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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
39/62

粛清(二)

 大永二年(1522)の夏、尼子経久は一万数千の大軍を率いて再び石見に侵攻した。

 その戦略目標は石見の東半国を奪うことにあり、なかでも石見南東部に強大な勢力を持つ高橋氏を完全に取り込んでしまうところにあった。安芸へ攻め込むようなつもりは最初からなかったのだが、しかし、安芸と石見の国境にある出羽いずはまで軍を侵出させ、安芸北部に睨みを利かせたことは、今後への布石として重大な意味がある。芸北の豪族たちの動静を観察し、どの家が味方でどの家が敵かを見極めることで、安芸経略の道筋が見えてくるからである。

 尼子軍が邑智おおち郡に入ると、高橋興光おきみつは軍を率いて経久を馳迎した。興光は事前の調略よって尼子方につくことを確約しており、この参陣は既定路線であったが、国人一揆の盟主的な存在である高橋氏が大内氏から離れ、尼子方につくことを公然と表明したわけで、これはやはり重大な画期と言うべきであろう。

 経久は高橋興光を温顔で迎え、その来援を謝し、あえて高橋氏から人質を取ろうとはしなかった。これは臣従というより同盟者として遇された形であり、若い興光はこの処遇に感動し、経久への崇敬をさらに深くした。

 義兄の吉川国経が来援してくれたことも、経久を喜ばせた。


「おぉ、伊豆殿が自らおいでくださるとは――」


 国経はすでに七十九歳であるから、尼子軍に協力するにしても、重臣に兵を授けて参陣させればよさそうなものであったが、自ら鎧をまとい、十五になる嫡孫を伴って、尼子軍の本陣まで老躯ろうくを運んで来たのである。それが誠意の表現というものであり、そのことが解る経久は、この義兄を賓客ひんきゃくのように礼遇した。その礼の篤さは国経の孫の興経おきつねにも伝わり、少年の心を感動させた。


「次郎三郎(興経)はようやく弓矢が持てるようになったばかりで、戦さを知らぬ。経久殿、わしに代わってこの孺子こぞうに兵馬の駆け引きを仕込んでやってくだされ」


 国経が言うと、経久は慈愛に満ちた笑みを少年に向けた。


「祖父君はあのように謙遜されたがな、次郎三郎殿。そなたが弓の名手という噂、風に乗って我が耳まで届いておるぞ。こうして間近で見るに、とても十五とは思えぬ見事な若武者ぶりじゃな。向後も祖父君の申されることをよう聞き、たゆまず励まれよ。そうすれば、ゆくゆくは亡くなられた鬼吉川のごとく、天下に名の知られた武将になれよう」


 英雄を見るような眼で経久を見上げた興経は、溌剌とした笑顔で応えた。


「ありがたきお言葉、曾祖父の名に恥じぬおとこになれますよう、誓って精進いたします」


 元綱の姉の子であるこの少年は、後に「今鎮西いまちんぜい」の異名を取る豪勇の武人に成長する。鎮西とは、鎮西八郎・源為朝ためとものことを指す。平安末期に天下に名を轟かせた武将で、五人張りの強弓を軽々と引くほどの剛力を誇り、無双の弓の巧者と謳われた伝説の武人である。興経の弓はそれに喩えられるほどで、戦場で対峙した者を震え上がらせた。

 興経は、元服に際して大内義興から偏諱へんきを受け、四年前には鏡山城でじかに義興と対面し、臣下の礼を取った過去があったが、そのときは満年齢でわずか十歳であったに過ぎない。父に遠方の城へと連れてゆかれ、訳もわからぬまま「偉い人」に頭を下げたというだけであったろう。しかし十五にもなれば、政治的な判断もある程度できるし、自分の意見も持てるようになる。興経はこのときから尼子経久への傾倒を強くした。

 宍戸元源もとよしも尼子軍の本陣へやって来た。宍戸氏はもともと備後の山内やまのうち氏と同盟しており、備後国衆と共に尼子方の姿勢を貫いていたから、これも規定路線であった。

 経久は、「人を大切にする」という思想をその経略の根本に据えている。苛烈な侵略もするし血生臭い粛清もやる男だが、進んで尼子に協力しようとしてくれる者に対しては胸襟を開き、他国の国衆で臣従しようとする者は同盟者のように礼遇し、信頼する家からは人質を取ろうとさえしない。

