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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第三章 乱世の梟雄
25/62

鉢屋の蓮次

 この時代、川筋――とりわけ大河の川辺には、特殊な人々が住んでいる。

 治水や築堤の技術が未発達であった昔、河原は梅雨時になると水没してしまうということもあり、一般に人が定住できる土地ではなかった。しかし、河川は、国と国、領地と領地の境になるために、誰からも支配されない空白地帯になることが多く、その結果として、故郷を捨て逃散した百姓や下人、罪を犯して国をのがれたり追われたりした罪人、諸国を漂白する遊行民などにとっては、まさに格好の住処となっていたのである。

 触穢しょくえの思想において、川は「けがれ」を流し清める「みそぎ」の場所である。川辺や水辺は一般社会からは隔離された異界であり、常民とは異なる生き物が棲む彼岸ひがんであった。そこに暮らす者たちは、社会の死穢しえを引き受けながら、皮革、染物、竹細工、製鉄、土木、造園などの技術者となり、伎楽、散楽、猿楽、能、狂言、奇術、傀儡くぐつ、語り物といった様々な芸能の担い手ともなった。彼らは「河原者」とか「河原乞食こつじき」と呼ばれて差別を受けていたが、その役割と技術は、人間の集団が社会生活を営む上で必要不可欠なものでもあった。「河原者」といえば京の鴨川の川辺や摂津の淀川の周辺などに暮らしていたことが名高いが、多くの人間が住む都市部には、それに近接するようにそういう被差別集落が必ず存在したのである。

 無論、安芸国もその例外ではない。

 郡山の城下町から半里ほど離れた江の川の下流――毛利氏と宍戸氏の領地の境界に、その「河原者」の集落がある。文字通りの貧民窟だが、規模としてはなかなか大きく、数百の人間がそこで暮らしていた。

 小汚い掘っ建て小屋が所狭しと並び、その多くがそれぞれの向きに傾いている。屋根は板の上に石を置いただけで、きちんとかれたものなどひとつもない。竹を組んでむしろを天幕にしただけというような仮設住居も多い。台風にでも遭えば軒並み倒壊するであろうが、ここに暮らす者たちは、雨季が来るごとに住処を移すほどのバイタリティーがあり、潰れてもすぐに建て直してしまう。そうして自然に出来あがった路地や小路は実に複雑に入り組んでいて、さながら小さな迷宮である。

 その中のとある路地を、木箱を背負った男が歩いていた。

 歳は三十の前後であろう。やや小柄な体格で、月代さかやきは剃らずまげ小銀杏こいちょうに結っている。旅塵で汚れた木綿の小袖を太帯で縛り、裁付袴たっつけばかま穿き、足元は脚絆きゃはんと草鞋で固めた旅商人の姿である。帯に小刀を差し、背の木箱には笠と合羽かっぱが括りつけてある。

 鉢屋の蓮次れんじである。

 人やモノやゴミをひょいひょいと避けながら、足早に進んでゆく。

 周囲はやたら雑然として、とにかく騒がしい。鶏や犬の鳴き声や、何やら判らない動物の吠え声に混じって、男の怒声、女の罵声、病人のうめき声、赤子の泣き声など、無数の声がする。それに加えて、そこここから槌の音であったりかねを打つ音であったり、何かの作業をする様々な雑音が耳に飛び込んでくる。

 襤褸ぼろ布を身体に巻き付けた子供が三人、嬌声をあげながら蓮次の脇を駆け抜けていった。死んだ馬を載せた荷車が、前方の通りをゆっくりと横切ってゆく。その辻では、垢じみた僧衣をまとったひじりが、数人の観衆に向けてやたらでかい声で説経を垂れている。道端では、顔の皮膚が酷く崩れた者たちが日陰に座り込んで何やら談笑しており、別の路地では山賊のような格好の男たちが車座になって酒を呑んでいる。ある者は酔い潰れ、ある者は今様を歌い、ある者は飯を食い、ある者は女とじゃれている。


