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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
43/62

幸松丸(二)

 薄曇りの空を切り裂くようにはしる孤影が見えた。

 大きく翼を広げたその影は、どこかくすんだ山並の上をすべるように飛び、二度、三度と美しい弧を描いて旋回した。

 幸松丸は足を止め、白い天を見上げた。

 ――あれは何という鳥であろう。

 傍らに立つ男にそれを問うてみた。

 顎をあげた男はしばらく空を眺め、


「隼か――。いや、もっと大きゅうござるな。鷹か鷲か、いずれかでござろう」


 と曖昧なことを言った。

 この少年は、隼も鷹も鷲も、間近で見たことがない。


「隼というのは鷹や鷲より小さいのだな。では、鷹と鷲とではどこが違うのか」


「あらためてそう問われると答えにくうござるな・・・・」


 男――重蔵は、苦笑しつつ首をひねった。


「似た鳥でござるが、小さなものが鷹、より大きなものが鷲、でありましょうか。鷹野、鷹狩というのはありますが、鷲野、鷲狩とは言いませんから、あるいは、人が飼いならせるものを鷹、人に懐かぬものを鷲、という風に分けておるのやもしれません」


「ふむ・・・・」


 少年は前方に視線を戻した。

 山襞が迫る谷状の街道は左右にぽつりぽつりと百姓家が建ち、わずかに畑が拓かれている。三町ほど先に元綱らの一行の後尾が小さく見え、さらに行商人風の男、柴を山のように背負った百姓夫婦が歩いている。

 少年が再び足を動かし始めると、右手に握った杖の先で遊環ゆかんがリズムを刻んだ。


「鳥にも、人に懐く鳥と懐かぬ鳥があるのか」


「ございます。多くの鳥は、餌を与えて飼うておれば自然と慣れてゆくものですが、たとえばすずめなどは、しょうが恩知らずなのか、どれほど餌をやってもちぃとも懐きませぬな。まぁ、同じ種類の鳥でも、懐きやすいものとなかなか懐かぬものがあります。そのあたりは人と同じであるやもしれません」


「重蔵は鳥に詳しいのだな」


「いえ、特に詳しいというわけではありませんが――」


「これまで私に鳥のことを教えてくれた者なぞ一人もおらぬ。皆、知らぬからであろう。皆が知らぬことを知っておるのだから、そなたは詳しいのだ。違うか」


 幸松丸の論理には子供なりの明晰さと曖昧を嫌う厳しさがある。

 適当な答えを返せばこの少年を失望させそうだと感じた重蔵は、やや気構えをあらためた。


「拙者は、京の西の愛宕あたご山という山の近くに生まれました。生家は貧しく、山の恵みに援けられて育ったようなものゆえ、山稼ぎで暮らす者たちにも少しは知り合いがあるのです。それらのなかに、鳥を獲ることを活計たづきとしている者がおりました。鳥に詳しかったのはその者で、拙者はその者から少々教わったに過ぎません」


「ふむ。もっともっと詳しい者がおるというのだな。では、その者のことを聞かせよ」


「名を与助よすけと申しまして、歳は四十がらみで、三十年も鳥を獲って暮らしておると申しておりました。与助は飛んでおる鳥を弓矢で射落とすことはできませなんだが、木々の間にあみで罠を仕掛けたり、鳥の巣を探してそこからひなを盗ったりして、鳩やきじ、山鳥やかりがねなど、食える鳥なら何でも獲っておりましたな。ごく稀にですが、鷹や隼なども得られることがあり、そればかりは食わずに売っておりました」


「鷹を売るのは鷹匠たかじょうではないのか」


「鷹匠も鷹を売りましょうが、鷹匠の仕事は、売ることよりも、鷹が人に懐くようにしつけ、狩りができるように仕込むところにあるのです。これは根気の要る仕事でして、立派な鷹に育てるまでには長い年月が掛かります。ゆえに、欲しがる者に売ってしまう方が手っとり早いわけです。鷹狩は銭の掛かるものですから、それを好む者は、必ず高位の公家か、武士でもよほど大身の者です。鷹や隼の子供を持ってゆけば、喜んで多くの銭を出すのだそうで――」


