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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第四章 吹き荒れる腥風
29/62

嵐の前の静けさ(二)

 この時代、全国の街道や川の渡し場などには驚くほど多くの関所がある。

 交通量の多い街道ではそれが特に顕著で、たとえば伊勢では、伊勢神宮への参拝客を当て込んで、松坂から伊勢神宮・内宮までのわずか五里ばかりの間に数十ヶ所もの関所が作られ、どのルートを選んでも片道百文以上の関銭が必要であったらしい。在地領主にすれば、通行税は貴重な現金収入源であり、それを取ることは当然の権利だったのである。武士や百姓といった土地に定住する人々は、地方をまたいで長距離移動をすることはそもそも稀なのだが、旅行などしたくともできないというのが実情であったろう。

 現代に比べて人の移動が少なく、通信手段も限られているから、当然ながら情報の伝達経路は格段に少なくなる。そんな中世においては、関所を素通りできる宗教関係者の存在が、情報の伝播に非常に重要な役割を担っていた。

 出雲の尼子経久が、杵築きつき大社(出雲大社)の遷宮せんぐうを独力で執り行ったという噂を元綱が聞いたのは、遠乗りの帰りにふらりと常楽寺に立ち寄った時だった。


「『天下無双の大廈たいか』と讃えられるあの杵築大社きつきのおおやしろですよ? ご遷宮ともなれば、いったいどれほどのついえが掛かるのか、正直なところ想像もつかない。大したものだと思いましたね」


 墨染の直綴じきとつ姿の清げな少年が、尼子経久の偉業を口を極めて褒めた。

 年齢は十七、八であろう。奇麗に剃りこぼった頭の下で、切れ長の眼がいかにも利発そうに輝いている。元綱の父である弘元ひろもとの四男坊で、元綱の腹違いの弟である。僧名を就心しゅうしんという。


「毛利じゃぁこの寺を建て替えることさえ難しいでしょう? 今の日の本で杵築大社のご遷宮を成せるほどの財力があるのは、大内のお屋形さまを除けば、西国では出雲のお屋形さまか、阿波あわ・細川家の執事である三好みよし筑前ちくぜん殿(之長ゆきなが)くらいじゃないかなぁ」


「法衣を着てるくせに、えらく娑婆しゃばくさい事を言うじゃないか」


 元綱が揶揄からかうと、


「私のような長袖者ちょうしゅうしゃは、浮世を離れておるからこそ、浮世の姿がよう見えるのですよ。たとえば川に棲む魚は、己が棲んでおる川の姿を見ることはできぬでしょう? それと同じです」


 弟はなぜか大いに威張った。長袖者というのは、公家、僧侶、神職、学者といった人々を指す。


「実はつい先日、越前のご本山から人が参りましてね」


 修行のために西国を遊行していた僧が常楽寺に立ち寄り、道々見聞きした話を色々と聞かせてくれたのだという。

 ちなみに常楽寺は曹洞宗の禅寺である。禅はこの時代においてもっともモダンな思想的流行であったが、同じ禅宗でも、この時代ですでに十四の宗派が乱立する臨済宗と違い、開祖・希玄きげん道元が宗派を名乗ることを禁じた曹洞宗では宗派が分立することはなく、その大本山として福井県の永平寺えいへいじと石川県の總持寺そうじじが並び立ち、この二寺が全国の曹洞宗の寺院を総覧していた。戦国期に曹洞宗の寺院がどれほどあったかは判然としないが、現在は全国で一万三千余を数えるという。明治期の廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動が起こる以前はそれよりさらに多かったであろうことを思えば、曹洞宗の情報網がいかに充実していたかが想像できるであろう。中央政権と結びついて学芸・文化の中心として君臨した臨済宗が、室町幕府の凋落ちょうらくと共にやや停滞し、生彩を欠いたことに比して、曹洞宗は戦国期に地方の豪族や庶民と結びついて大いに勢力を伸ばしているのだが、それも理由のないことではなかったのである。