「お、薬屋じゃねぇか。久しぶりだな」


 などと声を掛けて来る顔馴染みもいる。

 ちょうど夕飯時で、左手の河原では多くの炊煙が上がっていた。数十人の老若男女が、飯を炊いだりそれを食べたりしながらそれぞれに過ごしている。川の中では紺屋こんや(染物業)の下人たちが染めた布の水洗いをしている。木刀でお手玉の練習をする男、猿に芸を仕込んでいる老人、琵琶を抱えた盲僧、死馬を解体している風景なども見える。その川から吹いて来る風には、えた腐臭と汚物の匂いが混じっていた。

 ――まともな人間の住む処じゃねぇが・・・・。

 人の生命の息吹をこれほど生々と実感できる場所も他にない――と、蓮次は思っている。つい機嫌が良くなって、口元に笑みが浮いた。

 鉢屋である蓮次は、ここの住人たちとはいわば同類なのである。

 この青年は、出雲大社にほど近い賤民集落の屠家とかに生まれた。

 屠家というのは、牛や馬などの動物の屠殺とさつやその死骸処理を仕事にしている家である。動物の皮を剥いで皮革の製品を作り、その肉を食用に加工し、骨や腱や内臓などからにかわを取り、あるいは薬を作るなどして、それらを売ることで活計たつきを立てる。この稼業の者は、人々が忌避きひする死穢しえを引き受けるということで、穢れ多き者――「穢多えた」と呼ばれて差別を受けた。

 穢れとは「不浄」を表す概念である。最悪の穢れは言うまでもなく死穢であるが、血、疫病、出産、月経、犯罪なども穢れと考えられていた。つまり出産を介助する産婆や、人や動物の死体を処理するような仕事に携わる者は、日常的に穢れに触れ続けるわけで、常民からは当然のように忌み嫌われ、蔑視を受けていたのである。

 もっとも、公家が我が世の春を謳歌していた平安の昔とは違い、人殺しを稼業とする「武士」に政権が移ってすでに三百年以上を経たこの時代においては、穢れに対する人々の抵抗感はよほど希薄になっている。貨幣経済の発達と共に「金銭」という新しい価値の尺度が世に普及し、商人という新興勢力が台頭することによって、現実が旧来の社会通念を駆逐くちくしたということもあるであろう。穢れを極度に嫌う公家でさえ河原者の芸能者と交友を持つ者が少なくなかったし、たとえば泉州堺の代表的な豪商である「会合衆えごうしゅう」の今井宗及そうきゅうなどは「皮屋」――すなわち皮革商であったが、その社会的地位は非常に高かった。

 しかし、根拠や価値や意味を失ってさえ、謂われない差別だけは厳然と残る。現代にまで根強く蔓延はびこる同和問題を知る我々は、多くの人間が差別意識から無縁でいられないという哀しいさがを現実として理解できるであろう。

 屠家とかに生まれた蓮次は、蔑視されることの理不尽さを味わい尽くして成長した。幼い頃から小知恵が回り、腕っぷしも度胸もあり、「穢れた人間」として居直ってもいたから、悪さという悪さは一通りこなしたし、そのことに罪悪感も感じなかった。不良少年がやくざからスカウトされるように、鉢屋の頭目から眼を掛けられるようになったのは自然の流れで、その使い走りをするうちに、この渡世に身を置くようになった。ちなみに頭目は鉢屋三左衛門さんざえもんという五十男で、「鉄堀かなほり三左」の通り名を持つ鉄堀り人足の元締めであり、蓮次が生まれた集落の顔役だった。

 賤民集落は出雲にももちろん多くあり、鉢屋衆の党も複数存在している。鉢屋賀麻がま党の大親分である鉢屋弥之三郎を始め、賀麻党の主立つ者は、出雲の王である尼子経久からすでに士分を与えられ、武士となっていたが、その郎党まで含めても、常民の扱いを受けているのは鉢屋衆全体から見ればごく一部に過ぎなかった。鉢屋者のほとんどはそのまま賤民集落で暮らし、彼らから仕事を請け負う形で働いていたのである。

