元綱の城
毛利家中で「坂のご隠居さま」と言えば、坂広秀の父である坂広時のことを指す。向原の日下津城下でこの老人について尋ねれば、子供までが好意的な笑顔を浮かべ、その日常を色々と教えてくれるであろう。
広時は、城下に市が立つ日など、しょっちゅう町なかに現れるのである。賑やかな市の喧騒と、町歩きが好きなのだ。露店の小商人たちはそのことを知っており、この老人を見かけると、荷をさばきながら、値の駆け引きをしながら、ことさら大声で商売をした。「日下津城の大殿さま」に自分たちの働きざまを直接見てもらえることが嬉しいのだ。
この老人は、いつも粗末な麻の胴服を着、茶人のような頭巾を頭に載せ、青竹を一本持っている。顔は細長く顎が尖り、肌はなめし皮を煮固めたように浅黒く、皺が深い。頭は禿げあがり、蓄えた顎鬚は半ば白くなっている。すでに六十の坂を幾つか越えているのだが、腰も曲がっておらず、足取りはしっかりしたものである。その左右の後ろを、若党が二人ついて歩くのが常であった。
若党の一人が持つ道具箱には日替わりでちょっとした食べ物が入っていて、それを心得ている子供たちは、この老人を見かけると歓声をあげて集まって来る。広時は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、子供たちの頭を撫でてやり、餅や菓子を配るのである。
隠居の身軽さもあって、この老人は三日に一度は城山を降りて来る。城下の寺社や富商の屋敷などには気軽に立ち寄り、同世代の老人たちと茶を喫んだり酒を呑んだり、碁を打ったり和歌をひねったりして日暮れまで遊び、興が乗るとそのまま泊まっていくこともある。話好きで、物腰や言動に飄逸味があり、たまにとぼけた洒落を言って周囲を笑わせたりもする。その風姿は乱世を生き抜いた武人というより商家の楽隠居といった方が相応しく、そうと知らぬ者はこの老人が「日下津城の大殿さま」であるとはとても思えなかったであろう。
坂一族が、毛利氏の庶流で代々毛利家の執権を務めた名門であることはすでに触れた。
かつて毛利家では乱立した庶家が本家を圧倒するほどの力を持ち、一族が分裂して内紛を起こしたことがあったのだが、庶家の中で福原氏と坂氏が毛利本家を援けて尽力し、あくまで本家の支配を拒絶しようとする麻原氏などの庶家を討ち滅ぼし、現在の毛利家の発展と本家による総領支配体制の確立に多大な貢献を成した。その功により、福原氏の当主は代々家臣筆頭の座につき、坂氏の当主は代々執権を務めることが定められたのである。
長命して長く執権職を務めたのが坂氏の三代目である広秋という男で、坂広時はその次男であった。
ある事情で兄が分家して桂氏を立てたため、坂氏本家を継ぐこととなった広時は、父の隠居後、短い期間だけ執権の座についたのだが、毛利家の先々代・弘元が政略的な理由で若くして隠居すると、権力の交代に伴って自らも四十代で早々と隠居した。
広時の奇妙さは、その隠居に際して、執権職を息子の広秀には譲らず、末弟の子である志道広良を推挙し、その重責を担わせたことであろう。志道広良の器量と聡明さを見抜いていたということであろうが、それにしても、坂氏本家が世襲すべき執権職を分家の子に譲ったのだから、よほど私心の薄い、清廉な人物であったらしい。同時に、家族の反対を押し切ってまでそれを断行するあたり、一度こうと決めたら梃子でも動かぬような頑固者でもあった。
思わぬ成り行きによって重職に就くことになった志道広良は、その持てる能力の限りを尽くして伯父の信託に応えた。先代・興元が幼少の頃からこれを輔弼し、軍事にも外交にも家中の調整にも文句のつけようのない手腕を発揮した。興元没後も幼君・幸松丸のために誠忠を尽くしており、今や毛利家の柱石と呼ぶべき存在になっている。この甥っ子を抜擢した広時の措置は、結果として毛利家を大きく援けたと言えるであろう。
