老雄の悲嘆
島根県の松江市に、かの小泉八雲が愛した洞光寺という古刹がある。
洞光寺は、徳川時代の初期、堀尾忠氏によって松江城が築かれたときに現在の位置に遷されたのだが、それ以前は安来市の広瀬――月山富田城にほど近い場所にあったという。もともと尼子氏ゆかりの寺院で、尼子経久とその父・清定の墓所がある。
その洞光寺には、尼子経久の肖像画と伝えられる寿像が遺っている。
描かれているのは、いわゆる衣冠束帯姿の若々しい青年で、賛の日付を信じれば三十三歳の頃の経久ということになる。烏帽子ではなく古風な冠をかぶり、黒い袍のような衣服をまとい、武士というより高位の公家といった方が相応しい。やや面長で頬の線がふっくらとし、眉尻はあがり、目は二重で優しげである。鼻はやや高いが小鼻は小さく、唇が薄い。髭は鼻下に蓄えているが、頬や顎のあたりは奇麗に剃られている。その顔立ちは上品で、秀麗とさえ言えるであろう。豪傑、猛将といった型からはほど遠い。
この尼子経久とは、どういう男であったのか――。
京の大徳寺の四十一世住持・春浦宗熙が、この寿像に賛を書いている。
「経久の忠功の誉れ美しく輝き、鉾先りりしく、雲州の庶民を安撫し、その威風は万世にふるい、金城湯池の重城(富田城)を拠点に、向かうところ敵なく、道理のとおったことばには何人も屈服する。禅儒の人で気宇壮大、経久の発する光明は国土の八方を照らす」
これ以上ない持ちあげようである。
若き日の経久は、出雲の守護代であった父の名代として京に上ったことがあり、その時にこの高僧と交流を持ったらしい。ちなみに大徳寺というのは、かの一休和尚をはじめ名僧を数多く輩出し、「五山の上」という我が国の寺院で最高位の寺格を与えられたこともある臨済宗の巨刹で、その住持(寺の長)といえば、現代で喩えるなら文部科学省の大臣といったほどの権威がある。三十三歳の頃の経久はやっと出雲一国を平定したばかりで、しかも京から遥かに遠い地方の一大名に過ぎないわけだから、祖父ほどに年の離れた春浦宗熙が迎合せねばならぬ相手ではない。その言葉は、誇張や装飾はあるにしても、心底から経久という男に惚れ込んでのものと見るべきであろう。
『陰徳太平記』は、経久についてこう述べる。
「知勇全備するのみならず、吾が身露宿風餐の艱難辛苦を経て後、数国の大将と成りたる人なれば、諸士百姓等に至るまで、それぞれに応じて身の上の苦忠(苦衷)をよく考へ知られたる故、民を使ふに時を以ってし、臣を見るに礼を以ってし、賢を尊ぶに爵を以ってし、士を招くに禄を以ってするの道を行はれけるによりて、勇士謀臣風を望み、招かざるに来り、よばざるに集まりぬ」
『雲陽軍実記』によれば、経久は若年より世間の荒波に揉まれ、艱難辛苦を重ねた人物であったので、他人に対してはかくべつ仁心が深く、柴をかる下男や藻を取る海女のような者にまで憐憫の情を持ち、また女子供にはことさらの優しさを示した、という。
「常々は飢えたるには食を与へ、凍えたるには服を賜はりける程なれば、まして君(経久)の為に命を的にする軍士は雑兵に至るまで、手負は疵を吸い、医薬を与え、討ち死にすれば、その子孫を寵愛し、職禄を増し、追善誦経まで心をつけ給ふゆゑ、万人信を通じ徳を慕い、武士たらんものは経久公の命に代わらんことを本意とす」
とある。
また、経久が没してから十年ほど後に書かれたと推定される『塵塚物語』という古書にもこんな記述がある。
「経久は天性無欲正直の人にて、牢人を扶助し、民と共に苦楽を一にし、事にふれて困窮人を救われける間、これにより、彼の門下に首をふせ、渇仰する者多し」
斉(古代中国の国)の名宰相・孟嘗君は、一芸を持つ者であれば、盗賊であろうが乞食であろうが誰でも食客として扶養し、その数三千人と言われたが、その情景が出雲に再興したようだ、と、人々は感じ入ったという。
このようにいずれの古書も、人を大切にする経久の徳を讃えている。
