宍戸氏の武威
安芸の東隣にある備後という国は、政情が少々ややこしい。
この時代、備後の守護は山名氏であったが、最盛期には十一ヶ国の守護を兼ね、日本の六分の一を支配したというこの名門守護大名も、「応仁の乱」で本家と庶家が割れて争ったために弱体化し、大内氏、尼子氏、赤松氏、浦上氏などに領国を次々と蚕食され、あるいは地元の豪族たちが支配を脱して独立するなどしたために、領国の大半でその実権を失い、わずかに但馬、因幡、伯耆の三国を保持するまでに衰微していた。
守護の支配が利かなくなった備後では、守護代を務めた山内氏(山内首藤氏)が北中部に大きな威勢を持つようになり、南部には守護・山名氏の庶家と桓武平氏の名門・杉原氏が勢力を張った。
備後北中部には、三吉氏、和智氏、多賀山氏、宮氏、田総氏、馬屋原氏、有福氏などの豪族がある。これらはもちろん一枚岩ではないが、勢力の大きさと門地の尊貴さにおいて山内氏が頭ひとつ抜けており、彼らの盟主のようになっていたわけである。
ところで、安芸の北部において備後と境目を接しているのは、高橋氏、宍戸氏、毛利氏である。このうち高橋氏は明確に備後への侵出を企図しており、その高橋氏と同盟している毛利氏も、高橋氏に引きずられる形で備後の国衆とはたびたび兵火を交えていた。
一方、宍戸氏は先代の頃までは備後とは不仲だったのだが、宍戸元源の代になって山内氏の当主・山内直通の娘を嫡子・元家の妻に迎え、これと同盟した。宍戸氏は膨張を続ける高橋氏によって常に領土を脅かされており、これに対抗するために備後の山内氏の傘下に入り、敵の敵を味方につけたわけである。
大内義興が上洛戦を起こしたときは、山内氏はこれに協力し、備後の豪族たちも多くがそれに従った。安芸と備後の国衆が同じ旗の元に属したわけで、芸・備の境目でも一時的に兵火が途絶えていたのだが、しかし、尼子経久が大内義興と敵対し、備後に触手を伸ばし始めると、山内氏はいち早く尼子氏と婚姻関係を結び、これと同盟した。以来、備後北中部は尼子氏の影響下にあり、宍戸氏を含め山内氏傘下の豪族たちも尼子方についている。
芸備国境で高橋氏・毛利氏と実際に戦っているのは、山内氏ではなく、その傘下の三吉氏である。
当主を新兵衛尉 致高といい、その嫡子を隆亮という。両者とも年齢が確定できる資料がないのだが、子の隆亮は七十年後の天正十六年(1588)まで生きているから、没したのが仮に八十代であったとすれば、このとき十代の少年ということになる。父の致高はこの二十五年後にも現役であった証拠の起誓文が遺っているので、このとき三十代と考えるのが無難であろう。
三吉氏は三次盆地東方の比叡尾山城に本拠を置き、備後北西部に五万石ほどの勢力を持つ大豪族であった。兵の動員力で言えば毛利氏の二倍以上を集めることができる。ちなみにこの時代、三次は備後でも有数の商業都市で、数百軒の商家が軒を並べていたという。これが三吉氏の富強の種であったろう。
その三吉氏は、安芸の高橋氏とはとにかく仲が悪い。
膨張を続ける高橋氏は古くから東の三次盆地への侵出を企てていて、三吉氏との戦いを繰り返していた。四年前にはその合戦で高橋久光の嫡子であり先代当主であった元光が討ち死にしてさえおり、高橋氏にすれば三吉氏はまさに仇敵であったろう。合戦はほとんど年中行事のようになっていて、毎年数回は鉾を交えているのだが、この永正十六年(1519)もその例外ではなかった。
雪が融け、戦火の季節になると、さっそく高橋久光が郡山城にやって来たのである。
「明後日、我らは三吉の加井妻城を攻める」
