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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第一章 毛利元綱
3/62

鬼吉川の夜叉姫(ニ)

 俺たち一行の到着と前後して、小倉山には続々と人が集まっていた。

 千法師の烏帽子親えぼしおやである大内義興よしおきの使者が来たことは勿論、安芸の国人一揆(豪族連合)や吉川氏と婚姻関係を持つ石見いわみの豪族などからも当主やその名代がやって来て、その夜は盛大な酒宴となった。大広間には三十人を越える男たちが座し、酌婦の侍女まで含めると実に五十人近い人間でごった返した。

 俺にとっては、他家の人間などはそのほとんどが初対面である。

 二十歳にも満たない俺がもっとも年少ということもあり、いちいちこちらから挨拶して回らねばならなかったわけだが、副使の井上元景もとかげが卒なく介添えしてくれたお陰で恥をかくことだけはせずに済んだ。元景は毛利家に十五人いる宿老の一人で、他家に遣いするなどした経験も多いからそれなりに顔が広く、座持ちも世馴れていた。

 饗応の酒食は贅を尽くしたものだった。山間の大朝であるから海のモノは干しあわびくらいしかなかったが、雑煮、吸い物、素麺そうめん、湯漬け、根菜の煮つけ、山菜のおひたし、漬物といった定番のさかなに加え、酢味噌で食べる鯉の洗い、ヤマメの塩焼き、山鳩の焼き鳥、きじ肉のあつものなど、彩りも豊富な七献が供された。酒は播磨からわざわざ取り寄せた名酒であるという。<*注釈1>


「豪儀なものですなぁ」


 俺の隣で、井上元景がしきりに感心しながら箸を動かしていた。

 ――俺の時とはえらい違いだ。

 少しばかり苦い笑いが浮いた。

 俺の元服の時は親族と家中の老臣が集まって酒を呑んだというだけで、他家からの祝いの使者なぞは一人も来なかったし、これほど豪勢な料理にもありつけなかった。部屋住みの三男坊と大名家の次期当主とでは立場が違うから待遇も違って当然なのだが、心の片隅では釈然としないものを感じぬでもない。

 膳を片付けつつ酒盃を傾けるうち、一刻(二時間)ほどが経った。

 酔いが回ったからでもあろう、座は無礼講のようになっている。疲れた者や酒に飽いた者は三々五々広間を去り、人数は当初の半数ほどに減ったが、騒がしさはかえって増したようだった。陽気な雑談に花が咲き、喚き声や笑い声、うたいの声や揶揄からかわれた女の嬌声などが、蒸し暑い部屋を賑やかに満たしていた。

 吉川家の若い女房が、座持ちをしながら俺と隣の井上元景に酌をしてくれる。

 注がれるたび、俺は次々と盃を空けた。

 酒は嫌いではない。

 あればあるだけぐいぐいと呑むし、どれだけ呑んでもさほどには酔わず、酔態もあまり崩れないから、周囲からは酒豪だとか鯨飲げいいんだとか言われる。母は「お父上に似たのです」などと嘆いていて、その意見に首肯する者も少なくない。

 が、自分ではさほど酒好きだとも思っていない。

 酒が好きというより、俺は酒席の雰囲気が好きなのである。

 酒が入ると、人は本性が出る。陽気に騒ぐ者、陰気に愚痴る者、笑う暴れる叫ぶ泣く――それは様々な人間模様が見られる。俺はそれらを眺めるのが愉しいのだ。一緒に騒ぐのも良いし、愚痴を聞いてやるのも良い。武辺噺ぶへんばなしでも聞けるならなお良い。いずれ平素とは違うその人間の本音と触れ合えるのが酒の席であり、俺はそれが愉しくて毎夜のように酒をあおっているのである。

 そういう眼で座を眺めていて思ったのは、吉川きっかわ家の男たちの酒は総じて陽気だ、ということだ。なかでも長老と言うべき駿河するが殿――吉川 駿河守するがのかみ 経基つねもと翁――は、常に太い声で笑っていた。


