幸松丸(一)
鶴寿丸を抱いたゆきが帰ってきて、相合の屋敷はそれまでと変わらぬ日常を取り戻した。
同じ安芸のなかでも、山深い吉田は瀬戸内海の沿岸に比べるとやや冬が早い。秋の取り入れが無事に終わった頃には、吹く風に少しずつ冬の厳しさが混じり始めた。
そんなある日の夕刻――。
元綱は、兄の元就から郡山城に呼び出された。
「宮島へ往ってもらいたいのだ」
と元就は言う。
「宮島? 厳島のことか」
「そう。その厳島神社だ」
安芸の一宮たる厳島神社は、芸州人にとっては別格の聖域である。宗像三女神――海上交通の平安を守護する三柱の女神――を祭神とするこの古社は、平安末期に平清盛が壮麗な社殿を建立して以来、平家の守護神として尊崇され、平家が滅びた後も歴代の天皇や時の権力者から篤い崇敬を受けている。瀬戸内の海に生きる人々はもちろん、安芸の武士たちがこの神社に向ける敬信の念は強く、大小名の当主自らが厳島へ渡り、あるいは代人を送るなどして神に物や銭を献じ、田畑の寄進を行い、戦勝を祈念したり武運長久を祈ることは、ごくありふれた風景と言っていい。
「出雲のお屋形の肝煎りで、幸松丸さまが明年に元服されるのはお前も知っているな。元服なさるとなれば、それまでにどうしても厳島大明神にご挨拶をしておかねばならん」
「幸松丸さまのお供というわけか・・・・」
元綱は即座に事情を領解した。
毛利家では、本家の男子が幼少時に厳島神社を参拝することが吉例となっており、亡兄の興元も目の前のいる元就も、元綱自身も、十歳前後のときにそれを行っている。幸松丸はまだ数えで八歳だが、来年に元服して「大人」になるというなら、「子供」であるうちに厳島へ行っておくべきであろう。
「尼子が来年のいつごろ安芸にやって来るのかはわからぬが、来春早々にも動くとすれば、雪解けまでのんびり構えているわけにもいかん。この事は執権殿とも相談していたのだが、直前になって慌てるよりは、今年のうちに済ませておく方が良いということになってな」
そこで御用部屋の襖が静かに開き、小姓が膳を運んで来た。
元就の膳には餅と白湯が、元綱のそれには肴と酒が、それぞれ載っている。
弟に酒を注いだ元就は、餅をひとつ取って齧った。
「もう冬になる。行くなら、雪が深くなる前の今のうちが良いだろう」
「それはそうだが――。そもそも幸松丸さまがご自身で出向かれるというのは、危険すぎはしないか?」
言いつつ、元綱は盃を口に運んだ。
元綱や元就が厳島に参拝したのは十五年ほど昔のことで、その当時、安芸は完全に大内氏の属領であった。有力豪族の多くは大内義興に従って上洛していたわけで、どの家も軍の主力が出払っている状況であり、安芸国内は比較的平静としていた。
しかし、現在はそうではない。
厳島とその対岸の廿日市のあたりは武田氏が影響力を保持する地域であり、つまり厳島へ行くことは、そのまま敵地を往復するということを意味していた。
毛利と武田氏は祖父・豊元の時代から仲が悪く、元就が「有田合戦」で武田元繁を討ったこともあり、武田氏にとって毛利はまさに仇敵となっている。この四年ほどはまったく断交状態であり、数にも入らぬ下士ならともかく、毛利家当主である幸松丸が武田領にいると知れれば、武田氏の側が黙ってないであろう。いや、そもそも武田方の関所を通ることさえできないのではないか――。
「俺が幸松丸さまの代人として参拝するというのはどうだ」
元綱の提案に、元就は苦笑した。
「お前、また姿を変えて密かに往来することでも考えておるのだろう。そんなことはさせぬよ。第一、それでは意味がない。幸松丸さまがご自身で往かれることが大事なのだ」
元就は白湯で喉を湿らせてから続けた。
