永正十五年の秋(二)
その日、いつものように夜明け前に目を覚ました元就は、妻と継母と共に猿掛城の城頭に立ち、ご来光に手を合わせた。
「南無阿弥陀仏――」
念仏を十度唱和し、家族の息災と毛利家の安泰を祈る。
しばらくの沈黙の後、それをわざと破るように、お杉が二度三度と手を叩いた。
「さぁさぁ、朝餉の支度はすでに整うてございますよ。お急ぎくださりませ」
振り向いた元就は、妻と微笑を交わして母屋へと戻り、湯漬けを掻き込んだ。
この日――。
元就は、大内義興に謁見するために鏡山城へと出向かねばならないのである。
具足をつけるために居室に戻ると、
「元就さま、お支度を――」
久が畳んだ鎧下着と直垂、袴などを持って来た。
褌一本の素裸になった元就は、まず小袖に袖を通し、その上から鎧直垂を着用し、短い袴をつける。足袋と草鞋で足元を固め、脛当てを片足ずつ脛に縛り付け、さらに佩楯を腰に巻きつける。ここまでは自分一人でも出来るのだが、腹巻の合わせ紐を締めることと、篭手、大袖をつけることは、一人ではできない。当然、介添えをしてもらわねばならず、これまではお杉の方がその役を務めていたのだが、この朝は、お久が自らそれを買って出た。腹巻の紐を手早く締め、作法通り左手から篭手に手を通させ、大袖を腹巻の肩にテキパキと結びつける。
「さすがに鬼吉川の孫娘だ。手馴れたものだな」
鎧の着付けに関しては、明らかにお杉より手際が良いのである。元就は素直に感心した。
「これだけは幼い頃から厭になるほど仕込まれましたから」
久はにっこりと微笑むと、己の手を小袖の袖で隠し、太刀と脇差を捧げるように元就に手渡した。武士の大小には女性は直接手を触れるべきではない。この娘には武家の作法が見事に染み付いていた。
脇差を腰に差し、太刀を左手に下げた元就は、空いた右手で妻を優しく抱き寄せた。
「ハキとは解らぬが、半月もせずに帰って来れるだろうと思う」
気軽な風情で言う。
「ご無事のお帰りをお待ち申しております」
「合戦に行くわけではないからな。心配せずともよい」
「はい」
久にとってはこの日が夫の初めての出陣である。危険はないと聞かされてはいるが、それでも心配にも不安にもなる。
「お留守はわたくしが守ります。お心おきなく――」
久は努めて笑顔をつくり、夫を送り出した。
鏡山城は、現在の東広島市――賀茂郡の西条盆地にある。吉田の郡山からは南へ約八里。途中、武田方の熊谷氏の領地を迂回せねばならないから、道のりにすれば四十キロばかりの距離である。福原貞俊、坂広秀、井上元兼といった重臣たちを伴い、警護の意味もあって三十騎ばかりの武者と二百ほどの雑兵を引き連れてゆく。
元就が郡山城にのぼった時、すでに軍兵は集まり終えており、荷駄などの準備もほぼ調っていた。
吉川氏からは吉川元経と嫡子の興経が、高橋氏からは若き当主の興光と隠居の久光が、それぞれ鏡山城へ出向く。興経と興光にとって大内義興は烏帽子親であり、顔見せとお礼の挨拶という意味もあったであろう。いずれも国人一揆(豪族連合)の盟友であり、元就らと同道することになっていた。
吉川氏の大朝よりも高橋氏の横田よりも、毛利の吉田は南方に位置している。彼らにとっても経路の関係で通り道になるから、郡山城に集合することが申し合わせてあった。距離的に遠い吉川氏はすでに昨夜のうちに吉田の城下に入っている。半刻ほど待つうちに、高橋氏も多治比を経て吉田にやって来た。軍勢は三家で七百ほどにまで膨らんだ。
出発したのは巳の刻(午前十時)の鐘を聞いた少し後である。この日の天は、刷いたような薄い雲が散らばる爽やかな秋空であった。
「多治比殿は、大内のお屋形にお会いになられるのは初めてだったかな」
馬を並べた吉川元経が元就に話し掛けてきた。
