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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第四章 吹き荒れる腥風
30/62

暗闘(一)

 言うまでもないことだが、現在の広島県は安芸と備後を合わせた地域である。

 ごく大ざっぱに言えば、広島県の西側――広島湾を囲む地域とその北が安芸の国であり、三次みよし市と三原市を繋いだラインより東側が備後の国になる。

 律令制の行政区画が定められて以来、安芸は八つのこおりに区分けされている。西から佐伯さえき郡、安芸郡、賀茂かも郡、沼田ぬた郡が瀬戸内海に面していて、その北に高田郡と沙田さた郡があり、最北の山県やまがた郡と高宮郡で石見と国境を接している。

 毛利氏は、高田郡の過半と山県郡の一部を領有しており、本拠である吉田は高田郡の東の端にある。その北の高宮郡と高田郡の一部を高橋氏と宍戸氏が奪い合っていて、北西の山県郡は過半を吉川氏が押さえている。南方の佐伯郡と安芸郡は守護・武田氏が大きく勢力を張る地域で、その東の賀茂郡、沼田郡、沙田郡には、国人一揆の盟友である小早川氏、平賀氏、阿曽沼氏、天野氏といった豪族たちが割拠し、独立系の豪族としては井原氏、及美氏、野間氏などがいる。さらに瀬戸内海には大小の島々が無数に浮かんでおり、能美のみ氏、多賀谷氏、村上氏といった海賊衆が大内氏に従属する形で制海権を握っていた。

 一方、備後は安芸とほぼ同じ面積だが、郡の数は十四もある。

 吉田の郡山城から、東へ直線距離で三里も進めば備後に入ることができる。吉田の南東が世羅せら郡、東が三谿みたに郡、その北で石見と出雲に境目を接しているのが三次みよし郡である。ちなみに世羅郡と三谿郡は毛利領と隣接しており、毛利氏は備後にもわずかながら領地を持っている。毛利氏はまさに芸備の境目に根を張る豪族であり、備後に対して「異国」という感覚はまったくなかったであろう。

 中国山地の山々が連なる安芸の北部はそのほとんどが山林であり、山襞の隙間に無数の小盆地があり、盆地を連結するように川が流れ、街道が通っている。芸備国境は、平佐山、毛宗坊山、権現谷山、大土山といった山々で、いくつかの峠道や街道が両国を繋いでいた。

 その境目の山々を左手に眺めながら、山間の街道をゆっくりと南進してゆく行列があった。女輿を中心にして、五十人ほどの男女が歩いている。

 毛利家の姫――お竹の花嫁行列であった。

 兄であり保護者でもある元綱は紋服姿で馬上にあり、その馬の口を重蔵が取っている。毛利本家の代表として志道広良が同行し、元綱の近侍を含め、護衛のための兵が三十人ほど。あとは道具持ちや侍女などである。元綱には経済力はないが、お竹は「毛利本家の姫」として飾られたから、輿入れのための衣裳や道具類はそれなりの物が用意されていた。

 季節は初冬――秋の取り入れが無事に終わり、いよいよ雪が落ち始めようかという時期である。

 一行は、陽が西に傾き始めた頃に向原の日下津城に入り、食事を取ってしばらく休息した後、日没後に再び出立し、三篠みささ川に沿う形で南西に向かった。

 目的地である井原氏の鍋谷城は、向原から二里ばかりの距離にある。坂氏が管理する関所を通り抜け、左右が山によって塞がれた谷状の街道を進んでゆくと、井原氏の家来の人数が花嫁を受け取るために待っていた。


「遠路はるばるようお越しくだされた」


 井原氏の重臣らしい初老の男が、人の善い笑みを浮かべて頭を下げた。


「お出迎え、痛み入る」


 元綱は下馬して挨拶を返した。

 輿の担ぎ手が毛利家の者から井原家の者へと交代する。

 元綱はそこで護衛の毛利兵を帰らせ、再び一行は南進を始めた。しばらく進むと井原氏の関所があり、それを抜けると左右の山陰がやや開けた。暗くてよく解らないが井原の集落に入ったらしい。正面に、闇色の山々を背景にして、奇麗な紡錘形の小山の稜線が篝火によって浮かび上がっていた。

