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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第五章 安芸激震
36/62

鬼謀躍る

 大永元年(1521)八月――。

 出雲の尼子経久は、一万余という大軍を動員し、隣国の石見に攻め込んだ。

 三千の先鋒軍を率いる大将は、経久の弟の久幸ひさゆき。勇気と胆力を備えながらも性質は沈毅で思慮深く、これまで数え切れぬほどの戦場に立ちながら、まずい戦さをしたことがないという男である。このとき四十九であり、武将としての実績に老練さを加え、士卒からの信望も篤い。まず名将と言えるであろう。

 尼子の先鋒軍は、敵対する城は攻め潰し、恭順する地侍は吸収しながら、枯れ草でも薙ぐような勢いで進み、石見銀山を支配する大内方の小笠原氏の兵を鎧袖がいしゅう一触いっしょくで蹴散らし、これを降伏させ、この巨大な銀脈を奪い取った。

 石見はその国土のほとんどが山地で、東部の安濃あのう郡、邇摩にま郡といったあたりは背の低い山々が折り重なるように並び、豪族とも呼べない小土豪がそれぞれの山に砦を構えて割拠しているという地域である。つまり、尼子の大軍を足止めし、大内の援軍がやって来るまで粘れるような大豪族は存在しなかった。

 石見南東部の邑智おおち郡に根を張る高橋氏は焦ったであろう。本拠である阿須那あすなからわずか五、六里の距離にまで尼子軍に迫られたのである。尼子経久がその気になれば、二日後には「四つ目結めゆい」の尼子家の旗が山野を覆い尽くすことになる。


「弱り目に祟り目とは、これか・・・・」


 高橋興光は、藤掛城で籠城の支度を調えつつ、嘆息せざるを得ない。

 祖父の久光はこれまで一貫して大内方を表明し、尼子氏とは敵対姿勢を取ってきた。その久光が討ち死にし、高橋軍が大敗を喫した直後のこの時期を選んで、尼子の大軍が石見に侵攻して来たのである。高橋氏が標的にされたものと思ったのも無理はなかった。

 尼子軍の襲来に高橋家中は大いに動揺したが、逆に勇躍した者もある。

 久光の甥の高橋盛光である。

 盛光は、尼子氏の重臣・亀井秀綱と密かに誼みを通じており、もし尼子軍が高橋領に攻め入って来れば、その機に乗じて謀反を起こし、興光を追い落とし、尼子の後ろ盾を得て高橋の家督を奪えるものとほくそ笑んでいたのである。尼子の武威を利用したつもりであったろうが、尼子経久という男はそうやすやすと利用できるようなタマではないということを、盛光はすぐに思い知らされることになる。

 それはともかく――。

 尼子軍の快進撃は、しかし、意外な方向からの思わぬ横槍によって停滞を余儀なくされた。


「国の静謐せいひつのため、尼子は大内と争うのはやめよ」


 足利亀王丸かめおうまるという少年が、和睦の斡旋に乗り出してきたのである。

 亀王丸は、将軍・足利義稙よしたねの没落後、管領・細川高国に擁立されている人物で、この時わずか十一歳。この三ヶ月ほど後の十一月二十五日に第十二代将軍として即位し、足利義晴よしはるとなるのだが、この和睦の斡旋は、むろんこの少年の意志であったはずがない。これを擁立している細川高国が行わせたものであろう。

 細川高国は、幕府管領として権力を一手に握っていたが、内にも外にも政敵が多く、京で孤立している感があった。その高国にすれば、大内義興の武力と財力はやはり魅力的であったのだろう。後日のためにも義興に貸しを作っておきたかったのかもしれないし、あるいは戦備の調ってなかった大内義興の方が、時間を稼ぐために細川高国を動かしたのかもしれない。

 いずれにしても、やがて征夷大将軍という最高権力者となることが確約された人物からの和睦の調停である。石見銀山を手に入れたことで最大の目標をすでに達していた経久は、とりあえず一度は幕府の顔を立ててやることにし、この時はいったん兵を収めた。

