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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
38/62

粛清(一)

 大内軍が安芸へ侵攻したという噂は、その三日後には安芸北部の吉田まで届いている。

 その風聞を事実と確認した志道広良は、宿老と主立つ家臣をすぐさま招集し、この事態にどう対処すべきかを話し合うことにした。

 その評定の席に、普段は顔を見せない坂広時がひょっこりと現れて、並み居る重臣たちを驚かせた。


「大内のお屋形が安芸へお入りになったとなれば、我らがそれをお迎えするのは理の当然。一刻も早う鏡山城へ兵を出し、城攻めの先手に加わえて頂かねばならぬ。ゆるゆると評定などをし、いたずらに日を送っておったところで、お屋形の機嫌を損ずるばかりじゃ。今からでもよい、早う陣触れの太鼓を叩きなされ」


 と、広時はふくよかな声で言った。

 この老人は二十年以上も前に隠居しており、執権職を志道広良に譲って以来、家政にくちばしを入れるようなことはかつてなかった。それだけに、この老人が自ら動いたということが、事態の重大さを表しているかのようであった。

 老臣、重臣の面々は、坂広時より一世代かそれ以上に若く、前執権であり名門・坂氏の長老であるこの老人に対しては、多少の遠慮を持たざるを得ない。その意見に不服な者も正面きっては異を唱えず、ただ左右を見まわして同僚の顔色を読んでいる。

 そういう空気を察したのか、長老の福原広俊が白い髭をしごきながら言った。


「そうは申されるがな、兵部ひょうぶ殿よ。我らは昨年、吉川の伊豆殿(国経)に仲介を頼み、出雲のお屋形に誼みを通じたばかりじゃ」


 広俊は家臣団の長老的存在であり、坂広時よりさらに十ばかりも年長である。過去の功績において広時に対抗できるのはこの老人くらいしかいない。


「尼子に大内にと、そう腰が軽うては、世人の侮りを受けまいか」


「はは、これは海千山千の式部しきぶ殿の言葉とも思えませぬな」


 広時は泰然とした微笑を浮かべている。


「昨年の冬、ご当家は尼子にあえて敵対せなんだ。が、それはそれだけのこと。一時の権謀と申すものでござろう。ご当家は出雲に人質を出してはおらず、尼子の軍門に降ったわけではありますまい。ご当家と大内家との主従の約は、未だ反故ほごになってはおらぬ。つまり我らは依然として、大内のお屋形からお指図をたまわるべき立場じゃ。そうではないかな河内かわち殿」


 話を振られた井上元兼は、


「いかにもご老体の申される通りじゃ」


 と大いに頷いた。


「わしは、昨年の冬にも尼子に通ずることには反対じゃった。今日のような事態を招くであろうことは、あの時からわかりきっておったからじゃ。案の定、尼子は安芸を去り、雪解けと共に大内がやって来た。ご当家はもともと大内に従って参ったのだから、大内のお屋形に臣下の礼を取るのが当然のこと」


 この男はもともと大内贔屓であり、否やがあろうはずもない。


「しかしご老体――」


 譜代衆を代表して渡辺すぐるが声をあげた。


「ご当家が出雲のお屋形に臣下の礼を取ったことは事実でござる。これは高橋、吉川とも相談した上で決めたこと。ひとたび旗色を決しておきながら、それを簡単に覆すのは、義にもとるのではありますまいか」


「義」とは「正しい行いを守ること」である。その言葉を聞いた老人は、邪気のない笑みを浮かべ、うんうんと二度頷いた。

 渡辺勝は際立った才智があるわけではないが、剛毅ごうき朴訥ぼくとつとか質実剛健といった四字熟語がよく似合う男で、いかにも古武士然とした醇篤じゅんとくな性質と主人への忠誠心を持ち、毛利家譜代の筆頭かしらたることを誇りとし、何をするにも骨惜しみをせず率先して働き、戦場では死をも恐れず戦い抜く。広時はそういう勝の人間性に大いなる好意を持っており、

