争乱の引き鉄
烏帽子山の稜線に陽が没しようとしている。
羽田重蔵は、船山山頂の物見櫓に上り、夕闇に暮れつつある南の空を眺めていた。
田植え前の枯れた田畑に西日が差し、そちこちに建つ大小の百姓家も夕日に染まっている。眼下のほんの一町ばかり先に土居に囲まれた元綱の屋敷があり、重蔵が暮らす長屋の屋根も赤く輝いていた。
船山はその四方をより高い山々によって囲まれており、北方の眺望はないに等しい。重蔵の目線の先――南方の数町先で東西に長々と横たわっているのが光井山で、その山裾を多治比川が右手から左手に向けて流れ、船山の山裾を洗った相合川がそこに流れ込んでいる。視界は多治比川に沿って東西に広く開けていた。
季節は永正十八年(1521)の春である。相合では梅の時期も終わり、山桜の蕾がそろそろほころび始めている。
船山の砦にはすでに兵舎や櫓、兵糧蔵や厩などが建ち、本丸の居館の普請もおおむね終わっていた。眼下の帯曲輪などでまだ工事は続いているが、田植え時期までにはそれも終わるであろう。
「重蔵殿、飯が炊きあがりましたぞ!」
井上又二郎の声が櫓の下から飛んできた。
身軽に櫓を降りた重蔵は、若者と共に出来あがったばかりの居館の濡れ縁をあがった。
廊下をわたって裏手の台所に回ると、相合の屋敷の卑女たちが炊きあがった飯を握り、あるいは汁を椀によそってそれを配っていた。土間や建物の裏手では、下士や人夫や大工といった雑多な人間たちが談笑しながらそれぞれ握り飯を頬張っている。近侍の若者を含めて武士は三十人ほど、武士以外の人間は五十人ほどもいるであろう。
板間では、元綱と近侍たちが車座になってすでに食事を始めていた。
元綱は美食にはまるで関心がなく、戦場ではもちろん、平時でも郎党たちとまったく同じものを食べている。主人がそんな調子なので、相合の屋敷では粗食が当たり前となっており、相合の方やゆきが食べる物さえ、卑女や老僕とほとんど変わらない。元綱がする贅沢といえば、酒を飲むことくらいであった。
重蔵と又二郎がその車座の輪に加わり、飯を食いつつ取りとめのない雑談をしていると、いつしか話題が女の話になった。若い男ばかりの集団であるから珍しいことでもない。
その流れのなかで、
「重蔵殿は妻を娶らぬのですか」
と又二郎が訊いた。この若者は昨年の暮れに妻を迎えたばかりである。
「そういえば聞いたことがなかったな」
興味を持ったらしく、元綱が言葉を継いだ。
「お前ももう三十半ばだろう。いい加減身を固めても良い年齢だ」
「はぁ、まぁ・・・・」
「それとも京に妻女を残して来たか」
「いえ、そんな者はおりませんが――」
重蔵は苦笑した。
「わしは長く足軽稼業のその日暮らしでしたから、妻を娶ることなどこれまで考えたこともありませんでした」
女が欲しいと思った時は、祇園社あたりの花街で遊女を買えばそれで済んだ。
「お前に安芸で骨を埋める気があるのなら、女房の世話もしてやりたいところだが――。上北面の末裔たるお前に相応しい女となると、毛利の領内で探すことは難しいか・・・・」
「上北面の秦家はすでに滅んだものと思うています。今さら門地にこだわるようなつもりもないのですが――」
武士の婚姻とは家と家との結びつきであり、身ひとつで何の後ろ盾も持たない重蔵に娘を縁づけたいと願うような親は、武士ではまずおらぬであろう。それが解っている重蔵は、無理に妻を得ようとは思っていなかった。
「庶民の娘でも構わぬのであれば、吉田の乙名(町年寄)などに話を通してやるぞ」
その元綱の気遣いを、重蔵はやんわりと謝辞した。相合の屋敷で暮らしている分には飯を食わせてもらえることもあり、身の回りにさほど不自由しないということもある。そもそも重蔵には禄も扶持もなく、己の家を持てる道理がないのである。身軽な方が気楽だった。
