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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
40/62

粛清(三)

 時日がやや前後する。

 多治比元就が毛利家を救解きゅうかいすべく尼子軍の本陣へと赴いた、その二日前のことである。

 冴えた月から蒼い光が煌々と降り注ぐ中秋(陰暦の八月)の初更――。

 相合川の川べりに、ひときわ大きな石に腰を下ろし、流れに釣り糸を垂れる老人の姿があった。

 白々と浮かび上がる河原の周囲にはあしやススキが生い茂り、その穂先を静かに揺らして爽やかな川風が通り過ぎてゆく。肌に心地よい夜気は、絶え間なく続くせせらぎと騒がしい虫の音で満ちていた。

 老人は思い出したように時おり竿を上げ、鈍く輝く流れに再び針を放り込むという作業をゆったりと繰り返している。

 四半刻もそうしていただろうか。

 カサカサと草を掻き分ける乾いた音がかすかに聞こえ、周囲から虫の声が絶えた。やがて老人の背後の葦原が割れ、闇のような影が湧いた。


「市兵衛じい――」


 と声を掛けたのは、旅商人風の身なりをした青年である。蓮次という名の鉢屋者であった。


「待たせたかい」


 老人は振り向きもせず応えた。


「秋の宵は良いものじゃなあ。こうして月を眺めて、川のせせらぎを聞いておるだけで、何やら性根が洗われてゆくような気がせんか」


 なに寝とぼけた事言ってやがる、と毒づいて、蓮次は憫笑した。


「あんたみたいなじじいとお月さん眺めたところで、色気も何もあったもんじゃねぇや」


「違いない」


 市兵衛も背で笑った。


「で、話というのは?」


「あぁ――、あんたらにとっちゃ一大事の報せのはずだ」


 蓮次はたっぷりと間を取り、勿体をつけて次の言葉を吐いた。


「尼子の大軍が近々吉田に攻めて来るぜ」


「なんと・・・・」


「今度はずいぶん長いこと一処ひとところに尻を落ちつけてたが、茶番もそろそろ仕舞いだなぁ」


 長い沈黙があった。

 痺れを切らした蓮次が言葉を重ねた。


「元綱なんぞにくっついてると巻き添え食って死ぬって言ってんだよ。今のうちに逃げたがいい」


 老人はひとつ大きくため息をついた。


「おゆきさまがどういうご気性か、お前さんも知らんわけじゃなかろう。そうと知ればなおさら、四朗さまのお傍を離れようとはなさるまい」


「おいおい爺さん、こりゃ意地張ってるような時じゃねぇ。あんたもわかってるだろ」


 蓮次の語気が強くなった。


「高橋も吉川も尼子についた。大内の援軍も来やしねぇ。毛利にゃ百にひとつも勝ち目はねぇんだよ。もう尼子の軍は邑智おおち郡まで来てる。明日には安芸に入って、ひょっとすると横田の辺りまで出て来るかもしれねぇ」


「・・・・・」


「戦さが始まりゃ毛利は滅亡だ。たぶん半月と保たねぇぞ」


 その言葉に市兵衛は首をひねった。


「いや、それはそうとも言い切れまいよ。毛利が滅ぶかどうかはお屋形さまのお肚ひとつであろう。臣従させれば良しとお考えになっておられるなら――、わしらが死なずに済むということもあるかもしれぬ」


 この老人は見た目こそもっさりとして冴えないが、血のめぐりは悪くない。

 ――お屋形さまは、遺恨で毛利を攻めるわけではあるまい。

 長く生き、多くの武家の興亡を世間の裏側から眺めてきた市兵衛である。その知恵には老人らしい奥行きがあった。

 毛利家の主君は幼少の幸松丸で、この幼児に政治力は皆無であるから、あえて殺すまでもない。毛利家は重臣たちの衆議によって家政を運営しているわけで、つまり家中の大内派の重臣を排除するだけで簡単に尼子与党になり得るのである。戦争というものは生き物だから、実際に戦さになってしまえば、その先どう転がってゆくかは誰にも解らないという面は確かにあるが、毛利があくまで尼子氏の支配を拒絶し、最期の最期まで徹底抗戦するというような愚かな選択をしない限り、臣従して生き延びるという道はおそらく残される。