 それが幕府の面子を立てるための方便に過ぎなかった証拠に、経久はそのわずか半月後の九月中旬には再び兵を発し、石見へ再侵攻している。

 尼子軍は無人の野を行くように進撃し、一気に江の川筋の江津市まで進み、九月二十六日には今井城を囲み、福屋氏に属する都治つじ氏を滅亡させた。

 しかし同じ石見でも、江の川の河口より西は大豪族が覇を競う地域で、小粒の地侍ばかりであったこれまでとは少々勝手が違ってくる。

 石見南東部にはまず高橋氏があり、江の川の下流域には福屋氏があり、さらに中部から西部にかけては周布すふ氏、三隅みすみ氏、益田氏、吉見氏といった大豪族が並んでいた。なかでも益田氏は石見最大の豪族であり、清和源氏の名門である吉見氏は大内義興の信任が厚い重臣と言っていい。いずれも一筋縄ではいかぬであろう。

 経久はこの時も巧妙であった。武威を見せつけた後は、大内軍が出張って来る前に威力外交で手早く事を済ませようとし、まず福屋正兼まさかねを脅しつけて服従させ、さらに高橋氏に対しては、高橋盛光を焚きつけるだけ焚きつけ、高橋家中の内紛の危機を煽りたてておいて、困窮する高橋興光に救いの手を差し伸べたのである。

 藤掛城に使者を送った経久は、


「大九朗殿とはかつて京でお会いしたことがあるが、まことに名将と呼ぶべき傑人であった。祖父君を喪われた興光殿の心中、お察し致す。わしと大九朗殿がこれまで敵味方に分かれておったのは、乱世の習いと申すべきもので、別にかの人に恨みがあったわけではない。わしと同年輩の大九朗殿が、天寿を待たずに亡くなられたことを、むしろ残念に思っている」


 と久光の死を悼み、これまで高橋氏が尼子に敵対してきた過去を一切問わなかった。

 それどころか、


「風聞によれば何やら家中が騒がしいようだが、高橋は興光殿を当主としてゆくのが当然である。無用な心配かとも思うが、もし不心得者が謀反を起こし、興光殿がその退治に手を焼くようなことがあれば、いつなりとわしに申されよ。望むだけの兵をお貸しするであろう」


 という確約さえ与えた。

 使者が降伏と臣従を勧めに来たものとばかり思っていた興光は、その温言に驚き、驚きが醒めると、何やら百万の味方を得たような気分になった。


「経久公とは、これほどおおきいお方であったのか・・・・」


 この若者は決して暗愚でも臆病でもないが、この時はまさに苦境にあった。

 久光の死によって突然に家政の実権を握ることになった興光だが、実際には久光時代の重臣たちに囲まれ、高橋氏という大所帯をまとめることにさえ手を焼いていた。興光の家督相続に不満を持つ伯叔父の盛光が謀反を起こすという風聞さえあり、傘下の小領主たちは疑心暗鬼を深め、家中がふたつに割れて内紛になるのではないかとさえ囁かれている。

 興光には覇気も勇気もあり、その自尊心に見合うだけの能力も持っていた。盛光については歯牙にも掛けていなかったが、挙兵した盛光が尼子軍と結ぶようなことにでもなれば、尼子の武威に恐れをなした者たちが大挙して盛光側に奔ってしまう可能性がある。そうなれば尼子軍に抗戦するどころではなく、興光は破滅せざるを得ないであろう。

 そんな折りも折り、当の尼子経久から、これほど思いやりに溢れる言葉がもたらされたのである。苦境に立たされている興光にすれば、地獄に仏という気分になるのも当然で、経久から巨大な恩を受けたように感じた。

 ――経久公には仁と義がある。

 尼子に敵対し続けた祖父の感情に引きずられていた興光は、これまで経久に好意を持ったことがなかったのだが、その認識がまったく一変した。

 他者への思いやりがない者に武士の棟梁は務まらない。一度は河原者同然の境涯に落ちながら、一代で大勢力を築き上げた尼子経久には、多くの武士たちが心服するだけの器量があるのであろう。

 対する大内義興はどうか。

 興光の主観では、祖父の久光は大内方として奮戦し続けた。いわば大内義興のために戦い、その戦いのなかで討ち死にしたのである。それほど尽くした高橋氏の危機を遠目に見ながら、大内義興はいったい何をしているのか。そもそも義興は石見の守護であるのに、石見の国衆が侵略者と戦っていることを知りながら、一人の援兵さえ送って来ぬではないか――。