他方、尼子経久という人は、物欲を置き忘れて生まれてきたようなところがあったらしい。毎年暮れになると持っている衣服をみな家来にやってしまうため、出雲の国主という高々とした地位にあるにも関わらず自らはほとんど衣服を持っておらず、真冬でも薄い綿の小袖ひとつを着て寒そうにもせず、「暮春暖気の人相をみるがごとし」という体で悠々と過ごしていたという。
また、これも『塵塚物語』にあるエピソードだが、経久は、自分の所持品を人に褒められると、「そんなに気に入っていただけたならば、貴殿に差し上げましょう」と、なんでも人にあげてしまうという珍妙な性癖があった。
「墨蹟・衣服・太刀・刀・馬・鞍などにいたるまで、即時にその人におくられけるとなん」
といった有様だから、ついには人々は経久の前ではうかつに道具を褒めることができなくなってしまったという。
ある時、出入りの何某という商人が富田城にご機嫌伺いにやって来て、経久と様々に雑談していたのだが、ふと庭に目をやると、景色の見事な松の古木がある。何某も経久の性質は知っており、物を褒めてはいけないということは承知していたのだが、庭木まで褒めないのも風流に欠けると思い、
「いやぁ、このお庭の古松、まことに趣向よく拝見させていただきました。そもそもこの木は、どこのどなたがここに植えられたものでしょうか? それとも昔からこの庭に自然に生えていたものでしょうか? このような姿の美しい松は、私は今まで見たことがありません。ぜひお大切になさってください」
と言って、帰って行った。
その翌日、経久はこの松を指差し、
「知恵を使って、このままの姿で、かの人にお贈りせよ」
と家来に命じた。
困ったのは家来たちである。人夫を使ってどうにか松を根から掘り起こしはしたものの、なにせ十間(十八メートル)以上もある老木のことだから車に乗せることも容易でなく、また乗せたところで、城にはそんな大きなものを通せる通路はない。
途方にくれて正直にそう報告すると、経久は、
「そういうことなら致し方ない。その松を細かく切ってお贈りせよ」
と言って古松を切り砕かせ、それを牛車に乗せて残らず贈らせたという。
この挿話は、「まったく不思議としか形容しようのない人柄である」という言葉で締めくくられているのだが、自らの物欲を自身で徹底して禁じているような経久の姿勢が窺えて、なかなか興味深い。
乱世を武将として生きる経久にとって、その関心は、己の物欲を満足させることなどではなく、いかにして衆人の心を執るか、というこの一事に尽きたであろう。松の名木なぞ焚き木とどれほどの違いもなく、それを愛でる風流心があるのはまだ良いとしても、それに執着しようとする己の心は常に諌めねばならなかった。愛蔵する物をみな人にくれてやるという行為も、ここに通じている。物をやった相手を喜ばせると同時に、自分の小欲を常に監視し、これを拘束し、抑圧し、擦り潰してしまうという自戒でもあったに違いない。「無欲」という自分の人柄を世間に宣伝するというような思惑も、そこに含まれていたと推察できる。
経久はそれほど人心の掌握に心を砕き続けていたわけだが、それでも出雲という国を統治することには手を焼いた。経久は出雲の国主というべき存在だが、絶対君主として出雲を完全に支配していたわけではないのである。
経久は出雲を横領して独立したわけだが、幕府軍に攻められて一度は出雲守護代の地位を失い、徒手空拳の浮浪人という境涯に落ちた。その後、わずかな味方を募っただけで謀略によって一夜にして富田城を回復し、そこから一代で大勢力を作り上げたわけだが、それだけに出雲の在地勢力はなるべくこれを味方につけ、取り込んでゆくという方針を取らざるを得なかった。