 ただし、尼子に非協力的な家に対しては、話が別である。


「毛利は人を寄越さぬか・・・・」


 芸北の豪族で尼子に協力しようとしないのは、もはや毛利氏のみであった。同盟している吉川氏と高橋氏が当主自ら来援してくれているのに、それらより弱小の毛利氏は使者さえ送って来ない。沈黙は「中立」という態度表明であり、「消極的敵対」とさえ言えた。

 経久から見れば毛利氏などは取るに足らぬほどの小勢力であり、実際のところさほど気にも留めてなかったのだが、昨年には尼子に臣下の礼を取りながら、毛利氏のこの煮え切らぬ態度は、経久に大きな負の印象を与えた。

 老巧の吉川国経は、そんな義弟の感情の所在がわかる。たまらず助け船を出した。


「毛利は幼君を戴き、衆議で家政を執っておりまするでな。なかなか衆議がまとまらぬのでござろう」


 この老人は愛娘が暮らす毛利家を滅亡の淵に突き落としたくはない。娘婿の元就に参陣するよう勧め、自分が仲介しようとまで申し送っていたが、毛利家からは未だその返事がなく、気を揉んでいた。


「ご承知の通り、毛利の幼君を後見しておる多治比殿は、我が娘婿でござる。婿殿はものの道理を弁えた男ゆえ、我らの敵に回るようなことはありますまいよ」


「ふむ・・・・」


 経久は曖昧に頷いた。

 智略縦横というべきこの男は、人を騙したり出し抜いたりすることに誰よりも長けている。そうした人間に共通する性癖として、自分が人から騙されたり出し抜かれたりすることを極度に嫌うし、そういう臭いをわずかでも嗅いでしまえば常に疑いの眼をもって対象を見るようになる。進退に明快さのない人や家を好むはずがなく、

 ――毛利には信を置けぬ。

 という想いを強くしたことも当然の心の動きであった。

 実際このとき元就は尼子氏に悪感情を持っていたわけではなく、むしろ恐怖感を抱きつつも長いものに巻かれようとする受け身の立場であったのだが、この経久の不信の気分が、尼子家と毛利家の関係を後々までこじれさせる遠因となり、そのこじれがやがて両家を不倶戴天の敵対関係にさせ、この四十四年後、経久の曾孫の義久の代で、尼子家は元就によって滅ぼされてしまうのだから、歴史の綾というのはまったく計りがたい。

 芸石国境の石見側――出羽いずはに進駐した尼子先鋒軍の主将は、亀井秀綱である。

 経久は、自らの懐刀というべき秀綱に、ゆくゆくは芸備方面の軍団長を任せようと考えていたのであろう。安芸の豪族たちを調略するよう命じたり、備後への援軍派遣などの際に主将を務めさせるなどして、この若者に着々と政戦の経験を積ませていた。すでに三十二歳になった秀綱は、生来の鋭敏さと才覚に加え、尼子家の重臣筆頭に相応しい貫禄を身につけ始めている。

 主君から安芸の経略を任されているという自負があるだけに、秀綱は安芸の小豪族の動静にはよほど注意を払っていた。


「毛利は動かぬか」


 多治比元就あたりが軍勢を率いて駆けつけて来るだろうと当然のように考えていただけに、秀綱はこの毛利氏の沈黙が不快であった。

 ――いっそ横田のあたりまで兵を進め、恫喝するか。

 と思わぬでもなかったが、主君の戦略目標が石見にあることをこの青年は弁えていたし、毛利氏が高橋氏や吉川氏の同盟者であることも知っている。毛利家を滅ぼすことを吉川国経などは望まぬであろう。

 経久は、毛利氏が態度を決するまで無為に日を送るようなつもりはない。高橋氏と吉川氏を味方につけた時点で南方への備えは万全であり、安芸のことはひとまず忘れることにした。


「先駆けし、まず丸原の雲井城を攻めよ」


 その命を受けた亀井秀綱は、佐将の宍道しんじ経慶つねよし、三沢為忠ためただと共に出羽を出陣し、西進を開始した。が、毛利氏をそのまま放置しておくのも何やら腹立たしい。独自の判断で吉田に使者を送り、毛利軍の参陣を促すことにした。

 そのころ、毛利家では連日評定が続けられていたのだが、坂広時らが頑強に大内方を貫くことを主張するために、依然として衆議がまとまっていなかった。尼子軍が西進を始め、どうやら安芸へは侵入して来ないということが判ると、大内派の者たちがさらに勢いづき、「このまま中立の態度を続けていても大丈夫ではないか」という雰囲気がむしろ支配的になりつつあった。

