暗闘(三)
その夜、世鬼新太郎が感じたのはほんのわずかな違和感だった。いや、違和感というにはそれは幽け過ぎて、虫の報せという方が近かったかもしれない。
前方の闇を睨む。
見えないほどの細かな雨が静かに落ちている。
眺める世羅盆地の風景に異常はない。敵陣の様子にもこれといった変化はなく、黒々とうずくまる山の闇の中に篝火の小さな明りだけが無数に明滅していた。
――気のせいか。
もちろんそうに違いない。
しかし新太郎は、己のそういう勘働きを大事にしていた。過去の多くの戦場で、それに何度となく救われてきたからだ。
新太郎は数日前に組みあがったばかりの物見櫓の上にいた。屋根板の隙間から垂れる滴が鎧の袖を容赦なく濡らして、霧雨と汗のせいで鎧下着は重く湿っていた。
もう一度闇に目を凝らす。
この辺りは楕円形のお盆の縁のように低い丘が隆起している。盆地の中心を川幅広い芦田川が前方へ向けて流れ、半里ほど先には世羅の集落がある。田植えを終えたばかりの田が川の左右に並び、田には一面に水が張られている。あと二刻もすれば夜も明け、昨日までと変わらぬ風景が眼前に広がるはずであった。
備後の世羅郡はもともと高野山の荘園が多くあった地域で、武家の横領によって飛び地の領地が錯綜したため、統一的な支配が難しく、この辺りでは大きな豪族が育たなかったらしい。新太郎が属する高橋氏の軍勢は、安芸の国人一揆の同盟軍と共に、向原のあたりから東進して一気に世羅郡の中心まで進み、現在の世羅町役場がある世羅盆地を東に望む小高い丘のような山に布陣した。その左右の高地には、友軍である毛利氏、吉川氏、小早川氏、平賀氏などの軍勢がそれぞれ陣を敷いている。半里ほど先の右手にそびえる甲山とその周囲の高地が敵の陣である。そこに布陣するのは備後中部の豪族である有福氏と、山内氏傘下の豪族たちだ。
この闇の中で見えるものと言えば、それらの陣で燃える篝火くらいしかない。
「小太郎――」
新太郎は櫓の下で憩んでいるはずの弟に呼びかけた。夜の陣中で大声を出すわけにはいかないから、ほどほどの小声である。
三度ほど呼ぶうちに、弟が下から梯子を使って上がって来た。
「なんじゃ、兄者」
「すこし早いが、見張りを代わってくれんか」
「それは構わんが――、何かあったのか?」
新太郎の様子に不審を持ったのであろう、弟は訝しげな顔をした。
「いや、何ということもないんだが――、何やら厭な感じがしてな。そこらを少し歩いてくる」
「厭な感じ――か・・・・。お得意の勘働きだな」
弟は茶化さなかった。今宵は月も星もなく、おまけに雨まで降っている。夜込みや夜襲を行うにはうってつけの条件なのである。
「兄者の勘は悪い方にばかりよう当たるからな。わかった。代わろう」
小太郎は軽捷な動きで櫓の中に入り込み、入れ替わって新太郎は櫓の柱に取りついた。
ちなみに弟は諱を政矩といい、新太郎の三つ下である。新太郎の諱は政定という。年齢は二十六になる。
櫓を降りた新太郎は、傍にいた数人の下士に本陣周りを油断なく警護するよう命じ、山頂に築かれた即席の陣屋を見回り始めた。
静かな夜である。異変の気配は微塵もない。
新太郎は、足の向くまま幕舎と幕舎の間を歩いた。それぞれの周囲に篝火が焚かれ、警備の雑兵が立っている。雨は霧のごとく細かく、篝の火勢を弱めるほどではないが、白い煙が薄くたなびいていた。
まっすぐに歩くと本軍の陣所を仕切る木柵に突き当たる。
――少し山を下ってみるか。
柵に沿って数間ごとに篝火が燃えており、その先に木戸がある。木戸の傍に二人の武者と十人ばかりの雑兵が守りについていた。
「お、誰かと思えば新太郎殿ではござらんか。なんぞありましたか」
物頭らしい男が慇懃に訊ねた。
「いや、ただのそぞろ歩きです。ついでにそこらを見回っておこうと思いましてね」
気軽な口調で返した。
新太郎の父である世鬼政時は、高橋家中で忍兵頭を務めている。いわば警備責任者と言ってよく、その長男である新太郎を知らぬという者はこの陣所の中にはいなかったであろう。
異常がないことを確認した新太郎は、木戸を抜けて坂を下り始めた。