 ――この渡辺のような男こそ、毛利家の宝である。

 と思っているから、返す声音は子に対するよりも優しい。


「太郎左の申すこと、いかにももっともじゃ。じゃがな、ご一同――」


 一座をぐるりと見回し、老人は言葉を継いだ。


「まぁ考えてもみなされ。悦叟院えそういんさま(弘元)が大内の先代・政弘まさひろ公より偏諱へんきを賜って以来、ご当家はもう五十年近くも大内を主家と仰いで参った。秀岳院しゅうがくいんさま(興元)にいたっては、義興公より偏諱を賜ったばかりか、いちいち数えられぬほど多くのご陰助を頂いておる。上洛し、京畿けいきで働いた際には、義興公は我らを大いに賞してくだされ、そのお陰をもって秀岳院さまは、『安芸に毛利興元あり』と他国にまでその名が響くようになられた。安芸の国衆と一揆を結ぶに際しても、義興公のお指図、お口添えがあったればこそ話がまとまった。ご当家が今こうしてあるのは、それらの結果であることは明らかじゃ。これに対して、ご当家は出雲のお屋形から何か恩義を受けたであろうか?」


 真正面からそう問われれば、これに応えられる者はいない。毛利家は尼子経久から一反半畝いったんはんぜの土地ももらってはおらず、貸しもなければ借りもないのである。


「強き者に従うというだけが武門のあり方ではあるまい。武士には、果たさねばならぬ義理がある。近頃の安芸は何かと騒がしいが、このような非常の時であればこそ、大内のお屋形へ忠義を尽くすことが、受けた恩義に報いる道であろうよ。義とは、そういうものではないかな」


 論理に筋が通っている。さすがの渡辺勝も返す言葉がなかった。

 広時は坂一族の長老である。その影響力は坂氏本家だけに留まらず、分家である桂氏、光永氏、志道氏にまで及ぶ。さらに井上一族の総領である元兼までが広時を支持する姿勢を鮮明にしているから、その雰囲気の中であえて尼子方を貫くべきだと主張する者は誰もおらず、衆議の方向性はおのずと定まった。

 元綱は、腕を組んで瞑目し、眉間に深い皺を寄せたまま議論の成り行きにじっと耳を傾けていた。内心は反吐が出るほど不快であり、


「お前たちはそれでも武士か!」


 と何度か叫びそうになったが、その衝動を我慢して抑えていたのである。

 ひとたび尼子方につくと決めたからには、たとえその先に滅びが待っていようとも、どこまでもそれを貫くのが武門の面目であり、そこにこそ忠義と意地に殉ずる武士の美しさがある――と、元綱は信じている。大内氏から受けた恩を云々するならそもそも尼子氏に通じるべきではなく、昨年の冬の時点から大内方であることを鮮明にしておけば済んだ話なのである。尼子軍がやって来た時は大内氏の恩を忘れ、大内軍が出張って来れば尼子の旗を弊履へいりのごとく捨てる。恥知らずとそしられて当然の態度であり、それのどこに武士の美しさがあるか――。

 そう思うのだが、しかし、

 ――この議論には、俺は口を出してはならぬ。

 ということも、この若者は弁えていた。

 もしここで元綱が尼子方を貫くべきことを強硬に主張すれば、内心で尼子寄りの者たちが密かに元綱に同調し、元綱を核として親尼子の派閥を作ってしまうことになりかねない。先々代・弘元の血を受け、毛利本家の連枝という立場の元綱は、たとえば当主の幸松丸が急逝するようなことがあれば、毛利の家督を継ぐ資格がある。あるいは次兄の元就が失墜すれば、幼君の後見役として権力を握り得る。派閥の旗頭として担がれて、政争の具にされかねないのである。そうなれば尼子氏も元綱一党を利用して毛利の家政へ介入しようとするであろうし、大内氏の側からは毛利家中の癌として目の仇にされるであろう。尼子派と大内派の確執が先鋭化すれば、最悪、毛利家がふたつに割れて内訌が起きぬとも限らない。幼い幸松丸に政治力がなく、衆議で家政をっている現状においては、連枝たる元綱が政治的立場を鮮明にすることは、それほど危険で有害な行為なのである。そこを弁えているからこそ元綱は、これまで「政治」からは極力遠ざかるという態度を取り続けてきたのだ。

 ――兄上がご存命あれば・・・・。

 嘆息するような気分でそのことを想った。

 亡兄の興元が健在であれば、元綱もここまで気を使う必要はなかったであろう。いや、そもそもあの誠実な兄なら、大内義興との主従の約を遵守し、尼子経久からどのような圧力を受けても不動の姿勢を貫いたに違いない。