「格別のお心遣い、興光が心から感謝しておったと、経久公にはくれぐれもよしなにお伝えくだされ」


 興光は使者に向かって丁重に頭を下げた。

 この瞬間、この若者は経久に飼いならされたと言っていい。六十代半ばの経久と二十歳にも満たぬ興光とでは人間としての年輪が違いすぎ、謀略外交ではそもそも勝負になるはずがなかった。

 この経久の措置にもっとも大きな衝撃を受けたのは、高橋盛光を調略した亀井秀綱であったろう。

 ――お屋形さまの、なんと凄腕であることか・・・・。

 盛光に叛乱を指嗾しそうし、内訌を起こさせることは、実際のところ簡単である。秀綱が盛光にそう指示すれば、欲深い割りに知恵の足らぬあの男は嬉々として行動を始めるであろう。

 しかし、高橋氏がふたつに割れて相討てば、それは高橋一族の殺し合いというだけでは済まない。これまで心ならずも高橋氏に従属していた小豪族などは、この機をとらえて必ず独立しようとし、あるいは政争に加担するであろう。高橋氏の周囲に根を張る豪族たち――宍戸氏、三吉氏、毛利氏、吉川氏など――は、絶好の機会とばかりに高橋領を蚕食し、小豪族たちを調略して傘下に収めてしまうに違いない。高橋氏は決定的に弱体化し、最悪、そのまま磨滅してしまうかもしれない。そうなれば、高橋氏が誇る七万石の軍勢――総勢五千に近い兵力が、周囲の豪族たちに吸収され、彼らを肥らせる結果にしかならないのである。高橋氏があくまで尼子に敵対し続けるというのであれば、敵を減らすという意味でそれも悪い手ではないが、高橋氏の兵力をそのまま尼子方につけることができるなら、それが最善手であることは言うまでもない。

 つまり盛光は、興光を心服させるためのピエロに過ぎなかったのだ。

 それに気付いたとき、秀綱の背筋に戦慄が走った。

 ――お屋形さまの調略の芸は、とてもわしなどの及ぶところではない。

 その智略の冴えと人心操作の巧みさは、恐ろしいばかりである。


「石見はひとまずこれでよい」


 経久はにこりともせずに呟いた。

 石見中西部は大内色が根強く、これにかかずりあっていても時間を浪費するばかりで、益は少ない。石見東部を切り取り、石見銀山さえ押さえてしまえば、戦果としては充分であった。

 経久は、高橋興光には何も求めず、その領地には一歩も足を踏み入れないまま、奇麗に兵を引きあげた。

 高橋氏は尼子に人質を出したわけでもなく、表面的には依然として大内方のままである。しかし、次に尼子軍が石見や安芸へ侵攻した時には、興光は大内義興に義理立てすることなく、喜んで経久を馳迎ちげいするであろう。もしその思惑が外れ、興光があくまで尼子に敵対し続けるようなら、その時こそ盛光に内訌を起こさせれば良い。高橋氏を滅ぼすのはその時でも遅くはないのである。

 結果を先に言えば、興光はこれ以後、経久を師父のように崇敬するようになり、利害損得を超えた尼子贔屓になった。この翌年には尼子軍を領国内に導き入れ、公然と大内氏に敵対することになる。興光の経久への傾倒は終世変わらず、後年、大内・毛利の連合軍によって攻められた時も徹底して抗戦し、再び大内方に寝返るような醜態を見せず、死ぬまで節を曲げなかったのである。


「秋の取り入れが済んだら、また兵を動かすぞ」


 本拠の月山富田城に帰還した経久は、初冬に再び軍を発し、南方の備後に侵攻した。

 経久の次の目標は、安芸の制覇である。



 言うまでもないことだが、出雲という国は地理的に安芸の北東にある。安芸北部の豪族である吉川氏はもともと尼子氏と強い同盟関係にあり、同じく安芸北部で尼子氏に敵対していた高橋久光はすでにこの世にない。その久光の死を契機として尼子経久が軍事行動を起こすとすれば、尼子軍は当然北から侵攻して来ることになろう。安芸の豪族たちはごく素朴にそう考えていたし、大内氏の側もそれと同様の観測をしていたに違いない。