 井原の領民たちがやや遠巻きに見物するなか、城山を目指してさらに進む。

 その山麓に竹林に隠れるようにして井原氏の居館があり、やはり篝火が盛大に焚かれていた。

 井原氏の家来たちが門の前にずらりと居並んでいる。

 ――思うていたより井原は富裕そうだな。

 と元綱が感じたのは、その居館に石垣が用いられていたからだ。

 井原は小さな集落だが、安芸の経済の陸の中心である西条から近く、山間の街道が集まる中継点のような位置にある。いわば重要な商路を押さえているわけで、その分だけ現金収入が多いのであろう。


「四朗殿、ようお出でくだされた」


 花婿である井原元師もとかずが、その父母と共に玄関の式台に立ち、元綱と花嫁を出迎えた。

 うつむくお竹の横に立った元綱は、


「小四朗殿、我が妹でござる。ふつつか者ですが、よろしゅう頼みます」


 丁重に頭を下げた。

 一行は別室でわずかに休息した後、広間に導かれ、そこで祝言と祝宴が行われた。

 祝宴は、簡素ながらも行き届いたものだった。


「今日より小四朗殿は毛利の一門となった。井原の弓が味方についてくれたことは、心強い」


 元綱は、妹の前途には何の不安も覚えていない。良い伴侶を選んだという自信と、盃を傾ける義弟の屈託ない笑顔が、元綱をさらに陽気にした。

 実際、この婚姻は毛利家にとって大きなプラスとなった。井原元師は毛利家の有力な武将となり、家政に参与する重臣に名を連ねているし、その子や孫も各地を転戦して武功を立てている。ことに元師の曾孫の元尚もとなお頸弓けいきゅうの誉れ高く、戦国時代の末期――すでに鉄砲が全盛の頃である――毛利軍が四国に遠征した際、その武名を敵味方に轟かせたという。

 翌日、元綱は上機嫌で相合へと帰った。

 相合の屋敷の門を潜ると、母である相合の方が、亡き父の部屋の濡れ縁に腰掛けて夕暮れの中庭を眺めていた。

 息子に目をとめた相合の方は、


「このお屋敷もすっかり静かになりましたね」


 と寂しげな笑顔で言った。

 相合の方には元綱の他に三人の娘があるが、みな他家に嫁いでしまっており、ついに末娘のお竹までが手元を離れてしまった。相合の方はまだ知命ちめい(五十歳)に届かぬ年齢であったが、母としての務めが終わったという想いが、彼女の心境に大きな変化をもたらしたのであろう。


「わたくしはそろそろ髪をおろそうかと思います」


 と出家の意志を示したのである。

 さすがに元綱は大きな衝撃を受けた。


「前々から考えてはいたのだけれど――、お竹も無事に片付いたし、心に区切りがつきました。多治比の悦叟院えそういん庵室あんしつを建てて頂けるよう、あなたから多治比の殿にお願いしてもらえませんか」


 亡父の菩提寺で静かに余生を送ろうというのであろう。

 元綱がとっさにどういう返答をすべきか迷っていると、ゆきのつぼねから鶴寿丸かくじゅまるの泣き声が遠く響いてきた。

 その方に顎を向けた元綱は、


「子が増えれば、またここも賑やかになります。御仏に仕えるのはもう少し先でも良いのではありませんか」


 やんわりと再考を促した。

 考えてみれば、側室であるゆきは「鶴寿丸の母」という以外になんの身の保証も持たず、吉田に知る辺もなく、根なし草も同然である。せめて母にはその後ろ盾になっていてもらいたいし、子の扶育を援けてももらいたい。ゆきは母とは仲が良いようだから、この屋敷にいてくれるだけでも心強いであろう。