「まあ考えてもみよ。私もお前も、幼い頃に厳島に参拝するまでは、毛利の領国から出たことも、海を見たこともなかったはずだ。此度のことは、幸松丸さまに広い世を見て頂き、色々なことを直に感じて頂くための、格好の機会になる」
大きな声では言えぬが――と、元就は声をひそめた。
「こういうことでもなければ、お袋さまは幸松丸さまを城の外へ出そうとはなさらぬだろう」
お袋さまとは、幸松丸の生母であるお夕を指している。
幸松丸は、不幸にも亡父・興元の腺病質な体質を継いだらしい。風邪をひきやすく、季節が変わるたびに必ず熱を出して寝込むし、内臓も弱いのか食が細く、同世代の子供と比べても身体の発育が遅かった。お夕はそれを心配し、幸松丸を外の風に当てることを好まず、ほとんど城から出そうとしないのである。今回の厳島参拝に関しても、お夕はややヒステリックと映るほど強硬に反対し、これを説き伏せるのにえらく手間を食った。
頑是ない幼児のうちならともかく、幸松丸はあと二ヶ月もすれば九歳であり、普通ならすでに野山を自らの足で駆け回り、弓を引き馬にも乗り、同世代の子供を相手に喧嘩のひとつもし、遊びから様々な経験を積んで己を育ててゆかねばならぬ年齢に達している。お夕はそれを妨げているわけで、この「お袋さま」の過保護ぶりが、元就や志道広良にとって頭痛の種になり始めていた。
――義姉上のお気持ちもわからぬではないが・・・・。
元就は小さくため息をついた。
お夕は毛利家に嫁いでさほどの年月も経たぬうちに夫の興元を亡くし、さらに先年、父である高橋久光まで喪い、後ろ盾となってくれる者がいなくなっている。もはや「幸松丸の母」という以外に彼女の地位を保証するものはなく、我が子にもしもの事でもあれば、その存在意義を失いかねないのである。過保護になるのもやむを得ない部分はあるが、しかし、いつまでも温室育ちで良いはずがない。
幸松丸はこの乱世を武将として生きねばならぬ男であり、来年には初陣の場を踏むことさえすでに決まっているのである。虚弱な体質自体は急に改善されるものではないが、あのひ弱げな甥っ子に、少しでも多くの経験を積ませ、わずかでも知見を広げる機会を与えてやりたい。幸松丸を立派な主君へと育てることは、毛利家にとってもっとも重要な「政治」である、とさえ元就は思っていた。
「道中の危険については私もよくわかっているつもりだ。道々の領主に対しては打てるだけの手は打った。武田方の許諾も、実はすでに得てある」
元綱は驚いた。
「よく武田が許したな」
「毛利も武田も同じ尼子方だからな。やりようはあるさ」
武田氏は反大内の家であり、尼子氏とは強い同盟関係にある。毛利が尼子家に属すことになった現在、同じ旗を仰ぐ味方であるとも言えた。元就はこのことを利用し、尼子経久に話を通し、尼子氏の側から下拵えをしてもらった上で、武田光和に使者を遣わしたのである。
――これは、武田との関係を修復する契機にもなり得る。
と考えたのだから、元就も抜け目がない。
余計なことかもしれないが、この頃の武田光和の正室は、吉川元経の娘である。この女性は元綱の姉である松姫が生んだ子ではなかったかもしれないが、吉川国経の孫娘であることに違いはなく、元就の妻であるお久から見ると姪に当たる。元就はこちらの筋からも働きかけをしたに違いない。
ついでながら元就には同腹の姉(宮姫)がおり、武田氏の一族の武田信正という男に嫁いでいた。亡父・弘元が武田氏との関係を改善するために行った政略であったろう。この武田信正というのは資料の少ない人物で、当主・武田光和との関係も不明なのだが、嫁いだ宮姫の年齢から推測するなら、光和の従叔父か、再従兄というあたりが妥当であるかもしれない。この当時、宮姫はすでに亡くなっていたとする説もあるのだが、もし存命であったとすれば、元就はこの姉にも手紙を送って側面支援を依頼したであろう。