しかし、広時の息子の坂広秀からすれば、それが面白かろうはずがなかった。
この時代、同じ血族集団に生まれた者の中でも、たとえば兄と弟、正嫡と庶子、本家と分家の間には、主人と家来というほどの厳然とした格差がある。宗家の嫡子、本家の総領といえば、一族の先祖の祭祀を司る存在であり、血族集団の中で絶対に近い権能があったのである。
広秀の祖父が毛利家の執権であった時代、幼き日の広秀にとって従弟である志道広良は「分家の孺子」であったし、同じく若き日の志道広良にとって広秀は「ご本家の跡取りさま」であった。両者の「格」を比べれば広秀が遥かに上であり、その認識は二人にとってごく自然なものだった。広秀は当然のように志道広良を見下していたし、家柄は言うまでもなく、その能力においても自分が劣るなどとは考えたこともなかった。
しかし、二十年ほど前、志道広良が毛利家の執権となった時から、両者の政治的地位がにわかに逆転した。志道広良は毛利家の家臣団を上から総覧する位置につき、広秀は十五人いる宿老の一人であるに過ぎない。広秀にとってそれが愉快なはずはなく、「分家の息子」に対して激しい嫉妬心を抱いたことも当然であったろう。
坂広秀は、洒脱で軽妙が持ち味の父とはさほど似ていない。奇矯な面の少ない常識家で、与党や子分に対しては面倒見の良い親分肌の男であった。理屈屋で口うるさく、やや優柔不断で独善的である点を割り引いても、政治家として無能ではない。処理能力と調整力とがあり、政略的な創造力には乏しいが、経験に裏打ちされたそれなりの識見を備えていた。この男がたとえば大工や左官の棟梁の子として生まれていれば、配下の職人たちをよく使い、日々怠けることなく家業に励み、その技巧で評判を取れずとも、仕事の確実さと工期を守る律儀さで世間から信頼される親方になったであろう。あるいは商家に生まれていれば、堅実な商売で着実に家産を殖やし、晩年は父のように周囲から好かれる楽隠居になって、安楽に世を終えたかもしれない。
しかし、平安の昔から七百年を閲した大江氏の末裔――毛利氏の庶家のなかでも屈指の名門とされる坂氏の宗家に長男として生まれついてしまったことが、この男にとっての不幸であった。
坂一族(坂氏、桂氏、光永氏、志道氏)は毛利庶家の中でもっとも大きな枝葉を広げた族党で、井上党が毛利家に加わる以前は家中で最大の勢力を誇っており、現在も毛利本家を支える中核勢力と言っていい。その宗家を継いだ広秀が、
――わしこそが坂一族の総領ぞ。
という誇りを持つことはごく自然な感情であり、その矜持が強烈であるほど、その裏返しとして、自分が毛利家中で冷遇されている現状に不満を感じざるをえなかった。
実際は、自身が思っているほど広秀は軽く扱われているわけでもない。十五老臣での序列は上から三番目であり、他の宿老たちからもそれなりの敬意を払われていたし、坂一族の者たちからは本家の当主として相応の礼遇を受けてもいた。しかし、広秀にしてみれば分家の志道広良の下風に立っているというだけで不快であり、その一点で強い不遇感を抱いてしまうのである。
世に不遇感ほど人間を歪ませるものはないであろう。
坂一族の総領でありながら権力の枢要に座れないという劣等意識と、志道広良に対する敵愾心が、広秀の裡で知らず知らずのうちに肥大化し、いつしかこの男は、毛利家中で志道広良に対抗できるだけの独自の「勢力」を築くことを志向するようになっていた。たとえば毛利弘元が病死した際、遺児である元綱の後見役を自ら買って出たのも、その表われであったろう。
元綱がどう思っているかはともかく、広秀にとって元綱はもっとも有力な手駒であり、己の与党であった。書類の上でのことだが広秀はゆきの養父であり、元綱の義父ということにさえなっている。その元綱を、いつまでも部屋住みの御曹司として飼い殺しておくのは、いかにも能がない。
一日、郡山城にのぼった広秀は、たまたま溜まりの部屋にいた多治比元就を捕まえ、