 母は冬枯れた庭木に視線を移し、


「年老いたわたくしをまだ煩わせる気ですか」


 と明るい声で咎めた。


「出家が叶わぬのは、浮世に雑事が残っておるということを、御仏がご存知だからですよ」


 元綱は自分が孝子だとは思ってない。ことさら親に反発したり逆らったり悲しませたりした記憶もないが、孝行らしい孝行といえば、孫を抱かせてやれたことくらいしか思い当たらない。「親孝行したいときには親はなし」というが、世俗との縁を切られてしまえば、孝行のしようもなくなってしまう。


「吉川家のご老体は、卒寿そつじゅ(九十歳)を過ぎても戦場に出るほどお元気であられた。母上はまだその半分のお年でしょう。老け込まれるには早すぎます」


 言いながら、

 ――孝行とは何であろう。

 ふと考えた。

 自分が親になってみて知ったのは、元綱が鶴寿丸の世話をするとき、自分も子から何かを享受しているという実感を持ったことであった。多くはそれは喜びであり、幸福感であったり充実感であったり、あるいは将来に対する漠然とした明るさであったりする。その意味で子の世話を焼くことは、元綱にとって無償の奉仕ではなかった。

 ――何かを与えることは、何かを得ることでもあるのかな。

 そう考えれば、親の手を煩わせることも、一種の親孝行ということにならないか。

 鬼吉川ほど長生きできる者は稀であろうが――。

 ――まだまだ母上には浮世で雑事にかまけていてもらいたい。

 と元綱は思ったりした。

 ところで、永正十七年(1520)が明けると、その鬼吉川が死ぬ。

 死因は伝わってないがおそらく老衰であったろう。九十三歳の大往生であった。



 鬼吉川――吉川経基つねもとは、「応仁の乱」で数々の合戦に勇戦し、ことに「相国寺の合戦」において鬼神の如き働きを示し、天下に堯名ぎょうめいを馳せた。京の兵火が全国に飛び火すると、東軍を側面支援する形で備後、河内、播磨などを転戦し、負け知らずの戦いぶりを示している。その際、出雲の尼子経久とも敵として戦ったらしいのだが、鬼吉川の武勇に感服した経久が、その娘を貰い受けたいと懇請し、妻にしたというエピソードまで残っている。

 十年を一昔とすれば、経基は五つも昔の武将である。しかし、その存在が、安芸北部において巨大な重石おもしの役を果たしていたことは間違いない。「鬼」とまで呼ばれたその武名は畏敬の対象であったし、いまや山陰の覇者と言うべき尼子氏を筆頭に、安芸の笠間氏、小河内氏、綿貫氏、石見の三須氏、出雲の多賀氏、波根氏に娘を、安芸の毛利氏、石見の福屋氏には孫娘を、それぞれ送り込んでいる。経基は子福者で、記録に残っているだけで六人の息子と九人の娘があったと伝わっているから、「鬼吉川の孫」や「鬼吉川の曾孫」となるともう数え切れない。その影響力は安芸一国に留まらず、石見から出雲にまで及んでいたのである。

 中でも特記すべきは、経基の末娘が京の万里小路までのこうじ家の当主である賢房かたふさの正妻になっていることであろう。

 万里小路家は藤原北家の勧修寺かんじゅじ流から分かれた公家で、名家めいかのランクに属し、名家の極官が大納言であるにも関わらず、内大臣まで出したことがある名門である。養子としてその万里小路家を継いだ賢房は、左大臣・勧修寺教秀のりひでを実父に持つ権勢家で、エリートコースを歩んで順調に出世し、四十歳で参議と右大弁うだいべんを兼ね、従三位じゅさんみまで昇っている。残念なことに永正四年に四十二の若さで没してしまったが、もう三年も長く生きていれば大納言にもなれたであろう。晩年は朝議の中枢に参与する立場であったことは間違いない。

