奥に根を張る毛利家の人間にとってみれば、実際に外海を渡った人間と口を利く機会さえまずない。
女たちが嘉兵衛と新九郎のために酒肴を乗せた膳を運んで来た。
新九郎が自分の方に来た女の尻を撫でたようで、女は小さく嬌声をあげ、苦笑しながら新九郎の手を軽く叩いた。新九郎は実に嬉しそうな顔で笑っている。
女と似たような苦笑を浮かべた嘉兵衛は、
「実は来春、大内のお屋形さまが遣明船を出されるという話がありましてな」
と言いながら酒器を取り上げ、手ずから新九郎に酌をした。
「我ら厳島の商人衆も、その尻馬に乗って明国へ船を出すつもりでおります。こちらの新九郎殿に、その貿易船の船大将になっていただくつもりでおりますので、四度目の明国ということになりますか」
「ほう、来春に、大内のお屋形さまが――。その話は初めて聞く」
元綱は興味津津という顔である。
「異国との交易というのは、俺には想像もつかぬが、ずいぶんと大きな富を生むそうですな。それはつまり、日本の物が明国では高く売れ、あちらから持ち帰った物がこちらでさらに高く売れる――と、そういうことですか?」
「はいはい。おっしゃる通りでございます」
嘉兵衛は温厚な笑みを見せた。
「本式の勘合貿易ならば、一のものが十になって返ってくると聞いております。我らは『勘合の符』を持ってはおりませんので、明国の役所を通した交易はできませんが、それでも元手が五倍にも六倍にもなるそうでございましてな」
「そういうものか・・・・」
明国の役所を通さぬ交易、などということになると、もう元綱にさえ事情がさっぱりわからない。
ここは少しばかり説明が必要であろう。
勘合貿易は、その実質はともかく、名目上は「朝貢貿易」であるという形式が取られている。
「中華」は世界の中心であり、中国大陸を制した王朝は常に周辺諸国の盟主である、というのが伝統的な中華思想である。中国人は中国の朝廷に帰順しない異民族には文化価値を認めないから、当然ながら他の王朝との対等な外交関係というものは成り立たない。異国が中国との接触を望むなら、中国の朝廷に帰順してその属国になるしかないのである。
中国の王朝に「臣下の礼」を取った周辺諸国は、朝廷に聘問して貢物を献上せねばならない。それに対して中国皇帝は、盟主として属国の使者に宝物を下賜する。この「貢献」に対して「賜物」を下げ与える、という形態が、朝貢貿易であると考えていい。
盟主国である中国側は、その面子もあって、わずかな貢献に対してもそれに数倍する価値の賜物を返礼せねばならない。しかも「貢物」や「賜物」の交換は商売とは看做されないから、関税のようなものも一切掛からない。臣下の立場を取る側は、労せずして莫大な利益を得ることができたのである。この貿易は当然ながら中国側に経済的な負担が大きく、その利に目をつけた周辺国から朝貢が殺到するようになったため、歴代の中国政府は「朝貢は何年に一度」といった形で頻度を限って承認し、異国の使者の入朝を制限せねばならぬほどであった。
ちなみにこの大永二年(1522)の中国は、明朝の十二代・嘉靖帝の御代で、「日本国王」――この場合、室町幕府の最有力者を指す――からの朝貢は十年に一度と限られている。大内義興の遣明船派遣が十二年間も行われなかったのは――様々な理由があるにせよ――そういった明国側の事情が大きかったであろう。
そもそも唐物は日本では古くから珍重され、高値で取引されるから、中国との交易は利幅が非常に大きいのだが、先に述べたような理由で、明朝政府を通じた正規の勘合貿易はうま味が桁違いであった。このときから百二十年ほど昔、南北朝の合一を果たした第三代将軍・足利義満が、土下座するような低姿勢で自分が「日本国王」であることを明朝政府に承認してもらい、貿易許可書というべき「勘合符」の発行を懇請したのも、裏にこういった事情がある。