 大内だ、尼子だ、という議論を耳の端で聞きながら、

 ――俺は、大内義興にも尼子経久にも仕えた憶えはない。

 と想い直し、元綱は自らをわずかに慰めた。毛利家が大内・尼子のどちらにつくにしても、己の主君が代わるわけではなく、その誠心のあり方を変えるわけでもない。元綱にとって主君とは亡兄の興元であり、その遺児の幸松丸であり、それ以外にはあり得ないのである。毛利家のために命を捨てて戦場で働く、というところに元綱の矜持があり、たとえ毛利家がどちらに向かって進んでゆくにしても、元綱は己のスタンスを微動だにせぬつもりであった。


「四朗、何か思うところがありそうだな」


 元綱の浮かぬ表情を気にしたのであろう、兄の元就が発言を促した。


「いや、ないな」


 短く応えた元綱は、苦く笑った。


「今日はどうも腹の具合が悪い。途中で悪いが、俺は先に帰らせてもらおう。評定の結論はまた明日にでも聞かせてくれ」


 元綱は席を立ち、重臣たちの様々な視線を受けながら、広間を去った。

 執権である志道広良はもともと大内寄りであり、本家の長老であり恩人でもある坂広時の言葉に逆らう気はない。福原広俊にしても、大内の大軍が吉田から二日の距離にまで迫っているという現実がある以上、これに積極的に敵対すべきとまでは考えていなかった。

 結局、「大内へ返り忠すべし」というのが議論のコンセンサスになり、「国人一揆の衆中と進退を共にする」という消極的な寝返りが無難であろう、というところで衆議は落ち着いた。



 多治比元就という男は、外から見ると優柔不断と映るほど決断や選択においては慎重である。

 たとえば何か政治的な決断を下さねばならぬときも、元就は常に時間を掛けて考えに考え抜く。後から後悔したくないからである。しかし、たとえどれほど熟慮を重ねた末の選択であっても、性格が内向的で粘性な元就は、己の決断に対しても常に懐疑的であり、もっと良い選択があったのではないか、もっと他に道があったのではないかと、後から必ずうじうじと思い返し、思い返しては後悔する。

 ――下手な考え休むに似たり、か・・・・。

 そうも思い、自嘲したりもするのだが、それでも後から後悔したくないがために、何度も何度も同じことを考えてはため息をついている。

 この局面においても、

 ――どうすることが毛利家にとって最善手なのか。

 ということを元就は考え続け、決断しかねていた。

 衆議は再び大内氏に通ずることを決したが、実際問題としてそう簡単には動けない。もしここで軍勢を出して大内軍に加勢すれば、それは尼子氏に敵対することを世間に宣言するのと同義であり、必ず尼子経久の怒りを買うことになるからである。尼子軍が鏡山城の救援に出て来る可能性もまだ残っていたし、よしんば尼子経久がこの時期の決戦を避けたとしても、いずれ安芸を再奪取すべく大軍を率いてやって来るのは間違いない。安芸北部に根を張る毛利は、そのとき最初の標的にもされかねないのだ。

 ――大内も怖いが、尼子も恐ろしい。

 それが元就の本音だった。

 大内氏は日本で最大にして最強の大大名である。その経済力と動員力の規模はおそらく元就の想像さえ及ばぬほどであり、大内義興にはまさに王者と呼ぶに相応しい風格がある。が、一方で、尼子氏には昇竜のような勢いがある。尼子経久は武略と謀略において生きた伝説と呼ぶべき鬼才であり、常識では計れないような、何をしでかしても不思議でないような、そんな不気味さがあった。

 五年前の初陣以来、合戦についてはそれなりに場数をこなしてきた元就だが、「万」の単位の人間がぶつかり合うような大合戦はこれまで経験したことがない。わずか三千貫(約二万石)の毛利家から見れば、大内氏や尼子氏のような数国を統べる大大名は「巨人」としか表現しようがなく、彼らが動員しうる大軍に対しても、巨大な津波が迫って来るというような漠然とした恐怖感しか持ちようがなかった。この青年は極めて優れた洞察力と想像力と計算力とを有していたが、それでも体験してないことを実感として捉えることは難しい。大内軍や尼子軍が巻き起こす大津波が具体的にどれほどの高さで、どれほどの破壊力を持つか、というようなことを元就は見切れておらず、最終的にどちらが安芸を取るかという点にも未だに定見が持てずにいる。

