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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第四章 吹き荒れる腥風
33/62

暗闘(四)

 雨脚が少し強くなった。

 鼻をひくつかせてその匂いを嗅いだ蟇目ひきめは、

 ――良い塩梅あんばいじゃ。

 と独りほくそ笑んだ。

 この雨が明け方まで続けばほとんどの篝火は消えてしまうであろう。まるで今宵の仕事を天が援けてくれているようではないか――。

 蟇目たち八人の甲賀衆は、大狩山の南尾根を中腹まで下り、樹林の斜面を伝い、木陰の闇に溶けながら、鼠の群れのように山肌を横断していた。

 誰も口を利かず、ほとんど物音も立てない。

 やがて城を頭上に見上げる西側の断崖へと到った。

 松尾城は本丸が上下二段に分かれており、それぞれに居館がある。上の段の屋形は城主である高橋重光しげみつの住居で、下の段のそれは客殿であるらしい。蟇目たちが探ったところでは、標的である高橋久光は、下の段の居館を定宿にしているという。

 本丸の北側と東側には階段状に五つの曲輪くるわが作られていて、尾根になっている北西と南には巨大な堀切が横たわっている。一方、城の西側と南尾根の東側は断崖となっており、人が這い上がれるような傾斜ではないから曲輪は築かれていない。

 頭上に警戒しながら本丸の裾を巡るように移動した蟇目たちは、南側の堀切の底を這って横断し、その尾根の東側斜面に降りた。そこから慎重に城の南側へ廻り込み、本丸の下の段の真下を目指す。

 笹の藪の中を野生動物のように這い進んでいた蟇目は、茂った下草の間に細い紐が張り渡されていることに気付いた。足でも引っかけようものなら、番小屋の鳴子なるこが鳴る仕掛けなのであろう。

 ――用意の良いことじゃ。

 無言のまま手振りで仲間に注意を促し、さらに斜面を渡ってゆく。

 本丸は十丈(約三十メートル)四方ほどの広さがあり、周囲を土塁と板塀で囲われている。南東の端に二の丸へと続く虎口があり、その大きな櫓門は物見櫓も兼ねているらしい。敷地の四隅には二層建ての角櫓すみやぐらがある。そのすべてに不寝番が立ち、闇を睨んでいるに違いない。

 尾根も中腹までは樹林で覆われているのだが、城頭からの視界を確保するため、城の周囲は樹木が切り払われ、下草だけになった山肌が露出している。月夜であれば身の隠しようもなく、侵入者の影は櫓から丸見えであったろうが、この闇夜である。よほど夜目が利く者でも発見は困難であろう。

 もっとも闇が濃いあたりを選んで、蟇目たちは蜘蛛のように斜面に張りついた。両手の鉤爪を山肌に食い込ませ、少しずつ身体をせり上げてゆく。

 音立てぬように慎重に。

 やがて本丸の板塀の影が闇夜に浮かび上がった。南の角に角櫓すみやぐらがあり、その屋根の下から幽かな明りが洩れている。

 ――粗忽そこつな者があったものよ。

 蟇目は内心で嗤った。明りに慣れた眼では闇はまったく見通せないのである。せっかくの不寝番が意味を成さぬではないか。

 蟇目たちは呼吸を計り、一気に斜面を登り、素早く板塀に張り着いた。もし敵に発見されていれば、この時点で呼子が鳴り、松明を持った武者が騒ぎ出したであろうが、幸いにもその兆候はない。城は相変わらず静まり返っていた。

 板塀には矢狭間やざまが切られている。蟇目はそこから城内を覗き、影たちはそれぞれ地面や板塀に耳をつけ、付近の気配を窺った。

 人の動くような気配はない。

 板塀の高さは一間半ばかりである。一人が鉤縄を投げ、それを使って慎重に板塀を越えた。

 しばらくの沈黙があり、板塀がコツリと一度鳴った。

 合図である。残る七人が縄を伝って塀を越えた。

 地に降りると、まず土塁に沿って据えられた数個の篝火が目に入った。雨のために火勢は弱まり、よほど光量が減っている。正面に二棟の居館があり、桧皮葺の屋根とそれを囲う板垣、中庭の庭木などが見えた。板塀に沿って左手に角櫓、右手に巨大な櫓門がそびえ、それぞれの窓からわずかな明りが洩れている。