ついでながら、中国沿岸部はかつて倭寇(前期倭寇)の跳梁に苦しめられたこともあって、明朝政府は百年以上も前から海禁政策を取っており、明国の海民や商人が異国人と接触することを禁じ、朝貢以外のいかなる貿易も認めず、違反者には厳罰をもって臨むという強硬姿勢を取っていた。ところが、明朝政府は十年ほど前から沿岸南部の広州を開港し、外国商船を受け入れ、商人の私貿易をも認めるようになった。交易で富を築こうという貿易商人にとっては素晴らしい時代であったが、この大永二年、明朝政府は再び全土で海禁令を発し、広州の港も対外的に閉鎖され、私貿易が禁止される状態になっている。この最新事情は、よほど明国の政情に通じた者でもまだ知らなかったに違いなく、厳島の商人あたりがそれを知らないのも当然であったかもしれない。
ともあれ、難しい話をして幸松丸を退屈させても意味がない。
「まぁ、交易のこともそうだが――」
元綱は主題を元に戻した。
「我らは海の向こうのことなどは、まったくの無知でしてな。どこにどのような国があり、どのような人が住み、どのように暮らしておるか、などといったことを、こちらの幸松殿にもわかるように、話してくださらんか」
「されば、少々ご無礼を――」
持参した絵図を取りだした新九郎は、立ちあがって上座の近くまで膝を進め、幸松丸の前にそれを広げて見せた。
「これは、朝鮮や明国で手に入れた地図を比べ合わせ、拙者が知る瀬戸内や北九州あたりの陸の様子を合わせて、描いてみたものでござる」
彩色は色褪せ、端などは擦り切れてボロボロになった地図である。ごく大ざっぱな筆で、本州の中国地方から四国、九州などの輪郭が描かれ、海は青の波線によって表現されている。海には島らしい丸がいくつもあり、陸地の部分にはそれぞれに国名が書き込まれている。現代の地図に比べれば縮尺は滅茶苦茶で、海岸線、国境線などの様子もまったくいい加減なものだが、それでも陸と海の関係をイメージしやすくはなるであろう。
海賊衆に限らず、武士にも商人にも庶民にも、異国の話を聞きたがる者は多いから、新九郎はこういう座談をすることには慣れている。
「安芸はここですな。この小さい点が厳島でござる。この隣が周防、その先が長門。こちらが九州の筑前でして、この隙間を関門の瀬戸(関門海峡)と申します」
「これが安芸? こんな小さいのか・・・・」
幸松丸が思わず漏らした感想は、元綱の気持ちと何ら変わらない。
――空高くから日の本を眺めおろせば、安芸はこのように見えるものか。
と思えば、何やら不思議な感じがした。
新九郎は広げた絵図に指を置きながら説明を続ける。
「関門の瀬戸を抜け、九州を陸伝いに進みますと、このあたりが大きく陸に入りこんだ入り江になっており、ここに古来より大宰府が置かれてござる。博多の津もここにござる。このあたりの海を玄界灘と申して、この先に浮かんでおる丸い島が壱岐でござるな。さらに先にあるこの長細い島が対馬、そのすぐ先にあるこれが、朝鮮でござる」
地図の上端から海に向かって突き出すように馬の足に似た形の線が引かれており、地名と思われる漢字が書き込まれていた。
「塩浦、富山浦?」
地図を覗きこんだ幸松丸が字をそのまま読んだ。
「それは塩浦、富山浦と訓みます。朝鮮で交易ができる湊の名と思し召せ。朝鮮人も我らと同じように漢字を使いますが、訓み方は大和言葉とは違いましてな」
新九郎が微笑しながら注意した。
「こちらの小さな島々が琉球。こちらの大きな陸地が明国でござる」
絵図の左端には中国大陸を表す線が引かれ、台湾の手前あたりで紙が尽きる。
「明国は途方もなき大きさにて、西へは果てしなく陸が続き、さらに多くの国があると聞きました。異国人にも色々と違いがありましてな。朝鮮や明国の者は我らと姿があまり変わりませんが、たとえば明国で見た色目人は、目が青く、肌が白く、赤みがかった髪をしておりました。肌の色が墨を塗ったように黒い者もおりましたな」
色目人というのは、トルコ系、イラン系の人種を指す。