山頂付近は雑木が切り払われ、重臣たちのための陣屋や幕舎が建てられているが、坂を下り始めるとそれらがなくなり、雑木の隙間やわずかな平地に小部隊がそれぞれに駐屯し、板や幕で小屋掛けして雨をしのぎつつ憩んでいる。山麓まで山肌のあちこちで篝火が焚かれ、その付近に必ず不寝番の武者が警備に立っていた。高橋軍は総勢にすれば二千人以上の大軍勢である。新太郎と同じ様に、少なくとも二百人以上の男たちが今この瞬間も変事に備えているはずであった。
人がおらぬ場所は雑木と雑草が生い茂り、夜空を覆うほどに枝が繁茂している。木々の陰、下草の間には黒々と闇がうずくまり、明りはほとんど届かない。見通しは悪く、夜目が利く新太郎の眼をもってしても歩くことに難渋した。
時おり生ぬるい風が南から吹いて来る。それに気付いた新太郎は、風下の北に足を向けた。忍びは一般に音や匂いが伝わりやすい風上を嫌うからである。
四半刻もそうして山肌を歩いただろうか。
新太郎はさすがに己の勘が取り越し苦労であったように思えてきた。
――そろそろ戻るか。
何事もなければ、それはそれで良いのである。
踵を返してしばらく歩いた時、梟だろうか、夜鳥の鳴く声が幽かに聞こえた気がして、新太郎は動きを止めた。
気配を断ち、そろそろと木の陰に身を隠す。
しばらくすると、別の方角でも同じような夜鳥の鳴き声が響いた。また別の方からも聞こえた気がした。夜鳥が鳴き交わすことは珍しくないが、雨夜は梟さえ狩りを嫌がるものだ。
新太郎の疑念は確信に変わった。
――犬を連れて来るべきだったな。
犬の嗅覚、その危機察知能力は、人のそれよりよほど信頼できる。藤掛城には警備のために数頭の犬を放し飼いにしているし、主君の外出時は常時連れて歩いていたのだが、今回は戦陣ということで置いてきたのである。
本来であれば、この時点で呼子を吹き鳴らし、陣中に警戒を促すべきであったろう。騒ぎが大きくなれば、あるいは曲者もそのまま何もせず去ったかもしれない。
しかし新太郎は、曲者の出現をむしろ望んでいた。曲者を斃すか捕えるかして、敵の正体を知ろうとした、というのが自分に対する言い訳であろう。実際は、派手な手柄を立てたいという若々しい欲がこの若者を動かしていた。
新太郎は己の頸さには満腔の自信を持っている。六尺を超える雄偉な体躯は肉厚な割りに軽捷で、相撲を取っても駆け比べをしても家中で新太郎に敵う者はない。その刀術は「念流」という古流剣術の系譜を引き、世鬼家の先祖が駿河にいた時代から連綿と練ってきたものだ。世鬼一族の武技は高橋家中では評価が高く、中でも父の政時は家中随一の剣の遣い手とされているのだが、新太郎の力と技は、すでにその父の全盛期をさえ凌ぐと父自身が認めるほどであった。
新太郎は気配を消したまま少し道を戻った。陣所と陣所の隙間の闇の濃い場所で、灌木が比較的少ない地点を見つけると、その下草の闇にうずくまった。
雨が物音を消し、さらに視界を悪くしている。
新太郎は息を細くし、五感を磨ぎ澄まし、意識を集中した。
ずいぶん長く待ったようにも感じたが、時間にすればほんの十分か十五分であったろう。小枝を踏み折るような音を幽かに聞いた気がした。
新太郎は耳を地に付けるように顔を下げ、闇を透かした。
――見えた。
動悸がにわかに激しくなった。
木陰から木陰へ、闇を拾うように素早く動く影がある。数は二つ。やや距離を保ちながら山肌をすいすいと登って来る。この夜中に松明も持たず、怪しげな動きをしているという時点で、敵と断定すべきであろう。
新太郎は曲者たちの登り道を想定してじりじりと自分の位置を変えた。音を立てぬように細心の注意を払う。役目がら新太郎は物見などに出ることも多く、鎧が発する音を嫌って鉄ではなく皮の札を縅した鎧を着ている。雨も幸いしたのであろう、敵に気づかれた様子はなかった。
――片方を斬り、もう片方を捕える。
一人目をあえてやり過ごし、二人目の影がほんの二間ほど先まで近づいた時、下草の間から矢のように飛び出した。
影はぎょっとしたように一瞬動きを止めた。前の影が通った跡は安全と油断していたことがこの男の地獄であった。新太郎は駆け違いざま、とっさに宙に跳ねあがろうとした男の胴を抜き打ちに斬った。
――!?