「はい。謁見の折には、なにとぞよしなに――」
「お屋形は器量が大きい。忠を尽くす者に無体な仕打ちをなさるような方ではないから、そのあたりは安気に構えていなさるとよい」
大内義興への謁見をしくじると、家が滅びる可能性さえある。元就の不安を察して、気遣ってくれたのかもしれない。
異母姉の夫である吉川元経は、今年が本卦返り(六十歳)である。亡き兄が叔父のように敬していた人物で、武勇に優れ、合戦が巧い。鋭敏な才覚を感じさせる男ではないが決して魯鈍なわけではなく、年長者らしい懐の深さと落ち着いた風姿とを持っている。
元経は亡兄の興元と共に大内軍の上洛戦に従っており、大内義興にも愛顧されたようである。それだけに、尼子氏とも繋がりが深いこの男の苦悩は深いであろう。元経は吉川氏の当主だが、祖父の「鬼吉川」や父の国経が健在であるだけに、その意向に引きずられる部分もあるに違いない。
舅である吉川国経と面会して得た元就の感触では、吉川氏は大内氏に無原則に服従してゆくつもりはないようで、将来、風向きの如何によっては尼子氏に従う可能性があるということを国経は否定しなかった。それを元就に明かしたのは、元就が愛娘の婿ということもあるにせよ、毛利家をも味方に引き入れようという下心があったからであろう。これは乱世の豪族とすれば当然の処世ではあるが、その外交的態度は綱渡りのような危険を伴う。大内義興から憎まれれば、小豪族などはたちまち滅ぶのだ。
であるのに、この義兄は泰然として、表情に不思議なほど濁りがない。
――見事な肚の据え方よ。
元経は、その時はその時のことと、武士らしくドライに割り切っているのであろう。妻の久にも共通する特徴だが、吉川家の人間は、物事を深く突き詰めてウジウジと悩むというような精神体質を持たないのかもしれない。内向的で心配性の元就には、その楽天的な思考回路が羨ましくさえあった。
一行は、その日のうちに向原に至り、坂氏の日下津城で一泊した。
向原からは三篠川に沿ってさらに南下し、沙田郡に入る。及美氏という豪族が支配する地域だが、及美氏が大内氏に敵対するとは思えないし、通行の許可も取ってあるから、まず危険はない。そのさらに南方は平賀氏が勢力を張っていて、こちらは国人一揆の盟友である。不測の事故が起こるようなこともなく、行軍は予定通り遅滞なく進み、その日の日暮れには鏡山城下へと到達した。
西条盆地は安芸の商業の陸の中心と言ってよく、鏡山の麓には町屋が数百軒も立ち並んでいる。鏡山城は「応仁の乱」の頃に激戦の舞台となった場所で、大内氏と細川氏が何度も兵火を交え、城下の町屋も綺麗に焼き払われたはずなのだが、民衆の生命力というのは実に逞しい。
城下は、城に収容し切れない大内軍の軍勢と、これを馳迎するために集まった豪族たちの軍兵で溢れていた。総勢はおそらく二万を超えるであろう。安芸の豪族のほとんどが勢揃いしたと言ってよく、この参集に応じなかったのは、武田氏とその傘下の豪族と、宍戸氏くらいのものであった。
――宍戸元源は度胸がある。
宍戸氏は隣国・備後の三吉氏と強い同盟関係にある。その三吉氏は尼子傘下の豪族だから、宍戸氏は大内氏とは距離を取ってゆくつもりであるらしい。
元就は、使者を鏡山城へと走らせて、到着を伝えた。
「毛利家の方々には、ひとまずこちらの寺を宿舎として頂きます。お屋形さまからお呼び出しがあるまで、しばらくここにてお待ちくだされ」
内藤興盛の家来と名乗る男が即座にやって来て、一行を宿舎へと導いた。すでに宿割りなどは出来ていたのだろう。
内藤興盛は毛利家へ使いしてくれた若者で、今回の謁見の奏者番(取次ぎ役)を務めてくれるらしい。なにしろ豪族の数が多いから、実際に元就が義興に会うには、さらに数日を待たねばならないかもしれない。