 大内氏の安芸における本拠は、安芸南東部の西条にある鏡山城である。

 鏡山城には二千ほどの大内駐屯軍があり、鏡山城を囲むように大内方である国人一揆の豪族たちがいる。小早川氏、平賀氏、阿曽沼氏、天野氏、野間氏がそれで、これらの軍勢をすべて合わせれば、野戦用の決戦兵力だけで六千ほどにもなるであろう。吉川氏はその向背が解らぬものの、毛利氏と高橋氏は大内方であり、北から尼子軍がやって来れば、これを防ぎ止めるための防御拠点は多い。高橋氏の藤掛城なり毛利氏の郡山城なりで尼子軍を足止めし、安芸にある大内方の軍勢でこれを援ければ、一月や二月は時間を稼げる。その間に、周防すおうから必ず援軍がやって来るであろう。大内義興が全力で出撃すれば、その兵力は二万を超えるはずで、尼子軍を撃退することも充分に可能である。まして山陰地方は豪雪地帯であり、冬が深まれば補給などに悩まされるであろうから、尼子軍がどれほど精強でも長期滞陣は難しいはずだ――。

 しかし経久は、そのような観測をあざ笑うかのように備後に入れた軍勢を素早く南下させ、一気に瀬戸内海沿岸まで軍を進め、いわば南から安芸に攻め入ったのである。

 まさに電光石火の早業だった。

 備後の国衆はそのほとんどが尼子方であり、彼らの軍勢を吸収した尼子軍は総勢二万に近い。経久はその大軍をもっていきなり鏡山城を囲み、安芸南東部の国人一揆の豪族たちを恫喝し、同時に安芸中南部を押さえる武田氏に挙兵を促した。

 安芸守護の武田氏は、武田元繁の敗死後、嫡子の光和みつかずが家督を継いでいた。大内義興が京から帰国する際、大内軍が安芸に入ると、権謀としていったん大内氏と和睦していたのだが、むろん心服したつもりはなく、武田氏は再反抗の機会を待っていたのである。

 武田光和は尼子軍の襲来を喜び、これと機を合わせて決起した。

 広島湾岸を押さえる武田氏が兵を挙げたとなれば、大内軍は鏡山城への陸路を失うことになる。大内方である国人一揆の豪族たちにすれば、大内軍の素早い援軍が期待できない以上、自家保存のためには尼子に降らざるを得ない。そして同じ降るなら、ぐずぐずと逡巡した末にイヤイヤ降るより、自ら進んで尼子軍を馳迎ちげいする方が遥かに印象が良くなるであろう。

 この時期、安芸の南東部で最大の勢力を持っていたのは小早川氏である。

 小早川氏は内情のややこしい族で、備後の沼田ぬた小早川と安芸の竹原小早川の二家に割れており、備後の方が本家、安芸の竹原小早川はその分家であった。

 本家の沼田小早川では、遺伝的なものか不思議と虚弱な当主が続き、夭折ようせつする者が多かった。この時代の当主である興平おきひらは、父の早世によってわずか四歳で家督を継ぎ、現在は十七歳であるが、この人物は二十三歳の若さで病死してしまうことでも解る通り、やはり腺病質な体質であった。幼い頃はもちろん、成人となってからも軍務には耐えられない。その興平を、分家である竹原小早川の当主・弘平ひろひらが後見するという体制が採られていた。

 小早川弘平は剛直にして私心の少ない傑物で、大内義興からも愛されていたらしい。「応仁の乱」以降、本家の沼田小早川は大内氏と敵対する細川氏との繋がりが濃く、大内氏の与党とはいえなかったこともあり、先代が早世した際、大内義興は沼田小早川の家督相続に介入し、小早川本家を分家の弘平に継がせ、大内氏の与党として両小早川家を一本化しようと謀ったことがあったのだが、小早川弘平は本家の血筋と誇りに遠慮し、自ら幼い興平の後見役を務めるということで大内義興を納得させ、本家の消滅を回避した。以来、険悪だった本家と分家の融和を図るよう努めつつ、現在に至っている。

