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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第三章 乱世の梟雄
21/62

乱世の花嫁(二)

 毛利氏の支配領域は南北に長い。

 本拠である郡山は毛利領の北東にあり、そこから一里半ほど西にある多治比の猿掛城が北西の端である。毛利領は吉田から可部街道に沿う形で南西に向けて延び、六里を経て可部の熊谷氏と領地を接する。南東の端は向原のあたりである。領地のほとんどは山襞によって埋められ、山と山とに挟まれた谷状の狭い平野に街道が通っている。肥沃な地といえば江の川の本・支流に沿ったわずかな平野部に限られるが、この狭い地域に大小合わせて六十を超える城や砦があったというから、平地に近い丘陵や小山にはひとつ残らず砦があると言ってもそう間違っていない。村の数は、小さな集落も含めれば三十ばかりもあったであろう。

 この三月ほど、ゆきはそれらの村々を歩いている。ゆきらの一行は、どこへ行っても常に歓迎された。

 人の往来の激しい都市部と違い、娯楽の少ない山村などでは、諸国の噺がもっとも喜ばれる。歩き巫女のように諸国を巡り、様々な噂話や見聞を伝播する者は、情報に飢えた田舎者には重宝されるのだ。また、清神社で奉納した神楽の影響も大きかったであろう。ゆきの美貌とその舞いの見事さは、「天女のようじゃ」などとやや誇張された噂になって、城下はもとより領内の端々にまで伝わっていたのである。

 ゆきは村々の名主やら豪農などの屋敷を訪ねて歩き、霊験あらたかな出雲大社の神符を売り、社殿造営のための喜捨きしゃを集めて回った。求められれば加持や祈祷をし、あるいは酒席に侍り、舞いや歌を披露し、諸国の見聞譚などを語って聞かせる。吉田の城下では、大身の武士や富商などの屋敷に舞い手として招かれたりもしたし、毛利家の重臣の城――桂氏の桂城、福原氏の鈴尾城、渡辺氏の長見山城、坂氏の日下津城など――にも乞われて出掛けて行ったりもした。

 ただ、南方へ足を伸ばすとなると泊まりになるから、あまり遠出はしないようにしていた。ゆきは清神社の長屋をそのまま宿舎にしているのだが、夜になると元綱が逢いに来てくれることが多かったからである。

 その日も、ゆきは城下の商家の酒席に昼から招かれていた。

 初更(午後八時)の頃に長屋に戻り、すぐに横になったのだが、その深夜、ほたほたと何かを打つ音を聞いた気がして、ゆきは目を覚ました。

 月明かりさえ差さぬ部屋の中は、真っ暗である。闇に慣れぬ眼では視界はまったく利かない。それほど長く眠ったとは思えないから、夜明けはまだ遠いであろう。

 ――四朗さま?

 毛利家の御曹司がまた忍んで来たのかとも思ったが、考えてみれば元綱は、これまで戸を叩くようなことをしたことがなかったし、そもそも今夜は兄の婚儀とかで隣郷の多治比へ出かけているはずで、ここに来るわけがない。

 ――気のせいだったかしら。

 再び目を瞑ると、しばらくして再び床板がほたほたと鳴った。


「たれ?」


 ゆきは半身を起し、夜具の下にある懐剣を手で探った。音を立てぬようにその鞘を払う。

 二間ばかり先の闇で何かが動く気配がした、と思った瞬間、


「俺さ」


 と小声が返ってきた。その声音に聞き覚えがある。


蓮次れんじか・・・・」


 安堵のため息が出た。さすがのゆきも見えない相手は怖ろしい。


「そのまま。火は灯すな」


 闇が動き、わずかな衣擦れの音がした。土間にいた蓮次が板間に腰を降ろしたようだ。ゆきには何も見えないが、あの男は夜目が利くらしく、闇をほとんど苦にしない。


「お前さんがこんなところを宿にするから、繋ぎを取ろうにも取れず、苦労したぜ」


「・・・・苦労?」


「この半月ばかり機会を窺ってたんだが、武士が二、三人、常に目を光らせてやがって、夜はこの長屋に近づけたもんじゃねぇ」


「あぁ――」


 元綱の家来が主人を護衛していたのだろう。

 ゆきはまったく知らなかったのだが、いつ屋敷を抜け出すとも知れぬ元綱を警護するために、重蔵と元綱の近侍たちが相談して、交代でこの長屋の周囲を密かに張っていたのである。今夜は元綱は多治比へ出向いており、重蔵たちも清神社を警護する必要がなかったから、それで蓮次が忍んで来れたのだ。