ともあれ、話を聞いた武田光和は、露骨に不快な顔をした。
「元就め、ようもぬけぬけと申してきたものよ」
この若者にとって、元就は父を討った憎むべき仇であり、好意を持てようはずがなかった。
光和はこのとき十九歳である。豪勇で鳴った父から受け継いだ立派な体躯を持っており、その膂力の凄まじさは、六、七人張りの剛弓をやすやすと引き、放った矢が人馬を重ねて射通すほどだったと『吉田物語』にある。まさに剛強の武人というべきだが、しかしその性格は一廉の政略家であった父より遥かに粗雑で、自尊心が強く、人や物に対して好悪が烈しく、ひとたび物事にのめり込むと欲望に自制が利かなくなるという悪癖がある。
この時も政治をまったく顧慮せず、
「毛利の幼君がわざわざ首を運んで来るというのだ。望み通り獄門台に据えてやればよかろう」
などと放言した。
しかし、この青年の周囲には、名門・武田氏を長年にわたって支える有能な重臣たちが揃っている。強大な大内氏と敵対する武田氏にとって、尼子方の援軍はまさに命綱であるから、内藤修理亮、毛木民部大輔、品川左京亮、伴五郎といった者たちが、感情に走りがちな若い主君を口々に諌めた。
「ご短慮はなりませぬ。よくよくお考え頂きたく――」
尼子経久からの要請を突っぱねれば、諸豪族の盟主としての経久の面目を潰すことになるであろう。「有田合戦」の当時からすでに時勢は変わっており、毛利は今や尼子に属する味方なのである。まして幸松丸は十歳にも満たぬ子供であり、先君の戦死にはまったく係わりがないし、その幼さで自ら政戦を行っているはずがないから、殺したところで毛利家が弱体化するわけでもない。わずかな鬱憤晴らしのために、尼子経久の機嫌を損じ、尼子方の諸勢力との関係を悪くし、毛利氏の怨みと厳島神主家の怒りと世の悪評を買う、というのでは、まったく間尺に合わないではないか――。
光和は不愉快極まる顔でそれらの切言を聞いていたが、理屈がわからぬほど暗愚な男でもない。
「その方どもがそれほどまで申すなら・・・・」
としぶしぶ折れ、幸松丸一行が武田領を通行することを黙認したのである。
しかし、用心深い元就は、この黙許をそのまま信じてはいない。幸松丸が関所で捕えられたり武田方が表立って軍を動かしたりすることはないだろうが、たとえば裏で密かに浪人や無頼漢を雇い入れ、土匪(賊)を装って幸松丸を襲撃させる、といった可能性はないとは言えない。幼君の護衛には屈強な武人を付ける必要があるであろう。
「関所を通してもらえるのは、供を含めて十人までと釘を刺された。そこで、お前に幸松丸さまの警護を頼みたいのだ」
と元就は言った。
元綱の武勇は家中でも屈指であり、戦場における機転を見れば応変の才覚があることも解る。その郎党がつわもの揃いであることも知られている。これ以上の人選を元就は思いつかなかった。
「話はわかったが、俺が厳島に行ったのは、かれこれ十五年も昔のことだ。幼かったし、道もほとんど憶えておらんぞ。案内の者は付けてくれるのだろうな」
「もちろんだ」
元就は鷹揚にうなずいた。
この時代、寺社参詣のための旅の世話は、御師と呼ばれる人々が務めている。御師というのは参拝客の道案内や宿所の世話などをする下級神職と思えばいい。一般に庶民の間で寺社詣りがブームとなるのは江戸期のことだが、この時代にも相応の数の御師がいたことが知られており、一例を挙げれば、たとえば伊勢神宮の場合、室町期ですでに宇治山田に百数十軒・数百人の御師がおり、日本全国を行脚して喜捨を集め、参拝客を誘致していたという。
この時代の寺社は、荘園や領地を武家に横領されて経済基盤を失いつつあり、参拝客が落としてゆく銭や寄進が重要な財源になっている。大名や豪族は寄進の額が大きい大檀那であり、いわば上客であるから、その応接は丁重で、案内役には上級神職が自ら出向いて来ることも珍しくない。