出雲の東部はもともと尼子氏の直轄領が多く、父の代ですでに強固な地盤があったこともあり、ほぼ掌握できていたが、多くの大豪族が割拠する出雲西部の山岳地帯はそうはいかない。そこに根を張る三沢氏、三刀屋氏、塩谷氏、赤穴氏といった豪族たちは、いずれも独立心が強く、守護の京極氏を追って出雲を横領した尼子氏をそもそも快く思っておらず、不満が鬱積すればすぐにも叛くというようなアクの強い連中が多かった。豪族たちはそれぞれに寺社領などを横領することによって富力を蓄えているのだが、経久は国主として寺社の利益をも守ってやらねばならない立場だから、その利害もぶつからざるを得ない。彼らは恭順の姿勢を取っていても心から尼子氏に服しているわけではなく、政情は常に不安定だった。
経久はその巨大な「個」で豪族たちを統御してはいるが、この国内事情には悩まされ続けていた。経久が豪族たちを動員して次々と外征を繰り返していたのは、共通の敵を作ることで豪族たちの目を国外に向けさせ、切り取った領地を褒美として分け与え、その不満を逸らすと同時に、戦争によって豪族たちを酷使し、その民力と財力とを疲弊させ、反逆を起こすためのエネルギーを浪費させるという裏の思惑もあったであろう。
この時代の大名というのは在地勢力の上に乗る盟主のような存在で、傘下の豪族たちは家来というより同盟者というに近い。ひとたび膨張を始めた大名家というのは、酷使した豪族たちを常に満足させてやらねばならず、つまりは恩賞を次々と与えてやる必要があり、このためにどんどんと領地を広げ続けてゆかざるを得ないのである。それが不可能ということになれば、経久の大将としての信望は一夜にして失墜してしまうであろう。
そうして膨張を続ける尼子氏と、中国地方の大半の豪族を傘下に収めていた大内氏との戦いは、経久が京から帰国した永正九年(1512)ごろからすでに始まっていた。経久は、大内氏の本拠である周防から遠い備前、備中といったあたりにさかんに兵を出し、大内氏から脱しようとする豪族を支援し、これを服属させている。大内氏は水軍をもって本国から兵を送り、尼子方と戦ってはいたが、大将の大内義興が主力軍と共に京にあることもあって、捗々しい戦いができない。尼子軍とその傘下の豪族たちは戦えば必ず勝ち、そのことでさらに大内氏の威勢と声望は衰えていった。
この永正十五年(1518)、備後の名族・杉原氏が、尾道あたりにまで進出し、海からやって来た大内軍を撃破している。杉原氏は尼子傘下の豪族であり、尼子氏の勢力はこの時期には瀬戸内海まで伸びていたことが解る。備後の諸豪族は――好悪は別として、少なくとも表面上は――出雲に人質を送り、尼子氏に臣従する姿勢を示すようになった。
同時にこの時期、経久は、弟の久幸を大将にして東へも兵を向け、伯耆東部の豪族である南条氏などと兵火を交えている。伯耆国の守護は山名氏であったが、その威勢は衰え、傘下の豪族たちが下剋上で守護の支配を脱し、自立するようになっていたのである。経久は山名氏を援けるという名目で軍勢を派遣し、伯耆の過半をほぼ制圧しつつあった。
さて――。
尼子経久は、記録に残っているだけで六人の子に恵まれ、そのうち三人が男子であったことが知られている。
長男を政久、次男を国久、三男を興久という。尼子経久の妻は『鬼吉川』――吉川経基の娘であり、この三兄弟はいずれもその女性の腹から生まれ(異説もある)、すでに成人していた。
三男の興久は、このとき二十二歳。利かん気の若者で、三兄弟の中でもっとも血の気が多い。癇癪持ちで無鉄砲な面もあったが、戦場では誰よりも勇猛で誇り高く、彼が一声下知を発すれば、家来をして喜んで死地に向かわしめるような一種のカリスマがあった。出雲経略の一環として出雲西部の強豪・塩谷氏に養子に出され、その家を継いで塩谷 彦四朗 興久と名乗っている。ちなみに興久の「興」の字は大内義興の偏諱であり、数年前まで尼子氏が大内氏に臣従していたことの証拠と見ていい。