 が、元就個人は、尼子氏に対しても好誼を保っておきたいという気分が強い。尼子経久から憎まれれば、どのような目に遭わされぬとも限らないのである。

 ――出雲のお屋形へも礼だけは尽くしておこう。

 吉川国経の娘婿である元就は、妻を通じて尼子経久とも縁戚である。交誼を厚くしておくだけでも無意味ではないであろう。元就は独自の判断で、「幸松丸の名代」としてではなく、「元就の名代」として使者を尼子軍の本陣へやり、陣中見舞いをさせることにした。

 この使者には中村元明もとあきを選んだ。元明は尼子方につくことを強く主張したくらいだから、尼子氏から悪感情を持たれてはいないであろうし、「元就個人の使者」に十五老臣でも二番目の席次を持つ重臣を選んだというところに、元就の深微しんびな政治判断がある。

 ところで、丸原に入った尼子軍は雲井城を囲んだが、福屋氏はすでに城を捨てて退去しており、実際には戦闘は行われなかった。尼子軍は雲井城に火を掛けて破却し、逃げた福屋氏を追って市原城へ迫り、これを一日で陥落させ、さらに西に進んで福屋氏の本拠である本明ほんみょう城を包囲した。福屋氏がこれまで抵抗らしい抵抗を示さなかったため、尼子軍は元就が予想もしなかった速度で進むことになり、わずか二日間で実に三十キロ以上を移動した。

 この尼子軍の足の速さが、小さな不幸を生んだ。吉田へ向かった亀井秀綱の使者と、尼子軍に追いつこうとする中村元明が、行き違うということが起きたのである。

 使者が郡山城に到着し、亀井秀綱の言葉として毛利家の参陣を要求したとき、中村元明はまだ尼子軍に追いついてはおらず、当然ながらその首尾の復命も行われていなかった。元就はその状況を正直に使者に伝え、中村元明が復命するのを待ってもらいたいと返答した。そうするほかなかったと言うべきであろう。

 これが、亀井秀綱と元就にとって、最初のボタンの掛け違えであった。



 ここで中村元明という人物についても触れておかねばならない。

 元就などから見ると、古沼に棲む鯰か何かのように、よく腹の解らぬ顔つきをしている。学問はないがそれなりに才覚はあり、戦場では勇敢で、小部隊戦闘の指揮などをさせるとなかなか達者である。年齢ははっきりしないが、おそらくこのとき五十の前後であったろう。宮内少輔くないのしょうを私称している。

 この男は毛利本家の一門でもなければ、先祖代々毛利家に仕えていた譜代の出身でもない。毛利家臣となってから二十数年しか経っておらず、外様の老臣の中でもっとも新参者なのだが、にも関わらず、十五老臣での序列は、福原広俊に次ぐ二番の席次を与えられていた。

 これには無論、理由がある。

 元明の中村氏は、もともと山県郡に根を張る小領主で、安芸守護の武田氏に仕えていた。この物語の現在から二十数年前、元綱の父である毛利弘元は、敵対している武田氏の勢威を削ぐために、中村氏を調略して毛利家に寝返らせようとした。

 当時の中村氏の当主は中村繁勝しげかつという男である。繁勝の「繁」の字は武田元繁から授かった偏諱へんきであり、この男は武田家に忠節を誓っていて、弘元からの調略を歯牙にも掛けず峻拒した。

 そこで弘元は、繁勝の弟である元明に眼をつけた。

 元明は武勇で聞こえた男で、欲が深く我が強く、兄と不仲であるという噂もあったから、弘元は御しやすいと踏んだのであろう。


刑部少輔ぎょうぶのしょう殿(武田元繁)は、大内のお屋形さまと争うておるが、これは大いなる間違いよ。大内の力は強大であり、それに敵対しておれば、武田は遠からず滅ぶであろう。中村は武田家の譜代の臣でもないのに、その武田に殉じて名門の血を絶やすのは馬鹿げている。私はそう思うゆえ、道理を尽くしてあなたの兄を説いたのだが、かの人は頑迷で、どうしても私の申すことをわかろうとせぬ」


 元明を密かに郡山城に招き、酒を勧めつつ弘元は語った。


「元明殿、いっそ繁勝殿を排し、あなたが中村家を継ぐことにすればどうか。それが中村の家名をあげ、先祖の祭祀を絶やさぬ道ではないか。あなたが決意するなら、私は毛利家を挙げてあなたをお援けしよう」


