長兄の死(一)
その報を聞いたとき、俺は到底納得できなかった。
釈然としなかった。
確かに人の運命などというものは一寸先は判らないものだし、予想だにしない事というのはまま起こる。禍事はそのほとんどが突然にやって来るわけで、またそれは往々にして立て続くものでもあるだろう。だからこそ「泣きっ面に蜂」だとか「弱り目に祟り目」などという俗諺が世にあるのだし、それが毛利家にも起こり得るということくらいは俺だって解っている。
だとしても、だ。
釈然としないものは釈然としない。
その瞬間まで、俺は兄の病をただの夏風邪だと信じて疑わなかったのである。それがいきなり死んだと言われても、はいそうですかと納得できるはずがないではないか。
まして――
――こんな時に!
驚愕も、困惑や狼狽もすっかり通り越して、怒りにも似た想いで俺は天を仰いだ。
そこにはただ野天の夜の闇があるばかりであったのだが――
今にして想えば、確かにいくつか思い当たる事はあったのだ。わずかな違和感に首を傾げたことも一度や二度ではない。しかし、長兄は昔から腺病質な性質で、年に一度や二度は熱を出して寝込んだりしていたし、寝込めば長びくのが常であったから、俺を含め毛利家の家臣たちもそういう長兄の体質に慣れてしまっていた。もちろん主君の病を気遣わぬ者はいなかったろうが、それが死を想定せねばならないような重篤なものだとは誰も思っていなかったのではないか――
これは後に知ったことだが――俺が大朝に使者として発つ数日前――長兄は腹痛を訴えて夜中に俄かに苦しみ、大量の血を吐いたのだという。
長兄を診た薬師は、日頃の激務と心痛、それに酒害などによって内臓がすっかり駄目になっており、命は長くないであろうと断を下した。その場に居た小姓や侍女らに厳重な口止めがなされた事は言うまでもないが、その事実は長兄自身にさえ秘匿されていたらしい。知っていたのは、義姉(兄の正室)と次兄、それに毛利家の執権である志道広良と宿老の中の数人だけであったようだ。
たとえ長兄の病状をあらかじめ聞かされていたとしても、その後の俺の行動はおそらくそう変わらなかったであろうし、長兄に何かしてやれたというわけでもない。せいぜい俺の裡で心の準備ができたという程度の違いであったろうが、それでも心の準備があるかないかでは大違いだろう。ましてこんな合戦の真っ最中に、いきなり主君が死んだなどと聞かされたのでは堪らない。
釈然としないどころか、俺は思わず使者を怒鳴りつけたのだ。
「ふざけるな!」
怒鳴らずにはおれなかった。
認めたくもなかった。
あの日――
大朝から吉田に帰った俺は、復命するためにその足で郡山城に上り、副使の井上元景と共に病床の兄を見舞ったのだ。
すでに日は暮れていたから、兄が眠っているようなら明日にでも出直すつもりであったのだが、幸いすぐに病間に通された。
「そうか。姉上はお元気であられたか」
長兄は――その時は小康を得ていたのだろう――薄い夜具から身を起こして俺の話を聞いた。
「兄上にくれぐれもよしなに伝えてくれと申しておりました」
「千法師――いや、興経殿か――我らの甥御はどのようなお子であった?」
「利発であると見えました。伊予殿(吉川元経)のお子らしく柄(体格)が大きく、凛々しい面つきをしておりましたな。毛利と吉川の縁は次代も安泰となりましょう」
「それは重畳――」
長兄は面影が親父によく似ている。髭こそ蓄えてないが、中背、痩身、色白なところも親父と同じで、老臣たちに言わせると親父の若い頃にそっくりであるらしい。