 そもそもが賤民である鉢屋の世界には、当然ながら穢れに対する差別意識がない。あるのは徹底した能力主義であり、同胞意識であり、ある種の仁義と侠気であった。屠家という重い枷を背負って生まれた蓮次にしてみれば、これほど居心地の良い場所はなかったと言っていい。


「兄さん、遊んでっておくれよぉ。安くしとくからさぁ」


 薄汚れた布子一枚をまとった半裸の中年女が、蓮次に二の腕を絡めて小屋に引きずり込もうとした。


「悪ぃなねえさん、今ちょっと懐中ふところが寂しくってな」


 女の痩せた尻を撫でてやりつつ、蓮次は笑った。


「何だよ、景気が悪いねぇ」


「また今度世話になるからよ」


 その手を外して再び歩きだす。

 身体を売ってなんとか食いつないでいるような最下層の貧民たちは河原に近い場所に小屋掛けしているが、河原者のすべてが貧苦にあえいでいるというわけではなく、皮革商や染物業、水運業といった仕事を取り仕切る有力者たちは、河原からやや離れた高台に広壮な屋敷を持ち、吉田や甲立の城下町にもそれぞれ店舗を構え、並みの武士よりよほど裕福な暮らしをしている。一口に河原者と言ってもそれこそピンからキリまであり、たとえば能役者の観阿弥かんなみ世阿弥ぜあみ親子や連歌師の宗祇そうぎのように天下の人々から尊崇を集めるような芸能者もいたし、「馬借ばしゃく」や「車借しゃしゃく」と呼ばれる運送業者や「ワタリ」と呼ばれる水運業者の中には、富力を蓄え、大勢の配下を組織化し、小豪族にも匹敵するような実力を持つ者さえ現れていた。

 河原を背にしばらく歩いた蓮次は、とある辻の築地ついじの前で足を止めた。

 こんな場所にもかつては寺があったらしい。長らく手入れされてないのは一目瞭然で、門は朽ち、境内は雑草が生い茂っていた。哀れなのは本堂で、屋根が落ち、壁が崩れ、盗まれでもしたのか本尊さえ見当たらない。左手にある鐘突き堂にも鐘はなかった。これも盗まれたのであろう。

 右手の奥に庫裏くりらしい建物があり、それだけは辛うじて外観を留めている。その傍にある井戸は今も使われているらしく、釣瓶つるべの縄が新しかった。

 蓮次が庫裏の戸を開けてなかを覗くと、板間の奥で寝ころんでいた大男がのっそりと寝返りをうった。


「・・・・誰かと思えば皮屋のせがれか」


 歳は四十をいくつか過ぎているであろう。墨染の衣を着、頭髪を剃りこぼっているから僧ではあるらしい。疱瘡ほうそうの跡なのか、岩のようにゴツゴツした酷い面相をしている。


「おぅ、糞坊主、まだ生きてたか」


 この男、蓮次とは古い馴染みで、岩阿弥がんあみという名の時衆じしゅうひじりである。

 若い頃は諸国を遊行して、「南無阿弥陀仏、決定けつじょう往生六十万人」と書かれた札を売り歩いていた。蓮次の故郷にもやって来たことがあり、その時に知り合った。いつの頃からかこの無住の寺に住みつき、病者の治療をしたり、人に念仏を勧めたりしながら暮らしている。近くで合戦があれば、頼まれもせぬのに賤民たちを連れて戦場に出掛けて行き、瀕死の武士や雑兵に十念を授けて引導を渡し、その成仏を祈り、遺体を埋葬してやったりもするらしい。


