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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第三章 乱世の梟雄
23/62

永正十五年の秋(一)

 大内義興よしおきが幕府管領代の地位を辞し、京を去ったのは、永正十五年(1518)八月二日であった。

 京を去った、と言っても、別に義興は京に常駐していたわけではなく、近年はほとんど泉州・堺にいた。京は応仁以来の戦乱によって焼けただれ、宿舎にできる建物も人が生活するための物資も常に不足していたし、何より防衛上不安全だったからである。当時の堺は日本第一の富裕を誇った城塞港湾都市で、充分な防衛力と兵の収容能力を備えていたし、大内氏に敵対する細川氏との繋がりが深い都市であったから、これを押さえておくという意味合いもある。本国である周防から瀬戸内海を経由して船で送られて来る食糧などの物資を集積するにも、金銀と物資を交換するにも、日本で最大の交易能力を持つ堺は至便の地であった。

 義興は、堺では大安寺という寺院をその宿舎にしていた。

 大安寺は百年ほど前に建立された臨済宗の寺で、堺のほぼ中心に位置し、二町四方の寺域を持ち、六つの塔頭たっちゅう(寺内の小院)を有している。堺の堀の内側では有数の大刹であった。


「お屋形さま、御出立の支度が整いましてございまする」


 重臣の筆頭である道麒どうき入道・すえ 興房おきふさが、義興が待つ書院へと報告にやって来た。

 義興はひとつ頷き、寺の住持にあらためて世話になった礼を述べ、辞去の挨拶をした。

 回廊を通って境内へ出ると、本殿のきざはしの前に輿が据え置かれていた。それに身を入れ、


「出せ」


 と言い捨てるように短く命じた。

 義興は、京には正直言ってまったく未練はない。あるのは、

 ――この十年の苦労はいったい何だったのか。

 という徒労感のみであった。

 永正十五年の八月二日は、新暦では九月十六日に当たる。秋口とはいえまだまだ残暑は厳しく、風もないから輿の中は蒸し暑い。汗かきの義興はすぐに汗が滲んできて、薄く施した化粧が流れた。

 屈強の男たちに担がれた輿が、わずかに揺れながらゆっくりと進み始めた。それと共に、輿の周囲にいた数百人の武者や雑兵たちが一斉に歩き出す。歩武を揃えた足音、甲冑の擦れ合う音、馬のいななきやその蹄の音などが、大気を無軌道に震わせてゆく。

 義興は、輿の窓を薄く開き、流れてゆく風景を漫然と眺めた。

 強大な自衛力を持つ堺という都市は、応仁以来の畿内の戦乱もどこ吹く風である。治安は常に保たれ、その巨大な水堀の内側は戦場になったこともなければ戦火で焼かれたこともない。戦国乱世の風潮からは超然とし、平和と繁栄を独り謳歌していた。

 平素は人間と荷を満載した車でごったがえす目抜き通りは、大内軍の行列とそれを見物する人垣で埋まり、道の両側には様々な物品を売る無数の店舗が立派ないらかと看板を並べている。米、塩、材木、酒、海産物、薬種、武具、金物、仏具、家財道具、嗜好品、南蛮渡りの希少品などなど、それらの店が扱う品目は数万点にも及び、およそ日本で売買される物品で手に入らぬ物はないとさえ信じられていた。

 右手に少し離れた高台に、四メートルを超える見事なソテツが立ち並び、天に向けて葉を青々と茂らせている。ソテツは四国と九州の南部かそれより南の温暖な島々にしか自生しておらず、本州ではまずお目に掛かれないのだが、堺では五百年近く前から植樹されていたらしい。古くから交易で栄えたこの都市ならではの名所と言ってよく、そこには後に妙国寺という大寺院が建てられ、このソテツは織田信長の目をも楽しませることになる。義興にとってはすでに見慣れた風景だが、その奇怪な姿の木を初めて目にしたときには驚いたものだ。

 ――帰ったら、あれを取り寄せて館の庭にでも植えてみるか。

 こういう些細なことも含め、様々な事柄に対する知見が広がったことだけは、上洛による収穫と言えたかもしれない。

 ――山口を出てから、すでに十一年か・・・・。

 息子の亀童丸きどうまるも数えで十二になっているはずだ。

 十一年前の十一月、義興が京を目指して山口を出立したその数日後、長男の亀童丸が無事生まれたとの報せを旅路の途次で受け取った。義興にとって初めての男の子であり、後ろ髪を引かれなかったと言えば嘘になるが、義興は未練を振り切るようにして東へ進み、上洛を果たし、そのまま一度も帰国することなく今日を迎えている。山口に帰るその日まで息子のことは忘れようと思い定めたていたこともあるが、成長した亀童丸から自筆の手紙ふみが届くようになっても、この長男に対する実感はついぞ感じたことがない。

