高橋の隠居
このあたりで、毛利家に大きな影響力を持つ高橋氏について詳しく触れておかねばならない。
高橋氏は、安芸北部と石見東南部に大きく勢力を張る大豪族である。
その根を辿れば皇族にまで繋がるという相当に起源が古い血族で、遠祖である大宅氏は八幡太郎義家の老臣を務めたという武家の名門である。下って源頼朝の時代、嫡流が駿河国の庵原郡高橋に土着して高橋氏を名乗るようになったとされている。その後、高橋氏は鎌倉時代中期に備中国に封土を授かってそこに移り、さらに南北朝の擾乱の影響で石見国へ転封となった。石見国に土着してからまだ百五十年ほどしか経っておらず、「承久の乱」以後に西国に大量に移封されたいわゆる「新補地頭」出身の豪族と比べると、比較的新興の勢力であったと言える。歴代の高橋氏の当主が進取の気概を持ち、守成よりさらなる成長を望み、領土拡張に邁進したのも、そのことと関係があるかもしれない。
高橋氏の本貫は石見国邑知郡阿須那・三千貫であるが、近隣を攻め取って勢力を拡大し、この時代、石見と安芸に一万二千貫もの所領があったと伝わっている。貫高を石高に直すのは難しいが、だいたい七万石前後と考えればそう外れてないであろう。豊臣秀吉が行った「太閤検地」によると、安芸一国の取れ高は十九万石、石見が十一万石で、両国合わせても三十万石に過ぎないから、七万石の領地というのは極めて大きい。その支配地域は、石見の邑知郡から安芸の高宮郡、高田郡の北部にかけてと実に広大で、婚姻などで土地の国人領主を取り込み、一族の者を所領の要所に配してそれぞれ城を築かせるなどして、一族が割れることなく総領家による一円支配を行っていた。
中国山地の山々が連なる高橋氏の領内には良質の鉱床が多く、この地域は古くから製鉄が盛んであった。また高橋氏は江の川中流域の水運を牛耳っており、それが富強の源となっていた。江の川は安芸の北部と日本海とを結ぶ交易の大動脈で、つまり高橋氏に睨まれると江の川の往来が不可能になり、交易で富を得ることが非常に難しくなる。毛利氏が古くから高橋氏との繋がりを深めていたのも、江の川筋に生きる豪族としては当然の選択であったかもしれない。
繰り返しになるが、高橋氏は先代の元光が三年前に戦死し、この時代の当主は興光である。この若者は三年前に元服したばかりで、まだ十六歳の少年であった。この乱世に一族興亡の舵取りを任せるには、いかにも若すぎる。これも繰り返しになるが、高橋氏を実質的に牛耳っているのは、先先代の当主であった隠居の久光である。
高橋久光は高橋氏の全盛期を築いた傑物で、このとき五十九。武将としての器量にも優れているが、この乱世を知恵と勇気でわたってきた男だけに、外交にも独特の政治感覚を持っていた。
近年、これまで富強をほしいままにしてきた周防の大内氏が十年の在京によってやや衰え、この隙をついて勢力を伸ばした出雲の尼子氏が大いに興っている。尼子氏は石見、安芸、備後へと勢力を扶植しつつあり、近頃は久光の元へも調略の密使がやって来たりするようになった。豪族としての鼎の軽重が問われるのはまさにこういう時で、ここで慌てて尼子に尾を振るようでは、高橋氏は尼子に靡いた他の小豪族たちと同様に十束ひとからげに扱われ、軽視されることになろう。
――そうやすやすと尼子経久に頭を下げられるか。
という想いが、久光にはある。久光と経久は同世代であり、言葉にせぬまでも内心では強い対抗意識を持っていた。
人運にせよ家運にせよ、必ず盛衰がある。尼子の盛運と大内の衰運というこの状態が永遠に続くわけがなく、尼子が衰え、大内が盛り返す局面は必ずやって来る。その潮目が変わるのは、おそらく大内義興が京から帰国し、大内・尼子の激突が本格化するときであろう。