 藤原北家の流れを汲む吉川氏にとって、勧修寺家や万里小路家はいわば宗家筋に当たるのだが、そこに娘を送り込み、朝廷との直接のパイプを持っていたところに、吉川経基という巨星の視野の広さと器量の大きさを窺うことができる。

 娘婿である尼子経久はもちろん、日本最大の大名である大内義興も、この老将には一定の敬意を払っていたし、安芸と石見の政・戦略を立てるに当たっては、その影響力を常に考慮に入れねばならなかった。吉川経基とはそれほどの大物であり、それが死んだとなれば、当然、安芸における政治と軍事の天秤は、大きく揺れざるを得ない。

 国人一揆の盟友たちにとっても、尼子方の豪族たちにとっても、この訃報は大きな衝撃であったに違いないが、

 ――年寄りめ、やっとくたばりおったか。

 と笑った者もいる。

 高橋氏の隠居・久光であった。久光にすれば、鬼吉川さえ死ねば、安芸にはばからねばならぬ相手はないのである。

 久光の動きは素早かった。すぐさま自ら周防すおうの山口へと赴き、大内義興に拝謁し、今後の安芸の仕置きや尼子氏対策などについて様々な相談をした。

 そもそも安芸の国人一揆とは、反大内の立場を取る武田氏、尼子氏、山名氏といった大勢力に対する対抗措置として、安芸の大内方の豪族たちが結合して出来あがった軍事同盟である。その九家の豪族の中で最大の勢力を持ち、安芸北部で尼子軍の侵入を防ぐ防波堤のような役割を果たしているのが高橋氏であり、現に久光は尼子方の備後の国衆などとも活発に戦い続けている。

 ――大九朗は私利を追って働いておるに過ぎぬ。

 ということを義興は見抜いていたが、それが大内の利益に繋がるなら、利用することに躊躇ちゅうちょはなかった。

 義興は寡欲で清廉な人物を好む傾向があり、アクの強い久光にさほど好意を抱いてはなかったが、実際問題として、愛顧した毛利興元が病死し、吉川氏が尼子に通じているという風聞さえある現状では、国人一揆の新たな盟主に相応しい武将といえば、勢力の大きさから言っても武勇の実績から見ても、高橋久光こそがその最右翼であった。久光が大内のために犬馬の労を取ってくれるというなら、多少の便宜は図ってやっても良いという気分になった。

 そうして義興の信頼を勝ち得た久光は、


「高橋と毛利が堅く結んでおれば、吉川もそう易々と尼子に転ぶことはできますまい。毛利の幸松丸は我が孫ゆえ、毛利がお屋形さまを裏切るようなことは、わしが致させぬつもりでおりますが、ただ、幸松丸を後見する多治比の元就は、吉川国経の娘を娶り、かの尼子経久とも縁戚でござる。元就が密かに尼子に通じておらぬとは言い切れませぬ。ここは、元就より証人(人質)を取っておくことこそ肝要。尼子が何やら手を伸ばして来たとしても、初子ういごを証人にしておけば、元就の心が動くことはござるまい」


 と提案し、しかもその人質を自分が預かるということを義興に承諾させたのである。毛利の人質を高橋が受け取るということは、事実上、高橋が毛利を傘下に収めるということであり、義興はそれを黙認したわけである。

 帰国した久光は、さっそく郡山城にやって来て、


「以前した約定の通り、多治比殿の娘御を貰い受けたい」


 と志道広良に要求した。

 言われた広良はさすがに周章した。


「いやいや、お待ちくだされ。多治比殿の姫御は、生まれてよりまだ一年にも満たぬ乳飲み子でござるぞ。わずか二歳で輿入れするなどという話がどこにござろう」


「輿入れなぞと、そう重く考えられることはない。わしが元で養育しようと申すのよ。無論、ゆくゆくは興光の子とめあわせるつもりじゃ。それは確約しよう」


「しかしですな・・・・」


「執権殿よ、ここだけの話だが――」


 久光は広良に顔を近づけ、深刻そうな声音を作った。


「実はな、山口で大内のお屋形にお会いした際、多治比殿より証人を取るつもりであるとお屋形が申されたのだ。多治比殿はご内室を通じて尼子殿と縁戚であり、お屋形が懸念なさるのも当然であろうとわしも思うたのだが――」