 それが老人の観測であった。


「毛利を滅ぼしてみたところで、さして得にもならぬしの」


 毛利氏は二百年にわたって吉田を治めてきた歴とした地頭であり、悪政を行っていたわけでもないから、吉田に暮らす領民からは非常に慕われている。この地で四年も暮らした市兵衛にはそのことが実感として解る。その毛利を滅亡に追い込み、別の領主を据えたとなれば、領民たちは尼子氏に骨髄の恨みを抱き、長く新領主に親しまぬであろう。その地に暮らす人の心を宥めることができなければ、占領統治はうまくゆかず、本当の意味で領地を支配したことにはならないのである。

 また、毛利は吉川・高橋両氏との紐帯が非常に強い。両氏は毛利に同情的であろうし、これを滅ぼすことには消極的でもあろう。さらに毛利は国人一揆の中心的存在であり、大内方に寝返った芸南の豪族たちとも繋がりが深い。毛利はこれまで尼子氏に敵対したことさえないのに、尼子経久が毛利の一族を殺し尽くすような血生臭い処分を行えば、芸南の豪族たちは経久に恐怖と嫌悪を抱き、これに親昵しんじつする気をなくし切るであろう。

 本拠で籠城するであろう毛利軍を攻め滅ぼすには手間も掛かるし、攻める側の尼子軍にも多くの無駄な血が流れることになる。経久はゆくゆく安芸一国を併呑するつもりであるに違いないので、毛利を族滅することの功罪を両面から計量して、より恨みの少ない落とし所で妥協するのではないか。外交で事を済ます方がよほど経済的だし、現実的だ、と市兵衛は思う。

 が、若い蓮次の思考には老人のような迂路うろがない。先年滅ぼされた石見の都治つじ氏のように、毛利も滅亡するものと頭から思い込んでいる。


「あんたが説得できねぇってんなら、俺があの女を盗み出してやるよ。男どもはこれから戦さ支度で大わらわになる。相合の屋敷も手薄になって必ず隙ができるだろ。あんたが手引きしてくれりゃあ、何とかやれるかもしれねぇ」


 蓮次が相合まで駆けつけて来た理由がこれである。

 ゆきとはまんざら知らぬ仲でもない。毛利が滅ぼうが元綱が死のうが知ったことではないが、あの女だけはその戦禍から救い出してやるつもりであった。ゆきの身柄が郡山城などに移されてしまえば、蓮次あたりが近づくこともできなくなる。やるなら、ゆきが相合の屋敷にいる間しかない。

 また長い沈黙があった。やがて老人はひとつため息をつき、


「そのようなことをしたところで、おゆきさまは喜ぶまい」


 と乾いた声で言った。


「喜ぶとか喜ばねぇとかの話じゃねぇだろが。悠長に構えてる場合かよ。あんたもおゆきも、あのさちって小娘も、みんな殺されちまうんだぞ」


「それがおゆきさまの選ばれる道ならば、致し方あるまいよ。幼いお幸坊には哀れとも思うが、わしのような年寄りは今さら浮世に未練もないでな。おゆきさまに従うだけのことじゃ」


 蓮次の眉間にみるみる怒気が湧いた。

 ――人が親切で言ってやってるってのによ。

 それだけに余計に腹が立ち、頭をガリガリと掻き毟った。


「お前さんが、らしくもない仏心でお節介を焼いてくれとるのは、ようわかった。おゆきさまに伝えるだけは伝えておくが――。おそらくは無駄であろうよ」


「だらくそが・・・・!」


 馬鹿野郎――と吐き捨てた蓮次は、


「ともかく忠告はしたぜ。あとは手前てめえらの勝手にしろ」


 と言い残し、再び葦原の中へと消えた。



 尼子の大軍が石見から安芸に侵入し、その先鋒軍が隣郷の横田まで迫っている。

 その噂は、瞬く間に吉田の城下まで伝わった。


「出雲のお屋形さまが毛利をご征伐なさるおつもりなのじゃ」


「高橋や吉川も尼子についたらしい」


「宍戸や武田と戦うのとはわけが違うぞ」


「戦さが始まれば町屋は焼き払われよう。家財をまとめて早う逃げよ」


 武士はもちろん、戦える年齢の男たちは武具や食糧を抱えて続々と郡山城に入城し、防戦の支度に忙殺された。女子供や老人、商家の者などは、保護を求めて郡山城に逃げ込む者はむしろ稀で、ある者は家財道具をまとめて山野へと隠れ、ある者は毛利領の南方へと避難し、あるいは寺社の領地に逃げ込むなどして、吉田の城下からまったく人影が消えた。