 吉川経基つねもと――


 伝説の武将である。

 五十年前の「応仁の乱」の折、経基殿(当時は四十手前の年齢としであったろう)は東軍に属し、名高い「相国寺の合戦」で僥名ぎょうめいを馳せた。

 応仁の戦乱には俺の祖父・毛利豊元とよもとも東軍として参戦し、兵を率いて京に上っている。家中でも七十以上の老人なら従軍した者は多く、だからこれは今でも語り草になっているはなしなのだが、この「相国寺の合戦」では終始西軍が優勢で、押されっぱなしの東軍からは逃亡者が続出したらしい。しかし、経基殿は吉川家の武士たちを鼓舞して一歩も退かず、全身にニ十ヶ所を越える傷を負いながら味方の屍を踏み超えるようにして奮闘勇戦し続け、ほとんど孤軍で東軍の陣を守り抜いたのだという。その鬼神のような戦いぶりに恐れをなした西軍の方がついには戦意を喪失し、撤退したというのだから恐れ入らざるを得ない。人々はこの勇将を『鬼吉川』と讃え、またそのあまりの傷跡の多さから『まないた吉川』という凄まじい渾名あだなまで付けた。まさに生ける伝説としか言いようがない。

 その伝説の武将は、想像していたより遥かに気さくで磊落らいらくな老人だった。


「おぉ、お手前が毛利の今義経殿か――」


 好々爺然とした笑いを浮かべながら自ら俺の近くにひょこひょこと寄って来、折敷を挟んで目の前にのそりと座った。


「義経といえば、前歯の少し出た、色の白い小男かと思うておったが――そういう訳でもないのじゃな」


 『平家物語』に書かれた義経の容姿をすらすらと口にした。


「残念ながら、合戦いくさ最中さなか直垂ひたたれと鎧を何度も着替えられるほどの物持ちでもありません」


 俺が『平家物語』の記述で返すと、即座に通じたらしく老人は愉しそうに笑った。

 京で絶世の美女と謳われた常盤ときわ御前から生まれた義経は、その血を引いて婦人の如き美男子だったのではないかと俺は思っている。小柄で色白だったと『平家物語』にもある。対して俺は中肉中背で、肌は日に焼けて蒲茶かばちゃ色に近い。風貌もどちらかと言えば男っぽいから、おそらく雰囲気は似ても似つかないだろう。まして安芸の小名の三男坊に過ぎない俺は哀しいかな貧乏で、武家の棟梁である源家の御曹司のように装束に凝るような銭の余裕はまったくない。

 だから俺の台詞にはそういう卑下も含まれていたわけだが、


戦場いくさば綺羅きらは装束でなく手柄で飾るものよ。お手前の武辺が『今義経』の名を成さしめたのであろう?」


 武人に共通する匂いを感じたものか、老人はわずかなやり取りで俺に好意を持ってくれたらしい。人懐っこい笑みを浮かべて酒器を取り上げた。


「お噂はかねがね聞いておった。この年寄りの酒を受けてくださらぬかの」


「これは――」


 あの伝説の武人が俺のような小僧に酌をしてくれるというのだから、大いに恐縮した。注がれた酒を一息に呑み、すぐさま酌婦から酒器を奪って老人の盃に注ぎ返した。

 老人が纏っているのはあずき色の大紋で、吉川家の家紋である「三つ引両」がいくつも染め抜かれている。呆れるほど大柄だが鶴のように痩せていて、腕や首などは枯れ木のように細い。往年はそれこそ鬼のように筋骨逞しい大男だったのだろうが――さすがに現在いまはその面影はない。

 異相――と言うべきであろう。皺深いその顔面には目に付くだけでも六つもの傷跡があり、中でも頬の矢傷が大きく、右の耳たぶは千切れて無い。鉢の広い大頭は綺麗に剃り上げられていて、白く染まった眉毛は長く、落ち窪んだ眼窩の中の眼は細いけれども優しげである。鼻梁は高く、小鼻は張っている。形の良い口の周りから顎にかけて伸びた髭は真っ白だが、肌は乾いた感じではなく、色艶は良い。

 ――これで、九十に届かんというご高齢とは・・・・。

 とても思えない。

 仙人めいた風貌ではあるが、風韻の稚気と瑞々しい眼光が印象をより若やがせているのであろう。百まで生きるのではないかと本気で思えるほどだから凄い。

 この老人は武の道ばかりでなく文の道でも優れた業績と名声を残していて、歌道や文学に造詣が深く、仏道にも通じ禅学を究めたほどの英才なのだという。さらにその書の腕前は名人の域に達し、京あたりの貴顕きけんの間でさえ評価が高いそうで、今上きんじょうの天子さま(後柏原ごかしわばら天皇)から勅命を受け、『古今和歌集』と『伊勢物語』を筆写して朝廷に献上したという晴れがましい逸話まで持っている。

