破局の萌芽
永正十六年(1519)が明けた。
松が取れた正月八日、郡山城では最初の評定を行うことが慣例になっていた。その年の年貢や徴税、労役などについて話し合うためである。
その日、ゆきは早朝に夫を送り出したのだが、どういうわけか元綱は、昼さえ待たずに早々と相合の屋敷に帰って来た。
「今日はまたずいぶんとお早いお帰りでございましたね」
「あぁ、評定どころじゃなくなってな」
元綱は明らかに不機嫌そうな顔でそう言った。
「太郎左と井上河内が広間で喧嘩を始めおったのよ。お互いに脇差を掴んで、あわや殺し合いという大騒ぎだ」
「殺し合いって――。お二人ともご当家の宿老ではございませんか・・・・」
喧嘩の原因は、高尚な理想のぶつかり合いでも相容れぬ思想的な衝突でもない。詳細を聞いて、ゆきは驚くよりむしろ呆れた。
ことの発端は、井上一族の総領である井上元兼が、広間での席次を乱し、太郎左衛門――渡辺勝――が座るべき席に勝手に座ったという、ただそれだけのことだったのである。
ただし、この事件にはその前段があった。
正月元日に行われた新年の参賀でのことである。
元日は、重臣と譜代家臣たちが主君である幸松丸に年頭の挨拶をし、そのまま宴席になるのが毛利家の慣例であった。ちなみに二日は一門衆の祝宴、三日は休みで、四日に新付(新参者)の家臣たちのための祝宴が開かれる。
大広間の上座に五歳になった幸松丸が座り、そのやや後ろには母であるお夕が控え、居並んだ重臣たちが順番に進み出て主君に賀詞を奉ずる。この挨拶の順番も、重臣の序列によって決められている。執権の志道広良、福原広俊・貞俊親子、坂広時・広秀親子と順序良く進んでいったのだが、譜代家臣の筆頭である渡辺勝の番が回って来た時、井上元兼が順番を無視して主君の前に進み出たのである。
当然だが、重臣たちは仰天し、後回しにされた渡辺勝は怒声をあげた。
「河内殿、なにゆえ順序を乱される!」
「おぉ、渡辺殿か。わしの番ではなかったかな。これはとんだ粗相をした。どうも大晦日の酒が抜けておらなんだようじゃ」
主君の前に座った井上元兼は、赤ら顔を歪めて笑った。
「まぁ、今さら席に戻ってやり直すのも面倒な上に滑稽じゃ。此度はまずまず堪えてくださらんか」
おめでたい年頭拝賀の最中ということもあり、この時は渡辺勝も怒りを収めたのだが、それに続いて今度が二度目なのである。
当然、渡辺勝は激怒し、井上元兼に掴みかからんばかりに詰め寄った。
しかし、井上元兼はもともと確信犯だった。この日は図太く居直り、「有田の合戦」での井上党の活躍とその被害の甚大さを声高に述べ、これに対する恩賞の薄さを言い立てたのである。
「我ら井上の一族の者たちは、ご当家のため、幸松丸さまのため、身命を賭して戦った。決して恩賞のために働いたわけではござらぬゆえ、生き残った我らのことはよい。しかし、あの合戦で一族にどれほどの人死にが出たとお思いか。その家族には乳飲み子を抱えた寡婦もおり、働き手を喪った老母もある。その者たちは何ひとつ報われておらぬ。未だご加増を受けておらぬゆえ、我らとしてもその者らに何もしてやれぬ」
実際、有田合戦における井上党の損害は他の族党に比べて突出しており、百人を超える死者とそれ以上の負傷者を出していた。厚い恩賞が下されるのが当然であったが、有田合戦は吉川氏の有田城を救援する戦いであり、その勝利で領地が大きく増えるということもなかったから、毛利家としても台所事情が苦しく、大きな加増ができなかったのである。
主君を後見する多治比元就は、有田合戦が終わるや、すぐさま幸松丸の代筆をして大量の感状を発行し、薄報の武士たちの感情面をなだめるよう努めたし、家政を預かる志道広良は、昨年一年間に限って井上党の普請役(労働義務)を免除し、棟別銭(宅地税)や諸役(雑税)を減免するなどして加増に代え、どうにか帳尻を合わせてお茶を濁していた。