この滞在中、元就は、多くの豪族の当主やその重臣たちと面晤する機会を得た。先年の「有田の合戦」によって元就の名は鳴り響いており、彼らも元就の人物を知りたがっていたのである。元就にとっても初対面の人間が多く、世間が広がったという意味でも有意義な時間となった。
元就たちが鏡山城へ上るよう命じられたのは、その翌々日の昼過ぎであった。
西条盆地を見下ろす鏡山に築かれたこの城は、山腹に階段状の曲輪が多数あり、畝状の竪堀や堀切をいくつも配した堅城で、山頂に上下二段に分かれた「御殿場」と呼ばれる本丸がある。
内藤興盛の家来の案内で、元就たちはその城山を登り、御殿場の平屋の居館にあがり、控えの部屋でしばらく待たされた。
――大内のお屋形さまとは、どのような御仁か・・・・。
緊張や不安もあるが、同時に、大内義興という巨人を実際に見ることができるチャンスに、元就は少なからぬ興奮をも覚えていた。
陽が中天をかなり過ぎた頃、大広間へと通された。
左右には大内家の重臣が三十人ほども居並んでいる。元就は床板に視線を落としつつ静々と広間の中ほどまで進んだ。その後に重臣たちが続く。
一同は座につき、一斉に平伏した。
「こちらに控えましたるは、吉田郡山城主・毛利幸松丸殿が名代にて、多治比の猿掛城主・毛利 少輔次郎 元就殿にござりまする」
内藤興盛の声に合わせ、元就はわずかに顔をあげる仕草をした。
「多治比殿は毛利幸松丸殿の後見役を務めておられます。先年亡くなられた冶部少輔殿(興元)の弟御にございます」
続いて若者は、元就が差し出した名簿を見つつ重臣らの名を呼び上げた。
その間、元就らは小さくなって床の板目を眺めている。
やや間があって、
「苦しゅうない。面をあげよ」
よく通る渋い声が遠い上座から降ってきた。
それに即座に応えては室町風の礼を失する。額が見える程度にわずかに頭を上げ、義興の威を畏れるように平伏を続けねばならない。
「お屋形さまの仰せでござる。ご一同、面をあげられませ」
内藤興盛の催促を待って、元就は遠慮がちにゆっくりと威儀を正した。
中背の四十男が、一段高くなった上座に泰然と座っていた。黒を基調にした金襴の鎧直垂に同系色の金襴の平袴、頭に引立烏帽子を載せている。瓜実顔だが顔立ちにやや野趣があり、目鼻のパーツは大ぶりである。鼻筋が通り、眉は濃く、頬の肉が厚い。顔色が青白いのは薄い化粧を施しているためであろう。
男は正面から元就を見据え、
「あぁ、冶部少輔に面差しがよう似ておるな」
機嫌よさげに微笑した。
「余が義興である」
決して大柄でも肥満体でもないのだが、身体が何やら大きく感じてしまうのは、この男が全身から発する満腔の自信に、元就の気が呑まれていたからかもしれない。
義興は十七歳という若さで大内家の当主となったが、家を衰耗させるどころかその勢力を大いに伸ばし、二十年を掛けて大内氏の全盛期を作りあげた。家中を束ね領国を治め、北九州での覇権を確立し、さらに安芸、石見と勢力を広げ、ついには中国地方の過半を傘下に収め、将軍を擁して畿内に天下人として君臨した。当時の守護大名としてはまさに破格の人物であり、その武力と財力において日本で右に出る者はない。ある種のオーラをまとって見えるのも当然であったろう。しかし、その雰囲気は決して威圧的というわけではなく、友好的で明朗な温もりさえ感ずることができる。
「冶部少輔は、心根が涼しく、ゆかしい男であった。余にもよう尽くしてくれた。その忠功は忘れておらぬ。病は天命とは申せ、惜しい男を亡くしたものだ」
と、義興はまず兄の死を悼んでくれた。その言葉に軽佻な響きはなく、むしろ真心が込められている。
そのことに、元就はやや意外の感を持った。