 義興は息をひとつ吐いて瞑目し、十一年間にわたる畿内での歳月を想った。



 大内義興の上洛は、永正四年(1507)にまで遡る。当時の義興はまだ三十一歳で、若々しい野心に溢れる青年武将であった。

 いわゆる「明応の政変」で京を追われ、各地を流浪して「流れ公方」と揶揄やゆされた足利義材よしき(後の義稙よしたね)が、明応八年(1500)、大内氏の富強を頼って西国へ流れて来た。義興はこれを山口で保護し、前将軍の庇護者となったのだが、思い返せばこの時から、歯車がわずかずつ狂い始めたと言えぬこともない。

 その当時、畿内は細川京兆けいちょう家の全盛時代で、細川政元が絶大な権力を握り、足利義澄を第十一代将軍に擁立して幕政を牛耳っていたのだが、永正四年、その政元が暗殺されるという大事件が起こった。俗に「永正の錯乱」と呼ばれるこの政変によって当主を喪った細川氏は内部分裂し、政元の三人の養子が家督相続を巡って争い始めたのである。諸国の諸勢力が利を求めてこれに介入したため戦火は大きくなり、畿内は混沌とした政情に陥った。

 義興は、この中央政府の混乱につけ入った。前将軍である足利義稙を奉戴し、中国、九州の諸大名に大動員を掛け、味方を募り、その兵力をもって陸路京へと攻めのぼったのである。

 現将軍であった足利義澄、管領・細川澄元らは、大内軍の圧倒的な兵力に驚き、京を捨てて近江へと遁れた。義興はあらためて足利義稙を将軍に復位させ、自ら幕府の管領代となって京に君臨した。後年、織田信長が足利義昭を奉戴して京を握ったが、それに似た政治状況と言っていい。このとき義興はまさに天下人であり、得意の絶頂であった。

 政敵である細川澄元らは、近江の六角氏、阿波の三好氏、播磨の赤松氏などと連携して京の奪還戦を挑んだ。大内方は一時は京を失うなど苦戦の連続であったが、「船岡山の合戦」において細川軍を大いに破り、再び京を奪還した。細川澄元はそれでも諦めず、諸国に味方を募り、義興の地盤である中国、九州地方の諸大名にも盛んに働きかけ、大内氏の足元を揺るがす外交戦術を展開した。自らの野望のためにこの呼びかけに応じた尼子経久が、出雲に帰国して大内氏から離反し、中国地方を切り取り始めたのもここに起因している。

 義興は山城国の守護となり、日明貿易の特権を独占するなど、実利も確かに得た。しかし、絶大な権力を握れば、必ずそれに嫉妬し、足を引っ張る者が現れるというのが世の常である。義興が管領代となって幕府の実権を握ると、擁立した足利義稙とも反目するようになり、味方であった細川高国などからも憎まれた。さらに中国地方では、大内氏の地盤を尼子経久によって次々と削り取られている。十年の在京による戦費の負担も莫大であったし、何より尼子氏の急激な膨張はもはや黙視できるものではなく、ついには帰国せざるを得なくなったのである。

 正直なところ義興は、永劫に続くであろう京での権力争いにはほとほと嫌気が差しており、もっと早くに帰国したかった。しかし、幕府は名実共に義興の武力と富力によって支えられていたから、義興が帰国の意思を表すと、仲違いしていた足利義稙さえもが義興の足にすがりつくようにしてそれを思い留まらせようと躍起になった。義興は文武に優れ、政治家としても器量が大きい英雄と呼ぶべき男であったが、生来の貴族であるだけに根本的なところで人が好く、人の言葉を信じやすく、脇にやや甘さがある。性格として頼られることにも弱いために、足利義稙の懇願を振り払うのに時間が掛かってしまったと言っていい。

 余談になるが――。

 義興に捨てられてしまった足利義稙は哀れであった。義興が大内軍と共に京を去ると、それまでどうにかバランスを保っていた細川高国との間も険悪となり、わずか三年後には京を出奔せざるを得なくなる。細川高国は新将軍を即位させ、義稙の将軍職は廃位されてしまうのである。義稙は淡路で再起を計るも敗れ、四国の阿波へと亡命し、そのまま阿波で失意のまま没することになる。