 それらを素早く見て取ると、八人は無言のまま連携を取りつつ居館の中庭に侵入し、庭木の影、板垣の影、庭石の影などに身を溶け込ませた。雨と風の他に何の音もない。見事な技術わざであった。

 中庭に篝火はなく、板垣の内側は非常に暗い。

 もっとも厄介なのは犬が飼われている場合である。念のために毒入りの肉団子も用意してきたのだが、どうやら必要はなさそうであった。

 忍びという生き物は、敵の城池の闇に身をひたしていることに密やかな愉悦を覚える。昼間の城は武士たちのものでも、夜の城は、その闇が続く限り己のものだという忍者独特のねじれた感性であり、血反吐を吐くほどの修練の果てに身に付けた己の偸盗ちゅうとう術に対する自己陶酔と言ってもいい。

 しかし今宵の蟇目は、その酔いが少しも湧いて来なかった。

 ――この城入り、容易であり過ぎたわ。

 そのことが逆に厭な予感となって、悪い酒でも飲んだときのような不快さだけが喉元にへばりついている。

 が、それでもここまで来て手ぶらで引き返せるものではない。

 蟇目は手で合図し、それに応じて二つの影が母屋に近づいた。

 音も立てずその杉戸を外し、廊下を窺う。

 室内に灯火はなく、光は漏れて来ない。

 二人は床に耳をつけて音を聞き、人の足音がないことを確認すると、脱いだ草鞋わらじ懐中ふところに入れ、縁にあがった。その足袋たびの足裏には綿わたが縫いつけてあり、音は皆無である。

 蟇目たちの探索では室内の間取りまでは判っていない。中庭に面するもっとも大きな部屋に当たりをつけた。

 その敷居に油を流し、音を立てずに障子を開いたとき、


「放て!」


 という声と共に、暗闇の中で弓弦ゆづるを弾く音が立て続けに響いた。

 杉戸が倒れ、十数本の矢を浴びた影が縁から転がり落ちる。

 ほとんど同時に呼子よびこが夜天に鳴り響いた。

 ――罠か。

 そう悟った蟇目は、


「散れ」


 と鋭く命じ、庭木の幹を蹴ってその太い枝へ跳び上がった。

 他の五人もそれぞれの方向に飛んでいる。

 呼子に呼応して櫓門では半鐘が打ち鳴らされ、闇の室内からは床板を踏み鳴らす複数の足音が殺到した。

 蟇目は腰の袋から五寸ほどの竹筒を三本取りだし、懐中ふところ胴火どうか(携帯用の火種)で導火線みちびに素早く火を点け、それをひょいひょいと投げた。これは「爆竹」と呼ばれる一種の手榴弾で、竹筒には火薬が詰められている。

 甲賀者の死骸のあたりで閃光が起こり、爆発が連続した。死んだ甲賀者たちの面貌を潰すのと同時に、室内から出て来た敵を轟音と爆風で驚かせ、その出足を牽制するのが狙いである。その狙い通り、部屋の奥から飛び出した十人ばかりの武者が爆発に巻き込まれた。彼らにすれば想像もできない反撃法であったろう。もちろん現代の手榴弾ほどの殺傷力はないが、それでも爆発を間近で受けた者は大怪我をし、あるいは吹き飛ばされて気を失うなどして、一時的に敵方が混乱した。

 甲賀の下忍は幼い頃から様々な術技を身体に叩き込まれるが、一般に刀術や槍術といった武技は学ばない。武技で身体を鍛えれば特定の筋骨が発達し、そのことで変装が見破られる可能性が増すからである。多くの甲賀者にとって白兵戦は必ずしも得手ではなく、その欠点を補うために戦闘は暗殺に特化し、毒を塗った得物や飛び道具で敵を仕留めることを主とした。蟇目もその例外ではなく、たとえば刀術などは並みの武士にも劣ったが、この男は火薬の製法と扱いに長じ、その火術は仲間の間でも一目置かれるほどであった。