「面白い。そのような商売があるのだな」


 少年の眼が好奇に輝いている。


「山には、百姓のように田や畑で作物を作るということをせず、山の恵みだけで暮らしておる者たちが大勢おります。木地師きじしや炭焼き、漆掻うるしかき、四ツ足の獣を巧みに獲る猟師もおりますし、山菜や薬草に詳しい者のなかには、松茸を探す名人や、山芋じねんじょ掘りの達人などもおりますぞ。この辺りの山々にも、そのような者たちが必ず暮らしておりましょう」


「ふーむ、そういうものか」


 幸松丸は感心したように大きく息を吐いた。

 自分が考えたこともないような方法で暮らしている人間が、この世にはたくさんいるらしい。世知をはぐくむ機会の少ないこの少年にとって、このことは新鮮な驚きであった。

 幸松丸が日常的に接する人間といえば、家僕や母に仕える侍女などを別にすれば、そのほとんどが武士であり、いずれも自分にかしずく家来たちである。わずかな例外を挙げるとすれば、学問の師である満願寺の住職とその弟子たち、興禅寺の医僧や吉田の薬師くすしすが神社の神主、たまに屋敷にやって来る町年寄りや大百姓といったところであろう。それ以外の種類の人間とは口を利いたこともなく、せいぜい「この世には様々な物を売る商人と、様々な物を作る職人がいる」という程度の知識があったに過ぎない。それだけに重蔵の話は面白く、心の視界が開けてゆくような快感があった。

 ――思えば、この重蔵のような者ともこれまで接したことがない。

 家来の家来――つまり陪臣ばいしんと直に話をしたのも、この日が初めてだったかもしれない。ましてこの重蔵という男は、自分の周囲にいる「普通の武士」――代々毛利家に仕えている者たち――と比べると、かなり毛色が違っている。

 叔父である元綱の言葉を信じるなら、重蔵は「刀術の達人」であるという。しかし幸松丸は、重蔵から鋭気や怖さや不気味さといったものを少しも感じない。重蔵が発している雰囲気はむしろ平凡で、その人柄の良さ、話ぶりの誠実さといったものは、子供の感受性に素直にかよってくるところがある。重蔵より乱暴な男や強そうな男なら毛利家中にいくらでもいるのだが、しかしこの善良そうな重蔵が、ひとたび刀を抜けば、それらの男をたちどころに斬り殺すことができるというところに、刀術、剣術といった技術の玄妙さがあると言えるであろう。

 考えてみれば、血に飢えた獣のような猛気を常に発している男がいるとすれば、それはただの狂人である。

 ――平素は平凡で、その平凡が一瞬で非凡に変わる。

 だからこそ達人なのだろう、と少年は考えた。

 文事にかたよった教育を受けてきたとはいえ、幸松丸とて武士として生まれた男であることに違いはなく、武勇に憧れる年頃でもある。傍らを歩く重蔵という男に、少年は強い興味を持った。


「重蔵は京の都の近くで育ったと申したな。京は、この安芸からずいぶんと遠くにあるのであろう。であるのに、そなたはここに居り、相合あいおうの叔父上の家来である。なぜか」


「話せば長いような、短いような――」


 重蔵は困ったように笑った。


「長くともよい。聞かせよ」


 少年は機嫌の良さそうな口調で言った。歩き続けて温まった身体に、初冬の風が心地良い。

 重蔵は自分の半生と安芸にやって来た経緯などをつらつらと語った。初めて耳にする単語や事柄が多かったはずだが、それでも幸松丸は時おり的確な質問をし、理解力の良さを示した。

 ――幸松丸さまとはこういうお子か。

 世俗から隔離するようにして過保護に育てられた虚弱な若殿――というイメージだけを重蔵は持っていたのだが、しかし、こうして直に接してみて、ただひ弱なだけの子供ではないということに気付いた。