「四朗殿もよいお年でござる。そろそろ分家を立てることを考えられては如何でござろうかな」
と提案した。
多治比で分家を立てている元就のように、元綱にも城と領地を与え、独自の兵力を持たせようというのである。城と兵という後ろ盾があればこそ政治力や発言力は実質を伴うのであり、それを得れば元綱の家中での重みもいや増すであろう。
この手の話はまず執権の志道広良に諮るというのが自然であったが、お竹が井原氏に嫁いで以来、広秀は志道広良とはほとんど口を利いていない。顔を見るのも厭であり、同じ空気を吸うことさえ不快であった。それで、幸松丸の後見として権力を握る元就に話を持ち込んだのである。
「あぁ――、そのことは、私もかねて考えていたところなのだ」
と、元就は返した。
元綱はすでに二十三である。もし兄の興元が生きており、状況が許してさえいれば、すでに一家を立てていたはずだと元就は思っている。
「だが、今すぐに、というわけにもいかぬ。お家には適当な欠所(空いた領地)もないしな」
「もちろん、今すぐどうこうというような話ではござらんよ」
広秀は鷹揚に笑った。
「さりながら、いざ欠所が出た、あるいはご領地が増えたとなったとき、いきなり四朗殿に二百貫、三百貫という大領を与え、それを任せるというのも、いろいろと不安でござろう。領主となるには学ばねばならぬことが多い。家来を養ってゆかねばならぬし、人をまとめてもゆかねばならぬ。民を安んじ、地を栄えさせるのも領主の務めでござるしな」
領主は経営者の貌を持たねばならず、戦場の勇者というだけでは務まらないのである。
要するに広秀の提案というのは、元綱が実際に分家して家を立てる前に、その予行演習をさせてはどうか、ということであった。
「四朗殿に城を築かせ、それを任せてみては如何かと思いましてな」
自らの城を持ち、家来を持つ者の気分を疑似体験すれば、色々と学ぶことも多いに違いない。
「四朗殿の相合の屋敷の裏手に、船山という小山がござろう。天神山の山裾の。あれに砦を築くというのはどうでござろうか」
郡山城は郡山の南尾根に築かれた小城で、郡山の山頂方向から尾根伝いに攻められると弱い。郡山の西尾根に当たるのが天神山で、その山裾にあるのが船山である。そこに砦を築いておけば、敵軍が天神山から郡山の山上に登ることを防ぐことができる。
「ふむ・・・・」
元就は腕を組んで考え込んだ。
広秀がどういう意図でそれを言い出したのかは知らないが、その提案自体はそう悪い話でもない。
「この場で即答はできかねるが――、考えておこう。執権殿とも話をしてみる」
「あぁ、そうしてくだされ」
広秀は満足げに頷いた。
ところで、室町後期から戦国初期というのは、連歌の全盛時代である。
連歌はもともと京都貴族の文芸遊びであったが、京の文化に憧れる地方の武家の間にもすでに広く浸透しており、公家、僧侶などをも巻き込んで、一種の社交界を形成していた。
連歌を大成したのは言うまでもなく宗祇であるが、八十歳まで長命したこの天才も十五年ほど前に鬼籍に入っている。その弟子としては宗長と宗蹟の名が高く、ことに宗長は宗祇亡き後の連歌界を主導し、大内義興、今川氏親、細川高国、上杉房能といった全国の有力大名とも広く交流を持っていた。連歌所の宗匠(家元)となるような高名な連歌師は、風雅を愛する武士たちからは篤い尊敬を受けていたのである。
連歌師は半僧半俗で全国の関所を素通りできる上、世の争い事からは超然としているから、朝廷や公家の使者として全国の大名に手紙を届けたり交渉の橋渡しをするにはうってつけの存在であった。彼らが旅をすれば、道々の大名や小名は大喜びで宿所を設け、酒食をもってこれを歓待し、連歌会を開いたり和歌の指導を仰いだり、あるいは古典文学の講義を頼んだりする。京文化の地方への伝播に、連歌師は大きく寄与していた。