しかし、年度が変われば、一年限りの優遇措置は終わる。
「このままでは、討ち死にした者は死に損であり、遺族の者たちは泣くに泣けぬ。お家に適当な欠所(空いた領地)がないと申されるなら、せめて我ら一族への扱いを重うでもしてもらわぬことには、釣り合わぬではないか」
井上元兼は、加増が行われるまで税の優遇措置を延長するよう求め、それができぬなら、せめて井上党を譜代家臣として扱うよう要求した。
毛利家の当主である幸松丸はまだたった五歳で、家中をまとめられるはずもない。重臣の合議で家政を執っている現状では、十五老臣のなかで四つもの席を占める井上党の発言力は強力であった。ゴネれば無理も通るはずと、井上元兼はタカをくくっていたのであろう。要するに、主家からさらなる利益を引き出すための強弁であった。
それはそれとしても、人間のなかには「名誉」を命より重しとする者がある。序列を奪われるのは己の「価値」が低下することと同義であり、渡辺勝には耐えられるものではなかった。
「それとこれとは話の筋が違う! たかだかこの数十年の新付に過ぎぬ井上ごときが、譜代の中でも筆頭たるこのわしの上座に座ろうというのか!」
勝が怒鳴ると、
「井上ごときとぬかしおったな!」
赫怒した井上元兼は渡辺勝の胸倉を掴み、掴まれた渡辺勝は元兼を突き飛ばす。離れた両者は睨みあって脇差に手を掛けた。左右の者が慌ててその身体を押さえたが、他の井上党の老臣たちまでが殺気立ち、譜代家臣で血の気の多い者たちは渡辺側に加勢する気配を見せた。
元綱はこの手の政治的な泥仕合が大嫌いで、最初は無視を決め込んでいたのだが、両者が殺し合いをしそうだとなれば黙っているわけにもいかず、渡辺勝を背中から羽交い締めにして力ずくで広間から引きずり出した。一門衆の老臣たちも間に割って入り、鎮静に回ったのでどうにか事なきを得たが、評定はそのままお開きとなった。新年早々、家中に大きなしこりを残したのである。
「太郎左は嵯峨源氏の末裔でな。自尊の心がやたらと強い。いったん怒らせると手がつけられんのだ」
元綱は渋い顔で腕を組んだ。
ゆきは武家には詳しくないから、話が見えず、首を傾げた。
「嵯峨源氏と申しますと――?」
「あぁ、知らぬか。源頼光は知っておるか?」
「えっと――、たしか大江山の酒呑童子とか京の土蜘蛛とか、怪物退治をなされた方でしたよね、大昔に――」
御伽草子で語られる伝説の豪傑である。その名くらいは子供でも知っている。
「そうそう。その頼光の家来――四天王の筆頭が、渡辺綱だ。嵯峨源氏・渡辺党の棟梁だな。太郎左はその血を継いでる。一字の名乗りがその証しだ」
漢字一字の諱というのは珍しいが、嵯峨源氏は初代・融以来それが慣例で、その嫡流たる渡辺党の後裔には一字名を用いる者が多いのだという。
「渡辺綱といえば鬼をも斬ったという豪勇だろう。先祖の誉れのせいでもないんだろうが、太郎左のヤツも、いったん『敵』と思い定めれば、相手が鬼だろうが仏だろうが斬って捨てるというような気の荒さがある。普段は温厚だし、ものの解らぬ男でもないんだがな。思い込みが強いというか、執念深いというか、怒らせると厄介なんだ。まぁ、そんな男だからこそ戦場では役にも立つんだが――」
「それにしましても・・・・」
ゆきはやや当惑している。
「広間で座る場所というのは、もちろん大事なのでございましょうけれど、お命を取る取らぬというほどにまで重いものなのでございましょうか」
「武士にとってはな。名は命より重いさ」
「席次が名なのですか?」
このあたり、ゆきにはどうも解りにくい。
渡辺勝の怒りを理解してやるには、少しばかり解説が必要であろう。