 その曹洞禅の堂宇どううで春秋を送っている就心は、自然、諸国に対する広い眼を持っている。


「大内のお屋形さまが京を去られて以来、上方ではひどい争乱が続いているのだそうですよ」


 と言った言葉にも、充分な論拠があった。

 大内義興が京を去って以来、政治的・軍事的バランスが崩れた畿内では、大内軍に京を追われた細川澄元が本拠の四国・阿波あわで勢力を盛り返し、足利義稙を擁して京を牛耳る管領・細川高国と激しく争っていた。細川政元が暗殺された「永正の錯乱」から十年以上にわたって続くこの細川氏の内訌を、俗に「両細川の乱」と呼ぶのだが、このことによって細川氏は決定的に勢力を弱め、その家来であった三好氏の台頭を許すことになる。


「公方さま(足利義稙)は管領殿(細川高国)との仲がいよいよ険悪となり、敵であった細川澄元殿と結ぼうとなされておるという噂さえあるそうです」


「ふ~む」


 元綱は鼻から息を吐いた。


「いずれ雲の上の話だなぁ」


 対岸の火事どころか、別世界の出来事という顔である。

 少年はやれやれと首を振った。


「その雲の上の争いが、こんな安芸の大田舎にまで及んでくるから、侮れぬのではないですか。『応永の乱』でも『応仁の乱』でも毛利は兵を出しています。父上が若くして隠居されたのも、大内のお屋形さまが幕府と喧嘩をしたからでしょう」


 その通りなのである。

 父の弘元は、幕府――つまり管領である細川氏――から現将軍・足利義澄の命に従うよう迫られ、臣従していた大内義興からは庇護する前将軍・足利義稙に味方するよう命じられ、進退が極まった末に、三十三歳の若さで隠居するという奇策をひねり出したのだ。当時まだ八歳だった兄の興元に家督を譲り、大内義興にその庇護を頼むと同時に、自らは多治比の猿掛城に居を移し、幕府の命を奉じる姿勢を取ったのである。毛利家を大内派と幕府派にあえて割り、双方に良い顔をするという実に際どい外交を、病死するまで七年間も続けていたらしい。

 毛利のような地方の小豪族でさえ、中央の政情にそれほど大きな影響を受けるのだ。


「多治比の兄上は、『他国の話を耳に入れたらどんなことでも報せてくれ』と私に頭を下げに来ましたよ。幸松丸さまを後見するお立場だから、色々と気苦労も多いことと拝察しています。相合の兄上は部屋住みだからと気楽に構えておられるが、政治向きのことにも少しは関心を持ったらどうですか」


「はは。耳が痛い」


 苦笑せざるを得ない。


「だが、『船頭多くして船山を登る』ということもある。そうでなくとも今は衆議で家政を執っておるのだからな。俺などは遊んでるくらいでちょうど良いのさ。俺がお前のように口煩くさえずってみろ。兄者はそれこそやりにくいだろう」


 武士の人生の主題は、単純であるほど良いと元綱は思っている。元綱が現代人であれば「シンプルに生きたい」とでも表現したであろう。自分が毛利家の役に立つことといえば、戦場の働きしかない。毛利家のために戦い、いずれどこかの戦場で死ぬ。

 ――俺の生は、ただそれだけでいい。

 武門の家に庶子の三男坊として生まれついてしまった以上、それ以外の生き方はむしろ考えるべきではないのである。そこがブレさえしなければ、人生が余計な迂路に入り込むこともないであろう。

 文章もんじょう博士――つまり歴史学者の家系に生まれた元綱は、「政治」が、ときに悪魔的な運命を織りあげるものだということを知っている。どれほど多くの武家が内部抗争によって滅んでいったかを知っている。兄弟や肉親が争い、親が子を殺し、兄が弟を殺した実例を、いくらでも挙げることができた。

 たとえば義経は、平家打倒という目的のためだけに生き、すべての情熱をその一点に注いだはずだが、後白河法皇に取り込まれ、政争の具にされたがために、兄である頼朝の手によって滅ぼされねばならなかった。その悲劇の人生は「物語」にはなったが、すべての栄光と功績を否定され、慕った兄から憎まれ追われ、惨めな形で望まぬ死を強制されたことは、義経にとって血涙を流すほどに不本意であったろう。