毛利氏は、多くの優れた歌人を輩出した大江氏の歴とした裔であり、その家風には濃い文雅の匂いがある。和歌、連歌などは家中でも盛んで、歌会、連歌会などもよく開かれていた。
一日、元綱は、兄の元就から連歌会に招かれた。
観月の席で百韻連歌を興行するから、お前も来いというのである。
――なにゆえ俺を呼ぶのだ。
元綱はその申し出に困惑した。
文事で聞こえた江家の末裔に相応しく、元就には並々ならぬ詩才がある。元就は自ら詠んだ和歌や連歌を書き留めているのだが、その作品群は、元就の死の翌年、『春霞集』という書題でまとめられている。当時において屈指の歌人にして古典学者であった三条西実澄は、元就の作品の質の高さに驚き、自ら『春霞集』の編纂に関わり、和歌に評語を加えた。その跋文の中で、
「天下の人は元就の勇士なる誉れをのみ賞して、風雅の道に遊ぶ志の深きことをいまだ知る人はいない」
と嘆き、
「この詠草一巻(『春霞集』)により、文武兼備の美誉芳声は永久に朽ちることはあるまい」
と元就の作品に最大の賛辞を贈っている。また『春霞集』の連歌の部には、当時最高の連歌師であった里村紹巴が評語と跋文を寄せている。
元就の詩才とはそれほどのものなのだが、しかし、そういう兄とは対照的に、元綱はこの手の言葉の遊戯がどうにも体質に合わない。
はっきり言えば大嫌いだった。
和歌は、歌枕を覚え、典拠となるべき古歌や名歌をふんだんに記憶し、その言葉やフレーズを下敷きにし、あるいはそれを直喩や隠喩に巧みに用いて己の詩情を表現するというのが基本だが、元綱はそもそも歌枕を知らないし、古歌、名歌の類もまるで覚えていなかった。それをわざわざ暗記したところで日常の生活に何の役にも立たず、無駄としか思えないからである。連歌はその点の縛りが多少ゆるいが、前者が作った句の情景や情趣を踏まえて己の句を作らねばならず、その「他人の詩情に寄り添う」というもっとも重大なルールが、元綱は鳥肌が立つほど嫌いであった。たとえば平安貴族が己の恋心を女に伝えるために心情を和歌に託すというなら情緒もあり、理解もできるが、むさい男ばかりが何人も寄り集まって、己の詩情を披歴し合うというのが、照れくさいというか、何やら気持ち悪いのである。
亡兄の興元が連歌好きだったこともあり、これまで歌会や連歌会に呼ばれることも少なくなかったが、元綱はなんやかやと理由をつけて出席せずに済ませたり、出たとしても酒食を共にするくらいで和歌など詠んだためしがなかった。そういう元綱を、元就はよく知っているはずなのである。
元綱はもっと直截的に身体を使う遊戯を好んだ。それは蹴鞠であっても遠乗りであっても良いし、弓の腕比べでも良ければ相撲を取ることでも良く、木太刀で殴り合うことでも良い。旺盛すぎる生命力を持て余しているようなこの若者にすれば、身体を使って汗をかく事の方がよほど愉しかった。
しかし――。
――せっかく誘ってくれたものを、行かぬというのも角が立つ。
とも元綱は思った。
この若者はやや気ままなところはあるものの、名家のお坊ちゃん育ちだけに基本的に行儀が良く、協調性にまったく欠けるというわけでもない。他人に対して意外に気を使う一面も持っていた。
その当日、元綱は、「所用が出来て遅参するから先に始めておいてくれ」という遣いを郡山城に出し、わざと一刻半ほど遅刻して城山を登った。
会場は、本丸の居館の大書院である。
開け放たれた杉戸の外では、少し欠けた月が薄い雲をまとって煌々と輝いていた。
元綱がその部屋の柱の傍に静かに座ったとき、百韻連歌はすでに終盤であった。控える小姓に小声で訊くと、すでに八十句を越えているという。
居並ぶ連衆は、兄の元就、執権の志道広良、坂広時・広秀親子、福原広俊・貞俊親子、僧である異母弟の就心、郡山の満願寺の住職、吉田の興禅寺の貫主、連歌好きの国司有相、井上光兼などである。
酒をもって来させ、手酌でそれを酌みながら、元綱は眺めるとなくその情景を眺めた。
