表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
37/62

王者の反撃

 大粒の牡丹雪がひらひらと無数に舞い落ちている。

 数日続いたこの大雪のせいで、山深い吉田は一面の銀世界となっていた。

 腰まで埋まるほどの雪で地が覆われてしまえば、もはや畑仕事も戦さもできない。人々は雪下ろしを終えると、家に閉じこもって無聊ぶりょうをかこつしかないわけで、この季節こそが、芸を売り歩く者たちにとっては格好の稼ぎ時であった。

 岩阿弥と名乗る薄汚いひじりが、琵琶を背負った盲僧の杖を引いて相合の元綱の屋敷にやって来たのは、大永元年(1521)の暮れ――。ある雪の日の夕刻であった。


「お耳汚しではございますが、ご迷惑でなければ何からせて頂けぬものかと思いまして、推参致した次第でございます」


 推参とは呼ばれもせぬのに現れることで、門付かどづけ芸人や行商人などの常套句である。

 盲僧は名を勝一しょういちという。安芸では多少は名の通った琵琶と『平曲』の達者で、吉田の城下に暮らす武士や庶民には愛顧する者が少なくない。

 勝一は、河原者の集落で知り合った岩阿弥に道案内を頼んで、この冬は吉田や甲立の得意先を巡り歩いているのだという。


「わたくしどものように世間の見えぬ者は、この季節は難儀なものでございましてなぁ。足で憶えております道も、雪でさっぱり解らぬようになってしまいます。こうして誰ぞに杖を引いてもらわねば、危のうて歩けませぬ」


 案内役の岩阿弥にすれば一文の得にもならないのだが、酒宴のおこぼれで酒食にありつけることが多いと知るや、それに味を占め、最近はこの法師をむしろ進んで引っ張り回していた。

 老僕の市兵衛からそのことを聞いた元綱は、


「おお、格好の肴がやってきた」


 と大いに喜んだ。数日雪に降りこめられ、退屈していたところだったのである。さっそく近侍などを集め、酒宴を張ることにした。


「『曽我そが物語』の次は、『平家』ですか・・・・」


 重蔵は苦笑した。つい先日、語り芸の瞽女ごぜを屋敷に呼び入れて、曽我兄弟のかたき討ちの物語を聞きながら終夜にわたって痛飲したばかりなのである。この困った主人あるじは、何かと名目を作っては酒宴を開こうとする。

 ちなみに瞽女というのは盲目の女芸人のことで、数人で旅をしながら大鼓おおかわを打って門付けし、諸国の噂話や滑稽譚を語り、『おぐり』、『さんせう太夫』、『しんとく丸』といった御伽草子や説教を物語り、瞽女歌と呼ばれる歌謡を披露し、あるいは身体を売るなどして飯銭を稼ぐ。失明してしまった者の自立と暮らしを救済するために、琵琶法師や按摩あんまなどの座は鎌倉時代から結成されているのだが、光を失った少女たちは、土地土地の瞽女宿と呼ばれる座で女親方から芸を学び、放浪しながらそれを売り歩いて暮らしていたのである。江戸時代になって三味線が世に普及してからは、それを弾き歩くようになったという。

 それはともかく――。


「こんな調子で飲んでおっては、買い置いてある酒が春まで保ちませぬぞ」


 酒が嫌いではない重蔵だが、さほど強いわけではなく、主人の酒があまりに過ぎるとつい小言が出る。


「なに、飲み尽くせば、吉田の乙名おとな(町年寄)にでも強請ねだればよいさ。俺がどれほど飲んだところで、酒手さかてで連中の身代が傾くようなことはあるまい」


「左様左様。わしもこの法師殿も、宗旨こそ違えど同じ仏弟子でござる。仏に布施をし、陰徳をひとつ積まれたと思えば、安い買い物であろうよ」


 どうやら酒にありつけそうなので、岩阿弥は上機嫌である。

 ゆきが侍女たちを宰領し、酒食を運んで来た。ゆきは元綱の隣に座り、女たちはそれぞれ男たちの間に座る。酌をしつつ語りの芸を鑑賞するつもりである。

 ゆきの容姿を見た岩阿弥は、その美貌にしばし絶句し、みるみる笑み崩れた。


「その女性にょしょうは、相合さまのご内室でござりまするかな」


「あぁ、そうだが――?」


「いやいや、思わぬ眼福でござった。麗しき女性をこうして眺めることができるのは、目きの我らならではの法楽でございますなぁ。勝一法師が気の毒でならん」


 勝一は微笑して首を振った。


「煩悩は悟りの妨げ。御仏は、わたくしのような者が心おきなく彼岸に渡れるよう、女人の美しさを知り得ぬように致してくだされたのでございましょう。岩阿弥殿こそ、そのように美女を見かけるたびに心を残しますと、三途の川の船筏ふないかだから転げ落ちますぞ」