 義経を研究し尽くした元綱が、それと同じ轍を踏みたくないという想いを抱くようになったのも、ごく自然な成り行きであった。


「俺は芝居(戦場)で働いておれば良いのさ」


 という元綱の台詞は、「政治」からは極力遠ざかっておきたいというその信条を、逆説的に表しているのである。

 が、弟の理解はそこまでは及ばなかったらしい。


「兄上は親になっても合戦いくさのことばかりですねぇ」


 と、呆れたように言った。


「まぁ、欲がないのは悪いことではないけれど――。いずれ兄上もどこぞに領地をもらって家を立てることになるでしょう? それを継がせる子も出来ましたしね。己の家を持てば、おのずと考えるところも違ってきますよ」


「そうかもしれんな」


 この話を続けるのも面倒なので、元綱は曖昧に頷いてみせた。

 ちなみにこの弟は、後に還俗して武士に戻り、きた氏の名跡を継ぎ、北就勝なりかつと名乗ることになる。足が悪かったこともあり、戦場働きは不得手だったようで、目立った武功の記録は残ってないが、毛利元就の弟として私心少なく毛利本家をよく支えた。

 余談の余談になるが、弘元には侍女に手をつけて産ませた息子がもう一人ある。見付みつけ元氏もとうじという名で知られる人物で、弘元の庶子としては遇されず、家臣として毛利家に仕えたらしい。母は井上一族の井上元信という男の娘であったという。元綱の兄に当たるのか弟になるのか、その年齢は不明としか言いようがないのだが、この物語では、見付元氏を弘元の五男とし、現在は井上元信の元で素性を隠して養育されていることにしておきたい。

 元綱は、しばらく弟と笑語して、日暮れ前に相合の屋敷に帰った。

 その夜、ゆきの部屋で盃を傾けつつ、出雲大社の遷宮の事を教えてやった。


「あっ、ご遷宮は無事に終わりましたか」


 ゆきはパッと顔を明るくした。


「本当に、よろしゅうございました」


 感慨深げに瞑目し、両手を合わせた。

 尼子経久は、出雲大社の遷宮のための仮殿かりでんの造営を、永正五年から始めていたのだが、この初夏、実に十一年の歳月を掛けてついに落成し、仮殿遷座せんざを実現してのけたのである。出雲大社に残る記録によれば、このとき経久は、境内に大日堂、三重塔、輪蔵、宝庫など仏式の建物をも建立したという。四月二十八日に行われたというその遷座祭が、諸豪の度肝を抜くほどの盛大さで執り行われたことは言うまでもないであろう。


杵築大社きつきのおおやしろか――。一度はこの目で見てみたいものだ」


 梅雨明けしたばかりで、夜だというのに部屋はやけに蒸し暑い。

 酒器を置いたゆきは、扇子を広げ、優雅な手つきで夫に風を送り始めた。その背後には小ぶりな蚊帳が吊られ、中でさち鶴寿丸かくじゅまるをあやしている。


「本殿は雲をつくような高さと聞いたことがあるが、実際どのようだ?」


「四朗さまもお聞き及びとは思いますが――、『天下無双の大廈たいか』と讃えられます御本殿は、神代かみよの昔には三十二丈(九六メートル)もの高さがあったと伝わっております」


「三十二丈!? 本当か?」


 元綱は仰天した。ほとんど小山ではないか。


「そんな建物を人の力で作ることができるものなのだな。しかも、大昔のことなのだろう?」


「そのように伝えられておりますわ。けれど、残念なことに、それほどの高さの殿舎を建てるだけの技術わざが、今では失われてしまったのです。それでも平安の頃までは大和(奈良)の大仏殿よりも高かったそうなのですが――。今は十丈(三十メートル)ほどに過ぎません。造営しておりました仮殿の方も、同じくらいの高さになっておるものと思います」


