乱世の花嫁(一)
薄く立った夜霧のなかで、炎の列が儚げに明滅している。
無数の松明をかかげた人の群れである。闇の街道をゆるゆると歩いている。
行列は、「三つ引両」の紋が描かれた立派な輿を中心に、総勢百人ばかりであった。侍烏帽子に紋服姿で馬に乗る武士たちがおり、馬の脇には松明を持って歩く従者があり、様々な荷物を担いだ小者たちと数頭の荷馬が続き、その後ろに輿がゆく。輿の周囲には、市女笠や衣被をかぶって歩く女たちの姿も見える。一行の護衛のためであろう、武装した五騎の武者と、槍や弓を握った雑兵が二十人ばかり、行列の前と後にそれぞれついている。
輿に収まっているのは、浅葱色の小袖に綾地錦の打掛けをまとった娘であった。
名を、お久という。
「多治比のお城って、大きいのかしら」
薄く開けた窓から、輿の脇について歩く老女のお静に言った。
特に意味のある台詞ではない。お久にはしゃべるほかにやることがなく、要するに退屈なのである。昼間はまだ景観を楽しむこともできたが、日が暮れてからは流れてゆく景色はすべて闇色で、目を楽しませてくれるものもない。
「小倉山のお城と比べたら、ずっとお小さいと思いますよ」
お静が諭すように答えた。
「静も見たことはございませんけれど」
「お城でテイカカズラの花は見られるかしら」
「さぁ、どうでしょうねぇ。でも、珍しい花じゃありませんから、探せば城山のどこかに咲いているのじゃありませんか」
「それはそうと――すこしお腹が空きましたね」
「まぁ――」
思わずあげたその声に、輿を担ぐ男たちが興味を持ったらしい。彼らの視線を一斉にあびたお静は赤面し、慌てて顔を伏せた。
ちなみに老女というのは侍女の頭というほどの意味の職名で、お静はまだ三十代半ばの若さである。もとは吉川家の下士の妻であったが、夫が討ち死にして寡婦になり、お久が産着の頃からその乳母を務めるようになった。お久の実母は彼女がまだ幼い頃に死んでいるから、お久にとってこのお静は家来ながらも母親代わりの存在で、安心して甘えられる相手である。
「先ほど八幡さまでお憩みなされたとき、夕餉をたんとおあがりになったばかりじゃありませんか」
小声で窘めると、
「たんとは食べていませんよ。緊張しているの。何を食べたかも憶えていないもの」
お久はけろりと返した。
「静はおかわりの給仕もさせて頂きましたけれど」
「嘘」
小首を傾げる。その仕草はまだまだ小娘臭さが抜けていない。
「わたくし、おかわりなぞしましたか?」
「しましたとも」
「でも、もう小腹が空いています」
「それはお姫さまが食いしんぼうだからです」
言いながら、お静は懐から紙に包んだ餅を二つ取りだし、それを輿の中へ差し入れた。お静は小才が利く女で、何事につけても用意が良い。
「今宵はゆっくりお食事もできませんからね。お婚儀の途中でお腹が空いたなぞと言えば、お婿さまに呆れられてしまいますよ」
火の群れは、多治比川のせせらぎを聞きつつ、東へ――多治比の猿掛城を目指して進んでゆく。沿道には付近の百姓やら領民やらが集まり、小声で雑談しながらこの行列を見物していた。
「吉川の姫御寮人さまのお輿入れじゃとよ」
「少輔次郎さまもいよいよ奥方をお持ちになるのねぇ。よかったわねぇ」
「さすが鬼吉川、嫁入りのお道具も豪勢なものじゃのぉ」
どの顔にも好意的な笑みがある。若い領主の慶事を、心から祝福しているのだ。
この日――永正十五年(1518)の五月の吉日――梅雨はまだ明けていないが、たまたま中休みになったのか、昨日から雨はあがっていた。蓑笠をつけての花嫁行列ではいかにも見苦しいから、婚姻に関わる毛利・吉川両家の人々にとっても、沿道に並んだ見物人たちにとっても、このことは少なからぬ幸運であった。
