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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第一章 毛利元綱
2/62

鬼吉川の夜叉姫(一)

 折り重なるように並ぶ山々に、低い雲が掛かっている。

 安芸あき石見いわみの国境――山また山に囲まれた大朝おおあさは、空が狭い。

 左右にそびえ立った緑の山塊を眺め、むっとする草いきれを嗅ぎながらなだらかな坂を登り切ると、深緑に縁取られた里の全景が見えた。可愛えの川の本流・支流が地を割り、その河岸のわずかな平地は一面の美田である。晩夏の陽を受けた稲穂は黄金色に光り、点在する林はどうやら松と竹藪が多い。見晴るかすと、正面――北方――の山並みの麓に多くの町屋がある。


「あれが小倉山ですか」


 くつわを並べる吉川きっかわ家の武士に尋ねると、


「左様。あの山すべてが小倉山城でござる」


 男は少しだけ誇らしげに言った。

 誇りたい気分も、まぁ、解らぬではない。主峰の高さはあまりなさそうだが、背後にも山が聳えているし、あの周囲の山がすべて城郭であるとすれば、吉川の本拠は我が毛利の郡山城などより遥かに規模が大きいということになる。

 この男、吉川家の一門で、現当主・元経もとつね殿の甥だったか従兄弟だったか――いずれかなりの重臣である。見た目の年齢は二十歳前後。侍烏帽子えぼし紺瑠璃こんるり直垂ひたたれ姿で、立派な造りの大小を差している。目鼻の彫りが深く、眉も濃く、顎がしっかりした男っぽい顔つきをしている。

 ――名は確か、宮庄みやしょう――何と言ったか。

 まるで憶えてない。

 紙の上に並んだ文字ならいくらでも憶えられるのに、俺は昔から人の名前を憶えるのがあまり得意ではない。この宮庄なにがしは使者としてよく吉田にやって来るから、これまでに少なくとも十度くらいは顔を合わせているのだが、それにしたところで逢うのはせいぜい年に二三度くらいのもので、長々と口を利いたこともない。苗字を覚えていただけでも俺にしては上出来だと思う。

 名を思い出すのを諦め、俺は言葉を継いだ。


「大朝には昔一度来たことがあるはずなのですが――」


「お方さまのお輿入れの時ですな」


 男はゆったりとした微笑を浮かべた。


「そうです。ところがこう見ると、景色にまったく憶えがない」


「それは――まだ幼かったからでござろう」


 いや、そうではない。

 ――あの時は雪景色だったからか。

 長く思い出すこともなかった情景が、朧げな記憶の中で不意に像を結んだ。

 十年前――

 すべてが雪に塗り込められ、水墨画のように色彩いろを失った世界。前を往く大人たちに置いてゆかれぬように、姉が乗る輿を見失わぬように、俺はかんじきをつけた足を交互に雪にめり込ませ、歯を食いしばるようにして歩き続けたのだ。



 吉川元経殿の元に姉のお松が嫁いだのは、親父が死ぬ半年ほど前だった。春と呼ぶには早すぎる梅も咲かぬ時期で、山深い吉田にも根雪がたっぷりと残っていた。俺は親父に連れられてこの大朝を訪れ、訳も判らぬまま姉の婚儀に列席させられたのである。親父や姉と一緒に遠出をしたのは、その時が最初で最後だった。

 当時の俺は九つである。結婚の何たるかはまだよく判っていなかったが、それでも、物心つく前からずっと傍で優しく世話を焼いてくれた姉をこの日限りで奪われるのだ、ということだけは敏感に察していて、豪勢な式を眺めながら決して抗うことのできないその理不尽さに腹を立て、寂しさと喪失感にただ耐えていたように思う。親父は見知らぬ大人たちと上機嫌で酒を酌み交わしていた。入念に化粧をし、真っ白い打掛姿に身を包んだ姉が、息を呑むほど美しかったことだけは何故か鮮明に憶えている。

 ――あの時、姉上は十七だったか。

 適齢からはわずかに遅れていたが、それにしても三十以上も年の離れた男のところに嫁に出したのだから、あからさまな政略結婚であったことは間違いない。姉は、自分の父親よりさらに七つも年長の男のもとに嫁がされたのである。

 親父にとっては、そんなことはどうでも良かったのだろう。

 毛利家の家督を継いだ長兄の興元おきもとは当時まだ十五で、生き馬の目を抜く戦国乱世を乗り切ってゆくには幼すぎた。親父にすれば、吉田の北西――大朝に根を張る強豪・吉川氏と縁戚になることでよしみを深め、毛利家の安泰を計ろうという思惑だったに違いない。