「十丈でもまだ小さいというのか・・・・」


 元綱がこれまで目にした中で最大の建築物と言えば、幼い頃に参拝した厳島神社である。海面にそびえる朱塗りの大鳥居は圧巻で、その大きさに驚倒したものだが、高さはせいぜい五丈ほどだったはずだ。十丈もの高さの拝殿というのは、もはや想像を絶している。


「出雲のお屋形の富強のほどが知れるな。いったいどれほどの銭が必要になるのか、想像もつかん」


「お屋形さまには、銭や材木など、多くの寄進をして頂きました。私たちのような巫女や、御師おしの方々も、諸国を巡り歩いてご喜捨を集めておりました。長年の念願でありましたから、ご遷宮が無事に行われたと聞けば、素直に嬉しゅうございます」


 妻の笑みを眺めつつ、


「さもあろうが・・・・」


 元綱は思案顔になって盃を含んだ。


「これで出雲のお屋形は、国内での仕事にひとつケジメをつけたことになる。大社の神威を光背こうはいのようにして、権威にもさらに箔が付いた。ご遷宮の祝いに駆けつけた豪族たちの結束も強うなったであろう」


 ゆきが何かに気づいたように顔を上げた。


「他国に打って出るおつもりじゃと・・・・?」


「そうなるような気がするな。まず狙うは、石見か、あるいは備後か――。この安芸も、遠からず必ず騒がしくなろう」


 嵐がやって来るような不安を、ゆきは覚えた。



 日差しが真夏のものになって、多治比川の川面の輝きも変わった。

 お久は、生まれたばかりの我が子を抱きながら、猿掛城の城頭からその輝く帯を眺めていた。

 安らかな寝息を立てている愛娘に、夫の元就はきくという名を付けた。

 蝉の声がかまびすしい。


「お方さま、新庄のお父上さまがもうお着きになりますよ」


 老女のお静がそれを報せに来た。


「判っていますよ。ここからお父さまの一行が来るのを眺めていたの」


 父である吉川国経が久方ぶりに多治比にやって来ることは、先触れによって昨日のうちに知らされていたのである。


「まぁ、それでは何をのんびりとなさっておいでですか。早くお出迎えのお支度をなさいませんと――」


「お料理の支度などはもうすべて済んでいるでしょう? わざわざ着替える必要もないし。――お静は何を慌てているの?」


「いいから早くお部屋にお戻りください。お殿さまがお待ちになっておられますよ」


「あら、旦那さまが? それなら最初からそう申しなさい」


 お久が早足で庭を廻り、つぼねの前まで来ると、その濡れ縁に夫が座っていた。


「申し訳ございません。お待たせを致しました」


「あぁ、いいんだ。今しがた先触れの者が来たのでな。もうおっつけしゅうと殿も到着なさるであろう」


「はい」


 元就が手を出したので、お久は幼児を夫に手渡した。

 馴れぬ手つきでやや恐々と赤子を抱いた夫は、その無垢な寝顔を眺め、優しげに微笑した。


「孫を抱くというのはどういう気分なのであろうかな。我が子を抱くより嬉しいものだろうか」


「さぁ、どうでしょう? でも、父にはもうたくさんの孫がおりますから――」


 特別珍しいことでもないだろう、とお久は思う。お久には兄が三人と姉が一人おり、それぞれすでに子を成している。

 しかし、その国経にとっても、お久の生んだ子はやはり特別であったらしい。お久は老境になってから授かった末娘であり、格別に可愛がっていたのである。孫を抱いた国経は、顔をくしゃくしゃにして喜んだ。