 ――それを見極めるまでは、首鼠両端しゅそりょうたんを続けてゆくしかない。

 大内・尼子のどちらか一方を信じ、滅亡を賭してそれについてゆくというような肚のくくり方が、元就にはできないのである。

 元就はそうして決断を保留し、事態の推移を見守っていたが、国人一揆の面々が次々と大内方に「返り忠」をし、さらに大内軍が鏡山城を陥落させたことを知るに及んで、ついに断を下さざるを得なくなった。

 元就がこのまま沈黙を続け、大内義興に何の会釈も示さなければ、毛利は「中立」あるいは「消極的敵対」という態度を取っていることになる。「毛利は大内に敵対しない」という意思表示をしておかなければ、大内軍が吉田に攻めて来ぬとも限らない。

 ――西条に使者を遣わそう。

 幸い世の中には「儀礼」という便利なものがある。大内義興に戦勝祝賀の使者を送れば、「毛利家は大内傘下である」と表明することになり、それでいて「帰属」という点には曖昧さを残しておけるから、尼子経久への刺激も少なくて済むであろう。

 元就にすれば、少なくともこの時点においては、「毛利はあくまで国人一揆の衆と進退を共にしてゆくのであり、進んで尼子に敵対するわけではない」という建前を堅持しておくことで、尼子軍が再び安芸にやって来た時の逃げ道を残しておきたい。毛利家の生き残りを最優先するのが元就の立場であり、それを卑怯とも優柔不断とも思わなかった。

 いずれにしても、この局面でもっとも重要なのは、毛利領の北方を守ってくれている高橋氏の向背であろう。毛利と高橋は共同歩調を取るべきであり、尼子経久に傾倒したらしい高橋興光を再び大内方に翻意させねばならないが、「先々の事はともかく、とりあえず戦勝祝賀の使者だけは出しておこう」という線なら、まだしも説得しやすいと元就は考えた。

 元就は同様に吉川氏をも勧誘しようとし、しゅうとの吉川国経と面談を行ったが、国経は話に乗ってこなかった。


「婿殿よ、それはいらぬ気遣いじゃ。婿殿が大内のお屋形に頭を下げるというなら、それを止めはせぬがな」


 年老いた義父は不敵に笑った。


「我らは大内に敵対するようなつもりはない。が、お屋形が攻めて参るというなら、弓矢でお相手するまでよ。吉川のじじいがそう申しておったと、婿殿から伝えておいてくれぬかな」


 来るなら来い、という態度であり、土下座外交はせぬというところに武勇で鳴った吉川氏の矜持がある。

 吉川国経はこのとき七十九。『応仁の乱』の兵火をじかに潜った男であり、父の経基つねもとと共に「相国寺の合戦」を戦い、西軍・三万余が攻める陣地を千にも満たぬ寡兵で守り抜き、敵を敗走させたという無類の戦歴を持っている。野戦で戦うならともかく、本拠の小倉山城で籠城するのであれば、たとえ大内軍が二万余の大軍であっても、やすやすとは負けぬという自負があった。

 もし大内軍が吉川家を滅ぼすべく大朝へ雪崩れ込んで来るなら、尼子軍を呼び寄せ、南方の武田氏とも結び、百日でも戦い続けてやるぞ、と国経は肚を据えていた。いや、据えている振りをして見せた、という方がより正確であろう。吉川が強気に出れば、戦陣を長引かせたくない大内義興の側が折れて、なんらかの妥協案を示してくると国経は踏んでいたのである。外交とは一面で駆け引きのゲームであり、強く出ることでかえって利益を引き出せる場合がある。この老人は外交の力学と「戦争」という外交カードの使い方をよく知っており、日本最大の大名である大内義興を向こうに回してさえ、タカのくくり方というものを心得ていた。


「ところで婿殿よ――」


 生臭い話はこれで仕舞いだ、とでもいうように、国経は好々爺然とした笑顔を見せた。


「久しく顔を見ておらぬが、お久は元気でやっておるかな」


「はい。お陰さまで風邪ひとつ引かずに――」


「お菊を高橋に取られてしもうたことは、返す返すも残念じゃったが、こればかりは今さら言うてもせんもない。この上は早う跡取りを作って、この爺にも孫息子を抱かせてくだされや。わしも明年には八十になる。そうそう長うは待てぬでな」