 相合の屋敷にもそれらの噂はもちろん伝わっている。

 夕刻になって郡山城から帰ってきた元綱が、


「話がある」


 と、いつになく深刻な表情で言ったとき、ゆきにはすでに心の準備ができていた。


「尼子の大軍が攻めて来た。先手の軍はすでに横田のあたりまで来ておるらしい。明日、兄者が出雲のお屋形のもとに詫びを入れに行くことになったが、もしこの話合いが不調に終われば、数日のうちにも敵がこの辺りまで雪崩れ込んで来よう」


 武士の妻になると決めた時から、いつかこのような日が来るかもしれぬと、心のどこかで覚悟していた。相合で暮らすようになって四年――。あっという間ではあったが、ゆきの人生の中でもっとも心穏やかに過ごせた歳月だった。その時間が確かにあったから、ゆきは自分の選択に後悔はない。


「四朗さまと共に死ぬのなら、怖くはございませぬ」


 夫の眼を見つめ、ゆきは強く言った。


「馬鹿め。死ぬなどと申すな」


 妻の決意をはぐらかす様に、元綱はことさら気軽な笑みを見せた。


「武士が戦さで死ぬのは、それが務めなのだから当たり前のことだが、何もお前まで死ぬことはない。お前は鶴寿かくじゅを連れ、今宵のうちにこの地を離れよ」


 ゆきの瞳に怨の色が出た。


「なぜそのようなつれなきことを仰せになるのです」


 この巫女あがりの女は、たおやかなその姿態にそぐわぬほどの激しい気性をうちに秘めている。馬鹿にするな――という想いが、頭に血をのぼらせた。


「ゆきは今義経の妻であることを誇りに思うております。義経が都を落ちたとき、静御前はどこまでも義経に従ったではありませぬか」


 かつて静御前は、没落した義経にどこまでもつき従い、愛した男と運命を共にする女の覚悟をその行動で示した。二人が離れ離れにならざるを得なかったのは、女人結界の吉野山に静御前が入山できなかったからで、義経の足手まといになることを察した静御前が身をひいた結果に過ぎない。その後、捕えられて鎌倉に送られた静御前は、頼朝が激怒することを承知の上で、衆目の前であえて義経を慕う歌を唄ってみせたではないか。


「静御前にあった覚悟がゆきにはないと四朗さまがお思いなら、恥辱でございます」


 覚悟や意地は、何も武門に生まれた女の専売特許ではなく、白拍子や巫女にだってそれはある。

 ゆきがそういう意味のことを早口で訴えると、


「違う違う。そうではないのだ」


 元綱は困ったように苦笑した。


「俺はそなたの覚悟を疑いはせぬし、生まれを卑しめるつもりもない」


「それなら――」


「まあ聞け」


 元綱はゆっくり言葉を継いだ。

 幸か不幸か、自分は武門の家に生まれ、武士として育った。生き方にせよ考え方にせよ、今さら変えられない。まして毛利家の主君あるじは、敬愛した亡兄の子である。幸松丸が死なねばならぬという時に、その叔父の自分が逃げ出すわけにはいかない。そんなことをすれば、あの世で兄に合わせる顔がなくなってしまう。


「――だが、これは俺の勝手な料簡だ。その巻き添えで鶴寿まで殺すことはない」


 子の名を出され、ゆきの眉根に迷いが湧いた。


「出雲のお屋形は、毛利をどうするつもりなのか――。臣従なり降伏なりを許してくれるなら良いが、もし毛利を滅ぼそうと考えておるとすれば、毛利本家の一門、連枝は必ず処断される。武門の子は怖いものだ。お屋形も後に禍根を残すような甘いことはすまい。鶴寿が毛利の領国の中におっては、たとえ寺社に匿ってもらったとしても、必ず探し出されて、首を刎ねられるか、磔にされるだろう」


「・・・・・・」


「お前は俺とは違い、心も身体も自在だ」


 歩き巫女であったゆきには、武家に生まれた自分などにはない自由さがある、という意味のことを元綱は言った。


「この先どう動いてゆくか、戦さになるのかならぬのか、それさえまだハキとは判らぬが――。毛利家の処遇が決まり、鶴寿が殺されることはないとはっきりするまで、お前に鶴寿を隠してもらいたいのだ。旅の空は歩き巫女の棲家すみかだと言ったな。武門に生まれた女にはとうてい持ちえぬ才覚が、お前にはある。鶴寿を野たれ死にさせるようなこともあるまい。お前なればこそ、俺も安んじて任せることができるんだ」