食事が済む頃には空は闇色になっていた。
普請作業は明け方から始まり、陽が暮れる前には終わる。元綱は人夫や大工たちに労いの言葉を掛けて解散させ、砦の留守の武士たちに後を頼んで、重蔵らと共に城山を下った。
船山砦の守兵として、毛利本家と各族党から引き抜いた百人ほどの下士が配属されていた。彼らと元綱の関係は正確には主従ではないが、彼らは戦場では元綱を大将と仰ぎ、いずれ元綱が分家して自分の領地を持つようになれば、正式に転籍してそのまま元綱の家来になることとなろう。さしあたり平時は、彼らが輪番で砦を守衛する。無人の砦に山賊などが棲みつかぬように番をするのである。
船山砦は戦時には郡山城の支城として活用され、元綱がその守将となることが決まっているが、平時も元綱がそこで暮らすというわけではない。本丸の居館の普請中はもちろん、それが住める状態になった後も、元綱はそれまでと変わらず、陽が暮れると城山を下って自分の屋敷に帰っていた。
城主になったとはいえ、元綱の日常に大きな変化はない。この若者は相変わらず気ままな暮らしを続けており、砦の工事に目鼻が付いてからは気が向いた時だけ船山にのぼり、在番の雑兵たちを鍛えたり、彼らと酒食を共にしたりしている。この若者にとれば、ヒマ潰しの選択肢がひとつ増えたという程度の意識であったろう。変化らしい変化と言えば、元綱の麾下の兵を食わせるための兵糧が毛利本家から支給されるようになり、それを計算したり管理したりする手間が増えたことと、相合の家の維持のために本家から毎月出ていた食禄に、わずかばかりの役料が加わったことくらいであった。
元綱の相合の家にはこれまで家宰と呼べるような存在がなく、面倒事は後見役の坂広秀が何くれとなく世話を焼いていた。元綱がいずれ分家を立てるとなれば、当然のこととして家政を取り仕切る者が必要になるわけだが、元綱はその辺りのことには関心がないのか、あるいは単に気付いていないのか、家政の外向きのことは坂広秀などに、内向きのことはゆきや母に、それぞれ任せ切っていた。
実際のところ、元綱は権勢欲にも物欲にも実に淡泊で、衣・食・住がそれなりに足りている現在、その暮らしに不平を抱くことはなかったし、愛欲を満たしてくれる妻にも情愛を注ぐべき子にも恵まれており、私生活には何の不満もなかった。このまま十年一日の如く時が過ぎてゆくとしても、元綱はやはり不満を抱かなかったであろう。
そういう元綱であるから、新たに毛利本家から出て一家の主となり、現状の環境が大きく変化してしまうことに対しては、雀躍とした気持ちの弾みなどはあるはずがなかった。領主となれば、当然ながら自らの責任において家来を養ってゆかねばならないし、領地の徴税に心を砕いたり民心の掌握に気を配ったりもせねばならぬであろう。そういう細々したことが、元綱は考えるだけでも億劫なのである。
元綱が分家を立てることに対して、もっとも無邪気に喜びを表していたのは、あるいは元綱の近侍の若者たちであったかもしれない。
近侍の若者たちは、毛利家の各族党の本流から外れた部屋住みの身である。自家に帰れば平時は厄介者、戦時は雑兵という立場に甘んじざるを得ないわけだが、元綱が一家を立てるとなれば、彼らはその家の重臣になることが約束されている。それぞれ相応の家禄を与えられるに違いなく、戦場では元綱が大将となる一軍の物頭となり、兵を任されることにもなるであろう。彼らはその日が来るのを心待ちにしているのである。
「次の戦さでは、四朗さまに大手柄を立てて頂くために、我らが大働きに働かねば――」
というのが、彼らの共通の想いであった。元綱が大きな手柄を立てれば、それに見合った大きな領地が与えられるに違いない。