「道中のことは厳島の棚守に頼んである。お前も昔世話になったはずだから知っているな」
棚守というのは厳島神社の上級神職で、社務を運営し、様々な神事を執行する純然とした神職であり、神主家の相続争いや諸勢力の紛争といったものからは半ば超然としている。大宮棚守、客人宮棚守、外宮棚守という三職があり、毛利家では父祖の時代から、大宮棚守の家の者が御師役を務めるのが慣例になっていた。
「この数日のうちに、大宮棚守から人が来てくれることになっている。道案内や宿所などのことはすべて任せておけばよい」
手酌で飲みつつ元綱は確認した。
「関所を通れるのは十人だと言ったな。棚守やその従者もそこに含めるのか?」
「いや、棚守は毛利の人間ではないから数に入れずともよいだろう」
「ふむ」
「言い忘れたが、幸松丸さまには傅人子の福原弥五郎が随従する」
福原弥五郎は長老・福原広俊の曾孫で、元就の伯父である左近允貞俊の孫に当たる。このとき十一歳。福原氏は歴代の当主の諱が広俊―貞俊―広俊―貞俊と繰り返すために非常に紛らわしいのだが、この少年は元服後に下総守貞俊と名乗ることになる。ちなみに弥五郎の父が出羽守広俊で、幸松丸の傅人を務めている。
「ならば護衛は俺を含めて八人ということだな・・・・」
旅程としては、吉田から可部街道を通って南西に四里ほど進み、国境に近い井上氏の阿賀城で一泊する。翌日、武田方の熊谷氏の領国に入って二里ほど歩き、可部の川湊から舟に乗って太田川を下る。河口の五箇所(広島)からは五日市を経て廿日市まで歩く。廿日市で一泊し、翌日、厳島へ舟で渡る。
虚弱な幸松丸のことも考慮し、かなりゆったりとしたスケジュールである。
「大雨でも降れば別だが、片道三日、往復で六日ほどと考えている」
ふたつ目の餅に手を伸ばした元就は、それを口には運ばず、手のなかで弄びつつ続けた。
「幸松丸さまをお守りするには万全を期したい。何か考えがあれば言ってくれ」
「可部からは舟で川を下るのだったな・・・・」
元綱は考えながら呟いた。
「五箇所の舟着き場には番所があったはずだ。あれは武田の番所ではなかったと思うが――」
太田川下流の水運を押さえているのは白井氏という半独立の小豪族である。
白井氏は広島湾に勢力を張る海賊衆で、古くから武田氏の水軍となって働いていたが、この春の大内軍の襲来のときに大内義興に降り、大内氏に臣従した形となっている。元就は鏡山城の城代である蔵田房信から密かに手を回し、通行の了解を取りつけておいた。
「それなら舟に乗ってしまえば大事はないか。危ないのはやはり熊谷の領地だな」
「『中井手』で民部少輔(熊谷元直)を殺してしまったからな・・・・」
元就が憂鬱な顔をした。
盟主である武田氏の側から話が通っていたらしく、熊谷氏に打診したところ関所の通行は許可してくれたが、武田氏と同様、熊谷氏にとっても毛利は仇敵なのである。熊谷氏は武門の名家であることに強い誇りを持っている族だから、わずか八歳の幼童を騙し討ちで殺して快哉を叫ぶほど陋劣ではないと信じたいが、たとえ首脳陣にその気がなくとも、勝手に暴走する跳ねっ返り者というのはどの家にもいるものであり、楽観は許されない。
「腕の立つ下士を二十人ばかり、浪人や物売りなどに化けさせて、一行を密かに守らせようと思うが――」
元就の提案に元綱はうなずいた。
「悪くないな。土匪が出たときなどには役に立つだろう。で、それを誰に束ねさせるつもりだ?」
「左衛門太郎ではどうだ」
桂元忠のことである。元就が幼い頃からその近侍を務めている青年で、老臣・桂広澄の次男坊である。煌めくような知恵才覚があるわけではないが、性質に厭な癖がなく、強い責任感と堅実な実務力とを持っていて、仕事に骨惜しみをしない。