 兄の繁勝を殺すか追放するかして、中村家を乗っ取れ、と指嗾しそうしたのである。


「毛利に寝返れと申されるわけござるな」


 若き日の中村元明は、ギラつく欲を隠さなかった。


「毛利のご家中で、首座の席に座らせて頂けるならば、兄を討ち、武田と断ち、毛利家にお仕えしよう」


 毛利家で第一の重臣にせよ、と逆に条件を出したのである。

 弘元はさすがに不快であったが、それを顔には出さず、穏やかに微笑した。


「我が家では、家中の首座には福原が座る。毛利の一門のなかで福原は別格の家であり、このことは動かし難い。だが、首座に次ぐ次席でよければ、用意しよう」


 当時の毛利家臣団の序列では、首座が福原広俊、次席が譜代筆頭の渡辺、三番が執権の坂広時である。弘元は渡辺すぐるの父に頭を下げ、次席の座を空けさせた。


「二番か・・・・」


 元明はそれでもやや不満げであったが、やがて首肯した。


「欲が過ぎれば身を滅ぼすか――。承知いたした。次席でよろしゅうござる」


 元明は家中でクーデターを起こし、兄を殺し、中村家の家督を奪った。同時に武田氏から離反し、毛利に通じたのだが、これに激怒した武田元繁は、中村氏を攻めて城を陥落させ、小領主としての中村氏を滅ぼした。

 城と領地を失った中村元明は、家臣と家族を連れて毛利領に亡命し、弘元に約束の履行と新たな領地を要求した。中村氏の城と兵力を手に入れたつもりの弘元にとっては思惑違いであったろう。しかし、約束は約束だから、弘元はこの男に老臣の座と次席の序列を与え、嫡男・興元の側近の一人に加えたのである。

 以来、中村元明は毛利興元の側近として働き、毛利軍が上洛したときにもこれにつき従い、主に軍事面で若い興元をよく支えた。が、経歴が経歴であるだけに、譜代の家臣たちからも外様の重臣たちからも、決して好かれていない。なかでも傲岸で我の強い井上元兼などは、新参であるにも関わらず自分より高い序列を得た元明のことを、毒虫か何かのように嫌っていた。

 人柄が誠実な興元に十余年仕えるうちに、元明も若い頃の欲気がやや抜けた。もともと保身感覚には鋭い男であったから、他の老臣たちから憎まれぬように出過ぎた言動を慎み、諸事控え目に振舞っているうちに、不惑を超えたあたりからは、老臣の中でもあまり目立たぬ存在になっていた。

 中村元明とは、そういう男である。

 さて――。

 元明は元就の内命を受け、わずかな供だけを連れて石見に入り、尼子軍を追う形で北西に走り、本明城を囲む尼子軍の本陣に赴いた。

 ――尼子の軍とは、これほどのものか。

 元明は武人としては無能ではない。尼子軍の二万に近い軍容を眺め、その布陣の重厚さ、士卒の兵気の鋭さ、士気の高さなどを実感し、背筋に冷たいものが走った。もしこの軍勢が吉田に攻め入って来れば、郡山城のような小城は十日と保たずに攻め潰されるであろう。

 もともと元明は、西国に尼子経久を超える大将はいないと思っている。尼子方につくことを主張しているのも、彼らしい保身感覚とその軍事感覚で、大内軍よりも尼子軍の方が強いと感じるからであり、紆余曲折はあるにせよ、いずれ安芸は尼子経久の手に落ちるだろうと考えていたからであった。実際に城攻めをする尼子軍の様子を見ることで、その想いは確信に変わった。


「毛利家家臣、中村元明と申す。吉田郡山城主・毛利幸松丸さまを後見する、多治比元就殿の名代として罷り越しました。出雲のお屋形さままでお取り次ぎありたい」


 尼子経久への拝謁を願い出たのだが、実際に元明を迎えたのは、亀井秀綱の冷眼であった。


「すでに戦さは始まっておる。お屋形さまは、兵を率いぬ者にはお会いにならぬ」


 軍勢も率いず鎧もつけず、お前はいったい何をしに来たのか、と、その眼が責めている。


「遅参の儀は、重ね重ねお詫び致しまする。当家の主人は未だ幼く、家政は重臣どもの衆議によって執り行っておりますゆえ、物事を即断即決するというわけにも参りませず――」


「はっ」


 秀綱は露骨な侮りを込めて笑った。


「毛利の方々は、吉田の城下に敵軍が参っても、戦さをするかせぬか、長々と話し合いをなさるおつもりか。のんびりとしたご家風で、結構でござるな」


 この青年は才人であるだけに無能者が大嫌いで、頭からそれを軽蔑するようなところがある。決断すべきときに決断できぬ者は愚者であり、尼子軍に馳せ参じようとせぬ毛利家の連中は、秀綱からすれば無能者の集団としか見えない。