「毛利家の御曹司とは、またうまいところに取り入ったもんだな。もっとも、その想い者になってしまっちゃ、今さら宿を旅籠に移すというわけにもいかねぇんだろうが――」


「想い者――か・・・・」


 恋人というほどの意味である。ゆきにとって不快な響きではない。


「で、首尾はどうだ? 家中の様子が少しは見えてきたか」


 訊かれて、ゆきはやや鼻白んだ。


「・・・・いや、まだどうもよく解らない」


 別に隠し立てするつもりもないが、そう言うしか仕方がなかった。

 この三月、ゆきは多くの酒席でさまざまな話を聞いたが、どう整理しても毛利家中の人間関係が奇麗に割り切れてくれないのである。

 高橋久光が絶対的な権力を握る高橋氏のような体制なら、主流派と反主流派、守旧派と改革派のような色分けは比較的容易なのだが、毛利氏の当主は幼少の幸松丸で、これは政治力は皆無である。その後見として高橋久光と多治比元就が座っているのだが、さらに毛利家には十五人もの宿老がおり、しかもそれぞれに血縁であったり縁戚であったりしているから、その親疎や利害関係は複雑すぎて、一筋縄ではとても理解できないのだ。

 同族の者でも同じ方向を向いているとは限らないし、たとえば次男の元就に親しい者、三男の元綱に近い者という風に仮に分類したとしても、それらはそれぞれに高橋氏寄りである者もあれば吉川氏寄りの者もあるであろう。吉川氏は尼子氏とは強い同盟関係にあるが、吉川氏寄りの者が必ずしも尼子氏に心を傾けているわけではないだろうし、大内氏の傘下であることを支持しながら高橋氏のことは毛嫌いしているという者もあるだろう。大内・尼子に頼るのではなく、安芸国人一揆の結束こそが大事だと考えるような者もあるかもしれない。


「たとえば、毛利さまの執権は志道広良というお人じゃ。老臣おとなの坂広秀はその従兄弟いとこに当たる。同じ坂一族の出じゃが、坂氏の本家である坂広秀と分家の志道広良は仲が良うないらしい。一方で、そのお二人は大内贔屓びいきであるという点では仲間だ」


 ことほど左様に、毛利家は、そういった主義も立場も違う重臣たちが合議によって家政を執っているのである。ゆきが知り得た限りでは、「毛利家の意志」といったものを体現する中心的人物は、存在しないと言うしかなかった。


老臣おとなのなかで重きをなしているのは誰だ?」


「まず志道広良。あとは、福原広俊というお人が家中で長老だという。これは多治比元就の母方の祖父じゃそうな。それと、坂、井上の一族から老臣が多く出ている」


 その程度のことは調べれば誰でも解ることだから、蓮次ももちろん承知しているだろう。


「志道広良は多治比元就に親しく、井上党の老臣とも近いと聞いた」


「多治比元就と言えば、今宵が吉川の姫との初夜だな。今ごろは臥所ふしどのなかで睦み合ってる頃か・・・・」


 闇でその表情は窺えないが、蓮次の下卑た笑い顔が見えるようであった。


「吉川国経は出雲のお屋形さまの義兄だ。その国経をしゅうとにしたとなりゃ、多治比元就も出雲のお屋形さまと縁戚ということになる。高橋久光にも十分対抗できる後ろ盾を得たわけだ。これからは毛利家中での重みもずっと増すだろうな」


 ただ、それでも当主の幸松丸が高橋久光の孫であるという現実は動かない。毛利家が尼子氏に通じるということは、尼子と敵対している高橋氏を敵に回すことと同義であり、容易に決断できることではないであろう。