外見からして倭人とまったく違う人種がいる、と聞かされても、想像のしようがなく、どうにも実感がわかない。
幸松丸は絵図を指差した。
「その大きな海を船にて渡り、明国までゆくには、どれほど時が掛かるのだ?」
その質問で、新九郎の表情が真面目なものに変わった。
「どのような風が吹くか、それ次第でござるな。この辺りの海では、季節によって吹く風の向きが決まっておるのです。たとえば――、梅雨ごろから秋までの間は、この辺りでは必ず南東風が吹きます」
指でその風の向きを示しながら続ける。
「この風が毎日、弱すぎず強すぎず吹き続けたとすれば、半月ほどで陸を見ることができましょう」
「半月も海の上におらねばならぬのか・・・・」
幸松丸が気弱げに呟くと、新九郎はやや意地悪な笑みを見せた。
「じゃが、風とは難儀なものでしてな。弱すぎれば船は思うように進めず、また風が強すぎれば海が荒れ、船は帆を張れぬゆえ、潮の流れに流されるままになる。ひとたび大風となれば、海は猛獣のように暴れ、波は山のような高さとなり、どのような大船でもひっくり返り、船より振り落とされた者はすべて溺れ死にまする。また、たとえば大風で帆柱が折れ、大波で舵が壊れようものなら、船は桶同然となり、大海の上をふわふわと彷徨った挙句、運良く陸に流れ着くことができねば、やがて糧食も水も尽き、すべての船乗りが飢え死ぬことになる」
「・・・・・」
少年の想像力を超えた話であろう。幸松丸は息をするのも忘れたような表情で聞き入っている。
「それとは逆に、ちょうど今ごろの時期から来年の春が終わる頃までの間は、必ず北西風が吹きます。これは明国から日の本へ帰って来るに良い風ですが、秋は台風が多く、また冬の間は、風が凄まじく吹き荒れ、海が荒れますゆえ、海を渡るには適しません。明国から日の本へと帰ってくるには初春がもっとも良く、夏の間は渡れぬこともないですが、それ以外の時期は命懸けということになります」
大きくひとつため息をついた幸松丸に、新九郎は再び笑顔を向けた。
「明国の南も陸が延々と続いております。わしが行ったのは、勘合貿易のための港であるこの寧波と、絵図では切れておりますが、ここからさらに陸伝いに南方にいったところにある広州、その近くの海にある台湾という大きな島の辺りまででござるが――。聞いた話では、南海には安南、暹羅、ビルマ、呂宋、マラッカといった国々があり、他にも小さな島国が数え切れぬほどあるということでござる。さらに陸伝いに西にゆきますと、ついには天竺(インド)へと到ります」
「天竺か・・・・」
元綱は思わず呟いた。仏教説話のなかにしかなかった仏国土が、自分たちが生きるこの世界に確かに存在する、という証拠をつきつけられたような想いである。
「新九郎殿は朝鮮や明国の言葉を話せるのか?」
元綱の問いに新九郎は首を振った。
「ごく簡単な言葉は耳で覚えましたが、難しい言葉はわかりませんし、話せもしません」
「では、異国ではどのようにその国の者と談合をするのか」
「筑前や肥前の海辺に暮らす者や、五島、壱岐などの海賊衆のなかには、偽倭が多くおりましてな」
「ぎわ?」
「倭人のように月代を剃り、髷をつけ、倭人と同じ着物を着て、日の本に暮らしておる明国人や朝鮮人のことでござる。それらは大和言葉を解するゆえ、通詞として雇い入れ、連れてゆくのです」
「なるほど・・・・」
問われるがままに続く新九郎の話は一刻を経ても果てない。
やがて眠気を催した子供たちが隣室に消えると、そこからは大人たちだけのさらに砕けた酒宴となった。
元綱の身体は酔いに染まりつつあるが、意識は充分に醒めており、
――世の中にはこういう男もいるのか。
と密かに瞠目していた。
安芸の山奥に生まれ、伝統ある地頭の家に育った元綱にとってみれば、武士だか船乗りだか商人だか判然としないこの新九郎のような男は、これまでまったく出会ったことがない人種であり、嗅いだ事のない薫りを持っていた。