「でかした!」


 抱き上げた菊を高く掲げ、上下左右から眺め回し、眼は父親似だとか口元は母に似ておるなどと、他愛ない感想を言って笑った。


「気の早い話だが、次は是非とも男児おのこを産んでくれよ」


 言われたお久は苦笑せざるを得ない。隣で元就も同じような顔で笑っていた。


「父上はお前をよう可愛がってくだされたでな。この子を見ればどんなにかお喜びになるだろうが――」


 国経の口調が珍しくやや気弱げである。


「お爺さまがどうかなされたのですか?」


 鬼吉川――吉川経基つねもとは、次の正月で九十三になる。


「うむ。実は――、先ごろから病みつかれてな。具合があまり良うない」


「・・・・お悪いのですか?」


「お年がお年だしの。どこが悪いというより、天寿を迎えようとしておられるのやもしれん」


 お爺ちゃん子であっただけに、お久は胸を締め付けられるような切なさを感じた。仏教では生老病死しょうろうびょうしを「四苦」と呼び、怨憎会苦おんぞうえく愛別離苦あいべつりく求不得苦ぐふとっく五蘊盛苦ごうんじょうくと合わせてこの世に「八苦」があるとし、人の営みの一切を「苦」であると説く。生まれて来る命があれば、老い衰え、失われてゆく命があることも自明であり、そのことはお久もよく解っているつもりであったが、解っているからといって愛別離苦あいべつりくの悲哀から逃れられるものでもないであろう。

 しんみりとしてしまった場を仕切り直すように、国経は声を明るくした。


「そうそう、お前の叔母上から手紙ふみを託ってきたのだ」


 国経は菊をお静に返し、持参した文箱から書状を取りだした。

 お久の叔母――国経の妹は、尼子経久の正室となり、出雲の月山富田城で暮らしている。歳が三十近くも離れており、お久が生まれた頃にはすでに出雲へ嫁いでいたこともあって、その顔を見たことさえないのだが、お久が吉川家にいた頃は、四季の手紙のやり取りや贈り物の交換といった形で交流は続いていた。


「アレにとって、お菊は姪孫てっそんになる。祝いも送ってくれたのでな、持ってきた」


 手紙は流麗な女文字で、無沙汰を詫びる型通りの挨拶と、お久の初子の誕生を祝う言葉が並んでいた。


「お前の耳にも入っておるやもしれんが、お菊が生まれる少し前に、杵築大社の遷宮が無事に行われたそうじゃ。出雲のお屋形が十年を掛けて仮殿を建てたのだそうでな。お前からも叔母上に祝い状を書いておきなさい。大朝へ届けてくれれば、あとはわしの方から出雲へ送っておこう」


 叔母の縁を頼って、さりげなく尼子氏との誼みを深めておけ、という裏の意味も込められているのであろう。それに気付けぬほどお久も元就も鈍くはない。

 その夜、お久たちは父の一行を饗応した。

 酒豪の国経は痛飲し、酒を飲まぬ元就はその応接に苦労させられたようであった。しかし、その国経も政治的な話は一切しようとはしなかった。

 大内、尼子という二大勢力に挟まれた安芸に住む豪族たちは、両者の鼻息を窺いながら去就を決めねばならない。それは当然のことだが、お久は、大内氏や尼子氏がどれほどの軍事的・政治的実力を持っているか、といったことを実感として知っているわけではなく、両者を比べようもないから、どちらにつくことが自分たちの身の安全に繋がるのかというもっとも肝心な部分に定見が持てないでいた。実家の吉川氏が尼子氏寄りであることは解っているものの、その選択が正しいかどうかまでは判断できないのである。

 小豪族は「自家の生き残り」を真っ先に考えるべきであり、そのためには勝つ方につかねばならない。大内と尼子のどちらが勝つのか――。どちらが安芸を支配するのか――。元就にその定見があるのなら、聞かせてもらいたいとお久は思っているのだが、毛利家は大内氏に臣従しているという公然とした事実がある以上、大内氏への裏切りを暗示するようなことを直接的にはきにくく、これまでその話題には触れずに過ごしてきた。

 が、いつかは通らねばならぬ道であろう。

 翌日、父が帰った後、お久はあらためて元就に訊ねてみた。


「ご当家は大内のお屋形さまを主君あるじと仰いでおりますが、わたくしが出雲の叔母と懇意にしておるなどと世に聞こえれば、元就さまのお立場が危ういことになりはしませぬでしょうか」


 しばらく考えた元就は、ことさら気軽い口調で言った。


「・・・・まぁ、大事あるまい。答礼は当然の礼儀だしな。そもそも私のような小身な者のことなど、それほど気に掛けておる者もあるまいし――」


「けれど、元就さまは幸松丸さまのご後見としてご当家の家政を司っておられます。いざ合戦となったとき、総大将としてご当家の軍配を執られるのも元就さまでございましょう? 大内のお屋形さまにせよ、他家の方々にせよ、そういう目で元就さまを見ておられるはずですわ」