 ゆきの感触ということで言えば、毛利家中の人々やその領民たちは、旭日の勢いで勢力を伸長させている尼子氏の威勢を恐れてはいる。しかし、遠い出雲より、隣郷の高橋氏により現実的な恐怖を感じるであろうことも間違いない。いずれにしても尼子軍が安芸に雪崩込んで来るのは今日明日の話ではないわけで、決断を遠い先に置いて思考を止めているのかもしれない。実際に大内義興が京から帰国し、大内・尼子の戦いがどう展開してゆくのか見極めないことには、右も左も決められないということもあろう。大内氏から尼子氏に寝返ろうというほど飛躍して考えるところまでは、まだ物事が煮詰まっていないように思える。

 ただ、重臣たちのなかでも、吉川氏との盟友関係を大事にする者と、高橋氏との提携を一番に考える者とでは、尼子氏に対する考え方にかなりの温度差がある。毛利家中は、大内・尼子の対立軸で見るより、吉川・高橋の軸で眺める方が、形は理解しやすいのかもしれない。


「お前さんのあだはどうだ?」


「四朗さまは出雲のお屋形さまを好いておるようなことを言うておられたが――。それで尼子に心を傾けるということとは違うと思う・・・・」


 元綱は尼子経久に対しては武士としての敬意を持ち、一方で高橋久光のことは露骨に嫌っているようだが、だから毛利家を高橋氏から離間し、尼子氏の側へ導こうとしているかと言えば、必ずしもそうではないであろう。あの若者の思考や物言いは、政治的な色合いが薄く、もっと単純な好悪の感情から発しているように思われる。


「四朗さまは父御ててごを早くに亡くされた。坂広秀が幼き頃より四朗さまの後見を務めてきたらしい。渡辺すぐるという老臣は四朗さまの傅人めのとであったお人じゃ。この二人は四朗さまに近い。あとは桂広澄という老臣とも親しいような気配であった」


「ふむ――」


 蓮次はしばらく考えている風に沈黙していたが、


「出雲のお屋形さまは、そう遠くない先に、吉川を通じて毛利に臣従を求めるだろう。毛利家中が大揉めに揉めるのはそれからだな」


 と面白がっているような口調で言った。


「願ってもないところに手蔓を掴んだことだし、お前さんにはもうしばらくここで女をひさいでいてもらおうか」


 歩き巫女が一所に長く留まれば怪しまれそうなものだが、そこは蓮次も抜かりはない。行商のついでに、ゆきが元綱の囲い者になったというような話をあちこちでばら撒いており、噂はすでに城下に広まり始めている。そのうち妾にでもするのだろうということで、誰も不審には思うまい。

 元綱は未だ本家の部屋住みで何の権力もないが、何と言っても先代・興元の実弟であり、評定などにも加わり、機密にも参与できる立場にある。情報源としては申し分ない。


「二十歳やそこらの若造に、お前さんの身体を自由にさせとくのは癪だがな」


 その声が思わぬ近さでしたので、ゆきは驚いた。

 暗さに少し目が慣れて、闇の濃淡や物の輪郭もうっすらと解る。質量をもった闇の塊が、ゆきの鼻先にまで近寄って来ていた。


「私は尼子の諜者でないかと疑われている。これまでのところは四朗さまもさほど気に留めてはおられぬご様子じゃが、お前のことが知れるとさすがにマズい。ここにはもう来るな」


「ふむ。またしばらくこの匂いを嗅げねぇか」


 声に笑いが篭っている。


「なんのつもりじゃ」


「こっちも命懸けで忍んで来ている。多少の役得はあってもいいんじゃねぇか?」


 蓮次はゆきを横ざまに抱き、夜具へと押し倒した。同時に、己の脚をゆきのそれに絡め、裾の間に手をすべり込ませている。

 が、その手の動きが凍りついたように止まった。

 蓮次の喉元に懐剣の切っ先が突き立ち、その皮膚を薄く裂いたからである。それに気付かず体重を掛けていたら、怪我では済まなかったであろう。


「・・・・おいおい、殺す気か?」


「命懸けなのじゃろう。死んだところでもともとではないか」


 ゆきは突き放すように言った。


「御曹司にみさおでも立ててるつもりか。売女うかれめ風情が義理がてぇことだな」


 男の声に明確な憎悪が篭っている。


神女かんなぎと遊びの区別もつかぬ男に好んで抱かれてやるつもりはない。子種をきたいのであれば他を当たるがいい。それとも、無理やりに犯すか。いっそその方が鉢屋のお前には似つかわしかろう」