毛利氏の家臣団は、おおむね三種のグループに大別される。
ひとつは、安芸・毛利氏の初代である毛利時親が安芸に下向した際、これに従って安芸にやって来た郎党たちの子孫である。渡辺氏、赤川氏、粟屋氏、飯田氏などがこれに当たり、この時代の毛利家において「譜代の家臣」と言えばこのグループを指す。
次のグループは、歴代の毛利家当主の兄弟が分家して枝葉のように広がった一門衆である。いずれも毛利本家から分かれた庶家で、福原氏、坂氏、桂氏、志道氏、長屋氏、平佐氏、兼重氏などがあり、多治比元就などもここに含まれる。いわば親類縁者だが、家臣としての代が重なっている家については「尊貴な譜代家臣」と考えてもいいし、庶家からさらに分かれた家については一門の範疇に含めない場合もある。
最後のグループは、もともと安芸に暮らしていた豪族や地侍が、毛利氏の傘下に入って家臣化した者たちである。井上氏、国司氏、中村氏などがそれで、臣従した事情も勢力の大きさもそれぞれに違うが、いずれも毛利家臣としての年月が浅いだけに、身内というより外様という匂いが強い。
つまり、同じ「十五人の宿老」の中に名を連ねていても、「譜代の重臣」である渡辺勝と「新付」の井上元兼では、家中における毛並という点で大きな隔たりがあった。
「譜代」の家に生まれた者には、先祖代々、二百年以上にわたって毛利家のために身を捧げて尽くしてきたという強烈な誇りがある。
「自分たちは創業の頃から主家と苦楽を共にし、今日まで毛利家を支え続けてきたのだ。動員力で新付の豪族たちに及ばなくとも、歴代積み重ねて来た主家への貢献度では自分たちが大きく上回っている」
そういう自負である。その想いがあればこそ、貧苦にも文句ひとつ言わずに耐えたし、主家が危機に瀕すれば一蓮托生のつもりで命を捨てて働いてきた。広い意味での「主筋」に当たる一門衆には一歩譲るとしても、最近になって毛利家に加わったような新参者に大きな顔をされるのは、感情的に許せないのである。
井上一族は、元綱の祖父・毛利豊元の時代に毛利から嫁を迎え、同盟者としてその傘下に入った。毛利家臣となってからすでに半世紀以上の歳月が流れているのだが、それでも「譜代」の人間から見れば「新付」ということに変わりはない。まして勝の渡辺家は譜代家臣の中でも随一の家格を誇っており、当然ながらすべての譜代衆を代表してその名誉を背負う立場にある。こと「家格」という点において、「新付」の下風に立つことなどできるわけがなかった。
しかし、井上元兼にも彼なりの言い分があるであろう。
井上党は毛利家中で最大の動員力を誇り、合戦においては常に先手となって目覚ましく働き、もっとも多くの血を流して主家を援けてきた。その貢献は巨大であり、毛利豊元の時代から、弘元、興元、幸松丸と、すでに四代にわたって毛利家に尽くしているという実績をも考え合わせれば、そろそろ譜代並みの扱いを受けても罰は当たらぬであろう。一門衆には半歩譲るとしても、家臣のなかでの序列はもっと優遇されて良いはずだ。
――我らをいつまで外様扱いする気だ。
そういう想いが、常に井上一族の人間の不満になっている。元兼は若いながら井上一族の総領であり、その利益を代表せねばならぬ立場だから、彼の傲岸さも理由がないわけではなかったのである。
「兄上がご存命であった頃は、ここまでひどい諍いは起こったことがなかったのだがな・・・・」
元綱が渋い顔で言った。
井上元兼の狷介な性格は昨日今日始まった話ではないが、長兄の興元が生きていた頃は、まだその手綱が利いていた。興元は喧嘩口論を捌くのが巧く、訴訟事にも一貫して公正無私な姿勢を崩さなかったから、井上一族の者たちをも含めて家臣団からの信望が篤かった。その裁定はそのまま家中のコンセンサスになり、さしもの井上元兼も理不尽な横車を押し通すことはできなかったのである。