 大内義興が毛利に疑いの眼を向けている、と言われたのも同じであり、さしもの広良も狼狽が顔色に出た。

 久光は内心でわらった。


「しかしながら、頑是がんぜない幼子が遠い異国で人質として暮らすとなれば、哀れに過ぎよう。そう思うたゆえ、『多治比殿の娘御はわしの曾孫にめあわせる約定であったから』とわしが強く申して、難色を示すお屋形にげてご納得頂いたのよ。そういう事情を、執権殿にはよう汲み取ってもらいたい」


 むしろ恩を売るような口調で続ける。


「山口はあまりに遠いが、阿須那あすなならば多治比から一日の距離じゃ。多治比殿もいつなりと会いに来ることができよう。姫御はゆくゆく高橋の跡目の正室となる。我ら両家にとって良縁となろうよ」


 元就から人質を取ることは大内義興の意向であり、そのことはすでに動かし難い。同じ人質を出すにしても、娘を山口に送れば、女という意味で二流の人質という扱いを受けるに過ぎないが、阿須那に送れば、高橋氏の跡目の正妻として迎えられる。毛利と高橋の繋がりをさらに深めることができ、大内義興も納得済みということでその疑いも晴れる。後者の方が毛利にとって得というものであろう。

 お菊が高橋の当主の正妻となれば、当然、元就はその岳父ということになる。実質的に人質であることに違いはないが、婚姻ということにすれば耳触りのけわしさがずいぶん薄れるのである。そういう曖昧さの中に事態を埋没させ、当事者の悪感情を中和してやるのも政治の技術であり、そこに久光の老獪さがあった。

 いずれにしても大内義興の名が出た以上、久光の言葉に逆らうことは難しい。

 志道広良にすれば、


「多治比殿とも家中の重臣たちとも相談せねばなりませぬ。しばし時間を頂戴したい」


 と言って、数日の猶予を願うのが精一杯であった。

 話を聞いて、


「馬鹿な!」


 と憤慨したのは、当事者の元就ではなく、意外にも元綱であった。


「なにゆえ我らが高橋に人質を出さねばならん。大内のお屋形が人質を要求されたというなら、山口へ人を送るのが筋ではないか。国人一揆はそもそも対等の盟約であり、家々の間に上下の差はないはずだ。高橋が人質を取るというなら、我らも高橋から人質を受け取らねば道理が立たぬ」


 形式論としてはまさしく正論であろう。

 しかし、政治においては正論が必ず通るとは限らず、むしろ多くの場合、強者の横車が道理を粉砕する。


「四朗、解り切ったことを事々しく申すな」


 元就が常にない語気の鋭さで言った。


「隠居殿は鶴寿かくじゅを寄越せと申してきたわけではないだろう。黙っておれ」


 ムッとした元綱が睨むと、兄は眉間に深い皺を刻んで瞑目していた。

 ――これは選択の余地がない。

 という現実を、懸命に飲み下そうと努めていたのである。

 もし元就が人質を出すことを拒めば、高橋久光は、


「多治比元就の逆心は明らかである」


 と大内義興に讒訴ざんそするに違いなく、そうなれば来月には山口から訊問の使者がやって来ることになろう。毛利家とすれば、元就の首を差し出して大内義興に詫びを入れるか、使者を追い返して大内氏と断交するか――いずれかをえらばねばならなくなる。窮地に追い込まれるのは自明であった。