「ほう、よう気付いた」


 元就は微笑した。


「お久は知恵者だな。物がよう見えておる」


「またお揶揄からかいになって――」


「いや、本心からそう思って感心している」


「わたくしが姪であるからといって、出雲へ余計なお気遣いはご無用でございますよ。そのことで元就さまが大内のお屋形さまより睨まれ、苦しいお立場に立たされるようでは困ります」


 子を生んだことで、お久のなかで少なからぬ変化が起こっている。優先順位が変わったと言ってもいい。吉川家よりも毛利家よりも、多治比家こそが大事だと、心から思えるようになっていた。

 思案顔で腕を組んだ元就は、今度は慎重に言葉を選ぶようにして言った。


「正直なところ、大内からも尼子からも睨まれたくはないな。毛利のような小家こやけは、長い物には巻かれるしかない。――が、同じ巻かれるにしても、上手に巻かれてゆかねばならぬ。紆余も曲折もあるだろうが、生き残らねば何もならんからな」


 微笑とも苦笑とも見える笑みが口元に浮かんでいる。


「まぁ、そんなわけだから、周防へはもちろん礼を尽くさねばならんが、出雲へも義理は欠けぬ。叔母上への礼状は懇ろに書いてくれ」


 場合によっては尼子に寝返る、という意味に取れぬこともない。

 ――ご本心かしら。

 お久のような豪族の姫は、他家に嫁いだ瞬間から、外交官と間諜を兼ねたような役割を担うことになる。婚家と実家の友好のシンボルになることはもちろんだが、婚家の情報を密かに実家に伝えたり、場合によっては実家の利益のために夫を動かすことさえ求められるのである。夫の元就も当然のこととしてそれを承知しているわけで、婚家と実家の利害が明らかに相反するような時、いかに夫婦といえど肚を割って話せぬことはあるし、話さぬ方がお互いにとって良い場合だってあるだろう。

 ――それとも何かご思案があって、韜晦とうかいしてらっしゃるのかしら。

 問わずとも、語らずとも、夫の心情が判るようにならねば本当の妻とは言えない。お久は己の未熟さが歯痒かった。

 だが、当の元就にしても、未来に対して確固たる展望があるわけではなかった。

 ――大内、尼子のいずれが安芸を取るにせよ、安芸の豪族たちのなかで毛利を安泰な位置に置いておきたい。

 というのが、口には出せぬ元就の本音なのである。

 高橋氏という大樹の陰に隠れつつ、国人一揆(豪族連合)という特殊なカードを陰に陽に利用しながら、大内・尼子という二大勢力が起こすであろう大波に呑まれぬように毛利家の舵を切ってゆく。

 この時期の元就の思案といえば、そのあたりが精一杯であったろう。



 さて――。

 相合の元綱の屋敷の裏側は、ほんの一町も行くと藪に覆われた小山になっている。

 郡山の西尾根に当たる天神山の山裾に盛り上がった丘のような山で、地元では船山と呼ばれている。比高にしてわずか三〇メートルほど。その鼻先を山部川という細流が巡り、相合川へと流れ込んでいる。

 独り静かに剣を振りたくなったとき、重蔵はよくその山に登った。山頂付近に藪のない広場のような場所があり、しかも樹木に囲まれて人目につかないから、重蔵のお気に入りであった。

 剣術は合理である、と重蔵は思っている。

 その型は先人たちの長い研鑽と練磨の果てに作りだされたものであり、それが型として残った以上、勝つべくして勝つ理由、相手を打ち負かす道理がそこに必ず込められている。

 あとは、その動きをどれだけ速く行えるか、であろう。筋力や体力はもちろん必要ではあるが、それに頼って身体を「動かして」いるうちは本質ではなく、あくなき反復練習によって身体が反射として動くようになって、やっと「入口」に立てたことになる。そこからさらに基礎的な筋力や体力を鍛え、技を磨き込んでゆかねばならない。