行く手には、満天の星空をバックに猿掛山とその周囲の山々が黒々とうずくまっている。猿掛山の山中には無数の篝火が据えられているようで、その稜線の木々だけが闇に浮き上がって見えた。
「毛利へ嫁くことになった」
と父から聞かされたとき、お久がすぐに思い浮かべたのは、毛利家の三男・相合元綱のことだった。
「今義経殿のところですね」
確認すると、父はやや苦い顔で、
「いや、そうではない。婿は多治比の少輔次郎殿だ」
と応えたから、お久は驚き、少しばかりうろたえた。
うろたえた様を父に見せてしまったのは、お久の不覚であったろう。
お久も戦国の女である。大名間の嫁取り婿取りは外交の重大事であり、婚姻が政略であることはよく解っている。女として実家の役に立つというその役割に誇りを持ってもいたから、父や兄が決めた男の元へ嫁いでゆくことに否やがあろうはずもない。
が、お久にしてみれば、即座に頭を切り換えることは難しかった。
二年ほど前、お久は祖父によって元綱と引き合わされたことがある。そのとき祖父は、
「お前の婿に――」
というようなことを言ったのである。その話があまりに唐突であったから、そのときはお久も狼狽してしまい、どういう受け答えをしたものか実のところあまり憶えてないのだが、それでも、狼のような精悍さと悪童のような童臭が同居した元綱のその相貌には強い印象が残った。
祖父の経基は、「鬼吉川」の異名で天下に堯名を馳せたほどの武将であり、文武の両道における傑士である。お久にとって祖父はまさに武人の理想像と言ってよく、心から尊崇し、敬愛し切っていたから、その祖父が選んだ男に不安はなかった。武勇において人後に落ちるはずがなく、伴侶として恥ずべき人間ということも決してないであろう。
――お爺さまが見込んだほどの男なら・・・・。
ということで、元綱という男に対してお久はむしろ好感を持った。
その日以来、お久は、元綱を漠然と意識しながら日を送ってきた。年ごろの娘が、婿になるかもしれぬ男に興味と関心を持つのは当然であろう。大朝と吉田はそう遠くないから、毛利家中の噂話なども自然と伝わって来る。そういうときに元綱の名が出ると、お久は耳をそばだてるようになった。歌を詠むとき架空の男への想いを詩情に乗せるような気分で元綱に疑似的な恋心を向けてみたこともあったし、妻になった自分の姿を無邪気にあれこれと想像してみたりもした。元綱の顔が夢に出て来たことさえある。
――あの人の妻になる。
ということが、いつしか自己暗示のようになっていたと言えなくもない。
毛利氏の当主であった興元が亡くなったために、縁談は長く棚上げされた形になっていた。そうして二年が経ったある日、流れたとも思っていた毛利家との縁談話が再び持ち上がったのである。お久が元綱のことを脳裏に描いたのも当然であったろう。
ところが――
「多治比の少輔次郎殿・・・・?」
一度きりとはいえお久は元綱には会ったことがあり、短いながら言葉も交わしている。その意味でお久のこれまでの想像や夢想には具体像があり、そういう自分の未来を思い描いてこの二年を過ごしてきたのである。それが突然、別の男の元へ嫁げと言われたのだから、それまで出来ていた心の準備は基礎から崩れざるを得ない。
「少輔次郎殿とはどのようなお人ですか?」
父や兄はもちろん、周囲にいるあらゆる人々に対して、慌てて訊ねて回らねばならなかった。
お久は多治比元就という男をよく知らない。歳は四つ年長であるという。文弱な男で、二十歳を過ぎても初陣さえ踏んでおらず、合戦の仕方も知らないというような悪口を囁く者もかつてはあった。その後、人々の印象は「有田の合戦」によって一変したが、お久にとって元就が謎の男であることに変わりはない。