「わしのごとき乞食坊主は、そもそもその船筏に乗せてもらえぬわい。渡し賃の六文が都合できんでな」


 この坊主は座談が面白く、平曲を聞くより、しばらく歓談で酒が続いた。

 聞けば、岩阿弥は時衆の聖であるという。若い頃は諸国を遊行し、南は九州・鹿児島から北は陸奥みちのく・津軽の恐山まで、日本中をくまなく歩いたというのが自慢であった。

 元綱は、多くの軍記物語を精読しているだけに、各地の地名、地方地方に根を張る豪族の名などには妙に詳しい。その博識は、あちこちと歩き廻っている岩阿弥をさえ驚かせた。


「ところで、御坊がるのは平曲のみか」


 元綱が勝一に訊ねた。一般に琵琶法師は『平家物語』が専門だが、「語り物」の芸能者であることに違いはなく、客の好みに応じて複数の物語を語ることが出来る者もある。


「説教物ならば、『さんせう太夫』や『しんとく丸』などはつかまつりまする。あとは御伽草子がいくつかと、『義経記ぎけいき』などは少々――。目きの者ならば書物さえあれば読み語ることもできるのでございましょうが、わたくしにはそのあたりが精一杯でございまして――」


 盲僧は当然ながら文字から物語を憶えることは不可能であり、すべて耳から聞いて記憶したはずである。それが職能であるとはいえ、大変な習練と時間が必要であったろう。


「御坊は『義経記』も語れるのか。語りの芸をする者は、やはり判官贔屓ほうがんびいきが多いな」


 義経を主人公にした御伽草子は少なくなく、『判官都話みやこばなし』、『皆鶴みなづる』、『御曹子島渡り』など、枚挙にいとまがない。薄命の英雄として義経を愛惜し同情する風潮は庶民に根強く、語り芸で世を渡る者たちにとってはまさに格好の売り物であったのだろう。

 ちなみに『義経記』は作者不明の書物で、いつ成立したのかも定かでない。これは『平治物語』や『源平盛衰記』なども同じで、軍記物語はむしろ作者が特定されるものの方が珍しいのである。『義経記』を誰がいつ書いたのか、元綱はそれが長く疑問であったのだが、その点を訊ねてみると、この琵琶法師は、時衆の僧や語り物の芸人の存在を指摘した。


「――すると御坊は、『義経記』は誰か一人が書いたものではないと申されるのか」


 はいはい、と勝一は二度首を縦に振った。


めしいたわたくしは世間が見えませぬが、たとえ目きの者であっても、東は奥州から西は壇ノ浦まで、一人の人間が見て回ってアレを書いたとは、とても思われませぬ」


「確かになぁ。それで陣僧か・・・・」


 時衆の僧は、陣僧として合戦に付き従い、戦場の伝聞を語り、しかもそれを文字で記録することができる。また語り物の芸能者たちは、各地の伝説、伝承を、口碑として伝え残す。陣僧たちによって語り継がれ、あるいは書き継がれてきた義経の物語や、地方地方に残る言い伝え、創作された御伽草子などが、長い年月を経るうちに次第に纏められ、重複する部分は切り捨てられ、取捨選択が重ねられ――、やがて現在の『義経記』になった、ということであろう。それならば、作者がいないのも、完成年代が特定できないのも、納得できる。


「そういうことか?」


「はいはい。おっしゃる通りでございます」


 勝一は嬉しそうに頷いた。


「官製の『吾妻鏡あづまかがみ』を除き、ほとんどの軍記物語は似たような事情で出来あがったものでござりましょう」


 岩阿弥が口を挟んだ。たまにしか飲めぬ酒を過ごしたためか、その岩のような顔はすでに真っ赤になっている。


「書いた者がハキとしておるのは『平家物語』くらいではなかろうか」


 兼好けんこう法師の『徒然草つれづれぐさ』によれば、『平家』は、鎌倉時代の初期、信濃前司しなののぜんじ行長ゆきながという人物が書き上げ、生仏しょうぶつという盲僧にそれを教え、琵琶のに乗せて語らせた、ということになっている。これが後の琵琶法師の起源であるという。


「たとえば奥州と九州では、これが同じ言葉かと思うほどなまりが大きく違っておりましてな。わしが聞き知っておる限りでは、同じ話でも地方地方によって内容もところどころ違っておったように思いまするな。もっとも、わしのつむりはいたって巡りが悪いゆえ、語り物どころか説教物も、ひとつもまともに憶えてはおりませぬが――」