毛利家の重臣たちを集め、久光は開口一番そう言った。
加井妻城というのは安芸と備後の境目にある山城で、別名を青屋城とも言い、三吉氏の重臣・青屋友梅という入道武将が守っている。支城の茶臼城、勝山城と共に三次盆地への入口を扼する重要拠点であり、青屋友梅はその門番と言っていい。地理的には郡山城から北東へ四里ほど。宍戸氏の五龍城からは二里ばかり北にある。
「毛利は甲立に兵を出し、宍戸を釘付けにしてもらいたい」
この要請が、久光の主たる目的であった。
宍戸氏は三吉氏と強い同盟関係にあるが、毛利軍が南から甲立へ攻め入れば、宍戸氏も北方の加井妻城などに援軍を出している場合ではなくなる。宍戸氏の援軍が得られねば、三吉方の戦力は半減するのである。先代・興元の時代から何度も繰り返されているお馴染みの戦略であった。
「久々の合戦だな」
元綱は眼を輝かせた。鎧を着るのは、昨年の晩秋に宍戸氏と小競り合いをして以来である。
嬉々としている御曹司をことさら無視し、
「百姓に迷惑を掛けとうはござらぬゆえ、田植えの時期までには済ませてもらいたいものですな」
と志道広良が思案顔で釘を刺した。
「そのあたりは我らも心得ておる。長引くようなら兵を退くゆえ、懸念は無用よ」
久光は気軽な口調で返した。
この老人にしても、なにも乾坤一擲の戦いを仕掛けているつもりはない。久光が合戦を繰り返しているのは、三吉氏を打倒し、三次盆地を手に入れたいという大目標もあるにせよ、より現実的には、大内方として尼子方の敵と戦う姿を見せることで国人一揆のなかでの高橋氏の存在感を際立たせると共に、嫡孫の興光に采配の振り方を教え、戦場経験を積ませ、武勇の実績を作ってやろうというような思惑が強かったであろう。
高橋氏が加井妻城を奪えば、三次盆地を常に脅かされる形勢になるから、三吉氏としても守勢に立たざるを得なくなる。三次と甲立を繋ぐ最短経路が封鎖されるわけで、宍戸氏も三吉氏との有機的な連携が取りにくくなる。手伝い戦ではあるが、毛利にとっても悪い話ではなかった。
「幸松丸さまの祖父殿の頼みでは、断るわけにもいくまい」
多治比元就の言に重臣たちも同意し、出兵が決定された。
毛利が陣触れすれば、吉田の城下に暮らす宍戸氏の諜者によって半刻後にはその速報が五龍城へと届けられる。宍戸元源もただちに陣触れを発し、防戦の態勢を整えた。
宍戸氏の本拠である五龍城は、宍戸領の南部を守る要の城である。南から北流してきた江の川に北西から流れてきた本村川が流れ込む合流点に、半島状に北東に伸びた小高い丘陵があり、その稜線に直線連郭式に曲輪を配して築かれている。東西が八百メートルと長く、尾根に沿って三十ばかりも削平地が作られ、城全体が巨大な堀切で三分割されている。独立した砦が尾根に三つ並んでいると思えばいい。江の川に突き出た低い東側が大手口で、西に向かって山は高くなり、南西に搦め手(裏口)がある。
南から蛇行しながら北へと流れてきた江の川は、五龍城の足元を洗いながら東に向きを変え、甲立盆地を横断し、東の山裾にぶつかってさらに北へと流れを変える。甲立の城下町はその北岸にあり、宍戸氏に経済的打撃を与えるには江の川の線を越えねばならないのだが、五龍城の一里ほど北方には祝屋城があって、宍戸元源の実弟である深瀬隆兼がこれを守っている。毛利軍が不用意に江の川を越え、宍戸領に深く踏み込めば、深瀬隆兼が必ず城から出戦し、五龍城の兵と呼応して毛利軍を挟撃するであろう。江の川で退路を断たれる形になるから、下手をすると全滅さえしかねない。つまり、毛利単独の兵力では、五龍城を攻略せぬことには江の川を容易には渡れないのである。