――珍かな面子だな。
と元綱が思ったのは、志道広良と坂親子が同席していたからだ。
元就や元綱がまだ幼かった頃、坂広時の詩歌は家中でもっとも評価が高く、その実力から歌の点者(判定役)を務めることも多かった。今ではそれが慣例のようになっているので、広時がこの座に居ることは不思議に当たらない。
元綱が意外だったのは、坂広秀が同席していたことである。
お竹の婚儀があって以来、坂広秀は志道広良への不快感を隠さず、その接触を露骨に避けていて、評定などで同座することがあってもほとんど口も利こうとしない。志道広良の方も超然とした態度を崩しておらず、自分から折れてまで強いて関係を修復しようとは思ってないらしい。その二人が座に連なって連歌を詠んでいる風景には、奇妙な違和感があった。
ほどなく元就によって結句が詠まれ、百韻の連歌が終わった。
無論、一座の人々も遅参した元綱の存在に気付いている。
独り酒を飲む弟の方に顎を向けた元就は、苦笑に似た微笑を浮かべ、
賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔哭きするし まさりたるらし
と詠んだ。
賢者ぶって生きるより、酒を飲んで酔い泣きする人生の方がよっぽど素晴らしい、といっただけの意味である。が、元綱の気分にはよく適っている。
「聞いたことのある和歌だ」
「『万葉集』だ。大伴旅人」
「あぁ、『万葉』の歌人の中で随一の酒好きとかいう人だろう」
大伴旅人は、奈良時代初期に生きた歌人であり、軍人であり、政治家である。『万葉集』には七十八首が選ばれており、「酒を讃むるの歌十三首」で名高いが、軍人としては「征隼人持節大将軍」に任じられて九州の隼人(鹿児島地方に居住した一族)の叛乱鎮圧などに活躍し、政治家としては大納言、従二位にまで昇っている。従二位は左大臣・右大臣相当の官位であり、その位は人臣を極めたと言っていい。こういう事績について元綱が詳しく知るわけではないが、いわゆる「大化の改新」が行われた直後の時代を生きた歌人、という程度の理解はある。
「さすがに八百年を閲した古えの歌人の言葉には含蓄がある。たまには兄者も酒を嗜むべし、だ」
「お前は酒に淫しすぎだな。たまには嗜まぬ日があってもよさそうなものだ」
「嗜まぬ日はあるさ。自慢ではないが、俺は戦陣では一滴も飲まんぞ」
元綱が大真面目で返すと、元就は笑った。
「そのあたりがお前の変わっているところだな。普通の者は、戦さが恐ろしいゆえ、出陣前には気を大きくするために酒を飲むものだが、お前は戦陣では酒が必要なくなる。要するにそれは、戦さに酔うておるからだろう」
「酒に酔い、女に酔い、戦さに酔う――。それが漢と生まれた者の愉しみだろうさ」
「まぁ、そうかもしれぬ」
「そういう兄者は、酒を飲まぬ。女に酔うたという話もついぞ聞かぬ。戦さにでも酔わねば、常に醒めていることになる」
元就はわずかに唇の端を歪めた。
先年の「有田の合戦」において、元就は戦さに酔って我を忘れ、大きな失敗を犯した。あれ以来、戦さにだけは二度と酔わぬと誓ったのだが、その心情を口に出す気にもなれず、軽やかに話を逸らした。
「せっかくの座であったのに、結局このままではお前の句は聞けずじまいだな。そう披露を惜しむこともあるまい。『夏の月』で一句詠まぬか」
「別に惜しんでるわけじゃない。兄者のような詩才がないというだけさ」
元綱はバツが悪そうに苦笑した。
やがて一座の人々のために酒食が運ばれてきた。
座をあらためると、
「ところで四朗――」
本題とばかりに元就が話題を変えた。
「お前、城を持ってみぬか」
「城?」
「お前も、いつまでも御曹司だ部屋住みだというわけにもゆくまい。いずれ家を立てねばならんが、その前に、一度己の城を持ってみる方が良いかと思うてな」
「ふむ・・・・」
元綱は思案顔で盃を口元に運んだ。