続いて井上元景が――俺の話を補足するように――祝宴の料理の豪勢さなどを引き合いに出して吉川家の富強について語り、また何処から誰が祝いに来たか――それが当主であったか名代であったかまでを克明に説明し、宴席での雑談などで得た情報をまとめて報告した。これは吉川家の実力を量り、豪族同士の親疎を知る格好の材料になる。
「さすがに尼子から使いは来ておらなんだか・・・・」
聞き終えた長兄はそう呟いて小さく頷いた。
話はさらに吉川経基翁の言動に及んだ。
「駿河殿(吉川経基)がお前を孫娘の婿に――な・・・・」
細い腕を組んでわずかに首を傾げるのは、長兄がものを考える時の癖である。
「お前も少輔次郎(次兄)もいい年齢だ。そろそろ嫁を持たさねばならんと考えてはおったのだが――悪い話ではないかもしれんな。先方から正式に話が来たら重臣たちに諮るとしよう」
今から想えば、確かにその時の長兄は、いつもより顔色が悪かったかもしれない。声音も弱々しかったかもしれない。ただ、その時はそうは思わなかった。部屋は火明かりのみで薄暗かったし、そもそも病人であるのだから元気がないのは当然なのである。まさか半月後に死んでしまうほど酷い容態であるとはまったく考えなかった。
病間から下がると、次室には多治比で暮らしている次兄の元就がいた。
「兄者ではないか。珍しいな」
年齢の近い次兄に対しては親しみと気安さもあって「兄者」と呼ぶのが俺の通例である。毛利家当主である長兄の事は「兄上」と呼ぶことにしている。「兄者」と「兄上」の間でそれほど意味合いに差があるとは思わないが、俺の中ではその使い分けでしっくりいっている。
次兄は毛利本家から分家して多治比の領主になっている。普段は郡山城に出仕する必要がないわけで、そこに次兄を見つけたことにわずかに違和感を持ったが、たまたま長兄の見舞いに来たところに鉢合わせただけだと思い、その時は気にも留めなかった。
「四郎か。帰ったのだな」
「あぁ、先ほど戻った。いま兄上に復命してきたところだ」
次兄は美男子の部類に入るであろう。親父や長兄と同じく瓜実顔で、色白で鼻筋が通り、やや面長だ。眼は切れ長で眉は濃く、口元に締りがある。武家より公家の装束が似合いそうだといつも思う。
武人の匂いが強い俺と文人の香りを漂わせる次兄とは水と油ほどに肌合いが違うが、仲は決して悪くない――と、少なくとも俺はそう思っている。離れて暮らしていたせいもあるが、考えてみれば餓鬼の頃から喧嘩ひとつしたことがない。
かつて親父は、次兄に歌詠みの才があると評した。俺が軍記物語に没頭していた頃、歌物や王朝物ばかり読んでいたという次兄は歌道や文学に造詣が深く、その点では人に抜きん出た量の知識を持っているはずだが、それを誇りがましく言葉に乗せることをしない。謙虚なのだ。
しかし、文事一辺倒の惰弱な男かと言えば、そういうわけでもない。
たとえば去年、酔った長兄の酔狂で、俺と次兄が弓矢の勝負をせねばならなくなったことがあった。
武門を「弓矢の家」と言い、「精兵」という言葉が弓の巧者を指すように、弓矢はまさに武士の表芸であって、俺も日々その鍛錬を欠かした事はない。腕前には相当の自信を持っていて、この勝負でも五本射た矢のすべてを十五間(約二十七メートル)先の的に突き刺した。
ところが、俺にとって意外であったのは、次兄も的を一矢も外さず、俺と引き分けてみせた事だった。
いや、それどころではない。
的を確認すると、俺の矢は三本しか正鵠(中心)を射抜いてなかったが、次兄は正鵠に四本を射込んでいた。つまり、厳密に判定すれば俺が負けていたのである。