 しかし、その蟇目の術技をもってしても、この状況を打開するのは容易ではない。

 どういう仕掛けかは判らぬが、蟇目たちがこの夜に松尾城に忍び込むことを敵方は察知し、待ち構えていたらしい。樹上から周囲を見渡すと、城内の建物という建物から武者が溢れ出し、本丸の上の段でも、二の丸、三の丸あたりでも、おびただしい松明が揺れていた。こうなると逃走経路は曲輪のない西方か南東の崖を転げ落ちるしかないが、そこには必ず兵が配されているであろう。

 ――これは覚悟せねばなるまい。

 と内心で呻いた。

 飛鳥のように闇空に身を躍らせた蟇目は、跳ねるように中庭を駆け抜けつつ、周囲の篝火の鉄籠かなかごに続けざまに煙玉を放り込んだ。轟音と共にそれがぜ、朦朦もうもうたる白煙が周囲を包む。雨が降っているので効果はほとんど期待できないが、わずかな時間稼ぎにはなるであろう。

 蟇目の意図を察して、五人の甲賀者たちがそれぞれの方向に駆けた。

 弓弦ゆづるを弾く音が連続した。鋭い風切り音と共に後方と左方から無数の矢が飛来する。めくら撃ちだが、運のない二人がその矢をまともに急所に受け、地に転がった。矢や槍のような刺突しとつ系の武器は、角度によっては鎖帷子では防げないのである。

 蟇目も薄手を負ったが、頓着している場合ではない。

 曲輪の端は五尺ほどの土塁となっており、その上に矢狭間やざまを切った板塀が立っている。蟇目は白煙を突っ切り、そのままの勢いで跳躍し、土塁を飛び越えて板塀の裏の木柵に取りついた。

 さらに横木を蹴って身体を跳ねあげようとした刹那、右方から夜気を切り裂いて手矢が飛んで来た。


「――!」


 辛うじてそれを刀で払う。

 雄偉な体躯の若い武者が、土塁の上で待ち構えていたのである。

 世鬼せき新太郎であった。

 新太郎は距離を詰めつつ二本、三本と続けざまに手矢を投げた。それを必死で払う蟇目に、さらに刺突の形で殺到する。片手で身体を支える蟇目がその槍先からのがれるには土塁から飛び離れるしかない。

 蟇目は舌打ちし、トンボを切って大きく後方に飛び、再び白煙の中へと落ちた。

 敵の攻撃をかわすことは身体に染みついた反射のようなもので、考えての行動ではない。時間にすればわずか五秒ほどの出来事であり、行動を選択するゆとりも後悔するヒマもなかったのだが、しかしあえて指摘すれば、これは蟇目の判断ミスであった。たとえ手矢を身体で受けても、槍で串刺しにされても、ともかく塀を越えて崖へと落ちねばならなかったのである。その傷が致命傷になるかどうかは食らってみねば判らぬわけで、同じ賭けならわずかでも生き延びる可能性がある方を選択すべきだった。

 曲輪の中に戻ることは、そのまま死を意味する。

 ――これまでじゃのぉ。

 そこが地獄であることを蟇目は知っていた。


「懸かれ!」


 新太郎の声に、角櫓すみやぐらと櫓門に潜んでいた武者たちが左右から白煙に向けて駆け込んだ。その数は五十に近い。飛び道具を警戒してか多くの者が戸板や矢楯に身を隠し、その背後の者は多数の松明を掲げている。もはや姿を隠してくれる闇も払われ、火遁かとんが利く状況でもなく、蟇目の刀術ではどうにもならない。

 ――せめてもの死土産に、甲賀の忍び武者とはどのようなものか、とくと見せてやろうわ。

 蟇目は素早く爆竹に火をつけ、それを腰の袋に戻し、殺到して来る武者たちの中心に飛び込んだ。

 突き出された槍が、胸を、腕を、腹を、背を、深々と貫く。

 己の身体を貫く槍を両手に握った蟇目は、壮絶な笑顔を見せた。

 そのまま爆竹が爆発し、その炎熱が袋の中の残りの爆竹を誘爆させた。薄れつつある白煙の中で凄まじい爆音が連続し、周囲の武者たちを巻き添えにして蟇目の身体は四散した。

 残る三人の甲賀者は、手持ちの飛び道具を投げ尽くすと、一人は敵の武者を道連れにして自死し、二人は死兵となって最後まで抵抗したが、全身に槍を受けてほどなく討ち取られた。