 こうでも言わなければ、この気位の高い女は、夫を死地に残して自分だけ逃げることを決して承諾しないということを元綱は知っている。母の心を動かすには子の将来を想わせるのが最良の策で、それが結果として愛する妻を戦禍から遠ざけることにもなるのである。武門の男なら誰もが持つ知恵であった。


「鶴寿を・・・・」


 妻として夫の滅びに殉ずることに、ゆきはためらいはない。しかし、自分が「毛利家の女」であるという実感は薄く、我が腹を痛めて生んだ子を家の滅びに巻き込むことには、小さからぬ感情の痛みが伴う。それを恬淡と受け入れられるほど、ゆきは冷徹ではない。


「いや、それほど深刻に考えずともよい。正直なところ、俺はまったく死ぬ気がせぬし、毛利家も何事もなく生き延びるのではないかとさえ思っている。だが、用心しておくに越したことはない」


「・・・・・・」


「転ばぬ先の杖というヤツだ。それだけのことだ」


 長い黙考の末、ゆきは静かに口を開いた。


「出雲のお屋形さまが軍と共に去れば、ゆきは鶴寿を連れて戻って参ります。それでよろしいのですね」


「申すまでもない。お前に帰ってきてもらわねば俺が困る」


 その夜、久しぶりに巫女の装束に袖を通したゆきは、夫の所望に応じて白拍子の舞いを舞った。


  しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


  吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき


 静御前が頼朝の前で唄ったとされる歌である。手足を舞わせつつ、ゆきは実に美しい声でそれを唄った。元綱は我が子を膝に乗せ、静かに酒を飲みながらその舞いを眺めた。

 鶴寿丸を抱いたゆきが夜陰に紛れて相合の屋敷の裏門を出たのは、夜更けである。幸と市兵衛がそれに従ったことは言うまでもない。

 密かな出立を見送った元綱の背に声が掛かった。


「和子さまと奥方さまを落とされましたか」


 重蔵である。


「俺は手前勝手でな。たとえ毛利が滅ぶにしても、妻子を巻き込みたくはない」


 遠くの闇を見詰めたまま元綱は応えた。

 重蔵は微笑し、うなずいた。


「ようございました。実はわしも和子さまのことが気懸かりだったのです。これで心置きなく戦さに専心できます」


「お前も――、この地を離れるなら今のうちだぞ。お前には極めんとする道があろう。俺に殉じて中道にたおれることはない」


「四朗さまから受けたご恩は、この命をもってお返しすると、いつかも申したはずです」


「馬鹿め」


 振り向いた元綱は重蔵と似た笑みを浮かべていた。


「敵は二万を超す大軍と聞きます。どれほど討ちまくったところで不足はありますまい。存分に暴れてやりましょうぞ」


「あぁ、そうするか」


 元綱はあえて明るく言った。

 あの尼子経久が自ら率いる大軍を相手に、十分の一以下の寡兵で戦って、勝ち目などあろうはずがない。そのことはこの主従にはわかり過ぎるほどわかっていた。しかし、いずれ負けるにせよ、毛利一門の人間が殺し尽くされ、毛利家が滅亡するというような最悪の事態だけは絶対に避けねばならない。

 毛利家を確実に延命する方策は、実はある。

 ――家を二つに割ることだ。

 兄弟や親族が敵味方に分かれるのは、血統を絶やさぬための武門の知恵と言っていい。

 たとえば元綱と元就が、それぞれ尼子派と大内派の旗頭になり、めいめいに重臣を抱き込み、兵を集めて、あえて内訌を起こしたように見せかける。尼子派は使者を走らせて尼子経久と結び、幼い幸松丸の責任を問わぬことを条件に尼子家に忠誠を誓い、尼子軍を後ろ盾にして大内派を攻撃し、降伏させるのである。この手なら、当面の危機はおそらく回避できるであろう。

 しかし、家中を二つに割る以上、毛利の武士同士で殺し合わねばならなくなるし、結果として大内派の主立つ者は処断するか国外に亡命させるしかなくなる。まして騙そうとする相手はあの尼子経久である。戦さぶりを眺めるその眼光に甘さはあるまい。そこに詐術の臭いを嗅げば、後にどんな処断が待っているか知れたものではない。

