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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
41/62

粛清(四)

 毛利軍が向原へ出陣し、日下津ひげつ城を囲み、坂広時を自刃させたと知った亀井秀綱は、片頬に笑みを作った。


「存外早く片付いたな。もう少し事がこじれるかと思うたが――」


 事態の展開次第では、毛利家が二派に割れて内訌が起こり、そこに尼子軍が軍事介入して日下津城を奪い取ることさえ出来るかもしれない――などと、秀綱は密かに目論んでいたのである。秀綱の放った謀略の火矢は、大火に発展することなく、小火ぼやのうちに消し止められてしまったらしい。

 ――まあ、致し方あるまい。

 毛利氏を降すという目的自体は、秀綱はきっちり果たしているのである。尼子軍の兵の血を一滴も流さず、わずか三日で毛利氏を屈服させ、同時に毛利家中の大内派の首魁をも排除したのであるから、まず上々の成果とすべきであろう。今後の毛利家は尼子派の重臣によって主導されてゆくことになり、つまり毛利が再び大内方に寝返るような芽をも事前に摘んだと言える。

 しかし、秀綱がその報告を主君に行ったとき、尼子経久はまったく喜色を見せなかった。


「ふむ・・・・」


 と腕を組んでしばらく押し黙り、遠くを見るような眼を宙に向けた。

 ――上・中・下で言えば、まず中か。

 下策とまでは言わないが、決して上策であったとは褒められない。それが率直な感想だった。

 毛利氏自身の手で大内派の首魁を処分させる。着想は悪くないにしても、手段がやや陰湿である。たしかに尼子軍の兵に犠牲は一人も出ず、時間も掛けずに毛利氏を降したわけだが、経久に言わせれば、それはそれだけのことであった。

 謀略とは本質的に陰湿なものであるから、人はそれに好感を抱かない。最高の謀略とは、謀略が行われたこと自体を誰にも気づかせぬほどの巧緻さを備えたものであろう。それが出来ぬなら、せめて陽性な明るさを世間に印象づけるなり、目の覚めるような鮮やかさで衆目を驚かせるなりして、陰湿さを糊塗ことしてしまうのが賢いやり方と言える。

 ――能登はまだまだ苦労が足りぬな。

 経久は口元だけで苦く笑った。

 名将と呼ばれるような人間は、戦った相手に畏怖されると同時に尊敬もされるものだが、毛利家の者たちは、秀綱を憎悪したり畏怖したりすることはあっても、好感も信頼も抱きようがない。毛利家がどう処分されるかを注視している芸南の豪族たちにしてもそれは同じであろう。

 それでは駄目なのである。

 人は恐怖には決して頭を下げない。たとえ下げる形を示したとしても、内心では舌を出しているか、あるいは怨怒えんどを肚に溜めている。人に心底から頭を下げさせるには、結局のところ、威徳と福徳とをもって敬服させる以外ないのだが、秀綱はそのあたりに理解が届いていないのであろう。

 毛利氏を降すのは最終目標でもなんでもない。ひとつの戦い、ひとつの政治的措置に、今後の戦略を有利に運ぶための含みを持たせ、その常人には視えぬ連続性のなかで安芸制覇の大略を描いてゆくという知恵の深みが欲しい。亀井秀綱といえば尼子家の重臣中の重臣であり、次の世代の尼子家を背負ってゆくべき支柱の一人であり、ゆくゆくは芸備二国をやすやすと取りさばけるほどの男になってもらわねばならないのである。

 そう思いつつ、経久はそれを言葉にはしない。毛利氏の処分は任せる、と言った以上、後からあれこれ口を挟むべきではないであろう。

 経久が言ったのは、


「勝ち方や負け方には人の性根があらわれる。お前はもっと徳を積まねばならぬな」


 ということであった。

 亀井秀綱はタイプで言えば官僚型の秀才で、知恵のめぐりは尋常ではなく、処理能力も高く、何をやらせてもそつなくこなす才覚と器用さを備えているが、人としての肌触りにはやや冷たさがある。己の知恵を誇りたがり、己より能力の劣る者を軽侮けいぶするような悪癖があるのも事実で、それを韜晦とうかいするような人格の厚みにも欠ける。敵にゆずって勝つ、というのが勝ち方の最善の形であるが、相手をともかく屈服させねば勝った気になれぬというところが秀綱の若さであろう。その料簡の狭さが、器量をひとまわり小さくしている。経久にすればそこが歯痒いのである。