 ――なぜ多治比元就が自ら出向いて来ぬ。

 というところにも秀綱の腹立たしさがある。幼君の幸松丸が戦さに出られぬ以上、その後見役たる元就が会釈に来るのが当然の礼儀ではないか――。


「毛利の方々には、当家に合力してくださる気がおありにならぬようじゃ」


 とまで言われて、元明はうろたえた。


「いやいや、そうではござらぬ。我らは昨年より、出雲のお屋形さまを主君と仰いでおりまする。家中の者どもはそのつもりで戦支度をしており、出陣のお下知を待っておった次第で――」


「毛利の家中には、当家に従うを潔しとせぬ者もおるやに聞いておるがな」


「それは――」


 元明は口籠り、とっさに利害を計算した。

 亀井秀綱は、若くして尼子家重臣筆頭の地位にあり、尼子経久の寵がことのほか厚い人物と聞いている。元明は、むしろこの青年に自分を売り込んでおくべきではないかと思った。毛利家は遠からず尼子の軍門に降るであろう。これまで大内派だった老臣たちの政治力や発言力は極度に低下する。家中の権力構造が変わるわけで、そこに新たな自分の席を用意しておくべきではないか。毛利家中では自分こそが尼子派の代表的存在であると秀綱に認識しておいてもらうことは、先々を考えれば悪い手ではない。

 ――なに、事実を話すまでのことよ。

 いっそ秀綱に毛利家中の内情を正直にさらしてしまう方が、自分への心証が良くなるであろう。別に嘘をつくわけでもないから、罪悪感もなかった。


「左様、日下津城の隠居殿が、しきりと家中の者たちを説き、毛利を大内方に翻意させようと画策しておるようでござるが――」


「日下津城の隠居というのは?」


「坂広時殿のことでござる」


 秀綱は、坂広時が現役で活躍した時代を知らず、その人物についてもほとんど知識がなかった。が、それでも坂氏が毛利家中でどういう位置の族であるかということくらいは承知している。


「坂と言えば、毛利では代々執権を務める名門と聞く。その影響は大きいのでしょうな」


「よくご存知で。毛利家においては、坂と福原は別格の家でござる。さりながら、坂の隠居殿に加担する者は決して多くはなく、また幸松丸さまを後見する多治比殿は、ご内室を通じて出雲のお屋形さまともご縁戚でござる。拙者を始め、家中の多くの者は、ご当家に心を寄せておりまする」


「ふむ・・・・」


 秀綱は意地の悪い笑顔を見せた。


「それで、貴殿は臣従の証人として、遣わされたというわけでござるか」


 お前が人質になるのか、と言われて、元明は大いに狼狽した。

 ――冗談ではない。

 人質などにされたら、その後の出世どころではなく、風向きの次第ではいつ殺されぬとも限らない。しかし、もはや「手ぶらで陣中見舞いに来た」と言えるような生やさしい雰囲気ではなく、元明にすれば逃げを打つほかどうしようもない。


「拙者がここに残りますと、能登殿のお話を主家に伝える者がおらず、また多治比殿に復命することも叶いませぬ。それに拙者は毛利家では新参の身、人質としての価値も軽うござる。証人のことは、いずれ近いうちに、しかるべき者を遣わすことになりましょう」


 臣従の証しとして人質を出すことを独断で確約し、元明は逃げるように吉田へ帰った。



 郡山城に帰り着いた中村元明が首尾の報告を行うと、重臣たちは大激論を始めた。


「人質を出してまで尼子の軍門に降る必要があろうか!」


 と叫んだのは、坂広時である。


「昨夜帰り着いた我が手の者の話では、大内のお屋形は五万の大軍を催し、出陣は間近ということでござった。今ごろはすでに山口を出ておるかもしれん。いずれにしても半月の内には石見に入り、尼子と戦さを始めなさるであろう」


「五万・・・・!」


 この数字はもちろん誇張だが、大内義興は大内軍の武威を誇大に宣伝するために、内外にそのように呼号していた。


「もはや尼子に安芸を攻めるほどの余裕があるはずはなく、ここで我らが戦わずして降るなどは、何の意味もない。我らが今なすべきことは、ただちに塀を高くし、堀を深くし、城の防備を固めることでござる」


「しかし、すでに高橋、吉川が尼子方についておる以上、彼らと同盟する当家のみが大内方であり続けることは、危険に過ぎよう。ここはひとまず尼子に人質を遣わしておくが、穏便でござる」