 いや、そもそも元綱は、陰謀で事を動かすことを好まない。

 ――武士の進退は明快であるべきだ。

 甘いと言われようが子供と嗤われようが、それが元綱の信念であった。卑怯、臆病、恥知らずと後ろ指を指されるくらいなら、死んだ方がマシ、と言い切れてしまうところにこの若者の気質がある。この潔癖さは、若くして死んだ兄・興元の影響もあるであろう。生前の興元は他人に対して権詐けんさを用いたことがなかった。その生き方は、そのまま元綱の理想になっている。

 大内氏の援軍が期待できない以上、最終的に尼子氏に降ることになるのは致し方ないにしても、戦って戦って毛利の武士のつよさと意地を天下に示し、その上で誇りをもって降りたい。

 そのためには――。

 ――ともかく一日でも長く時を稼ぐことだ。

 いかに尼子経久でも、稲の取り入れ時期に長期滞陣するのは愉快ではないはずだ。籠城して手強く戦い、大軍の波状攻撃をしのぎにしのぎ、十日、二十日と時間を浪費させておれば、事態がどう推移してゆくかは誰にもわからない。短期の城攻めで結果が出なければ、尼子経久の気分も変わるかもしれないし、吉川国経あたりが和睦の斡旋に乗り出してくれるかもしれない。

 武門の誇りと面子を保った上での臣従――。

 そのあたりが現実的に考え得る最善の道であろう。出来得れば、尼子側から和議を言い出させるところまで何とかもっていきたい。現状で見通しはまったく立たないが、より良い条件を引き出すためには、尼子軍にも相応の血を流させねばならぬであろう。


「百万一心だな、兄上・・・・」


 闇色の天を見上げ、元綱は呟いた。

 今こそすべての者が「百万一心」の心で人事を尽くし、領国の地の利を最大限に生かして戦い抜くしかないであろう。そこに天のたすけが加われば、奇跡が起きることもある。

 夜明けまで眠った元綱は、日が高くなる前に母や侍女や家僕などを郡山城に避難させ、同時に相合の屋敷に貯蔵していたわずかな資産や穀物なども郡山城へ運び込ませた。その作業を終えると、近侍と共に船山を登り、砦の守備についた。



 多治比元就が郡山城へ帰ったのは、その日の日没後である。

 元就は重臣らが待つ大広間へは渡らず、まず自分の御用部屋に入り、そこに志道広良だけを呼び、事情を告げた。


「坂の隠居殿の首を差し出せと・・・・!」


「尼子に二心なきことを示さぬうちは、臣従さえ認めぬと能登殿は申された。戦さを避けるには、兵部ひょうぶ(坂広時)に腹を切らせるしかない」


 元就の顔は憔悴し切っている。


「腹を切らせると申しても・・・・。どうなさるおつもりか。死んでくれろと頭を下げれば済むという話ではござらんぞ」


 坂広時は筋金入りの大内派である。尼子に降るためにその首を差し出せと命じたところで素直に聞き入れるはずがないであろう。

 広良にとって坂広時は尊敬する伯父であり、その人柄は知り過ぎるほど知っている。あの老人は主家のためなら水火も辞さぬという性質たちで、その誠心にまったく疑いはないが、絶体絶命の危機に追い込まれた人間は時として思いも寄らぬ行動を起こすことがある。

 身の危険を察した広時が、


「主家が大内との盟約をて、尼子に寝返るというのであれば、坂は主家には従えぬ」


 などと声を挙げ、坂一族を糾合して日下津ひげつ城に篭り、自立するような事態になることが、広良はもっとも怖い。何と言っても広時は坂一族の長老なのである。志道氏も坂氏の分家であり、広良自身はこれに同調する気はもちろんないものの、志道家の家中からも本家に奔る者が出るかもしれない。同様に、桂氏、光永みつなが氏の人数も吸引するであろう。これまで大内寄りであった井上党をはじめ、尼子に屈するを潔しとしない者がこれに加われば、下手をすると五、六百の兵力が毛利家から離反することになりかねない。


「この話を不用意に公表すれば、家中は大変なことになりましょう」


 その深刻さが、広良にはありありとわかる。


「しかし――。では、執権殿はどうすれば良いと申されるのか」


 元就の声に、広良は苦しげに黙考した。

 すでに二十年も前に隠居して一線を退いたとはいえ、坂広時は政略家としても外交家としても凡庸ではない。かつて毛利弘元が大内氏と幕府とを相手に二面外交を展開していた時、執権として弘元を支え、外交を実際に切り回していたのがあの老人であり、乱世の政争のなかで練り上げられた胆知を持っている。