「毛利の先祖である大江氏というのは平安以来の名門じゃ。血は争えぬと見えて、次郎殿は公家のごとき瓜実顔で、なかなか気品ある目鼻立ちをしておるよ」
父である国経は、元就の容姿の良さを繰り返し言い、その温和な人柄を強調して褒めた。娘に無用の心配をさせまいという親心も混じっていたであろう。
「江家は文章博士の家だ。文事はお家芸のようなものだから、そちらにはたいそう明るいだろうと思う。だが、多治比殿は決して文弱なだけの男ではないぞ。『有田』の戦ぶりを聞くに、その勇気には非凡なものがある」
と評したのは兄である。
兄の元経は四十以上も歳が離れていて、お久が物心ついた頃にはすでに壮年であった。母親が違うということもあり、感覚的には叔父さんというに近い。
「少輔次郎殿は名家の末裔ながら、父母に早くに死に別れ、幼き頃よりいろいろと苦労をされたようじゃな」
と教えてくれたのは、大好きな祖父である。
「人は艱難辛苦を経ることで磨かれる。苦労を知っておる者は、他人に優しいものでな。勇気だけあって優しさのない男より、そういう男の元へ嫁く方が、ずっとよい」
祖父は元綱のことには一切触れなかった。今さら言っても詮ないことであろう。大名家の婚姻が政略である以上、政治状況が変われば嫁ぎ先も変わらざるを得ない。毛利氏の先代である興元が死んだとき、元綱との縁も切れていたのだ。祖父の慈愛に満ちた笑みを見て、お久もそう割り切った。
婚約から祝言までわずか二月ほどしかなかったから、準備は大急ぎで進められた。慌ただしさに追われているうちに、時日は飛ぶように過ぎた。
いよいよ嫁ぐというその日、たまたま前夜から雨があがり、空には無数の星が瞬いていた。
朝――それも太陽がまだ昇る前という早朝――大広間に居並ぶ親族や重臣たちの前で、お久は父に挨拶をした。
お久が生まれたとき、父である国経はすでに六十に近い高齢であった。国経にとってお久は晩年に授かった末娘であり、可愛いくてしょうがない。その娘を他人にやってしまうというこの日、父は哀れなほど狼狽し、そわそわと少しも落ち着かなかった。
こうなると、女のお久の方がむしろ度胸が据わっている。
「お父上さま、今日まで育てて頂き、ありがとうござりました」
と手をついて頭を下げると、国経は目を真っ赤にし、泣きだすかと思うほどに顔を歪め、
「達者に――。達者で暮らせ」
と言うのが精一杯であった。
もっとも、国経は多治比の猿掛城まで同行し、婚儀にも列席する。吉川と毛利は経基の時代からの盟友でもあり、国経はすでに当主の座を嫡子の元経に譲って隠居しているという身軽さもあるから、娘の顔を見たくなればいつなりと多治比まで出向くことができる。これが今生の別れというわけでもない。
やがて、時刻がきた。
花嫁の乗るべき輿が、小倉山城の二の丸の殿舎の玄関の式台まで担ぎあげられ、お久はその輿の中の人になった。
城内はいたるところに篝火が焚かれ、庭、通路、城門などは真昼のような明るさである。
二の丸の道脇に杉の大樹があり、その幹に絡みついてテイカカズラが群生している。無数の小さな白い花弁が、篝火のやわらかい明りを受けて淡く光っていた。輿の窓からその可憐な花々を見たとき、
――この花を見るのもこれが最後になるのね。
とお久は思い、不意に寒々とした寂しさが湧いた。お久は陽気な楽天家ではあったが、十八年を過ごした小倉山を去るという現実を前にしては、さすがに感傷的にならざるを得ない。それほど遠くへ嫁くわけではないが、離縁でもされぬ限り帰ってくるなどということはあり得ないのである。大朝の景色を眺めるのは、今日が最後になるかもしれない。それが解っているお久は、窓からの風景を心に焼き付けるように見つめ続けた。