 などと言う割りに、国経は腰も曲がっておらず、実に矍鑠かくしゃくとしている。


「婿殿はまだまだ若いのじゃからな。毎夜でもはげんで、お久にどんどんと子を成してもらわにゃならんぞ」


 つやめいた話を嬉しそうにするあたり、精神的にもよほど若いのであろう。

 吉川家の男は代々不思議なほど長命で、戦死した元経は六十代にして戦場で駆け回るほど元気であったし、鬼吉川――吉川経基は九十三まで生きた。この舅殿も、あと五年や十年は平然と生き続けるように思われて、元就は微苦笑した。

 ――達者なものだ。

 人の寿命は計りがたいものだが、自分はとてもこの義父ほどは生きられないだろうと、元就は思う。父も兄も病で早世している。あるいは義兄の吉川元経のようにいつ戦場にたおれるかもわからない。二十代半ばの青年が己の五十年後を想像するのは一般的にもなかなか難しいが、武家の興亡が激しい戦国乱世にあって、それは尚更であった。

 結局、元就と高橋興光は揃って西条へ使者を遣わした。

 その「臣下の礼」を、大内義興は鷹揚に受け取った。

 吉川氏は動かなかったが、元就の心配をよそに、大内軍は安芸北部へは侵攻しようとはせず、しばらくして武田氏と和睦し、安芸から兵を引きあげた。石見銀山を一刻も早く奪い返したい大内義興は、尼子氏との決戦についても石見を想定しており、安芸で長々と時間を費やすつもりはなかったのである。

 ――吉川には何のお咎めもなし、か・・・・。

 正直なところ、元就は大いに安堵した。

 もし大内義興が吉川氏を攻めると決断したとすれば、毛利も出兵を命ぜられたに違いなく、元就は妻の実家を攻めねばならぬハメになっていた。大内軍が動かなかったということは、大内義興と吉川国経の間で何らかの妥協が成立したと見るべきで、大内氏が名を取り、吉川氏が実を取った、極めて政治的な取引が行われたと考えるべきであろう。

 元就はそう察し、義父の見切りの見事さに改めて感心した。

 結果として吉川氏は寸毫すんごうも姿勢を変えていないわけで、弱者の外交としてはこれ以上ないほどの成功であろう。あの大内義興を相手に、安芸の一豪族に過ぎない吉川氏が、外交で堂々と渡り合ったのである。それが現実に可能なのだと知ったことは、元就にとって大きな発見であったと言っていい。

 ――さすがに舅殿は、ものにりておられる。

 吉川国経と元就とでは、老獪さにおいて年季が違う。元就は後世の人から「戦国最高の智将」の一人に挙げられるほどの男だが、古今東西のいかなる智将も智将として生まれてくるわけではなく、それぞれに早熟や晩成といった違いはあるにせよ、成長のためのかてと熟成のための時間が必ず必要になる。元就が世間に対するタカの括り方といったものを悟得し、政戦略と謀略という分野でその才能を開花させるのは三十代後半に入ってからであり、このときからさらに十年余の歳月を経ねばならなかった。



 暴風が過ぎ去り、安芸はとりあえずの平穏を取り戻した。

 梅雨も明け、季節はすでに盛夏である。天にはたくましい雲が立ち、痛いほどの日差しが天神山の翆緑すいりょくを輝かせ、樹間に濃いかげを作っている。

 かまびすしい蝉の音に、ときおり幼児のはしゃぎわめく声と、元綱の笑い声が混じった。

 相合の元綱の屋敷である。

 鶴寿丸かくじゅまるは四つ(満年齢では三歳)になっていた。すでに会話が成り立つ年齢であり、


「お父上さま」


 などと舌足らずな声で呼ばれると、元綱はなんとも言えずむず痒いのだが、同時に嬉しくてまたらない。まったく親馬鹿な話だが、元綱はこの初子ういごが可愛くてしょうがなかった。

 鶴寿丸はいたって健やかに育っている。同世代の子供と比べても、その体格は立派な方であろう。聡明さの度合いを判断するにはまだ早すぎるが、知恵の巡りは悪くないようで、去年の暮れ頃から少しずつ仮名が読めるようになり、ゆきから筆の持ち方や墨の摺り方などを教授され、今では簡単な文字を書けるまでになっていた。

 ――そろそろ真名まな(漢字)を習わせるか。

 自分がかつてそうさせられたように、郡山の満願寺にでも通わせようかと元綱は考え始めている。毛利家は文章もんじょう博士の末裔すえという族であり、元綱が当然と思っている教育の水準は、他の一般的な小豪族や地侍などと比較すれば、レベルが格段に高かった。