「終わったか」


 主君・高橋久光の身代わりとなって本丸の下の段の屋敷の寝所に陣取り、討ち手の指揮を執ったのは、世鬼政時である。

 政時が呼子を吹いてから、時間にすればほんの数分で戦闘は終息した。

 戦場となった中庭や土塁付近を検分した政時は、


「これほどの手負いと人死にが出ようとはな・・・・」


 と苦々しく呟いた。

 死者が十余人、軽傷まで含めると負傷者はなんと四十余人である。

 完全武装した兵をあらかじめ要所に配し、賊を城内深くまでおびき寄せておいて退路を断ち、いわば袋の鼠にしての殲滅戦であったにも関わらず、たった八人を仕留めるのにこれほどの血が流れるというのは、想像をはるかに超えていた。


「一網打尽か」


 二の丸にある屋敷の一室で、高橋久光はその報告を受けた。


「その何とかいう笛師の申した通りであったな」


「は――」


 政時はやや曖昧に頷いた。


「半信半疑――というより、十中八九は虚言か計略と思うておりましたが――。実際に賊がやって参りました上は、真実を申し述べておったと考えるよりないかと・・・・」


「次郎左衛門――」


 久光は顎をあげ、重臣たちのはるか下座に控える湯浅ゆあさ次郎左衛門という四十男に声を掛けた。


「その笛師に褒美を取らさねばなるまい。明日にでも城にのぼらせよ」


「あ、ご引見くだされますか」


 これは己の手柄をも認められたことになる。次郎左衛門は嬉しげに平伏した。



 この一日前の話である。

 深更の頃、松尾城の警備をする世鬼政時の元に、城主・高橋重光の重臣である湯浅次郎左衛門の家来がやって来た。

 次郎左衛門の屋敷は城下の横田村の集落にあるのだが、なんでもこの夜中に旅芸人が屋敷の門を叩き、容易ならぬ注進をしたのだという。


「我が主人あるじが申しますには、その芸人の話、いかにも面妖で、怪しいとは思うものの、内容が内容だけに笑って済ませるわけにもいかず、どうか世鬼殿に屋敷までご足労頂いた上、吟味して頂きたいとのことで――」


 容易ならぬ内容というのは、高橋久光暗殺の謀計であるという。その旅芸人が偶然にも盗み聴いてしまったというのだ。

 ――そんな都合の良い偶然があるか。

 と政時は思い、むしろその男が敵方の諜者でないかとさえ疑った。深読みすれば、それ自体が政時を松尾城から遠ざけるための姦計ということだってあり得る。

 が、湯浅氏は高橋家中では一門衆に名を連ねる重臣であり、次郎左衛門はその傍系とはいえそれなりの有力者である。話の内容が内容だけに、警備責任者たる政時の立場では放置することもできかねた。

 政時は息子たちに松尾城の警備を任せ、山を降りて城下の横田村へ向かった。

 徒歩でも四半刻もあれば次郎左衛門の屋敷につく。

 その門扉をくぐり、家来に案内されるまま母屋の廊下を渡っていると、中庭を通して書院から見事な笛の音が響いてきた。

 思わず足が止まった。

 政時は歌舞音曲には疎い。が、その音色が尋常でないということは判る。

 ――これは素人芸ではない。

 曲名は知らなかったが、その音色はどこまでも澄み、心が震えてしまうほどの哀調を帯びていた。

 客間に入ってゆくと、上座に座る次郎左衛門を前にして、連歌師のような格好をした男が笛を吹いていた。


「あぁ、世鬼殿、わざわざのご足労、申し訳ない」


 次郎左衛門の声で笛の音が止まった。

 再び男の方に顔を向けた次郎左衛門は、


「いや、実に見事なものだ。わしはこれでも十年ほど前に上洛したことがある。京では観世かんぜ座の猿楽を見、そこで様々な笛師の音を聞いたが、そちの笛は桧垣本ひがきもと彦兵衛ひこべえと比べても、優るとも劣らぬ」