「邪魔するぜ。――あぁ、今日は疲れた」


 蓮次は板間に腰掛けて木箱を降ろし、草鞋をぬいで布で足をぬぐった。


「朝から歩きづめでよ」


「その格好なりを見ると、まだ薬売りを続けておるようだな。また薬を持って来てくれたのか? らいに効く薬はないか?」


「アレを治しちまえるような薬は唐土もろこしにもまだねぇと思うが――。万病に効く妙薬ならあるぜ」


 蓮次は腰にぶら下げていた瓢箪ひょうたんを放った。

 その栓を開けて匂いを嗅いだ岩阿弥は、


「おぉ、百薬の長か。こいつは有難い」


 実に嬉しそうに笑い、ぐびぐびと飲んだ。

 らいは、その言葉自体が現在は差別用語になっている。ハンセン病のことである。

 古来、日本では、ハンセン病とそれと区別がつかないほどの重度の皮膚病を「天刑病」と呼び、その病に掛かった者を「非人」に落とし、コミュニティーから追放することで隔離するということを行ってきた。不治の病者はその存在自体が強い「穢れ」であり、穢れた者は賤民なのである。たとえば宗教的な権威であった比叡山は、女人、三病者、細工を禁制とし、女性と、ハンセン病を含む三種の病人、河原者である職人を同列に並べて入山を禁じていたほどで、中でも病は人に感染する場合があるだけに、この差別は自衛の意味でも徹底していた。無論、叡尊えいそん忍性にんしょうのように救癩活動に身命を捧げた立派な僧もいて、奈良の奈良坂・北山宿にはハンセン病棟が作られ、罹患者りかんしゃを収容して看護していたという例もあるにはあるが、全国の患者に対してその数は絶望的に少なかったというのが現実であろう。

 つまり、故郷を追われ、僧侶からさえ見捨てられた病者にとって、賤民集落は逃げ込むことができるほとんど唯一の避難場所であった。当然の帰結として、そこには様々な重病疾患者が流れ込み、溢れることになる。常民が賤民集落を忌避するのは、このことも大きな理由であったに違いない。


「まぁ、手持ちの薬は残らず置いてくよ。銭と交換でな」


 木箱を叩きながら蓮次が言った。


「布施行の善徳を積む機会をせっかく与えてやろうというのに、銭を取るとは見下げ果てたヤツだ。坊主に強請たかるとお浄土へ行けんぞ」


「地獄の沙汰も何とやらだ。あんたの十念で送ってもらおうたぁ思ってねぇよ」


 十念とは「南無阿弥陀仏」の称名しょうみょうを十度唱えることである。

 蓮次は坊主から瓢箪を奪い、自らも酒を飲んだ。


「寝るところを貸してもらおうと思って来たんだ。乾米かれいいと干魚が少しあるんで、それなら布施してやってもいいぜ」


「おぉ、そいつは良い。ならば客人、夕餉ゆうげを饗して進ぜるゆえ、早う出せ。わしもちょうど腹が減っておったところだ」


 岩阿弥は嬉しそうに米と干物を受け取ると、土間に降りて米を炊ぎ、魚を焼き、菜を刻み、手早く夕食の支度を調えた。

 二人でそれを食いながら、とりとめない話をする。岩阿弥が最近耳に入れた風聞や噂話などを聞かせてもらうためである。その地の近況を知ることは重要な情報収集であるし、時衆の遊行僧たちには横の繋がりがあり、諸国の情報に通じているから、蓮次にとって何かと得るものが多い。

 大内義興を馳迎ちげいするために、多治比元就が鏡山城に出向いているという情報も、宍戸元源もとよしがそれをしなかったらしいという風聞も、この時に得た。もっとも、鏡山城がある西条には別の諜者が潜伏しているから、どの豪族が出向いて来たかといった詳細は、すでに出雲の尼子経久の元に届けられているであろうが。


「多治比の元就といえば――。あの男は毎朝ご来光に十念をあげてるらしいな」


「ほぉ、よう知っておるな。多治比殿に念仏戒を授けたのは、わしの師匠の友じゃった御仁じゃ」


 岩阿弥はなぜか自慢げに胸を張った。


「へぇ、そうなのか。世間は狭ぇな」


「昔、吉田の井上なんとかの屋敷で念仏講を開いた時に、松寿丸と申された頃の多治比殿がそれに加わられたのだそうだ。それ以来、多治比殿は毎朝欠かさずご来光に十念をあげるようになったと聞いておる。若いに似ず奇特なものだな」