 相合の屋敷には女手が充分に足りているので、元綱は息子のための乳母は雇わなかった。実母であるゆきを除けば、もっとも長く幼児に寄り添い、その面倒を見ていたのは、ゆきの従者のさちであったろう。鶴寿丸はやんちゃな子供であったが、幸のことは姉のように慕って懐いており、この少女の言葉にだけは奇妙なほどの素直さで従った。

 鶴寿丸のお気に入りの玩具は重蔵が作ってやった小さな木刀や木槍である。軽いきり材から削り出したまさにオモチャのような武具で、これを振り回して廊下や庭を駆け回り、侍女たちを手こずらせたりした。元綱は親としては諸事子供に甘かったが、そういう時だけは烈火のごとくいかり、


「男は女子おなごに手をあげるものではない! まして武具をもって打つとは何事か!」


 と息子を叱りつけた。

 元綱自身は父との縁が薄く、叱られたことも怒られたこともなく、まったく放任されていた。父親の代わりを務めていたのが傅人めのとの渡辺勝で、その教育方針は厳格にして愚直なまでのスパルタ式であった。父親としての元綱は、その二人のいずれをも真似なかったと言えるであろう。

 この日、元綱は裏庭で鶴寿丸と相撲の真似事をして遊んでいた。


「そろそろコレに武芸も仕込むか。幼い頃からお前が鍛えれば、いずれ俺を超えるおとこに育つだろう」


 目を細めている主人あるじを見て、重蔵は苦笑した。


「さすがにまだ早すぎると思います。お育ち方にもよりますが、再来年あたりから、ゆるゆるとで、よろしいでしょう」


「早ければ早いほど良い、というわけでもないか」


「今しばらくは、こうして遊んでおられるだけで十分です。和子さまは四朗さまの血を継いでおられるのですから、山野を駆け回れるほどのお年になれば、放っておいても武芸に関心を持つようになりますよ」


 今義経の薫陶を受けて育つ子が、惰弱な男になるわけがない。加えて鶴寿丸には文事で鳴った江家の血が流れている。粗暴なだけの男になるということも決してないであろう。文武の双方に優れた才能を秘めているに違いなく、育て方さえ間違わなければ、末は必ず良き武将となるはずだ、と重蔵は思っている。

 熱気を含んだ真夏の風が、長屋のかげに立つ重蔵の頬を撫でて過ぎた。

 その風の音に混じった幽かな雑音に気づいて、重蔵は振り返った。

 早馬の駆ける音である。徐々にこちらに近づいて来る。

 元綱も気づいたのであろう、鶴寿丸を肩車して、表門に向けて足早に歩きだした。


「ご注進! ご注進!」


 その大声に急き立てられるように市兵衛が門扉を開く。

 馬上の男は、元綱もよく知る本家の使い番であった。


「執権殿よりの仰せでござる! 急ぎ評定すべきこと出来しゅったい! 早急にお城に登られるべし!」


 下馬もせずに話をするなど無礼この上もないが、非常時の使い番にはそれが許されている。それは事態の緊急性を表しているとも言えた。


「承知した!」


 元綱が叫ぶと、


「先を急ぎまするゆえ、乗り打ち御免!」


 男は馬首を返し、多治比の方角へ向けて駆け去った。

 元綱は手早く着替えを済ませると、馬を駆って郡山城へと出向いた。

 吉田の屋敷に在宅していた者はすでに広間に座っていた。自領に帰っていた重臣たちも三々五々登城し始める。

 すべての宿老と重臣が大広間に揃うと、上座に座した志道広良が、沈痛な面持ちでまず口を開いた。


「尼子の大軍が石見へ侵攻し、邑智おおち郡に入ったとの報せがござった。先手さきての軍はすでに出羽いずはまでやって来ておるらしい」


 その言葉は、集まった重臣たちを震撼させた。


「すでに出羽まで・・・・!」


 どの男の顔からも血の気が引いている。

 出羽という地は石見と安芸の国境にあり、高橋領の西方、吉川氏の大朝から北東へ二里ほどのところにある。吉田からはわずか一日の距離である。

 出羽に進駐した先鋒軍はおよそ四千。亀井秀綱、宍道しんじ経慶つねよし、三沢為忠ためただの三将が率いている。

 尼子軍は、六月二十八日に月山富田城を出陣し、七月初旬に石見南東部の邑智おおち郡に電撃侵攻した。邑智郡は高橋氏の領地であり、高橋興光は尼子軍に抵抗せず、むしろ進んで馳迎ちげいしたらしい。尼子経久自身が率いる本軍は、高橋氏の軍勢を加えたことで一万五千を超え、邑智郡の山野に満ち満ちているという。