 大内氏に敵対するということは、当然ながら高橋氏をはじめ国人一揆の盟友たちをも敵に回すことを意味する。

 ――戦えるか。

 と自問してみれば、尼子氏に通じ、吉川氏、宍戸氏などと共闘したとしても、まったく勝算が立たないのである。

 強大な大内氏に対抗するには、高橋氏を尼子氏と結びつけることが絶対条件であった。いざ大内軍が安芸に攻めて来たとなった時、出雲からいつでも尼子軍が援軍にやって来られるようにしておく必要があるからである。安芸北部を丸ごと尼子色にし、出来れば国人一揆の盟友たちをも尼子方に引き寄せ、武田氏や備後、石見の反大内勢力とも共闘体制を築く。最低でもそれだけの下準備がなければ大内氏から離反などできるものではないし、それ以前に、そういう政治状況を実現させぬことには、毛利家中の大内贔屓の重臣たちを変心させ、家中を反大内で結束させることなど不可能であった。

 たとえば元就が、ここで大内氏から離反すると宣言し、独断専行の形でそれを行おうとすればどうなるか――。

 先の見込みも展望もなく、娘可愛さの情によって毛利家を滅ぼすつもりかと、重臣たちが猛反発するのは目に見えている。坂広秀、井上元兼といった大内贔屓の者たちは、幸松丸を擁する高橋久光と直接結びつき、元就とその与党を排除しようとはかるかもしれない。そうなれば「幸松丸を後見する」ということで成り立っている元就の政治的立場が瓦解するばかりか、最悪の場合、元就は反対派によって粛清され、「毛利幸松丸の忠誠の証し」として首を山口に送られかねない。

 ――私の考えが甘すぎた。

 元就は心中でほぞを噛んだ。

 吉川国経を舅にしている以上、元就はそうでなくとも尼子方に通じていると疑われやすい。火のない処に煙は立たぬと言うが、元就の場合は火種がまったくなかったとも言い切れず、そこに煙を幻視する者がいたとしても少しもおかしくはないのである。それを前提に、出処進退は明らか過ぎるほど明らかにし、周到に手を打っておかねばならなかった。

 しかし元就は、高橋久光という野心家に対する認識が甘く、大内氏への手配りで完全に後手を踏んだ。


「元就をわしの言いなりにするか、それができぬなら、いっそ元就を排除する」


 そのあたりが久光の魂胆であり、毛利の間接支配をより徹底するために、もっとも簡単で手っ取り早い手段をえらんだというだけであろう。鬼吉川が死んだと知るや、その喪も明けぬうちから久光がここまで露骨な手を打ってくるとは、正直なところ元就は予想だにしていなかった。

 ――私が政略において隠居殿に負けたのだ。

 現状、元就に可能な選択といえば、愛娘を差し出して白旗を振る以外になかったのである。


「大内のお屋形がご納得なされておるとなれば、このことに関してもはや議論の余地はない。隠居殿の申される通り阿須那あすなへお菊を送ろう」


 努めて表情を消し、元就は厳乎げんことして言った。

 この元就の態度を見て、広間に集まった重臣たちは内心でやれやれと胸を撫で下ろした。庶家の人間が本家のために犠牲になるのはある意味で当然であったし、「幸松丸さまのご後見」として、この程度の問題は政治で割り切ってもらわねば困るのである。情によって選択を誤るようでは家の舵取りは任せられない。


「よう申してくだされた」


 深く頷いた志道広良が、短い言葉で元就の決断を褒めた。

 この決定にもっとも大きな衝撃を受けたのは、言うまでもなくお久であった。


「そんな・・・・」


 夫から事情を聞いたお久は、信じられないという顔をした。


「お菊はまだたった二つでございますよ」


 歩くことさえできぬ幼児ではないか。

 武門に生きる者にとって人質は乱世の習いとはいえ、血と肉を分かち与え、我が腹を痛めて生んだ子を奪われることは、女にとって肉体の一部を失うのにも等しい。ましてお久が愛娘と過ごした歳月は一年にも満たないのである。お久は乳が張るたびに我が子を思い出し、情愛を注ぐべき対象を失った寂しさに泣かねばならぬであろう。