次男の国久は二十七。肉厚で雄偉な体躯を持ち、性質にやや粗忽なところはあるものの人並み外れた武勇を誇り、さらに将としての合戦の進退が精妙で、父である経久をして「軍務にかけては鬼神のごとし」とさえ言わしめた。後年、尼子家の最精鋭部隊として著名な『新宮党』の大将になる男である。弟と同様の理由で出雲の名門・吉田氏に養子に出され、その家を継いで吉田 孫四朗 国久と名乗っていた。
長男の政久は、三十一歳。経久の通称であった「又四朗」の名乗りを継ぎ、尼子家の相続者たることはすでに確約されている。
この政久の評判は、家中の内外を問わず非常なものであった。高齢の経久に代わって近年は尼子軍の総大将を務めることも多かったが、それを楽々とこなしてまったく粗漏がなかったというから、智勇に優れていたことは言うまでもないであろう。その相貌は若い頃の父に似て秀麗で、肌は白く眉は長く、目元などは婦人のように優しい。挙措は洗練されて立ち居振る舞いに厭味がなく、言葉づかいはいかにも武家貴族らしい典雅さと美しさを備えていた。また文雅の道にも明るく、詩歌に長じ管弦に達者で、その横笛の腕前は名人の域にあるとさえ言われた。まさに花も実もある武将であり、人々はこの青年を『花実相応の大将』と賞賛した。
尼子経久は言動に謙譲謙虚な男で、自らを誇ったりすることが極めて少ない性質であったが、この嫡男のことだけは自慢で、
「鳶が鷹を生むということが世間にはあるが、わしのような者からあれほどの息子が生まれようとは思わなんだ。あれは母方の『鬼吉川』の血が濃く出たのであろうな。行く末、あの舅殿ほどの漢になってくれれば、わしも安心して老いられる」
などとつねづね口にしていた。
そういう父の言葉を耳にするたびに、政久は必ず控え目に反論する。
「父上は百世に一人の英雄です。私などとは比べるべくもない。父上にわずかでも優るところが私にあるとすれば、せいぜい太刀打ちの技と、笛の腕前くらいのものでしょう。そのようなものが少しばかり優れていたところで、国は取れませぬ」
誇張でもおもねりでもなく、政久はそう信じていた。
実際、彼の父は生ける伝説と言ってよく、その器量の大きさ、知恵の深さ、戦術・戦略の構想力、政略手腕の凄み、不屈の精神力と圧倒的なバイタリティーというのは言語に絶している。二代目が偉大な父に及ばないというのはよくある話で、これほどの大才が二代にわたって遺伝し、開花するということの方がむしろ稀であろう。
しかし、経久が戦国大名としての尼子家を「創業」した男であるとすれば、二代目の政久はそれを継承・発展させるのが役割であり、その求められるところはおのずと違ったものになる。経久の見るところ、この若き二代目は、明晰な頭脳と的確な判断力を持ち、衆人の輿望を担うに充分な覇気と才気を内に秘めながら、その人柄はどこまでも謙虚でゆかしく、他人に対しては依怙や贔屓が少なく、しかも人の上に立つ者として自然の威を備えていた。さらに何よりであるのは、政久が誰からも愛されるという得がたい徳を持っていることであろう。
――我が覇業を継ぐに相応しい大器。
という経久の直感は、なにも親の欲目ばかりではない。
「必ずお父上以上になられるであろう」
というのはむしろ衆目の一致するところで、
「政久殿の代で尼子はさらに大きゅうなろう。経久公はすでにご高齢だが、尼子に属しておけば、まずまず間違いはない」
という理由で臣従を決める土豪さえ少なくない。それほどの良器であった。尼子家の家臣や領民は誰もがこの若大将を敬愛していたし、大げさに言えば国中の女たちがこの青年に憧れていた。
その政久は、この永正十五年の八月、父の経久と共に戦陣にある。
尼子軍の主力が東隣・伯耆国へ出陣中であることを好機と見、大原郡阿用の桜井宗的が磨石城(阿用城)で叛乱を起こしたのである。この理由はよく解らないが、桜井宗的は出雲の守護であった京極政経に同情的で、尼子氏の支配を快く思わず、経久が国中の豪族たちを月山富田城へ招き寄せたときにもこれに応じず、独立独歩の姿勢を貫いていたらしい。伯耆で尼子軍に攻められている南条宗勝がそのことに目を付け、密使でも送って叛乱をそそのかしたのかもしれないし、あるいは大内方の誰かが調略したのかもしれないが、いずれにしても、出雲のほぼ中央に位置する大原郡での叛乱は、経久にとって看過できるものではなかった。