 ちっ、と舌打ちをして、蓮次の身体が離れた。闇に溶けるようにその姿がおぼろになり、次の瞬間にはもう見えなくなる。


「手籠めにしようとして逆に刺されたなどと知れれば、仲間内の物笑いになっちまうぜ」


 声が遠い。土間へ降りたらしい。


「ほほ、鉢屋の者にも恥などあるのか」


 ゆきの憫笑に、男はため息で応えた。


「気位の高ぇ女だよ――」


「そこに惚れたのだろう?」


 蓮次は返事もせず、戸を薄く開き、月明かりを恐れるように闇に消えた。


「やくたいもねぇことを・・・・」


 という呟きは、ゆきの耳にまでは届かなかった。



 その数日後、ゆきが夕餉を取っていたときのことである。

 はげしいえずきがこみ上げ、食べたものを残らず吐いてしまうということがあった。

 ゆきの背を擦ってくれていた市兵衛が、


「おゆきさま、もしや――」


 と怖いほど深刻な声音で言ったとき、

 ――これは悪阻つわりでは・・・・。

 ということに、ゆきは愕然と気付いた。

 ゆきは昔から月のモノが不順で、一月で来ることもあれば三月来ぬこともあり、自分のそういう体質を知り抜いていたから、吉田に入って以来、それが来ないことについても、いつものことと思ってさほど気に掛けていなかったのだが、ここ最近の体調の悪さを想い合わせ、自分の身体に尋常でない変化が起こっていることを否応なく直感させられた。

 ――あの時だ。

 ということも、女の勘として解る。清神社に鎮座する「神」を迎え入れたと思って抱かれたあの夜の子に違いない。

 ゆきは狼狽し、それ以上に当惑した。

 これまで多くの男と枕を交わしてきたが、ゆきはついぞ妊娠したことはなく、自分は石女うまずめなのではないかと密かに思っていたのである。己が母になったりひとの妻になったりするというようなことを、これまで本気で考える必要がなかった。

 ゆきは歩き巫女の暮らしが気に入っていたし、女にとって巫女ほど素晴らしい生き方は他にないのではないかとさえ思っていた。誰かの妻になれば、さまざまな煩わしさに悩まされねばならぬであろう。周囲の他人に様々に気を使い、その気息をうかがい、遠慮をしたり気兼ねしたりしつつ世を送るのはいかにも気が重い。それでもゆきが若く美しいうちならばチヤホヤもされ、大切にもされようが、年が経てその容色が衰えれば、男の心さえも若く美しい別の女へと移ってしまうに違いない。

 それならば、巫女として己の芸で身を立て、誰の厄介にもならずに生きてゆく方が、どれほど気楽かと思うのである。

 巫女とは神に仕える特殊な技術者であり、芸能者である。世間からはそれなりの尊崇を受けており、身分ということで言えば卑賤ではあるが、権門勢家にも割り合い自由に出入りができ、庶民に比べれば収入も決して少なくはない。霊能や歌舞や教養といったものは年と共に磨かれることはあっても衰えるものではないから、それで世に立っている限り、誰に対しても遠慮する必要はないのである。ゆきはそう信じ、そのことを誇りにも想い、これまで男を利用することはあってもそれに頼ることはせず、自由気ままに世を送ってきた。

 しかし、子を成したとなって、初めてその心に迷いが湧いた。

 ――この子が、身分賤しき歩き巫女の子として生まれてしまえば・・・・。

 女なら歩き巫女になる。それはまだ良いとしても、もし赤子が男であったとすれば、故郷の村で雑役などをする下男になって市兵衛のように生きるか、豪農の小作人にでもなるか、あるいは鉢屋のような連中に飼われて世を終えるしかないであろう。