「御坊の大頭なら、さぞ多くの説教が詰まっておりそうなものだがな」


 井上又二郎が茶化すと、


「左様左様。鉢こそ大きゅうござるがな。中身はどうやら空っぽと見えて、このように頭を左右に振りますと、中で脳髄がカラカラと音を立てまする」


 岩阿弥は滑稽な顔を作って頭を振り、それを見た一同は大いに笑った。


「いずれ衆生しゅじょうは文字に暗い者がほとんどでござる。御仏はその者たちを哀れみ、この勝一法師のごとく物覚えの良い者を世に遣わしてくだされたのでござろう。わしのような徳の低い坊主は、この法師のような方の杖を引いて歩くことで世の役に立ち、こうして酒にありつける。有難いことでござる」


 実際、文字が読める者はこの時代にはそう多くはなく、武士や商人はともかく百姓の大半は文盲と考えていい。そういう者たちの耳に訴えかけるのが語り芸であり、中世においては文字よりむしろ声が文芸の中心であったと言えるかもしれない。

 琵琶法師や瞽女ごぜのように門付けする芸人もあれば、大勢で座を組み、小屋掛けして興行する芸人集団もある。

 年が改まった大永二年(1522)の正月下旬――。

 旅芸人の一座が吉田にやって来て、興禅寺の境内に小屋掛けするということがあった。

 その噂は、広くもない城下でたちまち評判になった。冬の山村に娯楽は少ない。暇を持て余している民衆にとって、これほどの余興はめったにないのだ。

 それを小耳に入れてきたのは井上又二郎である。


「文五郎一座? 確かにそういう名なのですか?」


 思わず重蔵が叫び、その剣幕に又二郎は周章した。


「噂ですよ、噂。わしも人から聞いただけで、本当にそうなのかまでは存じません。見て来たわけではないのですから」


 部屋の奥で鎧の繕いをしていた元綱が、興味を引かれたように顔をこちらに向けた。


「なんだ、知っておるのか?」


「わしが安芸へやって来るとき、播磨あたりから芸人一座と旅路を共にさせてもろうたという話はしたことがありましたな。それと名が同じなのです」


「あぁ、そういえばそんなことを申していたな」


青墓宿おおはかじゅくの文五郎一座といえば、同業の中でもおんなの歌舞では右に出る者なし、などと自慢しておりましたが・・・・」


「青墓宿? 美濃のか?」


「たしかそのように申しておったと思いますが――。わしは京より東のことはほとんど知らんのです。四朗さまは何かご存知なのですか?」


「まぁ知ってる。といっても、書物の上でのことだがな」


 高橋氏の備後遠征に従軍したことを除けば、元綱は安芸から一歩も出たことがなく、その知識はもっぱら書物から得たものである。


「美濃の青墓宿といえば、頼朝公の父である義朝よしとも公が、『平治の乱』で敗れて都落ちした時に身を寄せられた宿場だ。傀儡女くぐつめ長者と呼ばれた大炊おおいという女が、義朝公のめかけであった縁でな。あとは――、そう、後白河院に今様を伝授した乙前おとまえという芸人も、青墓宿に住んでいたと何かで読んだ憶えがある。後白河院といえば四百年も前の人だ。その青墓という宿場には、芸で身を立てる者たちが大昔から集まっていたんだな」


「はぁ、そうなのですか・・・・」


 ちなみに元綱の先祖である大江匡房まさふさは、平安後期において屈指の知識人であり大学者でもあったが、風変わりなことに芸能者が好きだったようで、『傀儡子記くいらいしのき』や『遊女記』といった随筆を書き残している。それと同じ血が、どうも元綱にも流れているらしい。


「まぁいずれにしても、行って確かめてみればよい話ではないか。良い退屈しのぎになる」


 元綱はすでに大乗り気である。この若者は餓鬼の頃から祭礼が大好きで、喧騒や人混みに血が浮き立つ性質たちなのだ。

 元綱は、母と侍女、近侍や家の使用人など十五人ばかりを連れ、興禅寺に行くことにした。当然のように妻と子も連れてゆくつもりであったのだが、


「とんでもない。この寒いなか何刻も外を連れ回しては、鶴寿かくじゅが風邪を引いてしまいます」


 とゆきに叱られたので、そちらは断念したのである。

 境内は大変な賑わいであった。広い寺領の一角に竹矢来が組まれて場が仕切られており、鰻幕が張られ、外から中が覗けないようになっている。木戸銭を払った者だけが幕の中に入れるのである。幕の中からは人々の嬌声やざわめきが絶えず、木戸の前は人だかりで埋まり、周囲は順番待ちの人で溢れていた。家中の武士の姿も多く見られる。便乗商売で、焼いた餅や甘酒などを売る露店までが出ていた。