金属が擦れ合う耳障りな音がした。
刀から伝わる手ごたえの異様さに新太郎は事態を悟った。曲者は鎖帷子を着込んでいたのである。刀は「引き斬る」ことで最大の威力を発揮するが、鎖帷子が相手では刃こぼれするのが関の山で斬れたものではない。刃は肉まで通らず、血がしぶくこともなかった。
が、新太郎の凄まじい斬撃は曲者を吹き飛ばし、その肋骨の二本を砕いていた。折れた骨が内臓に刺さったのであろう、地に落ちた男は転がって悶絶し、血反吐を吐いた。人間は内臓だけは鍛えることができないものだが、しかしこの男は呻き声さえ洩らさなかった。それが忍びとしての最後の誇りであったろう。
この瞬間、男に止めを刺すだけの時間と余裕が新太郎にはあった。
しかし、
――生きたまま捕えられる。
という甘い観測がそれを躊躇させた。
先に駆け過ぎた影が背後で起こった異変に気付き、腰帯の後ろに差していた刀を逆手に抜き、無言のまま斜面をすべるように駆け降りて来た。
それに正対した新太郎は刀を正眼に構え直す。
男と新太郎との距離はまだ五間(約九メートル)以上離れていたであろう。いきなり黒装束が宙に跳んだ。さらに雑木の幹を蹴って高く舞い上がる。
「――!!」
その異常な跳躍ぶりは新太郎の想像さえはるかに超えた。男は空中で持ち替えた刀を振りかぶり、白刃が凄まじい速度で落ちて来る。新太郎は間合いの算定を完全に誤り、迎撃する余裕を失った。
「曲者ぞ!」
叫びつつ左に転がり、即座に態勢を立て直し、さらに大声で叫んだ。
「おのおの、出合え候え! 曲者じゃ!」
その声が終わらぬうちに、男が投じた「何か」が新太郎の鎧の大袖に突き刺さった。
ほとんど同時に男の白刃が迫る。
新太郎は刀の握りを返し、峰で敵の刀身を下から弾き上げ、体勢の崩れた影を大上段から袈裟に打ち据えた。一連の動作が凄まじい早業である。純粋に刀術だけで比べれば、男は新太郎の敵ではなかった。その一撃は男の左肩の骨を粉砕し、鎖骨を割り、胸骨の二本目までを折った。
――仕留めた。
と思った。
それが新太郎の油断であったろう。
男は新太郎に身体を預けるように崩折れながら、佩楯の横から新太郎の太ももに針のような物を突き刺したのである。
気付いて反射的に跳び離れたため、それは肉に一寸ばかり突き立ちながらも深々と刺さる前に抜け、地に落ちた。長さ七寸ばかりの鉄の棒で、片方の先端が鋭利に尖っている。大袖に刺さっている物と同じ――棒手裏剣と呼ばれる武器だ。
――毒!?