 それはともかく――。

 ――尼子経久だけは許せぬ。

 という想いが、義興にはある。

 義興と経久は、京における最大の激戦であった「船岡山の合戦」で先陣争いを演じたことがある。軍議の席で、主将である義興はその面目からも先陣を務めるが当然と突っぱねたのだが、経久も先陣を主張して譲らず、あわや大喧嘩という諍いを起こしたのである。経久は大内軍の上洛戦には直接参加しておらず、二年ほど遅れて京に参陣したこともあり、武名をあげるためにも大手柄を立てる場が欲しかったのであろう。

 経久は義興より二十ばかりも年長で、裸一貫から戦国大名へとのし上がった男であるだけに、己の政・戦略の能力には絶対の自信を持っていた。主将である義興に対してはそれなりの礼を尽くしていたし、接する態度も言動も慇懃ではあったが、その心中では義興を密かに小僧扱いしていたのである。義興は生まれたところがたまたま大大名の跡取りであったというだけで、武将としての能力も人としての器量も、自分の方が遥かに優れているという強烈な自負があった。

 そういう匂いは言葉にせずとも自然と伝わるもので、義興は初対面のときから、尼子経久という男だけはどうにも虫が好かなかった。

 ――年寄りめ、身のほどを知れ。

 義興は北九州から中国地方の大半を統べる日本最大の大名であり、同時に近畿に君臨する天下人である。たかだか出雲一国程度の出来星大名が、自分と張り合おうとしていること自体が笑止であり、片腹痛かった。

 義興がそういう気分である以上、経久の方も義興に親しむ気にはなれるはずがない。経久が義興を「敵」として意識するようになったのは、むしろ京で顔を合わせてからであったろう。

 尼子経久は、足利義稙の旗下に参じながら、その政敵である細川澄元、六角氏などと密かに結び、義興には無断で出雲へと帰国し、近隣に触手を伸ばし始めた。火事場泥棒のようなもので、義興の留守をいいことに、中国地方の国々を勝手放題に荒らし回り、勢威を大いに膨らませている。

 ――あの老人は、ただ欲のみで動く。

 ということが、義興にはほとんど生理的に許せない。

 経久が義興の上洛戦に合力したのも恩賞への欲からであり、勝手に京から帰国して敵方に寝返り、中国地方を切り取りまくっているのも領土拡張の欲からであろう。そもそも経久は出雲守護の京極氏を無法に追い、下剋上で国を奪った盗賊のような男であり、かみを畏れ敬うような殊勝な気持ちを持ち合わせているはずがない。節義もなければ信義もなく、その心根のあさましさは獣にも劣るではないか。

 ――わしはあの老人とは違う。

 義興自身も決して無欲なわけではなく、それどころか権勢欲といったものは常人よりはるかに強烈であったが、義興は日本でもっとも富裕な武家貴族の家に生まれ、その当主になるべく育てられた男であるだけに、個人的な富貴や栄達を求める必要がそもそもなく、それらにはほとんど興味さえなかった。義興が求めるのは「名声」や「美」といった目に見えず手にも掴めない種類のモノで、それを求めるがゆえに義興は、大義と名分を重んずるという歴代の大内氏当主が持っていた美質をしっかりと備えていた。甘いとも言えば言えるが、それは真摯さや誠実さにも通ずる義興の美点で、清濁を併わせ呑むような大きな度量を人に感じさせるのである。

 義興は前将軍たる足利義稙を奉戴し、私欲のための戦いではなく天下のための義戦であることを諸国の大名たちに訴え、その協力を得て上洛戦を戦った。幕権と秩序を己の力で新たに立て直し、宸襟しんきん(天皇の御心)を安んじ、天下安寧に貢献するというような浪漫主義的な理想が、その若き胸裏には確かにあったのである。

 義興が実利のみを求める男であったなら、十年もの長きにわたり、莫大な戦費を負担してまで幕府を援けようなぞとはそもそも思わなかったであろう。本国からはるか遠い畿内の地で、反大内連合というべき連中と泥沼の戦いを続けているよりは、中国地方で地道に国の切り取りを続けている方がずっと現実的であったし、楽でもあった。それをしていれば、後に毛利元就が中国十ヶ国に強固な地盤を作り上げたように、揺るぎない大内王国が形成されていたに違いない。