「これは木戸を抜けるのも一苦労だな・・・・」


 空は厚い雲に覆われ、小雪がちらつく生憎の天気で、とにかく寒い。こういう状況で長く待たされるであろうことを、あの賢明な妻は見越していたのであろう。

 重蔵は、竹矢来の組み方や鰻幕の模様などから何かを悟ったようで、勝手知ったる様子で脇から裏手に回ってゆき、しばらくして中年の男を連れて戻ってきた。


「この者は?」


「座長の文五郎という者です。文五郎殿、こちらはわしがお仕えする、相合の四朗さまじゃ。四朗さまは毛利家の御曹司であられる」


 男は小腰を屈め、元綱に慇懃に頭を下げた。


「今義経のご雷名は、安芸を通りますたびに耳にしておりました。わざわざお運び頂きまして、ありがとうございます。一座を束ねます文五郎と申します。毛利さまには、此度の興行をお許し頂きまして、重ねてお礼申し上げまする」


 寺社の領地は地頭の権限が及ばない不入の地で、興行許可を出したのも実際には興禅寺であったが、領主の縁者の機嫌を取り結んでおいて損はない。


「どの土地にゆきましても義経を扱った猿楽(狂言)などは特に喜ばれるのでございますが、毛利さまのご領地には生きた義経さまがおられるゆえか、どうも不評でございましてな。演目に苦労致しております」


 などと、如才がない。


「良い見世物に領民たちも喜んでいる。たんと銭を稼いでゆくがよい」


 元綱は笑顔で応えた。


「この重蔵が、以前そなたの世話になったと聞いたが」


「はいはい。羽田殿とは旅の空を共に歩いたことがございます。このようなところで再会できようとは、まったく驚き入りました。相合さまにお仕えしておると聞き、二度驚いた次第でございまして――」


 文五郎はやや痩せ型の四十男で、言動に礼節があり、物腰に卑しさがない。どことなく武家の匂いがする。

 また夜にでもゆっくり遊びに来てくだされ、と重蔵を誘った文五郎は、元綱に礼をすると、そそくさと鰻幕の裏手に戻っていった。舞台は開演中であり、何かと忙しいのであろう。

 それからさらに一刻半ほど待たされた。

 木戸銭を払って幕間に入ると、内部は観客で埋まっていた。人いきれのせいか、中は妙に暖かい。

 正面に八間(約十五メートル)ほどの広さの舞台が設えられている。

 しばらく待っていると、太鼓と鉦が打ち鳴らされ、舞台に先ほどの文五郎が現れた。


「遠く濃州のうしゅう青墓宿より、百里の道をはるばると、まかり越したるこの一座――」


 などと口上をつらつらと並べ、さらに観客に感謝の辞を述べる。

 座長が引っ込むと、演目の開始である。

 まず二人の放下師ほうかし(曲芸師)が現れ、ジャグリングの芸を始めた。三本の抜き身の短刀を器用に空中に舞わす。さらに二間ほどの距離をおいて向かい合い、二本の短刀が両者の間を飛び交う。短刀の動きは一瞬も止まらず、それがいつの間にか四本に増え、やがて六本に増えた。観客たちは口を開けてその妙技に見入り、会場は驚きの声と割れんばかりの喝采で満たされた。

 次に出てきたのは滑稽芸の男たちで、独り相撲を取る者、動物の形態模写をする者、猿回しの芸をする者などが会場を笑わせた。

 武張った芸もある。舞台中央に立てた的に、会場の端から手裏剣打ちで短刀を突き刺す技を持つ男は、最後は目隠しをしてその芸をやってのけた。よほど修練を積まねば武士でも出来る者は少ないであろう。元綱も素直に感心した。

 それらの演目が済むと、笛と太鼓に囃されて、舞台の左右から華やかな薄物を纏った美女が十数人も現れた。


  花はぬしある女郎花おみなべし よし知る人の名にでて

  許し申すなり 一本ひともと折らせ給えや

  なまめき立てる女郎花 うしろめたくや思うらん

  女郎と書ける花の名に たれ偕老かいろうを契りてん

  かの邯鄲かんたん仮枕かりまくら 夢は五十年いそじのあわれ世の

  ためしもまことなるべしや 例もまことなるべしや


 小歌を唄いながら淫猥な舞いを見せる。


 私たちは主人に飼われた女郎花。その事情を知るお優しいあなた(観客の男)のお名に免じて(肌を)許しましょう。お望みならばどうぞ一本お手折りください。いかにも艶めかしい姿で立つこの女郎花。気になってしょうがないでしょう? 「女郎」と書くその名に戯れて、夫婦めおとの契りを結ぼうとした者もあったのよ。あの邯鄲の仮寝かりねの夢の五十年、その栄華さえ泡のように消えるのだから、儚き人の世の一夜のためしにもきっと真実があるでしょう。


 彼女らは、芸妓であると同時に遊女である。その舞いの妖艶さ、見事さは、観客を大いに喜ばせ、大興奮させた。

 が、ゆきの舞いを見慣れた元綱には、これは何やら物足りない。いかにも華やかではあるが、客への媚びが露骨すぎて、興を殺がれるのかもしれない。このあたりは好みの問題でもあろうが、