その事を指摘すると、
「お前が用いたはこの矢場でもっとも強い弓だろう。あの矢は鎧さえ軽々と貫き通したはずだ。非力な私が射た矢とは比べ物にならんよ。弓矢は的に当てるためではなく、敵を射倒すためにある。勝ち負けを付けるならお前の勝ちさ」
次兄は事も無げにそう言った。
一事が万事、そういう男なのである。
次兄は何事にも常に控え目で、長兄の影に隠れて家中ではまったく目立たない。あえてそうしているのか、あるいはそういう性格なのか、そこは俺にも判らないが、俺はそんな次兄の人としての色合いに好感を持っている。
次兄の方も、俺の男としての器量に敬意を持って接してくれているように思う。
だから――と言うべきか、俺と次兄の間には過去に不快な経緯が一切ないのである。
「大朝はどうであった」
次兄の問いに、俺は腰を下ろしながら気さくに答えた。
「大そうな羽振りだったよ。宴はまことに豪勢だった」
「ほう――」
「姉上もお元気そうだったしな」
俺は長兄に語ったようなことを再び次兄にも話したわけだが、今にして想えばこの時の次兄の様子も少しおかしかったのだ。
次兄は座持ちの巧い人で、温顔をもって話者を不快にさせない聞き上手だが、この日は俺の話に対する食いつきが悪く、口元に浮かべた微笑にもどこか硬さがあった。身嗜みなども常にきちんとして容儀の良い男であったはずなのに、この日に限ってニ三日剃ってないように髭が濃かったし、目元に疲れの色が見えたようにも思う。
が、それらはほんのわずかな違和感に過ぎない。まさか次兄がこの数日まともに眠ることさえできず、憔悴し切っていた――などとは考えもしなかった。
――長兄の風邪でも貰ったのではないか。
その時はそんなことを思っただけだったのだ。
俺は何の疑問も持たぬまま相合の屋敷に帰り、日常の生活に戻った。
その後、四度ばかり長兄を見舞ったが、面会が叶ったのは一度だけだった。取り立てて相談せねばならない事項があったわけでもないから、病人が眠っていると義姉に言われれば強いて病間に押し入ろうとまでは思わなかった。
勿論、なかなか本復しない長兄の病態を心配してはいたのだが、だからと言ってまさか重体に陥っているとまでは考えない。
滋養をつけてもらおうと、狩りで仕留めた鹿を持って行った時も会うことはできなかった。看病疲れでやつれている(俺はそう思い込んでいた)義姉を励まして、獲物だけ置いて引き上げた。
そうこうするうちに十日ばかりが過ぎた。
山深い吉田は、八月も中秋を過ぎるとめっきり秋らしくなる。稲穂の季節は農作業が忙しく、百姓たちは合戦を嫌がるが、収穫を略奪するには絶好の時期でもあるから、戦火の季節でもあるということになる。<*注釈1>
ご多分に漏れず、この秋も宍戸氏が兵を南下させる気配を見せた。
宍戸氏とその同盟者である隣国・備後の三吉氏とはこの春から夏に掛けて何度も兵火を交えていて、初夏の頃、毛利と高橋氏の連合軍が宍戸軍を大いに破り、本拠である五龍城まで攻め込んでいる。味方の流血を避けるということで城攻めまではしなかったが、城下を焼き払ってやったから、宍戸氏にすれば怒り心頭であったろう。
今回はその報復のつもりに違いない。
宍戸氏の甲立は、吉田の北東――可愛川に沿って一里半(六キロ)ほど下ったところにある。わずか一里半の距離しかないと言うべきで、まして可愛川は交易の大動脈だから、それぞれの城下の噂はそのまま筒抜けに聞こえるということになる。言うまでもないが、五龍城で陣触れなどの動きがあれば城下に住まわせてある諜者からすぐさま報せが届くようになっている。もっとも宍戸氏の側も郡山城下に諜者を入れているに違いなく、これもお互い様なのだろうが。