空と雲と水平線しか存在しないような、果てもなく続く大海原に浮かぶ一艘の船を想像してみればよい。その船に乗った人間は、大自然のちょっとした気まぐれによって避けようのない理不尽な死を強制されるのである。あわれなほどの人為の無力さ、その限界を実感した者が抱くある種の刹那主義と、その海に生きる己の無限の可能性を信じて疑わない楽天主義が、この新九郎という男の陽気で闊達な個性のなかで、どっしりと同居している。陸の武士とは覚悟の置き処が違うが、よほど肚の据わった男だということは、ありありとわかった。
今回の厳島参詣は、幸松丸の「世界」を広げるための旅であったはずである。ところが、ごく狭い世界で暮らしているという意味では、いい大人である自分が、わずか八歳の甥子と少しも変わらない、と元綱は認めざるを得ない。毛利の領国からほとんど出ることもない元綱の行動範囲と比べれば、新九郎が生きる世界は千倍も万倍も広いであろう。
その広大な世界を、この海の男は、己の器量ひとつで自由気ままに生きている。
――羨ましい生き様よ。
妬心と敗北感が混じったような気分がないでもない。が、それ以上に、なにやら無性に愉しくなった。
男たちは心ゆくまで語り、用意された酒が尽きるまで飲んだ。
酒座が果て、新九郎らが母屋へ引きあげた後、元綱は中庭に出て、胸いっぱいに冷えた夜気を吸い込んだ。
と、その背後に重蔵が寄ってきた。
「実に面白き酒肴でございましたな」
重蔵は酒以外のものにも酔ったという顔つきである。
元綱は振り向かず、満天の星空を仰いだ。いつの間にか雨はあがっており、弓のような月から降る蒼い光がやわらかく顔を照らした。
「異国のことなどこれまで考えたこともなかったが――、京から安芸へ来るより、安芸から朝鮮へゆく方が、むしろ近いのかもしれんな」
「あの絵図を見た限りでは、どうもそのようです。もっとも、朝鮮へ歩いて渡るわけには参りませんが」
「この世というのは――」
詠嘆するような声で元綱は言った。
「どうやら俺が思っていたよりはるかに広く、大きいものらしい」
「まことに・・・・」
興奮を肚の底に沈めるように、重蔵は深くうなずいた。
翌日は朝から晴天であった。
紀ノ屋が用意してくれた二艘の小舟に分乗し、元綱たちは広島湾へと漕ぎ出た。
風はほとんどなく、海は静かなものである。ゆらゆらとゆれる海面が陽光を乱反射して目に眩しい。紅葉に染まりつつある瀬戸内の島々が朝日を受けて輝く様は、見惚れてしまうほど美しかった。船べりに座った幸松丸は、手で掬った海水をわずかに舐めてみて、その塩辛さに仰天していた。
ちなみに毛利家の一行は、幸松丸と福原弥五郎の子供二人と、元綱や重蔵など大人が八人である。一行の人数を十人に見せるために、影武者役の子供と郎党の一人はあえて紀ノ屋に残してある。無論、幸松丸を特定されないために、子供二人は同じ服装をつけ、編み笠をかぶっている。刺客に対する用心は怠っていない。
舟が厳島の北端を廻り込むと、大小の船が数十隻も停泊しているのが視界に入った。その多くが荷船のようだが、姿が違う軍船らしき船も浮かんでいる。大内家の家紋である「大内菱」や、よく知らぬ紋様の旗を立てている船もわずかにあるが、ほとんどの船には「村上海賊衆」を表す「○に上」の旗が立っていた。
「弥五郎、あれを見よ!」
幸松丸が歓声をあげた。
入り江の奥の海面に朱塗りの大鳥居が鎮座している。その奥の浜辺には、壮麗な社殿が海に浮かんでいるような姿で建っていた。
厳島神社の社殿は竜宮城をモチーフにして造られたのだという。寝殿造りの建物の屋根はすべて桧皮葺きで、柱や垂木はすべて朱塗りである。背景は青く澄んだ空と緑の山、さらに朱塗りの五重塔がそびえている。周囲の自然と調和しながら、格調高く均整の取れたこの建築美は、平清盛という傑人の美意識を表現したものであろう。圧倒されるような想いで、一同はしばし息を呑んだ。
海上からその景観を楽しんだ後、小舟で賑わう湊の桟橋から島に上陸した。
「あぁ、忘れるところだった」