しかし、物事はなかなか思い通りには運ばないもので、あの「有田の合戦」以来、行われた戦さといえば、領地の増える余地がほとんどない小競り合いばかりであった。安芸国人一揆に属さない毛利の敵といえば宍戸氏や熊谷氏などがあるが、これらは毛利とほとんど互角の兵力を持っており、一朝一夕に滅ぼせるような相手ではないのである。領地の拡大という観点から言えば、むしろ高橋氏がたびたび行っている備後遠征の方が、若者たちにとっては魅力的だったかもしれない。
その高橋氏は、戦費が高くつく割りにさほど戦果のあがらぬ備後遠征より、隣郷の三吉氏との争いに重点を置き始めたらしい。雪融け直後の早春に続き、田植えが終わったばかりの初夏にも、青屋友梅が守る加井妻城に兵を出したのである。
高橋氏の隠居の久光は、当然のように毛利にも出陣を要請し、毛利軍は宍戸氏の動きを封じるために甲立に出兵した。
――此度は、これまでの小競り合いとは違うぞ。
今回の戦さに対して、久光はひとつ勝算を持っていた。思いもかけぬ筋から、加井妻城の縄張りの絵図を手に入れたからである。
それを久光にもたらしたのは、息子の重光に仕える湯浅次郎左衛門という四十男であった。
「銀兵衛と申す笛師を憶えておいででござりましょうや」
久光に拝謁した次郎左衛門は得意顔で言った。
「あの者、青屋友梅とは風雅の友で、加井妻の城にもたびたび遊びに参っておるそうでございましてな」
青屋友梅は、「梅の友」というその風流な号でも解るように風雅を愛する男で、連歌や和歌をよくし、歌舞音曲にも堪能であった。
銀兵衛は、かつて友梅の前で笛を披露し、その見事さを賞されたことがあり、それ以来、備後に巡って来たときは必ず加井妻城に立ち寄り、青屋友梅に笛の指南をするようになったのだという。銀兵衛と接触するうちにそのことを聞き知った次郎左衛門は、銀兵衛を口説き、頭を下げ、加井妻城の絵図を描いてくれるよう頼み込んだ。これは風雅の友を破滅に追い込む所業であり、銀兵衛はかたくなにその依頼を拒んだが、次郎左衛門の懇請の言葉が次第に脅迫の色を帯びるようになり、それが命の安危に関わるところにまで及ぶと、さすがに観念したように承諾したのだった。
――しょせんは河原者よ。武士のごとき性根はないわ。
次郎左衛門はほくそ笑んだが、銀兵衛の方も内心で嗤っていた。実際には銀兵衛は青屋友梅とは面識がなく、並べたのは嘘八百である。
銀兵衛が二晩を掛けて描き上げたという絵図を見て、次郎左衛門は大いに満足した。山の尾根の様子、曲輪の並び、城門や櫓の位置まで、実に克明に描いてある。次郎左衛門は喜び勇んで自ら阿須那の藤掛城に赴き、大殿の久光に絵図を献上したのである。
加井妻城を何度も攻めている久光は、その絵図が実際の城の縄張りを極めて正確に描いていることをすぐに看破した。
「ようした。これは戦場の功にも勝る大手柄じゃぞ」
小躍りするほど喜び、銀兵衛に褒美を与えることはもちろん、次郎左衛門にも過分なほどの加増をしてくれた。
――まったく良い男と知り合うたものよ。
あの笛師は、高橋氏にも次郎左衛門にも、大きな利益を二度も運んでくれたことになる。
久光は、春の農繁期が終わるのを待って、横田の松尾城に三千余の大軍を集結させた。満を持して全軍に出陣を命じたのは、六月の上旬である。
高橋軍は横田から中国自動車道に沿うようにして東に進み、加井妻城を北に見上げる江の川の河畔に布陣した。この少し南には青河村という小さな集落があり、出雲往還に沿ってさらに南に進むと宍戸氏の関所がある。
加井妻城の城山を見上げた久光は、重臣たちを前に、
「此度こそ、この城を我が物にしてくれようわ」
と壮語した。
加井妻城は、山裾を流れる江の川が外堀の役目を果たし、河岸からすぐに山が屹立するというその地形的要件のために、非常に攻めにくい城である。江の川は広いところでは半町(五〇メートル)ばかりも川幅があり、水深も深く、これを渡河しているところを山上から攻められると苦戦は免れない。青屋友梅は歴戦の武将であり、その麾下の兵はなかなか精強で、これまで城攻めは捗々しい成果を挙げることができずにいたのだが――。