その恐怖がよぎった。
すぐに小柄を抜き、片膝をついて袴を破り、太ももの傷を露出させると、その傷口まわりの肉をえぐり取った。血がどっと噴きこぼれる。
「ぐっ・・・・!」
軽い目眩がした。わずかながら毒が身体に回ったらしい。
その状況で新太郎が背後の幽かな異変に気づくことができたのは、長年の兵法修行の成果というより、むしろこの若者独特の勘働きであったろう。振り向いた新太郎が見たものは、先に斃した方の男が、地に伏したまま星型の手裏剣を飛ばした瞬間であった。
濃い闇の中のことであり、男が何を投げたのか、正確には新太郎には見えていない。しかし、考えるより先に身体が反応した。反射的に地に身体を投げ出し、必死にその「何か」をかわした。
転がって起き上り様、新太郎は脇差を手裏剣打ちに投げた。恐怖に対する反射のような行動である。男は満足に動くことさえできぬ身体であり、脇差は狙いを違わず首元に深々と突き刺さる。断末魔さえ上げず、男は力尽きたように顔を伏せ、動かなくなった。
「・・・・・・・」
新太郎は地に屈んだ姿勢のまま荒く呼吸しながら、あたりを窺った。
黒装束の男たちは二人とも動かず、息遣いさえ聞こえない。脇差を受けた男は間違いなく死んでいるであろう。うつ伏せに倒れているもう一人の方に恐る恐る近づいてみると、男は自ら棒手裏剣を首に突き刺し、すでに自死していた。
「こやつら――、いったい何者だ・・・・!」
慄然として呟いた。
これまで戦場で出会ったいかなる敵と比べても、男たちはまったく異質であった。終始一言も喋らず、音すら立てずに死んでいったというだけでも異様である。物の怪と戦ったような不気味さだけが残った。
先ほど叫んだ声に反応したのであろう、すでに周囲では宿直の者たちが騒ぎだしている。新太郎があらためて呼子を強く吹き鳴らすと、憩んでいた者たちも次々と目を覚まし、すぐさま活動を始めた。本陣の警護に駆けてゆく者、敵を逃がさぬために陣屋の木戸を閉ざして警戒する者、篝火を増やして回る者、賊を探して右往左往する者――。
やがて山全体が無数の松明の動きで騒然となった。
「おぉ、世鬼殿のご長子か。曲者を仕留めなされたか」
近くの陣所にいた武士が数名の雑兵と共に駆けつけてきた。
新太郎は太ももの止血をしながら状況を手短に説明した。
「忍びの死骸などめったに拝めるものではござらぬぞ」
そんな軽口を利いて笑ったのは、萎えそうになる気力を奮い起こすためだ。先ほどから全身に脂汗が流れ、悪寒がひどい。
曲者の遺体を本陣へ運ぶよう男とその家来たちに頼むと、新太郎は足を引きずって山肌を登り始めた。
陣所の中はどこも人の動きが慌ただしい。ただ、騒ぎ回っているのは高橋方の雑兵や武士たちばかりのようで、戦いの喧騒といったものは聞こえて来ない。賊はあの二人の他にもおそらく複数いたはずだ。あるいは騒ぎを怖れて逃げてくれたものか――。
本軍の陣所の木戸を抜け、本陣の周囲に植えられた木柵の前まで来ると、父の政時が十数人の家来を従えて防備についていた。弟の小太郎の姿も見える。
「新太郎!」
息子の様子が尋常でないことに、政時はすぐさま気付いた。その武技の力量を誰よりも知っているだけに、驚きは小さなものではない。
「手傷を負うたのか」
「かすり傷です。毒を抜くため自分で肉を削ぎました」
「毒――」
「殿はご無事ですか? こちらに賊は参りませなんだか」
「あぁ、大事ない」
逃走する二つの影を見はしたが、取り逃がしたという。
その言葉を聞いて安堵したのであろう、新太郎は崩れるように倒れ、そのまま意識を失った。
息子を金創医の元へ運ばせた政時は、引き続き本陣まわりの警護を続けた。
しばらくすると、戸板に載せられた曲者の遺体が本陣へ運ばれて来た。
「これが新太郎が斃したという賊か・・・・」