 まさに文武両道の達人であり、武人の理想像と言うべきであろう。およそ中国に暮らす武士なら、我が子にこの老人の爪の垢を煎じて飲ませたいと願ってしまうような偉材なのである。

 盃を空けた老人は、冶部じぶ殿(長兄・興元)の弟御には一度会うてみたいと思うておったのよ、と言いながら意味ありげに笑った。


「実は孫娘の婿を探しておってな」


 孫娘――ということは、元経殿の妹御のことだろう。元経殿とは四十近くも年が離れた妙齢の姫が吉川家にいる、ということは聞いたことがある。

 ――噂の夜叉やしゃ姫か・・・・。

 鬼吉川の姫ならば、夜叉でなければじゃであろう、とか、般若はんにゃのようなご面相に違いない、などと、家中の口さがない者たちが無責任にほざいているのを小耳に挟んだのだ。


「肚を割って言えば、わしは冶部殿にこそと考えておったのじゃがのぉ。高橋の隠居殿にせんを打たれて婿をさらわれてしもうた。冶部殿の弟御には尼子の姫を――と思うた事もあったが、いやいや、縁談を纏めるというのはなかなかに難しい」


「はぁ――」


 と言うくらいしか相槌の打ちようがない。

 確かに三年ほど前――長兄が高橋氏の姫と結婚した前後にそんな話があった。次兄の多治比たじい元就に尼子氏の姫をめあわせようという縁談話で、それは吉川氏からの働きかけであったと聞いたが、尼子氏の側が断ったためにこの話は流れた。

 いずれ戦国の婚姻である。裏に政略的な駆け引きがあるのは当然で、毛利と尼子を縁戚にすることで安芸国人一揆を大内側から尼子側に引き寄せようというのが、尼子氏と強く繋がる吉川氏の狙いであったのだろう。

 しかし、この縁談は纏まらなかった。結果として吉川氏は安芸国人一揆の一員として大内側に留まる決心をし、その延長に明日の千法師の元服がある。吉川家の次期当主は、大内義興の「興」の字をもらって吉川興経と名乗り、大内氏に臣下の礼を取るのである。


「吉川と毛利は、末永う仲良うしてゆくべきじゃとわしは思うとる。なればこそ、孫をやるなら毛利がよい。冶部殿にはすでにご正室がござるゆえ諦めるとしても、冶部殿のしかるべき親族に縁付くのであればわしに文句はない。弟御なればなお望ましい、と思うておるのじゃがな。どうであろう。孫の婿にならんか?」


 話の内容は重大なのに老人の口調は世間話でもしているように軽妙である。


「婿――ですか」


 あまりに唐突な話なので、俺は戸惑った。

 自分が結婚するというようなことは、正直、今まであまり考えたことがなかった。俺は小名の子として生まれたわけで、いずれはしかるべき重臣の娘なりどこぞの豪族の姫なりを妻にするのだろうと漠然と思っていたが、婚姻というのはあくまで毛利家としての政略の一部だから、決めるのは長兄であり重臣たちなのである。俺の一存でどうなるものでもないわけで、そのことについて深く考える必要がそもそもなかった。

 もちろん、別に女が嫌いなわけでもそれを遠ざけているわけでもない。

 母の手前もあり、屋敷の侍女には手を付けてないが、俺に身体を開く娘や後家は郡山の城下には何人もいるから、女が欲しいと思った夜にはそれらを抱けばそれで済んだ。身を固めるとか所帯を持つとか、そういうしがらみを現実として考えるのは、それらの女が子をはらんだ時で十分だと思っていたのだ。

 が、老人はどうも本気であるらしい。


「多治比の次郎殿(次兄・元就)は未だ初陣の噂さえ聞かぬが、お手前の戦場いくさばでのお働きのほどはよう聞いておる。こうして会うてみて、その眼を見れば性根にゆがみがないのも解る。武の道だけでなく文の道にも通じておるようじゃしな。末は頼もしい大将になると視えた。可愛い孫をやるなら、そういう男の元に嫁がせたいというのが、まぁ、武門に生きる者の人情というものよ。まして次郎三郎(吉川元経)の嫁はお手前の姉御。お手前が次郎三郎の妹をめとれば二重のえにしとなる。毛利にとっても悪い縁談はなしではあるまい」