五龍城の南東――南北に流れる江の川の東岸にやや広い平野があり、地元で「高田原」と呼ばれている。吉田から江の川に沿って進んできた毛利軍は、高田原から十町ばかり南で江の川を渡河し、東岸の原で軍列を整えた。このあたりが毛利氏と宍戸氏の領地の境界で、南には河原者たちの集落があり、五町ばかり北には宍戸氏の関所がある。
「四朗、とりあえずあの関所を打ち壊してきてくれ」
大将である元就が、それを命じた。
元綱は、渡辺党と赤川党の兵を中心に三百ばかりの人数を預かり、先鋒の大将を務めることになった。
「ゆくぞ」
元綱隊は、関所に詰めていた二十人ばかりの敵兵を追い散らし、番所を焼き払い、柵を打ち倒させて、宍戸軍が出張って来る前にさっと引きあげた。本格的な合戦の前の下準備と言っていい。
宍戸軍は出戦しなかった。山上から毛利軍を睥睨し、待ち構えているらしい。
毛利軍はさらに北進し、高田原に入り、城から南東に七町ほどの距離をおいて陣を敷いた。
「いつ見ても、なんとも厭らしい城だな」
城山を見上げながら元綱が言った。
五龍城の山の斜面は急角度で、麓から山頂までの比高が百三十メートルばかりもあり、おまけに江の川が天然の外堀となっている。江の川はこのあたりでは河岸が崖のように谷深く、登り降りには時と手間が掛かる。しかも城側である西岸は山裾の平地が極端に狭くなっており、大軍を自由に進退させることができないから、非常に攻めにくいのである。江の川を渡河して山腹に取りつくような素直な攻め方をすれば、頭上から無数の投石や飛矢を浴び、怯んだところに白兵突撃を食らって、江の川の崖下へ叩き落とされるであろう。
「いっそ南の山に兵を登らせ、尾根伝いに搦め手から攻める方が、まだ見込みがあるんじゃないか」
元綱が言うと、
「あの山は宍戸の者たちにとっては庭も同然だ。少数の兵では、城の曲輪まで辿りつくことも難しいだろう」
元就が冷静に応じた。
山に大軍を登らせたところで、山中には道などはなく、尾根も狭く、大軍を有機的に進退させられないから、結局は少人数を小出しにする形になる。小部隊では地理を知り尽くす宍戸方に良いように翻弄されるだけで、戦果は期待できないだろう。悪戯に死傷者を増やすだけということになりかねない。
もちろん元綱もそれは解っていたが、毛利の軍勢だけであえて城攻めをするなら、そういう手でも使うしかしょうがない、と言ってみただけである。
そもそも城攻めには守備側の十倍の兵力が要るというのが常識である。五龍城は宍戸氏の本拠であり、どんなに少なくとも五百以上、領内の支城の人数を集中していれば千人近い兵が守備についているであろう。これを力攻めで短期間に落とすには一万ほどの軍勢が必要ということになるが、毛利の動員力は限界までかき集めてもせいぜい千五百であり、今回引き連れて来たのは千人ほどに過ぎない。
「やはり宍戸が城から出戦するのを待って、懸合の戦(野戦)で叩くしかないか」
元綱の言葉に元就は首を振った。
「いや、そもそも無理をして血を流す必要はない。我らは宍戸を釘づけにしておけばそれで良いのだ。しばらく滞陣しておれば、高橋の方の戦も終わる」
「ふむ。まぁ、その通りだが、なんとも張り合いがないな」
「お前は雅楽頭殿(宍戸元源)をずいぶん買っていたな。戦いたいのだろう」
揶揄うような口調である。
元綱は苦く笑った。
「いや、あの仁はどうも戦いにくい。負けるとは思わぬが、勝てるという気もせんのだ。どちらかと言えばやりたくない相手だな」
「ほう――」