渋い顔をしているのは、なにも元綱ばかりではない。
郡山城の一室では、多治比元就と志道広良が苦虫でも噛み潰したような顔を突き合わせていた。
「新年早々、困ったことになりましたな」
志道広良が暗い声で言い、
「両人とも我が強いからな・・・・」
元就がため息まじりに応えた。
「井上河内の言い分にも理がないわけではないが、やり方が無法に過ぎたな。あれでは太郎左衛門が怒るのも当然だ」
「理がどれほどあるにしても、井上党の普請役やら諸役やらを今年も免除するわけには参りませんぞ。ここで甘い顔を見せれば、この先、来年も再来年もと同じように無理をかぶせて来ぬとも限りませぬ。家中の振りあいの上からも、ここは思案のしどころでござる」
「だが、恩賞に宛て行うような土地はないのだろう」
「それはその通りでござるが、ご加増を我慢しておるのは何も井上だけではありませぬでな。井上だけに許せば、他の者たちが収まりますまい」
人は、貧苦は我慢ができても、不公平には耐えられないのである。恩賞の不公平は武門にとって最悪の害毒と言ってよく、元就や志道広良が井上党だけを優遇したように受け取られれば、家中の信頼関係が立ちゆかなくなるばかりか、家臣たちは気持ちを腐らせ、真面目に奉公する意欲を失い切るであろう。
「兄上がいらしてくれた頃は、このような気苦労を感ずることなどなかったのだがな。合議で家政をとってゆくというのも色々と難しいものだ」
元就は長嘆息した。
幼少の幸松丸に興元の代わりが務まるはずもない。後見役の元就や、家政を預かる志道広良は、幼君の代理者として群臣に臨んでいるわけで、依怙や好き嫌いで政治を行っていると思われることだけは絶対に避けねばならなかった。
――それにしても、困った。
「譜代」の家に生まれた者たちにはこだわりや誇りがあり、「新付」である井上党にはわだかまりや憤りがある。元就は「一門」の側に生まれた人間で、どちらの心情に寄り添うことも難しかった。その元就の感覚で言えば、「譜代」という名誉を与えてやるだけで井上党の気が済むのなら、安いものだという気分がないでもない。しかし、それをすれば渡辺勝をはじめ譜代衆が黙ってないであろう。
――あちらを立てればこちらが立たぬ・・・・。
井上元兼と渡辺勝の双方を満足させ、かつ八方から不平が出ぬような妙案があろうとは、元就には思えなかった。もし根本的な解決策があるとすれば、毛利家が領土を拡大し、家来たちに公平で厚い恩賞を宛て行うことの他にないであろう。もちろんそれは現状では不可能なのだが、しかし、元就や広良は評論家ではなく実務者だから、今すぐにも何らかの結論を出し、処置を決めねばならない。
志道広良は、原則論に戻ってこう言った。
「喧嘩は両成敗でなければなりませぬ。井上、渡辺の両人は、評定の場で喧嘩口論におよび、脇差にまで手を掛け申した。この事をそのままにしてはおけませぬ。まず両人の序列を降格させましょう」
そのケジメをつけておかないと、今後、評定の威厳が保てなくなる。
「井上党の扱いについては、評定で正式に議題として取り上げ、衆議によって決することにすればどうでござろうかな」
井上一族は、宿老に四人、重臣にも数名が名を連ねるだけでなく、家中の要路の者たちと嫁取り、婿取り、養子縁組などで繋がっており、味方が多いから、その影響力は実に大きかった。そのまま衆議に諮れば、おそらく井上元兼の主張が通るであろう。志道広良はそこまで見切っていたが、あえて渡辺勝の側に手心を加えてやろうとはしなかった。「譜代の名誉」より「井上党の武力」を優先したと解釈できぬこともない。それが正解かどうかは広良にも判らなかったが、井上党との軋轢は避けたいというのが本音であった。