 幸松丸の眼には強い理知の光があり、その挙措や言動には自然じねんの威のようなものさえほの見える。加えてその声が良い。声変わり前であるから音はやや甲高いが、聞く者に快活さが沁みて来るような明るい響きがある。わずか二歳で父を亡くし、以来、母の過度なまでの愛情と群臣の期待のなかで育ったというこの少年が、放恣ほうしはしることも、周囲の重圧に押し潰されることもなく、その性質に厭な歪みやねじれを生じさせなかったのは、毛利家にとって実に幸いであったと言わねばならない。自身の賢良さにるところも大きいだろうが、おそらく傅人めのと(養育係)の教導が良く、学問の師にも恵まれたのであろう。

 ――将来さきが楽しみな若君よ。

 と重蔵は想い、毛利家の未来に明るい光を見たような気分になった。

 街道は、多少の起伏はあるものの、おおむねなだらかな下りである。二里ばかりの行程は一刻ほどで終わった。凶事は何事も起こらず、幸松丸にしてみれば、あっという間に時間が過ぎたような感覚だった。

 行く手の正面に屹立するのが松尾山である。その山が視界のなかで大きくなってゆくにつれ、街道を往来する人の数が多くなった。畑より田が目立つようになり、人家もずっと増えた。


「にぎやかになってきた」


 と呟いて、少年は独り笑った。

 旅というものの楽しさを、幸松丸はそろそろ実感し始めている。未知の土地にゆくことは、眼にするものすべてが目新しく、どちらを向いても飽きるということがない。

 松尾山には熊谷氏の本拠城が築かれており、その山麓に可部かべの城下町がある。可部街道(出雲街道)と石見街道が交わるこの町は、太田川(当時は佐東さとう川と呼ばれていた)の水運にも恵まれ、交易の中継点として栄えていた。町屋は吉田に劣らぬほど多い。

 阿武山の裾を巡るように西から流れてきた太田川は、可部の城下で大きく湾曲し、南へと流れを変える。川辺には多くの納屋(蔵)が建ち、広々とした河原に川湊かわみなとがある。河原へ降りる土手に番所が建てられ、そのすぐ脇に木戸が置かれ、木柵が通行を遮っていた。

 木戸に並ぶ人の行列の最後尾で重蔵たちが足を止めると、元綱たちの一行が川辺で舟を待っているのが見えた。

 口調や態度から素性を怪しまれぬように、人があるところでは喋らないように幸松丸には念を押してある。


「追いつきましたな」


 と眼で語りかけると、幸松丸は無言で笑貌しょうぼうを返してきた。

 見守るうちに、元綱たちが乗り込んだ舟が岸を離れた。舟が出るたびに人が次々と木戸に吸い込まれてゆく。

 やがて重蔵らの番が巡ってきた。

 五人ばかりの番士が木戸と番所の周囲に立っている。

 修験者は世俗を外れた宗教者であり、関銭は取られない。重蔵が会釈して木戸を抜けようとすると、番士の一人が槍の柄で通行を妨げた。


「行者殿、生国しょうごくとお名、どちらまで行かれるかを明かされよ」


 その男の顔つきを見て、重蔵は内心でホッと胸を撫で下ろした。

 重蔵は五年前、この城下の熊谷孫次郎の屋敷に二ヶ月ほど寄寓していたことがあり、城で行われた御前試合にも出場したので、熊谷家の武士のなかには重蔵の顔を憶えている者も当然あるはずである。その点だけは懸念していたのだが、幸いなことにこの番士は、修験者に姿を変えた重蔵をかつての兵法者であると見破ったわけではないらしい。

 しゃん――。

 重蔵は錫杖しゃくじょうで地をひとつ叩き、昂然と胸を張った。


「拙僧は愛宕あたご大権現を奉ずる修験の行者にて、生国は山城国葛野郡かどのごおり、名を妙善坊みょうぜんぼうと号す。京の愛宕神社を創建された役優婆塞えんのうばそく(役行者)の足跡そくせきを辿り、遠く豊前ぶぜん英彦ひこ山へとゆく廻国修行の途次にてござる」


 あらかじめ考えてあった台詞をすらすらと口にした。

 ちなみに妙善坊というのは重蔵が愛宕山で剣術修行をしていた頃に懇意になった行者の名である。重蔵は足腰を鍛えるためにこの妙善坊について山岳修行を行ったことさえあるから、修験者の振舞い方や言葉遣いなどについてはよく知っており、ハッタリを利かせる程度の語彙ごいもある。