元就は意外そうに息を漏らした。
「お前らしい賛辞だな。やりたくない、か――。私も同感だ」
宍戸氏とは父・弘元の代から二十年近くにわたって小競り合いを繰り返しているが、この争いは毛利にとってまったく益がなかったと元就は思っている。兄である興元が死んで、自身が毛利家の舵を握るようになってから、元就は宍戸氏を味方にできぬものかと考えるようになっていた。
が、宍戸氏は高橋氏に領地の西部を三割ほども奪われていて、これを仇敵視している。毛利がその高橋氏と同盟している限り、手を結べるわけがないであろう。
「いずれにしても、城攻めはもってのほかだ。此度はじっくりと様子を見て、宍戸の動きに応じて手を打つとしよう」
「それならば、夜討ち朝駆けには用心することだ。宍戸雅楽頭は必ず仕掛けてくるぞ」
毛利軍はそのまま野陣を敷き、柵を立て、矢楯を並べるなどしつつ、宍戸軍の出戦を待った。
早春とはいえ、山深いこのあたりにはまだ根雪が多く残っている。川筋に吹く風は冷たく、夜間はじっとしていられないほど寒い。兵たちは篝火を普段の倍近く据え、夜襲の警戒をすると共に寒さをしのいだ。
この日、天は厚い雲に覆われ、月も星もない。
その初更の頃――。
毛利軍の後方の陣屋で、突然、複数の炎が上がった。荷駄が火を発したのである。火勢は川風に乗ってたちまち大きくなり、悲鳴と怒号が上がった。
「敵じゃぁ!」
「夜討ちじゃ!」
叫び声があちこちで上がる。
放れ馬が興奮して暴れまわり、人々が消火に駆けまわる。
闇が騒然となった。
本陣の奥で諸将と軍議をしていた元綱は、刀を引きつけて苦笑した。
「さっそく夜込みか。打つ手が早いわ」
夜込みとは、夜中に敵の陣地を荒らすことである。
「大軍が動くような気配はなかった。後方の騒ぎはどうせ囮だろう。風上から火を掛けたということは、風下から斬り込んで来るか、あるいはこの本陣が目当てということもあるかもしれぬ」
元綱の言葉に、元就と諸将は頷いた。
「本陣まわりを固めよ。敵は寡兵じゃ、慌てず迎え撃て」
元就の声に、使い番の武者たちが駆けだした。
「俺は先陣に戻る」
床几から立ち上がった元綱に、渡辺勝と赤川兄弟が従った。
その頃、先陣の陣屋では、五十人ばかりの宍戸兵が闇の中から魔物のように躍り出し、急襲を行っていた。
毛利軍の武者たちは、夜襲を警戒して半数は鎧をつけたままであったが、憩んでいた者たちは慌てたであろう。夜の戦いは敵の数が判らない上、暗がりを素早く動く影は敵味方の区別がつけがたく、人の恐怖心を煽り立てる。
元綱の幕舎にいた重蔵は、すぐさま槍を取り、元綱の近侍の若者たちと共に外へ出た。三人が元綱について本陣へ行っているため、残った六人に重蔵を合わせ、七人が集団を作っている。
戦いの喧騒があちこちから響いてきた。
篝火は多く据えてあったが、それでも闇には濃淡がある。まして先鋒大将である元綱の幕舎は、渡辺党、赤川党の陣屋に囲まれ、奥まっていることもあり、物陰に死角が多く、遠くを見通すことができない。
「敵がご本陣を衝くつもりなら、陣の中ほどを横から襲うでしょう。この先陣を目がけての夜討ちとなれば、敵の狙いは、先陣の大将たる四朗さまではありますまいか」
と言ったのは、井上又二郎である。
「そうかもしれません」
重蔵は頷いた。
「四朗さまがご本陣におられたは、逆に幸いであったやもしれませぬな」
武将たちは本陣に集まっているから身は安全であったが、裏返せば、兵を指揮する者がいないということである。防戦は物頭がそれぞれの場所で行うしかなく、軍勢としての機動性と連携を欠くことになった。