「あぁ、あの男なら良い。軽率なことだけはせぬからな」
「武田にせよ熊谷にせよ、あからさまに軍を動かすことはないはずだが、万一ということがある。何かあればすぐに関所を破って駆けつけられる兵を、国境に伏せておこうと思うが、どうだ」
これには元綱は失笑した。
「無用だ。何かのはずみで熊谷方と小競り合いにでもなれば、それこそ話がややこしくなる」
「それはそうだが――」
「あのな、兄者。我らは敵地のど真ん中を歩くのだ。武田なり熊谷なりが、なりふり構わず幸松丸さまを殺しにくるとすれば、護衛が八人やそこらでは、どれほど腕利きの武人を揃えたところで、どのみち防ぎようがない。国境に兵を伏せておいたとしても間に合わぬさ」
「おいおい、防ぎようがないでは困る」
元就は気色を険しくした。
「策というのはそこまで計算に入れた上で立てるものだ」
「・・・・どうするというのだ」
悪童のような笑みを浮かべた元綱は、身を乗り出して兄に顔を近づけ、声を落として言った。
「俺が宰領する一行には幸松丸さまの影武者を立てる。これはいわば囮だな。本物の幸松丸さまには、たとえば巡礼などに姿を変えて頂き、二、三町ばかり後ろを歩いてもらえばよい。無論、屈強の者を一人護衛に付ける。前をゆく一行に変事があれば、この者が幸松丸さまを即座にお落としする」
元就は堂目した。
毛利の家中以外で幸松丸の顔を見知っている者などほとんどいないから、たとえ巡礼姿の子供を見たとしても、それを毛利家の当主と見破れる者はまずおらぬであろう。最悪、一行が全滅しても、幸松丸一人は逃がすことができる。
「万全を期すというならこれしかあるまい」
元綱は事もなげに言った。
元就は優れた戦略家であるが、戦術家としてはおそらくこの弟に及ばない。その差であると言ってしまえばそれまでだが、具体的な実施面における元綱の発想や手腕には、やはり非凡なものがある。
「人に虚実を悟らせぬのは、『孫子』の兵法だな。人を致して、人に致されず、か・・・・」
敵を思い通りにさせて、敵の思い通りにならない、ということである。孫子の兵法の極意と言っていい。
「このことは他言無用だ。敵を騙すにはまず味方からというからな。知っておるのは兄者と左衛門太郎だけ、ということにしておいてくれ」
相合の屋敷に帰った元綱は、主立つ者たちを集めて事情を説明し、従者の七名を選抜した。近侍と配下の雑兵のなかから武術に優れる者を六人、何かの時の連絡要員として足が速く度胸の良い男を一人を選んで連れてゆくことにした。
さらに配下の家族のなかから幸松丸と同世代の子供を密かに用意し、重蔵には、本物の幸松丸を護衛する密命を与えた。
「重大なお役目ですな」
重蔵が重々しい声で言った。
「危ないとすれば熊谷の領地だと思うが、厳島神領家の廿日市に入るまでは安心はできぬ。見ることができるギリギリまで離れて、俺の一行の後ろを歩いてくれ。土匪のたぐいが出たくらいのことなら大事にはなるまいが、万一、敵が軍を動かして俺たち一行を襲うようなことがあれば、その時はこちらに構わず、お前が幸松丸さまを毛利の領内までお落としするのだ。できるか?」
重蔵は正直なところ元綱と行動を共にしたい。が、ここは、毛利本家の若き主君を自分に託してくれた主人の信頼に応えねばならぬであろう。
「一命に代えても、必ず」
使命感に駆られた重蔵は、強くうなずいた。
「装束は巡礼ではなく、修験の行者の物を用意して頂けますか。わしは昔、鞍馬山や愛宕山の修験者と接しておりましたので、あの者らの真似ならばすらすらとできます。番所の役人にも見破られぬ自信がござる」
「ほお、役人でも謀ることができるか。まるで『安宅』の弁慶のようではないか」
「ありもせぬ勧進帳を読みあげることはできませんが。それでも不動真言や天狗真言くらいなら空で言えます」