志道広良は、執権として家中の融和を第一に考えている。幼君に代わって家政を預かるこの男にしてみれば、「譜代」であろうが「新付」であろうが、幸松丸の役に立ってくれる者こそが「良臣」であり、家臣としての年功で「良臣」を区別せねばならぬ理由を見いだせなかった。広良も毛利本家の「一門」であり、譜代衆とはそもそも立場が違うのである。
有田合戦の恩賞に不満を持つ者は少なくないから、この問題を蒸し返されると家中に様々な悪影響が出るのは間違いない。井上党だけを優遇するなどはできる話ではなく、それができぬとすれば、井上元兼のもうひとつの要求を呑むしか選択肢はなかった。それが「政治判断」というものであったろう。
「衆議で決めるか・・・・」
「この際、皆の肚のなかに溜まっておるものを全部吐き出させてやるのが宜しかろうと存ずる。どういう結果になるにしても、その方が後に遺恨が残らぬのではござるまいか」
「なるほど。そうかもしれぬな・・・・」
元就はまだ若く、この問題に対して確たる自論が持てずにいる。老練な志道広良の判断に任せることにした。
数日後、毛利幸松丸の名で二人に処分が下った。
渡辺勝は、十五老臣の中での序列を三番から四番へ降格され、繰り代わって坂広秀が三番に上ることになった。一方、騒ぎの原因を作った井上元兼は、井上党の宿老・四人の中で最下位へ――具体的には八番から十三番へと下がった。序列の昇格、降格といっても、広間での席次などが変わるというだけのことで、「名誉」以外に実害はない。
さらに井上党の処遇に対する評定が持たれ、喧々諤々の議論の末、以後は「譜代家臣」を名乗って良いということが正式に定められた。実質的に何が変わるわけでもないが、格式において渡辺らと同等の扱いを受けられるようになったということである。渡辺勝ら譜代の重臣たちは頑強に抵抗したが、最後は多数決で敗れ、口を噤まざるを得なかった。
――おのれ・・・・!
渡辺勝にすれば、井上元兼も憎かったが、それよりむしろ井上党の味方に回った一門衆の面々が腹立たしかったであろう。主家の一門の者たちが譜代衆を擁護してくれねば、なんのためにこれまで主家に尽くしてきたか判らぬではないか。
その批判の矛先は、執権の志道広良に向けられた。
「先祖代々ご当家を支え続けてきた譜代の臣は、お家の宝でござるぞ! それを大事にせず、新付の者を贔屓するとは片手落ちもいいところじゃ。日ごろの執権殿とも思えぬ不見識よ!」
広良は能面のように表情を消し、淡々と答えた。
「わしは、いずれにも、依怙も贔屓もしたつもりはござらんよ。譜代であれ新付であれ、ご当家に仕える臣であるということに変わりはあるまい」
「これはしたり! 譜代も外様も同じと申されるのか!」
「ご幼少の幸松丸さまがご立派に成人あるまで、家政は合議によって行うと定めてある。衆議で決したことを皆に守らせるのが、わしの務めじゃ。そうでなくば、お家は立ちゆかぬ。そもそも忠義とは、主人のおため良かれと思う心でござろう。渡辺殿に譜代としての忠義がおありなら、我を張る前に、それが幸松丸さまのおために良いのか悪いのか、そこをまずお考えくだされ。重臣同士がいがみ合い、家中の和を乱すことは、ご当家の敵を利するだけではござらんか」
「ぬ・・・・!」
広良は論点をすり替えているのだが、主人の名を出され、主人のために重臣同士が争うようなことはやめよ、と言われてしまうと、反論のしようがない。渡辺勝は眼を怒らせたが、やがて肩を落とし、悄然と引き下がっていった。
元綱は、終始中立の立場で、どちらの味方もしなかった。
――まずまず穏当な結果になったか。
感情的には渡辺勝がやや哀れにも思えたが、結果として渡辺勝は相変わらず譜代衆の筆頭であり、井上党を譜代として扱うことにはなったものの、井上元兼の序列は大きく下がっている。措置として片手落ちとまでは言えぬであろう。