明るい場所で検分してみると、男たちの衣服は黒ではなく、正確には深い濃紺であった。筒袖の小袖の下に鎖帷子を着込み、裁付袴を穿き、手甲、脚絆で手足を固め、頭巾をかぶり、覆面で目から下を覆っている。持っていた刀が特徴的で、柄(握り)の部分が長く、無反りで刀身が細く、しかも毒が塗られていた。さらにその懐からは、星型に刃が付き出た車剣(手裏剣)、棒手裏剣、苦内、鉤縄、石筆、毒薬などといった忍具が出て来た。どれも特殊な道具であり、野伏りあたりの持ち物ではない。いずれ筋目ある忍び武者であろう。
――甲賀者か、あるいは伊賀者か・・・・。
政時も裏の世界の人間であり、甲賀、伊賀といったあたりの忍者の噂はかねて聞いていた。しかし、実際にそれと戦ったのは初めての経験である。
――おそるべき者どもよ。
曲者たちが使った武器にはことごとく毒が塗られ、いわば暗殺に特化していた。同じ忍び武者でも、元が武士である政時やその家来とは根本的に価値観が違うのであろう。
「どこの誰が雇い入れたものか・・・・」
敵の正体が知れぬだけに、問題は厄介であった。
騒ぎは徐々に鎮静化した。佐々部、岡、湯浅といった重臣たちが、家来を引き連れて本陣に集まって来た。
持ち寄った情報を総合すると、曲者は死んだ二人の他にも複数いたらしい。二人一組で行動していたようで、曲者を発見した(出会ってしまったというべきであろう)高橋方の雑兵たちは、多くが飛び道具によって傷つけられ、実に三十人近くが毒に苦しみ抜いて死んだという。
「なんということだ・・・・」
政時は暗澹とした気分で呟いた。
敵の忍びを防ぐことは、忍び武者を統べる政時にとってもっとも重要な役目である。大事に至らなかったのは幸いであったが、政時が忍兵頭となって以来、最悪の醜態であったと言っていい。確かに手下には多少の油断があったかもしれないが、警備態勢に手落ちがあったとは政時には思われない。それだけに、その警戒網を潜りぬけて陣中深くまで潜入し得た敵の技量を認めぬわけにはいかなかった。
その頃、外の騒ぎで目を覚ました高橋久光は、本陣の幕舎の寝所でのそりと身体を起こした。
枕元の刀を引きつけ、
「たれかある」
と声を掛けた。
鰻幕一枚を隔てて、十人の宿直の武士がそれぞれ刀を引きつけて座っているはずである。
宿直の小姓が返事をし、数人の人間が動く気配がした。
「幕を開けよ。陣中のことゆえ礼は無用じゃ。騒ぎの元はなにか。甚介が近くにおれば、ここへ来るよう申しつけよ」
駆けだした小姓は、本陣の柵の前で目当ての世鬼政時と行き会った。
政時が寝所へ伺候すると、主君の久光は不機嫌そうな顔で横臥し、肘枕をついて待っていた。その枕元には、若殿である興光が小具足姿で座っている。
「敵の夜込みか?」
「は。何者かが殿のお命を奪わんと陣中に忍び入ったもののようにござる。愚息が二人までは討ち果たしましたが、他はとり逃がしました」
ふん、と鼻から息をついた久光は、
「経久めもついに知恵の泉が尽きたか。忍びを使ってわしを暗殺しようとは、姑息な手を選んだものよ」
と吐き捨てるように言った。
「いや、必ずしも尼子経久の仕業とは限りませぬぞ。今宵の賊は、野伏り夜盗の類ではござらぬ。彼奴らが使った得物にはことごとく毒が塗られておりました。おそらくは甲賀、伊賀といったあたりの忍び武者でござろう」
不思議なのは、敵軍が動かなかったことである。忍びを夜込みに使うなら、高橋軍の陣の混乱に乗じ、夜襲を仕掛けるというのが戦術の常道であろう。当然そうあるものと政時は覚悟し、重臣たちに進言して全軍に戦支度をさせたのだが、尼子方の豪族たちの陣に目立った動きはなく、山野は静まり返っている。
政時がそう指摘すると、
「それは――、まぁ、確かに腑に落ちぬな・・・・」
久光は首を捻った。
今夜の騒ぎと敵軍とは連動していなかったのか――。
だとすれば、忍びを放った人間を特定するのは難しくなる。甲賀者、伊賀者といった連中は金さえ積めばどこの大名の仕事でも請け負うらしいから、久光に恨みを持っている人間、久光を消したがっている人間はすべて怪しいということになるが、それらをいちいち数えあげれば両手の指を合わせても足りないのである。