 つまり解りやすく概括すれば、備後の小早川本家は伝統的に反大内であり、その本家の当主を後見する分家の小早川弘平は親大内だったわけである。

 そして、尼子経久の慧眼が、まさにここにあった。

 経久は、安芸に侵入する以前に、備後の小早川本家を軍事的に押さえてしまったのである。

 もともと大内嫌いの沼田小早川にすれば、尼子軍の圧倒的軍事力にさらされてしまえば、これに敵対するという選択はありえない。むしろ進んで恭順するはずだ。そして、小早川本家さえ押さえてしまえば、本家を尊重する小早川弘平もこれに同調せざるを得ないであろう。

 経久の読みは当たり、小早川弘平は人質を携えて経久の元へやって来た。


「両小早川家が尼子についたと知れば、このあたりの豪族たちは雪崩をうつように大内から離れ、わしに頭を下げに来るであろうよ」


 どれだけ巨大な岩でも、どれほど硬い石でも、そこにたがねを入れれば容易に砕けるというポイントが必ずある。経久の狙い通り、国人一揆の盟友である平賀氏、阿曽沼氏、天野氏、野間氏は、小早川氏の寝返りを知って慌ててこれに同調した。尼子軍はほとんど一戦もしないまま、安芸における大内・尼子の勢力地図がガラリと変わったのである。

 周防すおうに近い安芸南西部を除き、安芸の南半分はまったく尼子一色となった。安芸北部の吉川氏はもともと尼子と強い同盟関係にあり、高橋氏の当主・興光はすでに飼いならしている。現状、有力豪族で旗色が不透明なのはもはや毛利氏のみだが、国人一揆の盟友たちが揃って尼子に靡いた以上、毛利もこれに同調せざるを得ないであろう。

 ――お屋形さまは、わずか数日で安芸を取ってしまわれた。

 亀井秀綱は、呆れるような気分でそのことを思った。神算鬼謀とは、まさしくこの主君あるじのことであろう。

 鏡山城は陸の孤島のように孤立した。

 西条への通路を塞がれてしまった大内氏にすれば、武田軍を撃破して陸路を押し通り、しかも補給線を確保し続けるほどの大軍を集めるにはどうしても時が掛かり、急場の援軍はとても間に合わない。鏡山城を救援するには軍船を使って兵を送り込むくらいしか手の打ちようがないわけだが、安芸南東部の豪族たちが軒並み尼子側に寝返ってしまえば、それも事実上不可能であった。大内氏は瀬戸内の海賊衆を従属させており、制海権を握ってはいたが、地元の豪族たちの助力が得られなければ上陸作戦を敢行することは難しい。軍兵の上陸地点は容易に尼子軍に察知されるであろうし、そもそも軍船で輸送できる兵力には限りがある。無理に上陸したところで補給線も通っておらず、退路も海にしかない。逐次投入する兵を尼子の大軍に各個撃破されるのがオチであろう。

 結局、大内義興は海からの援軍派遣を諦め、陸路を選択した。まず間に合わぬであろうことは解っていたが、分国への尼子軍の侵攻に対し、援軍も送らず黙視したとあっては、義興の武門の面目が立たないのである。

 重臣筆頭たる道麒どうき入道・すえ興房おきふさを総大将に、二万余の大内軍が遅ればせながら安芸へやって来た。

 しかし、大内軍が廿日市のあたりまで進み、武田氏傘下の豪族たちと対陣しているうちに、鏡山城は孤立無援のまま陥落してしまう。鏡山城の救援という当初の戦略目標が失われた以上、大内軍は撤退するしかないであろう。

 大内軍がすごすごと安芸を去った瞬間、安芸の支配者は、大内義興から尼子経久に代わったと言っていい。



「鏡山城が落ちたと・・・・」


 使者の言葉を聞いた多治比元就は、ほとんど呆然と呟いた。

 国人一揆の盟友である小早川氏、平賀氏、阿曽沼氏、天野氏、野間氏が、揃って尼子方に寝返ったというだけでも驚きなのに、尼子軍が大内方の最大の拠点である鏡山城を落としたというのである。