 この永正十五年、義興は数えで四十二になる。武将としてあぶらが乗り切った時期と言ってよく、京における権力の暗闘を経ることで、政治家としてもさらに巨きく成長していた。

 ――失われたこの十年を、取り戻さねばならぬ。

 と義興は思う。

 まずは尼子氏に浸食された国々を奪い返し、往年の大内氏の武威を回復させねばならない。義興が大内軍の主力と共に帰国すれば、かつて臣従していた豪族たちの多くは再び義興に臣下の礼を取るであろう。その上で石見から山陰を攻めのぼり、憎き尼子氏を滅ぼし、出雲、隠岐、伯耆ほうき因幡いなば美作みまさかといった国々を新たに併呑し、中国での覇権を確固たるものにする。

 煌びやかな目標ではあるが、それを想う義興の心中はやや物憂い。若い頃には意識したこともなかった精神的な疲れを、不惑を超えたあたりからふと感ずるようになっていた。

 ――国へ帰るというだけで、大儀なことだ。

 帰りも陸路である。道々、尼子方にくみした備前、備中、備後といったあたりの豪族たちを再び臣従させつつ進んでゆかねばならないから、帰国にはかなりの日数が掛かるであろう。今年中には山口に入るつもりでいるが、途中で尼子方と大きな合戦になるようなら滞陣は長引く可能性もあり、いずれ先はまったく読めない。

 初秋の真っ青な空はどこまでも高かったが、義興の心はその空のようには晴れなかった。



 季節は、安芸国にも平等に巡っている。

 山深い吉田はすでに秋色が濃く、郡山の山々は黄と赤と緑の糸で織りあげられたタペストリーのように色づいていた。

 大内義興が近々安芸へ入るという報せが、大内氏からの使者によってもたらされたのは、九月初旬。よく晴れた日の午後であった。


「お屋形さまが鏡山城に入られるのは、おそらく九月の中頃でありましょう」


 使いとしてやって来たのは、内藤興盛という二十四歳の若者である。

 内藤氏は大内氏譜代の重臣で、代々、長門国の守護代を務める名門であった。父が早くに死んだため、わずか八歳で内藤氏の当主となった興盛は、大内軍の上洛戦が始まった頃はまだ少年だったが近習として義興につき従い、京で共に十一年を過ごした。文武に優れた若手の有望株で、義興のお気に入りと言っていい。この二十年後には、大内家中で随一の身代を誇る宿老にまで登り詰める男である。


「先代の冶部少輔じぶのしょう殿(毛利興元)が京から帰国なされて以来、毛利家の方々とは長く無沙汰となっておることもあり、またお屋形さまは、当代の幸松丸殿を一度ご覧になりたいとも仰せになっておられまする。ご足労ながら、ぜひとも鏡山城までお出向きありたい」


 懇切丁寧な喋り方だが、これはお願いではなく、あくまで命令である。

 鏡山城は安芸の南部――賀茂郡の西条盆地に築かれた山城で、大内氏の安芸支配のための重要拠点であった。義興はここに腰を据え、安芸の国衆を招集し、再び大内氏への帰属をはっきりさせようというのであろう。挨拶に出向いて来ない者は、大内氏の敵として討伐するぞ、という脅しも含んでいる。


「ご使者の趣きはよう解り申した」


 対応したのは毛利家の執権・志道広良である。


「我ら国人一揆の衆が、大内のお屋形さまに忠を致すは今さら申すまでもなきこと。喜んでお迎えに馳せ参じまする。しかしながら、幸松丸さまは御年四つのご幼少ゆえ、名代の者を差し遣わすことをお許し願いたい」


 四歳の子供相手に政治向きの話ができないのは自明であるから、この点は内藤興盛もあっさりと折れた。


「されば、執権の志道殿か、幸松丸殿のご後見たる多治比殿か、いずれかということにして頂きたい」


 若者は高橋氏と吉川氏にも使いせねばならぬらしく、広良から応諾の言質を取るといそいそと郡山城を辞して去った。

 その翌日、広良は主立つ重臣に招集を掛け、評定を開いた。

 早朝、元綱が郡山城の大広間に入ってゆくと、多治比元就をはじめ多くの重臣たちがすでに席に座って待っていた。


「今日はどういう議題の集まりだ?」


 元綱が訊くと、


「大内のお屋形さまが京より帰国なさるそうだ。途次、安芸もお通りになるらしい」


 元就が教えてくれた。


「今後のことについて、皆とも話合うておかねばならんからな」


「ふむ・・・・」


 元綱はこの時点ですでに関心を失っている。議論の成り行きにも興味はなく、結論だけ後から聞かせてくれればそれで良いとさえ思った。が、それを口に出すわけにもいかない。黙って席についた。