 ――薄物も悪くはないが、白拍子のごとき男舞いの方が面白いな。

 などと思ったりした。

 公演は一刻ばかりで終わった。

 木戸の外に出ると、すでにあたりは夕暮れ時である。竹矢来の周囲には篝火が焚かれ、人の賑わいは少しも衰えていない。出た観客と入れ違い、続々と人が木戸の中に吸い込まれてゆく。


「お前はあの舞台で剣の技を客に見せておったわけか」


 元綱が笑いながら言った。


「はぁ。お恥ずかしい限りです」


 重蔵は苦笑するしかない。

 その夜、最後の公演が終わるのを待って、重蔵はその舞台裏を訪ねた。昔の仲間たちとゆっくりと酒を酌み、大いに旧交を温めたことは言うまでもない。かつて馴染んだ女もまだ一座に残っていた。朝帰りした重蔵は妙に脂の抜けた顔をしていたが、意味を察した元綱はニヤリと笑っただけで、むろん咎めたりはしなかった。

 その翌々日の初更、吉田の坂広秀の装束屋敷に入ってゆく数人の人影があった。

 文五郎と芸妓たちである。

 この一行をたまたま見かけた領民たちは、坂広秀が艶美な酒宴でも張るのだろうと思い、羨んだり囁き合ったりしたが、その屋敷の最奥の一室に招じ入れられた文五郎が、広秀の父である坂広時と人を遠ざけて何やら密談していたことを知る者は、屋敷の中でもほんの一握りしかいなかった。



 多治比の猿掛山にも雪は深深と降り積もっている。

 灯明の火を吹き消したお久は、夫が待つ夜具の中へ身を滑り込ませた。

 帯を解き、単衣ひとえの中をまさぐる元就の手の動きにもすでにぎこちなさはない。妻の身体のどこを押せばどんなが出るか、元就もすっかり解るようになっていた。

 底なしの快楽けらくに陶然と酔う時間が過ぎると、お久は夫の胸のなかで小さくため息をついた。


「なんだか毎日が平穏で――。それがかえって不思議な感じが致します」


 安芸の支配者が大内義興から尼子経久へと変わった。毛利家は大内から尼子に仰ぐ旗を替えたという。いわば、昨日まで白かったものが今日からは黒になったというような、あるいは天と地がひっくり返ったというような、それほどの大変化であるはずなのに、大内の軍兵が安芸に攻め寄せて来るわけでもなく、毛利家で大内贔屓の重臣たちが叛乱を起こすでもなく、毛利領では十年一日のごとく、昨日も今日も同じように平穏な時間が流れている。


「このままこの一年が安穏と過ぎてくれればと思いますけれど・・・・」


「そうだな・・・・。だが――」


 元就は静かに、けれど厳然と言った。


「大内のお屋形は、安芸をこのままにはしておかぬだろう。こうして静かに暮らしておれるのも、春の雪解けまでだ」


 元就にとってそれは予測というより確信であった。

 実際、大内義興は何も遊んでいたわけではない。

 十一年にも及ぶ在京によって経済的に疲弊した家来たちを休ませねばならず、国を空けていた間に溜まりに溜まった内政案件の処理に忙殺されていたということもあるが、京から帰国してこの三年間、義興の視線は主に西方――北九州方面に向いていたのである。とりあえず平穏を保っていた安芸や石見にさほど注意を払っていなかった、というのが正直なところであったろう。

 北九州というのは、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前の五ヶ国のことを指す。この地域では、秋月氏、筑紫ちくし氏、高橋氏、蒲池かばち氏、宗像むなかた氏、渋川氏、少弐しょうに氏、龍造寺氏、千葉氏、小田氏といった名門豪族たちが覇を競い、筑前と豊前を押さえる大内氏や、豊後の大友氏といった大勢力がその紛争に介入するために、政情は常に混沌としていた。なかでも少弐氏は、律令時代に太宰少弐だざいのしょうに(室町時代で言う「九州探題」の次官)を務めたところからその姓を名乗ったという名門武家貴族で、最盛期には筑前、豊前、肥前の守護を兼ね、この地域に根強い影響力を持っていた。周防から筑前に勢力を伸ばした大内氏とは仇敵の間柄で、百年にわたって血みどろの抗争を繰り返していたのである。

 この物語の現在から二十四年前、若き日の大内義興は、九州探題たる渋川氏を援ける形で大宰府を押さえ、少弐氏を滅亡に追い込み、筑前と豊前を平定した。その後、足利義稙を奉戴して上洛戦を戦ったわけだが、義興自身が主力軍と共に十一年もの長きにわたって国を留守にしていれば、その支配のタガは緩まざるを得ない。少弐氏の遺児で肥前に逃れていた資元すけもとという少年が、豊後の大友氏やかつての旧臣たちから支援を受けて少弐氏を再興し、肥前を支配していた千葉氏の内紛に乗じてその支配地域を乗っ取るなどして勢力を盛り返し、本領・筑前の奪回戦を挑むまでに成長を遂げていたのである。