「ふん。信心深いこった」


「その方はもともと法華坊主だったらしいのだがな。寺暮らしが馴染まんと遊行ばかりしておるうちに、『南無妙法蓮華経』から『南無阿弥陀仏』に宗旨替えをしたんじゃろう」


「そんなのどっちでも構わねぇよ」


 蓮次は苦笑した。この男は信心など鼻毛の先ほども持っていないから、宗旨のこととなるとさっぱり判らないのである。


「ご利益りやくがあるのかい」


「そりゃぁ有難いものだぞ。松寿丸であった昔の多治比殿は、家来に城を追い出され、乞食同然の暮らしをなさっておったそうだが、念仏の秘事を授けられるやお城に返り咲かれ、立派なご城主におなりなされた。また先年は、初陣にして武田のお屋形の大軍に見事にお勝ちなされた。これみな念仏の功力くりきだな」


阿呆あほらしい。念仏で戦に勝てるかよ」


 蓮次は鼻でわらった。


「武田のお屋形が、同じように毎朝十念をあげてたら、阿弥陀さんはどっちを勝たせるつもりだよ。困るじゃねぇか」


「困りはせんわい。御仏みほとけはいず方にも同じようにお慈悲をお掛けくださる。勝った方は御仏の功徳に感謝し、負けた方は御仏の本願によってお浄土へ導いていただける。どちらも大喜びじゃろうて」


「その屁のような理屈はなんなんだよ。討ち死にして大喜びする武将がどこにいるってんだ。坊主は頭が良いんだか悪いんだか判らねぇことを言いやがるから面倒臭ぇ」


「それが商売だからな。縁なき衆生しゅじょうはそもそも度し難い。ためになる説経を拝聴したと有難がっておればいいのだ。文句を垂れると耳がつぶれるぞ」


 岩阿弥は大きな身体を揺すって笑った。

 鉢屋者と時衆の聖とは、実は何かと縁が深い。

 そもそも鉢屋は飯母呂いぼろ一族の末裔であるということは先述した。

 平安中期、平将門の乱で敗れ、賤民に落とされた飯母呂の人々は、京にのぼって鴨川の河原に住みつき、夜盗を働くなどして食いつないでいたが、空也上人くうやしょうにんに諭されて悔い改め、念仏踊りで生計を立てるようになった。その際、門付けに叩く鐘がなかったので鉢を叩いて歩き、「鉢屋者」と呼ばれるようになった、ということもすでに述べたが、空也上人はその後、鉢屋の集団を朝廷に売り込んで、京の治安維持のために盗賊を捕らえる仕事を与えてもらうように斡旋し、その生活を助けたという。

 鉢屋衆にとって大恩人である空也上人というのは、布教の手段として念仏を唱えながら踊る「おどり念仏」を考案し、「南無阿弥陀仏」の称名しょうみょうと浄土教の教えを貴賤を問わず民間に広く流布した人物で、「市聖いちひじり」とか「阿弥陀の聖」と尊称された。各地を放浪しながら修業する遊行僧ゆぎょうそうのことを「空也聖くうやひじり」とか「空也僧」と呼ぶことでも判るように、その後の仏教界に多大な影響を与えた仏教史上の大物である。

 鎌倉中期、その空也上人に倣って踊念仏を人々に勧めながら諸国を遊行したのが「捨聖すてひじり」と尊称された一遍いっぺん上人であり、その一遍上人から始まった遊行僧の教団が、時衆なのである。

 空也上人に念仏踊りを授けられた鉢屋の者たちは、出雲に移って年頭の恒例に「千秋万歳(萬歳まんざい)」を踊るようになった。「踊り」という芸能が、鉢屋と時衆を強く結びつけている。ちなみに空也聖は、ひさごや鉢を叩きながら念仏や和讃わさん(仏徳賛美の歌)を唱え、市中の家々を廻り歩いて布施を受けていたので、「鉢叩き」とも呼ばれたという。