 ――なにかご不満であったのか。

 自分の成功に主君が満足していないらしいと悟って、秀綱はやや鼻白んだ。


唐土もろこしの聖賢に、取らんと欲する者はず与えよ――と言った者がある。存じておるか」


「『老子』でしたか・・・・」


 秀綱は学問においても俊才であり、その程度の知識はある。


「この世に人の怨みほど恐ろしいものはない。その災禍から無縁でおられるのは聖人しかなく、その災禍を未然に避けられる者を賢人というが――」


 我らは武士であり、武士とはしょせん功名の餓鬼がきに過ぎぬ、と経久は断じた。飢えと渇きに苦しむ亡者のように功名を欲するのが武士だ、という意味である。


「争いをたしなむ者は聖人にはなれぬ。賢人になり得る者も、世に幾人もおらぬであろう。凡愚である我らは、せめて積徳せきとくに努めねばならぬ。それが、家を保ち身を全うする道よ」


「積徳、でございますか・・・・」


 この主君こそが賢人である、と秀綱は信じているが、その言葉に反駁するわけにもいかず、不承不承という表情でうなずいた。

 秀綱は少年の頃から常に経久に近侍し、その成功を見つめながら成長し、大きな敗北も挫折も知らずにここまできた。そういう気鋭の青年に、この手の「老人の箴言しんげん」はみにくい。人は結局その身をもって思い知ったことしか解らないものであり、知るということと解るということは別なのである。経久の賢明さはそれさえ弁えていることであり、

 ――自分で学べ。

 と、この青年を突き放していることであろう。

 人格は学問だけで練れるものではなく、才智や徳量は不断の努力によってかさ上げしてゆくしかない。失敗もかてになるのである。人は慢心した瞬間から成長をやめるということを想えば、己の足りなさをり、常に学ぶことを心掛ける謙虚さこそが肝要であろう。

 臣下の不徳はそのまま主君の不徳と世間は見る。それも承知の上で、忍耐をもってこの青年の成長を見守っているところが、経久の主君としての器量の大きさであった。

 経久ほどの男から見れば、秀綱はまだまだ未熟ではあるが、それでも、

 ――能登には見所がある。

 と思わせるものを確かに持っている。

 秀綱は、経久を主君であるという以上に智将として崇敬している。経久の言動から何かを吸収し、己を高めようとする気概がある。譜代の臣として尼子家に対する忠誠心も申し分なく、己が尼子家の枢要にあることに強い誇りと責任感を持っている。何より重要なのは、若いということであった。これからさらに様々な経験を積み、人格を育てれば、嫡孫である三郎四朗(後の尼子晴久)の輔弼ほひつを任せられるかもしれない。

 いや、

 ――そうなってもらわねば困る。

 というのが正直なところであったろう。

 秀綱を下がらせた経久は、


「又四朗が生きておれば、な・・・・」


 と愚にもつかぬことを呟いて、ひとつため息をついた。

 経久はすでに六十五である。人の生涯に四季があるとすれば、己の人生がすでに晩秋に差し掛かっていることを、経久自身が誰よりも強く自覚していた。ここからさらに何年生きられるかは神のみぞ知るところだが、馬に乗ることができるのは、せいぜいあと五年かそこらであろう。人生の冬枯れを迎える前に、なんとか安芸と石見の経略に目鼻をつけ、大内氏の影響力を周防・長門の国境線まで押し返し、中国地方における尼子の覇権を確固たるものにしておかねばならない。

 嫡男の政久が健在であれば、こんな懸念はそもそも必要もなかったであろうが、この稀代の智将は、そういう幽かな焦燥と苛立ちのなかで、この大永二年(1522)という年を生きていた。