 志道広良が使者の口上などを説明し、毛利家としてこの招集に応じるべきかどうか、一同に意見を質した。

 坂広秀が真っ先に応じるべきであることを説き、数人がそれに賛同した。井上元盛や桂広澄は、他の豪族の動きを確かめてから結論を出すべきだと主張した。


「他の国衆たちがどう出るか――。国人一揆の衆とも繋ぎを取り、話し合わねばなりますまい」


「それが穏当でござろうな・・・・」


 言いながら広良は難しい顔をした。

 表向き、国人一揆の面々は大内氏傘下として進退を共にすることを誓っている。しかし、豪族たちはそれぞれの思惑を腹に秘めているに違いない。密かに尼子氏に誼みを通じている者がいないとも限らないし、ことに尼子氏との繋がりが深い吉川氏は、大内氏に臣従する姿勢を続けるのかどうか、これは予断を許さない。

 大内氏に公然と敵対している者と言えば守護の武田氏だが、武田元繁の敗死以来、威勢が大いに衰えているから、その傘下にあった豪族たちは、武田氏を見限り、大内氏に臣従する動きを示す可能性もある。しかし、敵の敵は味方という論理で、武田氏はいわば尼子方であり、尼子氏に通ずる者は武田氏の傘下を脱しにくいという側面もある。このあたり、政情はいかにも微妙で、どの豪族がどちらにつくか、ほとんど見通しが立たない。


「国人一揆は、結束してものに当たってこそ、その存在が大きなものになる。他の豪族たちのことはともかく、一揆の衆の進退だけはなんとかひとつにしたい」


 多治比元就が言った。


「高橋が尼子に靡くということはござるまい。煎ずるところ、吉川がどう動くかという点に尽きますな。多治比殿、舅殿(吉川国経)から何かお聞きではありませぬかな」


「いや、私は何も聞いてない」


 元就は首を振る。


「吉川には我らと進退を共にしてもらいたいものだ。妻の実家を攻めるようなことはしたくないからな。腹のなかのことはともかく、まずまず此度は、鏡山城まで出向いてもらわねばならん」


 風聞によれば、尼子氏は先月来、出雲国内で内乱戦を戦っており、同時に東の伯耆を攻めてもいるらしい。安芸に大軍を出して大内氏と戦うような余裕はとてもないであろう。どう考えても、この時期に大内氏への敵対を鮮明にするのは得策ではない。


「吉川の意向は私が探ってみよう。舅殿と話してみる」


 先のことはともかく、今回はとりあえず大内氏に従う姿勢を見せておくという方が無難である。吉川氏が使者を出さないつもりなら、その線で説得しよう――と、元就は言った。


「大内のお屋形が安芸へ下られるまで十日ほどしかござらぬ。三、四日のうちには他の一揆の衆の意見も束ね、結論を出さねばなりますまい。お急ぎくだされよ」


 広良が念を押した。

 この時点で、大内氏から離れ、尼子氏に味方すべきだ、なぞと極論する者は、老臣の中には一人もいなかった。その意味で、毛利家は間違いなく大内氏の傘下だったと言っていい。

 元綱には定見も先の見通しもない。

 元綱は政治的な話題からは意識的に遠ざかっていたが、内心では大内の色に染まることも尼子の色に染まることも好まなかった。あえて言うなら毛利の色でありたいというのがこの若者の気分であったが、それを口にすることも仄めかすことも一切なかった。



 元綱が相合あいおうの屋敷へ帰ったのは日灯し頃である。

 長屋門を抜けて庭に入ると、重蔵が長屋の前で虫干しにした巻物を片づけているところに出くわした。庭木と長屋の柱の間に紐を渡し、それに広げた巻物がぶら下がっている。

 重蔵の旅の荷物は少ないが、その中に家伝の書物や巻物があった。雨などで濡れぬよう油紙に包んで置いてあるのだが、年に二、三回は虫干ししてやらねば虫に食われたりカビが生えたりしてしまう。秋は乾燥した晴天が多い季節だから、虫干しには絶好であった。

 元綱は近づいて足を止め、巻物に描かれた絵に見入った。


「『源氏物語絵巻』か。似合わぬものを持っておるものだな」


 巻物の中央に御簾みすが描かれ、その奥で若い男が病臥しており、もう一人の若い男がそれを心配げに見舞っている。左手の御簾の奥では女たちがさめざめと泣いている。そういう絵である。