輿が城山を降り、石見街道を進み始めた頃に朝日が昇った。天がこの婚儀を祝福したのか、梅雨明け前にも関わらず空は抜けるような晴天である。沿道の見物人たちに見守られながら、初夏の陽光を受けた行列はゆるゆると進んでいった。
小倉山城から多治比の猿掛城までは、直線でほぼ四里――道のりにすれば五里ばかりである。途中、寺原氏、壬生氏といった小豪族の領地を通らねばならないが、武田氏に臣従していた彼らも武田元繁の敗死後は吉川氏に従う姿勢を見せており、通行の了解も取り付けてあるから、まず安全と考えていい。
山に囲まれた大朝から、有田城がある千代田に入ると視界がやや開ける。石見街道に沿って流れていた志路原川が、中井手の戦場跡の近くで又打川に流れ込み、やがて北から南流してきた江の川へと合する。一行は進路を東に変え、浅瀬を選んで江の川をわたり、壬生の八幡神社で長い休息をした。早めの夕餉を終え、再び行列が進み始めてしばらくしたところで日が没する。そこからは用意の松明を用いて夜道を進み、多治比に入り、猿掛山の山麓へと到ったのは、戌の刻(午後八時)の鐘を聞いた少し後であった。
一行は毛利家の武士たちの出迎えを受け、そのまま悦叟院と名付けられた寺院の鳥居をくぐった。
猿掛城の大手門は、さらに少し坂を上ったところにある。輿がすぐに城門へと進まず、まずこの悦叟院へと入ったのは、その本堂を花嫁の中宿にするためであり、花嫁の義父になる男の霊に挨拶するためでもあった。
浄土宗に属するこの新しい寺は、毛利氏の先先代・弘元の墓所である。寺に鳥居というのは違和感を持つかもしれないが、神仏混淆のこの時代、霊廟の入口に鳥居があるのはそう珍しいことでもない。
敷地の周囲は、鬱蒼とした杉木立に囲まれている。境内に月明かりしかなく、風のほかに音を発するものがなかったならば、いかにも神寂びた厳粛な雰囲気に包まれていたであろうが、この夜は無数の篝火と群れ集った人々が出す雑音のために、ただただ雑然としていた。
古来、日本の神々は浄闇を好む。たとえば田の神は、秋になると山に登って山の神となり、春になると里に降りて田の神に戻るのだが、その移動は(地域によって日は異なるものの)常に深夜と決まっている。あるいは寺社で行われる様々な神事も、多くが夜更けに執り行われる。この時代、婚儀は紛れもなく神事であるから、夜に行うというのが常識であった。
本堂の前にも篝火が焚かれ、数人の毛利家の重臣が出迎えに立っていた。
「遠路、ご苦労でござった」
と挨拶したのは、毛利家の執権であり花婿の父親代わりでもある志道広良である。
「お出迎え、痛み入る」
と応じたのは、花嫁の父である吉川国経だ。
担ぎ手たちが輿を静かに降ろした。
「お姫さま、着きましたよ」
お静がその戸を引き開け、草履を揃えて置き、お久の手を取った。
お久は、やや緊張した面持ちで輿から降りた。地面に立つや、
「さ、こちらへ」
周囲の男たちの目から花嫁を隠すように、お静がいそいそと本堂へお久を導き入れた。
お久は、吉川家の主立つ人々と共にまず仏前に額き、それを済ませると、用意の部屋に連れてゆかれ、そこで衣裳と化粧を直した。
「先さまは、お姫さまがやって来られるのを、きっと首を長くしてお待ちですよ」
甲斐甲斐しく着替えを手伝いながらお静が言った。
「どのような殿方か、楽しみでございますねぇ」
お静は嬉々とした顔でいろいろとお久に話しかける。緊張をほぐそうとしているのかもしれないが、当のお久は、なんだかバタバタと慌ただしくて、ゆっくりものを考えたり感じたりしている余裕がない。
「まぁ、お美しい――」
純白の小袖に同色の練絹の打掛けという、いかにも花嫁らしい姿になったお久は、お静が思わずため息をつくほど清純な美しさに溢れていた。
用意が済むと、お久はすぐさま再び輿に押し込められた。