尼子氏に限らず、隣郷の宍戸氏や三吉氏も久光を仇敵視しているし、備後の山内氏、江田氏、和智氏、有福氏などもたびたび備後侵入を企てる久光を憎んでいるであろう。これまで高橋氏が滅ぼしてきた小豪族の縁に連なる者の仕業ということだってあり得る。今は高橋の傘下に収まっているが、たとえば出羽氏あたりなら、暗殺を仕掛けて来たとしても何の不思議もない。
いや、怪しいのは何も敵ばかりとは限るまい。国人一揆の味方でも、たとえば吉川氏や毛利氏はシロとは断定できない。吉川氏とは昔から仲が悪いし、多治比の元就なども自分を恨んでいるに違いない。あるいは小早川氏、平賀氏といったあたりが、立て続く備後遠征の負担に腹を立て、あるいは国人一揆の盟主の座を奪うために、自分を亡き者にしようと謀ったということも――可能性としては低いが、絶対にあり得ない話とまでは言い切れまい。
いやいや、味方というなら、高橋の一族の中にさえ自分に不満を持つ者はあろう。たとえば鷲影城の盛光――あの欲望の強い愚か者なら、誰かに言葉巧みに唆かされれば、どのような愚挙に手を染めぬとも限らない。
そこまで考えて、
――ようもこれほど人から恨まれたものよ。
と自嘲が浮かんできた。
戦国乱世は食うか食われるかの時代である。停滞は後退と同義であり、常に食う側にあらねば強者から格好の標的にされる。久光が高橋氏の富強に努めたのは、言うまでもなく高橋に属する人々を守るためであり、一族と家来、さらにその家族の繁栄のためであった。久光は武士としてこれまで敵はすべて戦場で葬ってきたし、暗殺などという卑劣な手段を用いたことはなく、自ら天に恥じるところもない。にも関わらず、こうして刺客に命を狙われるような羽目になっている。
「因果なものよな・・・・」
その呟きには苦い響きがあった。
翌朝、高橋氏の本陣に毛利氏、吉川氏、小早川氏、平賀氏といった国人一揆の武将たちが軍議のために集まってきた。
元綱が兄の元就らと共に高橋氏の陣屋に赴くと、本陣の前に獄門台が据えられ、貧相な痩せ首がふたつ、それに架けられていた。
「昨夜この陣所に忍び入った曲者らしい」
と元就が教えてくれた。
「あれが俺の寝る間を奪った元凶か」
元綱は不機嫌そうに返した。
高橋軍の陣が騒然となったのはほんの三刻ほど前である。山一帯で松明が無数に揺れ動き、すわ敵の夜討ちかと、毛利軍の陣でも防戦の準備で大騒ぎになった。元綱も夜中に叩き起こされ、朝まで寝ずに過ごすことになったのだが、結局敵軍に動きはなく、ただ睡眠時間を奪われただけで終わった。
「噂では伊賀、甲賀あたりの忍びであるというぞ」
「ほう――」
元綱も「鈎の陣」の昔話くらいは耳にしたことがある。
「名高い化生の首か・・・・」
ふたつ共にどこといって特徴はなく、篤実な農夫と実直な小商人といった顔つきである。
「鬼にも魔物にも見えんな」
元綱が素直な感想を漏らすと、
「そもそも姿形で目立つようでは忍びは務まるまい」
と言って元就は苦笑した。
本陣に入ってゆくと、そこに集まった武将たちの間でもその噂で持ちきりであった。ことに賊が毒を用いたという点が人々の関心を引いていた。
この軍の名目上の主将は高橋氏当主の興光だが、実際の指揮はその祖父の久光が執っている。賊はおそらく久光を狙ったのであろうが、それに味方している武将たちにすれば凶刃が自分たちに向けられぬとも限らないわけで、他人事ではない。
「やはり出雲のお屋形の仕業であろうか」
誰かが述べた声に、
「いや、そうとも限るまい」
と返したのは、吉川元経だ。
「出雲のお屋形は、わしの知る限り、暗殺、毒殺などという陋劣な手は用いたことがない」
「では、誰が――」
「それは判らぬが――、たとえばわしが大枚を叩いて忍びを雇うとすれば、夜討ちの手引きに使うな。雑兵を少しばかり毒殺したところで合戦の大勢に影響はあるまい。夜込みを仕掛けておいて敵が軍を動かさなんだ点も気になる。あるいはこの合戦とはまったく関係のない筋から、ということも考えられる」
「なるほど・・・・」
「まぁ、忍びの跳梁が一度で終わるとは限らぬし、次は夜討ちか火つけに使うのかもしれぬ。要するに、敵の狙いがはっきりせぬ上は、何も判らぬということだ。今は考えたところで無駄だな」