 などと男を激賞した。


「とんでもない。笛彦兵衛ふえひこべえと申さば、今や天下一と目される名人――。わたくしなどは比べられるのも烏滸おこがましゅうございます」


「いやいや、そのように謙遜したものではないぞ。厳島の神人じにんなどにも笛の達者はあるが、これほどのを出せる者はまずおるまい」


 次郎左衛門は――ズレた話だが――政時の到着を待っている間に、すっかりこの旅芸人の笛の音に惚れ込んだものらしい。この男は武士としては臆病で、武将としては無能というに近かったが、文化的素養は低くなく、たとえば和歌をよくしたし、つづみを打たせればなかなかの達者であった。だからというわけでもないのだろうが、妙に通人ぶったところがある。


「先年討ち死になさった出雲のお屋形のご長子が、笛の名手であったと聞いたことがあるが――」


 そのくだらない話題を、政時は強い咳払いで一掃した。風流は武士のたしなみかもしれないが、政時はその点においては朴念仁で、歌舞音曲には興味もなければ理解もない。

 次郎左衛門の右手に席を取った政時は、下座の男を観察した。

 年は四十代半ばといったところか。丸めた頭の上に宗匠頭巾を載せ、垢じみた墨染の衣を着ている。背は五尺に満たぬであろう。眉が太く、眼も鼻も大きい。顎がよく張っており、髭の剃り跡が青々と濃い。どこか狛犬に似た強面こわもてだが、刷毛で描いたような眉尻が下がり、困ったようなその表情には奇妙な愛嬌がある。


「拙者は世鬼政時と申す。役儀により尋ねるが――」


 政時の問いに、男は素直に答えた。


「わたくしは銀兵衛と申します。笛師を生業なりわいにしております」


 両手を揃えて土下座のような辞儀をする。

 このような半僧半俗の芸術家は、この時代、そう珍しくはない。たとえば連歌師、傀儡子くぐつし、絵師、琵琶法師、太平記読み、放下師ほうかし(曲芸師)、声聞師しょうもんし、彫師、鞠師、算置かずおき(占い師)、陰陽師などがそれで、つまり身に付けた芸を活計たつきにしている人々である。多くの芸能にはそれぞれ「座」があり、それに属して一所に定住し、集団で芸を披露しているような者もあれば、宿場や市を流れ歩いて放浪している者もある。この笛師は後者なのであろう。

 こうした職能民たちは、もともと技術や芸能をもって朝廷に奉仕する供御人くごにんであったり社寺の神人であったりして、朝廷や社寺から庇護を受け、全国の関所を自由に往来する権利を古くから認められていた。土地に定住しない遊行民や芸能者は諜者が化けるには格好の存在で、それ自体は珍しくないとは言っても、怪しい相手であることに違いはない。


「して、この夜更けにわざわざ湯浅殿の邸宅に駆け込んだ仔細とは」


 政時が質すと、銀兵衛は次郎左衛門に語ったであろう内容をもう一度順序立てて語りだした。

 この男は、安芸から石見へ抜けるためにこの横田を通ったらしいのだが、横田の集落に入ったあたりで陽が暮れたため、集落の外れにある辻堂に一夜の宿を取ったのだという。雨漏りがひどかったが、須弥壇しゅみだんの裏あたりが比較的それが少なかったので、そこで横になった。夜中にふと目を覚ますと、外――つまり本堂の裏手で――ひそひそと話す声がする。物の怪でも出たかと恐ろしくなったが、聴きたくなくとも声は耳に入って来る。その話の内容が、どうも尋常ではなかった。


「畏れ多いことでございますが――、聴こえたままを申しますと、『明夜の深更』とか『松尾の城』とか『久光の首を取る』とかなんとか――。わたくしはもう、恐ろしゅうなりまして――。久光さまというのがご当家の大殿さまというのは先ほど教えて頂いたばかりなのでございますが――」


「それで?」


「はい。しばらく息をつめて震えておりましたが――、やがて声は聞こえなくなりました。わたくしはそれからまたしばらく様子を窺っておりましたが、誰もおらぬようなので、須弥壇の裏から這い出しまして、ともかくもこの事を誰かにお報せせねばと、この辺りで一番大きいお屋敷の門を叩いたという次第で――」