それはともかく――
宍戸氏が合戦支度を始めたらしいということで、郡山城で軍議が持たれた。
その軍議にも、長兄は姿を見せなかった。
当主不在のまま、執権の志道広良が座を仕切り、十五人の宿老と数人の老臣、次兄と俺を加えた面子で討議が行われた。積極的な先制攻撃論をぶつ者もあったが、主君が病床ということもあり、自重論が大勢を占めた。
しかし、自重と言っても篭城は論外である。城に篭って敵を領内に入れれば、城下や吉田の集落を焼き払われることになり、略奪を自由に許すことにもなる。民百姓の暮らしの安寧を守ることは領主の重大な責務であり、そのためには一歩でも領国から出て戦うべきなのだ。
そこで、いつものように国境まで出て敵を迎え撃つというところに衆議は落ち着いた。
長兄が毛利軍を率いて出陣する時、郡山城の留守の大将は常に次兄が務めてきた。そのせいで次兄は未だに初陣さえ済ませられずにいるのだが、この時も次兄には郡山城の守将の役が振られた。
一方、出戦する毛利軍の総大将には俺が選ばれた。総大将と言っても飾りのようなもので、兄の代役を期待されたわけではない。兵馬の指揮権は重臣たちが握るという腹積もりであったろう。それは判っていたが、初めての大役に俺はそれなりに興奮し、意気込んだのだ。
敵の陣触れがあり次第、自城で防戦態勢を取る者と郡山城に駆け集まる者とをそれぞれ確認し、戦支度を抜かりなく調えることを定めて軍議は打ち切られた。
そのわずか三日後――八月二十四日の昼に、宍戸氏の陣触れの確報が入った。
ただちに郡山でも陣触れの太鼓が鳴り、法螺貝が吹き立てられ、使い番の早馬が四方に駆けた。
その後の諜者や物見の報告を総合し、宍戸軍の出陣を翌二十五日の早暁と踏んだ俺たちは、二十五日の夜明けと共に郡山城を出陣した。
この時も、長兄は出陣する軍兵たちを激励することさえせず、見送りにさえ出て来なかった。いかに病体とはいえ、さすがに俺も強い不審感を持ったのだが、出陣という事態の慌しさと異常な興奮で、正直それを長く気にし続けることはできなかった。
わずかに朝霧が立った暁の黎明の中を、「一文字三星」の旗を掲げた軍勢が出陣した。毛利家の最強兵団・井上党を先頭に、約三百騎、総勢千五百人を越える人馬の列が歩武を揃えて東へと進んで往く。三千人を越す領民たちが沿道に並び、大声援をもってこの軍列を見送ってくれた。
お飾りとはいえ総大将である俺は、十騎ばかりの近侍に囲まれながら全軍の中程で馬を進めた。長兄が昔使っていた緋威しの大鎧に身を包み、細長い金の鍬形の前立てを打った兜の緒をキリリと締め、背には切斑の矢を背負い、右手に手綱、左手には重藤の強弓を握る。腰に差す愛刀は安芸の野鍛冶が打ったという無銘の業物で、厚重ねで重いくせに矢鱈と斬れる。<*注釈2>
沿道には見知った領民たちの顔が並んでいた。女と老人・子供が多い。家中の武士の妻女がいる。両手を合わせて拝んでいる老婆もいる。頭を下げる商家の者たち、赤子を抱いている農婦、大工の隠居や鍛冶屋の倅、過去に身体を重ねた女たちの顔もあった。それらの声援に俺が弓を上げて応えると、四郎さまとか義経さまとかいった黄色い声が上がる。
悪い気はしなかった。
沸々と、不思議なほど血が滾ってくる。
――この無辜の民草を守るために、俺たち武士は命を張るのだ。
長兄はいつもそう言っていた。
百万一心
長兄の座右の銘である。
毛利の旗に集う者は、武士も百姓も職人も商人も、すべての者が心をひとつにし、力を合わせて事に臨むのだ。