義興ほどの男なら、安芸の小豪族に過ぎない毛利氏に対してもっと尊大で傲岸な態度であっても不思議はないのだが、この英傑は、想像していたよりはるかに大度で、礼にも厚く、人柄に優しさと包容力とを備えているらしい。
「果報なお言葉を賜り、恐悦至極に存じまする。泉下の兄も喜んでおりましょう」
心から言った。
「そなたの『有田』での忠戦のことは聞いておる。刑部少輔(武田元繁)を討ち果たした功は小さなものではない。あれ以来、安芸はずいぶんと静かになったようだな」
義興はそういう言葉で元就の働きをも賞した。
実際、武田元繁の敗死後、安芸では尼子方が一時的にではあるが勢いを失っている。尼子氏の影響力の浸透を食い止めたという意味で「有田の合戦」の意味は大きく、その合戦において主体となった毛利氏の存在感は、興元の存命当時よりさらに増していた。
「冶部少輔亡き後も、毛利が変わらぬ忠心を示してくれておることを嬉しく思うておる。余を見限り尼子に通じた武田がことは、刑部少輔が死んだとはいえ、そのままにはしておかぬ。そう遠くない将来、これを滅ぼすために再び安芸に参ることになろう」
「国許にて抜かりなく支度を調え、ご出馬をお待ち申しまする」
元就の模範解答に、義興は大きく頷いた。
「ところで、少輔次郎――」
「は」
「毛利の家督を継いだ幸松丸は、まだ四つであるやに聞いた。武将として兵馬を立派に指揮し、あるいは家政が執れるようになるには、あと十五年は待たねばならぬであろう。それまで、毛利の家督は、いっそそなたが預かることにすればどうか」
その台詞に元就は仰天した。
「いや・・・・、それは――」
「そなたは冶部少輔の同腹の弟。刑部少輔を討った功もある。それに相応しいと思うがな」
唐突にして重大すぎる発言である。
しかし、義興にしてみれば、これは元就という男を試すためにあらかじめ用意していた設問であった。
義興は、多治比元就という男については噂以上のことは何も知らない。悪い印象を持っていたわけでもないが、ただ、元就が吉川国経の娘婿となった以上、元就は尼子経久とも縁戚であり、毛利家中における尼子派の中心人物と看做さざるを得なかった。義興は毛利の先代である興元のことは信頼していたし、信義に篤いその人柄を気に入ってもいたが、興元が死に、元就が幸松丸の後見役となって毛利家の舵を握っている以上、毛利はもはやいつ尼子側に寝返っても不思議はないと考えていたのである。
――元就が味方であるか、敵であるか。その人物も含め、見定めねばならぬ。
というのが義興の存念であり、この会見の主要な目的でもあった。
武家の次男や三男が「家督」に対して強い執着を示すのは珍しいことではない。元就がそのエサに飛びついて来るような男なら、その心を執るのは造作もないあろう。義興の口利き(というよりは横車)で元就に毛利家を継がせてやり、恩を売ることで元就自身を大内側に取り込んでしまうつもりであった。義興にすれば毛利の当主が誰であるかなどということは大した問題ではなく、毛利家が自分の犬馬となって尽くしてくれさえすればそれでいいのである。もちろん「毛利家の家督をくれてやる」と言ったところで、義興自身は一銭の金銀も一片の土地も負担するわけではなく、懐はまったく痛まない。
元就は義興の発言の真意が量れず、一瞬返答に窮したが、努めて微笑を作り、屈託のない風情で返答した。
「格別のお心遣い、まことにありがたく存じますが――。毛利の家督は、亡き兄の嫡子である幸松丸さまを措いて考えられぬというのが家中の総意でございました。私はすでに毛利本家を出て一家を立てておりますし、幸松丸さまをお輔けすることが、亡き兄への供養になるものと心得ておりますので――」
「ふむ」
「幸松丸さまがご立派にご成人あるまで、我ら重臣一同、心を合わせてこれを守り立て、政務にも軍役にも遺漏なきよう努めて参る所存でございます」