「ふん、行者が修行の旅を足で歩かずに、舟を使うか。いぶかしいのお」


 男はいかにも胡散臭いといった表情で重蔵を眺めた。この時代、密使や諜者は、僧か神職か物売りに化けるものと相場が決まっている。

 熊谷氏の領内に入るとき、重蔵たちはすでに一度関所を越えている。それで度胸がついたのか、あるいは重蔵にある種の信頼を置くようになったからか、幸松丸は不安そうな素振りも見せず番士と重蔵のやり取りを眺めている。

 その幸松丸に向け、


「そちらの童子わっぱは供か」


 と番士が顎で指したので、重蔵はわざといきり立った。


「無礼な! 従者はわしの方である。貴殿は、愛宕山の大天狗・太郎坊たろうぼうを知らぬか!」


 その剣幕に男は明らかに気押された。


「いや、その名を聞いたことくらいはあるが・・・・」


「この神州に八匹の大天狗あり。愛宕山の太郎坊は、その神通力の凄まじさから八大天狗の筆頭にも挙げられる、それは恐ろしい大天狗さまじゃ。こちらの太郎さまは、その大天狗・太郎坊から数えて十八代の裔孫えいそん、愛宕大権現の本地仏ほんぢぶつである勝軍しょうぐん地蔵の生まれ変わりであり、この修行の旅を無事に終え、神通力を身に付けられた暁には、我ら愛宕の山伏を統べることとなる、それは尊いお方である」


 周囲の人々の視線が集まり、騒ぎに驚いた他の番士が駆け寄って来た。

 重蔵はかつて旅芸人として日に何度も舞台に立ち、客の前で芸を見せていたことがある。けれん味たっぷりの台詞回しや人あしらいのコツもそのときに身に付けた。その経験は重蔵の肝も図太くしたようで、衆目にさらされても気後れするということがない。


「勝軍地蔵の功徳くどくをご存じか。戦場いくさばにおいては飛矢が身を避け、敵の刀槍にも触れず、しかも武運に恵まれ、功名間違いなしという、それは有難いものじゃ。しかしながらひとたびこれに無礼をなせば、霊障れいしょうたちどころにあらわれ、必ず武運に見放されようぞ。そこのところをよう料簡して物を申されい」


 重蔵の目力めぢからに番士はたじろいだ。


「わかった。わかったから、そうまくし立てるな」


 修験者などに因縁をつけてしまったことを男は後悔し始めている。触らぬ神にたたりなし、というではないか。


「もしや今のでわしの武運が悪しゅうなったということはあるまいな」


「知らずにしたこととは申せ、無礼は無礼であろう。次に戦場に立てば、貴殿は必ず怪我をする。せいぜいお命まで奪われぬように気をつけなさることじゃ」


「おいおい、脅かすものではない」


 男は泣きそうな顔になった。

 神仏などさまで信じているわけではないが、宗教者からこんな言葉を投げつけられたのでは呪われたも同じで、気色が悪いこと甚だしい。真面目に役目を果たそうとしたがために神仏の怒りを買い、戦場で死傷するというのでは、正直たまったものではない。