可愛川に沿って細い谷状になった山間の道を半里ばかり東進すると、川幅が急に広くなり、視界が開ける。川筋はいったん南東へ逸れ、再び蛇行しながら北に向かって流れる。左右を山塊に閉ざされた可愛川の河原はそう広くはないが、遮蔽物がなく見通しが利くから合戦をするには好い場所だ。
川を右手に、小高くなった土手沿いに軍兵を並べる。老臣たちはどれも百戦錬磨の戦人だから、俺が何をする必要もない。見る間に目前で三段の布陣が完成した。
物見からの報告通り、敵の軍勢の砂塵が視界に入ったのは布陣を終えた直後だった。
数は二千ばかりだろう。
両軍が指呼の間で睨み合い、しばし言葉合戦などをしてお互いを挑発し合ったが、双方、動かない。戦機を計っていると言えばそうだが、勝負事には先に仕掛けた側が負けそうな雰囲気というものがあり、なかなか戦闘に入れない静寂の中で、口火を切るキッカケを探り合っているうちに、半刻ばかりが経った。
「ひと当て、つついてみましょうかの」
俺の隣で戦況を見ていた志道広良がのんびりとそう言い、前線に使い番を走らせた。
広良は毛利家の執権――つまり政務を統括する立場にあり、この合戦の指揮を実際に執っているのもこの男であった。
やがて先陣で矢戦が始まった。宍戸軍もこれに応戦し、矢の雨を交換する。
箙の矢を射尽くした頃、先陣に配した井上党、福原党が突出して敵と槍で叩き合いを始めた。
赤川就秀、桂広澄、坂広秀、国司有相といった武将たちが手勢を率いてこれに加わり、宍戸軍もニ陣が前線に出て、戦闘が本格化した。
両軍の武者たちが喚声を上げながら押し合い、揉み合い、叩き合う。雑兵の間を騎馬武者が駆け抜け、矢が風を切って飛び交い、気合の声や怒声や断末魔が空気を間段なく震わせ続けた。
どうやら緒戦は毛利方に分が良い。先鋒が徐々に敵を押し込み始めた。
床几に座してその様子を眺めながら、
――俺はやはり大将の器ではないな。
とつくづく思った。
戦が始まってからというもの、血が滾ってしょうがないのである。無軌道に暴れ狂うあの人間の激流の中に俺も飛び込み、思いっきり暴れ回りたいという欲求が抑えられない。
しかし、当然これは許されない。
総大将とは味方の軍兵に幾重にも守られる者のことであり、その仕事は自ら槍を振るって戦うことではなく、軍兵たちの働きを見守ることなのである。総大将が討たれれば合戦は負けなわけで、これを討たさぬために軍兵たちは必死に戦っているとも言える。わざわざ自分から先陣に出てゆく総大将がどこに居よう。
――それこそ、義経くらいのものだ。
義経も俺と同じ滾りに身を焼かれたのだろうかと、ふと思った。
「旗色宜しきようでござるな。ここは一息に押し切りましょうぞ」
太郎左が興奮気味に叫んだ。
この古武士然とした四十男は、率いる渡辺党の兵団を俺の馬廻りのように配置し、ここまで片時も俺の傍を離れない。傅人として育てた元綱が毛利軍の総大将となり、合戦の晴れ舞台に立っているわけで、是非とも大勝利をと意気込みまくっていた。
「ふむ。されば渡辺殿、お手前が横(横槍)を入れられよ」
「心得たり」
志道広良に促された太郎左は勇んで立ち上がり、渡辺党を率いて猛然と駆け出した。
主戦場を迂回し、左手の山裾を駆けて敵の側面に槍を入れる。
宍戸軍はずるずると後退した。軍勢をくるくると器用に繰り替えながら、退き陣に掛かっているようにも見える。
勢いを得た毛利軍は怒涛のように押しまくり、俺たちが居る本陣と前線とが間延びし始めた。
――いかんな。
俺は直感した。