 ――隠居殿が我らの敵に回れば・・・・。

 やたらと喉が渇き、広良は生唾を飲み込んだ。

 仮に坂広時が毛利家から離れる決断をしたとすれば、広時は毛利が尼子に寝返った事実を大内義興に訴え、坂氏を大内家の直臣にしてくれるよう懇請し、同時に援軍を要請するであろう。坂氏が自立して生き延びる道があるとすればそれ以外になく、広良が広時の立場でもそれだけの手は打つ。

 日下津城は毛利領の南東端にあり、大内氏の軍事拠点である鏡山城からわずか一日半の距離にある。大内の駐屯軍と芸南の豪族たちが坂氏を援けるために援軍を発するような事になれば、今は一応静観している尼子軍も軍事介入を始めるに違いなく、事態は毛利家内部で収拾できるレベルを遥かに超える。そんな状況を招くことだけは、絶対に避けねばならない。

 長い沈黙の末、やがて広良は絞り出すような声で言った。


「隠居殿を仕物に掛けるほかござるまい・・・・」


 元就は眼を見開き、掠れた声で呟いた。


「ぼ、謀殺すると・・・・!」


「苦渋の選択でござる」


 実直にして公明正大な志道広良ほどの男が、恩人である伯父を騙し討ちで殺すと決断せねばならぬところに、政治というものの救い難い業深さがある。

 亀井秀綱の要求は広時の首ひとつであり、坂氏本家を族滅せよとか日下津城を落とせとか命じられたわけではない。内訌という最悪の事態を回避するには、坂広時が行動を起こす前に、先手を打ってこれを謀殺してしまうしかない。殺すのはあくまで広時一人に留め、罪を周辺には及ぼさず、息子の広秀にこれまで通り坂氏をまとめさせる。それがもっとも流血が少なくて済む方策であろう。

 元就は眉間の皺を深くした。


「そのようなこと、長門ながと(坂広秀)が承知するはずもあるまい」


 父を謀殺されたと知れば、坂広秀は当然激怒するであろう。日下津城で兵を集め、暴発せぬとも限らない。たとえ広時の首を尼子氏に差し出しても、広秀が坂一族を率いて反逆するようでは結果は同じである。

 が、その程度のことは、志道広良も当然わかっている。

 坂広秀は狭量であり、父の広時ほどの衆望はない。広時が決起を呼び掛ければ、分家の桂氏、光永氏、志道氏はもちろん、家中も大きく動揺するであろうが、広秀では反逆の旗頭としては役不足であり、それほど人数は吸引できないはずだ。

 ――たとえ長門殿が謀反を起こしたとしても・・・・。

 その叛乱の火は毛利の独力でどうにか鎮火できる、というのが広良の観測である。これは絶対に口外できない陋劣ろうれつな計算だが、最悪の場合、坂氏本家だけを尼子軍に滅ぼしてもらうという手もある。

 尼子氏からの要求を突っぱね、戦さになってしまえば、最終的に降伏して毛利家が生き延びることができたとしても、武士と雑兵だけでおそらく数百人は死ぬことになろう。巻き添えを食って殺される領民の数まで含めればどれほどの血が流れるか想像もつかない。坂氏本家の百数十人だけを生贄いけにえの祭壇に捧げることで、毛利家の武士と領民の安泰を計ることができるなら、悪い勘定ではない。

 そう考えざるを得ないのが、執権という立場の責任の重さであったろう。


「隠居殿は、我が伯父でござる。このことは、わしにお任せくださらぬか」


 と広良は言った。

 謀殺などという卑劣な処置を元就が行えば、家中の者たちは元就の冷血さを嫌悪し、その人格を信じられなくなるであろう。殺すべき対象は敵ですらなく、一門のなかでも別格とされる坂氏の長老なのである。元就は幸松丸の後見役として今後も家中をまとめてゆかねばならぬ立場であり、その徳望を傷つけたくはない。

 ――これからの毛利を背負ってゆくのは、多治比殿しかない。

 広良はすでに五十六である。幼い幸松丸が一人前になるまで輔弼ほひつを続けるにはやや老い過ぎている。若い元就には長く毛利家の支柱となってもらわねばならないし、それが出来るだけの英邁えいまいさと勇気と決断力が元就にはある、と広良は見ている。