「お前の辛さは痛いほど解る。だが、こればかりはどうしようもないのだ」


 家臣には決して見せられぬ苦渋の表情で、元就は頭を下げた。


「すまぬ・・・・。こうなってしまったのもすべて私の無力のせいだ」


 そう言って責任を背負ったが、

 ――わたくしが出雲のお屋形の姪だからだ。

 ということが解らぬほどお久は魯鈍ではない。そして理由が解ってしまえば、誰に恨みをぶつけようもなかった。


「元就さまのせいでは――」


 お久は唇を噛んだ。悲憤の涙が溢れ、頬を濡らして落ちた。

 元就にできることといえば、嗚咽する妻を抱きしめ、悲哀を共にすることしかない。


「お菊は人質として扱われるわけではない。高橋では大切にしてくれるであろう。十年先――、興光殿のお子が成人なされば、お菊はその正室となる。もともと婚約はできていたのだ。藤掛城に住み、幼い頃から共に過ごしておれば、きっと仲睦まじい夫婦めおとになろう」


 それが何の慰めにもならないと知りながら、それでも元就は言葉を継いだ。

 ――この想いは忘れぬ。

 後年、元就は情け容赦ない謀略によって高橋久光の親族たちを殺し、高橋氏を滅ぼすことになるのだが、その遠因のひとつは、この時の無念さに根ざしていたに違いない。



 この年から、高橋久光の軍事行動はさらに活発になる。大内義興から安芸の豪族たちへ出陣令を出してもらうよう手回しし、備後への侵入をたびたび企てるようになった。

 国人一揆の毛利氏、吉川氏、平賀氏、小早川氏らの兵を集め、三吉氏が堅固に守る備後北部はあえて避け、備後中部の世羅郡へと討ち入るのである。尼子方である備後の国衆と戦うことで、国人一揆の豪族たちをなし崩しに私兵化してゆこうというのが、久光の裏の思惑でもあったろう。


「おのれ、高橋め・・・・!」


 この高橋氏の動きに激怒したのが、尼子氏の重臣・亀井秀綱であった。

 尼子氏が安芸を取るには――安芸へ兵を出すには――安芸北部の豪族たちを傘下に収めることが絶対条件であり、最大の豪族である高橋氏の向背がその鍵を握っていた。尼子経久から安芸の豪族を味方につけるよう命じられた秀綱は、高橋氏に対する調略を密かに続けていたわけだが、おどそうがすかそうが高橋久光は頑として尼子に靡かず、それどころかあからさまに敵対行動を取り始めたのである。

 面目を丸潰れにされた形の秀綱は、主君の尼子経久に請い、自ら兵を率いて備後に乗り込み、備後の国衆と共に安芸の豪族連合軍を追い払った。

 ちなみにこの合戦には毛利家も兵を出しており、元就や元綱が従軍したことは言うまでもない。戦闘は、備後の世羅郡――赤屋あかやという地で行われた。これ以前もこれ以後も、安芸と備後の国衆の間で合戦が繰り返されている場所である。

 尼子方の城を奪われることこそなかったが、高橋久光の存在は、尼子にとってもはや看過できるものではない。


「厄介な年寄りよ・・・・」


 秀綱は吐き捨てるように言った。

 しかし、尼子氏の力をもってしても、高橋氏と直接戦うには時期尚早であった。備後路を使えば出雲から安芸北部へ行くことは可能であったが、石見はまだ尼子氏の勢力範囲に入っていなかったし、そもそも高橋氏ほどの大豪族を滅ぼすとなればよほどの兵力と時間が必要になるであろう。尼子経久はこれからまさに石見へ兵を向けようとしていることもあり、安芸に兵をいていられるような政治状況でもなかったのである。