元綱の軽口に笑って応えた重蔵だが、失敗が絶対に許されない役目であることは重々わかっている。
重蔵は、翌日から二日を掛けて毛利領と熊谷領の国境を自ら歩き、万一のときの逃走経路――関所を迂回できる山越えの間道――を下見して回った。
重蔵が相合に戻ってきてから三日後、厳島神社から大宮棚守の使いが荷担ぎの小者一人を従えて吉田にやって来た。
「父の代人として罷り越しました。野坂房顕と申します」
鮮やかな藍色の狩衣を着、風折烏帽子をかぶっている。年は意外に若い。まだ三十に届かぬであろう。中背にしてやや小太りで、頬の肉がふくよかである。目蓋が厚く、目尻が垂れていて、いかにも人の良さそうな面相をしている。
「向後はわたくしがご当家の御師の役を務めさせて頂くことになりますので、どうぞよろしくお願い申しまする」
と、房顕は丁寧に頭を下げた。
厳島神社は、今後はこの若者を通じて毛利家と師檀関係を結ぶらしい。砕いて言えば、房顕が毛利家を担当することになった、ということである。
ところで、郡山城の南山麓には「お里屋敷」と呼ばれる居館がある。城は籠城のためにあるもので、評定や公式行事も城の大広間で行われるのが常だが、お夕や幸松丸は日常的にはこちらの居館で暮らしているのである。
このお里屋敷に房顕を迎え入れた元綱は、元就らを交えて旅程の打ち合わせを行った。
話してみて、
――兄者とは相性が良さそうだ。
と、何となく思った。
元綱が好む武辺者肌のタイプからは遠いが、房顕の言葉づかいにはいかにも文化人といった雅味があり、職業がら学問があるのは当然としても、その性質にはやわらかさを伴った慧敏さがあると見た。一を聞いて十を知るとは言わぬまでも、六とか七くらいは察しそうなほど頭が良く、それを厭味と思わせない謙虚さをも備えている。
房顕は大宮棚守の代人であり、いわば厳島神社の代表である。その夜は居館に重臣たちを集め、宴を催して大いに歓待した。
房顕は座談が巧く、人当たりも良い。酒が進むと、座のあちこちで陽気な雑談に花が咲き、賑々しい宴席となった。
この陽気な空気のなかで、独りうち沈んだ気を発している者がある。
お夕であった。
お夕は上座にあって幸松丸の隣にひっそりと座っている。よほど思いつめているのか、額のあたりの血筋が透けるほど蒼白となっており、濃いまつげのあたりに憂愁がただよい、灯火に浮かび上がるその美貌は、月光に照らされた花のようであった。
その淑美を見るたび、
――薄幸な女だな。
と元綱は思い、少なからぬ同情が湧く。
兄の興元が生きていれば、もっと穏やかで心豊かな春秋を謳歌できたはずであるのに、現在のお夕は心頼みとする人を次々と喪い、我が子に対する想いばかりが強くなって、寝ても醒めても心休まる時がないのであろう。
実際、お夕は幸松丸を危険な敵地に入れることが心配でならず、居ても立ってもいられぬような不安のなかにある。彼女の悲愴な胸中を理解しない男どもの無理押しのせいで、もはや事態は動かし難いところまで進んでしまっているのだが、できるものなら今からでも厳島参拝を中止させたいというのが本音であった。
口にこそ出さないが、
「多治比殿と執権殿は、幸松丸を殺そうとしているのではないか」
と邪推するところまでお夕は思いつめている。
幸松丸が死ねば、毛利家の家督を継ぐのは先君・興元の弟である元就か元綱であろう。長幼の序からいって、元就がその座につく可能性は極めて高い。元就が家督を欲しているとすれば、幸松丸さえいなくなれば願望を遂げることができるわけで、これを弑する機会をうかがっていたとしても不思議はないのである。この思考の飛躍は、高橋久光の娘であるお夕にしてみれば飛躍でもなんでもなく、圧倒的な恐怖感を伴う切実な現実であった。