 この数日の政治状況の激変に、元就は目を回しそうであった。


「国人一揆の盟約を結びたる者は、たとえ上意(将軍の意)であれ、諸大名よりの仰せであれ、一人の才覚で進退を決すべからず。必ず一揆の衆中で相談し、一揆として進退をひとつにすべきことを、神前で約したはずでござるな」


 衝撃が醒めぬのか志道広良の語気にも力がない。


「左様。我らも心苦しゅうはござったが、火急のことゆえ事後の承諾にならざるを得ませなんだ」


 使者は平賀氏の重臣である。さすがに苦しげな表情であった。

 郡山城の大広間には毛利家の重臣たちが居並び、上座の元就と志道広良に正対する形で使者が座っている。場の空気は重苦しく、咳払いをする者さえいない。


「この上は、毛利も我らと道を共にし、出雲のお屋形に従われるがよろしかろうと――。これは我が主人あるじ弘保ひろやす一人の言葉ではなく、平賀、小早川、天野、阿曽沼、野間の総意とお考えくだされ」


「・・・・・・・」


 元就はとっさに返事もできず、腕を組んで押し黙った。

 平賀弘保の生没年は不明だが、今から二十年ほど前に家督を継ぎ、この三十年後にも史書に名が現れることを考えると、このとき三十代後半と推定するのが自然であろう。毛利と平賀氏は盟友として長く付き合いがあることもあり、大内義興の帰国騒ぎの時や高橋氏の備後遠征などの際に顔を合わせていることもあって、元就は弘保の人となりはよく知っていた。思慮深く落ち着いた男で、智勇共に優れているが、その才気を表にあらわさず、常にのんびりとした温顔を浮かべているところに、弘保の人としての風韻がある。


「安芸は芸州人が治めてゆくのが良い」


 というのが弘保の自論で、大内・尼子がどうのというよりは、安芸国人一揆の結束こそが大事だと、かつて元就に述べたことがある。それは元就の心情にも通じていたから、大いに共感したものだった。弘保は元就に好意を持ってくれており、毛利のためを想って寝返りを勧めてくれているのであろう。

 ――我らはまさに四面楚歌か・・・・。

 この時期、まだ元就は高橋興光の変心を知りはしなかったが、反大内の武田氏が挙兵した事実は把握していた。吉川氏が尼子氏と強い同盟関係にあることを考え合わせると、毛利・高橋の四方はまさに尼子一色に塗り替えられた格好なのである。

 ――このような事になろうとはな・・・・。

 大内義興への忠誠を表すために、元就が愛児を高橋氏へ差し出したのは、ほんの一年前である。一年後に尼子の勢威がここまで大きくなると解っていれば、元就はあのとき大内氏からの離反を決断していたかもしれない。

 しかし、あの時点で現在の政治状況を予見することはまったく不可能だった。

 高橋久光という男の死が、歴史の歯車を大きく動かしたと思うよりない。


「尼子が動いたとなれば、次は必ず大内が挽回を期して安芸に攻め入って参ろう。平賀は――、いや、他の家の方々も共に、大内のお屋形へは何と申し開きをなさるおつもりか」


 大内贔屓の井上元兼が厳しい口調で質した。


「その時はその時のことと申すよりござらぬ。尼子は二万を超える大軍、これに歯向かえば、我らが一朝に滅ぼされることは火を見るよりも明らかでござった。先のことはともかく、まずまず此度は、出雲のお屋形へ名簿みょうぶを差し出すほか、道がござらなんだ」


 現形げんぎょう――自家が生き伸びるための緊急避難的な寝返りであり、この時代の小勢力にとっては当たり前の選択と言っていい。


「いずれにしてもこの場で即答できるような問題ではないな」


 元就がため息まじりに言うと、


「左様。高橋、吉川の意向も確かめてみねばなりませぬ」


 志道広良がそれに応えた。

 使者は頷き、高橋氏と吉川氏にも同様の報告をすべく郡山城を去った。

 その後、広間は激論の場となった。

 大内義興への忠を貫くべきか、一刻も早く尼子経久に通じるべきか――。

 井上元兼、坂広秀などは、強硬に大内方に留まることを主張した。


「尼子軍が安芸で越冬するとは思えず、主力は遠からず出雲へ帰るでござろう。安芸の奪還を期し、来年になれば大内軍が必ずやって来るはず。ここで尼子に寝返っては、その時に大内のお屋形に会わせる顔がござらぬぞ」