「ご、ご老体、唐突にそのようなお話を聞かされましても――」


 隣で井上元景が大そう周章している。その様子が可笑しくて俺は少し笑ってしまったが、笑ったことでかえって肚が据わった。


「――いや、急なお話で驚き入りました」


「急ではあったかな。じゃが、酒の席ゆえの戯言ざれごとではない。身贔屓でなく、孫はなかなかの器量しじゃぞ」


 老人は自慢げに言うと、遠く上座の近くで酒器を運んでいた若い娘を呼んだ。

 綾地錦の打掛を腰巻姿に巻いたその娘は、上座に座す大内氏の使臣たちに酒を届けて辞儀をし、下げ髪を靡かせながら足早でこちらにやって来た。

 ――ほう、これは・・・・。

 とびきりの美人とまでは言えぬとしても、顔の作りはまずまず整っていて、決して醜女しこめなどではない。しっとりと濡れたような大きな眼がい。陶器のように肌理きめの細かい白い肌。少し厚めの朱唇。鼻梁はやや高い。兄である元経殿にはあまり似ていないから、母親似なのかもしれない。女々した色気はないが仕草に愛嬌があり、小娘らしい健康的な若さに溢れている。

 ――人の噂などというのはアテにならんもんだな。

 思わざるを得ない。

 この娘のどこが夜叉や般若であるというのか――

 娘は老人の隣に座ると、俺たちに向けて手をついて辞儀をした。


「おひさじゃ。十六になる」


「おじじ様、何か御用?」


 老人はその問いを無視して孫娘に俺を紹介した。


「こちらは――お前も聞いたことくらいはあろう。毛利の今義経――相合あいおうの四郎殿じゃ」


「あぁ、この方が――」


 娘が値踏みするような視線で改めて俺を見た。


「物語に出てくる平家の公達きんだちのような涼やかな殿御かと思うておりましたに、存外な――」


 口調に、これが義経か、というようなわずかな失望がある。


「存外な、何です?」


「普通のお方だと思うたまでです。義経には見えません」


 勝手に描いた義経像と比べられても迷惑だが、悪びれもせず、ハキハキとものを言うところには好感を持った。屈託のない娘らしい。


「それはそうでしょう。俺は義経ではないし、義経を自ら名乗ったこともない。人の噂などはアテにならぬものです」


 あなたが夜叉や般若でないように――とやり返そうかと思ったが、それはやめておいた。


「お前の婿にどうかと思うておるのじゃがな。どうじゃ?」


 老人は単刀直入である。

 娘は急な話に狼狽したようで、頬がみるみる真っ赤に染まり、慌てて俺から視線を逸らした。


「どう――って・・・・。わたくしは武門に生まれた女です。けと言われればどこへでも嫁きます」


 拗ねたような口調でそう言い、立ち上がって奥へ去ってしまった。

 嫌だったのだろうか。単に恥ずかしかっただけか。照れた結果であったとすれば満更まんざらでもないのかもしれない。

 いずれにしても――


「いや、ご老体、いかにもいお話とは存じますが――」


 俺の返事はすでに決まっている。


「なんじゃ。孫娘では不足かの? それとも先約でもあったか」


「不足などとんでもない。私のような者にはもったいないお話だと思います。ですが、私の一存ではなんともお返事ができかねる、ということです。ご老体がこのお話を本気でお考えなら、我が兄・興元が正式にお返事つかまつるでありましょう」


 老人はしばらく俺の顔を覗き込むように見ていたが、


「なるほど、わきまえておるな。悦叟院えそういん殿(亡父・弘元)はよい子をのこされたようじゃの」


 と言ってニヤリと笑った。

 俺はもしかしたら試されていたのかもしれない。

 そうも思ったが、さして不快に感じなかったのは、老人の笑顔に邪気がなかったからであろう。



 その翌日、小倉山からそう遠くない龍山たつやま八幡宮で、千法師の元服の儀式がおごそかに執り行われた。

 龍山八幡宮は安芸に入部した吉川氏の初代が勧請かんじょうし、創建した社殿であるそうで、以来二百年、吉川家の人々が篤く尊崇しているのだという。我が毛利で言えば郡山の鎮守社として代々尊崇しているすが神社に当たるやしろということになろう。

 広い拝殿は板敷きで、吉川家の親族と重臣、招かれた他家の使臣が左右に分かれて席に着き、加冠かかんの座と鬢所びんしょを兼ねた神前には畳が敷かれ、白い狩衣かりぎぬ姿の千法師が座った。