そもそも高橋氏は吉川氏と長年敵対していた歴史があり、お夕の父である高橋久光は、吉川氏と何度も戦火を交え、国人一揆の盟約を交わした後も内心で吉川氏を嫌い続けていた。元就が吉川氏の姫を正妻に迎えるや、元就を毛利家中の吉川派の首魁と見做して政敵視し、その娘を人質に取ったことでもそれがわかるであろう。夫の興元亡き後、お夕はその父を唯一の後ろ盾として過ごしていたわけで、当然のように父と同じ感情に染まっている。
――多治比殿は信用できぬ。
高橋久光によって娘を奪われた元就が、久光の娘であるお夕に好意を抱くはずがないであろう。そのお夕が生んだ幸松丸を愛してくれるか――と考えれば、暗澹たる気分にならざるを得ない。
お夕はそういう感情の眼で元就を眺めているから、元就と昵懇である志道広良に対しても信頼を抱きようがなく、その二人が強引に推し進めようとする厳島参拝には、伏魔殿のごとき禍禍しさしか感ずることができない。
口元を引き締めて決然と顔を上げたお夕は、
「相合殿――」
と強い声で元綱を差し招いた。
元綱が罷り出て御前に座ると、お夕は床に両手をつき、
「相合殿、幸松丸のこと、よろしゅうお頼みします」
と言って、丁寧に頭を下げた。
この道中、我が子を守ってくれるのは、神仏以外には元綱しかいないのである。この現実が、お夕の危機感を強烈に刺戟していた。
幸松丸に代わって評定の席に座ることもあるお夕は、元綱がどういう男かということを彼女なりに観察している。
この義弟の性情は、誠実で温厚であった亡き夫にどこか通うものがある。やや気ままで身勝手なところはあるものの、権力に執着するような性質は持っておらず、党派的な色合いもない。あえていえば高橋久光とは相性が悪かったようだが、かといって吉川氏にことさら肩入れしたこともなく、お夕自身に冷眼を向けてきたこともない。
いや、そういう考察の以前に、
――この人は、わたくしと幸松丸に悪しゅうはせぬ。
ということが、お夕にはわかるのである。女には男の真価を一瞬に洞察する眼があり、その直感が彼女にそう囁いていた。
「幸松丸にもしものことがあれば、わたくしは生きてはおれませぬ。相合殿、後生です。どうか幸松丸のことを守ってやってください」
お夕は必死な眼でそう訴えた。
元綱は弱者に対する憐憫の情が強いところがあり、女から頼られることには特に弱い。それが幸薄い美女から出た哀願となれば、何をかいわんやである。
「心配はご無用です。幸松丸さまは必ず無事にお帰し致しますゆえ、どうか安んじてお待ちくだされ」
ことさら頼もしげに答え、隣に座る甥っ子に笑みを向けた。
「幸松丸さま、厳島行きは楽しゅうござるぞ。厳島神社の壮麗な社殿、天にそびえる唐様の五重塔、青い海に立つ真っ赤な大鳥居などは、その美しさ、素晴らしさ、筆にも言葉にも尽くせず、安芸に生きる我らの誇りとするところでござる。その目でご覧になれば、きっと肝を潰しますぞ。また、山育ちの我らにとって、海の雄大さ、瀬戸内に浮かぶ島々の景色の面白さは、また格別でござる」
少年は無邪気に眼を輝かせた。
「叔父上、早う見てみたい」
「あはは、いましばらくのご辛抱でござる。今宵を入れて、あと二度お眠りになれば、明後日の夕刻には厳島を遠くに眺められましょう」
はしゃぎ気味の少年の隣で、その母は何かをこらえるような沈鬱な表情を変えなかった。
翌朝、日が高くなる前に元綱たちは居館を出立した。
元就は旅費とは別に、厳島神社への進物として拵えの見事な太刀を一振、般若心経の写経一巻、時服一重を用意し、さらに米十石(二十五俵)が買えるだけの銭を用立ててくれていた。実際に米を運ぶのは手間だから、その分の銭を寄進するのである。
「別当の大聖院にも必ず参拝し、寄進を届けてくれよ」
「承知した」