 ――はて。どこの場面だったか・・・・。

 元綱は文章もんじょう博士の末裔という家に生まれ、その必要な教養として古典も一通りは学ばされている。しかし、鶴寿丸かくじゅまると呼ばれていた頃の元綱は、歌物や王朝物にはまったく関心が持てず、斜めに目を通しただけでそのまま通り過ぎてしまっていた。ひとたび集中して文字に向かい合えば無類の記憶力を発揮するというのがこの若者の特技ではあったが、興味のない書物はどれほど読んでも不思議と頭に入らなかったのである。当然ながら、絵から物語の場面を読み解くような能力はない。

 眺めながら首を捻っていると、


「これは『柏木かしわぎ』です」


 と重蔵が微笑しつつ言った。


「柏木――というと、源氏の友の息子じゃなかったか? すると、この見舞っておる男が源氏の子か・・・・」


 話の筋はなんとなく憶えているのだが、登場人物の名前までは出てこない。


「夕霧です」


「あぁ、そうそう、そういう名だったな。これは――?」


「母の形見なのです。わしの母は何やらいう貧乏公家の娘であったらしいのですが、輿入れするときに実家から持たされたそうで――」


「ほう、お前のご母堂は公家の出か。さすがに上北面の家だな」


 元綱は素直に感心したが、重蔵は自嘲気味に笑った。


「昔のことは知りませんが、当今の公家は乞食とたいして変わりません。米や銭が荘園からほとんど届かなくなり、よほど高位の者か、手に職でもない限り、日々の米にさえこと欠くような暮らしぶりなのですよ。ましてわしの母などは、素性も怪しい下級公家が卑女はしために生ませた子であったようです。とても誇れるような血筋ではない」


 重蔵の部屋の戸は大きく開かれ、板間の床に数冊の書籍が無造作に置かれていた。元綱はその一冊を何気なく手に取り、適当に開いた項を斜めに読んでみた。

 流麗な女手で書かれている。『源氏物語』の「帚木ははきぎの巻」の写本で、いわゆる「雨夜の品定め」の場面であった。若き日の源氏とその友人たちが、どのような女性が素晴らしいということをあれこれと議論している。左馬頭さまのかみという男が述べた女性論に、ふと目が止まった。


『すべて、よろずのことなだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多くは、わが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも、心安くらうたきやうなれど、おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮きたる例も、げにあやなし。さははべらぬか』


「総じて、どのようなことでも心穏やかに、嫉妬するようなことがあれば、知らぬ顔をするのではなくそれを上手にほのめかし、恨み言を言わずにはおれない時も、それとなく可愛らしく言えば、男の愛情はかえって増すことでしょう。男の浮気心というのは、妻の態度次第では収まったりするものです。浮気をまったく放任するのも、妻として賢明とは言えません。男も最初のうちは気楽でもあり、妻を哀れに思ったりすることもあるでしょうが、それが続けばだんだんと妻を軽く見るようになりますからね。繋がれてない舟は漂ってゆくものじゃありませんか。違いますか?」


 ――巧いことを言う・・・・。

 作者の紫式部は女の側から男の気持ちを想像してこれを書いているわけで、そこに面白さを感じた。子供の頃に読んだときにはほとんど何も感ずるところがなかったはずだが、それを面白いと思える年齢になったということかもしれない。

 元綱はふと興をおこし、『源氏物語』を読み直してみようと思い立った。秋の夜長の無聊を慰める退屈しのぎくらいにはなるだろう。母が何巻か持っていたはずだし、郡山城の書庫にはすべての巻が揃っていたはずだ。

 とりあえず最初の数冊を取り寄せ、元綱はゆきのつぼねでそれを読み始めた。

 ゆきは夫の傍らに座り、積んである書籍の一冊を手に取って、思わず笑ってしまった。


「まぁ、『源氏』ですの?」


 軍記物語ならともかく、元綱と『源氏物語』という組み合わせがいかにも似合わない。


可笑おかしいか?」


 元綱は書物から目を上げずに言った。


「いえいえ――。お茶でもお持ちしましょうか?」


 慌てて誤魔化す。

 この若者は母親の目の届くところでは挙措をそれなりに繕っているのだが、ゆきの部屋に入ると途端に行儀が悪くなる。この時も床に寝ころがって肘を立て、手で顔を支えながら文字を追っていた。