 京から帰国した義興は、まず北九州における覇権の確立を急がねばならず、筑前・豊前の再統治と従属豪族の引き締め、少弐氏とそれに味方する豪族たちに対する手当てなど、政戦交えた手を打ち続けていた。そういう時期に東で尼子軍が暴れ始めたのだから、義興は腹立たしかったであろう。


「尼子経久め・・・・!」


 分国である石見を侵され、石見銀山を奪われるという一大事が起こった以上、もはやあの老人を放置しておくことはできない。

 義興は、幕府管領・細川高国を仲介に動かし、少弐氏との間で和睦を成立させた。少弐氏の肥前支配を公認してやるから、大内領の筑前には手を出すなよ、という政治取引を行ったのである。この和睦を受けて、細川高国は少弐資元を肥前守護に補任してやっている。

 そうして北九州をとりあえず鎮静させた義興は、尼子氏との全面対決を決意し、長期外征に向け本腰を入れて戦備を調え始めた。

 尼子軍が電撃的に安芸に侵攻したのは、まさにその矢先である。さすがの義興も、尼子経久のこの早業にはやや虚を衝かれた感があった。

 安芸の豪族たちは、武田氏とその傘下の豪族を除いて、ほとんどが大内方であり、たとえ尼子軍が侵攻して来たとしても、大内の援軍が到着するまで時間を稼ぐことくらいは出来るはずだと義興は考えていた。それだけに、国人一揆の豪族たちが軒並み尼子方に寝返り、わずか数日のうちに安芸の旗色が一変してしまうというのは、予測の範囲を超えていたのである。尼子経久の智謀がそれだけ冴えていたとも言えるわけだが、しかし、もはや義興も黙視しているつもりはない。

 ――戦さは来春、雪が解けてからだ。

 それまでは外交で稼げるだけ利を稼いでおくべきであろう。

 尼子軍に鏡山城を奪われたことで、安芸南部の豪族たちは揃って尼子に靡いてしまったらしい。義興は彼らに密かに密使を遣わし、来春には大内軍の大反攻があることを伝え、手向かわず寝返るよう内応工作を施した。

 一方、安芸北部の豪族たちは、尼子軍に対して沈黙を守っていたと聞いている。芸北は地理的に出雲に近いだけに、豪族たちはすでに密かに尼子に通じている可能性が高いが、もともと尼子氏と強い同盟関係にある吉川氏はともかく、高橋氏や毛利氏が寝返ったという証拠はない。これが敵か味方かを見極めておかねばならず、そのためには連中が義興の命に従うかどうかを見ることが一番手っ取り早い。

 大永二年(1522)二月中旬、義興は、


「国人一揆の衆と共に、備後へ兵を出されよ」


 と高橋興光に命じた。かつて高橋久光がそうしていたように、安芸の国人一揆の兵を集め、尼子方の備後の国衆と戦わせようというのである。これは一種の踏み絵と言ってよく、この命令に応じない者を「大内の敵」と見做せばいい。

 下知を受けた高橋興光は困惑した。

 興光は密かに尼子経久に心を寄せていたが、経久と正式に主従の盟を結んだわけではなく、依然として大内氏に人質を預けたままになっている。高橋にとって備後の三吉氏などは仇敵であるから、備後衆と戦うこと自体に異存はないのだが、そのことで尼子氏に敵対したと見做されては堪らない。

 興光は、同盟する毛利氏、吉川氏にも義興からの命令を伝え、どう対応すべきであるかを相談した。

 ――無名むめいだ。

 話を聞いた元就は最初から乗り気でなかった。どう考えても本来必要のない戦さで、戦略的な目標さえ定かでない。要するに芸北の豪族たちが大内義興の命令に従うかどうかを見定めることだけが目的なのであろう。

 元就が察した程度のことは、当然のように吉川元経も見抜いている。


「我らが備後の国衆と連年にわたって兵火を交えておることは、経久公ももちろんご存知だ。備後を攻めたとて、それで我らが尼子に敵対したということにはなるまいよ」


 それは大内・尼子の戦いとは別の話だ、と吉川元経は明快に規定した。


「大内と尼子が雌雄を決するのは、まだまだ先の話よ。ここはひとまず義興公の機嫌を取っておくのもしゅうはない」


 このとき元就は二十六であり、興光にいたっては二十歳になったばかりである。これに比べて六十四になる吉川元経は経験が圧倒的に豊富で、心事にも常にゆったりとした余裕がある。もともと元経は大内義興に愛顧された男であり、尼子経久とも強い繋がりを持った人物だから、その元経の言葉なら間違いなかろうということで、三豪族による合同出兵が決定された。