その涼しげな返答に、亡き興元の面影がダブった。
――欲望の強い男であれば、御しやすかったのだが・・・・。
どうやらこの若者は、その兄に似て目先の小利に奔るような浮薄な性情ではないらしい。義興は認識を改めた。
「そうか。頼もしいことよな。冶部少輔は良き弟を持ったものよ」
義興の細心さは、元就の後ろに控える重臣たちにもそれぞれ懇ろに声を掛けたことであろう。「その方の『船岡山』での働きはよう憶えておる」とか「そなたの『有田』での奮迅ぶりは我が耳にまで聞こえておるぞ」などと、義興は実に滑らかに言葉を継いだ。
武士とはそもそも自己顕示欲の強い生き物であり、人に知られたいという願望を抑えがたく蔵している。大内義興ほどの男に自分の名や武功を憶えてもらっていると知れば、これを喜ばぬはずがないのである。武断派の井上元兼などは無邪気に感激してしまっていたが、政略家としての資質に恵まれた元就には、義興の凄さと怖さがありありと解る。
――これはただごとならぬお人だ。
言葉というものの威力を知り抜き、それを能く使うという意味で、義興は老獪な政治家であった。さらにこの男の恐ろしさは――先天的なものか後天的に身に付けたものかは解らぬが――人を惹きつける磁力のようなものを持っていることであろう。
――なるほど大きい・・・・。
器量が、である。近年の大内家の強勢は、ひとえにこの義興という男の人間力に因るのであろう。元就は心中で唸るような気分であった。
元就らは、半刻ほどで鏡山城の城山をくだった。
今回の謁見は、ひとまず成功裏に終わったと言えるであろう。義興は終始機嫌が良かったし、悪い印象を残すことなく御前を退くことができた、と、元就は自分に及第点を与えた。
ところで、この大内義興の帰国騒ぎに際して、山陽地方の豪族たちは、多くが毛利氏のように再び義興に臣下の礼を取った。しかし、吉川氏がそうであるように、裏では尼子経久にも密かに誼みを通じているという者が実は少なくない。
豪族たちは、大内軍が出て来ればこれに名簿を差し出し、尼子軍がやって来ればこれに人質を遣わすのである。このような鞍替えをこの時代の言葉で「現形」と呼ぶのだが、これは倫理的な意味での「悪」ではなかった。武家とはそもそも大いなる者には従うものであり、そのために寝返りをうち、あるいは裏切りをしても、「自家の生き残り」という究極の選択の末のことであれば、それは正当防衛であり、当然の権利の行使だと考えられていたのである。豪族たちは江戸期の武士のような儒教的な倫理観や忠誠心を持ってはいなかったし、大内義興ほどの大大名であっても、傘下の豪族たちに対して専制君主のような絶対的な支配力を有しているわけではなかった。
義興は鏡山城に十日ほど滞在し、九月の下旬に諸将を散会させ、帰国の途についた。元就が多治比へ帰ったのは九月の末であり、義興が周防の山口へと帰り着いたのは十月五日である。
大内・尼子の激突は、すぐさま始まるかとも思われたが、冬が過ぎ、年が明けても、中国地方は不思議なほど静かだった。大内義興は溜まりに溜まった内政案件の処理と領国・分国の再統治に忙しかったし、大内家の武将たちにしても十年もの外征による経済的な負担が大きかったから、充分な休息期間が必要だったのである。
大内氏がついに腰をあげ、尼子氏との戦いが本格化するのは、三年後の大永元年(1521)を待たねばならない。この間、両雄に挟まれた安芸、石見、備後といった国々では、武力衝突の前哨戦と言うべき外交と謀略による戦いが、静かに、そして密やかに、激しさを増していった。
さて――。
十月になって、吹く風に冬の気配が混じるようになった。
羽田重蔵は、目を落としていた書籍に箋(しおり)を挟んで、ひとつ大きく伸びをした。