 ――もはや手段は選んでおれぬ。

 武力によって直接手を下せないとなれば、謀略をもって臨むほかないであろう。

 秀綱の焦りを見透かしたように、


「要は、高橋の隠居一人を亡きものにすれば済む話でござろう」


 と言ったのは、鉢屋弥之三郎やのさぶろうである。

 弥之三郎は尼子家の忍者集団・鉢屋衆の棟梁であり、調略、謀略といった仕事に関して秀綱の手足となって働いていた。ちなみに三十年前の月山富田城奪回戦の時、尼子経久に助力したのは先代の弥之三郎で、彼の父に当たる。当代の弥之三郎は、まだ四十代であった。


「当主である興光は未だ十七、八の小僧――。隠居の大九朗さえいなくなれば、高橋は死に体となりましょう」


「それは申すまでもないが――」


 実際、高橋久光さえ消えてくれれば、いくらでも手の打ちようはあるのである。久光の甥である盛光もりみつとはすでに繋がりができており、久光さえいなければ、かの男を指嗾しそうして内訌を起こさせることさえ不可能ではなかった。もともと盛光は興光が家督を継いだことに不満を持っているから、尼子が後ろ盾になると確約してやれば、盛光は高橋の家督を奪うために喜んで興光を殺そうとするであろう。謀反が成功しようが失敗しようが、高橋家中は二つに割れて大混乱となるに違いなく、大きく力を失うことは間違いない。


「どうやる?」


「藤掛城に忍び込み、寝首を掻くまでのこと」


「暗殺か・・・・」


 秀綱は露骨に厭な顔をした。

 手っ取り早くはあるが、実に陋劣ろうれつな手段である。

 ――武士の真似をしておるが、こいつもしょせん河原者か・・・・。

 武士らしからぬ行為と断ぜざるを得ない。

 秀綱の主君である尼子経久は、月山富田城をわずかな手勢で奪還したことでも実証されるように謀略において鬼才であり、たとえば間諜を用いて敵将を騙したり調略によって人を寝返らせたりすることは名人のように巧みだが、その経久にしても暗殺という直接的な手段だけは用いた事がなかった。逆に言えば、敵将は必ず合戦によって葬ってきたというのが経久の偉さであろう。合戦で敵を斃すのはいわば武士の本分で、戦場でどれほど悪辣な詐術を用いてもそれは「武略」であり、倫理的な意味での「悪」ではないのである。

 人をまとめてゆくには威と徳が必要であり、どれほど威があっても徳のない者に人は心服しない。悪徳を重ねれば人が遠ざかってゆくという機微を、苦労人の経久は知り尽くしていた。暗殺などという後暗い手を使えば、「尼子経久は陰湿である」ということで衆望を失ったであろうし、今日の尼子家の興隆もなかったであろう。武将は知恵と勇気と兵馬によって道を切り拓いてゆくべきなのである。

 秀綱は目的のためなら手段を選ばぬ冷徹さを持っているが、

 ――お屋形さまの名に泥を塗るわけにはいかぬ。

 という想いはある。秀綱が高橋久光を暗殺したのだとしても、それが尼子の仕業だと世にあらわれれば、経久の命によるものと世間は思うであろう。自分が悪名を得る分には構わぬが、主君を貶めるわけには断じていかない。


「尼子の名が世に出てはならぬ。家中の士を使うわけにはいかぬぞ」


 尼子家の武士に偽りの罪を被せて浪人させ、高橋家に仕えさせ、隙を見て久光を刺させる、などという方法は使えないということである。

 弥之三郎は首を捻った。


「では、我が手の者を使うわけにも参りませぬな・・・・」


 刺客を放つにしても、弥之三郎子飼いの鉢屋衆を使って万一それが捕えられることにでもなれば、やはり尼子の仕業ということが露見してしまう。


「さすれば、他国者で腕の立つ者を密かに集めましょう。その分、多少時間も掛かりましょうが――」


「お屋形さまが石見を取るまでにはしばらく時が掛かろう。それまでに仕遂げねばならぬ」


「お任せを――」


 弥之三郎は口元に冷笑を浮かべ、軽く低頭した。





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