 岩阿弥は、その「鉢叩き」――時衆の聖を自称しているのだが、不思議と踊らない。いや、踊るのかもしれないが、踊念仏をしているところを蓮次は見たことがなかった。

 蓮次が知っているのは、この僧が女犯にょぼんも酒も大好きな生臭坊主だということと、戦場で埋葬してやった武士や雑兵の持ち物をいで売り、そうして集めた銭を投じて食糧や薬を買い、貧民や病者を救っているということである。寺で経をあげたり学問をなぶったりしている行儀の良い僧侶と比べると、この男はよほど風変わりではあるが、「救済」が宗教者の使命であるとすれば、一本太い筋が通っている。

 だからこそ蓮次はこの坊主が気に入っているのであろう。



 翌朝、蓮次は吉田の城下に入った。

 この城下町は、江の川の水運を使った交易の中継点である。日本海側の物産を安芸へもたらす玄関口と言ってよく、川筋の舟着き場には商家の納屋なや(倉庫)が並び、大小様々な店舗が軒を連ねている。

 その一等地から少し離れた辻の角に、小さいながらも薬種を扱う店がある。

 蓮次がその店先を覗くと、顔見知りの手代が人懐こい笑顔を見せた。


「あぁ、小西屋の弥兵衛やへえさんでしたね。久しぶりでございますねぇ」


「お久しぶりでございます」


 蓮次は努めて柔和な笑みを作り、深く頭を下げた。


「こちらには四月ぶりでしたでしょうか。しばらく山陰の方を廻っておりましたもので」


「あぁ、そうでしたか」


「実は、また行商の荷をわけて頂こうと思いましてね」


「はいはい、どうぞどうぞ。まずはお上がりになって――」


 男は愛想よく蓮次を店のなかに招き入れた。

 蓮次の「表」の顔は、泉州堺の薬種問屋である「小西屋」に籍を置く弥兵衛という名の歴とした売薬商人である。この男は、頭のキレと小器用さと度胸の良さを買われ、尼子家と取引のある小西屋に身分を隠して奉公に出されていた。

 堺の薬種問屋の鑑札かんさつを持っていれば、全国のどこの座でも薬の仕入れや販売ができる。身分証であると同時にほとんど万能の通行手形であり、諸国を渡り歩くのにこれほど便利なものはないのである。蓮次はすでに十年以上をこの稼業で過ごしつつ、尼子家の諜者の一人となって働いていた。

 この時代、薬の行商人は、山間の寒村などでは移動病院のように重宝がられた。

 医療といえば古来から巫女や僧侶の領分で、加持祈祷や民間療法に頼るしかなかったのだが、室町以降、医学が仏教から切り離されて独自の深化を遂げたこともあり、また中国の漢方薬の研究、開発が飛躍的に進み、それが堺へもたらされたこともあって、日本でも薬の効用が広く認知され、爆発的に普及し始めていた。その値段は一般には高価なものだったが、正規の学問を修めた医者はそもそも数が少なく、その診療を受けるための労力と対価に比べれば、薬を買う方が遥かに手軽で安価であったから、人々に喜ばれたのである。

 薬は、値段が高い割りに需要が多いから路銀が稼ぎやすい上に、荷自体が軽いので運搬の苦労をせずに済む。病者やその家族には感謝されるから、人の信頼を得やすいという利点もある。その処方には専門知識が必要だからそれを学ばねばならないが、そこさえクリアできれば諜者が扱うにはうってつけであった。

 ちなみに薬売りといえば越中富山が有名であるが、越中の売薬商人が登場するのは江戸時代の初期で、この物語のこの時期から百五十年ほど後のことである。この時代、最新の医療薬である漢方薬はほとんど輸入に頼っていたから、堺がその最大の卸し元であった。独自の私貿易を行っている大大名はともかく、諸国の豪族や地侍たちにすれば、漢方薬を手に入れるには堺の薬種問屋の筋に頼るしかなく、その鑑札を持つ者を関所で止めるわけにはいかなかったのである。