相合の元綱の屋敷の裏庭である。重蔵は薪割り台の木に腰掛け、納屋の壁に背を預けて一刻ばかりも読書に没入していた。周囲が暗くなってやっと我に返ったのだが、いつの間にか陽はとっぷりと暮れ落ち、西の空にわずかな残照を残すのみとなっている。黄昏刻とか逢魔刻とか呼ばれる時刻である。
――なんとも恨めしいな。
恨めしいのは、すっかり日が短くなってしまったことだ。
この時代、夜間の照明は富者の特権であった。たとえば蝋燭などはほとんど輸入に頼っていて、よほどの大大名か富商、大寺社などしか所持していなかったし、灯明には荏胡麻油や鯨油などを用いたが、油はいずれも貴重品で、収入のない重蔵ごときがおいそれと手に入れられるものではなかった。ちなみに菜種油が大量に生産され、照明用に安価で出回るようになるのは、この時代からさらに半世紀も後のことである。
――唐土では、ある者は集めた蛍の光で書を読み、ある者は雪に照った月の光で勉学を続けたというが・・・・。
真似できるものではないし、そもそも秋という季節には蛍も雪も無縁であろう。
重蔵は天を仰ぎ、鼻から大きく息を吐いた。
重蔵の手にあるのは『孫子』という唐土の兵法書で、計篇、作戦篇、謀攻篇、形篇、勢篇、虚実篇までの六篇を訓み下し、一冊にまとめたものである。少年時代の元綱が自ら筆を取り、和綴じに製本したものだという。
――それにしても、世にこれほど面白いものがあったのか。
つくづくと思った。
重蔵は吉岡兵法所で軍略を学んでいたほどで、もともと向学心が強く、智を蓄えることに喜びを覚える体質であった。身過ぎ世過ぎに懸命であった頃はそれどころではなく、ほとんど趣味の領域を出なかったが、相合で暮らすようになってから、その熱が再燃した。環境がそれを後押ししたと言うべきであろう。元綱の周囲には、重蔵が一度は読んでみたいと願いつつそれが叶わなかった和書、漢籍の類が、何でも揃っていたのである。
その意味で、毛利家はまさに「特別な家」だった。
たとえば元綱の部屋には、この『孫子』の写本が全十三篇すべて揃った状態で無造作に置かれていたりする。こんなことは、日本中を探しても毛利家とその庶家以外ではまず考えられないのである。この時代、地方の小豪族は漢籍を入手すること自体がそもそも至難だが、『孫子』はなかでも別格であった。
『孫子』が日本へ伝来したのは古く、重蔵が生きるこの時代から数百年も昔に伝わっていたが、当然ながら一般人の目に触れるようなものではない。それを読むことができたのは、よほどの教養を持った貴族か僧侶に限られていた。平安時代になると、朝廷は文章博士の二家に舶来の書籍をすべて管理させ、漢文の読解と研究に当たらせた。その二軒の学者の家というのが、菅原道真で有名な菅原家と、毛利氏の先祖である大江家である。以来、『孫子』は大江家が一元管理し、平安中期に大江惟時が訓み下し、平安後期に大江匡房が大いに研究した。
大江匡房は日本独自にして最古の兵法書である『闘戦経』を著したと目される人物で、兵学の研究家であったらしい。この大江匡房が、当時の武士の棟梁的存在であった八幡太郎義家に『孫子』を教授し、その写本を与えたとされる。それが弟の新羅三郎義光に伝わり、その直系の子孫である甲斐・武田氏に相伝されているのだが、これがほとんど唯一の例外であった。大江家は「学識」で飯を食っているわけで、大江匡房は集めた膨大な漢籍を自邸の「大江文庫」と名付けた書庫に保管し、門外不出とし、授業料を取ってそれらを講読することはあっても、安易に書写などはさせなかった。つまり『孫子』は大江氏の専売特許と言ってよく、名前だけは有名だったものの、その実物に触れられる者はほとんどいなかったのである。ちなみに大江文庫は「応仁の乱」の戦火で焼け、その蔵書も多くが焼失したらしい。