「何も難しゅう考えることはない。相合のお前の屋敷の裏手に小山があるだろう」
「船山のことか」
「あぁ、その船山に砦を築いてもらいたいのだ。規模は――、そうだな、百人ほどで守れる大きさなら手ごろだろう。無論、敵が吉田に攻め入って参った時は、お前がその守将を務めることになる。平時の在番の士は、本家から二十人ばかり輪番で出そう」
船山砦の戦略的役割を、元綱は即座に領解した。敵軍が天神山から郡山の山上に登れぬようにするつもりなのであろう。
「ふむ・・・・」
元綱は、正直なところ面倒がっている。築城そのものにもあまり興味はなかったが、兄は好意で提案してくれているのだろうし、それを強いて断るほどの理由もない。
「兄者がやれと言うなら――、まぁ、やっても良いが・・・・」
「そうか。ともあれやってみよ。城造りや人使いを実地で学ぶ良い機会になろう。お前にとって損にはならん」
元就は気楽な様子で続けた。
「縄張りなどは太郎左衛門(渡辺勝)や左衛門尉(桂広澄)などに相談するがいい。あれらは築城にも練達だ。人手は、普請役の者から選んで百人ほどを回す。黒鍬の組頭たちにも話は通しておこう。船山で足りぬ木材は天神山から切り出してくれていい。資材や兵糧は、この城に備蓄してある分で充分賄えるはずだから、必要な分だけ使ってくれ」
「及ばずながら、わしも手伝いをさせて頂きますぞ」
と続けたのは坂広秀だ。人数と兵糧を出してくれるらしい。
「鍬入れの日は策雲殿に占うてもろうた。来月の三日が吉日らしいから、そうするといい」
元就の言葉に、興禅寺の貫主である策雲立龍が微笑しながら目礼した。一般にこの時代の禅僧は占いに堪能で、元就はそれを頼んでおいたのであろう。
――用意の良いことだ。
元綱は苦笑せざるをえない。要するに船山砦の築城はすでに既定路線で、それを元綱に伝えることが今夜の眼目であったのだろう。
その翌日、元綱は渡辺勝らと共にさっそく船山に登り、砦の大まかな縄張りを定めた。
船山は麓からの比高が十丈(約三〇メートル)にも足りぬ小山で、周囲もさほどの大きさはない。山頂部を本丸、西に延びる尾根を二の丸とし、その間に空堀を切って独立の曲輪にする。本丸の北側は登攀が難しい断崖で、これはそのまま利用できる。傾斜がゆるい南側には階段状に帯曲輪を置く。本丸の東側は天神山へと続く尾根になっているから、大きく掘り崩して断崖にすることにした。
その大筋に従って絵図を描き、必要になる資材を算定し、資材や兵糧を相合の屋敷に集積するなどしているうちに、七月が終わった。
翌八月の三日を待って鍬入れの儀式を行い、工事の無事と順調な進捗を山の神に祈念し、いよいよ砦作りが始まった。
まずは山頂付近に茂る雑木を伐採し、その根を掘り起こし、曲輪となる平地を地ならしせねばならない。伐採した雑木は材木に加工し、天神山からも木材を切り出し、それで居館や蔵、兵舎、塀や柵などを建てる。井戸も掘らねばならないし、曲輪の周囲には土塁も積まねばならない。何より本丸の東の尾根を掘り崩す作業が大変な重労働だった。
「四朗さまが城主になられる」
ということは、当然ながら近侍の若者たちを喜ばせた。猛暑をものともせず、彼らが嬉々として働いたことは言うまでもない。重蔵も、率先して材木を担ぎ、土を掘り、大工の真似をするなどして、初めて体験する築城に生き生きと汗をかいた。
その作業を続けるうちにやがて夏も過ぎ、秋が日に日に深まっていった。
そんなある日の夕暮れ――。
多治比の方から歩いて来た旅商人風の青年が、ふと足を止めて船山の築城の様子を遠く眺めた。
――あんな小山に城を築いてやがるのか。
青年は背中に担いだ木箱を背負い直し、さして関心もない風情で再び足を動かし始めた。
鉢屋の蓮次である。
そのまま相合を通り過ぎ、多治比川に沿って吉田の城下に入る。
「葵屋」と牌(看板)のあがった旅籠の前で再び足を止めた。
――さて、どうしたもんか。