 ――これが出雲のお屋形の恐るべきところだ・・・・。

 元綱は心中で呻いた。

 今度の尼子軍の石見侵攻は、昨年の安芸攻略がその布石となっている。

 尼子経久は、大内義興がこの春の雪解けと共に安芸へ出陣することを見越しており、その様子を遠く眺めながら、出陣の呼吸を計っていたのであろう。大内軍が安芸を再奪取し、山口へ引きあげた直後を選んで石見に攻め込んだわけで、そのタイミングはまさに絶妙であった。

 たとえば大内軍が安芸に滞陣している最中に尼子軍が石見へ侵攻したとすれば、大内義興は安芸から軍勢を北上させ、石見へ入って尼子軍と対陣したに違いない。安芸北部の豪族たちは大内軍に加勢せざるを得ない状況になったはずである。しかし、大内軍はすでに山口へ帰還しており、大内義興が改めて石見に出兵するとすれば、周防から長門を経由して北回りで進軍するしかない。

 加えて経久の周到さは、石見で軍を進めるに際して、行軍が容易な日本海沿いを進まず、あえて山岳地帯を南進し、まず邑智郡へ深く侵攻したことであった。この戦略が実に抜け目ない。邑智郡は石見東部の南端であり、なかでも出羽は四方に道が通ずる要衝で、ここに大軍を侵出させれば石見西部にも安芸北部にも睨みが利くのである。高橋氏を押さえることと吉川氏と連携することが同時にでき、そこから西方にも北方にも、南方の安芸にも、自在に軍を動かすことが可能になる。

 元綱はそこまで見抜き、尼子経久の政戦略の見事さに舌を巻いた。

 ――芸北の死命を制せられた。

 思わざるを得ない。

 大内義興は石見へ出陣するであろうから、それで手一杯のはずであり、安芸へ援軍を送ってくれるとは思えない。安芸北部の豪族たちは、大内の援軍が期待できない以上、尼子につくほか選択肢がないということになる。

 大内義興が大軍を動員しにくい春の農繁期に軍を動かさざるを得なかったのに対して、尼子経久は田植えや稲刈りの時期を外して外征を起こしているという点も、指摘しておくべきであろう。

 実際この時期、動員力や経済力などを純粋に比較すれば、大内氏は尼子氏を圧倒するだけの実力を持っているのだが、しかし、尼子経久は常に先手先手と動き、有利な状況を作り出すことによって兵力的な劣勢を世間にまったく感じさせない。逆に大内義興は常に後手を引かされており、その力を発揮しにくい状況を強いられているために、両者の実力がよほど拮抗しているように見えてしまうのである。


「出雲のお屋形は、石見の福屋正兼まさかねを討つおつもりであるらしい。確かなところは判然とせぬが、すでに福屋は城を捨てて逃げたという風聞もある」


 志道広良が言った。

 福屋氏は昨年に尼子氏に臣従したが、相変わらず大内氏にも通じていたから、尼子経久の逆鱗に触れたのである。この際、攻め滅ぼすつもりになったらしい。


「出雲のお屋形から、参陣を求める使者があったのか?」


 元綱が問うと、兄の元就が首を振った。


「それはまだない。が、吉川の舅殿から、我らが尼子の本陣へ出向くつもりであれば、仲介の労を取ろうという申し出があった」


 高橋、吉川と同盟する毛利とすれば、両者が尼子軍に協力する姿勢を取っている以上、これに同調するのが自然で、この局面で尼子に敵対するというのはむしろ不自然でさえある。