と独りごちた元綱は、前を歩く野坂房顕に言った。
「神域に生えておる青竹を一本、お譲り願いたいのですが、お許し頂けようか。それで軍旗を作るので、必ず頂戴してくるよう、兄にきつく言われておるのですが――」
「お安い御用です。太くて立派な竹を用意させましょう」
房顕は笑顔で応じた。
厳島神社の神主職を巡って、神主家に仕える神領衆は東西に分かれて長く争っていたが、彼らも担ぐべき神体や社殿を焼くわけにはいかないから、その兵火は厳島までは及ばない。神社へと続く通りは門前町となっており、蔵を備えた古い屋敷が並び、様々な店舗が軒を連ねている。大路から枝分かれする小路にまで、多くの参拝客や庶人や船乗りや商人がごったがえしていた。
房顕の案内で棚守の屋敷へと導かれた一行は、しばし休息した後、神社の境内へと向かった。
厳島伽藍の殿舎は、平清盛がそれを創建した当時、本宮が三十七棟、外宮が十九棟あったという。本社本殿、客社祓殿、五重塔、多宝塔、能舞台など、様々な建物がある。
冠をつけ、純白の指貫に着替えた房顕と棚守の神職たちが、朱に塗り込められたような回廊を先導して一行を客社祓殿に導いた。
幸松丸を先頭に、一行は神前に額づいた。
元綱は寄進の目録を奉納した。
房顕が大麻を振り、祝詞を唱え、幸松丸の武運長久と毛利家の繁栄を祈念してくれた。
お神酒を頂き、さらに境内を見物した一行は、続いて大願寺と大聖院に参拝した。
大願寺は比較的新しい真言宗の寺で、厳島神社に隣接するように建っている。木造の薬師如来像、鍍金が美しい釈迦如来坐像、弘法大師の作といわれる秘仏厳島弁財天などを拝見した。
一方、大聖院は弘法大師が創建したという古刹で、真言宗御室派の大本山であり、厳島神社の別当寺にして厳島の総本坊でもある。本堂である大聖院は厳島神社から四半時ほど歩いた山麓にあるが、背後にそびえる弥山の山頂から山腹に多くの堂や坊があり、十一面観世音菩薩像をはじめ、各種の観音菩薩、不動明王、三鬼大権現といった様々な仏が祀られている。これらをすべて拝観しようと思えば一日掛かりになるから、弥山の登山までは考えていない。昼食を挟みながら、中腹の摩尼殿、大師堂、観音堂、勅願堂などを巡るうちに、日が傾いてきた。
「明日は早朝に発たねばなりません。暗くなる前に廿日市へ戻りましょう」
元綱の言葉に、幸松丸は素直にうなずいた。
紀ノ屋の厳島の屋敷に出向き、帰りの舟を出してもらうことにした。
房顕の案内で棚守の屋敷に立ち寄ると、頼んでおいた青竹と共に、幸松丸と福原弥五郎のために守り袋を贈ってくれた。それらを有難く受け取り、一行は桟橋から舟に乗った。
「厳島はいかがでござった」
元綱が尋ねると、
「この島にはいたるところに神様と仏様がおられました。本当に、神仏が住まわれる島ですね」
幸松丸は満面の笑みで答えた。
子供たちは様々な想念が錯綜しているのか興奮気味で、舟の上でも終始しゃべり続けていた。
舟が廿日市の桟橋に着いた頃、陽が西の空に沈んだ。
紀ノ屋に帰った元綱たちは、この夜、再び新九郎と夕餉を共にして歓談し、嘉兵衛には世話になったことに対する謝辞を呈した。
「毛利さまは出雲のお屋形さまに臣下の礼を取られたと聞いております。西条の鏡山城を再び奪還するために、来年も尼子の軍勢が安芸にやって来ましょうか」
嘉兵衛の質問に元綱はうなずいた。
「確かなところはわかりませんが、俺の予測ということで申せば、必ず来ます」
「すると再び、大内のお屋形さまも軍勢を催し、武田のお屋形さまと争うことになる」
「武田が大内のお屋形さまに従わぬ限りは、そうなるでしょう」
「この廿日市が戦場にならねば良いのですが・・・・」
実際、商人にとっては難しい時勢であろう。厳島神主家の選択や向背によって、廿日市は戦火に巻き込まれる可能性が多分にあり、この地に店を構える商家は、とばっちりで財産を失わぬとも限らないのである。