事態を重く見た経久は、国内の諸豪族に大動員を掛けてさらに七千の大軍を掻き集め、自ら総大将となって磨石城へ攻め寄せた。ここで弱みを見せればさらなる豪族の叛乱を誘発させかねないから、叛く者は許さぬという断固とした決意を態度で示しておく必要があったのである。
経久の用兵は疾風のように素早く、数日後には磨石城は幾重にも包囲され、桜井宗的は早くも追いつめられた。
桜井氏はさほど勢力の大きくない豪族で、叛乱に同調する味方もなかったから、その兵力はさしたるものではない。しかし、その城は磨石山を要塞化した堅城で、しかも逃げ場を失った兵たちが死に物狂いになって頑強に抵抗したから、寄せ手は攻めあぐんだ。
城攻めに損害はつきものだが、今回は主力軍が伯耆に遠征中ということもあり、その状況下でさらに無理やり動員した傘下の豪族たちに多大な流血を強いれば、彼らの不満は何倍にも膨れるであろう。力攻めを続けることを躊躇した経久は、本陣を堅固に固め、城の周囲に五ヶ所の砦(付け城)を急造し、城を厳重に包囲して兵糧攻めの態勢に切り替えた。降伏し、忠誠を誓うなら、大度を示して許してやろうというような余裕も、そこに含まれていたであろう。
「伯耆のことが片付くまでは、気長に構えるがよろしいでしょう」
軍議の席で政久が言った。
「こうして備えを固めておれば、宗的入道がたとえ鬼神であっても手も足も出ますまい。父上は富田の城にお帰りになられては如何ですか」
主力軍が出払っていることもあり、出雲の国主たる経久が主城を長く留守にしているのは行政上も軍政上も得策ではなかった。政久は七千やそこらの軍勢なら掌を指すほどにやすやすと取り捌くことができるから、その点で何の心配もいらぬであろう。
「もうお若くはないのですから、戦陣の苦労は私のような者にお任せくだされ」
揶揄うような口調だが、息子の孝心が解るだけに、経久も悪い気はしない。
「やれやれ、わしも年寄り扱いをされるようになったか」
「とんでもない。まだまだ父上には老け込まれては困ります」
「老いては子に従わねばならんかな」
左右の重臣たちに向けて経久が戯れると、
「父上、それは女性の身の振り方の話でございましょう」
と政久は苦笑しながら返した。
「幼いうちは父母に従い、若いうちは夫に従い、老いては子に従え――『大智度論』でしたか。父上のような英雄が従わねばならぬのは、ただ天意があるのみです」
経久は春浦宗熙が「禅儒の人」と評したほど仏教知識にも儒学にも精通した男である。その経久が常に自分の傍近くに置き、手ずから一流の教育を施したのがこの長男であり、政久には並みの学者などは足元にも及ばぬほどの学識があった。ちなみに経久は教育熱心な親だったが、次男と三男は養子に出してしまったこともあり、この出来た長男に比べて行き届かぬ部分が多く、ことに十代半ばで手元を離れた三男の興久は我がまま放題に育ってしまっていて、それが経久の頭痛の種のひとつにもなっている。
それはともかく――。
――この場は政久に任せておいても大過はあるまい。
と経久は思った。合戦の大勢はすでに決しており、あとは城内の兵糧が欠乏するまで時間を掛ければ済む話なのである。経久は息子の好意を受け、陣頭指揮は政久と重臣たちに任せ、自らは月山富田城に帰ることにした。
戦陣とはいえ兵糧攻めであるから、周囲は落ち着いたものである。無理な流血はできる限り避けるという方針だから、陣地を堅固に守り、敵が城から出戦してくればこれをあしらい、山上に追い返すだけの作業と言ってよく、連日のように小競り合いは行われるものの、日常的には敵を監視しているほかにやることもない。十日、二十日と滞陣が長引くにつれ、軍兵たちの間には油断や厭戦気分が蔓延りがちになり、その士気を保つことも難しくなってゆく。