下野国の足利学校のような高等教育機関や、高位の公卿や大寺社などが古くから所持していた『孫子』の原本が、書写されて出回るといったことは、わずかにはあったと考えられる。また、室町時代に入ると商人が急速に力を付けてくることもあり、私貿易によって漢籍を得ることも可能であったろうし、堺や博多などの港湾都市でそれを購入することもできたかもしれない。しかし、その絶対数はあまりに少なかった。『孫子』の兵法を実践して戦国最強と呼ばれた武田信玄の影響などもあって、戦国時代も末期になるとかなりの数の写本が出回っていたようだし、教養時代と呼ぶべき江戸期に入ると兵学は興隆を極め、『孫子』も多くの知識人の目に触れるようになるのだが、戦国もごく初期のこの時代においては、数国を統べるような大大名ならともかく、地方の小豪族で『孫子』を持っている家などは、ほとんどなかったのである。重蔵が学んだ吉岡兵法所にしても、全十三篇のうちの数篇の不完全な写本があったのみで、それでも宝物のように扱われていて、実物は見せてももらえず、ただその講義を聴くことが許されるだけだった。
それだけに、元綱の部屋で『孫子』と出会った時の重蔵の衝撃は、非常なものだった。重蔵は大江氏の来歴などまったく知らなかったし、毛利氏に対する予備知識もなかったから、
――なぜ『孫子』がこんなところに!?
と仰天させられたのである。
やや余談になるが――。
大江氏の京における直系である北小路家は、武家の世となって以後は、衰微してゆく朝廷に仕える下級官人というに過ぎなかった。大江氏の庶流としては、源頼朝の知恵袋として鎌倉幕府の功臣となった大江広元の系統があり、広元は鎌倉政権における文官筆頭となっただけに、権勢という意味ではこちらが本家を圧倒した。その大江広元の子孫は武家化し、鎌倉中期に起こった「宝治合戦」によってほとんどが死に絶えたが、死を免れた者の中では広元の曾孫に当たる毛利時親がもっとも栄えた。
毛利時親は吉田の郡山城を築いた人物で、安芸・毛利氏の初代と言っていい。越後と河内にも領地を持ち、六波羅評定衆にも名を連ねるなかなかの有力者であった。また毛利時親は兵学の研究家としても知られ、かの楠木正成に『闘戦経』をもって軍略の奥義を授けたとする伝説が残っている。大江広元が所持していた膨大な蔵書は、この時親に引き継がれ、郡山城の書庫に収められたのであろう。その家に生まれた元綱や元就は、地方の小豪族とはとても思えないほどの恵まれた教育環境で育ったと言える。
話を戻すと――。
この時代、教養といえば、一般に儒仏と歌学――儒教と仏教と和歌の知識――のことを指す。学術と教養の淵叢は京であり、あるいは叡山、五山、南都といったあたりの大寺社であり、その担い手は公家、僧侶、神職といった人々であった。漢籍を読める武士はそもそも多くなかったし、それを手に入れられる環境と財力がある者となるとさらに稀で、異国の兵法書に通暁している人間となると、よほどの変わり者と言うしかなかったであろう。京から遥か遠い安芸の片田舎で、重蔵が偶然にも仕えることになった人物が、それらの条件をすべてクリアしていたというのは、まさに奇跡であった。
類は友を呼び、同類相求むという。軍略や兵学といったものに対して同好の士であるということが判ると、重蔵と元綱の仲はさらに急速に接近した。
「京は往古から数々の合戦の舞台となった場所だが、お前がこれほど古今の合戦に明るいとは思いもせなんだわ。なぜ今まで隠していた」
「別に隠していたわけではござらんが・・・・」
重蔵が吉岡兵法所の話をすると、
「兵学の学び舎というわけか。俺も一度そこに行ってみたいものだ」
元綱は眼を輝かせた。