 吉田の北方には、安芸から石見に掛けて広大な領地を持つ高橋氏という大豪族があるのだが、この高橋氏は毛利とは古くから同盟関係にある。逆に吉川氏は、当時は高橋氏と敵対関係にあったのだが、吉川氏にすれば、毛利から嫁を迎えて手を結び、毛利・高橋の連合を分断したいというような思惑があったのであろう。実際、毛利と吉川が縁戚となることで高橋・吉川間の争いもひとまず収まったし、高橋氏の方も毛利とのさらなる連携強化を考えるようになり、数年後には高橋氏当主・久光の娘と長兄・興元との縁談が纏まった。結果として毛利・吉川・高橋は婚姻で結ばれ、少なくとも表面上は良好な同盟関係を保つことになったし、この有力三者の連携は安芸の国人一揆(豪族連合)締結の核ともなっていったのである。

 その意味で、親父の先見の明と政略眼の鋭さは認めねばならないだろう。姉の婚姻は非常に大きな役割を果たしたと言うべきで、親父にも感謝をせねばならないのだろうが、そういうことが解るようになったのは、俺が十代後半になってからである。

 俺にとっての姉婿――義兄になった吉川元経という人は、すでに六十近い高齢である。結婚した当時は四十八――当然ながら姉が最初の妻というわけではなかったはずだが、それまで不思議と子宝に恵まれなかったらしい。ところが姉が嫁ぐと、その二年後には嫡男が生まれた。吉川家の人々の喜びはひとかたでなく、そのこともあって毛利・吉川の紐帯ちゅうたいはさらに強まった。

 姉が産んだ吉川家の嫡子を、千法師せんぽうしという。

 この暑い中、俺が十年ぶりにわざわざ吉川氏の本拠に向かっているのは、夏風邪をひいて動けないという長兄に代わって、その千法師の元服を寿ぐためなのである。長兄の名代に俺が選ばれたのは、千法師の母が俺の同腹の姉だからだろう。


「千法師殿は、お幾つであられましたかな?」


 顔の汗を拭いながら俺が尋ねると、


「御年九つでござる」<*注釈1>


 愛想が良い宮庄某は微笑しながら答えた。


「九つ――元服するにはずいぶんとお早いですな」


 十年前の俺と同い年である。

 男を一人前の「大人」と認める元服という儀式は、一般に十五の前後で行われる。俺は十四の時にそれをしたが、早くとも十一とか十二とかだろう。十歳以下というのはかなり珍しい。


「お目出度いことは、早いに越したことはござるまい」


 そう言って男はいなしたが、実際は、父である元経殿の高齢と、政略的な意味合いがその主な理由であるのだろう。

 人間五十年――と謡曲うたいの文句にもある。六十に手が届かんとする元経殿が嫡子の元服を急ぎたい気持ちは解らぬでもないし、何より、吉川氏の後継者である千法師の烏帽子親えぼしおやを西の大大名・大内義興よしおきに頼むことで、『吉川家は次代も大内氏の傘下である』という政治的な意思表明をした、ということなのだ。



 安芸国は、この数年、微妙な政情の中にある。

 そもそも西国は、周防すおう長門ながと、石見、安芸、さらに北九州の豊前ぶぜん、筑前という六ヶ国を押さえる日本最大の守護大名・大内氏が大きく勢力を張っており、安芸国も長くその勢力下にあった。しかし、近年、山陰・出雲を本拠とする強豪・尼子あまご氏が昇竜のような勢いで勢力を拡大しつつあり、その影響力が石見、安芸、備後へと及んで来たために、大内傘下の豪族たちが去就に迷い、世情が騒然とし始めたのである。

 我が毛利家は、俺の祖父の代から大内氏に属していた。

 親父の名・弘元ひろもとの「弘」の字は大内氏の先代・大内政弘まさひろから貰った偏諱へんきであったと聞いているし、長兄・興元の「興」の字も、大内氏の現当主・大内義興よしおきから貰ったものである。名を一字貰うという行為は臣従の証しであり、家来になったと考えてもそう外れていない。安芸の豪族として半独立を維持しつつ、大内氏の傘下にある、というのが毛利家の立場であり、安芸の豪族たちの多くも同じ姿勢であると言っていい。

 吉川氏もそれと同様で、昔から大内氏に従う姿勢を取っていたのだが、安芸の最北に位置し、石見にも勢力を持つ吉川氏にすれば、隣国・出雲の尼子氏との関係も軽視できなかった、というのは想像に難くない。これは俺が生まれる前の話になるが、吉川氏の先代――元経殿の父・国経殿――は、妹を尼子氏当主・尼子経久つねひさに嫁がせ、婚姻関係を結んだのだという。つまり元経殿にとっては、尼子経久は叔母の婿であり、義理の叔父ということになるらしい。