西の空の残光を眺め、もう一足伸ばすかどうか、蓮次は考えた。その表情は心が鬱した者のように暗く、眼は蛇のように光っている。客引きの女が、声を掛けることを一瞬躊躇してしまうほどの凶相だった。
「もうしお客さん――」
女に腕を取られて蓮次は我に返った。別人のように人懐っこい笑顔を作る。
「どちらへ行かれるかは知りませんけどねぇ。次に旅籠があるような村へは、今からじゃぁどんなに急いだって、着く前に真っ暗闇になっちまいますよぅ。山の夜道は色々と危ないですからねぇ。今日はもうお泊りになるのが上分別ってものでございますよぅ」
「あぁ、姐さんの言う通りかもしれねぇなぁ」
蓮次は引っ張られるままに暖簾をくぐり、式台に腰を下ろして草鞋を抜いた。
何度か利用したことがある宿である。この手の旅籠は大部屋で他の客と相部屋になるのが基本だが、幸い今日は空いていて、個室も残っていた。
「女はどうなさるね」
挨拶にやって来た宿の主人が気を利かせて訊ねた。
「呼んでもらうかな。この間の――おキネさんだったか――手が空いてたらアレに頼めるかい。ついでに酒と、何か食い物があれば有難いんだが――」
胴巻きから多めの銭を出して主人に手渡した。
この時代、旅籠では基本的に食事を出さない。鍋釜を借りることはできるが、焚き木となる薪を買って自炊するのが原則で、料理を出してもらうには食材と薪の代金と手間賃を別に払わねばならなかった。現代でも安価で粗末な宿泊所を木賃宿などと呼ぶが、これは薪代を払っていた中世の名残りである。ついでながら傀儡女を買えば、給仕から夜の伽までを務めてくれる。この手のいわゆる宿場女郎は江戸期には「飯盛」などと呼ばれ、幕府の厳しい取り締まりの下に置かれたが、日本に統一政権が生まれる以前のこの時代、法などはあってないようなもので、私娼は多かったらしい。
しばらくすると膳を抱えたキネが部屋にやって来た。
「あぁ、弥兵衛さんじゃったねぇ、薬売りの。呼んでくれてありがと」
さほど美人ではないが、笑顔が人懐っこい三十女である。
「久しぶりじゃねぇ。今度はどちらへ行きんさったの?」
キネは蓮次の膝元に膳を置くと、盃に酒を注ぎながら訊ねた。
「あぁ、石見の方を廻ってたんだがね。次は安芸にするか備後に行こうか迷ってね。とりあえず吉田まで出て来たんだが――」
「備後といえば、三次の市はえろう繁盛しとるらしいねぇ」
「旅籠の数なんかもこのあたりでは一等多いだろうなぁ。まぁでも、廿日市には及ばねぇよ。海から遠いからなぁ」
「あたしは海なんて見たこともないよぅ。あぁ、そうそう、廿日市といえば、あたしも死ぬまでに一度は厳島の大明神さまにお参りさせてもらいたいと思っとるんじゃけど――、弥兵衛さん、今度連れてっておくれよぅ」
蓮次が特にこの女を呼んだのは、すでに身体の繋がりがあって気心が知れているということもあるが、キネがとにかく話好きで、問わずとも色々な事をよく喋ってくれるからであった。
諜者にとって妓は格好の情報源である。その土地のなまりを覚えたり最近の様子を聞き込んだりするために、蓮次は他国に入るとまず女を買うことにしている。
「お前さん、いける口だったね。まぁ飲みなよ」
蓮次が勧めると、キネは最初こそ盃の縁を舐めるように遠慮していたが、もともと好きな性質なのだろう、少し酔いが入ると陽気になり、蓮次が注ぐたびに断りもせず次々と干した。
飯を食いつつ、取りとめのない話をする。
先ほど相合で築城の様子を見たと言うと、元綱の城を築いているらしいということをキネが教えてくれた。
この女は若い頃に吉田の農家に一度は嫁いだらしいのだが、数年経っても子を生めぬために離縁され、実家に出戻ったのだそうだ。実家はすでに兄夫婦のものになっていて、厄介者の彼女にすれば食い扶持くらいは自分で稼がねば肩身が狭いから、この旅籠で働くようになったのだという。飯炊きや掃除、接客といった仲居の仕事をしているわけだが、気に入った客が相手なら遊女の真似もするらしい。