それ以来、元綱は、己の手元にある書籍を気軽に貸してくれるようになったし、郡山城の書庫にある和書、漢籍の閲覧と貸し出しをも許してくれた。元綱が郡山城に出仕する時、重蔵はその供をして城にのぼる。主人の下城を待つ間、城内の書庫で至福の時を過ごし、書籍を借りて帰るのである。無数の兵法書や軍記物語などをいくらでもタダで読むことができるわけで、この環境はまさに望外の喜びだった。
――わしが安芸にやって来たのも、四郎さまにお仕えするようになったのも、天の配剤であったとしか思えんな。
重蔵は神仏を信ずる心が薄かったが、このことばかりは天に感謝した。
元綱の方も、軍談や兵法書の解釈を肴にして酒が飲めることを無邪気に喜んでいるようであった。
元綱は優れた知能と想像力とを持っていたが、その知識はもっぱら書物から独習したものだから、認識や解釈が常に書物の著者の視点に限定され、現実世界からも遊離せざるを得ないという恨みがある。煎じ詰めて言えば、百聞は一見に及ばないということである。
たとえば――。
「お前は安芸に来る途次、山陽道を下ってきたと申していたな。それなら『一の谷』のあたりを通ったであろう」
ある夜、酒を飲みながら元綱が尋ねた。
「通りましたとも。『鵯越』でござるな」
元綱は義経とその周辺には異常に詳しく、この合戦に関しても複数の書物でその詳細を研究し尽くしているようで、書物に名の挙がっている武士に関してはその活躍から着ていた具足の色まで驚くほど克明に記憶していたが、軍記物語というのは絵図が載っているわけでも戦場の地理地勢が詳細に記されているわけでもない。
元綱は、現地を実際に見た人間による生の情報を、乾いた者が水を求めるような気分で欲していたのである。
「福原のあたりは地勢はどのようか。『平家』を聞くに、南に海が迫り、北は断崖、東西に長い陣のように思えるが――」
「左様、搦め手の戦場は『一の谷』の木戸(砦の城門)。大手の戦場である『生田の森』まで、四里ばかりはあったと思われまするな。北は鉄拐山の山襞が須磨の海に迫って平地は極めて狭く、要害と申すに相応しい地形でござった。北の断崖は真っすぐに切り立つ壁のようで、その高さたるや、見上げた感じでは十五丈(四十五メートル)ばかりもありましたろうか」
「おぉ、十四、五丈という『平家』の語りと符合するな」
「あれを馬で駆け下ったとすれば、まさに鬼神の所業――。義経がそれをなし得たというのは、この目で見ても信じられませなんだ」
そういう話をしている時の元綱は、実に楽しそうであった。
重蔵は元綱に比べて知識という面では遥かに脆弱であったが、山城、摂津あたりの古今の戦場の地勢は実際に我が目で見て知っているという強みがある。また、著名な合戦に関しては京の吉岡兵法所で多くの優れた先達が長い年月をかけて議論し尽くしていて、その精華というべき上澄みの部分を重蔵は学び取っていた。『一の谷の合戦』は古来もっとも有名な合戦のひとつだから、検討に検討を重ねられていることは言うまでもない。
つまるところ重蔵は、書物だけでは得ることができない多くの知見を持っていたということである。それを元綱が喜ぶのも当然であったろう。
元綱にとって、重蔵は家来、郎党というより、もはや友というに近い。
「俺は毛利の家に生まれたればこそ多くの書物に接することができたが、そのお陰で家に縛られ、この安芸から一歩も出たことがない。お前やゆきのように、諸国を旅できる者が羨ましく思えるというのは、皮肉なものだ」
「四朗さまの兄上は、ご当家の軍兵を率い、大内のお屋形に従って京にのぼっておられた。応仁の乱のときも、諸国の軍勢がこぞるようにして京へ集まって参りましたし――この先、四朗さまにも京にのぼるような機会がやって来ぬとは限りませぬよ」
「京か――」
詠嘆するように言って、元綱は笑った。
その笑顔が、重蔵にはなぜか少しだけ寂しげに見えた。