「毛利さまの吉田は出雲に近うございますな。出雲のお屋形さまが出陣すると聞こえたら、報せて頂くわけには参りませぬか」
「噂は風の速さで伝わるものらしいので、尼子軍の出陣の噂を俺が聞いた頃には、すでに紀ノ屋殿の耳にも入っておるやもしれませんが――、それでも良ければお報せしましょう」
「ありがたい。よろしくお願い致します」
嘉兵衛は丁重に頭を下げた。
翌日、一行は早暁に紀ノ屋を辞した。
房顕は廿日市の木戸を出るところまで見送ってくれた。
肌寒い朝の海風を浴びながら海辺の道を歩いた一行は、五日市、井口を経て草津から舟に乗った。
太田川は可部のあたりまでは急流はなく、水量豊かにゆったりと流れているため、川舟でも充分に遡行することができる。
一行は日の高いうちに可部の川湊に到り、可部街道を北東へ進み始めた。
可部の城下町を過ぎると、毛利領まで二里ほどの道のりである。往路はほとんど下りであったが、復路は当然ながら上りの道になる。
秋色に色づいた山間の道を一刻も歩くと、人通りはほとんど絶え、森閑とした山道に入った。
その時である。
左右の疎林から十人ほどの男が湧き出して、一行の進路をふさいだ。
――出たか。
先頭を歩いていた重蔵は足を止め、編み笠のなかから男たちを睨みつけた。
中央の奥に控える首領格の男は兵法の使い手であろう。剣気の格がひとりだけ違っている。その左右の四人ほども剣術の心得があると見た。その五人は浪人風の身なりで、深編み笠をかぶっており、面貌は口元しか見えない。
が、それ以外の男たちは、服装も獲物もまちまちである。槍や薙刀を握っている者もあれば鉄棒を肩にかついでいる者もあり、山賊にしか見えないような粗末な身なりの者も混じっていて、人品が明らかに下がる。銭で集めた無頼漢といったところであろう。
背後からさらに数人の男が駆けてきて、一行を前後から包囲した。
――合わせて十と八人か。
そう目で数え、弓矢を持つ者がいないことに重蔵は内心で安堵した。
「我らは毛利家の者である。人違いをするな!」
井上又二郎が大声で怒鳴った。
「毛利幸松丸の一行であろう」
編み笠の一人が若い声を発した。
「我らは旧主の仇を討たんとする者じゃ。これは狼藉ではなく、仇討ちの義挙と心得い」
「仇討ちか・・・・」
重蔵は内心で呟いた。
毛利家が関わった合戦で、敵の大将を討ち取るということがあったのは、二月ほど前の壬生城合戦で死んだ山県信春が記憶に新しい。さらに遡れば五年前の「有田合戦」であろう。中井手と有田城の郊外で行われた合戦と、翌日の有田城で行われた戦いで、武田元繁、熊谷元直、己斐宗端、香川元景といった有力武将が討ち死にした。この者たちは、それらの家中にいたのであろうか。
「子供と思えば不憫ではあるが、黄泉路で寂しゅうないように、ついでに多治比元就の舎弟の首も頂いて、旧主の墓前に並べてやろう」
「芝居(戦場)で討ち死にするは武士のならいではないか。それをいちいち仇討ちなどとは、片腹痛い!」
わめいた井上又二郎を手で制し、重蔵は前へ出た。
「ここにおる二人の幼童は、幸松丸さまの影武者とその傅人子だ。気の毒だが、幸松丸さまも相合の元綱さまも、この場にはおられぬ」
「なに・・・・!?」
「我らを皆殺しにしたとして、それでお前たちの旧主の無念は晴れるのか?」
男は明らかに動揺したようで、判断を仰ぐように首領格の男へ顔を向けた。
重蔵は何も虚言を弄したわけではない。事実、この一行には、元綱も幸松丸もいないのである。
元綱の機智であった。
元綱は、実際のところ幸松丸に凶刃が迫るとは十に一つも思っていなかった。
が、それでも絶対に間違いがあってはならぬことであり、念には念を入れた。
幸松丸を殺そうとする賊があるとすれば、その実行部隊の者たちは、この一行を必ず監視していたであろう。元綱が往路に幸松丸の影武者を立てたことさえすでに看破されているかもしれない。本隊と幸松丸が別行動することを逆手に取られ、帰路に本物の幸松丸の方を襲撃されるようなことになれば、目も当てられない。