 尼子氏が出雲の大名で留まっていてくれればそれで何も問題はなかったのだが、この尼子経久というのが稀代の英傑で、ここ数年の間に出雲から伯耆ほうき、備後、石見とその勢力を広げ始めた。石見は大内氏の勢力範囲であったから、つまり大内・尼子の間で争いが起こるようになったわけである。

 大内氏の傘下であり、尼子氏とも婚姻関係で結ばれている吉川氏の立場は、微妙にならざるを得ない。

 元経殿が息子の元服を急いだのは、大内・尼子の本格的な衝突が始まる前に、吉川家の旗幟きしを鮮明にした、というような意味がある。大内義興に我が子の烏帽子親になってもらうことによって、『吉川家は大内方である』ということを内外に宣言したのだ。千法師は元服後、大内義興の「興」の字を貰って吉川興経と名乗ることがすでに決まっている。<*注釈2>

 ただ、それで吉川家が尼子氏との繋がりを断った、というわけではないだろう。

 強大な二大勢力に挟まれた弱小勢力にとっては、その両方と手を握るというのが生き残りの知恵のようなもので、その程度の老獪さがない者はとてもこの乱世を泳ぎ渡ってゆけないのである。尼子氏との誼みは自分が、大内氏との誼みは息子が、というあたりが、元経殿の思惑であるに違いない。

 こういう両天秤は小豪族という立場からすれば当然の処世で、たとえば俺の親父が吉川氏に娘を出したのも、尼子氏と昵懇である吉川氏と繋がっておけば、将来、大内氏を駆逐して尼子氏が安芸を取るような事態になった時、その縁が役に立つであろう、というような下心が当然含まれていたはずである。

 卑怯ではなく、周到――

 平穏にあるうちに変転に備え、転ばぬ先に杖を用意しておくのが遠謀深慮というものであろう。乱世にこの事を怠ると、たちまち家が滅ぶのだ。



 小倉山の城下に入ったのはさるの上刻(午後三時)あたりだった。

 一行は、総勢十一人である。俺と、着替えなどの荷を担いだ俺の従者、宮庄某とその従者、祝儀の品を積んだ荷馬には口取りが一人付き、副使の井上元景もとかげとその従者、さらに警護の士が四人いる。物騒な時勢だから用心の意味もあってこんな大所帯になったわけだが、もちろん土匪どひ(賊)に襲われるようなこともなく、吉田から大朝まで――道のりにして七里(二十八キロ)ばかり――の旅は、実にのんびりしたものだった。

 石見街道を北に取り、小倉山の山裾へと向かう。


「今宵は城でお泊り頂き、式は明日、あちらの龍山たつやま八幡宮の方で行うことになっております」


 宮庄某が指差す方に顎を向けると、左手の鎮守の森の隙間から銅板葺きの社殿の屋根が見えた。

 町屋が並ぶ大路を何度か折れ、立ち並ぶ武家屋敷の間を抜け、鬱蒼と樹木が茂る山道を少し登ると、眼前に立派な櫓門が現れた。俺たち一行の到着が先に報ぜられていたのであろう、門扉は大きく八の字に開け放たれ、武装した衛兵たちと共に、数名の平装の武士が出迎えてくれていた。

 馬を預け、宮庄某に案内されるまま城内の山道を登る。

 ――なるほど、これは大きい。

 城は小倉山の尾根にそって本丸を囲うように曲輪が切られているらしい。一山がそのまま城砦になっているようで、ならば城域は相当に広そうである。郡山城が四つくらいは収まってしまうのではないか。

 断崖の下から見上げて察するに、山頂部分の本丸の敷地は狭い。見張り櫓と殿舎の屋根のようなものが見えたが、おそらく篭城の時に篭るための建物で、城主の家族が暮らす居館ではないだろう。