 だが、運命というものは誰にも計れない。

 三月二日、備後の世羅郡・赤屋という地で行われた備後国衆との合戦で、吉川元経が流れ矢を浴び、なんと戦死してしまったのである。

 総大将を喪った吉川勢は崩壊しかけたが、それを支えた毛利勢の奮戦もあって、合戦自体はどうにか痛み分けで終わった。連合軍は大きな敗北感を抱えたまま、ほどなく備後から兵を引きあげた。

 吉川元経の戦死は、戦うことを命じた大内義興にとってもまったく想定外であったろう。元経は毛利興元と共に国人一揆の中核として安芸の国衆を主導し、大内軍が上洛戦を戦った時も骨惜しみせずよく働いてくれた。元経は武人としての風姿が爽やかで、義興はあの初老の男が決して嫌いではなかった。さらに言えば、吉川家を継ぐことになる嫡子の興経おきつねは未だ十五の少年で、家政をるには若すぎるから、当然、隠居の国経が後見として実権を握ることになろう。吉川国経はかの尼子経久の義兄なのである。元経が死んだことによって、かえって吉川氏から大内色が薄れたということになる。

 が、後悔したところでどうなるものでもない。

 義興は、春の雪解けを待って、満を持して行動を開始した。


「芸備を治むるは誰であるか、天下に示さねばなるまい」


 三月中旬、自ら二万余の大軍勢を率いて山口を出陣したのである。

 義興の政略手腕は錆びの浮いたものではない。

 自ら安芸に乗り込んだ義興は、まず神主職の相続問題で分裂している厳島神領家の内紛に介入し、謀略で桜尾城(廿日市市)を接収した。さらに勇将として鳴った己斐こい宗端が「有田の合戦」で死んで以来、勢威が振るわなくなった己斐氏の己斐城(広島市西区)を同じく謀略で奪い取った。

 武田光和は慌てたであろう。武田軍は一戦もせぬうちに、南方の防御拠点を次々と奪われ、本拠である銀山かなやま城を剥き身にされたのである。

 銀山城は武田山を要塞化した堅城で、長年安芸を支配した守護・武田氏の本拠に相応しく、防備が非常に堅い。これをまともに抜くとなれば、当然多くの時間と血を浪費することになろう。義興はその愚を犯さず、五千ほどの兵を銀山城の抑えに配し、主力を率いてそのまま沿岸部を東進した。

 広島湾の東部に根を張る白井氏、野間氏、阿曽沼氏などは、この威圧をまともに受けることになった。彼らの動員力は千にも満たず、一万五千を超える大内軍に太刀打ちなどできるはずもない。慌てて大内軍の本陣に馳せ参じ、義興に詫びを入れて再び大内氏に臣従した。

 大内軍はそのまま陸路を押し通り、尼子氏に奪われた鏡山城を囲んだ。

 この鏡山城こそが、安芸の向背を決める要の拠点と言っていい。これを尼子から奪い返せば、鏡山城の周囲に根を張る豪族たちも再び大内に臣従を誓わざるを得なくなるだろうし、敵対している武田氏も尼子軍との連携を取ることができなくなり、孤立する。さらに大内軍が安芸から備後へと侵攻するための橋頭保ともなるのである。

 この時期、すでに尼子経久は主力軍と共に出雲へ帰っており、鏡山城を守るのはわずかな守備兵に過ぎなかった。

 本来であれば、鏡山城に大兵力を駐屯させ、尼子方の恒久的な防御要塞とすべきであったが、それをすれば、この時点で大内軍との決戦にならざるを得ない。

 ――大内と雌雄を決するには、まだ機が熟しておらぬ。

 と経久は考えていたのであろう。

 本拠の出雲から遥かに遠い遠隔の地で決戦を行うなら、地元の豪族たちと信頼関係を深め、その協力を得ることが不可欠であるが、安芸の豪族たちは尼子に臣従したとはいえ、長く大内傘下にあったこともあり、これがいつ大内側に寝返るか知れたものではない。本当に信頼できる家は、どことどこか――。それを見極めぬ限り決戦などできたものではないのである。

 経久にとって、昨年の安芸南部への電撃侵攻は、「尼子はいつでも安芸を奪えるぞ」といった程度の政治宣伝であり、大内義興への宣戦布告に過ぎなかった。

 ――国を奪うとは、人を奪うことだ。

 と経久は思っている。

 本当の意味で安芸を尼子の分国にするなら、まず安芸北部の豪族たちを味方につけ、主従の盟を結び、その家臣化を確実にした上で、そこからじわりじわりと南方へ勢力を浸透させてゆくのが戦略の王道であり、それ以外に道はないのである。

 安芸で反大内の家といえば、まず武田氏がある。義兄の吉川国経も尼子に味方してくれるであろう。しかし、他の豪族たちはまったく当てにならない。特に国人一揆の連中は、尼子軍にあっけなく恭順したように、大内軍が安芸に出張ってくれば簡単にこれに寝返るに違いない。