「無礼というなら詫びる。なんとかならぬか」


「ふむ・・・・。確かに、貴殿に悪意があったわけではなく、哀れと言えば哀れではある」


 笑いを我慢して思案顔を作った重蔵は、たっぷりともったいをつけた。


「・・・・よろしい。拙僧の験力げんりきにて霊異りょういを封じて進ぜよう」


 重蔵は懐から数珠を取り出し、それを手に絡めて片合掌し、耳で覚えた天狗真言を五度ばかり朗々と唱え上げ、中空で派手に九字くじを切るや、


「えぇいっ!」


 裂帛れっぱくの気合いと共に番士の胸を二本指で突いた。

 男は声にならない悲鳴をあげてその場に尻餅をついた。


「これで貴殿は、しばらくは天狗の通力にて災厄からまぬがれよう。ご安心めされ」


「そ、そうか」


 男に手を貸して立たせた重蔵は、


「では、これにて御免くだされよ」


 野次馬と番士が口をあけて見守るなか、幸松丸を伴って悠然と木戸を抜けた。



 舟は二十人ほどの客を乗せて岸を離れた。

 幸松丸は舟に乗ることも初めてである。昼飯代わりの餅を頬張りながら、棹を操る船頭を興深げに眺め、流れてゆく川辺の風景に眼を輝かせた。

 川面は空よりも明るく、銀色の小波さざなみが立っている。

 半里ほど下流へ進むと、東から流れてきた三篠みささ川が合流して川幅が広くなり、山ばかりだった視界が広々と開け、景色が一変した。広島平野に入ったのである。


「あれに見えるが武田山でござる」


 重蔵が右方を指差した。

 開豁かいかつな平野の奥に牛の背のような山がそびえている。武田氏の本拠である銀山かなやま城である。

 太田川は広いところでは一町以上の川幅があり、水量は実に豊かである。雪解け時期や雨季にはたびたび氾濫を起こし、下流域に暮らす人々を苦しめるが、平時の水勢はゆるやかで、景色はゆったりと流れてゆく。客を乗せた舟の他に、何かの荷を満載した舟や、川漁をする漁夫の舟、切り出した材木を組んだ筏なども往来していた。

 さらに三里ほど下ると、川は次々と枝分かれを始める。河口近くは広大な三角州となっていて、島のような大きさの中州が五つあるところから、当時この辺りは「五箇所ごかしょ(五ヶ庄)」と呼ばれていた。ちなみにこの地を「広島(廣島)」と改名したのは元就の孫の毛利輝元てるもとで、戦国の世が終焉し、豊臣政権が定まると、輝元はこの中州の一角に巨大な広島城を築き、吉田から本拠を移すことになる。それ以前の広島湾は「こいノ浦」と呼ばれていたらしい。この時代はまだ干拓がさほど進んでおらず、干潮時には広々とした干潟が現れる。

 舟はもっとも西寄りの太田川本流を進んでゆく。

 やがて吹く風にしおの匂いが混じり始めた。


「海じゃ」


 舟端を握った少年は、興奮を隠さずに呟いた。

 にび色の冬の海に大小の島が鎮座している。もっとも手前にあるのが似島、その奥に巨大な西能美島と江田島があり、砂浜が続く右手の先に厳島の弥山みせんが遠くそびえる。海原のあちこちに、大きさや形の異なる船や筏がたくさん浮かんでいた。

 河口の船着場で重蔵たちは舟を降りた。

 この辺りを草津という。

 番所を抜けるとすぐに茶屋があり、そこで元綱らの一行が休息していた。幸松丸の到着を確認した元綱は、さりげなく重蔵に視線を送り、何事もなかったように一行を出発させた。


「さて、我らも参りましょう」


 先発した一行から充分に距離を取り、重蔵たちも再び歩き始めた。

 草津からは二里ほどの陸路である。

 浜辺に沿う道をしばらく歩くと井口の集落があり、さらに進んで八幡川を越えると五日市の町に入る。このあたりは武田氏傘下の己斐こい氏の支配地で、勇将・己斐宗端そうたんが「有田合戦」で死んだ後、子の直之なおゆきが城地を継いでいたが、今年の春、大内軍が安芸へ侵攻した際、大内義興は謀略によって己斐城を奪い、己斐氏を追った。己斐直之とその家臣団は武田氏の銀山城へ逃れ、己斐城は現在、大内家の重臣・内藤孫六が城番として入っている。

 浜辺では、塩焼きをする者たちもあれば網をつくろう漁師もおり、海藻や貝を採る女たちや水辺に遊ぶ子供たちの姿も見える。それらの様子を楽しげに眺めながら、幸松丸は生き生きと歩いた。

 が、一里ばかり歩いたところで顔をしかめて足を止めた。


「足が痛い」


 道の端に少年を座らせ、足拵えを解いてみると、マメが潰れたらしく、親指の付け根から血がにじんでいた。長い距離を歩くということがないこの少年の足には、やや負担が大きかったらしい。

 重蔵は手拭いを薄く裂き、患部に幾重にも巻いた。

 おぶってやることはできるが、今日の旅程は子供でも苦行というほどキツいわけではないから、自分の足で歩き切って欲しいという想いがないでもない。達成感とは自ら成し遂げてこそ得られるものであろう。