 首桶を携えた多治比元就が、副使の中村元明とわずかな近習を連れて尼子軍の本陣となっている寺へと再び赴いたのは、その翌日である。

 表情を消した元就が首桶を差し出すと、亀井秀綱の家来がそれを丁重に受け取り、桶から首を取りだし、主人の前にうやうやしく置き据えた。

 秀綱は坂広時の顔を知らない。


「伊豆殿――」


 求めに応じ、吉川国経がその首を実検した。


「日下津城の坂兵部大輔ひょうぶたいふ殿に間違いござらぬ」


 うなずいた秀綱は、


「お屋形さまがお会いになられる。多治比殿、ついて参られよ」


 とごく事務的な口調で言い、席を立った。

 尼子経久に拝謁が叶うということは、臣従を許されたと解釈して良いであろう。元就はわずかに安堵したが、亀井秀綱の冷淡な態度にはやり切れなさが残った。

 ――能登殿は私を軽侮けいぶしている。

 保身のために重臣の首を差し出す。その容儀の悪さを元就自身が誰よりもよく自覚しており、身が震えるほどの羞恥と屈辱に耐えているのだが、亀井秀綱はそんな元就を冷然と見下して憚らない。秀才が落ちこぼれを見る時の眼と言えばそれに近いであろう。その挙措や言動は礼を踏み外すことこそないが、いかに丁重に振舞おうと心が篭っていないのだから、慇懃無礼というしかない。この男は元就に親しもうという気がハナからないのであろう。

 秀綱は元就らを伴って回廊をわたり、寺の本堂と思しき建物に入った。軍議などをする広間代わりに使われているのだろう。

 外の明るさと対照的に、堂内は薄暗い。その幽冥ゆうめいのなかに、二十人ばかりの人影が黒々と並んでいる。先に入室した吉川国経がその列に加わった。

 最奥に、本尊を背にして中背痩身の男の影が座している。暗さに眼が慣れてくると、左右に居並ぶ諸将の顔も見えるようになった。高橋興光、宍戸元源もとよしなどもそこに混じっている。

 亀井秀綱が最前列の席につき、元就と中村元明は戸口に近い遥か下座で平伏した。


「毛利幸松丸殿が名代、多治比の元就殿をお連れ申しました」


 秀綱の声に合わせ、元就はわずかに額をあげた。


「多治比元就にござりまする」


 上座の男は穏やかな笑みを浮かべた。


「そなたが多治比殿か。我がしつ(妻)などからお噂はかねがね聞いておった。ようやっと対面が叶うたな」


 元就が恐懼きょうくする姿勢を見せると、その頭上からさらに声が降ってきた。


「お手をあげられよ。そのように遠くては、お顔がよう見えぬ。遠慮のう、もそっと近う寄られよ」


 その言葉に躊躇なく従えばいかにも不遜に見えるであろう。元就は威を畏れるように平伏し続けた。


「多治比殿は我が姪御の婿――我らはいわば叔父・甥の間柄である。そのように畏まられることはない。お気をくつろげなされよ。遠慮のう、もそっと近う」


 こうまで言われれば肚を据えざるを得ない。元就は腰をあげて数歩進み、再び平伏してから威儀を正した。

 ――これが尼子経久か。

 えんじ色の小具足姿。頭には萎烏帽子もみえぼしを載せ、鉢巻を締めている。すでに六十代も半ばのはずだが、目尻の皺とびんのあたりに白い毛が目立つほかは、老いのかげはさほど濃くない。細面で端正な顔立ちで、眼はやや眠たげに細まり、口元に微笑がある。

 厳峻げんしゅんな威容を想像していただけに、その優しげな容貌は元就にはやや意外であった。が、穏やかに細められた眼と視線が合った瞬間、息苦しいほどの重圧を感じた。眼光から放射する何かが、元就を強烈に打ったと言っていい。

 ――この人は、鷹だ。

 と元就は直感した。鷹はあらゆる鳥のなかでもっとも賢く、もっとも獰猛で、しかも誇り高い。一度狙いをつけた獲物は執拗に追い回し、決して逃がさない。

 視線を床に下げた元就の背に冷たい汗が流れている。位負けした自分を感じた。

 人物を観察しているのは経久も同じである。

 元就の眼を見た経久は、

 ――ほどが良い。

 という第一印象を持った。柔弱ではないが粗暴でもなく、軽忽けいこつからは遠いが決して魯鈍ろどんでもない。軽くはなく、重すぎもしない。そんな感覚である。

 ただ、あの武田元繁を一撃でほふった男にしては、武の匂いが薄く、線が細い。そもそも毛利氏は大江氏から繋がる学者の家系であり、その血が濃く出ているのだとすれば、そういう男が蛮勇とも言える戦い方で武田元繁を討ったというところに、経久は面白みを感じた。