 そう見極めきっている経久は、大内軍襲来の報告に接しても、この時は軍を動かさなかった。鏡山城に残した守将には、死戦を行わぬよう命じてある。籠城して半月ほども敵を支え、武門の面目を潰さぬ程度に戦えば、あとは城を明け渡して退去すればいい。それよりも、大内軍の侵攻に対して、尼子に臣従したはずの豪族たちがどういう振る舞いをするか、というところに、経久の視線は冷然と注がれていた。



 安芸南部の豪族たちは再び選択を迫られることになった。

 心ならずも尼子に臣従していた天野興定おきさだは進んで大内軍を迎え、抗戦の無駄を悟った平賀弘保ひろやすも大内氏に「返り忠」する意思を示した。苦境に立たされたのが小早川弘平ひろひらで、本家・沼田小早川をどうにか説得し、再び大内方に帰参を果たした。

 義興は、尼子から大内に寝返った豪族たちを先頭に立て、鏡山城を連日にわたって攻めた。

 火の出るような猛攻――と書きたいところだが、安芸の豪族たちの士気は高くなかったであろう。が、大内への忠誠を試される立場の諸将は手ぬるい進退を行うわけにもいかず、尼子軍の防戦の矢石しせきに手を焼き、いたずらに流血を増やすばかりであった。義興はその戦いぶりが不満であったが、滞陣の長期化はさらにおもしろくない。城兵の無事を条件に開城を打診し、ともかくも城を奪い返した。

 ――このような醜態は二度と繰り返してはならぬ。

 義興は重臣の蔵田房信ふさのぶに城を預け、その修築と再軍備に当たらせた。

 鏡山城に入った義興の眼は、北に向けられている。安芸の北部では、吉川氏、高橋氏、毛利氏、宍戸氏などが、沈黙したままこの城攻めを見守っていたはずであった。

 数日して、高橋氏と毛利氏から戦勝を祝賀する使者が来た。


「大朝からは、人は来ぬか・・・・」


 吉川氏から何の会釈もないことが、義興は腹立たしい。しかし、ここで事を荒立てるのは短慮というものであろう。

 武田氏が安芸南部で反攻を続けている限り、これをそのままにして安芸北部へ踏み込んでゆくには危険が伴う。たとえば吉川氏を武力で攻めれば尼子軍が救援に現れぬとも限らないし、滞陣中は常に背後の武田軍に気を配らねばならず、補給線の心配もある。不安要素が多いだけに、安芸北部に対しては外交で事を済ませたいというのが義興の本音であった。

 先にも触れたが、この時点で高橋氏と毛利氏は尼子氏に人質を出してはおらず、表面上、依然として大内傘下であり続けている。去就の解らない吉川氏さえ大内に恭順の意思を示せば、国人一揆はすべて大内方と判断できぬこともない。


道麒どうきよ――」


 軍議の席で、義興は重臣筆頭たる道麒入道・すえ興房おきふさに訊ねた。


「大朝の次郎三郎(吉川興経)は、余に従う意思がないと思うか」


「いやいや、次郎三郎はまだほんの小倅こせがれでござる。自らの考えで動いておるわけではなく、隠居の伊豆殿(吉川国経)の言いなりになっておるのでございましょう」


 ちなみに陶興房はこのとき四十八。義興がもっとも信頼する腹心であり、武将としても外交家としても年相応に老練で、立ち技だけでなく寝技も利く男である。


「次郎三郎は、お屋形さまから偏諱へんきを賜り、またお屋形さまは烏帽子親でもありまするゆえ、いわば子のごとき者でござる。ご当家に従う意志さえ示せば、あえて吉川家を滅ぼすまでの事はせずともよろしかろうと存ずる。それがしにお任せ頂ければ、伊豆殿と話をつけましょう」


「ふむ・・・・」


 義興は興房の献策を容れ、大朝に使者をやることにした。


「それにしても、『応仁』以来、我が家は鬼吉川には何かと手を焼かされるわ・・・・」


 義興はやや憮然として呟いた。

 大内氏は『応仁の乱』では西軍の中核となったが、鬼吉川――吉川経基つねもとは東軍の武将として鬼神のような奮戦ぶりを見せた。紆余曲折があり、吉川氏は大内氏に臣従し、上洛戦にも協力してくれたが、吉川経基はあの尼子経久の舅になっているのだから始末が悪い。義興は吉川元経のことは個人的に気に入っていたのだが、義興が命じた本来必要のない戦さで戦死してしまい、結果として隠居の国経を表に引っ張り出すことになった。国経は尼子経久の義兄であり、元経よりはるかに御しにくい。

 ――うまくゆかぬものよ。

 家と家との間には、歴史的相性とでもいうべきものがある。大内家と吉川家はどうにも噛み合わせが悪いように思われて、義興の眉宇びうに苛立たしさが漂った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