今回の久光には秘策がある。
――夜陰に乗じ、北ノ丸を奇襲する。
次郎左衛門がもたらしてくれた絵図が、それを思いつかせてくれた。
少数の兵を山中に密かに侵入させ、城の正面を大きく迂回し、別の尾根から背後の北ノ丸を急襲するのである。久光は、忍兵を統べる世鬼政時に絵図を示し、その成功の可能性について検討させた。
世鬼政時は入念な男である。絵図など信じず、わずかな手勢と共に実際に山中に忍び入り、三夜を掛けて現地の地勢を確かめ、敵の警戒線などを下見した。
その結果、
――やれる。
という感触を得た。
城の南方に布陣する高橋軍から見て、本丸の背後を守る北ノ丸はもっとも遠い位置にあり、その守備兵はせいぜい数十人である。少数の精鋭をもって夜陰に乗じて侵入し、城門を確保して兵を導き入れれば、敵兵を全滅させることもさほど困難ではないであろう。
――これこそ忍び武者の腕の見せ所よ。
新太郎をはじめ、世鬼家の者たちは大いに勇んだ。世鬼一族とその郎党の忍び武者は合わせて三十人ほどである。それに百人ほどの兵が付属することとなった。
この間、青屋勢の眼を引きつけるために、高橋軍は正面からの城攻めを繰り返している。
「よし、今夜やれ」
ある夜の初更、久光は決行を命じた。
「ゆくぞ!」
世鬼政時自らが大将となり、忍兵たちが夜の闇に消えた。
北ノ丸に忍び込んだ新太郎たちは、城門を守る十数人の兵を闇に乗じて暗殺し、門を内側から開き、待機していた兵を城内に導き入れた。曲輪の各所に火を放ち、慌ててろくに防戦もできない北ノ丸の守備兵をあっという間に殲滅し、北ノ丸を占拠したのである。
「さすがは甚介よ。巧くやりおったな」
本陣の床几に座り、二刻ばかりも頭上の闇を睨んでいた久光は、北ノ丸から炎があがるのを遠望し、会心の笑みを浮かべた。
「この上は一息に攻め潰すぞ! 懸かれ!」
久光が采配を振ると、高橋軍の本軍が無数の松明の群れとなって江の川を渡河し、武者押しの声を轟かせながら城山に取りついた。
青屋勢の兵たちは慌てたであろう。青屋友梅は夜襲を警戒してはいたが、本丸の背後の曲輪が火を発したことで、城兵たちは裏切り者が出たのかと疑心暗鬼に陥り、さらに正面から大軍が攻めて来るに及んで、ほとんど恐慌を起こしたのである。
戦勢は一方的となった。勢いに乗る新太郎たちは続いて二の丸に突入し、高橋本軍は正面の城門を破り、城内にどっと乱入した。久光は、軍の主力をもって城の正面である南方から突撃させ、さらに別働隊を城山の西尾根から攻めさせた。東方はわざと空けてある。逃げたい者は、そこからどんどん逃げてくれれば良い。青屋方の武者たちは、ある者は本丸へと退去し、ある者は東の尾根を伝って城を落ちていった。
戦況を眺めるうちに、東の空が徐々に白み始めた。
北ノ丸に続き、三の丸と二の丸が落ち、枝葉の曲輪を無視すれば、残すは本丸のみである。もはや形勢は決したと言ってよく、青屋友梅の首が運ばれて来るのは半日後か、あるいは明日か、いずれ時間の問題であろう。
ただ、加井妻城を救援するために三吉氏の援軍がやって来る可能性があり、できる限り急がねばならぬことに変わりはない。
久光は、
「旗本の者どもも、功名せい」
と一声発し、本陣を守っていた兵をも戦場へ解き放った。
手柄の場を与えられた武者たちは勇躍し、嬉々として駆け出して行った。
「興光殿、お前さまもゆかれよ。この戦さの大将は、あくまでお前さまでござるぞ」
久光は孫に慈眼を向けた。
「は。では、お言葉に従いまして――」
崇敬する祖父に一礼した興光は、近習と自らの旗本を率いて出陣した。