「向原の辺りが何やら騒がしかったようだが、多治比殿が胆知によって事を治めたと聞いた。祝着であったな」


 音吐に力がある。


「それがしなどには何の功もございませぬ。血濡らすことなく城門が開きましたのは、ひとえにお屋形さまの御威光によるものと――」


 微笑を崩さず、けれど経久は厳然と言った。


「多治比殿、わしは諛言ゆげんを好まぬ」


「は・・・・」


「わしに光のごとき威徳があれば、もっと早うに多治比殿にお会いできたであろう。坂兵部大輔ひょうぶたいふに気の毒をすることもなかった」


 その通りだと思いつつ、元就は頭を下げた。


「幸松丸さまを後見する重責を負いながら、家をまとめられず、遅参しましたる我が身の不明を恥じ入るばかりでございます」


「いや、多治比殿を責めておるのではない。わしの不徳の致すところと申しておる」


 老人はやや苦い笑いを浮かべた。


「此度のことは、毛利家を守護する御先祖の霊と、毛利家の長久を願う多くの者の想いに感応した神仏が、兵部大輔を動かしたのであろう。弓矢の沙汰に及ぶことなく、多治比殿がこうして参会してくれたことは、当家にとって大慶である。このことが芸北のみならず、安芸一国にとっての吉慶となり、いてはこの中国全体の静謐せいひつに繋がれば良いと、わしは思うておる」


 中国の静謐――中国地方を尼子が統一すると解するべきであろう。

 気宇の大きさが桁違いであると、元就は認めざるを得ない。元就は安芸一国どころか、毛利領を守ることにさえ汲々としているのに、眼前の初老の男は、あの大内義興をさえ覇気で圧倒しようとしている。大内義興が王者なら、尼子経久はまさに覇者であろう。

 ――この人があと十年若ければ・・・・。

 中国平定どころか、京に旗をてることさえ可能かもしれない。そう感じた元就は、尼子経久という人間の巨大さを実感したと言っていい。

 一方、経久の心事は、元就とはまったく異なる。

 経久にとって元就は子の世代よりさらに若い。そういう孺子こぞうを競争相手として見る気はまったくなく、歯牙にも掛けてないというのが正直なところであったろう。経久はいわば勝者であり、亀井秀綱が行ったやや非道な措置への負い目もあって、降将に対する宥恕ゆうじょの気分をもって元就らを眺めているから、特別なこだわりも負の感情もない。


「中村宮内少輔くないのしょうとはそこもとか。話は能登から聞いておる。当家と毛利家のために色々と奔走してくれたそうだな」


 元就の背後で畏まっている中村元明にまで気さくに声を掛け、その労をねぎらった。

 お互いに言葉を交換したことで、場の空気がややほぐれてきている。

 ふと思い出した、という風情で経久は話題を変えた。


「ところで多治比殿、幸松丸殿はおいくつであられたかな」


「御年八つでござります」


「明年は九つか・・・・」


 経久は首を傾け、伊豆殿――と吉川国経に呼び掛けた。


「ご嫡孫の次郎三郎殿は、おいくつで元服されたのであったかな」


「九つのときでござった」


 国経は錆びの利いた声で答えた。


「なるほど。少々早いが、早すぎるということはないか・・・・」


 聞こえる声で独語した経久は、


「明年わしは、瀬戸内の海を眺めるために、再び安芸に参るつもりでおる。そのとき幸松丸殿の烏帽子親えぼしおやを務めて進ぜるゆえ、左様心得られよ」


 と軽みのある口調で言った。


「元服の祝いには、稚児着ちごぎの具足でもお贈りしようかな。その鎧を着た幸松丸殿の若武者ぶりを見るのを、今から楽しみにしておこう」


 来年再び安芸南部に侵攻し、鏡山城攻めを行うから、その戦さに幸松丸を出陣させよ、という諷意が込められている。

 戦さに出るには一人前の大人であることが前提であり、当然ながら元服を済ませねばならないが、毛利が尼子家に臣従した以上、烏帽子親は主君である経久が務めるのが至当である。毛利家の小身を想えば、経久ほどの大物にその役を務めてもらえるのは、むしろ名誉と言わねばならぬであろう。威福をほしいままにするとはこのことで、経久は人に福徳を授けつつその威徳に染めてゆく。