 船山に登った重蔵は、そこで型を反復し、そのひとつひとつの動きに無駄がないことを点検する。あえてゆっくりと動き、身体に染みついた動きにズレや歪みがないかを入念にチェックし、それを終えると、今度は限界まで動きを速く行ってみる。


「技は心にしたがうものじゃ」


 宍戸家俊の言葉を思い出し、重蔵はふと動きを止めた。

 ――わしの技に心はあるのか。

 反射の動きに心の介入する余地があるのか。刹那の時間に凶刃が交錯している瞬間、心は何かを想っていただろうか。

 ――無我の境地ということもある。

 同じ動きを心が擦り切れるまで続けていると、ある瞬間、意識がふっと消え、身体がひとりでに動いているような錯覚を覚えることがある。無我に没入しているその時、身体は、技は、心にしたがっていると言えるのだろうか。その瞬間、宍戸家俊と重蔵とでは、心事がまったく違うのであろうか。

 そのようなことを考えていると、ふと思い当たることがあった。

 戦場でたびたび経験したことなのだが、まさに戦っている最中、周囲のすべての動きが急にゆっくりになり、そのスローモーションの世界で自分だけが普通の速度で動いているような、不思議な錯覚に襲われたのである。敵兵の槍先、太刀先が鮮明に見え、それを容易にかわすことが出来、自分の槍、太刀は面白いように正確に敵の急所を襲った。まさに一瞬の出来事であるのだが、その一瞬を、重蔵は数秒間にも感じた。普通ならいちいち物を考えることなどできるはずのない一瞬に、いくつもの思考をし、行動を選択したことを覚えている。

 どういう契機きっかけでそれが起こるかは解らない。自ら意識的にその状態を作り出すことも今の重蔵にはできない。しかし、通常では意識できない刹那の瞬間を、心のままに動いていたことになるのではないか。

 それは宍戸家俊が示唆したものとは違っているかもしれない。まったく別のことであるかもしれない。しかし、どこかで相通ずる部分があるようにも思える。

 ――解らぬことだらけだ。

 そういう自問自答を、これまで重蔵は己に課したことさえなかった。あの修験者が、自分のどれほど先を歩いているかを、そういう部分でも思い知らされる。

 それとはまた別に、宍戸家俊の言葉で、重蔵の頭を離れぬものがある。


鬼一法眼きいちほうげんが義経に授けし兵術の妙理――」


 あの修験者にあって、自分に足りないものはそれだ、と重蔵が単純に思ったわけではない。しかし、ああいう言い方をされると、それがどんなものであったかを知りたくなるのが人情であろう。

 鬼一法眼というのは、「京八流」の祖と言うべき半神的な兵法者であり、はた家に伝わる義経流の剣術においても遠祖と言うべき人物である。同時に呪術を極めた陰陽師おんみょうじであり、兵術家でもあったと伝わっており、重蔵のなかでは人間というより天狗や仙人に近いイメージがあった。

 その鬼一法眼が、義経に授けたという兵術の妙理――。

 それを会得した義経は、軍を率いて負けたことがなく、天才的な戦術を駆使して平家軍を次々と撃破し、日本史上未曾有の功績を打ち立てたのである。それだけに、その「妙理」がいかにも神秘的な風韻を帯びたものに思えてくる。

 ――なにやらいわくありげな・・・・。

 それは修験の行にも通ずる怪しげな秘儀なのだろうか。あるいは単に戦術の引き出しか。それとも兵法の技にも通ずる合理であろうか――。

 一日、酒の席で、考えも纏まらぬまま、そのようなことを口に出してみた。

 その話を聞いていた元綱が、


「あぁ、『六韜りくとう』のことだろう」


 と事もなげに言ったので、重蔵は仰天した。まさか回答が得られるなどとは思ってもいなかったのである。


「りくとう!? りくとうとは何です!?」


唐土もろこし兵法へいほう書だ」


 元綱はさも当然という顔で答えた。

 古代中国、周の軍師・太公望が著したとされ、武経七書にも数えられる代表的な兵法書である。全六巻・六十篇で構成されており、同じく太公望の著作とされる『三略』と併称して俗に『六韜三略』とも呼ばれる。