高橋久光は憮然とした表情でその雑談の様子を眺めている。
集まった武将たちの顔つきや眼つき、その言動の端々までをじっと観察し、
――この連中の中に首謀者はおらんな。
という確信を得た。
久光も、海千山千の武将たちを相手に戦国乱世を泳ぎ渡ってきた男である。陰謀を腹に秘めた人間の貌や、殺したい相手を見る時の人間の眼というものを幾つも見てきた。その経験と勘から言えば、武将たちはどれもシロであった。彼らは自分に好意を持ってないが、害意を抱くほどの恨みも蔵してはいない。
――そもそもわしを殺せるほどの器量の者がおらんわ。
久光は、盟友の武将たちと交わした友誼や誓紙や言質などは爪の先ほども信じていなかったが、己の人物眼だけは信じていた。
人を信じるということは、その人間を見抜く己の眼を信じることだと久光は思っている。そう考えていれば、たとえ人から裏切られても、己の眼が曇っていたことを嗤えばよく、誰を恨む必要もなくなるからである。恨み、怒り、好悪などはいずれも感情であり、感情で政治をすれば必ず道を誤る。大名は政治家である以上、政治判断から感情は排除すべきであり、久光は高橋の家督を継いでからこの三十年、そのように努めることを己に課していた。その見切りの正確さと図太さのほどは、劫を経た政治人間特有のものであったろう。
世鬼政時は、翌日から陣中の篝火を増やし、夜警の人数を倍にした。
自らも夜間はほとんど眠らず、敵の忍びの侵入に備えたが、それ以後、同様の騒ぎは二度と起こらなかった。
合戦自体は小競り合いに終始し、やがて出雲から尼子軍が援軍にやって来たところで久光は滞陣を打ち切った。国人一揆軍は一月ほどで備後から退却したのである。
高橋軍は石見の阿須那に帰り、政時も藤掛城の警備の任に戻った。
「先日は防ぎ得ましたが、敵が再び同じ手を使ってこぬとも限りませぬ。警護の士を増やすことはもちろんですが、念のため、殿には日ごとに憩まれる部屋を変えて頂きとうござる」
帰国したその夜、主君である久光に進言した。
「寝所を増やすか」
久光は、面倒だ――と言わんばかりに苦笑した。
「お前から見て、この城は忍び入るにたやすいか」
「戦時は城内に人が溢れ、篝火や松明が闇を払いますゆえ忍び入るのは難しゅうござるが、平時であれば、忍びの達者に入れぬ城などはござらぬ。ご当家の城もしかり。拙者か愚息なら苦もなく出入りができましょう」
「苦もなく、か――」
「殿をお守りしておるのは、城ではなく、人なのです」
忍びの達者に守られている城こそが忍びに対しては堅城なのである。
久光は政時の言を容れ、警備をすべて一任することにしたが、
「わしよりも興光の警護を厳にせよ」
といったあたりは、さすがの剛腹さと言うべきであった。
長子の新太郎は――毒抜きの処置が早かったことが奏功したのであろう――順調に体調を回復していた。足の傷口の肉も盛り上がり、半月もすると元のごとく走れるようになった。
しかし、身体が回復するにつれ、
――不覚を取った。
という事実と自らの甘さに対する怒りが、新太郎の腸を焼き始めた。
阿須那に帰ってからも新太郎の表情は冴えない。
幼い頃から兵法修行によって自らの心身を錬磨してきた新太郎には、ある種の求道者のような執拗さがある。その力量・技量を自ら自負していただけに、あの夜の敵の技法や価値観が己の想像を超えていたことに強い恥辱を覚えた。
――甲賀、伊賀あたりの忍び武者・・・・。
その卓越した術技の噂は聞いてはいた。が、何より驚くべきは、声さえ立てずに死んでいった忍びとしての精神の強靭さであろう。連中は、それだけの凄まじさを心に棲まわせていた。
――刀術では俺の方が遥かに上だった。
しかし、忍び武者としてはどちらが上であったか――。
あの者たちに対する畏敬の心が、激しい敵愾心に変わった。
あれらの狙いが主君・高橋久光の暗殺であれば、時機を待って必ず再び仕掛けて来るに違いない。その時こそ、自ら働きで先日の恥を雪ぐ。
――二度と不覚は取らぬ。
新太郎はそう心に期した。
そして事件は、永正十七年閏六月の某日――横田の松尾城で起こる。