 元服は十五歳の前後で行うのが一般的であり、来年九歳の幸松丸には明らかに早すぎるが、吉川興経の元服が九歳であったと釘を刺されてしまえば、幼少を理由に辞退はできない。元就にすれば、


「格別のお心遣い、恐悦至極に存じまする」


 と平伏するほかどうしようもなかった。

 会見を終えた元就らは、別室に導かれ、そこでしばらく待たされた。

 ――とてつもない男だ。

 それが素直な実感である。

 負けた、と認めてしまうことは、実は簡単であった。小さな自我や矜持を捨て、尼子経久という人間に敬服し、心酔し、思考を止めてしまう方が、元就にとってはむしろ楽であったろう。

 しかし元就は、

 ――いつかあの男を超えてやる。

 と自らに誓うことで、敗北感をむしろ闘志に変えた。

 この心の動きは、我ながら不思議だった。

 かつて元就は、天下人たる大内義興に拝謁したことがある。あのとき、元就は大内義興に吸い寄せられるような自分を感じた。しかし尼子経久に対しては、なぜか反発してしまう自分があるのである。これは心理学的には近親憎悪とか同族嫌悪とかいった感覚に近いであろう。自分と経久が同じ種類の人間であると元就は直感しており、経久の器量や能力が自分より遥かに巨大だということを痛感したがゆえに、敗北を受け入れぬためには無意識のうちに反発するしかなかったのである。

 ――五年や十年では足りぬ。そのもっと先を見よ。

 と元就は己に言い聞かせた。

 現在の元就の人間としての総合力は、尼子経久にはとうてい及ばない。しかし、そのことに絶望したところで何の意味もない。四十年後の元就が、今の経久を凌駕すれば良いのである。そしてそれは、まったく不可能である、ということにはならぬであろう。元就は己の未熟さを知っている。あの偉大な先達を心の師と仰ぎ、己を高め続けてゆけば、いつか師を超えることだってないとは限らない。若さとは可能性であり、元就が成長を止めない限り、未来に向けて可能性は無限に広がっているのである。

 経久が生きているうちに勝つことはできないかもしれない。しかし、尼子経久という巨大な「個」をいつか超克するということならできるかもしれない。

 ――何年掛かっても、必ず追いつき、追い越してみせる。

 そうとでも思わなければ、負け犬のように項垂うなだれるしかなくなるではないか――。

 元就は歴史学者の家系に生まれた男である。自分という存在を歴史の中に置いて俯瞰ふかんして眺めることができる心の眼を持っている。

 その眼で眺めれば――。

 経久はすでに六十五であり、その嫡孫の三郎四朗はわずかに九歳である。人は必ず死ぬわけで、尼子家を継いだ三郎四朗が少壮を迎えるころ、経久はおそらく世におらぬであろう。後継者であった政久の死が、尼子家の将来にくらい翳を落としている。そして元就は、その頃にまさに壮年を迎えるのである。これは天の配剤であり、今の元就が持っている経久に対するただひとつのストロングポイントであろう。

 そんなことを考えているうちに半刻ほどが過ぎた。


「お待たせ致した」


 亀井秀綱とその下僚が部屋に入ってきた。臣従の盟約における実務面の交渉を行うためである。


「証人のことでござるが――」


 元就は言わねばならない。

 毛利家当主の幸松丸はまだ幼く、当然ながら子もいない。人質として適当な男子はないので、重臣をもってそれに代えさせてもらいたい。


「証人は、当主の男子のお子か、あるいはご兄弟を出して頂くというのが、当家の定めでござる。幸松丸殿にそれがなく、重臣で代えたいと申されるなら、二人は出して頂かねば、他家との釣り合いが取れぬ」


 秀綱は厳然と言った。

 出される要求はそのまますべて呑むしかない。


「承知つかまつった」


 郡山城に帰った元就は、さっそく重臣を集め、人質の人選について相談した。

 人質とは盟約の証人であり、毛利家と尼子家の主従の盟約が続く限り吉田へは帰れない。人質となった人間は別に牢に放り込まれるわけではなく、出雲の月山富田城下に屋敷を与えられ、そこで暮らすことになる。むしろ尼子家に仕えると考えた方が実情に近いであろう。毛利がその盟約を破らぬ限り殺されることはないが、主従関係が円満に何十年も続くとすれば、そのまま出雲で客死し、異郷の土にならねばならない。