馬上の幸松丸を中心に、主立つ人々はみな馬に乗り、護衛の兵が五十人ほどその前後を囲んでいる。
「ゆくぞ!」
と元綱が声を張り上げると、一行は歩武を揃えて進み始めた。
吉田の集落を抜けて多治比川を渡り、江の川に沿って南西へと進む。山々は冬枯れて生彩を欠いているが、天気は悪くない。やわらかな陽を浴びながら元綱も馬に揺られた。
初日の移動は四里ほどであるから、ゆっくり歩いても半日も掛からない。途中で一度昼の休息を挟みつつ、山襞の間を縫うように可部街道をひたすら進み、日があるうちに阿賀城に入った。
阿賀城は井上光貞という男の城である。井上一族は族人が多く、宗家と分家、兄弟や親戚関係の把握が非常に困難なのだが、光貞の弟の元貞が十五老臣に名を連ねているから、光貞の系統は井上一族の中でもそれなりの有力者であったらしい。
「ようこそお出でくだされた。今宵はごゆるりとおくつろぎくだされ」
主君を我が城に迎えるのは名誉であるから、井上光貞は満面の喜色を浮かべて一行を歓待した。
翌日はあいにくの曇り空だった。
この時期、日の出は遅い。ゆっくりと朝餉を取り、出立の支度を終えると辰の刻(午前九時)を過ぎた。
元綱は一行を集め、叔父として若き主君に呼び掛けた。
「幸松殿」
「はい」
「我らは今日より毛利の領国を出て、いわば敵の地を歩きます。武田、熊谷などにとって、毛利は先君の仇であるによって、幸松殿を殺めんとする不埒者が現れぬとも限らぬ。おわかりになろうか」
「わかります」
少年の顔つきが真剣なものに変わった。
「私を害そうとする敵があるかもしれぬのですね」
「たとえ敵が現れようとも、我らは必ず幸松殿をお守りし、毛利の領国にお帰しせねばならぬ。そこで、敵の目を欺くために、今日一日、幸松殿には我らから離れて歩いて頂くことにした」
幸松丸は考えるような目つきをした。
この少年は頭が良い。毛利家は文章博士の末裔という家であり、その当主として恥ずかしくない教養を身につけさせるべく、お夕は幸松丸の教育には熱を入れ、郡山の満願寺に早くから通わせていた。その教本は『源氏物語』のような古典はもちろん、四書五経や『史記』といった漢籍にまで及んでいる。むろん資質は書物に精通するだけで開花するというわけではないが、歴史を知るということは過去に実際に行われた人の営みを知るということであり、聖賢が遺した言葉や古人の行蔵について考えることは、人の思考に幅を与えてくれる。幸松丸は優秀な受容力を持っており、体質こそ虚弱だが、その知能は同世代の凡百と比べてはるかに優れていた。
「一行に私がいるように見せかけ、私は一行から離れるというわけですね」
「我らがお側近くにおらぬのはご不安でもあろうが、廿日市という町に着くまでのことでござる。ご辛抱頂けようか」
「私にはわからぬことばかりで、どうすることが最善であるのかもわかりませんが、叔父上がお考えなされたことならば、それがもっとも良いのだと信じます。叔父上のお言葉の通りにします」
うなずいた元綱は、修験者に姿を変えた重蔵を呼び、少年の前に控えさせた。
「この男は、京の御所を守る『北面の武士』の末裔にて、羽田重蔵と申す刀術の達人でござる。今日よりはこの男が、付きっきりで幸松殿をお守りします」
「重蔵とお呼び捨てくだされ」
重蔵が頭を下げると、少年は鷹揚にうなずいた。
「重蔵、よしなに頼む」
元綱は幸松丸を着替えさせ、小さな行者を作った。
毛利領を移動するだけの一日目は馬を使えるが、舟に乗る関係で二日目からは全員が徒歩になる。旅の荷物や奉納の品などは菰や布袋に包んで背負って歩くわけだが、元綱はその中に半弓を一張り忍ばせることにした。
衛兵に囲まれた元綱の一行が阿賀城を出立すると、それにやや遅れて、修験者に姿を変えた重蔵と幸松丸が街道を歩き始めた。