その時こそ、
――強大な大内の武力を背景に、安芸の豪族たちを糾合して、尼子に対抗する。
というのが、久光が脳裏に描いている戦略であった。大内側の豪族たちをまとめて高橋がその旗頭になり、安芸・備後・石見の内陸部に大いに勢力を張る。大内氏からも憚られ、尼子氏にも対抗できるような第三勢力を目指すのである。
――刑部少輔(武田元繁)が死んだいま、安芸で漢といえば『鬼吉川』とこのわしくらいのものよ。
と久光は密かに自負している。
毛利興元が病死したことに続き、先年の「有田の合戦」で武田元繁が敗死し、それに巻き込まれて熊谷元直、己斐宗端、香川行景などの有力武将が次々と死んだ。安芸で名のある武将と言えば、宍戸元源、小早川弘平、平賀弘保、天野興次などが残っているが、彼らはいずれも豪族として小粒で、他の豪族たちを糾合して大勢力にまとめあげてゆくほどの勢威も輿望もない。現状、安芸の旗頭になれるほどの武将と言えば、吉川経基と高橋久光があるのみであろう。
――その『鬼吉川』にしても、まさか百までは生きられまい。
吉川経基はすでに九十を超えた老体であり、まだ元気であるとは言っても、いずれ先は長くない。吉川国経・元経親子は武将として有能だが、人物、器量、名声、徳望ともに『鬼吉川』には遠く及ばない。『鬼吉川』さえ死ねば、吉川氏の威勢は必ず衰える。
逆に高橋氏は、三年前に当主の元光が討ち死にし、現当主である興光の新体制がスタートしたばかりである。元光の戦死はまさに痛恨事であったし、家中は大いに揺らいだが、久光自身がまだ現役であるから、悪影響は最小限に止められたとも言える。興光は若いだけに武勇にさしたる実績がなく、その徳量も政治力もまだまだ未熟ではあるが、この若者は覇気も勇気もあり、久光の目から見てなかなか見所がある。数年後には人物に重みも増し、立派な当主へと成長するであろう。その時まで、久光はこの孫を後見してゆくつもりでいる。
毛利氏の当主である幸松丸は久光の孫であり、久光が幸松丸の後見役になっている以上、すでに毛利氏は高橋の傘下と考えていい。
――あとは吉川さえ服属させれば、高橋の武威は往年の武田をも凌ぐ。
吉川氏を傘下に収めることさえできれば、高橋氏は近隣では飛び抜けた大勢力となり、安芸の盟主に相応しい武威を備えることになろう。
厄介なのは、吉川氏が尼子氏と強い同盟関係にあることである。吉川氏が素直に大内氏に臣従し続けるとは思えず、安芸の豪族たちを尼子側に引っ張ろうとするに違いないが、国人一揆の盟友であるだけにいきなり武をもって攻めるというわけにもいかない。いっそ尼子氏に通じていることを理由に吉川氏を国人一揆から締め出し、敵として討ちたいところだが、高橋が吉川氏と戦を始めれば、これを援けるために尼子軍が石見に乗り込んで来るようなことにもなりかねない。大内義興の帰国の前にそんな事態になれば、それこそ藪蛇である。
大内義興が京から領国に戻って来るのは、遠い先の話ではない。年内にも帰国するという風聞さえあるくらいで、どんなに遅くとも一、二年のうちには必ず実現するであろう。帰国しさえすれば、義興は失地回復を目指してすぐさま尼子と戦い始めるに違いない。
――それまでは軽々に動かず、静かに地力を蓄えておくことよ。
だからこそ久光は、尼子氏からの臣従の誘いを歯牙にも掛けず峻拒した。大内義興が帰国するまで、尼子氏の勢力がこれ以上安芸へ及んで来ないよう、防波堤になるつもりでいたのである。
そんな折り、久光にとって面白くない報告が届けられた。
話を持って来たのは、毛利氏の執権である志道広良である。
「多治比の少輔次郎殿と、吉川の久姫さまとの縁談が調いましてな」
自分に何の報告もないまま、それほど重要な決定が毛利家中で行われたことに、久光はまず驚いた。