 さすがに広間は静まり返り、気まずい沈黙が流れた。

 ここで赤川就秀なりひでが、


「拙者が参ります」


 と自ら声をあげた。

 赤川氏は譜代の中でも筆頭の渡辺氏に次ぐ家格を誇る族で、就秀は赤川宗家の次男として生まれた。長兄であった元光は、毛利家の老臣を務めていたが、ある合戦で奮戦の末に討ち死にした。先代・興元はその死を大いに悼み、元光の弟である就秀と元保もとやすを評定衆に抜擢し、老臣の地位を与えたのである。兄弟は五人であったが、長男がすでに戦死し、三男は出家しているから、実質的には三兄弟であり、次男の就秀が赤川党の当主と言っていい。


「拙者は秀岳院さまより過分な処遇を頂きながら、これまでさしたる働きもできませなんだ。譜代の家に生まれた者として、主家が危難のこの時にこそ、お役に立ちとうござる」


 この男はそういう形で先君の恩に報いるつもりなのであろう。

 さらに家中で話合い、一門衆から光永みつなが秀時という男を出すことにした。光永氏は坂氏の分家で、秀時は坂広時の弟である。長老を殺された坂一族が、それでも尼子に服従するという証しにもなるであろう。

 一人は譜代の老臣、一人は一門の重臣であり、この人選なら尼子家の側から文句の出ようもない。


「往ってくれるか・・・・。すまぬ・・・・」


 元就は二人に向けて土下座のような辞儀をした。

 その翌日、毛利家と尼子家の盟約は無事に成立した。

 調印と人質の受け渡しなどを終えた元就は、尼子軍の陣払いを見届けた上で、郡山城へ帰って報告を行った。

 さすがに心身ともに疲れ切っている。

 数日ぶりに多治比の猿掛城へと帰り着き、着替えを済ませて暗い居室に落ちついたとき、すでに深夜に近かった。

 元就は酒を嗜まない。身体はぐったりと疲れていたが、頭の芯が疼くようで眠る気にもなれず、だらしなく足を崩した姿勢で闇を睨みながら鬱々と考え事をしていると、衣擦れの音を幽かに響かせながらお久が現れた。


「まぁ、灯りもおつけにならずに――」


 お久は灯明に火を入れ、夫の傍らにそっと座った。


「あの、元就さま――」


「・・・・・・」


「お話があるのです」


「どうした?」


「あの・・・・。これまでハキとはしておりませんでしたし、お家が色々と大変な時期でもございましたので、言いそびれていたのですが――」


 お久は恥ずかしげに俯いて続けた。


「ややが出来たようなのです。悪阻つわりがあったので、間違いないと思います」


 まったく意表を衝かれ、一瞬呆けたような顔をした元就は、


「ま、まことか・・・・!」


 我に返ると弾かれたように立ちあがり、喜びを爆発させた。


「でかした。お手柄じゃ。いや、そうか。それはよかった・・・・!」


 疲れも鬱屈も一時に吹き飛んだ想いである。

 悲喜交交こもごもとはよく言ったもので、人生辛いことばかりが続くわけでもない。翌年生まれてくるこの赤子こそが、元就の嫡男となる毛利隆元たかもとである。



 さて――。

 大永二年(1522)の八月といえば、毛利元就が壬生みぶ城を攻め落としたという記録が残っている。

 壬生城は山県郡の壬生にある山城で、吉川氏の有田城から半里ほど北東にある。山県氏(壬生氏)という小豪族の本拠である。山県氏はもともと武田氏に属していたが、有田合戦で武田元繁が敗死すると毛利方に投降し、山県郡での吉川氏の優位が確立すると吉川氏に従うようになった。

 つまり、壬生城は吉川氏の属城であったわけだが、それを同盟している毛利氏が攻める、というのは、不思議な話である。まして元就に壬生城を攻めるように命じたのは大内義興であったらしい。これもまた奇怪な構図と言うしかない。

 この時期、毛利氏は尼子氏に臣従した直後である。それでも大内氏の命に従って軍事行動を起こしているのだから、毛利氏は相変わらず大内・尼子の両属という姿勢を保持していた、ということがはっきりと解る。尼子氏に臣従しながら、大内氏との繋がりを切らぬよう画策した者がいたわけで、それはおそらく外交家として胆知と図太さとを備えた志道広良であったろう。