高橋軍のほとんどすべての武者が出払った形である。本陣周りに詰めている人間が極端に減った。
その時である。
「狂い馬じゃぁ!」
という叫びが鰻幕の外でし、人々が立ち騒ぐ気配と馬のいななきが交錯した。
「誰ぞ止めてくれぇ!」
「そちらはご本陣じゃぞ!」
暴れ狂う馬が本陣の周りの矢楯を蹴散らし、鰻幕を破って走り込んで来たのである。
「馬鹿者! 何をやっておる!」
「早う鎮めんか!」
人々が立ち騒ぎ、ある者たちは馬を取り押さえようと群がり、またある者は馬から離れようと逃げ、たちまち本陣が騒然となった。
ある男が馬に取りつき、その背に跨って手綱を捌き、どうにか騒ぎが収まったとき――。
本陣の最奥では、彼らの主人の首がすでに身体から離れていた。
「大殿!?」
久光が座っていたはずの床几の背後に三人の敵兵がおり、その一人が久光の髪を掴んで首を高々と掲げ、
「うぬらの大将の首、頂戴したわ!」
と叫ぶや、背後の鰻幕を跳ね上げて脱兎のごとく逃走したのである。あとの二人も何か叫びながらそれに続く。
残されたのは、仰向けに倒れた主人の首のない骸だけであった。
「馬鹿な・・・・!」
側近や重臣たちは呆然自失するしかない。
三人の雑兵たちは、本陣の背後の山林に駆け入った。
本陣に居合わせた武者たちは怒り狂ってこれを追ったが、男たちの脚力は驚異的であった。夜明け前の薄暗い山林で、視界がほとんど利かぬということもあり、追手はたちまちその姿を見失った。
男たちは駆けながら具足の留め紐を切り、腹巻を脱ぎ捨てた。その下から現れたのは濃紺の忍び装束である。別の方角から二人が合流し、五人に増えた一団は、風のように林間を駆け、山の斜面を走り、ある崖に突き出た杉木立の根元で足を止めた。
空がずいぶんと明るくなって来ている。
「銀兵衛殿――」
首領格の男が声を発すると、忍び装束をまとった銀兵衛が頭上の太い枝から落ちて来た。
「首尾は」
「まず手はず通りに」
男は高橋久光の首を銀兵衛に手渡した。
銀兵衛はしげしげとその顔を確認する。
「確かに高橋久光に間違いないな。ようしてくれた」
「なに、あそこまで支度を調えてもらえば、造作もない仕事でござるよ」
男は別段誇る風もなく、淡々と応えた。
「では、お前たちは消えよ。約束の金は、京の四条河原で我が親父殿から受け取るがよい」
「承知した」
男たちは樹林の影に溶けるように去った。
それを見送った銀兵衛は、足元の崖をするすると下った。崖下は再び山林になっており、茂みのなかに猟師道のような小道が通っている。道なりに進んで尾根をひとつ越え、谷をひとつ渡ると、やがて粗末な猟師小屋に行きついた。
銀兵衛は無造作に小屋に近づき、戸を開いた。
戸口から差し込む薄い光が小屋の闇を払う。
土間に敷いた寝藁で寝ていた男が身を起し、眼を細めて戸口を睨んだ。
鉢屋の蓮次である。
「ほれ」
逆光で影になった銀兵衛が、何かを投げた。
蓮次が受け止めたそれは、初老の男の生首である。苦悶や無念さに満ちた――というより、何か困惑したような表情で、眼は大きく見開いたままであった。
「これは・・・・」
「高橋の隠居殿の首よ」
さすがの蓮次も絶句した。蓮次は作戦の詳細を知らされていたわけではなく、ただこの小屋で待つように言われただけだったから、銀兵衛の水際立った手際に仰天せざるを得ない。甲賀衆があれだけ苦労して得られなかった首である。この男はいとも簡単に刈り取って来たというのか――。
「隠居殿は手練れの忍びに幾重にも守られておってな。これまでなかなか手出しができなんだ。好機が巡って参るとすれば戦場であろうと思うて策を弄してみたが――。まぁ、思いのほか事が巧く運んだというだけのことよ」
銀兵衛は面白くもなさそうに言った。