重蔵たちが戦いの様子を音で聞いていると、防備の手薄なところを突破したのであろう、しばらくして二人の武者の影が闇のなかから駆け現れた。
重蔵たちはお互いに少し距離を取り、槍を構えた。
「敵か!」
又二郎の誰何に返答はない。
無言のまま前に出た一人は、黒漆塗りの札を黒糸で威した漆黒の鎧に身を包んでいる。同色の筋兜に前立てはない。黒い面頬をしているので顔は解らないが、その眼は――血走っているのか、あるいは篝の火明りを反射してか――鈍い赤光を放っているようで、どこか獣めいて見えた。
七人を一瞥した黒武者は、右手に下げた大薙刀の切っ先をピタリと重蔵に向けた。
その瞬間、絶望的な悪寒が重蔵の背を走り抜けた。たとえば虎とか獅子が入った檻に放り込まれた気分と言えば、それに近いであろう。食う者と食われる者――その圧倒的な力の差に対する直感が、重蔵を戦慄させた。
足軽稼業で暮らしていた頃の重蔵であれば、迷わず遁げを択んだであろう。戦場では人ごみに紛れてしまえばそうそう捕まるものではないし、この男が別の相手と戦っている隙にその場から遠ざかるようなことだってできる。いずれ命あっての物種であり、死んではどうにもならないのである。そういう柔軟さが、重蔵をこれまで生き延びさせてきた一因であったとも言える。
しかし、いまの重蔵は逃げることはできなかった。
――絶対にこの男を四朗さまの前に立たせるわけにはいかん。
重蔵には解るのである。眼前にいるのが、人の姿をした化け物であるということが。
大薙刀の切っ先が小さな円を描いたと見えた瞬間、男が黒い風となって動いた。
「手を出すな!」
重蔵は迎え撃つべく距離を詰め、渾身の槍を突き出した。その刹那、槍の穂先が斬り飛ばされて宙に飛んだ。
薙刀の旋回は止まらず、夜気を切り裂きながら重蔵の胸元に伸びる。
槍の柄を立ててその斬撃を受けつつ、重蔵はとっさに身体を開いた。堅い樫材の柄が竹のように両断されたのは予想の裡だったが、凄まじい速さの切っ先をわずかにかわし切れず、腹巻から数枚の小札が千切れ飛んだ。さらにその切っ先は8の字を描いて三撃目が続けて伸び、反射的に後ろに跳んだ重蔵の佩楯を斬り、その太ももを薄く傷つけた。
鎧を着ていなければ、この時点で致命傷を負っていたであろう。
「くっ――!」
重蔵は短くなった柄を投げつけ、男が薙刀でそれを払う隙に腰の大刀を抜き、正眼――つまり守り重視の構えを取った。
男の神速の手練――生き物のように伸び縮みするその薙刀の動きは、重蔵の目にはほとんど魔術か奇術に見えた。照明は篝火のみであり、あたりの暗さが男の太刀筋をさらに速く感じさせるのであろう。
「おのれ!」
左右にいた近侍が二人、ほぼ同時に男に突きかかって行った。
「よせ!」
重蔵は叫んだが、遅かった。男は舞うように動き、二太刀で二人を斬り倒し、しかもその目は油断なく重蔵に注がれている。
うめき声をあげて地に転げる二人を目の端に収めつつ、
「あやつに寄るな! 弓矢で討ち取れ!」
重蔵は鋭く言った。
その声に反応し、又二郎ともう一人が弓を取りに幕舎へ走った。あとの二人は重蔵の左右の後ろで槍を構え、脇を固めている。
男が面頬の奥の目だけで笑った。
「先陣の大将を討つつもりで来たが、まさか足軽姿のおぬしが元綱ではあるまい。今義経の他にも、少しは遣える者がおったと見える」
声が渋い。
「名乗ってみよ」
「・・・・羽田重蔵」
「やはりそうか。わしに書状を書いて寄越した兵法者だな」
「では、あなたが――」
「われは宍戸又四郎。五龍城主の弟よ」
宍戸家俊――!