 加冠役は大内氏の使臣であるすえ 隆康たかやすという青年が務め、理髪の役は同じく大内氏のなにがしが務めた。白い直垂ひたたれ姿の二人が千法師の理髪を調え、立烏帽子たてえぼしをかぶせる。大内義興自身がしたためたという「興」の字を大書した筆紙が披露され、ここに吉川 次郎三郎 興経という名の若すぎる武人が誕生した。

 大内義興はこの数年、領国の周防すおうを離れて京で権力争いに没頭しているから、わざわざ国許から使者を京まで往復させて元服の承認を得、この筆紙を取り寄せたのであろう。当主の留守を国許で預かるのはすえ 中務なかつかさ(弘詮)という重臣で、加冠役を務めた陶 隆康というのはその子であるという。あまり広い世間を知らぬ俺でさえ、陶氏が大内氏譜代の重臣で、大内家中で最大の軍事力と政治力を持った一族であるという程度の知識は持っている。

 加冠の儀に続いて備服の儀が行われた。いったん屏風びょうぶの陰に隠れた主役の少年は、白の狩衣から鮮やかな青の直垂姿に色を直し、再び神前に現れて八幡大菩薩に礼拝した。

 藤原氏の末を称する吉川氏の氏神うじがみ春日かすが神であるはずで、源氏の氏神を拝むのも妙な気はしたが、八幡大菩薩は武神として広く尊崇されている神だから、これはこれで良いのだと思い直した。考えてみれば郡山のすが神社だって祭神は素盞鳴尊すさのおのみことで、大江氏の氏神である今木神いまきのかみを祀っているわけではないのである。どの神に祈るかなどという事よりも、神前でぬかずく人間がどういう気持ちで祈りを捧げるかという事の方がずっと重要な問題であるだろう。

 続いて三献が行われ、人々は酒を酌み交わして少年の元服を寿いだ。

 この献の合間に、大内義興から元服の祝いとして御剣ぎょけん、鎧、弓、征矢そや、馬の鞍、時服などが進上された。

 ――豪儀なものだ。

 御剣は物語に出てくるような黄金造りの太刀、鎧は五色の糸でおどされた見事な大鎧(子供の体格ではとても着こなせないだろうが)で黄金作りの龍を立て物に打った兜まで付いており、鞍は蒔絵の入ったまことに煌びやかなものである。これほど絢爛豪華な武具は、長兄が元服した時にやはり大内義興から贈られたものを除けば俺は見たことがない。大内氏は日本でもっとも富強な大大名だと聞いているからこれくらいは当然であるのかもしれないが、それにしても合戦いくさで使うことが惜しくなるほどの逸品であった。

 の刻(午前十時)あたりに始まった式は、その後に行われた祝宴も含めてひつじの刻(午後二時)にはすべて滞りなく終わった。姉もその夫である元経殿も、穏やかな微笑を浮かべて我が子の晴れの式を見守っていた。

 俺はそのまま帰路につくつもりであったので、姉夫婦に丁重に挨拶をした。

 それに気付いたのであろう、その場に経基翁と国経殿(姉の義父)がやって来た。


「ご病床の冶部殿にはよしなに伝えてくだされ。冶部殿の病が良うなったら、わしから冶部殿に正式に話を持ってゆくつもりでおるでな」


 別れ際、老人は好意の篭った笑顔でそう言った。

 ――この俺が妻をめとるか・・・・。

 あのお久という娘の濡れたような大きな眼を思い出し、それも悪くないかと思ったりした。

 が、この話が実現することはついになかった。

 長兄の病は癒えることはなく、この日から半月ほど後にそのまま黄泉路よみじに旅立ってしまったからである。

 それは、俺にとって――毛利家にとっても――まさに青天の霹靂へきれきと呼ぶしかない痛恨事だった。




<*注釈1>

 「献」とは酒と肴を出して進めることで、一献の膳には複数の肴が乗る。大内義興が編纂させた『大内問答』によれば、饗応において献の数は特に決まりはなく、饗応の予算や接待する客次第であったようだが、七献、九献、十一献など、いずれも奇数の膳が出るのが慣例であるという。将軍のような高貴な上級武士を接待する場合、十七献というような数でも行われることがあったらしい。(参考:『中世武家の作法』/二木謙一著)



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