――それにしても、くだらぬことじゃ。
こういう家中の小政治が、元綱は煩わしくてしょうがない。
さて――。
雪化粧を終えた相合の屋敷では、ゆきが産み月を迎えていた。
ゆきは仲間の巫女の出産には何度か立ち会ったことがあり、その助産をした経験もあるが、知識として知っているのと実際に体験するのとではやはり大違いだった。自分の裡で胎動する新たな命を実感するのは愉しいものだったが、たびたびやってくる腹痛やおう吐感といった体調不良には閉口させられたし、昨年の暮れ頃から腰痛がひどく、年末年始の何かと忙しい時期に動くことさえ億劫であった。
そんなゆきを、義母と義妹が献身的と言えるほどの入れ込みで支えてくれている。
「大丈夫ですよ。女手は足りてるのですから、何も心配はいりません」
義母となった相合の方は、機智に富み、ユーモアのセンスもあり、ゆきとは妙に相性が良い。出産という大業を四度も経験した先達であるだけに、実に頼りになった。情に篤く面倒見の良い女で、それがややお節介に映ることもあって、そのあたりを元綱は煙たがっているようだが、ゆきにとっては仕えやすい姑であった。
一方、義妹のお竹は十六の娘盛りで、いたって屈託がない。
「お義姉さまのお腹、本当に大きくなりましたねぇ」
などと言いつつ、ゆきの腹を撫でたりする。
「でも、ここに子供が入っているなんて、どうしても思えませんわ。この正月うちには生まれるのかしら」
「そうね。たぶんあと半月くらいで出てくると思うのだけれど」
十月十日で計算するなら、今月の中旬から下旬がおよその予定日ということになるはずだった。
「弟か妹が生まれるような気分なのです。本当に楽しみだわ」
門地の低い家に生まれた相合の方に比べ、毛利家の姫として育てられたお竹には下賤な河原者に対する偏見が強かったのだが、しかし、実際にゆきに接し、その教養の深さを知るに及んで、それまでの認識をすっかり改めていた。今ではゆきを尊敬し、和歌や舞いの手ほどきまで受けている。
「お義姉さまは男の子と女の子とどちらが良いのですか?」
「どちらでも。神仏がお決めになることですもの」
笑顔でそう答えながらも、生まれて来る子が男であるということを、ゆきは疑問の余地なく信じていた。なぜと言えば、
――清神社の神域で授かった子ですもの。
素戔嗚尊が天照大神との誓約によって生み出した五柱の神は、すべて男神なのである。ゆきが神女として素戔嗚尊の神力に感応したとするなら、子は男でなければならぬであろう。そして、生まれたのが本当に男子であったとすれば、その子には必ず神の霊力が備わっているはずだ。
ゆきが属した出雲大社の祭神は大国主神で、これは素戔嗚尊の子、あるいは五世の孫とされている。八岐大蛇退治の伝説でも解る通り、素戔嗚尊は出雲の神話伝承の中核を成す最重要な神であり、出雲の巫女であったゆきにとってみれば、思い入れが深くなるのも当然であったろう。
それからしばらく経ったある日、尋常でない腹痛がゆきを襲った。
予想よりやや早く陣痛が始まったものらしい。
「う、生まれるのか!?」
こういう場面に男は無力なもので、脂汗を流して苦しむ妻を見つつ、元綱はひたすら周章狼狽するのみであった。
一方、相合の方の対応は落ち着き払っていた。
「さぁ、男は部屋から出てゆきなさい。しばらく時間が掛かります。場合によっては半日経っても出て来ないかもしれませんからね。気を楽にして、気長にお待ちなさい。無事に済みましたら、誰かを呼びにやりますから、それまで決して部屋に入ってはなりませんよ」
医僧や取り上げ婆(産婆)と共にお産を介助し、実際に子を取り上げたのも産湯を使わせたのも母であったという。