「『義経記』に『義経鬼一法眼が所へ御出おいでの事』という段があってな。そこで義経は鬼一法眼に会ってこう言っている」


 元綱は宙を睨むようにしてそれを暗唱した。


「『御坊は異朝の書、将門まさかどつたへし六韜兵法と云ふ文(書物)、殿上でんじょう(朝廷)より賜はりて秘蔵して持ち給ふとな。其の文わたくしならぬ物ぞ。御坊持ちたればとて、読知よみしらずば教へ傅ふべき事もあるまじ。ことわりげてそれがしに其の文見せ給へ。一日のうちに読みて御辺にも知らせ教へて返さんぞ』」


 六韜兵法――確かにそう聞こえた。


「まぁ、実際、鬼一法眼が義経に授けたのかどうかは判らんがな。『義経記』では、義経が法眼の娘を籠絡たぶらかし、『六韜』を騙して奪い取ったように書いてある」


「そうなのですか・・・・」


 重蔵の認識では、牛若丸と呼ばれた頃の義経は、鬼一法眼によって剣術と兵術を授けられたものだとばかり思っていたのだが、『義経記』ではそういう書かれ方はなされていないらしい。


「なんだ、読みたいのか? 妙に説教臭いし、別に大したことも書いてなかったように思うが――。読みたいなら郡山城にあるぞ。いや、今は兄者が持っておったのだったかな」


 数日後、元綱は約束通り『六韜』を兄から借りて来てくれた。

 と、同時に、もう一冊、古びた和綴じの小冊子をも貸してくれた。

 表紙に『闘戦経とうせんきょう』と題書がなされている。


「・・・・これは?」


江家ごうけに代々伝わる軍略の奥義の書だそうだ。毛利の当主が相伝してきたものらしいが、どういうわけか、父上はそれを俺にくだされた」


「ご当家の、いわば家宝のごとき書ではありませんか。そのような物を、わしのような者に読ませてもよろしいのですか」


 畏れ多い、という感覚ではない。毛利が大江氏の末裔なら、重蔵だって上北面・秦出羽守でわのかみの歴とした末裔であり、血の尊貴さにおいてそう引けを取るものではないのである。ただ、家にはそれぞれ家法というものがあり、毛利家が門外不出としているであろう書物を自分のような門外漢が読んでも良いのか、というところに重蔵の躊躇ちゅうちょと遠慮がある。

 しかし、元綱は、


「構わんさ。文字はしょせん文字に過ぎんからな」


 まったく気にした様子もなくそう言った。


「それを読んだとして、それで軍略の蘊奥うんのう(奥義)を極められるというなら、毛利の武将は合戦の天才だらけということになる。知ったところで解る者と解らぬ者があり、血肉になる者とならぬ者があるのだ」


「そういうものですか・・・・」


「いや、実は今のは父上の受け売りだ」


 元綱は照れたような笑みを見せた。


「父上は、読んだら忘れよと申していた。忘れたらまた読めとも申していた。そうしておれば、そのうち何やら解ったような気になれる――と・・・・。その書に書かれておることは一字一句まで憶えてしもうたゆえ、今さら忘れることも難しいのたが、俺自身、その真髄を解っておるのかおらぬのか、未だに自分でもよう判らぬ」


 開いてみると、『六韜』はもちろん、『闘戦経』も漢文で書かれている。重蔵には読解が難しそうである。


兵法へいほう兵法ひょうほうは別のものだが、裏を取ったり虚を衝いたり――人を相手にするという点では同じだ。お前の兵法ひょうほうに、その書から何か得るものがあれば、儲けものだろう」


 その殊遇に重蔵は感動し、嬉し涙が溢れてきた。

 ――四朗さまにお仕えできて良かった。

 と、この時ほど思ったことはない。


「ありがたく――しばらくお借りします」


 重蔵は二冊の書籍を胸に抱き、主人あるじに深々と頭を下げた。




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