 独断で尼子に臣従することを確約してしまった手前、中村元明も必死である。

 吉川氏や高橋氏と共同歩調を取ってゆくべきだとする立場から、元明に賛同する者も少なくなかった。


「それにしても、大内のお屋形と尼子のお屋形が、ついに直接に戦いなさるか・・・・」


 福原広俊が呟くと、重臣たちもそれぞれに複雑な表情を浮かべた。

 大内義興と尼子経久――。

 西日本きっての両巨頭が、それぞれ主力を率いて激突するという意味では、これが最初の戦いなのである。

 ――どちらが勝つのか。

 この一戦が、あるいは西国の覇権を決める戦いになるかもしれない。

 戦争にはそれまでの政治状況を一変させるだけの力がある。たった一度の合戦で、たとえば尼子経久が討ち死にしてしまうようなことさえ、可能性としては皆無ではないのである。その逆もまたしかりであり、毛利家の重臣たちは、ともかくもこの合戦の行方を見守りたいという気分を濃厚にした。裏返せば、この戦さの勝敗が決まるまでは、旗幟を明らかにしたくない、という日和見ひよりみの気分である。

 たとえばこの時点であえて尼子に人質を送り、大内氏から離れることを鮮明にしたとすれば、大内軍が戦さで大勝し、石見の覇権を奪い返すような事態になってしまったとき、言い訳ができない。ともかくも勝敗の帰趨を見極め、その上で左右を決めれば良いではないか――。

 大内寄りの重臣も尼子寄りの者たちも、結局はそのあたりで意見を落ちつけた。元就は衆議の決定を受け、尼子に人質を送ることは思い留まり、中立の姿勢のまま石見の情報収集に努めた。

 このあたりが、衆議で家政をることの難しさであろう。

 毛利家にとっての不幸は、尼子経久が大内義興に負けなかったことであった。

 二万余の尼子軍は三万近い大内軍と互角の対陣をし、一月ほど後には、尼子経久と大内義興の間で和睦が成立したのである。

 大内・尼子の両軍が陣を払い、石見から兵を引きあげることになった。

 経久は、浜田からの帰路に日本海沿いの道を取らず、来た道を戻る形で再び軍を南下させ、邑智おおち郡へ兵を入れた。吉田からわずか一日の距離に、二万の尼子軍が迫って来たわけで、そのことを知った毛利家の重臣たちは蒼白となった。

 経久は、行き掛けの駄賃に毛利氏を恫喝し、臣従を確実にさせておくつもりでいる。

 ――もし毛利があくまでわしに従わぬというのであれば・・・・。

 そのときは吉田に軍勢を雪崩れ込ませ、郡山城を一撃のもとに攻め潰してもいい。大内氏との和睦は石見での話であり、安芸で毛利氏を攻めてはならぬというような和睦の条項はないから、法理論上も違約には当たらない。たとえ毛利が大内義興に援軍を頼んだとしても、義興はまだ帰路の途中であり、周防に帰国さえしていないから、急場の援軍などはとても間に合わぬであろう。もはや毛利氏の生殺与奪の権を握ったも同然であった。


「多治比の元就というのも、さほどのおとこではなかったな・・・・」


 あの武田元繁を一戦してほふった元就の武略を、経久は甘く見てはいない。毛利が何か企んでおるかもしれぬと多少は警戒する気分を持っていただけに、やや拍子抜けすると同時に、ある種の同情を禁じ得ぬような、複雑な気分になった。

 元就に毛利家中を主導するだけの政治力があり、乱世を泳ぎ渡るための知恵と図太い演技力が備わっていれば、いくらでも巧く立ち回ることができたはずなのである。たとえば尼子軍が邑智郡に入った時、高橋興光、吉川国経と共に、元就が軍を率いて現れておれば、毛利・高橋・吉川が対等の同盟関係を持つ豪族であるだけに、経久としても毛利氏だけを格下扱いするわけにはゆかず、吉川国経などと同等の処遇をせざるを得なかった。経久は元就に疑いの眼を向けるどころか、縁戚の誼みで信頼を深くし、好意さえ持っていたかもしれない。

 しかし毛利氏は、尼子と大内を両天秤に掛け、最後の最後まで日和見ひよりみを決め込み、経久に対して何の誠意も示そうとはしなかった。

 毛利氏は、高橋・吉川と進退を共にしていればこそそれなりの勢力だが、毛利家単独では哀れなほどの小勢力に過ぎない。経久は高橋氏や吉川氏を同盟者として遇したが、もはや毛利氏をそれと同様に扱うつもりはなかったし、その必要もまったく感じなかった。