 それはあまりに哀れと、ゆきは思う。

 毛利氏は小なりとはいえ歴とした地頭であり、元綱はその家の御曹司である。生まれた赤子が男で、元綱の嫡子ということにでもなれば、将来、そこそこの領地を持つ小領主くらいにはなれるかもしれない。世は乱世であり、武家の浮沈は極めて激しいから、その生は安穏とは言えぬであろうが、生まれた子はその器量次第で面白く世を渡ってゆけるであろう。女であっても、それは毛利家の姫として扱われるのではないか。ゆきの身分が低いからその扱いはさほど重くはないであろうが、いずれどこかの豪族なり家中のしかるべき重臣の元へと嫁ぐことになるに違いなく、婚家の次第では、栄耀栄華とまでは言わずとも、それなりに恵まれた暮らしができるのではないか――。

 ――ともかく四朗さまに相談しないことには・・・・。

 これは、すでにゆきだけでどうこう決められる問題ではない。ゆきの出自を考えれば、毛利家の御曹司の正妻に迎えられることはそもそも不可能であり、側室として置いてもらえればまだ良い方で、最悪、生まれた子を取り上げられて放逐される、といったことさえ考えられる。この時代、武士から見れば巫女も遊女も大きな違いはなく、卑賤の女の扱いとはその程度のものなのである。自身の処遇はひとまず措くとしても、生まれて来る子の行く末を想えば、やはり元綱の子として認めてもらえるようにしておくべきであろう。

 ある夜、元綱が忍んで来た時に、ゆきはそのことを打ち明けた。


「子が・・・・?」


 と言った元綱の表情は、喜びからは遠く、困惑とか当惑とかに近かった。「本当に俺の子か?」などと聞き返さなかっただけ、誠実であったとは言えるかもしれない。

 しばらく沈黙した後、


「俺にも子などできるのだな・・・・」


 ポツリと言った。


「当たり前でございますのに」


「あぁ、それはその通りなんだが、これまで通じた女どもには一向にその気配がなかったからな。俺には子種はないのかと思っていた」


 若者の詠嘆を聞いて、ゆきも苦笑した。

 子が成し難い者同士で、それでも子が授かったのだとすれば、それは運命と言うべきであろう。神女かんなぎであるゆきはそこに神慮を感じ、

 ――あの夜は、やはり素戔嗚尊すさのおのみことがなにかしら計らってくだされたのかもしれない。

 なぞと思ったりした。


「いや、それにしても驚いた。そういうことならば、お前には身を大事にしてもらわねばならぬな。丈夫な子を生んで欲しい」


「それは・・・・そのつもりですけれど・・・・」


 ゆきは少し苛立った。この若者は世事にはまったく気が回らないのだ。


「あの――ここで生むのですか?」


「ん?」


「生まれるまでまだ半年以上もあります。ずっとここにお世話になっておるわけにも参りませぬ」


 それを聞いて、元綱は顔をさらに困惑させた。


「あぁ、そうか・・・・。無論、このままというわけにはいかんな。お前を相合の屋敷に迎えたいが――。その、どうなのだろうか。お前は俺の妻になれるか?」


 こちらが聞きたいところである。


「なれるかと申されましても・・・・。ゆきを妻にして頂けるのでしょうか」


「いや、巫女には巫女なりのしきたりやら何やら、色々と面倒なしがらみもあろう。そちらの世間のことは俺はよう解らぬからな。故郷には親兄弟もあろうし・・・・。お前はずっとこの地に居ついてくれるのか?」


 妻になってくれるかどうかを心配しているらしいと気づいて、ゆきは内心で驚いた。

 この若者は、大名家の御曹司らしい権高さが少しもなく、己の身分の高さとゆきのそのひくさに対する認識が、常の武士とは違っているのである。それは毛利家自体がごく小規模な豪族であるからかもしれず、気楽な三男坊という境遇の影響なのかもしれないし、あるいは元綱自身が妾腹の子として生まれ、兄たちとの待遇の差というものに理不尽さを覚えていたからなのかもしれないが、いずれにしても元綱は、武士がごく当たり前に持っている身分的な差別意識をほとんど持ち合わせていなかった。そのことから来るこの若者の気さくさ、優しさ、器量の大きさは、ゆきのような被差別的な身分の女にとってはたまらない魅力として映るのだが、しかし、こういう場合は「子供!」と罵倒してやりたくもなる。