 ――憎まれ役は、この年寄りがやればよい。

 それが広良の真情であった。

 広良の気迫と眼光の強さに、元就はやや押し込まれた。


「・・・・わかった。では、すべて執権殿にお任せしよう」


 坂広時は功臣である。何の罪もないあの老人を殺さねばならぬという現実は、元就にとっても辛く、重かった。それを引き受けるという志道広良の言葉は、元就を気持ちをわずかに救ったと言えなくない。

 ところで、肝心の坂広時は、評定で尼子氏に臣従するという決定が行われると、交渉に赴いた元就の帰城を待つことさえせず、裾を払って自領に帰ってしまっていた。


「事は急を要しまする。ただちに隠居殿を登城させますぞ」


 志道広良は日下津城に急使を派し、重要な評定を行うから郡山城に来てもらいたいと広時に申し送った。広時を郡山城に招き寄せ、取り込めて討つつもりである。

 しかし、広時は何かを察したのか、この招集に応じず、二日待っても城に引き籠って動こうとしなかった。

 ――まずいことになった。

 復命した使者の話では、日下津城では人の雰囲気が殺伐とし、城内に兵の姿が多く、籠城支度をしているようにさえ見えたという。あの老人はすでに自立を決意し、行動を始めているのかもしれない。

 尼子氏との交渉の結果をいつまでも隠しておくわけにもいかない。広良と元就は、ここで初めて重臣たちに事情を伝えた。

 時間を与えれば、坂広時は味方をどんどん吸引するかもしれず、大内の援軍を呼び寄せるかもしれない。家中の重臣たちにも、迷いや同情を生じさせることになりかねない。拙速せっそくとわかっていても、ここは断固として即断せねばならぬであろう。

 広良は、主家の命に応じない坂広時を「謀反人」と見做し、ただちに日下津城を攻めることを強引に決定した。

 尼子氏の命に従う形で日下津城を攻める限り、毛利家は尼子の被官として行動していることになる。この間、郡山城は手薄になるが、尼子軍が郡山城に攻め寄せることはないであろう。そもそも尼子経久は、その気になればいつでも郡山城を攻め落とすことが可能であり、臣従した後の毛利家を好きなように処分することもできるわけで、悪名を増やしてまで謀略で郡山城を奪う必要がない。しばらくは毛利軍の動きを静観するはずだ。

 幸い郡山城には籠城に備えて千余の兵が集まっている。元就はその軍兵を率いてそのまま出陣し、領内の枝城にも早馬を走らせ、武将たちに本軍に合流するよう命じた。

 毛利家は、一門の坂氏を売ることによって、目前に迫っていた尼子軍の牙爪がそうを辛うじてかわしたと言えるであろう。



 毛利軍はその日のうちに向原に到り、日下津城の城山を見上げる山麓に布陣した。

 元就は城攻めを急がず、兵に攻撃を禁じ、城に矢文を射込ませた。

 尼子に降るために坂広時の首が必要になったことを正直に告げ、坂氏自体を滅ぼす意思がないことを明言し、抵抗せず開城するよう求めたのである。

 このような事態になってしまったことに忸怩じくじたる想いがあるが、それでも、

 ――無駄な血は出来る限り流したくない。

 というのが元就の偽らざる真情であったろう。

 城山を見上げる攻城軍の中には元綱の姿もある。

 ――なぜ家中で殺し合いをせねばならんのだ。

 元綱は心中で何度も呟いた。

 尼子軍が相手なら、元綱はそれこそ死をも厭わず戦い抜く覚悟であった。しかし、眼前にある敵とは、昨日までの同僚朋輩なのである。ことに坂広秀が元綱の後見役を務めてくれていた縁から、日下津城内には元綱の友人知人も多い。何の罪もない彼らに弓を向け、容赦なく射殺すような気にはとてもなれない。

 ――幸松丸さまを殺させず、毛利家を生き延びさせるためだ。

 と自らに強く言い聞かせるが、割り切れぬ想いはどうしても残った。

 流れる血の量と失われる人命の数で事の善悪を判じるなら、元就と志道広良の決断はおそらく間違っていない。尼子軍との戦さを回避するには尼子側の条件を飲むしかなく、坂広時の首を差し出すことがもっとも流血を少なく事態を治める方策であるだろう。