「同じ手は二度は使わぬものだ」
と笑った元綱は、昨夜のうちに新たな策を施したのである。
廿日市から吉田への帰路を考えるとき、太田川をさかのぼって可部を経由し、可部街道を使って直線的に吉田に戻る経路を本道とすれば、太田川へ合流する三篠川へと折れ、三篠川沿いの街道をとって井原市から毛利領の向原へと到る迂路がある。
陸路をゆく者が見つからずに舟を尾行することはまず不可能である。太田川の河口から可部まで――舟に乗っている間はおそらく安全であろう。人の耳目が多い場所も襲撃にはそぐわない。賊が出るとすれば、可部から毛利領までの山間部であると想定した元綱は、可部の手前で舟を降りて迂路を取り、井原氏の協力を得た上で、幸松丸を毛利領へ運ぶことを考えた。
――小四朗殿であれば、間違いはあるまい。
あの男気ある義弟であれば、元綱と共に毛利の幼君が井原領に入ると知れば、一族を挙げて帰路を護衛してくれるであろう。
元綱は、昨夜のうちに、一行を密かに警護している桂元忠に連絡を取り、使者を井原荘へと走らせ、義弟の井原元師へ手紙を届けさせた。その上で、三篠川が太田川に合流する手前で、幸松丸と共に舟を降り、桂元忠が率いる二十人ほどの家士に守られつつ、三篠川に沿って井原荘へと向かったのである。今ごろはすでに井原氏の兵に護衛されて向原に向かっているか、あるいは井原の鍋谷城に立ち寄って、井原氏の歓待を受けているであろう。
いずれにしても、幸松丸がこの一行にいない以上、賊は目的を遂げることができない。
「無益なことはせぬものだ。お前たち、どうせ後ろの男に銭で雇われただけであろう。銭より命が大事と思う者は、逃げよ」
無頼漢たちに向けて重蔵は強く言った。
「問答無用!」
叫んだ首領格の男が刀を抜き、周囲の男たちがそれにならって一斉に武器を構え、じりじりと距離を詰めてきた。
二人の子供を除けば、重蔵らは八人である。賊側はその倍以上の人数があり、たいした実力もない無頼漢たちまで気が大きくなっているのであろう。
「阿呆め・・・・。退かぬなら、手加減はせんぞ」
顎紐を解いた重蔵は、ぬいだ編み笠を敵に向けて飛ばすと同時に、前列にいた男たちの間合いに飛び込んだ。鞘走ったその刀が二度煌めき、二人の男の武器と手首と指がばらばらと地に落ちる。絶叫する男を蹴倒し、もう一人を薙ぎ倒した頃には、近侍の若者たちも一斉に抜刀していた。
「ぬかるな!」
井上又二郎が叫び、六人の男たちが気合いで応えた。
襲撃されることを想定した配置と役割はあらかじめ定めてある。前に二人、後ろに二人が出て隊列を守り、一人は半弓を取りだして素早く矢をつがえ、残る二人は福原弥五郎と影武者の子供を庇う形で刀を構え、四方を睥睨した。
打ちかかってくる敵を、四人の近侍たちが楽々と撃退し、半弓を持った男が矢継ぎ早に矢を放ってそれを援護した。
もともと元綱の近侍たちは、喧嘩をすれば元綱以外には負けたことがないというような暴れ者ばかりだが、さらに重蔵が手ずから剣術を叩き込んでいる。この場にいるのはそのなかでも選りすぐりの精鋭で、その精強さ、強悍さは、毛利家中でも屈指と言っていい。飛び道具なしでこの七人を皆殺しにしようとすれば、完全武装した兵が二十人は必要であろう。無頼漢や山賊まがいの連中を相手に引けを取るはずがない。
それがわかっているからこそ、重蔵は後顧の憂いなく存分に暴れることができる。
手加減を一切考えず、周囲を顧慮することもなく、ただ敵を斬るという目的に専心したときの重蔵の疾さは、木刀をもって弟子を教導しているときとは次元が違う。一太刀ごとに血が飛び、一呼吸する間にさらに三人の男が地に斃れた。
この剣客の凄みにようやく気付いたのか、賊側は明らかに怯んだ。
いや、驚いたという意味では、味方である近侍たちにしても変わらない。稽古をつけてもらう過程で、重蔵の頸さは百も承知しているつもりであったが、
――本気になった重蔵殿は、これほどのものか・・・・!