重蔵が探していた司箭院 興仙その人ではないか。
事態に気づいたのであろう、周囲の闇が騒がしくなり始めた。口々に叫ぶ声が聞こえ、足音が集まり始めている。弓を握った又二郎たちも駆け戻ってきた。
「司箭流の薙刀の技、いま少し見せてやりたいが、多数の弓矢の相手をするのはかなわぬな。挨拶も済んだことだ。ここは退かせてもらおうか」
待て――とは、重蔵は言えない。立ち向かえば必ず負けるということが重蔵には解るからである。むしろ、「此度は見逃してやろう」と言われたようにさえ感じた。
「大蔵、退くぞ」
宍戸家俊が背後にいた若い男に声を掛け、若者は鋭く指笛を吹いた。
ジリジリと後退した二人は、別の幕舎の死角に逃げ込むように走り去った。
それを追って駆けだそうとする近侍たちを、
「おやめなされ」
重蔵は厳しい声で制した。
「追えば死にますぞ」
緊張の糸が切れた重蔵は、その場にへたり込みそうになるのを辛うじてこらえていた。
元綱たちが先陣に戻ってきたのは、その直後である。
指笛が合図だったのだろう、周囲の戦いの気配もすぐに遠ざかった。宍戸軍の奇襲はわずか四半刻ほどで、一時の混乱が嘘のように、その後は再び夜の静寂が訪れた。
倒れた近侍は二人とも重傷ではあったが、鎧を着ていたことが幸いし、命だけはなんとか取り留めた。毛利方の損害は、負傷者二十数名、死者七名である。その他に、付近の哨戒に当たっていた雑兵の死骸が五つ、翌日になって発見された。宍戸の兵の遺体は残っていなかったから、死者はなかったらしい。火災の被害の方は、馬糧と材木、幕舎などが少々燃えただけで、たいしたことはなかったという。それより繋がれていた馬の綱が切られ、多くの放れ馬が出たことの方が深刻で、その回収に手間取ったようだった。
ちなみに毛利軍の陣から一里ほど南に渡辺氏の長見山城があり、それが宍戸氏と戦う際の後方基地になっている。食糧にせよ馬糧にせよ、一月程度の滞陣なら補給の心配はない。
翌朝、近侍を見舞った元綱は、憩んでいる重蔵を見つけて声を掛けた。
「宍戸は昔から小戦が巧みなんだが――。此度の手並みは鮮やかだったな」
宍戸氏はゲリラ戦術を得意とし、少数の兵での奇襲が巧い。強大な高橋氏を相手に城を守りぬいていることでもそれが解るであろう。毛利も先代・興元の頃から何度も煮え湯を飲まされている。
「夜討ちの将は宍戸又四郎と名乗りました。おそらく宍戸家俊殿です」
「例の修験者か。安芸に帰っていたのだな」
「そのようです。恐ろしいばかりの手練れでした」
「飛行自在の怪人は、夜込みも夜討ちもお手の物、か・・・・」
「修験者は山野の地理に精通しています。このあたりの山々で、あの男が知らぬ道はないでしょう」
裏道も抜け道も獣道も知り尽くしているに違いない。つまり、神出鬼没の働きができるということである。宍戸家俊が五十人の精兵を率いれば、夜戦であれば五百人を相手にしても戦えるだろう、と重蔵は思う。
「また厄介な敵将が増えたものだな」
元綱の口元に苦い笑いが浮いた。
「先陣の大将を討ちに来たと申しておりました。あの者は本気でそのつもりだったろうと思います。今後も狙って来ぬとも限りませぬ。くれぐれもご用心くだされ」
「お前より技が上か」
「遥かに――」
重蔵は主人と目線を合わせず、淡々と答えた。
「一騎討ちであったなら、わしは死んでおったでしょう」
「・・・・わかった。俺も一人で立ち向かうのはやめよう」
元綱はやや不満げな顔で言った。
ところで、この時代の軍勢には、必ず多くの非戦闘員が帯同している。荷運びをする人夫、土木作業をする黒鍬、陣小屋などを建てる大工、外科医である金創医、易や吉凶を占う陣僧や修験者などがそれで、長陣になれば、物売り、薬売り、野鍛冶、遊女といった人々も戦場にやって来たという。