 自らの陣所の奥に亀井秀綱を呼びつけた経久は、


「毛利の扱いは、お前に任せよう」


 と、面白くもなさそうな顔で言った。

 経久は、芸備方面では秀綱を軍団長に据えるつもりでいる。軍の編成上、安芸の国衆は秀綱の組下に入ることになり、いずれ秀綱は豪族たちを手足の如く使わねばならぬ立場になるわけで、その処分くらいは任せてやっても良いであろう。この明敏な青年を次代の尼子家の柱石へと育てるべく、経久は事あるごとに秀綱に課題を与え、刀匠が鋼を打つようにして鍛えている。


「恩を売ってゆるしてやるも良く、不埒ふらちと思えば攻め滅ぼしても良い。お前の存分にやってみよ。ただし、長々と時間を掛けてはならぬ。稲穂の取り入れまでには兵たちを国に帰してやらねばならぬからな」


 期限はせいぜい半月といったところであろう。


「承りましてござりまする」


 秀綱はごく慇懃に、崇敬する主君に頭を下げた。



 毛利家は、絶体絶命の窮地に立たされた。

 首鼠両端しゅそりょうたんを持し、強者に対して曖昧な態度を取ることは、よほど慎重に相手の感情を繕い続けなければ、結局は自分の首を絞めることになるのである。己の見通しの甘さと、衆議で家の舵取りをしてゆくことの難しさを、元就は痛感した。

 ――毛利が尼子に敵対せぬということを、何とか納得してもらわねば・・・・。

 こうなってしまった以上、相手のくつを舐めてでも戦争を回避せねばならない。


「私は幸松丸さまの名代として尼子の本陣へ赴く。お前にも同行してほしい」


 と元就が言ったとき、お久は自分が果たすべき役割をすぐさま領解りょうげした。


「人質でございますね」


 元就には男子の子がなく、娘はすでに高橋氏に取られている。人質を出すとすれば我が妻しかない。

 お久はわずかに目を潤ませたが、武門に生まれ育った女のつよさで、凛として夫の言葉に従った。その健気さを見た元就は、自分が妻をどれほど愛しているかを強く実感した。


「出雲のお屋形は、お前の叔父御であられる。決して粗略には扱われぬであろう。何も心配することはない」


 気休めにもならぬ言葉を吐きながら、

 ――お久を失ってたまるか。

 という想いが、元就の胸を突きあげるように打った。

 元就が妻を伴って吉川軍の本陣へ赴くと、義父の吉川国経が堅い表情で出迎えてくれた。

 久しぶりに愛娘の顔を眺めてさえ、国経は心からの笑みを浮かべることができない。


「舅殿に、出雲のお屋形さまへの取りなしをお願い致したく――」


 頭を下げる娘婿を見つめ、

 ――来るのが遅い!

 と国経は心中で罵った。

 毛利家は最後の最後まで日和見を続けた。その態度を尼子経久が怒るのも当然で、もはや国経としても取り繕いようがない。


「やるだけはやってみよう。じゃが、経久殿は、会うてくれぬやもしれぬぞ」


 しばらく吉川軍の本陣で待たされた元就は、戻ってきた国経に同行してもらい、尼子軍が本陣にしている寺院へと赴いた。

 八畳ほどの暗い一室に通され、長く待たされた。

 陣中とは思えぬ静寂のなか、時おり名も知らぬ鳥の鳴き声が幽かに聞こえてくる。

 やがて背後の障子が開き、端正な顔つきの若い男が下僚と共に部屋に入ってきた。

 亀井秀綱である。

 上座に座った秀綱は、平伏する元就に向けておもむろに口を開いた。


「尼子家老臣、亀井能登守と申す。吉川の伊豆殿より、何やら毛利からお話があると伺ったが・・・・」


「吉田の郡山城主・毛利幸松丸の叔父、多治比の元就でござる」


 元就は一度顔を上げ、再び土下座のように平伏した。


「このたびは、当家に対していきなりのご征伐と聞き、驚き入っておりまする。当家がお屋形さまに対し、いかなる失態や不敬がありましたろうか。我らはかつてお屋形さまに楯突いたことはなく、尼子家に不為ふためを働いたこともございませぬ」


 元就は、毛利が尼子家に対していかなる邪心も抱いていないことを切々と訴えた。

 ――今さら何を申しておるのか。

 秀綱は元就に冷眼を向けた。もはや事態は言葉で取り繕うことができるような段階を過ぎている。


「毛利は、盟約の証人を出すと申しておきながら、今日までついに人を寄越すこともなく、我らに何の会釈もござらなんだ。お屋形さまは、毛利の不埒な態度にご立腹さなれ、すでに当家の敵と見做しておられる。こうを乞いに来たというならともかく、今さら弁明で事を済まそうというのは、少々お考えが甘すぎるのではないかな」