「三吉の援軍が馬洗川が江の川に合流するあたりまでやって来ておるそうじゃ。その連中にでもくれてやれ。戦さの勝敗がひっくり返るぞ」
銀兵衛は土間に置いてある水瓶を横にどけ、その床に空いた穴から墨染めの僧衣を取りだし、忍び装束を脱いでそれをまとった。
「わしの役目はこれで仕舞いじゃによってな。弥之三郎殿には、元の笛師に戻ったとでも言うておいてくれ」
脱いだ装束を穴に入れ、土をかぶせて埋め、再び水瓶を上に移動させる。
「こうして仕事を共にしたのも何かの縁じゃ。京にのぼることがあれば、四条河原を訪ねて参るがよい。京洛の酒と妓を馳走してやろう。わしもあちこちと歩いたが、京の妓は日の本一だぞ」
銀兵衛はニタリと笑い、飄々と小屋から出て行った。
――化け物め・・・・。
しばらく途方に暮れたように立ち尽くしていた蓮次だったが、まだ大仕事が残っている。ともかく言われた通りにするしかないと腹をくくった。
蓮次は、青屋兵の遺体から剥いでおいた具足と指し物を身につけ、ボロ布に包んだ久光の首を小脇に抱えて山を下った。黎明の薄暗い山道を北へと走り、援軍にやって来た三吉軍の中に駆け入ったのである。
「高橋の大将の首でございます! 首実検をお願い申しまする!」
「何者か!?」
たちまち捕えられ、先陣の武将の元へと引き立てられる。
「青屋友梅さま家臣、槍組・佐藤新之助さまが手の者にて、青河村の小作、権平と申しまする。敵の陣屋に忍び入り、大将と思しき武者の首を掻いて参りましたゆえ、どうかご検分を――」
実在の物頭の名であり、実在する村の名ではあるが、青屋勢の侍帳でもその場にない限り、雑兵の名前なぞいちいち三吉軍の武者に判るはずがない。
「なにゆえ青屋殿の元へ首を持ってゆかぬ」
などと尋ねる者もあったが、
「加井妻の城はすでに三の丸、二の丸が落ち、敵の兵が城内に満ちておりまする。もはやそれがしなぞが本丸へは戻れませぬ」
と訴えて切りぬけた。
いずれにしても火急のことで、細かな詮議なぞできる状況ではない。久光の顔を見知った者が「この首は確かに高橋の隠居に相違ない」と証言すると、それ以後は誰も蓮次を疑わなくなった。
「お味方は苦戦しておりまするが、敵も大将を失い、大きに慌てておるはず。時は一刻を争いまする。なにとぞ疾く疾く後詰めくだされたく――!」
「心得たわ。権平とやら、大手柄じゃぞ。後の褒美を楽しみにしておれ」
蓮次は三吉の先鋒軍について加井妻城の山麓まで進み、三吉軍が高橋軍に攻め掛かるや、山林に紛れ入って戦場から離れた。具足と指し物を捨て、百姓姿に身を変え、山を登って合戦見物の者たちの群れに混じる。
眼下では、三吉軍が高橋軍を圧倒していた。総大将である久光を失った高橋軍は指揮系統が大混乱を起こしており、腰が抜けた雑兵たちは我先に逃散を始め、ろくに防戦もできない。城内に攻め入った高橋方の武者たちも、事態が伝わると城から転がり出し、四散して逃げ散っている。
その様子を遠望した蓮次は、口元だけで薄く笑った。
――これで高橋も終わりだな。
死んでいった蟇目たちの無念も少しは晴れるであろう。
「大殿さまが討ち死になされただと!?」
加井妻城の二の丸でその報告を受けた世鬼政時は、仰天した。
「虚仮なことをぬかすな! そんなはずがあるか!」
と家来を怒鳴りつけたのは、味方が狼狽して壊乱するのを防ぐためである。それが事実であると否とに関わらず、大将である政時は、麾下の兵たちを無駄に死なせぬよう最善を尽くす責務がある。
家来を本陣へ走らせ、事態を確かめさせる間に、政時は兵たちをまとめ、青屋勢の反撃を許さぬよう奪った北ノ丸まで後退し、防戦に徹した。
ほどなく駆け戻ってきた家来によると、本陣はすでに収拾のつかない状況になっているという。呆然自失している者はまだ良い方で、雑兵などは四散して逃げ散り始めているらしい。
――なんという事だ・・・・!