「尼子の軍が出羽まで来ておるということは、高橋が尼子方についたことは明白じゃ。我らも沈黙しておるわけにはゆきませぬぞ」


 と声を上げたのは、中村元明もとあきという男である。元明は十五老臣の一人であり、老臣の中では首座の福原広俊に次ぐ二番の地位を与えられている。


「この際、経久公からの参陣の求めを待っておるのではなく、こちらから進んで尼子の陣に馳せ参ずべきと存ずる。そうしておけば、経久公の覚えも多少は良くなるでござろう」


 もはや曖昧な態度は捨て、尼子方に身を投ずるべき、というのである。

 これに坂広時が強硬に反対した。


宮内くない殿(中村元明)は臆されたか。ご当家の主家が大内であることは、先だっても確認したばかりではないか。尼子にあえて敵対する必要はないが、経久公が攻めて参ると申すなら、大内の援軍がやって来るまでこの城に篭って戦うまでのこと。今さら無用の逡巡はやめなされ」


 大内贔屓の井上元兼、坂広秀がこれに加わり、尼子に寝返るべしと考える者たちとの間で激論となった。

 元就は考え込まざるを得ない。

 大内軍は石見へ出陣するであろうから、安芸へ援軍を出してくれるとは思えない。安芸南部の国人一揆勢と鏡山城の大内駐屯軍は友軍ではあるが、吉田まで援軍に来て、尼子軍と戦ってくれると期待できるであろうか――。

 ――とても当てにはできまい。

 というのが元就の感触である。

 大内軍がすぐさま出陣し、石見に乗り込み、尼子軍とがっぷり四つに組み合うという状況になれば、尼子軍が安芸へ侵攻して来ないという可能性は残されている。しかし、万一尼子軍が吉田に攻め入って来れば、毛利家は孤立無援のまま滅びざるを得ない。

 で、ある以上、

 ――尼子に敵対はできぬ。

 これは大前提であろう。

 元就は「国人一揆の衆と進退を共にする」という態度を貫いてゆきたかったのだが、芸北と芸南の豪族で尼子方と大内方に割れてしまった現在、すでに国人一揆の進退を一致させることは不可能であった。

 高橋、吉川と共に尼子に通ずるか、あるいは危険を承知で大内方を貫くか――。

 軍勢を出して尼子軍に加勢するか、「中立」の姿勢をとって静観するか――。

 いずれどちらかを選らばねばならない。

 ――外堀がどんどんと埋められてゆく。

 進退を曖昧にして首鼠両端を持してゆくのは、もはや限界であった。

 議論はこの日はまとまらず、翌日も翌々日も続いた。

 衆議が決するまでは、元就も結論を出せない。

 いたずらに日が過ぎ、この間、尼子軍は西進に西進を重ねて福屋氏を追いたて、丸原の雲井城を破却し、市原城を抜き、本拠の本明ほんみょう城(江津市)を包囲して攻めていた。

 毛利氏の沈黙は、尼子経久にとって不愉快であったろう。同盟している吉川氏と高橋氏が公然と尼子方になっているのに、それらより弱小の毛利氏が「我れ関せず」というのはどういうことであろう。

 ――多治比の元就は、迷うておるのか。

 決断すべきときに決断できぬ者は、愚者である。毛利家は幼君を戴き、衆議で家政をっている。若い元就には衆議をねじ伏せるだけの政治力がないのか。それとも大内氏への忠節を貫く肚なのか。あるいは常に決断を先送りにする凡愚な男であるのか――。

 経久にはその判断が付きかねたが、いずれにしても、決断せぬ者を相手にしているのは時間の無駄である。

 経久は毛利氏を無視し、江津からさらに西進して浜田のみなとを次々と占拠し、さらに美保関から水軍を回して日本海岸の周布すふ氏の諸城を攻めた。

 大内氏の大軍が石見に乗り込んで来たのは、この頃である。

 吉見氏、三隅みすみ氏、益田氏ら石見西部の豪族の軍勢を加えた大内軍は、三万に近い。これが浜田のあたりで尼子軍と激突した。

 大内軍は尼子軍を数で上回ったが、尼子経久の戦さの巧さは大内義興に優る。経久は慎重に「負けない戦さ」を演じ、この対陣はほぼひと月に渡って続くことになる。

 秋の農繁期には誰もが戦さをしたくない。秋口になると両者の間で和睦が成立し、両軍それぞれに兵を引きあげた。

 が、勝敗はおのずと明らかであろう。

 後手に回った大内義興は石見銀山を奪還するどころではなく、石見西部を守るのが精一杯であった。尼子経久は石見の東半国と安芸北部を奪い、しかも大内義興自らが率いる大軍と互角の対陣をしてみせたのである。

 尼子氏の威勢は、高まるばかりであった。


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