「執権殿、ここで勝ち過ぎては事を誤る。先陣を引き戻すが宜しかろう」
俺が言うと、志道広良は珍しいものでも見るようにまじまじと俺を見た。
「これは異な事を申される。敵の崩れに付け入り、どこまでも進むのが勝ち戦の常道でござらんかな」
「まだ勝ち戦と決まったわけではないでしょう。宍戸が退いておるは、我らを釣り込む策ではないかと思う。宍戸元源は戦巧者じゃ。侮って良い相手ではござるまい」
広良は公正実直な男だが、その顔にわずかな油断があった。
「お言葉はいかにも道理ではあるが、いかさま考え過ぎでござろうよ」
戦を知らぬ小僧めと、俺を侮っていたのか――
いや、今から想えばこの男は、合戦を一刻も早く終わらせたいと焦っていたのではないか。長兄がまさに死の淵にあるということを、この男は知っていたのだから。
それに、勝ち戦の勢いに乗った軍兵たちを止まらせることは、たとえ命じたとしても難しいのである。総大将に強い指揮権と絶対の信頼がなければ功に逸った武者たちは止まるものではなく、広良にはすでに止める事ができなかったというだけかもしれない。
毛利軍は、さらに五、六町(約六百メートル)も敵を追って進んだ。
その時、左手の山から宍戸軍の伏兵が飛び出し、毛利軍の横腹を強襲し、前軍と本陣との間を遮断した。
毛利軍は狼狽し、俄かに崩れた。右手は川であり、逃げ場も態勢を立て直す空間もないのである。それを待っていたように、受けに回っていた宍戸本軍が猛然と反撃し始め、毛利軍は大混乱となった。
――それみたことか!
呆然と口を開けている執権をひとつ睨み、俺は馬に飛び乗った。
「四郎殿! お待ちを! ご自重を!」
驚いた広良が叫ぶ。
――待ってどうなる!
味方の敗勢は寸刻ごとに酷くなってゆくだけではないか。ここで迅速に手を打たねば必敗である。議論している暇などない。
馬の口を捕らえようとする雑兵を蹴倒した俺は、手綱を引き絞ると弓で馬の尻を叩き、
「者ども、続け!」
と一声叫んで前線へと一直線に駆けた。
日頃から俺に従う十騎ばかりの若武者たちは、俺の気性と呼吸を飲み込んでいる。すぐさま俺に続いて飛び出した。
本陣を固めていた数十騎の武者と四百ほどの雑兵たちは、「総大将」の一騎駆けに仰天したであろう。大慌てで馬に飛び乗り、槍を担ぎ、続々と駆け出した。
俺を先頭に杉なりになった毛利軍は、宍戸軍の別働軍を背後から強襲し、包囲された前軍が逃げるための道をこじ開けた。
ここからの戦場の収拾は骨だった。
宍戸軍は毛利軍を半包囲し、嵩に掛かって攻め寄せて来る。毛利軍の前軍は傷が深いが、四散するには到っておらず、中でも勇猛な井上党は怒り狂って戦い続けており、退くに退けない。しかも、戦場はすでに滅茶苦茶な乱戦である。寄親が寄子を見失い、雑兵たちは主の武者からはぐれ、そこここで勝手に戦っているといった有様で、どうにもならない。
頽勢を巡らそうにも、毛利軍にはもはや後詰め(予備兵)がない。何の策もなくこのまま総力戦の潰し合いになれば、兵数が多く、作戦が図に当たって士気も騰がっている宍戸軍がやはり圧倒的に有利であろう。毛利軍はここまで攻めに攻めていたわけで、兵の疲労も激しい。
しかし、逃げるわけにもいかないのである。
こんな状況で不用意に退き鐘を鳴らし、退却を命じれば、毛利軍はまったく総崩れになる。死傷者は敵に背を向けた瞬間から激増するもので、宍戸軍にしても猟犬のようになって追撃に掛かるに違いなく、結果として討ち死にする者は二百や三百では済まなくなるだろう。
――なんとか痛み分けに持ち込むしかない。