政久は日ごとに自ら各陣を回り、武者たちの兵気を励まし、その驕慢を戒めた。また、夜になると付け城の櫓に上り、月を眺めながら得意の笛を吹いた。兵たちの長陣の無聊を慰めると同時に、その日に討ち死にした者たちの霊を敵味方なく弔うためでもあったろう。
欠けた月から蒼い光が娟娟と降る夜、名人の手になる澄んだ笛の音が大気を静かに震わせ、それを耳にした味方の兵たちを粛然とした気分にさせた。城に篭る者たちは敵陣のこの様子を余裕と受け取り、籠城戦の苦労と想い合わせてさらに絶望を深めたであろう。
しかし、この優れた笛の腕前が、政久の命取りになった。
城将・桜井宗的は、
「向かい城から夜ごと聞こえる素晴らしき笛の音色――。あれほどの吹き手はそうあるものではない。おそらく、あれが噂に聞く政久の笛であろう」
と予断し、一計を案じた。
昼間のうちに笛が聞こえて来る櫓の位置を密かに確かめ、どの場所からどの角度で矢を飛ばせば狙えるかということを調べておき、九月六日の夜、頸弓を引く者を集め、それを率いて夜陰に紛れて出戦し、笛の音のする櫓に向けて一斉に矢を放たせたのである。
昼間でさえ狙って必ず当たるというものではなく、まして夜では標的を見ることさえできない「めくら撃ち」である。当たれば奇跡という賭けであり、これを企図した桜井宗的自身が、こんなことで政久を殺せるとまでは思っていなかったであろう。圧倒的な敵の大軍に包囲され、絶望的な籠城戦を続けるなかで、それでもなんとか一矢報いてやろう、憎き敵将に冷や汗のひとつもかかせてやろう、という程度のつもりであったに違いない。
しかし、天運がこの好漢の命脈を断った。
うなりをあげて殺到した矢のうちの一矢が、政久の喉首を貫いたのである。
「かっ・・・・!」
と一声放った政久は、頸動脈から血を迸らせ、その場に崩折れた。
ほとんど即死であったろう。
包囲陣を激震させたこの悲報は、急使によってその日のうちに月山富田城へと届けられた。
「政久が・・・・!?」
その報告を聞いた経久は、跳ね上がるように立ちあがって二、三歩進み、息をするのも忘れたような表情でしばらく宙を睨んでいたが、
「馬鹿な・・・・」
という呟きを発するや、へなへなとその場に座り込み、その後は左右を憚ることさえなく、声を殺して号泣した。
手塩にかけ、山陰の覇者たる尼子家を継ぐに相応しい大器に育てたつもりであった。立派に成長した息子に、そろそろ家督を譲ろうかと考えていた矢先でもあった。この息子があれば、自分も安心して老いることができる――と、そう思っていた。
その嫡男が、まったく予期せぬところで非命に斃れたのである。三十年にわたって積み上げてきた積木が、一時に崩れ去ったようなものであったろう。経久の落胆と悲怒は、筆舌に尽くしがたい。
「おのれ宗的・・・・! もはや降参も許さぬ! 政久の供養のためにも、磨石の城に篭りおる者どもは、猫や鼠に至るまで、生ある者のことごとくを討ち果たしてくれるぞ!」
尼子経久という人間が、これほど感情のままに生の言葉を発したことは、後にも先にもなかったに違いない。
経久は再び出陣し、自ら陣頭に立った。政久の弔い合戦を呼号し、味方の出血を度外視して苛烈なまでの猛攻を繰り返し、数日で磨石城を押しつぶすようにして陥落させた。
城主の桜井宗的は自ら十文字槍を執って戦い、十余人の敵兵を討ち殺したが、やがて力尽き、首を取られた。重臣たちは宗的の妻子を刺し殺し、城に火を放った上で自害して果てた。城兵とその家族は文字通り皆殺しにされ、その首の数は千三百余にのぼったという。女・子供、老人といった非戦闘員がその半分以上を占めていたであろう。