「可笑しそうな口ぶりだった」


「可笑しかったのではなく、嬉しかったのですわ」


「嬉しい?」


 元綱はやっと顔を上げた。


「『源氏』を学ばれれば、四朗さまももっと女心を解ってくださるようになるかな~と――」


「俺はそれほど朴念仁か」


 苦笑するしかない。


「自分ではそれなりに頭も使い、気を回してもいるつもりなのだがなぁ・・・・」


 こういう不足を訴えた女は過去にはいなかった。人の心を察することがむしろ得意であるとさえ自分では思っていたのだが、どうも思い違いであったらしい。


「『源氏』を学べば女心とやらが解るようになるのかね」


「それは判りませんけれど――。『源氏』さえ解らぬようでは、女心は永劫に解らないでしょう、きっと」


「ふむ。女心とは難儀なものだな」


 女心を解さぬ男と、男心を解さぬ女とでは、どちらが多いのか――。とりとめもなく、元綱はそんなことを考えた。


「『源氏』は、五百年もの長きにわたって世の人々に愛され続けてきたものです。それには必ずそれだけの理由があるのだと思います。さきの関白であられた一条兼良かねら卿などは、『我が国の至宝は源氏の物語にすぎたるはなし』とまでおっしゃっておられますわ」


 一条兼良というのは関白・一条家に生まれた俊才で、「日本無双の才人」とまで評され、公卿としては不遇をかこったものの、学者としては不朽の名声をのこした人物である。元綱が生まれる十年ほど前に死んでいるのだが、その著書の写本が二冊ほど郡山城の書庫にあったし、現代人が福沢諭吉を知っているのと似た感覚で、元綱もその名前と業績の評判くらいは聞いたことがある。


「『源氏これ』は日本の宝だったのか」


 積まれた書籍を手で撫でながら、元綱はとぼけた口調で言った。


「兄者は何と言うかなぁ。今度聞いてみよう」


 同世代の若者に限れば、兄の元就ほど古典に造詣が深い人間を元綱は知らない。安芸中を探したとしても、兄に比肩しうる者は少ないだろうと勝手に思っている。


「物知り同士、お前は俺より兄者と話が合いそうだ」


「そんな――」


 ゆきは慌てて取り繕う。


「兼良卿は『源氏』の注釈書をお書きになっておられるのです。たまたま母がそれを持っていて、ゆきも読んだことがあったというだけのことですわ。江家ごうけ末裔すえたる四朗さまやそのお義兄にいさまと比べられては、恥ずかしゅうございます」


「そいつはいらぬ謙遜だ。公平に見て、お前は俺より教養が深いだろう。お前ほど物を知っておる女も、お前ほど頭の巡りの速い女も、俺は会ったことがない」


 この新妻との会話は、知的な意味で常に刺激的であり、元綱はそれが面白くてしょうがない。

 元綱のこれまでの女性遍歴は、城下の庶民の娘や後家といった比較的身分の低い女によって占められていた。性質はそれぞれだったが、良くも悪くも女たちはそれほど教養を持ってはおらず、打てば響くような機智の煌めきがあるわけでもなく、骨のある対話相手とはとても言えなかった。あえて言えば姉のお松が教養深い女性であったが、恋愛対象としては、ゆきのような型の女にはこれまで接したことがない。


「ついでに言えば、お前ほど要領の良い女も他に知らぬな」


 女には珍しいが、ゆきは仕事を仕切るのが上手く、宰領の才もあるようなのである。この屋敷に居つくや、お付きの女房たちをたちまち手なずけて家事を巧みに切り回し、武家の出である母とも上手に付き合い、来客の対応などにもまったく粗漏がない。


「お前がもし男であったとすれば、さぞ良い武将になったろうと思うよ」


 言われて悪い気はしなかったが、ゆきはあえて不服そうな顔を作り、可愛くねた。


「まぁ――。そのような申され方では、ゆきが何やら可愛げの欠片もない女子のようではありませんか」


「そういうことではない。俺は褒めている」


「褒めて頂いたようにはとても思えませぬ」


 実際、ゆきはとびきり頭が切れるし、大名家の姫と比べても引けを取らないだけの教養がある。酒席で座持ちを務めるには相手の知的レベルに合わせて喋らねばならないし、古典を踏まえた和歌のひとつも詠めぬようでは「しょせんは下賤の女よ」と侮りを受けることにもなるであろう。そういう職業上の理由で、ゆきは歌物や王朝物の古典には当然通じていたし、有名な古歌はそのほとんどを諳んじていた。巫女は出自の点で卑しいだけに、京あたりの貴紳や地方の有力者から愛顧されるためには、深い教養と高い識見を持つことが不可欠なのである。だから子供の頃からそれなりに仕込まれたのだ――という意味のことを、ゆきは控え目に説明した。