「歩き巫女は旅の空が棲家すみかでございます。一所に長うは留まりませぬ」


 つい拗ねたような口調になり、くるりと背を向けた。


「四朗さまは、ゆきがこの地を去ると言えば、引き止めてもくださらぬのですね」


「どうしてそういう話になるのだ? 俺は、この地に居ついても大丈夫なのかと尋ねておるだけだ」


 それはゆきという人間を自分と対等に遇してくれているからこその態度であり、若者なりの思いやりなのであろうが、それがゆきには歯がゆくてならない。

 しきたりもしがらみも関係ないではないか。なぜ俺のものになれ、と命じてくれぬのか。その言葉がたとえ口先の嘘だとしても、その嘘があればこそ、女はすべてを投げうつこともできるのに――。


「四朗さまは、ゆきがご要り様なのですか? それとも子が欲しいのですか?」


「そんなもの両方に決まっている」


「それならば、なぜ我が妻になれ、と申してくださりませぬ。たってとお望みくださるならば、ゆきを旅立てぬようにしてくださりませ」


「あぁ――」


 頓悟とんごしたように、元綱の表情から困惑が消えた。


「よう解った。しばらくだけ待ってくれ」


 元綱はゆきを引き寄せ、その身体を強く抱いた。


「必ず相合あいおうで暮らせるようにする」


 嬉しくもあったが、女心を解さない男に物足りなさも湧いた。

 ――浮いた言葉のひとつもくださればいいのに。

 ゆきは、長くとも数ヶ月、短ければ一夜限りという疑似的な恋愛を数え切れぬほど経てきた、いわばこの道の猛者である。そのゆきからすれば三つ年下のこの若者は――戦場では「今義経」の異名を取るほどの勇者であるにしても、こと色恋に関しては――どうしても幼く見えてしまうのだが、しかし、この気が利かぬ男に、抑えがたいほどのかなしさを感じ始めている自分を、我ながらどうしようもない。



 相合の元綱の屋敷には、常時二十人ばかりの人間が暮らしている。

 元綱の母である相合の方とその末娘が一人、侍女がそれぞれ数人、雑用や水仕事をする卑女など、女手は多いのだが、男手は重蔵を除けば老僕が一人と馬の世話やその口取りを務める中年の下僕が二人あるのみで、あとは近侍の青年たちが三、四人ずつ交代で長屋に詰めている程度である。元綱が幼い頃は傅人めのとの渡辺すぐるや後見役の坂広秀などが頻繁に出入りしていたが、彼らは元綱と歳が離れすぎていたし、元綱がいっぱしの大人になってからは屋敷からやや足が遠くなっている。元綱はこういう環境で成長し、暮らしているために、ことに長兄の興元が病死してからは、気軽に世事を相談できる年長者が近くにいなくなっていた。

 その元綱にとって、有田の戦場で拾った重蔵という男は、色々な意味で重宝な存在であった。重蔵は元綱より十ばかりも年長で、世故に長けているというわけではないにせよ、諸国を旅して来たという意味で世の見聞もそれなりに広かったし、京の武士の子であったからか意外に教養もある。何より毛利家中における政治的・党派的な色合いを持たず、元綱を主人と仰いでその身よかれとのみ計ってくれるのが有難かった。

 ある夜、元綱は重蔵を呼んで二人きりで酒を呑みつつ、


「どうも子ができたらしい」


 と相談を持ちかけた。


「それはそれは――おめでとうございまする」


 重蔵はさして驚いた風もなく、穏やかに微笑した。


「例の巫女でござるか?」


「あぁ、そうだ」


「お手柄にござりましたな」


「いや、うん。それはいいのだが――」


 元綱は困ったような顔で続ける。


「あの者を妻に迎えたいと思うのだが、どうすればいいだろう?」


「それは――」


 言われて重蔵も当惑せざるを得ない。


「まずは相合の方さまにご相談申し上げ、そのお許しを頂かねばなりますまい。その上で、ご本家の重臣の方々にも諮らねばなりますまいが――」


「やはり母上にも相談せねばならぬか・・・・」


 元綱はいかにも厭そうな顔をしている。


「隠し通せるような事ではありますまい。お子ができたとなれば、もはや色恋の話ではありませぬ。それは当然です。いや、そもそも、あの巫女を妻としてお迎えになるおつもりなのですか?」