政久が横死することでもっとも利益を得たのは、伯耆東部の羽衣石城で尼子軍の猛攻にさらされていた南条宗勝であったろう。尼子家の次期当主たる政久が討ち死にし、経久自らが陣頭に立って内乱戦を戦っているとなれば、もはや外征などをやっている場合ではない。派遣軍の大将であった尼子久幸は陣払いを決め、出雲へと撤退した。この時に殺し損ねた南条宗勝が、後に毛利元就と結んで尼子氏に敵対し、毛利家の忠良な番犬のようになり、尼子氏滅亡の後も尼子家再興のために戦う尼子遺臣軍を伯耆で苦しめ続け、ほとんど半世紀にわたって尼子に仇なすことになるのだから、運命の綾と言うしかない。
ちなみに尼子久幸というのは経久の実弟で、経久が出雲守護代の地位を追われ、流浪していた頃からこれにつき従い、艱難辛苦を共にし、富田城奪回作戦にも参加し、以来三十余年、政戦両面において経久を輔け続けてきた男である。智勇に優れ、常に冷静で的確な判断力を持ち、しかも心が涼やかで、その無私無欲な人柄は家中の誰からも信頼された。このとき四十六の働き盛りで、大軍を任せて安心感があり、諸将の信望も厚い、まさに尼子家の柱石と呼ぶべき存在であった。
久幸が軍勢を引き連れて富田城へと帰還したとき、すでに磨石城は落ち、内乱は終息していた。経久はこの弟の労を謝し、さらに譜代の重臣らをも集め、評定を開いた。尼子家の次期当主を誰にすべきであるか、協議するためである。
評定の冒頭、経久は久幸に顔を向け、
「わしは少し疲れた。年が年でもある。この尼子の家は、その方が継いではくれぬか」
と力なく言った。
この数日で経久はめっきり老けこんだ観がある。嫡男を喪った傷心が癒えるはずもなく、生気もなければ覇気もない。久幸から見てもその萎れようは哀れなほどであった。
久幸は経久より十五も若く、能力的にも人格的にも申し分ない。血縁という意味でも経久にもっとも近く、経久の後継者として至当の人材と言えたであろう。
しかし、久幸は言下にその申し入れを断った。
「それはなりませぬ。又四朗殿にはご嫡男がござる。これを後継ぎに立て、ご立派にご成長あるまで殿がご後見をなさるが穏当でござろう」
「いや、そう申してくれるのは有難いが――」
経久の顔は渋い。
政久にはすでに一男一女があるが、息子の三郎四朗はまだたった五歳であった。家政を執ることなどできるはずもない。
「幼主に家は保てまい・・・・」
「家督の相続に大切たるは、筋目でござる。筋目が違えば家が乱れます。又四朗殿のご嫡男を措いて尼子の正統はあり得ませぬ」
久幸の言葉は道理であり、居並ぶ重臣たちも次々に賛意を口にした。
政久には二人の弟があるが、いずれも他家に養子に出しており、このいずれかを呼び戻して家を継がせるということになれば、後継者になれなかった一方が必ず不満を持つであろう。その養家の豪族たちとの関係も微妙にならざるを得ない。万一、継嗣争いが起こるようなことにでもなれば、今は服属している豪族たちも尼子の旗の元から離れていってしまうに違いなく、尼子家はたちまち弱体化し、乱世の荒波のなかで覆滅されるであろう。
政久に男の子がある以上、それを継嗣に立てるのが筋であることは経久も解っていた。しかし、この乱世に幼主で家を保てるか、家臣団の結束を保ち得るか、という点に大いに不安があった。つまり経久は、久幸に家督を――と勧めることで、家中の反応を確かめたと言える。経久が我が孫を後継ぎと決めるより、家中の総意として政久の遺児を擁立する、という形にもってゆき、家臣団の結束の核にしようとしたわけである。
衆議は経久の狙い通りに落ち着き、政久の子を尼子家の嗣子にするということが一決された。
しかし、経久は、五歳の孫が立派な武将となるまでこれを後見してゆかねばならぬ義務を負ったわけで、六十一というその年齢を想えば、重い荷物をさらに背負わされたような気分であったろう。
英邁な後継者の早すぎる死は、経久にとってまさに痛恨事であったと言うしかない。それは破竹のような勢いで興隆を遂げていた尼子氏にとって大きすぎる躓きであり、経久の今後の政・戦略にも微妙な影を落としてゆくことになるのである。