 安芸南東部の西条には大内氏の軍事拠点である鏡山城がある。

 鏡山城を預かっているのは蔵田房信ふさのぶという大内家の重臣で、この男は安芸駐屯軍の主将でもあり、安芸の豪族たちを統御する軍団長のような役割を担っていたと思われる。

 蔵田房信は尼子軍の安芸侵攻と芸北の豪族たちの去就を注視していたに違いなく、


「芸北の豪族たちは揃って尼子に寝返った様子でござる」


 などと大内義興に報告されてしまえば、毛利としては言い逃れができない。毛利は芸北では鏡山城からもっとも近い位置にいる豪族であり、仮に大内氏が芸北征伐を発動したとすれば、最初の攻略目標にされるのは間違いないのである。

 志道広良は憂慮したであろう。

 亀井秀綱の非道によって伯父を殺されている広良は、尼子氏に対して親しみも信頼も持ちようがない。このまま尼子に従うことが毛利家の安泰に繋がるとは思われず、元就とも密かに話合ったに違いない。


「尼子に降るのは致し方なかったにせよ、大内とこのまま断交するわけにも参りますまい。預けてある人質のこともござるし、後々のことも考えておかねばなりませぬ。ここは、やむなく降ったというていにしておくことが肝要かと存ずる」


 広良は、安芸から尼子軍が去るや、大内氏から問責の使者がやって来る前に、いわば先手を打つ形で、自ら密かに鏡山城に赴いたか、あるいは重臣を遣わすかしたであろう。


「我らは、大内のお屋形さまから受けた恩義と大内家の多年にわたるご助成を、決して忘れてはおりませぬ。当家は微力でありますから、大内の援軍が望めぬ状況では尼子に屈するほかござりませなんだが、しかしながら、これはあくまで一時の権謀、いつわりの和睦にて、当家は大内家に叛くようなつもりは毛頭ござりませぬ。なにとぞ、当家のごとき小家こやけの苦衷をお汲み取り頂きたく――」


 などと、蔵田房信に訴えたのではないか。

 無論、そんな言葉だけで易々と納得してはもらえなかったであろうが、芸北での尼子派の首魁は、なんといっても尼子経久の義兄である吉川国経である。毛利氏は吉川氏と共に寝返ったという意味で共犯ではあるが、少なくとも主犯ではない。また大勢力に迫られた弱小勢力が反覆を繰り返すのは、いわば当然の生理現象のようなもので、決して珍しい事例ではない。蔵田房信としても、いきなり毛利氏に制裁の兵を向けようとまでは思わなかったであろう。


「毛利は一戦もせずに尼子に降ったというではないか。口先だけなら何とでも申し開きができるわ。毛利が我らの味方であるというその方の言い分が、本当だというなら、証しを立てよ。吉川を攻めてみせよ」


 大内方であるということを証明するために、尼子派の首魁である吉川氏と戦ってみろ――。去就の踏み絵のつもりで、それくらいのことは言ったのではないか。

 元就にせよ志道広良にせよ、吉川氏との盟友関係を壊したくはなかったであろうから、どうにか戦った振りができないか、密かに吉川国経に相談したに違いない。

 ここでさらに推測に憶測を重ねることになるが、前述の山県氏はもともと武田氏傘下の豪族であり、武田元繁の敗死後、吉川氏に属することになったものの、吉川氏との折り合いが悪かったのではないか。吉川氏に従っていることに憤懣ふんまんがつもり、たとえば吉川国経が尼子軍を馳迎ちげいするために兵を集めた時、その動員に従わなかったとか、再び武田氏に通じようとしたとか、何かその手の不都合があり、吉川国経を激怒させていたのではないか。

 国経が山県氏を制裁する肚づもりをこの頃すでに固めていたとすれば、なんとか筋が通る。

 実際、制裁といっても難しい。半端な武力行使に出れば山県氏を武田氏の元に奔らせることになるし、山県氏を族滅して壬生一帯を奪うというのではあまりに血生臭く、吉川氏に従う他の小豪族たちも眉をひそめるであろう。敵の本拠を城攻めするわけで、味方に大量の血を流させることにもなり、いずれ上手くない。