軍勢に同行する陣僧は、鎌倉の昔から伝統的に時衆の聖が務めることが多い。寺に定住せず、全国を遊行する時衆の僧は、諸国の道に通暁していたし、何より身軽で野宿を嫌がらなかったからであろう。時衆は芸能集団とも深く結びついているから、公家から政権を奪った武家に結びつき、それをパトロンにしようというような意図もあったと思われる。
時衆の聖たちは、近くで合戦が始まったと知ると、どこからともなく集まって来る。彼らは敵味方の区別なく負傷者の治療に当たり、戦没者を埋葬し、その回向をするのである。殺し合いをする武士たちも、こうした宗教者には手を出さないというのが暗黙のルールであった。だからこそ、諜者のなかには空也僧に化ける者が少なくなかったし、逆に本物の聖が特定の大名の諜者を務めるといった例もあったであろう。
岩阿弥を名乗る時衆の聖が、十人ばかりの河原者を引き連れて毛利軍の陣に現れたのは、合戦が行われている場所からいっても、いわば必然であった。
観音大悲は船筏 補陀落海にぞうかべたる
善根もとむる人しあらば 乗せて渡さむ極楽へ
などと鼻歌を歌いながら、岩阿弥は毛利軍の陣屋の後方をうろうろと歩き、あたりを哨戒していた足軽を捕まえて話しかけた。
「この寒中に戦とは、ご苦労なことじゃな」
「おぉ、岩阿弥殿か」
何度か戦場で顔を合わせたことのある男である。
「陣借りに来てやったぞ。誰ぞ大将の元へ連れていってくれぬかな」
「あはは。何が陣借りじゃ。坊主が槍をとってはまずかろうが。しばらくここで待っておれ」
男は上役にそのことを伝えにゆき、しばらくすると黒鍬頭の武士が五人ばかりの雑兵を引き連れて現れた。
「おう、岩阿弥殿、息災じゃな」
「南無阿弥陀仏」
岩阿弥が手を合わせて会釈すると、男は厭な顔をした。
「よせよせ、縁起でもない。お浄土は良いところと聞くが、わしはまだ行きとうはない」
岩阿弥はにんまりと笑った。
「此度は大戦になりそうですかな」
「高橋の手伝い戦よ。いつものように小競り合いで終わるのではないかな」
「それは景気の悪い話じゃな。ようけ死んでくれぬことには、わしの懐中が温まらんわ」
「なにをぬかすか、この生臭坊主め」
男は苦笑した。
「さっそくじゃが、昨日死んだ雑兵に、引き取り手のない者が三人あった。その者らの着物と持ち物を布施するゆえ、回向してやってもらえぬか」
「承った」
「それが済んだら、離れてしばらく模様眺めでもしておれ。戦に巻き込まれてはつまらんぞ」
「そうさせてもらいまするわ。飯を食いながら戦の様子を眺めるのがわしの法楽じゃによってな」
岩阿弥たちは、毛利軍の陣の東にそびえる毛宗坊山へ遺体を運び、山麓で埋葬を済ますと、そのまま山を登った。仲間の猟師小屋に腰を据え、合戦見物をするつもりである。
陽が傾き始めた頃、毛利軍の陣に動きがあった。
「おぉ、なにやら始めおったぞ」
岩阿弥の眼下で二百人ほどの小部隊が出陣し、江の川の際まで進み、火矢をもって対岸の町屋を無差別に攻撃し始めたのである。毛利方にすれば、昨夜の夜襲の報復であったろう。
城下町を焼かれては経済的な大打撃になるから、宍戸軍は五百人ばかりが城から出戦し、川を隔てて矢戦が始まった。一部の兵たちは消火に駆けまわり、燃えた家屋を必死で潰したりしている。
「こりゃつまらんな。動きが小さいわい」
岩阿弥は失望したように言った。
蟻より小さく見える人間たちの集団が、ダイナミックに進退を繰り返すような合戦模様なら遠望していて面白いのだが、矢戦では地味すぎて何をやっているのか判らない。
日暮れと共に毛利軍は兵を退き、宍戸軍も城へと帰っていった。