俺は敵の武者を次々と馬から射落とし、矢が尽きてからは自ら槍を振るい、混沌の戦場を駆け回り、声を嗄らして兵を纏めた。
乱戦の中で俺を見付けた毛利の武将たちは、
「大将が敵中に駆け入るなぞ間違うてござる! はや後ろへ下がられよ!」
と口々に怒鳴り、俺を囲んで守ろうとした。
それが、俺の狙いでもあった。
武者たちは、眼前の敵と戦うことに必死になり、前後の顧慮を忘れている。しかし、この乱戦の中に「総大将」が居ると知れば、自侭に戦っている場合ではなくなるであろう。「総大将」の討ち死には全軍の敗北と同義であり、俺を守るということで目的がひとつに絞られるのである。ともかくもこの混乱を収拾するには、これしかないと思った。
――あれが毛利の大将ぞ。
それに気付いた宍戸の武者たちの槍や矢が、俺を目指して殺到し始める。後で数えてみると、俺の鎧には十三本もの矢が突き立っていた。
ともあれ、俺がそうして暴れ回っているうちに、武者同士の自侭で無軌道な戦闘の集積から、俺を中心に戦う毛利軍とこれを攻める宍戸軍という形に戦場が少しずつ収斂されてゆき、いつしか俺の周囲には錚々たる武将たちが集まり、いびつながらも円陣が組織されていた。
――頃は良し。
俺は声を限りに叫んだ。
「南の堤で戦を立て直す! ここはいったん繰り退きに退くぞ! 井上河内(元兼)、福原左京(貞俊)は退路を突き破れ! 殿軍は俺と執権殿で引き受ける!」
「承知!」
毛利家の武将は戦巧者が多い。彼らはジリ貧のこの戦況を当然理解していたし、ともかくいったん引き分けて戦を仕切り直そうという俺の意図もすぐさま飲み込んだ。正しい方向さえ与えてやれば、そこは歴戦の猛者たちで、戦っては退き、退いては繰り代わって敵を防ぎ止め、実に巧みな退却戦を繰り広げた。
俺は毛利軍を可愛川べりの土手に上らせ、堤の上から矢を降り注がせ、宍戸軍の勢いを殺し、機を見て高所から突撃し、突出している敵の前軍を突き崩してやろうと狙っていた。それが出来ていれば、今日の合戦は全体で毛利の六分の勝ちということになったであろう。
しかし、敵将・宍戸元源は合戦というものの機微をよく知っていた。俺たちを執拗に追うような愚を冒さず、毛利軍が堤に辿り着いたと見るや巧みに自軍を収拾し、七、八町ばかり引き下がって山裾に陣を敷き、対陣する構えを取ったのである。
こうなると、いかに俺でも反撃のしようがない。
勝ちの目を消され、逆に六分の負けを確定されたと言わねばならないだろう。
退いてゆく「花洲浜」の旗を馬上で眺めながら、
「宍戸元源殿はお幾つか?」
と俺は訊ねた。
「さて、四十の半ばであったと思いまするが・・・・」
傍に居た志道広良が首を捻りつつ答える。
――策を好み駆け引きに巧みであるくせに、勝ちを拾うには手堅い。年齢よりずっと老練だ。
俺は苦く笑った。
知恵を誇る者は往々にしてその知恵に溺れるものだが、敵将の冷静な見切りには、聡明さに加えて堅実な性格が垣間見える。知恵にゆとりがあるということは、おそらく浮華なところがない重厚な男だろう。こういう手合いはできれば敵に回したくない。
両軍は対峙したまま日暮れとなり、俺はそのまま野陣を敷くよう諸将に命じた。
毛利軍の傷は大きく、討ち死には百人を越え、負傷者はその三倍にも及んだ。
この敗戦の日の深夜、戦陣に長兄の訃報が届けられたのである。
<*注釈1>
作中の日付はすべて陰暦で表記されている。
中秋は八月十五日。永正十三年(1516)の八月中旬は、現在の九月下旬に当たる。
<*注釈2>
「切斑の矢」とは矢羽根が鷲の尾羽で作られた矢のこと。