 それならいっそ、毛利軍を使って壬生城を攻めさせるというのは一案ではないか。毛利は同盟勢力であり、山県氏を武田方に奔らせて武田氏を肥らせるより、毛利に従うようにさせる方が、結果としてはマシである。毛利に貸しを作ることにもなる。


「そういうことであれば、壬生城を攻めなされ。そうすれば表向き吉川と毛利が戦ったことになろう。毛利には有田合戦での借りがあるからのぉ。壬生の辺りは婿殿に進呈しようではないか」


 というようなことを国経が言ったとすれば、実質的には毛利と吉川が合意の上で傘下の小豪族の帰属変更を行うようなものであり、この軍事行動を尼子氏に政治問題化されるというような懸念もいらない。

 大名間の外交の機微はそもそも玄妙で、証拠書類が残っているような事例は非常に少ない。まして大内・尼子という二大勢力に挟まれた安芸の豪族たちの去就は複雑怪奇というしかなく、実態は非常に掴みにくい。「大永二年八月、大内義興の命によって毛利元就が壬生城を陥落させた」という歴史的事実から、無理やり舞台の裏側を想像するなら、毛利氏、大内氏、吉川氏の間で、これに近いやり取りが密かに行われていても不思議はない――と筆者は考えるのだが、牽強付会けんきょうふかいであろうか。

 いずれにしても、この八月中旬、元就が毛利軍を率いて山県郡に出陣し、壬生城を攻めた、ということは間違いない。当然、元綱もこれに従軍したであろう。


「壬生城は小城だが、なかなか堅そうだ。まともに攻めては手間が掛かりそうだな」


 と元綱が言ったとすれば、


「今回は秘策がある。懸念は無用よ」


 と元就は自信ありげに笑ったであろう。

 壬生城の城主は山県信春という男で、名門・壬生氏の嫡流だけに気位が高く、若さもあって驕慢そのものという人であったが、その叔父の山県元照は割り合い穏健な人物で、吉川国経などとも親しく、話が解る。この山県元照であれば、山県氏の本領安堵さえ認めてやれば、調略にも応ずるだろう、と吉川国経から教えられていたのである。

 元就にとってこの合戦は、吉川氏と戦う形を大内氏に見せるだけでよく、山県氏を族滅するつもりなどはそもそもないわけで、調略で事を済ませられるならこんな有難いことはない。それで山県氏が毛利に属し、壬生が毛利領に加わるなら、万々歳である。

 元就は、城内の三の丸を守っていた山県元照と密かに渡りをつけ、夜陰に乗じて毛利兵を城内に導き入れさせ、一気に城主・山県信春を自刃に追い込み、城を陥落させた。八月十六日のことである。

 山県元照はそのまま壬生城主となり、毛利家に臣従した。元就が山県元照に宛てて発給した本領安堵と新領給付の起請文が遺っている。元照の嫡男は元就から偏諱へんきを受け、山県就照なりてると名乗り、以後は毛利家臣として活躍したらしい。

 ところで、大内義興が石見の戦場から周防の山口に帰り着いたのは、壬生城陥落の前後であったろう。蔵田房信から一連の報告を受けたのは、八月下旬であったに違いない。

 毛利氏が吉川氏を攻めたという事実を知って、義興は悪い気はしなかった。尼子方に寝返った芸北の豪族たちのなかで、唯一毛利氏のみが大内方に心を残しているということを行動で示してくれたのである。

 実際のところ、毛利氏は尼子軍に何の抵抗も示さず、大内派の重臣を殺してまで尼子に臣従しているのだが、その醜悪な事実が、吉川氏の城を攻め落とすという毛利軍の行動によって、まんまと糊塗ことされる形になった。


「すると毛利は権謀で尼子に従った振りをしたわけか・・・・」


 話を聞いた義興は、生前の毛利興元の信義の篤さを思い出し、


「やはり家風よな。毛利は義理堅いことよ」


 などと呟いて、毛利氏に対する評価をやや改めたかもしれない。預かっている人質を誅殺することも思い留まった。

 外交や政略においてもっとも重要なのは、時宜じぎである。志道広良が用いた策は非凡なものではないが、即座に動いたそのタイミングが剴切がいせつであったとは言えるであろう。




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