「廿日市までもう一息でござる。ご辛抱できますか」


「平気じゃ」


 気丈に答えた少年に、重蔵は笑顔でうなずいた。

 人家がまばらになった道をさらに半刻ほど歩くと低い土手が見えてきた。破壊され無人となった己斐氏の関所の跡があり、土手の向こうは細い佐方川が流れている。

 重蔵は幸松丸の手を引いて川を渡った。

 対岸の土手を上ると、そこで元綱らの一行が休息しつつ待っていた。


「ご無事でようございました」


 傅人子めのとごの福原弥五郎が幸松丸を見つけて真っ先に駆け寄って来た。


「ようお歩きなされた。お疲れでござったろう」


 笑顔で迎えた元綱に、


「疲れておらぬ」


 幸松丸も笑顔を返した。

 土手から見渡すと、まず海に突き出すように小高い山がある。桜尾城の城山である。右方にそびえる天神山が海際まで迫り、ごく狭い平地を蔽いつくすようにおびただしい人家の板屋根がある。松の疎林が並んだ浜辺では、荷揚げ作業のために無数の人夫が忙しく立ち働いているのが見えた。沖には二十余隻の大型船が浮かび、多くのはしけが船と浜との間を行き来している。その背後で海にそびえる緑の山塊こそが、目指す厳島である。


「あそこに厳島神社があるのだな」


 幸松丸が指差した。


「社殿はちょうどあの山の裏側にありまして、この辺りからは見えません。明日、海が荒れなければ、舟にてお渡り頂こうと思うております」


 棚守たなもり房顕ほうけんが教えた。


「日暮れまでまだ時がございますので、今日のところは廿日市の市などを見物なさってくださりませ」


 房顕の案内で、一行は桜尾城の山裾を通って堂々と町の木戸をくぐり、廿日市の中心地に入った。大小の様々な店舗がいらかを並べる大通りは、行き交う人と車でごった返し、


「今日は祭礼でもあるのか」


 と幸松丸が思わず房顕に訊ねてしまったほどのにぎわいである。

 この町が廿日市と名付けられたのは室町期に入った頃で、都市としては比較的新しい部類に入る。その名の通り市場が作られた地であり、瀬戸内の水運の発達と共に瀬戸内貿易の中継点として栄え、いまでは安芸でも有数の港町になっていた。上方から運ばれて来る産品はもちろん、唐船でもたらされた異国の名品珍宝さえわずかながら流通しているし、安芸の産物も多くがこの湊から輸出されている。ちなみに安芸の特産品といえば、木綿もめん、染料のあい、鉄、紙などが挙げられ、海産物も非常に豊かである。それらの物品を扱う交易業者がこの廿日市に集まり、巨富を成していた。

 少々余談をすると――。

 廿日市を膝下に押さえる桜尾城は、現在は山が削られて桂公園となっており、その周囲も埋め立てによって風景が一変してしまっているが、この当時は海に突き出すようにそびえる四〇メートルほどの小山で、周囲を一望できる要衝であったらしい。ここに本拠城を築いた厳島神主家は、神主職を世襲してはいるものの、その実態はほとんど武家と変わらない。

 神主家は、先代・藤原興親おきちかが大内義興の上洛戦に従い、永正五年(1508)に京でそのまま病死してしまって以来、興親の二人の従兄弟の間で神主職の相続争いが起き、神領衆が東西に分かれて争う事態になっていた。この争いは実態がよく掴めないが、結局のところ武田氏が後援する友田興藤おきふじが桜尾城を奪取し、実力で神主職の座についたらしい。

 この物語の現在から半年ほど前、大内軍が安芸に侵攻した際、大内義興は重臣のすえ興房おきふさに桜尾城の攻略を命じた。大内軍は二の丸までを攻め落としたが、義興としても、神主家の人間を殺し尽くして神罰をかぶりたくはないし、戦さを長引かせて廿日市の町衆の怨みを買いたくもなかったから、力攻めにはこだわらず、外交で素早く城を押さえた。友田興藤を隠居させ、その兄の子である藤太郎とうたろうに神主職を相続させるという条件で和睦したのである。神主家は大内氏に屈し、臣従する姿勢を取ったわけだが、藤太郎はまだ幼少であるから、大内軍が安芸を去った現在、再び友田興藤が家を主導する状態となっている。