 というのがその論旨である。尼子軍がいる西条は吉田からはまだ遠く、いきなり尼子軍が吉田に雪崩れ込んで来るとも思えない。それだけ精神的に余裕があったと言うべきであろう。

 吉川氏と進退を共にすべし、という意見も少なくない。


「伊豆殿(吉川国経)は経久公の義兄でござる。娘婿である多治比殿が頼れば、悪うは扱われますまい。そもそも国人一揆は衆中が進退を一致させてこそのもので、他の多くの家が尼子にくみしてしまった以上、我らだけが大内方に留まるというのは、一揆の趣旨にも反する」


 吉川国経に尼子への橋渡しをしてもらい、穏便に事を済まそうというのである。

 が、主流派は、大内・尼子のどちらにつくというより、高橋氏とよく相談し、共同歩調をとるべきだとする意見であった。

 郡山城の女城主と言うべきお夕は高橋久光の娘であり、主君である幸松丸は久光の孫である。久光が死んだとはいえ、毛利と高橋の紐帯は強く、両者が力を合わせればそれなりの軍事力となる。尼子に頭を下げるにせよ、大内方を貫くにせよ、高橋氏の意向に合わせてゆけば毛利だけが特別に目立つということにもならぬであろう。武門の進退としては主体性に欠け、ずる賢く卑怯な印象でもあるが、政略的には悪い手ではない。

 場の議論がやや落ち着きを見せ始めた頃、元就は弟に目をやった。

 元綱はどうしたわけか終始無言である。


「四朗、何か思うところはないか」


 そう訊ねると、


「ないな」


 弟はやや憮然とした表情で言った。

 元綱は、個人的には大内義興からも尼子経久からも恩を受けた憶えはない。毛利家が長く大内傘下にあったとはいえ、顔も見たことがない大内義興に対して主君あるじという実感を持ちようがなかった。尼子経久に対しては、その武勇と智略、伝説的とも言える実績に敬意を抱いており、経久の人となりや言動について出雲出身の妻から色々と聞いていることもあって、大内義興よりはむしろ親しみがある。逆に言えば、好悪についてはその程度の差があるに過ぎなかった。毛利がどちらにつくにせよ、それを決めるのは自分ではない、と達観してもいた。


「ただ、大内のお屋形に従うならそれを貫くのが良く、もし尼子のお屋形に従うというなら、今後はそれを貫くのが良い。右に左にと寝返りを繰り返せば、必ず世人から侮りを受け、後世のあざけりを買うことになろう。そんなみっともないザマになるのだけは御免だ」


「なるほど・・・・」


 いかにも元綱らしい、と思い、元就は苦笑した。

 この一本気な弟は、政治が持つ曖昧さを嫌い、武士として進退の明快さこそを愛している。大内・尼子のどちらにつくにせよ、旗幟きしは一刻も早く鮮明にするのが良く、ひとたび旗色を決めたら、たとえ滅亡の危機に瀕したとしても節を曲げず、滅びるまで初志を貫くのが良い。そこにこそ、意地と忠義に殉ずる武士の美しさがある。大内軍がやって来ればそのくつを舐め、尼子軍が雪崩れ込んでくればそちらに尻尾を振り、寝返り裏切りして生き延びたとしても、誰もそれを褒めてはくれぬであろう。

 ――武人の生き様としては、それはそれで正しい。

 と元就も思う。

 元就は――精神的にはよほど老成しているとはいえ――まだまだ二十五の若者であり、その若さ相応の血の熱さと、美を愛する詩人としての体質を濃厚に持っている。武門の名家に生まれた男として、武士の美に対する抒情的な憧れは非常に強いのだが、しかし、同時に元就は毛利家の舵を握る立場にあり、毛利に属する数千人の人々の生命と生活を守るという重すぎる責任を現実に背負わされてもいた。感情に流され、あるいは好悪にとらわれ、毛利家を滅びに導くような選択をするわけには断じていかないのである。