 相手は卑しい巫女風情なのである。常識的に言って、毛利家の御曹司の妻になどなれるものではない。女奉公人――つまり妾として雇ったということにすれば済む話ではないか。


「それはせぬ。正妻は無理としても、せめて側室としてきちんと遇してやりたい」


「ならばなおのこと、内々で済ませられる話ではありますまい。四朗さまのご身分ということもござる」


「婚儀をせねばならぬか・・・・」


 途方にくれた、という風情で言った。

 このあたりがこの若者の小僧臭さであろう。元綱はまだまだ世慣れぬ若者に過ぎず、婚儀ということについてもどういう思案もつかず、ほとんど成すところがなかった。


「こういう時のための後見役でござる。坂さまにご相談なさるが宜しかろう」


 元綱の母である相合の方は、身分は低いながらも歴とした武士の娘であった。相手の女が歩き巫女と知ってさすがに良い顔はしなかったが、子ができたらしいということまで聞かされれば強く反対することもできず、渋々ながら事情を諒解してくれた。

 話を聞き知った坂広秀は、


「側室になさるにしても、ご母堂が巫女風情では世の聞こえも悪く、またしかるべき実家がなければ、生まれたお子が肩身の狭い想いをせぬとも限りませぬ。色々と面倒な根回しも要りましょうが、なに、細々としたことはこの広秀に万事お任せくだされ」


 と得意顔で請け合った。


「ひとえに頼み入る」


 元綱が広秀に頭を下げたのは、これが最初であったろう。

 この坂広秀という男は、家中に対する小政治や根回しは年相応に老練で、小知恵も利く。ゆきの扱いについても、まず自分の家来の遠縁の娘ということにし、それを自分の養女にするという手続きを踏んだ上で、坂氏本家の養女として元綱に嫁がせるという。それだけの形式と必要な手続き、家中への根回しなどを、半月ばかりで調えてしまった。

 形式上、ゆきの実家は坂氏本家ということになり、広秀がその後ろ盾になったと考えていい。広秀にすれば、ゆきを己の手駒にし、元綱にも恩を売った上で、その義父という立場を手に入れたことになる。

 ともあれ、ゆきは向原の日下津城へ連れてゆかれ、そこで半月ばかりを過ごし、侍女やお付きの家来などを揃えた上で、あらためて相合の屋敷に輿入れするということになった。その間、相合の屋敷ではゆきのつぼねとなる部屋の増築が大急ぎで行われた。元綱には経済力も動員力もないから、これも坂一族の当主である広秀がすべて差配した。

 ――この私が武家の婚儀をすることになろうとは・・・・。

 さしものゆきも、自分の運命の変転に呆然とする想いである。

 六月の吉日を選び、簡略ながらも披露の宴が行われた。

 輿に乗せられて相合の屋敷へと運ばれたゆきは、毛利本家の重臣らが居並ぶ広間で盃事をし、木の香りも新しい新築の部屋で元綱と「初夜」を持った。


「どうも奇妙な感じだな。今さらお前と初夜なぞと・・・・」


 苦笑する新郎に、


「ゆきも何やら長い夢でも見ているような心地がします」


 白装束のゆきは苦笑を返した。

 臥所ふしどに入れば、すでに馴染み合った男と女である。ゆきは元綱の胸に顔を埋めながら、


「末永う可愛がってくださりませ」


 と吐息混じりの声で言った。

 お腹の子を気遣ってか、元綱の愛撫は攻撃的な荒々しさが消え、ゆきを優しくいたわるようにゆったりとしたものに変わった。それでも、妻になったというだけで気持ちが違うのか、ゆきは充分にそれに酔い、これまで以上の悦びを感じられるようになった。

 身体にも相性というものがある。肌を重ねるたび、ゆきは、元綱に対する情愛が潮のように高まってゆく気がするのである。




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