「それはそれは――寝耳に水じゃな」
「いやいや、お耳に入れるのが遅うなってしもうたことはお詫び申す。なんでも亡き悦叟院さま(毛利弘元)が、生前、吉川国経殿との間で嫁取りの約束をしておったらしゅうござってな。我らもつい先日、そうと知らされて驚いたところなのでござるよ」
広良は笑顔のままぬけぬけと言った。そんな約束が本当にあったのかどうか、久光には確かめようがないから、外交的に毛利が高橋に嘘をついたことにはならない。
志道広良は、毛利家で執権として家政を預かっている。その立場から言えば、高橋久光の毛利家への影響力が強まり過ぎていることに不快と懸念を禁じ得ず、その影響力を削ぐためにも吉川氏との紐帯を強めるのは悪い話ではないと思っている。毛利当主である幸松丸はまだ四歳で、自らの判断で家政を裁断することなどは到底できないから、その後見役に高橋久光が座っている以上、もう一人の後見役たる多治比元就には吉川氏との繋がりを深めてもらい、政治的バランスを取りたいのである。幸松丸が立派な武将として独り立ちし、自らの判断で外交を展開できるようになるまでの間、なんとしても毛利の独立を維持してゆくのが自分の責務であると、広良は強く思い定めていた。
「悦叟院殿が伊豆殿(吉川国経)と、な・・・・」
久光は呟くように繰り返した。
毛利弘元が死んだのは十年以上も昔ではないか。今になってそんな古い口約束を蒸し返すのは、もっともらしい理由を作ったというだけであろう。
吉川国経の妻は高橋氏の一族である高橋信直の娘であり、久光とも遠い縁戚に当たるのだが、高橋と吉川氏は国人一揆の盟約を交わす以前は敵対していたこともあって、久光は国経とは親しくない。どころか、内心では積極的に嫌っていると言った方が正しい。
その国経の娘が、多治比元就に嫁ぐ。
――毛利め、尼子の威勢に怯えおったな。
と久光は直感した。
尼子氏が今年中にも石見と安芸に兵を入れるという風聞が、近頃しきりと囁かれている。これは尼子氏自身がばら撒いている流言であるかもしれず、その可能性が高いと久光は踏んでいるのだが、大内氏に属する安芸の豪族たちは戦々恐々とし、密かに尼子に誼みを通ずる者まで出始めていた。安芸の北部は尼子氏の出雲に近く、その影響を直接に受ける地域だから、毛利氏がこの風聞に過敏になるのも当然と言えば当然なのである。高橋が尼子氏と敵対姿勢を取っていることは周知の事実であり、弱小の毛利氏にすれば、尼子寄りの吉川氏との繋がりを深めることで、いざという時の保険を掛けようというのであろう。つまり、尼子軍が安芸に雪崩れ込んで来たとき、高橋側の旗色が悪く、大内氏の援軍も望めないようなら、尼子氏に寝返る道を残しておこう、という腹なのだ。
久光にしてみれば不快極まる話であったが、ことが婚姻という慶事であり、しかも吉川氏は国人一揆の味方でもあるから、表立っては批判がしにくい。まして多治比元就は毛利本家から分家して一家を立てており、独立性が強いのである。その婚姻に、直接関係のない久光が不都合を言いたてるのは、まったくの筋違いでもある。
久光は努めて温和な表情をし、
「いや、いずれにしても、めでたい話よな。毛利と吉川の縁が深まることは、国人一揆の紐帯をさらに強めることにもなろう」
そう言ってこの縁談を祝ったが、釘を刺しておくことも忘れなかった。
「多治比殿が妻を持つとなれば、いずれ子も生まれような。気の早い話ではあるが、もし女子が生まれたときは、その姫をわしの曾孫と娶せたい。その旨、多治比殿に伝えておいてくださらぬか」
元就の娘を人質として高橋が押さえようと言うのである。
「これは――願ってもなきこと。多治比殿にはしかとお伝えしておきまする」