「ふむ・・・・」


「狐にでも化かされたのかとも思うたのですが、話の内容が内容でございますし、黙っておっては後生も悪うございます。夜中にご迷惑かとも思いましたが、一刻も早くお報せする方が良いかとも思いまして――」


 どうにも話が出来過ぎている。

 政時の感覚では、備後での暗殺者たちはその道の玄人である。大事がこのような形で漏れるとは考え難い。

 ――こんな胡乱うろんな話を信じられるか。

 とも思うのだが、しかし、万が一ということもある。

 政時は松尾城に戻り、賊を取り込めて返り討ちにする計略を立て、武装した兵を要所に配し、兵たちには作戦と毒や飛び道具への対処を周知し、主君の高橋久光を密かに二の丸に移すなど、翌夕までに迎撃態勢を万端整えた。

 無論、銀兵衛が敵方の諜者という可能性も捨て切れないわけで、次郎左衛門の屋敷に逗留するという形でしばらく軟禁することにしたのだが――。

 その結果が、今夜の大立ち回りである。

 笛師の言葉の通り賊は松尾城に侵入し、それを待ち構えていた高橋方は敵を文字通り殲滅した。事前に入念の準備をしていたからこそ、逃がさず討つことができたと言えるであろう。

 政時は人並み以上の猜疑深さと用心深さを備えていたが、

 ――あの笛師、少なくとも当家に害ある者ではないらしい。

 と理解せざるを得なかった。

 その翌日、高橋久光は銀兵衛を松尾城に招き、褒詞と褒美を贈った。


「わたくしなぞは何もしておりませぬのに、もったいないことでございます」


「そちは見事な笛を吹くと次郎左衛門から聞いた。阿須那あすなを通る折りあらば、藤掛城を訪ねて参るがよい」


 久光の言葉に恐縮し、殊勝な顔で頭を下げながら、銀兵衛は内心で嗤っている。

 ――高橋家中に知己を作ること。

 ――その信頼を得ること。

 ――標的である高橋久光の顔を実際に見ること。

 甲賀衆をダシにし、湯浅次郎左衛門に仕掛けた銀兵衛の「忍術」は、ほぼ目論見通りに成功した。



 半月ほど時間を遡らねばならない。

 出雲の月山富田城――。

 その大東平おおひがしなりと呼ばれる曲輪にある屋形の書院で、亀井秀綱は酒を飲んでいた。

 備後で安芸の国人一揆軍と戦い、それを追い払い、まさに戦陣から帰国したばかりである。ようやく激務から解放され、多少の気のゆるみもあったかもしれない。普段は夜食に寝酒を嗜む程度であったが、この夜は量が違っていた。主君である尼子経久が開いてくれた慰労の宴で同僚たちと酒を酌んだ後、屋敷に帰ってからも飲み続けているのである。もはやどれほど干したか判らぬほどであった。

 灯明の芯が幽かな音を立てながら燃えている。そのほむらを見つめていた秀綱は、だらしなく崩した足を組みかえた。

 ――今宵あたり、来ぬかな。

 この若者は、ある男の来訪を待っていた。

 備後の戦陣から父の永綱に手紙を送り、京へ使いを出してもらったのは十日ほど前である。忍びの中には一夜で二十里を駆ける者もあるという。あの男なら、秀綱の帰国を待っていたように眼前に現れたとしてもおかしくはないであろう。

 ――いや、そもそも銀兵衛がわしの呼び出しに応える気があるかどうか。

 使者はまだ帰国してないから、首尾がどうなっているかは判らない。

 ただ、あの男がいずれやって来るであろうことを、不思議と秀綱は疑っていなかった。

 銀兵衛に初めて会ったのは、もう二年ほども前のことになる。時間が経ってから思い返してみると、あの時のことは不思議なほど腹が立たず、それどころか奇妙な懐かしささえ感じてしまっている自分がある。

 ――思えば、あれに似た型の男を、わしは他に知らぬ。

 同じ鉢屋者である鉢屋弥之三郎などと比べても、銀兵衛の言動や振る舞いはよほど変わっていた。

 傍若無人にして、唯我独尊。

 その態度は、職人気質かたぎにも通じる精神と、己の技に対する矜持とをもって、たった一人で世間と対峙しているかのようだった。あの男が誰にも仕えず、何にも属していないからであろう。