 木箱に商品を補充した蓮次は、城下の通りに出た。

 ――おゆきと一度繋ぎを取るか。

 清神社へ足を向けてみると、不思議なことにゆきたち一行が長屋から消えていた。

 色々と聞き込みをしてみたが、その居所が掴めない。歩き巫女は放浪してゆくことが当然で、一所に長く留まることの方が珍しいわけだから、誰に尋ねても要領を得ないのである。

 ――吉田からは動いてねぇはずだが・・・・。

 蓮次は首をひねった。

 諜者としての新たな命令はゆきに出ていないから、そのまま毛利氏に張り付いているはずなのである。

 歩き巫女は、出雲大社への喜捨きしゃを集めて回ることもその重要な仕事で、広く諸国を廻り、かつ巫女同士がかぶらないように、それぞれ年ごとにテリトリーが設定されている。その大まかな動きは彼女らを束ねる長老たちによって把握されているから、ゆきが安芸を出て他国へ行ったというようなことはまず考えられない。あるいは住処をよそに移しただけなのかもしれないが、それなら消息を知る者がいても良さそうなものだ。

 ――ちょっと間が空いちまったからなぁ。

 この夏、尼子氏は伯耆ほうき国に出兵しており、蓮次を含め多くの諜者が戦場諜報や後方撹乱などの仕事に掛かりきっていた。その後、出雲で内乱が起き、経久の後継者である政久が討ち死にするという凶事も重なったために、尼子氏としても安芸の小豪族の動静などに気を回している場合ではなかったのである。

 ――とりあえず相合の元綱の屋敷を当たってみるか。

 元綱がゆきを我が屋敷に住まわせた可能性はあるだろう。

 風聞によれば、元綱は三月ほど前に坂氏の縁者の娘と婚儀をしたらしい。新婚で妾まで屋敷に囲うというのも不埒な話だが、あり得ないことではない。

 蓮次は、郡山の威容を右手に見ながら相合川に沿って歩いた。

 元綱の屋敷までは四半刻ほどである。

 田園の中に、船山を背負うようにして低い土居に囲まれた小ぶりな屋敷がある。

 ――さて、どうするか。

 裏門に回って、門扉を叩いた。


「もうし。お願いでございます」


 しばらくすると、老僕が扉を開けてくれた。

 その老人の顔はよく見知っている。

 ――市兵衛爺いちべえじい

 探る手間がはぶけた。


「みどもは薬の行商を致しておる者でございまして、泉州堺の薬種問屋、小西屋の弥兵衛と申す旅商人あきんどでございます。頭痛あたまいた歯痛はいた、熱取り、腹下しなど、唐土もろこし渡りの様々な漢方薬を扱っておりまして、もしご入り用がございましたら、お申し付けいただければと思いまして推参すいさん致した次第でございます」