輿の担ぎ手は吉川家の者から多治比家の者に交代している。
花嫁を乗せた輿はゆっくりと坂を上り、門火が焚かれた大手門をくぐり、さらに篝火に照らされた山道を登り、櫓門を抜けて本丸の殿舎の玄関前に横付けされた。
お静に手を引かれてお久が輿から降り、玄関に立つと、敷台には白装束に身を固めた花婿と数人の男女がその到着を待っていた。
――この人が・・・・。
と思ったが、女の礼としてここでは恥ずかしげに振舞わねばならない。お久が己の草履のつま先を眺めているうちに、父と花婿が挨拶の言葉を交わし終えた。お久はお静に手を引かれるまま敷台をあがり、燭の灯された廊下をわたり、気付いたときには大広間の上座に置かれた畳の上に座らされていた。
当然、花婿が隣に座っている。
厳めしい武者面というのからは遠く、どちらかと言えば線が細い印象である。瓜実顔で肌はやや白く、目の切れは長い。鼻筋が通り、口元にはそこはかとない気品がある。白ずくめの衣裳をまとい、髪を艶やかに結い上げ、威儀を正して座っているその姿はいかにも貴公子然として、血筋の良さを感じさせた。
が、さすがのお久もその顔をまじまじと眺めることまではできず、目線をすぐに数尺先の床板へと移した。自分では落ち着いているつもりでも、内心ではよほどあがっている証拠に、志道広良や父がしゃべっている祝辞の言葉が、聞こえていたのに後からまるで思い出せなかった。
やがて盃事があり、それが済むと、広間では毛利・吉川の両家の親族や重臣たちが祝宴を始めた。次室では多治比家の武士や下士が歓談しながら酒食を取り、台所や土間では卑女や家僕たちにまで酒や餅が振舞われている。
酒器を持った花婿が、吉川家の人々に挨拶がてら酌をして回り始めた。
儀礼として、お久も婚家の主立つ人々に挨拶して回らねばならない。花婿の継母であるお杉の方、花婿の父親代わりである志道広良、母方の祖父である福原広俊、伯父にあたる福原貞俊と酒を注ぎ、さらに席を移ったとき、お久は思わず息を呑んだ。
「あ――」
二年を経ても見間違えようがない。元綱がそこにいたのである。
元綱は花婿の弟であり、考えてみればこの場にいるのが当然ではあったのだが、不覚にもお久はそのことを忘れていた。いや、考えている余裕がなかったと言うべきであろう。その顔を見てわけもなく狼狽し、自分でも判るほどに赤面した。
元綱は片手で酒を受け、それを一息に飲み干し、お久をまっすぐに見つめた。その口元に幽かな苦笑がある。
「しばらくぶりでござる。今日からは義姉上とお呼びせねばなりませんな」
「はい。そのように――」
消え入るような声で応えたお久は、逃げるように次の席に移り、挨拶を受け、酒を注ぎ、さらに席を移った。
ちなみに室町期というのは礼法の時代と言っていい。婚儀などの式次第は室町幕府の儀典係と言うべき小笠原家によって五十年も昔に集大成され、いちいち細かく定められていて、守護ほどの格式を持つ大名ならば、婚儀に関わる様々な儀式が三日も続くことになる。新郎新婦は二日目までを白装束で過ごし、三日目から色ものの衣裳に着替えていわゆる色直しをし、それからやっと親族、家臣らに対面披露をするのである。
もっとも、京から遠い地方に暮らす豪族・地侍といった階級の者たちにまでそれが浸透していたわけではなく、それぞれの土地柄や家の経済力などに応じて我流でやっているところが多い。毛利家にしても吉川家にしても由緒ある古い家柄で、幕府から認められた歴とした地頭でもあり、その意味で礼式には割りあい明るかったが、婚家である多治比家はわずか三百貫(約二千石)の分限で、大名どころか小豪族とも呼べない規模である。婚儀といっても簡素なもので、この夜の祝宴がほとんどそのすべてであった。