政時は久光の身辺警護を受け持ってはいたが、自身が物頭であり、戦さ忍びとして戦場で働いている以上、久光に四六時中張り付いているわけにはいかず、その働きには限界があった。今回のように夜討ちの大将として前線に出てしまえば、同時に本陣の警護などできるはずもない。
その隙を、敵に衝かれた。
計画的なものか悪い偶然が重なったものかは判らない。しかし、いずれにしても今は、後悔や悔恨に打ちひしがれている場合ではない。
「新太郎! 小太郎!」
政時は二人の息子を呼びつけた。
「こうなっては、もはやこの地では敵を支え切れぬ。我らが総崩れになれば、それを追い討って敵が横田へ雪崩れ込んで来るは必定。味方のこの体たらくでは松尾の城が落ちてしまわぬとも限らぬ。お前たちは毛利の陣へ行き、多治比の元就殿と執権の志道殿を動かし、横田に加勢を出させるのだ」
高橋の加井妻城攻めを側面支援するために、毛利氏は甲立に兵を出し、五龍城のあたりで宍戸氏と対峙している。これがもっとも早く横田に駆けつけることが可能な友軍であろう。国人一揆の盟友である吉川氏や平賀氏は本拠が距離的に遠く離れている上、急使から事情を聞き、陣触れして軍勢を調え、それから横田まで出張るとなれば、急場にはとても間に合わない。
「父上は?」
「わしは何としても若殿を戦場からお落とし申す」
興光はすでに三の丸に入って攻城に加わっている。城内からの退却を無事に成功させねば、捕り込められてしまいかねない。
「腰が抜けておらぬ者たちと、敵を斬り防いで時を稼ぐわ。早うゆけ!」
二人は城山を駆け下ると、鎧を脱いで身を軽くし、小具足姿で馬に飛び乗った。
混乱の戦場を離脱し、朝靄に煙る山道を疾風のように駆ける。
加井妻城から毛利軍が陣を据えている五龍城へは直線なら二里ほどの距離だが、敵対する宍戸氏の領地を通ることはできないから、大回りになるがいったん西に五里ばかり駆けて横田まで戻り、多治比を経て吉田へ向かい、さらに北上して甲立を目指さねばならない。
新太郎たちは馬を責めに責めて横田の松尾城に駆け込み、留守の重臣らに事態を伝え、防戦の準備を頼むや、馬を乗り換えてさらに駆けた。
松尾城から多治比を経て吉田へ――。距離にして三里ばかりである。
言うまでもないことだが、高橋久光は毛利家の当主・幸松丸の祖父であり、その母・お夕の父である。幼少の幸松丸は事態を理解できぬであろうが、郡山城の女城主であるお夕には、実父の討ち死にを伝えねばならぬであろう。新太郎は弟を郡山城へ遣わし、自身はそのまま吉田を素通りし、宍戸氏の甲立へ向かった。
毛利軍の陣に辿りついたのは巳の刻(午前十時)あたりである。本陣に通された新太郎は、居並ぶ毛利家の重臣たちを前に声を張り上げた。
「大殿・久光さま、加井妻城攻めにて討ち死になされました!」
「隠居殿が!?」
元就、元綱をはじめ、毛利家の錚々たる武将たちが一様に驚きの声をあげた。
「お味方はいったんは敵城を乗っ取る勢いでございましたが、手薄となった本陣に敵が忍び込み、大殿の御首を奪われたよしにござりまする。そこに折悪しく備後より三吉の援軍が現れ、高橋方は苦戦に陥っております。若殿・興光さま、当家ご重臣の方々は、横田へ兵を退かれる決断をなされ、今まさに退却中と思われまするが、我らが退けば、それにつけ入って三吉が松尾の城へ攻め寄せるは必定。毛利家の方々には、早々にこの地を引き払われ、松尾へ加勢をお願い申しまする!」
総大将である元就の決断は速かった。
「事は一刻を争う。ただちに兵を退き、横田へ行かねばならぬ」
と大方針をまず示し、
「先陣の四朗にそのまま殿軍を任せる。退き陣は、井上河内、福原左近を両先鋒に、私と執権殿が本軍を率いる。なにぶんにも急な事で、いかなる不測の事態が起こらぬとも限らぬ。手の者に私語を禁じ、整然と退くよう申し伝えよ。万一の用心のため、郡山城には執権殿の手の勢を残す。余の者は城下を素通りし、多治比の猿掛の山麓まで速やかに駆け、そこで兵馬を調えよ」
と即決した。
新太郎は、自分より年若いこの大将の風姿を惚れ惚れと見上げた。
――これが多治比の元就殿か。
この急場に直面してさえ、元就の言動は颯爽とし、凛乎とした威厳がある。