「人質の件は、当家の幸松丸さまが未だ幼く、子もおらず、適当な者を選ぶことに少々日が掛かってしまったまでのことにて、他意はございませぬ。吉川の陣屋まで我が妻を連れて参っております。私には子がありませぬゆえ、どうか妻を陣中にお留めくださいますよう――」


「せっかくのお覚悟だが、それはご無用である」


 元就は幸松丸の後見役ではあるが、毛利本家を出て一家を立てており、その人質をもって毛利家の誠意と看做すことはできない。まして人質を女で済まそうというなら、幸松丸の実母でも出してもらわねば、話にならない。

 ――ものの頼み方さえ解っておらぬ。

 秀綱の眉宇に苛立たしさが漂った。


「多治比殿のご内室が、お屋形さまの姪御に当たられることは、私も承知している。貴殿を疑うておるわけではないのだ。さりながら――」


 秀綱の要求は、元就が想像したより遥かに苛烈であった。


「毛利のご家中で当家に従おうとせぬ者どもの首魁が、日下津城にある。まずはその者の首を持参し、当家に二心ふたごころなきことを示し、お屋形さまに誠心誠意お詫びなされよ。そうすれば、お屋形さまのお気も変わられるやもしれぬ」


 まず大前提として坂広時を粛清せよ。それをしないなら臣従することさえ認めない、と、大上段から斬って捨てたのである。


「それは・・・・」


「多治比殿がそれを行うことが出来ぬなら、私が代わって日下津城を攻め落としてやってもよい」


 と秀綱は親切ごかした。

 その場合、日下津城は尼子に奪われ、坂氏の領地である向原一帯は尼子の城代が支配することになろう。奪った城と領地を無償で返還してくれるなら親切とも言えようが、そんな甘さを見せるはずがない。結果として毛利領が大きく削られるわけで、元就の立場でそんな提案が呑めるわけがなかった。


「・・・・・・・」


 元就は苦しげに黙考した。

 それを見下ろす秀綱の眼には、強者がごく自然に持つ酷薄さがある。その口元にやや加虐的な笑みが浮いた。


「いずれ、是非にとは申さぬ。当家に従わず、大内をたのみとされるなら、それもよろしかろう。急ぎ郡山城に帰られて、防戦の支度をなされよ」


 要求を呑まぬなら、あとは戦さだ――。

 これが最後通牒だと秀綱は言っているのである。

 元就は全身に冷汗が湧き、尻の穴から魂が抜け落ちるような虚脱感を覚えた。

 ――どうにもならぬ。

 戦って勝ち目がないことは火を見るよりも明らかであった。

 大内義興に援軍を頼んだとしても、その要請で義興が動いてくれるという保証はまったくない。そもそも大内軍は今ごろは長門へ向けて帰路を行軍中であろう。たとえ義興が援軍を出す気になってくれたとしても、周防へ帰国した大内軍が安芸北部までやって来るには、どんなに早くとも半月以上は掛かる。武田氏がその進路を妨害するようなら、二月待っても到着しないかもしれない。いずれにしても、その前に郡山城が陥落するのは目に見えている。

 つまり、ここで戦さを回避できなければ、毛利家は滅ぶ。

 天穂日命あめのほのひのみことを祖とする江家ごうけの末裔、毛利時親ときちかが安芸に入部してから数えて十一代・二百年続いた安芸・毛利氏の血統が、幸松丸の代で絶えてしまうのである。幼い幸松丸には何のとがもなく、その責任はすべて後見役たる自分に帰されるべきであろう。

 ――泉下の兄上に顔向けできぬ・・・・。

 元就は、己の無能と無力さを、腹の底から呪った。

 いや、問題はそれだけでは済まない。

 武門の屋根がおちちれば、その家に暮らしている者は圧死せざるを得ないのである。武士は言うに及ばず、毛利領に生きる三千人以上の無辜むこの民草を兵火に巻き込むことになり、吉田の城下は焼かれ、人々は生命と財産を残らず奪われ、わずかに逃げ延びた者たちも生活の基盤を根こそぎ破壊され、その後は貧苦のどん底であえぐことになろう。

 ――絶対に、戦さにはできない。

 である以上、坂広時に腹を切らせてその首を差し出し、意地も誇りも何もかも投げ捨てて尼子経久の憐みにすがるしかない。

 無残なほどに惨めだが、元就にはそれ以外に選べる選択肢がなかった。



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