一刻ほどで宴はお開きとなった。
お久はいったん別室に下がって化粧を直し、お静によって寝室へと導かれた。
燭が灯された薄暗い部屋にはすでに夜具が延べられ、その傍らに三方がふたつ置かれ、それぞれに酒器と肴が載っている。
待つほどもなく、同じように女房に導かれ、花婿たる元就が寝室にやって来た。
再び花婿と盃を交わし、それが済むと侍女たちが姿を消し、二人きりになった。
お久の動悸が、うるさいほどに早い。
初夜なのである。お久はこれから男というものを知らねばならない。
――わたくしはこれほど怖がりだったかしら。
ふと思った。
お久は安芸屈指の強豪である吉川家の姫として生まれ、堯勇で鳴る祖父や父の武勇譚を子守歌代わりに聴いて育ち、その同じ血が己に流れていることに女ながら誇りを持っている。勇気の点で他家の娘に劣るはずがなく、度胸などもよほど据わっているものと自分では信じていたのだが、この時ばかりは蒼ざめるほどに緊張していた。
この場合、家によっては「床入りの作法」というものがあるが、お久は早くに母を喪ったためにそれを教わっていない。母親代わりのお静は、
「ただただ殿方の言われるまま、なされるままに身をお任せになり、辛抱しておるだけでよろしゅうございます」
などと解ったような解らぬようなことを言っただけで、床入りの作法についても肝心の内容についても、詳しく教えてはくれなかった。
吉川氏は「鬼吉川」の異名で名高く、武張った印象ばかりが強いが、そもそもこの家は土くれから身を起こしたような氏も素性もない新興勢力ではなく、奈良時代以来の名門貴族である藤原氏の歴とした末裔である。八百年をかけて醸造されたその家風には濃い文雅の匂いがあり、たとえばお久の祖父である吉川経基は、文学や歌道の分野において京の貴顕の間でさえ高い評価を受けたという一流の文化人であった。その祖父の膝に抱かれるようにして育ったお久は、当然のように幼い頃から王朝物の古典には親しんでおり、ことに『伊勢物語』や『源氏物語』には明るく、平安貴族の典雅な恋愛に想いを馳せたりしながら多感な少女時代を過ごした。お久はまだ処女ではあったが、その手の知識が皆無というわけではなく、これから行われるであろう男女の営みに対しても、漠然とながらおおよその予想はついている。ただ、平安貴族の恋愛が和歌を通じた心の交流から始まるのに対して、武家の結婚は嫁いだその日に初めて花婿を知り、その夜にはもう同衾せねばならないわけで、恋や愛といったものが帯びる情感も心の昂ぶりもあったものではない。
――鬼に食べられてしまうわけでもあるまいし。
とも思うのだが、それでもやはり怖いと思ってしまう気持ちをどうしようもない。
なんとも言えぬ緊張感に満ちた沈黙が、しばらく続いた。
「お久殿――」
と声を掛けられたとき、お久は飛び上がるかと思うほどに驚き、肩をびくりと震わせた。
元就が柔和な目でこちらを見ている。
「今日はお疲れになったであろう」
落ち着いた丸みのある声だった。
「はい。――あ、いえ、それほどでも――」
自分の返事の滑稽さに、さらに赤面した。
何か花嫁らしい挨拶をせねばならない。二世の末までよろしくお願いいたします、でも良いし、ふつつか者ですがよろしくお導きくださいませ、でも良い。お久はそれを何度も考えてきたのだが、我ながら滑稽なほど緊張して、最初の言葉がどうしても出て来なかった。
が、沈黙をし続けては相手も困るであろう。
「あの――」
なんとか話を続けようと、勇気を鼓して口を開いたお久だったが、夫になる男にどう呼びかけるべきかが解らず、すぐに口籠った。
「ん? なにかな?」
「えっと――。あの、なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