 しかし――。

 本当にこれしか道はなかったのか。

 尼子に大内にと揺れに揺れ、態度を曖昧にしてきたことが、この無様な結果を招いたのではないのか。

 ――兄上が生きておられれば・・・・。

 このような事には決してならなかったはずだ、と元綱には思えるのである。

 身を捨ててこそ浮かぶ背もある。意地を貫いてこそ辿りつける場所もあろう。戦うべき時に戦いを避け、功臣の首を差し出してまで尼子経久に媚び、それで臣従が許されたとしても、その在り方をいったい誰に誇れというのか――。


「やり切れぬ・・・・」


 秋の高い空はいつもと同じように長閑のどかで、大小の雲がゆったりと流れている。色づき始めた山野の美しさも常と少しも変わらないが、それを眺める元綱の心には虚しさしかない。多くの兵たちが同じ気分でため息をついていたであろう。

 この時、城内の坂広時の心中は、虚しさを通り越して悲愴というしかない。

 この老人はもともと寡欲で私心が少なく、主家のためであれば喜んで腹でも切るというところに忠誠の在り方を据え、毛利家の繁栄を自らの喜びとしてこの半世紀以上を生きてきた。毛利家を離れて自己の存立を計るというような気分は寸毫すんごうも持ち合わせておらず、積極的に叛乱を起こすような意思もまったくない。ただ身を守るために日下津城に篭らざるを得なかったというだけであり、その行動はあくまで正当防衛であった。

 毛利軍の出陣を知った息子の広秀が、


「こうなれば戦うほか致し方ありますまい! 座して死を待つおつもりか!」


 と迫っても、広時は首を縦に振らない。鏡山城の大内軍に援けを求めようともせず、坂一族を糾合することも味方を募ることもしなかった。

 ――内訌で家を衰耗すいもうさせるほど馬鹿げたことはない。

 ということを広時は知っており、なるべく血を流さずに事態を収拾する方策を考え続けていたのだが、元就からの文を読み、ついに決断した。


「わしは腹を切る。お前はこの首を多治比殿のもとに届けよ」


 と息子に命じたのである。

 坂広秀は墳怒した。


「なにゆえ父上が腹を切らねばならぬ! 我らが何をしたというのです!? 理不尽は主家にあり、父上が首を差し出さねばならぬ謂われはどこにもござらぬぞ!」


「家中の者同士で殺し合うて何になる。喜ぶのは周りの敵ばかりではないか。この年寄りの首ひとつで事が収まり、主家も我が家をも保つことができるなら、それでよい」


「父上・・・・!」


き世とはよう言うたものよ。死ぬことより生き続けることの、どれほど辛く苦しいことか・・・・。広秀、多治比殿や執権殿を怨んではならぬぞ。この父のことは忘れ、怨みも怒りも何もかも素知らぬ振りをして、これまで通り幸松丸さまにお仕えせよ。これは我が遺言と思え。お前が遺恨を肚に溜め、主家に怨みの眼を向け続ければ、坂の家は必ず主家によって滅ぼされよう。それを忘れるな」


 広時は厳しく念を押し、家族や重臣らに別れを告げた後、見事に腹を切って果てた。

 涙を流しながら父の首級を首桶に収めた坂広秀は、自らその首桶を抱えて悄然と城山を降り、毛利軍の本陣へと赴いた。

 親の首を差し出してこうを求める子の気持ちというのは、筆舌に尽くし難い。広秀は生涯でこれほどの辛酸を舐めたことはなく、その心は血涙けつるいで溢れた。悲しみと怒りで身体が震え、首桶がガタガタと音を立てている。

 鰻幕が張られた本陣では左右に諸将が居並び、最奥で元就と志道広良が床几に座していた。

 老いた功臣の首級を実検した元就は、合掌して瞑目し、


「すまぬ・・・・!」


 と絞り出すような声で言った。

 坂広時の英断によって、毛利の武士同士が殺し合うという最悪の事態はどうにか避けられた。尼子氏へ臣従する道も拓けたと言えるであろう。その死の価値は、戦場で討ち死にすることに遥かに優る。

 諸将は口々に広時の死を悼み、その潔さと主家への献身を褒めちぎった。


「兵部の無念はいかばかりであったか・・・・。長門をはじめ、坂の者たちの心中を想うと、詫びの言葉もない・・・・」


 元就は、坂広秀の罪を問わぬことと坂氏の所領をこれまで通り安堵することを諸将の前で明言し、ただちに軍を返したのだった。

 内訌はこうして一日にして終息した。

 しかし、人の心に怨みは残る。


「広良と元就のことは、死んでもゆるさぬ・・・・!」


 血の滴るような想いでそう誓った男がいたことに、元就は気付いていない。




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