蓮次が飯を食い終える頃にはキネはほど良く出来あがっていた。その膝の線は崩れ、裾からほっそりとしたふくらはぎが覗く。薄暗い部屋の中でそこだけが鮮やかに生白く、蓮次の好き心を刺激した。
蓮次はキネの腰を抱きよせ、裾の合わせ目に手を割り込ませた。
「あ、手悪さしたらいけん」
その深部に指を遊ばせると、キネは蓮次の肩にしなだれかかって切なげな吐息をついた。
「酒をくれねぇか」
女が捧げる盃から蓮次は酒を飲み、それを口移しにキネにも飲ませてやる。
「そういえば――、三月ほど前か、横田を通ったんだが、そこの河原に腐れ首が八つも並んでたんだ。ありゃ何だったんだろうなぁ。近くの村の衆が一揆でも起こしたのかねぇ」
ふと思い出した、という風情でそう水を向けると、
「あら、知らんじゃった?」
頬を真っ赤にしたキネは潤んだ眼で蓮次を見上げた。
「高橋のご隠居さまを亡きものにするのに、松尾の城に忍び込んだ曲者なんじゃて」
「へぇ、そりゃまた一大事だ」
指の反応を愉しみながら、適当に相槌を打つ。
「あたしは直接見たわけじゃねぇけんど――、元が何だか判らんくらいグチャグチャに焼けた首があったじゃろ? それが親玉やいうてね。高橋のお侍に槍で突かれて、今わの際に火の玉になって燃えたぁいう話じゃて」
「火の玉に? そんな阿保なことがあるかい」
「本当なんじゃて。あたしは、高橋のお侍から直接聞いたって人から話を聞いたんじゃけぇ」
横田と吉田はすぐ隣郷であるだけに、噂もよく伝わっているらしい。
「いったい、誰がそんな大それた事を企んだのかねぇ」
「なんでも、石見の方の、出羽家の遺臣がやったって話じゃけど――」
女はやや声を落とした。
「お、大きな声では言えんけどね・・・・」
「うん?」
「多治比の次郎さまが、出羽の遺臣を指嗾したんじゃろうって」
「多治比さまが? そんなはずはねぇだろう」
「ほじゃけど、多治比さまは郡山城のご幼君のご後見を務めておいでじゃろ。同じくご幼君を後見する高橋のご隠居さまを亡きものにして、毛利家の舵を一手に握ろうとなさったのじゃなかろうかて――、みんなそう噂しよるよぅ」
「へぇ――」
「多治比さまは、吉川から来たご内室を通じて出雲のお屋形さまとご縁戚じゃろう? 裏で出雲のお屋形さまが糸を引いとられるに違いないって・・・・」
なるほど庶民の見る眼というのもなかなか侮れない。
そもそも出羽の遺臣の仕業というデマを流したのは蓮次自身である。一犬虚に吠ゆれば万犬実に伝うというが、流した流言に勝手に尾ひれがついて、噂話に奥行きと信憑性が増し、むしろ現実味を帯びているのが面白い。
――出雲のお屋形さまが黒幕ってことになってるのは上手くねぇが・・・・。
まぁどうでも良いか、とも蓮次は思う。
「お床の支度が出来んようになるから、ちょっと待って・・・・」
意地悪な指の動きに堪えられなくなったのか、キネが掠れた声で訴えた。
「そんなもん後でいいさ」
口元で笑った蓮次は、そのまま女を板間の床に押し倒した。
蓮次が自分で床を延べ、腰が立たぬキネをそこに寝かせてやったのは、一刻ばかり後のことである。責められ続けたキネは無駄口を利く余裕もなかったようで、すぐに幸せそうな寝息を立て始めた。
手桶で濡らした手拭いで身体をぬぐった蓮次は、衣服を身につけると、脱ぎ散らかしたキネの小袖や帯を器用に畳み、それを枕元に置いた。女には優しい男なのである。
壁に背を預け、膳の上の徳利を掴み、残っていた酒を飲み干す。
「火の玉になって燃えた、か・・・・」
キネの言葉で、あの気の良い甲賀者のことを思い出した。
――蟇目たちの仇を早く取ってやらなきゃなぁ・・・・。
蓮次は吉田には用はなかった。彼が向かおうとしているのは北――。隣国・備後の三吉氏の属城である加井妻城である。
その縄張りを探るよう蓮次に命じたのは、銀兵衛という名の笛師であった。