この夜、毛利軍の陣では数え切れないほどの篝火が焚かれ、そのあまりの多さに岩阿弥は驚くよりむしろ呆れた。陣から離れた周囲にまで無数の捨て篝火が据えられ、江の川から毛宗坊山の山裾までが照らし出されている。
「昨夜の夜討ちによほど懲りたか」
これほど明るければ、たとえ忍びの名手であっても気付かれずに陣に近寄ることは不可能であろう。
五龍城の城頭からその様子を見下ろしていた宍戸元源も、苦笑しながら岩阿弥と同じ台詞を吐いた。
「毛利め、昨夜の夜討ちによほど懲りたと見えるな。いかにお前でも、さすがにもう同じ手は仕掛けられまい」
元源の隣に立っていた宍戸家俊は、
「多治比の元就とは遊び心のない男であるらしいわ」
憮然とした口調でそう言った。
この男、歳は四十の前後であろう。陽によく焼けてはいるが、決して野卑な感じではなく、その顔立ちは妖艶と言えるほどに整っていた。ただ、眼つきにやや険があり、眼光には異様な冴えがある。二十年ほど前には時の幕府管領・細川政元に仕え、「第一の家臣」と呼ばれるまでに寵遇されているのだが、その頃は花も恥じらうほどの美貌だったに違いない。
「まぁ、遊びは一度で良い。二度やれば裏を取られよう」
元源は渋い声で続けた。
「いずれ毛利は高橋の手伝いをしておるに過ぎぬ。この城を本腰を入れて攻めようとは思うておるまい。防ぎはわし一人で充分じゃ。お前は夜陰に紛れて城を抜け、祝屋城へゆき、弾正(深瀬隆兼)と共に三吉を援けよ」
「兄上は相変わらず義理がたいな。この五龍が攻められておるに、その上まだ三吉まで援けるか」
「青屋友梅は連歌の友でな。あれを殺すに忍びぬ。まして加井妻城を高橋に取られてはかなわぬわ」
「わかった。わしも、この宍戸の家が滅ぶのは本意ではない。しばらくは兄上の手伝いをしてゆこう」
二人の背後に若者が控えている。歳は思いのほか若く、まだ十代の半ばであろう。
振り向いた家俊は、
「雪が解けたら旅立つつもりであったが、もうしばらく出立はお預けじゃ。大蔵、よい機会ゆえ、お前も戦場をよう知っておけ」
「は――」
低頭した若者は、名を河野大蔵と言い、家俊の兵法の一番弟子である。
それ以来、五龍城では昼間の小競り合いばかりが半月も続いた。
毛利、宍戸の双方が怪我をしないように戦っている感じで、岩阿弥にとっては退屈の極みである。特に攻める側の毛利方に戦意が乏しく、江の川を越えて城山に取りつこうともしない。まともに城攻めをする気がそもそもないのであろう。
「これでは商売にもならんのぉ」
遠矢をもっての矢戦程度では、怪我人は出ても死者はほとんど出ないのである。実際に戦っている武士たちはそれこそ命懸けであるのだろうが、高みの見物を決め込んでいる連中は気楽なものであった。
毛利軍の陣に、
「毛利は何をやっておる!」
と高橋氏の使者が怒鳴りこんできたのは、そろそろ二月が終わろうかという頃であった。
「加井妻城に宍戸の援軍が現れ、後ろ巻きに遭うた我らは手痛い負けを喫したぞ。宍戸の後詰めを許すとは、どれほど手ぬるい戦をしておったのじゃ!」
加井妻城を攻めていた高橋軍は、現れた三吉氏の援軍と戦い、こう着状態になっていたのだが、そこに思いもよらぬ方角から宍戸軍の奇襲を受け、動揺したところを城兵と三吉軍による総攻撃を食らい、壊乱したのだという。
これにはさすがの元綱も驚いた。
宍戸氏の動員力は毛利と大差ないから、五龍城の守備兵を引き抜き、祝屋城の兵と合わせて援軍に向かわせたのであろう。城内の兵がそれほど減っていたとはまるで気付かなかった。
「宍戸雅楽頭はたいしたものだな」
高橋氏が兵を退いたとなれば、毛利軍が滞陣を続ける意味はない。
元就は撤兵を決め、元綱が殿軍となって毛利軍は整然と兵を退いた。