新妻の困ったような表情を見た元就は、その初々しさと可愛さに思わず微笑した。
「そうだな・・・・。――吉川家には私の異母姉が嫁いでおりますな。姉はその婿殿を、何とお呼びになっているのだろうか」
「はい。お義姉さまは兄を、元経さま、と呼んでおります」
「ふむ。して、元経殿は姉をどのように?」
「お松、と――」
「では、それに倣うとしよう。私は今宵よりあなたをお久と呼ぶことにする。あなたは私を元就と呼んでくださればよい。それでどうかな?」
「はい、それでよろしゅうございます」
――元就さま。
と心中で呼びかけてみて、お久はやや落ち着きを取り戻した。たったこれだけのやり取りだが、今日から夫になるこの男は、がさつでも強権的でも独善的でもないらしい。落ち着いた、理知的な印象を受けた。盃事や祝宴などで見たこれまでの振舞いもごく常識的で行儀が良く、奇矯なところもないようである。
――女子に優しい人みたいだし・・・・。
先々のことなどは解らないが、とりあえず、なんとかやっていけるのではないか、とお久は直感した。
夜具に入った後も、元就は優しい男だった。すぐにはお久の身体に触れようとはせず、その緊張をほぐすためか――あるいは自身の緊張を隠すためか――色々と物語をした。
「このような夜に無粋なことだが、実は私は女を知らぬ」
と元就がやや恥ずかしげに言った。
この行儀の良い男は、五歳で母を、十歳で父を亡くし、それからは父の側室であったお杉の方に守られるようにして暮らしてきた。このため、悪さをするにも常にお杉への遠慮があり、女人に触れるような機会を進んで作ろうとまでは思わなかったのだという。
お杉は若くて美しく、しかも聡明で芯が強く、おまけに慈母のような優しさまでを兼ね備えた女性である。元就にとっては頼れる母であると同時に優しい姉のような存在であり、淡い恋心を抱いた最初の対象でもあったかもしれない。それと間近で接して育った元就にしてみれば、お杉に劣情を向けるわけにもいかず、お杉に代わり得る女性を見出すこともできず、結果として他の女に興味を持てなかったのであろう。
「だから、男女の事に巧みというわけにはいかないと思う」
この告白を聞いたお久は、
――なんと、まぁ、正直な人。
と好感を抱くと同時に、
――この人と一緒に夫婦の道を一から学んでゆけばいいんだわ。
と思い、よほど気が楽になったりした。
翌朝、多治比に泊まった吉川家の人々が大朝に帰っていった。
お久はほとんど眠れておらず、身体はかなり疲れていたが、白装束から色ものの衣裳に直し、父らに別れの挨拶をした。ただ、父の顔はまともに見れなかった。
父の国経は、娘から女に変わってしまったお久を眩しそうに眺め、すこし寂しげな笑顔を残して猿掛城を後にした。
この日、お久は忙しい。
まず継母のお杉にあらためて挨拶した。元就に連れられてその部屋を訪れると、お杉は穏やかな微笑を浮かべてお久を迎えてくれた。
話には聞いていたが、お杉の若さとその美貌にお久はあらためて驚いた。昨夜もチラとは顔を合わせているのだが、そのときはお久の方にゆっくり相手を観察するような余裕がなかったのである。見た目の年齢は二十代で十分通るであろう。母というより歳の離れた姉と言うに近い。
「殿さまに御台さまをお迎えすることができて、わたくしもこれで肩の荷が降りました」
お杉は気さくな笑顔を浮かべた。
「これから、殿さまのこと、よろしくお頼みしますね」
控え目な印象で、付き合いにくい感じではなさそうである。お久はそのことにとりあえず安堵した。
続いて大広間に元就と共に座り、多治比家の家来、侍女たちなどからあらためて挨拶を受けた。
その後、吉田の郡山城まで出向いた。毛利本家の当主である幸松丸とその母、本家の重臣らに挨拶するためである。