「私たちは白拍子なども舞いますでしょう? 権門勢家から招かれるようなことも多いのです。ゆきは京にも二度ほどのぼりましたが、一条家や近衛家からもお招きにあずかったことがございます」


 元綱はその言葉に仰天し、身体を起こして座りなおした。


「近衛家というのは、あの近衛家か?」


「その近衛家だと思いますけれど・・・・」


 ゆきは小首を傾げた。


「私の母は舞いと唄の名手でございました。その縁で――」


「まことの話か・・・・」


「ゆきは四朗さまに嘘などは申しませぬ」


 にっこりと笑う妻を見つつ、元綱はあいた口が塞がらない。

 近衛家は五摂家の筆頭、一条家も五摂家に数えられ、いずれも関白、太政大臣にまで昇任することができる、天子にもっとも近い最高位の公家なのである。安芸・吉田の地頭職に過ぎない毛利家から見て、雲の上のさらに遥か上と言っていい。

 ちなみに大江氏の京における直系は北小路きたのこうじ家で、これが毛利家の本家筋に当たる。公家としては「半家はんけ」と呼ばれるランクで、堂上家(昇殿を許されている公家)のなかでは最下位の家柄であった。血統的に見て元綱はその枝葉の末の末に過ぎず、たとえば元綱が京にのぼったとして、一条家や近衛家の門を叩いたとしても、当主に面会など叶うはずもなく、よほどの銭でも土産にしない限り、犬猫でも追うように門前払いされるのがオチであろう。


「巫女とは偉いものだなぁ・・・・」


 ため息をつくような気分で言った。ゆきという女を知るにつけ、元綱はたびたびこうして驚かされる。それがまた面白いところでもあるのだが。


「べつに偉くはございませんが――。たとえば、ほら、静御前なども白拍子でございましたでしょう?」


 ゆきは、元綱が理解しやすいであろう義経の周囲で例を挙げた。


「あぁ――。静御前は、後白河院や頼朝公の前でさえ、舞ったのだったな」


 『義経記』によれば、ある日照りの年、静御前が雨乞いのために舞いを奉納すると、たちまち黒雲が現れて雨が降りだし、それが三日も降り続いたのだという。その舞いを見た後白河法皇は、「かの者は神の子か」と感嘆し、「日本一」の宣旨を贈ったとある。また『吾妻鏡』には、捕えられて鎌倉に送られた静御前が、頼朝や鎌倉の御家人たちの前で舞いを披露し、その見事さを絶賛されたことが記されている。

 身分の垣根を軽々と超え、天子とも天下人とも言葉を交わし、その身につけた芸を披露できるというのが、芸能者という人種の特権であるだろう。


「静御前は絶世の美女であったらしいな。俺には舞いの出来、不出来はよう解らぬが、そなたの美しさなら解る。その静御前にさえ、そうそう引けは取るまいよ」


「まぁ、お上手」


 ゆきは夫の肩にしなだれかかり、その身体を預けた。妊娠してからすでに半年ほどになるが、腹はまだそれほど目立たない。


「四朗さまは今義経――。その妻になったゆきが巫女というのも、きっと前世からの宿縁だったのでございますね」


 元綱が義経なら、自分は静御前――。静御前が天下一の舞姫と謳われた大先達であるだけに、この連想は心楽しいものであった。

 しかし――。

 ゆきは教養としての古典には明るかったが、武家の盛衰に通じているわけではなく、『吾妻鏡』や『義経記』といった軍記物語には触れたことがない。義経や静御前についてもごく一般的な知識を持っているだけで、義経の悲劇的な末路や、静御前が生んだ子がその後どうなったか、といったことに関してまでは、連想が及んでいなかった。


「お前が静御前なら、生まれて来る子は必ず男児おのこであろうよ」


 元綱は妻を優しく抱き、笑顔でそう返したが、不吉なものを感じて思わずそこで口をつぐんだ。

 静御前が生んだ義経の子は、男であった。しかし、男であったがゆえに、義経の兄である頼朝の命によって、生まれたその日のうちに鎌倉の海に沈められ、殺されてしまうのである。

 ――やくたいもない。

 そのつまらぬ連想を、元綱は心中ですぐに打ち消した。




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