 秀綱は主人のために働くことを至上の原理とする武士であり、その社会の中で生まれ、その組織の優秀な官僚として生きてきた。そこから逸脱することはあり得ないが、一方で秀綱も一個の男である以上、己の力のみを頼りに自由気ままに生きる銀兵衛のような存在に、ふと、ある種の羨望を覚えぬでもない。自分のなかのその傾斜に気付いた時、秀綱は、銀兵衛のような男に――悲痛でもあり滑稽こっけいでもあるその存在に――微笑を向けてやりたいような気にさえなった。

 ――お屋形さまも、先代・銀兵衛の話をなさる時は、かおをなされていたな。

 御殿育ちのこの若者が、人として少し大きくなった証左と言えたかもしれない。


「すごした――」


 と独りごちて、秀綱は盃を伏した。

 かなり酔いが回り始めている。

 そろそろ寝所に引き取ろうかと考えた時、


能登のと殿よ」


 という声が、どこからか響いた。

 秀綱は周囲を見回した。が、部屋に異変はない。


「ずいぶんと酔うておられるようじゃ。今宵は出直した方が良いかな」


 笑いを含んだ声がする。しかし、姿はない。

 ――相も変わらず不埒ふらちなヤツじゃ。

 中庭に面する障子を開け、夜の庭に眼を凝らす。闇の中までは見通せないが、光の届く範囲には異変は見当たらない。

 次いで次室の襖を勢いよく開くと、そこに控えていた近侍が驚いたように平伏した。その部屋にも他の人影はない。


「如何なされました」


「屋根裏か、床下か――、曲者が入り込んでおる」


 苦笑しながら言った。


「人を入れてあらためよ」


「は。しかし――」


「なんじゃ」


「その必要はなかろうかと存じまする」


 と応えた近侍が、急に面を上げた。

 さしもの秀綱も一瞬絶句した。声や衣服こそ近侍のものだったが、しかしその顔は、近侍のそれではなかったのである。


「銀兵衛――」


 ボサボサだった蓬髪を武士らしく結いあげてはいるが、どこか狛犬に似た特徴的なその顔は忘れるものではない。


「お久しぶりでござるな。能登殿も壮健そうで何よりじゃ」


 銀兵衛は屈託なく笑った。


「いつも人を喰った現れ方をするな。ここにおったはずの男はどうした?」


「連日のお勤めでお疲れであったのであろう。この次の間で寝ておるよ」


 言葉もないとはこのことである。


「そのように酔うておられては足元がおぼつかぬ。転ぶ前に座られたらどうか」


「余計なお世話じゃ」


 秀綱は苦く吐き捨て、文机の前のいつもの位置に腰を下ろすと、「お前も入れ」と銀兵衛に促した。

 銀兵衛は気軽に立ってずかずかと敷居をまたぎ、客の位置に座った。


「さて、わざわざ呼ばれた御用は何じゃ」


「折り入って――、仕事を頼みたい」


「ほうほう――」


 銀兵衛はニヤニヤと笑った。


「能登殿ともあろう方が、このわしに仕事を、な。鉢屋の手は足りておるのではなかったかな」


「厭味を申すな。用がなければわざわざ呼びはせぬ」


「ふむ。そりゃ道理じゃな」


 その率直な言葉が気に入ったらしい。銀兵衛はやや表情をあらためた。


「――して、その仕事とは?」


「少し待て。弥之三郎をここへ呼ぶ。その方が話が早い」


 報せを受け、鉢屋なりという曲輪の屋敷から鉢屋弥之三郎が飛んで来た。

 次室に入って来た弥之三郎は、敷居をまたぐや開口一番、


「能登守さま、なにゆえこのような胡乱うろんな者をお呼びになられたのか」


 と露骨に不満げな顔をした。


「不服か」


「不服――、とまでは申しませぬが、面白うはありませぬな」


 弥之三郎と銀兵衛は同世代である。同じ鉢屋賀麻がま党に属した過去があり、幼馴染と言ってもいい。銀兵衛の父である先代・銀兵衛が出雲を去って以来、二人はもう三十年近く顔を合わせてないはずだが、弥之三郎は不快そうに銀兵衛に一瞥をくれただけで、声さえ掛けなかった。