毛利氏の本拠である郡山城は、郡山の南の尾根に築かれた山城だが、規模は大きくない。お久が暮らした小倉山城に比べれば、哀れなほどの小城であった。
重臣らに出迎えられ、待つほどもなく広間へと通された。
数えで四歳(満年齢では三歳)になる幸松丸は、やっと簡単な言葉を話すようになったばかりで、やんちゃの盛りである。静かに座っていることができず、その母を手こずらせていた。
幸松丸の母は高橋お久光の娘で、名を夕という。亡くなった先代・興元の妻であり、年齢は二十歳より少し上であろう。やや癇の強そうなキツ目の顔立ちだが、かなりの美人である。日陰に咲いた花のような――どこか儚げな印象を受けた。
この女性は、現在のお久とそう変わらぬ年齢で早くも寡婦となったが、毛利家当主の生母である以上、息子が独り立ちするまでは再嫁することもできず、家に縛り付けられている。郡山城の女城主という言い方もできるが、そういう暮らしが女にとって幸せであるのかどうか――お久にはちょっと想像がつかない。
元就は幸松丸とその母に丁重に挨拶し、新妻を紹介した。
「多治比殿の御台所は吉川の姫であられるとか」
義姉になった女の眼は、少しも笑っていない。
「毛利と吉川の縁がより深くなったことを心強く思うております。多治比殿、向後も、幸松丸のことをよろしゅうお頼みします」
贈り物を交換し、ちょっとした酒肴が出た。毛利本家の重臣たちを交えてしばらく雑談をしたが、その大半が初対面でもあり、打ち解けた感じとはいかなかった。特に上座に座る夕は――もともと口数の少ない女なのかもしれないが――儀礼的な挨拶の後はほとんど口を利くこともなく、幼子の世話ばかりを焼いていた。
――わたくしは嫌われているのかしら。
高橋の娘が吉川の娘に向ける態度は、どうも好意的とは言い難い。
もともと吉川氏と高橋氏は仲が悪い。当主の幸松丸が高橋お久光の孫ということもあり、毛利家中で高橋寄りの者たちのなかには、元就とお久の縁談に反対した者もあった、ということをお久は仄聞している。
――ま、考えても仕方ないわ。
お久は実家を背負って輿入れしてきたわけで、毛利家中において、夫である元就を吉川氏の利益代表にすべく努めるのが、その暗黙の責務である。お久を快く思わない人間がいるのもいわば当然で、それをいちいち気に病んでいたのでは乱世の花嫁なぞは務まらない。
元就は意外に座持ちが巧く、温和な微笑をたたえて重臣たちと当たり障りない座談をし、話を繋いでくれたから、お久も居心地が悪いというほどではなかった。
日暮れ前に多治比に帰るということで、二人は一刻ほどで退出した。
「昨日今日でずいぶん多くの人に会ったろう」
城山を下りながら元就が言った。
「はい。まだちょっとお顔とお名前を憶えきれません」
お久は正直に応えた。
「さもあろう。まぁ、徐々に慣れていってくれればいい」
「はい」
「そういえば、今日は四朗がいなかったな」
その名を聞いて内心でやや狼狽したが、何気ない口調で返した。
「四朗殿――と言えば、ご舎弟の元綱殿のことですね」
「あぁ、昨日は顔を見せに来ていたが――」
「はい。お目に掛かりました」
「気の良いヤツなんだが、気ままところがあるからな。狩りにでも行ったか、遠乗りでもしておるのやもしれん」
元就は、お久と元綱の間に縁談話があったということをどう思っているのだろう。知らぬはずはないのだが、素知らぬ振りをしているのだろうか・・・・。
この人と、もっと心が通い合うようになったら――。
永久の伴侶として揺るぎない自信が持てるようになったら――。
いつか聞いてみたい、とお久は思った。
そのときは、きっと笑い話として話せるようになっているであろう。