あの「有田の合戦」が行われるまで、元就は武将としてまったく無名であり、新太郎もこれまで面識はなかったのだが、実際に我が目で間近に見れば、その器量は実感として解る。高橋家が絶体絶命の窮地にあるだけに、それを援けようとする元就の真摯さと頼もしさが、新太郎の胸に沁みた。
本陣を出るために歩き出した元就は、
「宍戸は必ず追い討ちを掛けて来るぞ。くれぐれも用心せよ」
すれ違いざま弟の肩を叩いた。
「任せてくれ。宍戸を毛利の領地には一歩も入れぬ」
元綱は昂然と言い切った。
毛利軍の撤退を見て、五百ほどの兵が五龍城の城山を駆けくだり、追撃を掛けてきた。
元綱隊は三百ほどであったが、元綱は宍戸軍が江の川を渡河したところを進んで痛撃し、敵の勢いを止めておいてさっと退却に移った。
この退却を援けたのが、井原勢の弓である。
「おぉ、小四朗殿! かたじけない!」
井原元師は自慢の頸弓をもって元綱隊を援護し、追いすがる宍戸軍を辟易させた。
元綱は絶妙のタイミングで退却と逆撃を繰り返し、敵の追撃の気勢を削いだ。宍戸元源もさほど深追いしようとはせず、元綱隊はほどんど無傷のまま、郡山城へと引きあげたのである。
一方、多治比へ急行した毛利軍は、そこで軍列を調え、横田への道を北上した。
青屋勢を吸収した三吉軍は、潰走する高橋軍を追撃してすでに横田へ到り、まさに松尾城を攻めようとしているところであった。
元就が三吉軍を逆包囲すべく兵を動かすと、退路を断たれることを嫌った三吉軍は慌てて城の包囲を解き、毛利軍をあしらいつつ退却を始めた。高橋軍は深手を負ったとはいえ、それでも毛利軍を加えればその兵力は三吉軍を上回るのである。せっかくの大勝をフイにしてもつまらないから、決戦を避けたのであろう。
三吉軍を追い払うと、元就は深追いを禁じて兵をまとめ、松尾城へ入り、高橋興光と対面した。
「多治比殿、此度の毛利のご助勢、心より感謝致す」
興光は丁重に頭を下げた。
加井妻城をあと一歩で落とせるというところまで追いつめながら、三吉氏に悪夢のような逆転負けを食らい、敬愛する祖父さえ喪った興光は、さすがに憔悴の色を隠せない。泣き腫らしたらしい眼の跡が痛々しかった。
「我が家の痛手は深く、今すぐ弔い合戦を行うことは出来ぬが、爺殿の仇――青屋友梅は、いずれ必ず討つ。その折りは毛利の加勢を頼めようか」
元就は力強く頷いた。
「隠居殿は、幸松丸さまにとっても祖父君であられた。その仇を討つに、我らが力を貸すは当然のことでござる」
「おぉ、ありがたい」
興光は未だ十九の少年である。六年前から高橋氏の家督を継いではいたが、偉大な祖父が実権を握り続けていたこともあり、自ら物事を裁断した経験もほとんどない。高橋氏は七万石もの強大な豪族であるだけに、興光がこれから家中を束ねてゆくにはよほど苦労をするであろう。
三吉軍を退散させたことで、高橋家の滅亡はひとまず避けられたが、良い意味でも悪い意味でも「英傑」であった高橋久光の死は、高橋氏にとっての痛恨事というだけでは済まず、近隣に与える影響はことのほか大きいであろう。
――思いもかけぬ事になった。
というのが、元就の偽らざる実感であった。
元就にとって久光の死は、正直に言えば痛し痒しである。久光には娘を奪われた恨みがあったし、毛利家の家政へ介入してくる強引さは確かに迷惑してもいたが、これまで毛利は高橋氏という大樹の陰に隠れ、その武力の傘に守られていたことも事実であった。高橋久光が屹立として立っていてくれることで、尼子氏の安芸への侵入を防いでいたという側面も否定できぬところであったから、今後の情勢の変化に対しては不安を感じざるを得ない。吉川経基に続き、久光までが現世を去ったことによって、安芸の先行きはまったく見えなくなってしまった。
――遠からず大津波が来るぞ。
と思えば、陽気な気分になどなれようはずもない。
ところで、この永正十八年(1521)は、八月二十三日をもって改元され、大永元年となる。ちなみに甲斐の武田信玄が生まれたのがこの年である。
高橋久光が「討ち死に」したその直後の八月、出雲の尼子経久が、自ら一万余の大軍を率いて石見に侵攻している。