 蓮次の顔を見た市兵衛は、わずかに驚いた風情を見せたが、すぐに表情を消した。


「ほぉ、左様でございましたか。薬の行商を――」


 ――今夜の刻(午後十時)、そこの河原で。

 蓮次の小声に、老人は眼だけで頷いた。


生憎あいにくと当家の主人はご不在でございましてなぁ。お方さまにお取り次ぎ致しましょうか」


「あぁ、いえいえ」


 すでに目的は達している。


「そういうことでしたら、後日またあらためてお伺いしますので――」


 蓮次は深く頭を下げ、踵を返した。

 その夜、蓮次は相合川の河原に降りた。

 狭い河原には腰丈ほどのあしが生い茂り、隠れる場所はいくらでもある。川魚を獲る漁師の粗末な小屋が二、三見える他に人家はなく、月光の他に灯りもない。

 時折強い川風が吹いて、葦の原がざわめいた。

 四半刻ほど待ったであろうか。市兵衛老人らしい人影が川辺に現れた。

 蓮次が近づいてゆくと、老人の方も気付いたらしい、こちらに向かって歩いて来た。

 二人は葦に沈み込むように座った。


「後はつけられてねぇな?」


 蓮次が質すと、


「大丈夫じゃろうと思うがな」


 老人が背後を振り返りながら応えた。


「爺さんが元綱の屋敷にいるたぁ、ちと驚いたぜ。おゆきもあそこにいるのか?」


「ござっしゃる」


「妾として囲われたか」


「おゆきさまは、四朗さまのにおなりなされたわ」


「なんだと?」


 蓮次は仰天した。


「すると――、坂広秀の縁者の娘ってのは、おゆきのことだってのか?」


 探しても判らないわけである。河原者のゆきを妻として迎えるために、その素性を隠したのであろう。たとえゆきの顔を見知った者でも、「元綱の妻」の顔を見た者でなければ、両者が同一人物とは判らない。その秘密を知る者はごく限られた人間だけであろうし、緘口令も敷かれているに違いない。吉田の領民あたりがそれを知らなかったのも当然である。


「おゆきさまは身籠っておられる」


 その言葉に、蓮次は二度驚いた。


「――元綱の子をか?」


 老人は鼻先で笑った。


「それは愚問じゃわな。男親などと申すものは、契った男の中から女が名指して決めるものよ。おゆきさまが四朗さまのお子じゃと申せば、父御ててごが四朗さまの他にあろうはずもない」


 蓮次はまだ驚きが覚めず、言葉を失っている。


「身重で旅などは出来んでな。いずれ何処かに身を落ち着けねばならなんだ。相合のお屋敷に置いていただけるようになったは、むしろ良かったと思うておるよ」


 長い沈黙があった。

 風が止み、川のせせらぎと虫の音だけが聞こえる。

 月が雲間に隠れ、闇が来た。


「・・・・あの女は、アルキの稼業を抜けて、武士の妻女になるつもりなのか?」


 それは、世間から「人間以下」と位置づけられている河原者が、「人間」へ昇格するという重大な意味がある。


「さて。それはおゆきさまのお気持ち次第じゃろうよ。このまま四朗さまのとして生きてゆかれるのかもしれんし、旅の空が恋しゅうなれば、また歩き始めるのかもしれん。いずれ、おゆきさまが心安らかに暮らしてゆけるのであれば、この年寄りにはどちらでも良いことじゃ」


 市兵衛老人は、ゆきがまだほんの小娘の頃から共に旅をし、従者とはいえ祖父のような気持ちをもってその成長を見守り続けてきた。ゆきが何処に棲みつこうが、巫女を続けようが廃業しようが――ゆきが幸せでさえあれば、それでいいと思っている。


「爺さんの忠義ごころは解ったがよ、出雲の社家への義理はねぇのか? あんたもあの女も、杵築きつき大社の賽銭で飯を食わせてもらってきたんだろ」


「義理というなら、お前さんこそ、出雲のお屋形に忠義づらする義理はあるまいよ。お前さんらのお頭目かしらは、河原乞食こつじきから人らしゅうしてもらった大恩があるで、孫子まごこの代まで忠義を尽くさねばならんのかもしれんが、お前さんは侍じゃぁなかろう。ただの鉢屋だ。わしらと同じ河原乞食だろうさ」


「まぁなぁ」


 蓮次はガリガリと頭を掻いた。


「だが、同じ河原者でも、鉢屋は巫女とは違ってな。お頭目かしらを裏切ったり仲間を抜けたりすりゃぁされるのが掟だ。抜けたところで暮らしていける当てもねぇしな」


「因果な稼業よな」


 老人は憐みを込めた目で若者を見た。


「因果でない稼業なんざ、この世にねぇだろうよ。巫女は公界くがい、侍は修羅道、皮屋や猟師は殺生で地獄必定ひつじょうだ」


 虚無的な笑みを浮かべた蓮次は、


「様子は解った。またそのうち世話になるぜ」


 と一言残し、川下に向けて歩き去った。




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