ゆきの出産は、初産にしては比較的楽な部類であったろう。それなりの苦しみも味わったが、耐えられぬほどの苦痛に満ちたものではなかった。それでも、無事に子を産み落とし、その産声を聞いた時には、恍惚とした達成感を味わうことができた。
「よく頑張りましたね。元気な男の子ですよ」
相合の方が抱いた産着の中で、珠のような――と形容するに相応しい丸々と太った赤子が、懸命に泣き声をあげていた。
それを見たとき、ゆきの目には自然と涙が溢れてきた。
母子ともに健康であったこと、生まれた子が男であったことを、元綱は素直に喜んだ。周囲の者たちが心からこれを祝福したことは言うまでもない。
報せを聞きつけた者たちが集まって、その夜はそのまま祝宴となった。
「おめでとうござりまする!」
近侍の若者たちが叫び、
「いやいや、まことにめでたい」
坂広秀が笑顔で祝杯をあげた。
「若、和子のお名を考えねばなりませぬな」
と言ったのは、渡辺勝である。
「あぁ、それならもう決まっている。俺の最初の男の子だ。幼名は『鶴寿丸』しかあるまい」
このことは、武家にとって非常に重要な意味を含んでいる。なぜなら、武士が自分の幼名を子に与えるのは、その子を相続権を有する嫡子と認めたことになるからである。側室――しかも卑賤の女が生んだ子を嫡子にするというのは、まず異例と言えるであろう。
「お待ちくだされ、それはご浅慮と申すものじゃ」
渡辺勝が慌てて反対した。
「若は今、喜びで頭が一杯でござろうから、止むを得ぬところもありましょうが――。脇腹の子を嫡子と決めてしまえば、後々ご正室にお子が生まれたときに、必ず困ったことになりまするぞ。若の幼名はひとまず棚にあげておいて、別のお名を与えるのがよろしゅうござろう」
「先々問題になると言うなら、正妻を置かねば済む話だ」
「またそのようなことを――」
「誰の腹から生まれようが、俺の子であることに違いはあるまい」
たとえこの先、正室を迎え、その正室に男子が生まれたとしても――あるいはさらに別の側室や妾を持ち、子を生ませたとしても――母親の身分で子に序列を付けるようなつもりは元綱にはなかった。生まれた順に遵って、長男は長男、次男は次男として、嫡子も庶子も平等に扱ってゆくつもりだったのである。武士でこういう考え方は少数派だが、実例がないわけでもない。庶子として生まれた元綱にとってみれば、それがごく自然な結論だった。
「名は鶴寿丸を措いてない」
元綱は我意を貫き、和子はその日から鶴寿丸と呼ばれることになった。
その翌日は、家中の武士や近所の百姓、吉田の有力商人など祝い客が多く訪れ、屋敷は賑やかであった。
さらにその七日後、ゆきと鶴寿丸は産褥を払い、七夜の祝いで近所の百姓たちに餅を配り、改めて祝宴を張った。
正式の祝いの席だから、この日は毛利本家の重臣たちもそれぞれ顔を出しに来たし、兄の元就も酒樽を土産にやって来てくれた。
「ほう、鶴寿丸と名付けたか」
元就はさほど驚かず、穏やかに微笑した。
「お前らしいな」
「アレが清神社で素戔嗚尊の夢を見たと申していた。それで生まれた子だからな」
「霊夢か――。ならば必ず嘉いことがあろう。鶴寿丸は将来、天下に知られる武将になるかもしれんな」
「そうあってもらいたいものだ」
元就は酒を嗜まないが、祝いの席ということで形ばかり盃に酒を満たし、その縁を舐めるように飲み、わずかな量で顔を赤くしていた。
「妻を得たのは私の方がわずかに早かったが、子ではお前に先を越されたか」
「なんの。義姉上にもすでに子が授かったと聞いてるぞ」
ご懐妊の兆しあり、という噂を、元綱は小耳に挟んでいた。
「いつごろ生まれるのだ?」
「まだ半年ほどは先だろう。お前のところにあやかって、男児が生まれて欲しいものだ」
そう言って、元就は朗らかに笑った。