 大路を先導した房顕は、


「今宵はこちらの紀ノ屋さんのお屋敷でお泊まり頂きます」


 と言って一行をある商家へと導いた。

 紀ノ屋は醤油しょうゆの醸造・販売で財を成し、金貸しや貿易業でその財を膨らませた厳島でも有数の豪商である。廿日市にも屋敷があり、御師たちが上客の宿泊所としてよく使わせてもらっているらしい。

 房顕がおとないを入れると、一行は丁重に迎え入れられた。

 広大な敷地のなかには母屋の他に使用人のための長屋が二棟と大きな蔵が三つも建ち、さらに宿泊客のための離れ屋がある。中庭から導かれた離れ屋には四つの部屋があり、その一棟が宿舎としてまるまる提供されるらしい。間取りは広々とし、調度は豪華で、襖絵などは大名家もかくやというほど金が掛かっている。そこに湯殿まで付属していることが、紀ノ屋の富裕ぶりを如実に表していた。

 奢侈しゃしには興味がない元綱も、


「たいしたものだな」


 と素直に感心し、その言葉に周囲がうなずいた。実際、これほどの商家は吉田には一軒もない。紀ノ屋の経済力は、元綱の相合の家などは比較にもならず、兄の多治比の家さえ圧倒するであろう。

 考えてみれば、商人は百姓や職人のように自らの手で何かを作り出すというわけではないのに、右から左に商品を動かすことで魔法のように銭を生み出してしまう。厳島の一商家でさえこれほどの財を蓄えているわけだが、たとえば噂に聞く堺や博多の大商人ともなれば、日本を飛び出して異国と交易をなし、その富は大名をさえ凌ぐという。安芸北部の山奥に暮らす元綱たちにとって、およそ想像の届かない世界だが、

 ――大きな富を生み出しているのは、つまりは海か。

 ということは、なんとなくわかった。

 陸の上には限られた道しかなく、その道にも無数の関所があり、自由な通行を妨げている。物品が動くスピードは人が歩く速さと同じであり、人力で運べる荷の量も高が知れている。それに比べて海は、日本どころか異国にまで繋がっており、そこに大きな船を浮かべれば、大量の物品を快速で動かすことができる。もちろん海には海なりの困難や危険があるのだろうが、それを乗り越えた上で富を蓄えた紀ノ屋のような商家がこの廿日市だけで何軒も栄えているし、極論すれば、大内氏が日本最大の勢威を誇るようになったのも、唐土もろこしや朝鮮との貿易で桁違いの富を得続けているからであろう。

 以前に廿日市を訪れたときは元綱もまだ幼かったから、ここまで深く考えることもなかったがのだが、毛利と同じ立場の安芸の豪族に限ってみても、たとえばこの廿日市や厳島を押さえる厳島神主家や、太田川の河口に盤踞ばんきょする白井氏、安芸南東の沿岸部に根を張る小早川氏などは、領内に良港を持っている。おのずと集まってくる商業資本を支配下に置くことになり、関税による収入も毛利よりはるかに巨大であろう。備えている水軍力は平時には交易に利用することもできる。そうした人や物の動きに伴い、遠方の多くの情報も迅速に得られるに違いない。

 ――毛利の領国には海がない。

 という地理的な条件が、何やらとてつもない不利に思えてきた。

 一行が旅装を解き、着替えなどを済ませて落ち着いた頃、主人あるじが挨拶に現れた。恰幅のよい五十男である。着ている小袖や帯などはいかにも上等なあつらえで、異国の布で作られたらしい羽織には異様な光沢がある。


「紀ノ屋でございます。本日は遠路はるばるようお越しくだされました」


 丁寧に頭を下げた。

 物腰や言葉遣いはやわらかく、表情もいたって温和である。が、その眼は幸松丸を値踏みでもするように油断なく光っていた。

 紀ノ屋は瀬戸内海の海運業を商売の主軸としており、安芸北部の山間に根を張る毛利氏とは繋がりが薄く、利害関係もないに等しいのだが、しかし、安芸の情勢は大内氏と尼子氏のせめぎ合いのなかで今後どのように変化してゆくのかまったく見通しが立たない。現状はともかく、この「毛利の幼君」の成長次第では、十年後、二十年後の毛利家が大成長を遂げるということだってないとは限らない。