「我ら賀麻党の者にとって、先代の銀兵衛は党を抜けた裏切り者でござる。三十年前、お屋形さまの格別のご慈悲により、罪は不問ということになりましたが、そうでなければ我らの手でころしておりまするわ」


「あはは、面白いことを申されるな」


 銀兵衛が嘲笑した。


「お前さまの手の内に、わしや親父殿を討てるほどの手練れがおるものか。もしそれがおるとすれば、わしがこうも易々とこの城に忍び込める道理があるまい」


 その言葉に弥之三郎は眼を怒らせた。

 馬の合わぬ相手、いけ好かぬ相手というのは実際あるもので、それは餓鬼の時分も壮年となった今でも、そうは変わらぬのであろう。

 ――弥之三郎め、よほど銀兵衛が嫌いと見える。

 普段はほとんど感情を表に出さず、肚の読めぬ男であるだけに、秀綱はそのことが可笑しかった。


「まぁ、古い話はこの際どうでもよい」


 秀綱は話を仕切り直し、雇った甲賀衆が備後の戦陣で高橋久光を討ち損じた顛末を短く語った。


「噂には尾ひれが付くものでござる。化生けしょうなどと大げさに語られてはおっても、実際はたいしたことがなかったというだけでござろう。やはり我が手の者どもを使うべきでござった」


 弥之三郎が言うと、


虚仮こけなことを申されるわ」


 銀兵衛は失笑した。


「弥之三郎殿よ、わしは京で暮らしておるゆえ、甲賀、伊賀といったあたりの忍び武者のことはよう知っておる。存じよりの者もある。甲賀者の忍びの術技は、お前さまなどはその足元にも及ばぬほどに優れておるぞ。詳しゅうは知らぬが、甲賀の衆が陰忍いんにんで事を仕損じたということは、その高橋久光、忍びか兵法の手練れに幾重にも守られておるということであろうよ。甲賀の者らができぬことを、お前さま手飼いの衆が仕遂げられるわけがあるまい」


「なんだと」


 弥之三郎は顔色を変えた。


「まぁ、怒るな」


 銀兵衛はニタニタと笑っている。


「お前さまやその手下の者どもは、すでにご当家の侍じゃ。侍には侍の得手があり、忍びには忍びの領分があるということよ。侍が忍びの気分だけを真似たところでどうにもなるまい」


 弥之三郎のこめかみのあたりがヒクヒクと動いた。よほど頭に来ているらしい。

 秀綱は苦笑した。


「銀兵衛、なぶるな。この仕事、尼子の名があらわれるわけにはゆかぬゆえ、いずれご当家の者は使えぬのじゃ。それはそれとしても――」


 思案顔で腕を組む。


「その甲賀の忍びの優れた技をもってしても討てぬとあれば、大九朗を仕物に掛けるは、無理か・・・・」


「無理とは申しておらぬ。なに、陰忍では到れずとも、陽忍ようにんならでは到れる場所もござろうわい」


「昔から口だけは達者よな。銀兵衛、お前は高橋の隠居を陽忍で刺せると申すのか」


 弥之三郎の声が自然と挑発的になる。

 陰忍とは己の姿を見せずに敵に仕掛けることを指し、逆に陽忍とは己の姿をさらして敵に仕掛けることを言う。闇夜に乗じ、後ろから敵を刺すのが陰忍なら、堂々と我が姿を見せ、前から敵を斬るのが陽忍である。


「『術』の何たるかを知らぬお前さまは口出し無用に願おう。能登殿よ、わしにすべて任せるか? 能登殿が辞を低うして『頼む』と申されるなら、親父殿の事もある、一度限りは手を貸してやらぬでもないぞ」


 銀兵衛は不敵に笑った。

 ――どこまでも不遜ふそんな男よ。

 それが頼もしくもあり、腹立たしくもある。


「お前なら出来るか。出来るというなら、手段を問う気はない。どれほど時間が掛かる?」


「すでに一度仕損じたようじゃからな。そのほとぼりが冷め、相手の気が緩むまでは待ってもらわねばならぬ。まず半年から一年というところかな」


「・・・・よかろう」


 秀綱は不快さをぐっとこらえ、


「銀兵衛、頼む」


 と頭を下げた。



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