老練な外交家である志道広良は、久光の思惑を底の底まで見抜いていたが、あえて満面の笑みを作って頭を下げた。毛利が吉川との繋がりをさらに深めることに、高橋久光が不快感を持つのは当然なのである。強大な高橋氏と事を構えるようなつもりは広良には毛ほどもないから、ここで久光の機嫌を損じても益はない。
志道広良が辞去した後、久光は、家中で忍兵頭を務めている世鬼政時という男を自室に呼んだ。
「多治比の元就のところに、吉川の小娘が嫁ぐらしい。耳に入っておったか?」
「いや、恥ずかしながら初耳でござる」
わずかに低頭した世鬼政時は四十代半ばの壮年で、武技で鍛え抜かれた両肩の肉が厚い。
世鬼一族は、元は遠江の世木氏から出たとされている。先祖は駿河の今川家に仕えていたが、一族の者が出奔して諸国を巡り、「応仁の乱」のとき、世木政久という者が上京していた高橋氏に仕えるようになり、石見に移ったのだという。世木政久は、安芸に領地を拝領し、その地名を取って世鬼と姓を変えた、ということになっている。初代・政久の孫に当たるのがこの世鬼政時で、武技に加えて偸盗術――いわゆる忍びの技術――に優れ、高橋家中で諜報、謀略などの仕事を任されていた。
「そういえば、過日、大朝に潜ませておる者から、尼子の亀井能登守が小倉山城を訪れたとの報せがござった。あるいはその婚姻、尼子経久の指嗾であったのやもしれませぬな」
「経久め、忙しのうよう稼ぎよるわ」
「つい先日も尼子の諜者と思しき者を一人斬ったところでござるが――。このところ、ご領内を往来する御師、巫女、物売りなどの数が増しておるように思われまする」
そのうちの何割かが他国の諜者であろう。尼子の忍兵も多く混じっているに違いない。
「大内義興の帰国が近いという風聞もござる。尼子にすれば、義興が領国に戻って来る前に、少しでも味方を増やしておこうという腹づもりなのでござろう」
尼子の威圧に屈して尻尾を振る連中が、久光には笑止でならない。
――このわしと盟を結ばぬ限り、経久めも軽々とは安芸へ出ては来れぬ。
ということが、久光には解っているからである。高橋氏という大勢力を残したまま尼子軍が安芸へ雪崩れ込めば、尼子軍は敵地で背後に巨大な敵を抱えることになり、本国からの補給線を維持することも極めて難しくなる。他国へと遠征するには道々の足場を固めてゆくことが不可欠であり、石見東部と安芸北部に勢力を張る高橋氏を無視できるはずがない。
「安芸の豪族どもは震えあがっておるようだが、経久めにとって安芸は二の次よ。まずは石見に兵を向けおるに違いないわ」
尼子経久は、そのための名分もすでに得ている。
去年、大内義興が石見守護に任じられたのだが、それまで石見の守護であった山名氏はこの幕府の措置に納得せず、昇竜の勢いの尼子氏に泣きつき、実力による石見の奪還を頼んだのである。石見へ兵を向けたい尼子経久にすれば、格好の大義名分が転がり込んでくれたようなものであった。
――石見の正統たる守護は山名氏であり、大内氏がこれを横領するは不義である。
そういう宣伝工作を、経久はすでに石見で始めている。東の山名氏と結んだとなれば、尼子は後顧の憂いがひとつ減ったことになる。安心して西への伸長を本格化させるであろう。
「経久めの狙いは、つまるところは大森銀山よ」
と久光は断じた。
「大内が銀山を失うのは構わんが、尼子にこれ以上肥られるのはかなわんな・・・・」