 わずかな時間で、

 ――この若君は、線は細いが、賢良だ。

 と見抜いた紀ノ屋は、毛利家と誼みを深めておいても損はない、と密かに思った。


「ご用がございましたら、どうかお気兼ねなく、なんなりとお申し付けくださりませ」


 世話係の下女を二人残し、紀ノ屋は上機嫌で引きあげていった。

 夕暮れまでにまだ一刻ほど時間がある。

 房顕の提案に乗って、元綱たちは市場と湊を見物することにした。


「わあ――」


 物と人で溢れる市場も、大型船が沖に浮かぶ湊の光景も、好奇心の強い少年たちにとっては実に面白い。幸松丸はどちらを向いても眼を煌めかせ、


「弥五郎、あれを見よ」


 などと傅人子と共にはしゃぎ、しゃべり続けていた。

 ――かつて俺もこのような眼をしておったのかな。

 十五年前の自分を振り返って、元綱は微笑した。

 記憶のなかにある絵に比べ、目の前の風景はずいぶんと賑わいを増したという印象がある。沖に停泊している船の数も多く、なかには和船とは明らかに姿が違う船さえ見える。船首の外板がいはんに人の眼のような模様が描かれ、全体にケバケバしく装飾された異様な船である。


「あれは――」


 それを元綱が指差すと、房顕が応じた。


「あぁ、戎克ジャンクとか申す唐船からぶねでございますな」


唐土もろこしの――つまり明国みんこくの船か」


「左様でございます。そう多くはございませんが、昔からこの辺りにもたまにやって来ておりますよ」


「そうなのか。俺は初めて見る」


「もっとも、あの船に乗っておるのは明国人ではなく、ほとんど倭人わじんのようです。船主は早田そうだなにがしという、対馬つしまだか壱岐いきだかの者だと聞いたことがございます」


 対馬や壱岐がどのあたりにあるのか元綱にはわからない。


「この辺りの海で商売をしておるのかな」


「早田の船は、年に二、三度はこの湊にやって参りますが、唐土へも毎年のように渡っておるそうですよ。吹く風の向きの関係で、冬にしか大陸あちらへはゆけず、一度行くと夏になるまで日本こちらには帰って来られぬのだとか」


「それは大変だな。唐土まではどれほど日数が掛かるのだ?」


「それも風次第でしょうが、九州の博多のあたりから、順調にいっても半月以上は掛かるらしいですね。高麗こうらい(朝鮮)までならそれよりずっと近いそうですが――」


 房顕もさほど詳しくなさそうである。

 ――こういう話は、むしろ紀ノ屋に聞くべきだな。

 あの商人の配下なら、実際に異国へ渡った者さえいるかもしれない。

 日が暮れたので、元綱たちは宿所に帰った。


「お食事の支度はできておりますので、すぐにお持ち致します」


 女たちが運んで来た膳は実に豪勢なものだった。獲れたての魚介の料理がいくつも並び、酒も備前から取り寄せた名酒であるという。

 山間の吉田では鮮魚はめったに食べられない。魚といえは川魚か乾物しか知らず、焼くか煮るかして食べるものだと当然のように思っていた幸松丸と弥五郎は、彩り豊かに盛りつけられた刺身を見て目を輝かせ、まだ生きている海老えび牡蠣かきを見ては驚き、その美味さにいちいち歓声を放った。

 この少年たちにとって、今日という一日は驚きの連続であったろう。興奮し過ぎたからか、あるいは疲れが一気に出たのか、幸松丸は夜半から発熱し、周囲の大人たちを慌てさせたりした。

 幸いこの熱は翌朝には引いた。幸松丸は元気そうな様子であったが、この日は朝から小雨がぱらつくあいにくの天気だったこともあり、予定を変更して一日ゆっくり休息に充てることにした。

 この一日の停滞が、ひとつの出会いを生むことになる。




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