 本丸の周囲を回るように土居に囲まれた曲輪の櫓門を二つ三つ抜け、さらに急な坂を上り、大きな櫓門を潜ると、


「こちらは二の丸でござる」


 と宮庄某が説明してくれた。

 細かく土居と板塀で仕切られた広い敷地がいくつもあり、敷地ごとに平屋の殿舎の桧皮葺の屋根が見える。

 その中で、一際大きい屋根の方へと案内された。

 間口の広い玄関前には吉川家の武士たち(おそらく重臣たち)が平装で居並んでいる。

 その先――玄関を入った敷台の上には、なんと城の主が出迎えてくれていた。


「よくこそお出でくだされた」


 吉川元経――

 六尺を越える偉丈夫である。さすがに髪や髭には白いものが混じっているが、赤銅色に焼けた肌は生気で溢れ、老人とはとても呼べない若々しさがある。

 俺はその礼の厚さにすっかり恐縮し、深く頭を下げた。


「しばらくぶりにご尊顔を拝しまする。相合あいおう元綱もとつなでござる。本日は兄に代わり、ご嫡子・千法師殿元服のお祝いに参上致しました」


「相合殿とは先年の有田の合戦でまみえて以来でござるな。わざわざのご足労、痛み入る」


 年の離れた義兄は気さくに破顔した。

 姉との婚儀の時を除けば、俺はこの元経殿とは二度ばかりしか顔を合わせたことがないのだが、長兄の興元は何度も戦場で共に働いたことがあり、叔父のように敬し、深い信頼を寄せている。


「兄は伊予いよ殿(元経)にお会いできるのを楽しみにしておりましたが、生憎あいにくと急の病にて――」


 元経殿は伊予守いよのかみを私称している。あざなは次郎三郎で、そう呼んでも良いのだが、その名は明日から千法師が継ぐはずだからわざと使わなかった。


「丁重なお手紙を頂戴した。冶部じぶ殿(興元)のお加減は如何か?」


「夏風邪と伺いましたので、大事はござるまいかと――」


「それなら良いが――」


 義兄は少しだけ表情を曇らせたが、すぐに気を取り直したらしい。


「あぁ、これはいかん。こんな所で話し込んでおる場合ではなかったな。まずはお上がりくだされ。室(妻)も相合あいおう殿が来てくださると聞き、朝から楽しみに待っておったのだ。我が父や祖父も、音に聞く『今義経』を間近で見られると申して、年甲斐もなく喜んでおられた」


 吉川家の男というのは代々長命で、元経殿の父も祖父も未だ健在なのである。先代の国経殿は七十四にして戦場に出るほど矍鑠かくしゃくとしているし、祖父の経基つねもと殿(なんと九十近いご高齢であるらしい)に至っては、五十年前の「応仁の乱」で天下に勇名を馳せ、『鬼吉川』の異名を取った伝説のような武人である。

 父を早くに亡くした俺にすれば、そういう老巧な人物に直に話を聞ける機会を持つことは極めて貴重であり、楽しみでもあった。



 とりあえず控えの部屋を借り、俺たちは旅塵と汗に汚れた服を着替えた。顔と手足を清めて一息つくと、ほどなく案内の者が現れた。

 供の者たちは部屋に残し、俺と副使の井上元景の二人がそれに従う。

 俺たちはまず大広間に案内された。

 毛利家当主の名代として吉川家当主である義兄と公式に挨拶を交換する。吉川家の重臣が居並ぶ中、俺は祝いの品の目録を読み上げ、それを三方に乗せて進上した。千法師殿には、太刀と脇差をそれぞれ一振り。稚児着の大鎧一領。鍬形を打った兜。さらに姉への進物として絹の反物を三巻である。長兄はそこそこ奮発したようだ。

 元経殿は威儀を正して返礼し、引き出物に馬を一頭と石州和紙を贈ってくれた。

 堅苦しい場はそれであっさりと終わり、いったん控えの部屋に戻った俺たちが次に連れて行かれたのは、居館の奥――姉の居室であった。

 姉とその夫、その子とが並んで座っていた。


「姉上、お懐かしい」


 座るなり俺は声を上げた。


「あぁ、鶴寿かくじゅですね。本当に立派になって――」


 十年ぶりの再会に感極まったのか、姉は目に涙を溜めていた。

 透けるような白い肌、艶々とした黒髪は、昔と少しも変わっていない。弟の俺から見ても、姉は目鼻立ちの整ったなかなかの美人だ。子を産んだからか、昔より全体にややふっくらと丸みを帯びたような印象がある。女ぶりを上げたと言うべきであろう。


「元服してすでに五年になります。幼名はご勘弁を――」


 嬉しくもあったが、なんだか無性に照れ臭かった。


「四郎とお呼びくだされ」


「あぁ、そうでした。聞いています。あなたは『相合あいおうの四郎』と呼ばれているのでしたね。それにしても、なぜ四郎なのですか? あなたはお父上の三男――当然、少輔三郎しょうざぶろうと名乗るものだと思うておりましたのに・・・・」


 姉は俺が九歳の時に毛利家を去った。当然ながらそのあたりの事情を知らない。


少輔太郎しょうたろう少輔次郎しょうじろうというような立派なあざなは、毛利家の本流の人間が名乗るべきものだと思うたのです。元服する時、兄上は『少輔三郎』の名を俺にくれたのですが、それを使うことは遠慮しました。『四郎』と名乗りたいと願うたのです」