と、近侍たちは内心で驚嘆し、同時に勇躍した。
首領の男さえ討てば敵は散ると重蔵は思っている。雑魚を蹴散らして踏み込むと、最奥の男にまっすぐに剣を向けた。
「汝は、羽田重蔵・・・・!」
首領の男が深編み笠の奥から声を発した。
重蔵は男を睨みつけた。顔が見えなくともわかる。その声、背格好、何よりその醸す雰囲気に、憶えがある。
「神埼弾正か・・・・」
「まさかこのようなところで出会おうとはな」
奇縁というしかない。五年前、熊谷元直が開いた御前試合で重蔵と戦った、あの兵法者ではないか――。
「お前たちの手に負える男ではない。手出しをすな」
神埼は左右の四人に厳しく言い、ずいと前に進み出た。
「断っておくが、我らはすでに熊谷家の家士ではない。昔の主家に迷惑を掛けたくはないゆえ、このことは明言しておく。――が、武士として、旧主に対する報恩と報復は果たさねばらぬ」
「民部少輔さまの仇討ちか・・・・」
中井手の合戦で討ち死にした熊谷元直――。
神埼弾正は、武士になるために剣を修め、武士になるために苦労を重ね、熊谷元直に見出されて召抱えてもらい、ようやく夢を叶えることができた。主君に対する想いとこだわりは、初めから武門の家に生まれた者よりはるかに強いであろう。幸松丸がわずかな供を従えただけで熊谷領に入るということを知り、これが千載一遇の機だと思い定め、仇討ちを思い立ったのかもしれない。
「おのれは毛利家に仕えておったか」
「相合の元綱さまにお仕えしておるが、毛利家の禄を食んでおるわけではない」
「おのれの言動と振る舞い、この一行の長のように見える。この場に元綱がおらぬというのは、本当らしいな。ならば幸松丸もおらぬということになる」
「幸松丸さまも元綱さまも、すでにお前たちが手出しの出来ぬところへ去ったわ」
「わしは裏を掻かれたというわけか・・・・」
神埼は自嘲気味に笑った。
「わしの真の仇は多治比の元就じゃ。その類縁ならともかく、それ以外の首に用はない」
毛利本家の血を引く男なら殺し甲斐もあるが、元綱の家来ごときを殺したところで怨みは晴れぬ、ということであろう。
神崎が首の動きで合図すると、
「退けい!」
編み笠の一人が大音声で叫び、それを聞いた手下の男たちが四方に向けて脱兎のごとく走り出した。
無論、動けぬ者と死体は置き去りである。近侍たちは子供を守って戦っていることもあり、逃げる敵を追うような状況でもない。
じりじりと後ろへ下がった神崎とその門弟たちは、充分な距離をとったと見るや、右手の山林へと走り去った。
それを見送った重蔵は、ひとつ重いため息をつくと、べっとりと血脂が付いた愛刀を懐紙でぬぐい、静かに鞘に納めた。