「皆の意見はよう解ったが、いずれにしても、当家の進退を決めるのは、高橋と吉川の意向を探ってからのことだ。高橋と吉川が尼子に属すと言えば、我らだけが大内方に留まれるものではない。その逆もしかりだ。幸松丸さまの名代として、舅殿(吉川国経)と興光殿に、私が直接話をしてみよう」


 元就が総括すると、志道広良が大きく頷いた。


「急がねばなりませんぞ。いつ尼子から臣従を求める使者がやって来ぬとも限りませぬでな」


「わかっている」


 元就は、その日のうちに吉川国経、高橋興光に手紙を送り、翌々日にはそれぞれと面談を行った。場所は、三者の中間あたりにある、壬生みぶの八幡神社である。

 予想していたことではあったが、吉川氏はすでに尼子経久と繋ぎを取っていた。たとえ大内義興から軍を出すことを求められても、これに応じず、尼子軍とは戦わないという黙契が出来ていたらしい。


「経久殿は、少々怖い仁だが、戦えば大内に負けることはあるまい。安芸の国衆は、経久殿の下でまとまってゆくのが良い」


 というのが吉川国経の意見である。

 息子の元経は、大内義興から愛顧された男だが、こうなっては尼子に従わざるを得ないと肚をくくったらしかった。

 元就が意外だったのは、高橋興光が尼子に従うべきであることを積極的に主張したことである。


「義兄たる伊豆殿(吉川国経)が申されるなら、経久公は怖き仁であられるのやもしれぬが――」


 と前置きした上で、


「大内のお屋形は確かに大いなる力をお持ちだが、その腰は常に重い。素早い援軍が期待できぬ以上、これをたのみとして尼子と戦うことはできない。対して経久公は、ひとたび軍を動かせば、そのはやきこと風のごとしだ。此度の鏡山城攻めの顛末を聞くに、その軍略の凄まじさは申すまでもない。これに伍するほどの大将は、この中国には見当たらぬ。いずれを恃みにすべきかは、もはや論ずるまでもないと思う」


 と興光は述べた。

 祖父の久光が聞けば激怒したであろう、と元就は思ったが、興光は尼子経久に傾倒し始めたらしい。

 ともあれ、吉川、高橋が共に尼子寄りの姿勢であるなら、毛利とすればそれに倣うほかない。


「すでにお聞き及びのこととは存ずるが、小早川、平賀、阿曽沼、天野、野間は、揃って経久公に人質を遣わしたよしにござる。国人一揆の衆中は進退をいつにすべきであり、我らも尼子に従うというのが穏当であろうかと存ずる」


 と元就が言うと、吉川親子も、高橋興光も、これに異を唱えなかった。

 三豪族の代表として、経久の義兄である吉川国経が鏡山城へ赴くことになった。

 尼子経久は、三豪族からの申し出を鷹揚に受諾し、この時は安芸北部に軍事的圧力を掛けようとはしなかった。追い込めば、鼠でも猫を噛むことがある。人質を要求したり、武門の体面を傷つけるようなことをすれば、せっかく味方になろうとしてくれている豪族たちがヘソを曲げるかもしれない。尼子に公然と敵対する者が出れば、経久とすればそれを軍事的に討たざるを得ないわけだが、たとえば高橋と毛利が手を組んで徹底抗戦するような事態になれば、これを滅ぼすにはよほど時間が掛かるし、再び大内軍を呼び寄せる結果にもなりかねない。帰属は曖昧なまま、なし崩しに尼子与党ということにしておいて、後日、機を見てその帰属を確実なものにする方が、遥かに安全なのである。

 外交家としても政治家としても、経久はいかにも老獪であった。

 ともあれ、こうして毛利氏は尼子氏の傘下に入った。

 この帰属は、「国人一揆の衆と進退を共にする」という意味での消極的な帰属であり、毛利が尼子氏に臣従したかと言えば、そこに曖昧さがある。毛利はこの時点では尼子氏に人質を出しているわけではなく、見方によっては大内方であったとも言えるのである。

 曖昧なままの両属というところにこの時代の小勢力の処世の知恵があるが、逆にこの煮え切らぬ態度が、大勢力の不信と怒りを買うもとにもなる、ということを、元就は遠からず思い知らされる。



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