 姉はその言葉に何度も頷き、すぐに納得したようだった。

 俺も姉も脇腹の子――つまり妾の子で、正室の子ではない。俺たち姉弟が、正妻の腹から生まれた長兄や次兄に対してある種の劣等感や遠慮を持たざるを得なかったのはやはり事実だし、周囲の人々の間にも――差別というほど際立った格差はなかったにせよ――たとえば会釈などの丁重さに厳然とした区別があったことは間違いない。

 だから「少輔三郎」も「三郎」も遠慮し、自分から「四郎」にしたのだ、と言えば、いかにも謙虚に聞こえるだろう。姉もそう思って納得したようだが、実はこれは俺にとって後付けの言い訳のようなものに過ぎない。本当は、単に濁点が混じる音の響きが気に入らなかったのだ。

 「少輔三郎 元綱」より「四郎 元綱」の方が音の響きも語呂も良い。「九郎 義経」にも何となく近い気がして、俺に相応しい名乗りだと思えた、というだけのことである。

 懐かしさが先走ってしまって、まだ挨拶さえしていない。

 それに気付いた俺は、威儀を正した。


「本日は兄上の名代としてまかり越しました。此の度は、ご嫡子・千法師殿ご元服とのこと、祝着至極に存じまする」


「ありがとう。遠路わざわざ来てもらって、心嬉しゅう思うております」


 姉は手をついて頭を深く下げた。血を分けた弟に対するものではなく、「毛利家当主の名代」に対する礼であろう。

 俺は慌ててその手を上げさせた。


「そのようにかしこまられては俺が困ります。千法師殿は姉上のお子、俺にとっては甥御ではありませんか。晴れの元服の儀に臨席することができ、喜んでおるのです」


「そう申してくださると、わたくしも心強い。元服するとは言うても、お千はまだまだ子供です。どうかこの子のことを、よろしゅうお頼みします。私がねんごろにそう申しておったと、吉田の殿にもくれぐれもよしなに伝えてください」


 姉は隣に行儀良く座る少年に向け、


「こちらは毛利の四郎 元綱殿――あなたの叔父上です。ご挨拶なさい」


 と柔らかな笑顔で促した。

 はい、と元気に応じた少年は、


「お初にお目に掛かりまする。明日より、吉川 次郎三郎 興経おきつねと名乗ります。向後、何事にも宜しゅうお導きくだされませ」


 と立派に口上を述べ、頭を下げた。


「これは利発なお子じゃ」


 俺は思わず声を上げた。


「吉川と毛利の血を受けたこの若君は、必ずや名将となられましょう」


 父である元経殿は終始目を細め、嬉しくて堪らぬという顔をしていた。時折、姉と目を合わせ、微笑したり頷き合ったりしている。政略で結ばれた夫婦めおとであるとはいえ、姉はこの城で幸せに暮らしているのだろう。

 ――あからさまな政略結婚、か・・・・。

 この婿を選んだ親父の心情が、俺にも少しだけ理解できたような気がした。




<*注釈1>

 作中の年齢は満年齢ではなく、数え年で表記している。

 数え年では生まれたその年を一歳とし、以後正月ごとに一歳ずつ増やして年齢を数えるので、作中の永正十三年(1516)の段階で、永正五年生まれの吉川千法師(興経)は九歳となる。


<*注釈2>

 吉川興経がいつ元服したかというのは資料的には確定できない。

 吉川興経の「興」の字は大内義興の偏諱であり、この元服が大内方への臣従の証しであったことはまず間違いない。大内氏と尼子氏の石見を巡る争いは、大内義興が石見守護に任ぜられた永正十四年(1517)から本格化している。この時点では大内方が圧倒的に優勢であるから、吉川氏が大内方として旗幟を明らかにするのは、永正十四年かそれより前であろう。

 ところが尼子氏は怒涛の勢いで石見北部を奪い、安芸へと侵攻を始める。二年後の永正十五年の段階で、その影響力は安芸の南部にまで伸びている。吉川氏は安芸の国人の中ではもっとも尼子氏との紐帯が強く、当然この頃には尼子方に転じていたと思われる。

 吉川氏が最初から尼子氏に臣従するつもりであるならば、大内義興の「興」の字などは貰わなかったと考えるのが自然であろう。つまり大内方を宣言する興経の元服は、永正十五年の遥か前でなければならないが、興経の幼すぎる年齢も考慮し、永正十三年とした。




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