大森銀山(石見銀山)は世界でも有数の産出量を誇っていたが、この数年前、中国から「灰吹き法」という製錬技術が渡来したために、その産出量がさらに飛躍的に増えた。莫大な軍資金を捻出し続ける大内氏の富強の種は、勘合貿易とこの銀山経営が二本の大きな柱と言ってよく、その意味で、大森銀山を押さえる者が中国地方の覇権を握るとまで言っても決して大袈裟ではないのである。尼子氏はこの銀山をどうにか奪おうとし、大内氏はそれをなんとか守ろうとする。石見が両者の激突の場になるのはまず間違いなく、石見に大勢力を持つ高橋氏の重要性はますます高まるであろう。
「それにしても経久め、多治比の元就とはよいところに目を付けたものよ。あれはもう二十二であろう。まだ嫁がなかったというのは盲点だったな」
「毛利では三男坊も未だ独り身にて、嫁を持ってはおりませんぞ」
「あぁ、そうであったな。婿殿(毛利興元)が死んで後、そのあたりのことがほったらかしになっておるのやもしれん。毛利の老臣どもも間の抜けたことよ・・・・」
次男の多治比元就を吉川氏に握られた以上、せめて三男の相合元綱は高橋側に引き寄せておきたい。いけ好かぬ小僧ではあるが、あれはあれで使い道もあろう。久光は腕を組み、一族の子弟に妙齢の姫がなかったかを考えた。が、一族の末端ならともかく、宗家から近い筋には思い当たる娘がいない。
しばらく沈思していた久光は、不意に顔をあげた。
「甚介よ、向原の日下津城まで密かに遣いせよ」
「日下津城と申さば、坂広時の城でござるな」
坂広時は、毛利氏の老臣である坂広秀の父で、志道広良が毛利家の執権に就く以前、その職の座にあった老人である。すでに隠居しているが、坂氏は毛利の庶家にして代々執権を務める屈指の名門であり、広時の毛利家中への影響力は長老・福原広俊にも伍するであろう。久光は広時とは歳が近いこともあり、古くからの昵懇であった。
「あの男とは、高橋と毛利が大内へ臣従することを決める時、膝を突き合わせて何度も語り合うた。大内がいかに強大な力を持っておるか、あれほどよう知る者も他にあるまい。毛利をこのまま尼子寄りにするようなことがあってはならん」
「承ってござる」
低頭した世鬼政時は、足音ひとつ立てず部屋を出て行った。
「その気はない」
と、元綱が素っ気なく言った。
「なにゆえでござるか。我が娘では不足と申されまするのか」
元綱の前に座った坂広秀は、禿げあがった頭に青筋を立てている。押し問答を続けているうちに、だんだんと腹が立ってきたらしい。
「そうは言うておらん。俺に妻帯など早すぎるというだけのことだ」
元綱は顔を歪め、面倒そうに答えた。
「四朗殿はすでに二十一ではござらんか。早すぎるなどということがあろうか。多治比の次郎殿も来月には妻を迎えられる。次は当然、四朗殿の番でござろう」
「それとこれとは話が別だ。兄者の婚儀と俺の妻帯に何の関係がある」
「早う嫁を持ち、子を成すのは、武門に生まれた男の務めでござるぞ。身を固められれば、相合のお方さまも安堵なされ、肩の荷を降ろせましょう。それが孝道と申すものでござる」
「嫁を持たねば孝の道に悖るというものでもあるまい」
「孫の顔を見せることに優る親孝行が他にござろうか。相合のお方さまの御子は、四朗殿をのぞけばいずれも女子――嫁いでしまえば逢うことさえままならぬ。四朗殿が妻を持たねば、お方さまはいつまで経っても孫を抱く喜びを知ることが叶いませぬぞ」
「む・・・・」
珍しく元綱が言葉に詰まったようである。二人の問答を次室で聞いていた重蔵は、他の近侍と顔を見合わせ、小さく苦笑した。
坂広秀は、三年ほど前から己の娘を行儀見習いという名目で相合の屋敷にあげ、元綱の母に仕えさせていた。深読みすれば、女好きの元綱の傍に娘を置いておけば、いずれは男女の仲になるであろう――などと考えていたのかもしれない。
が、この広秀の思惑は、どうやら外れた。
確かに元綱は女好きで、郡山の城下には通じている女が何人かいるようだし、清神社の巫女の元にも足繁く通っているのだが、どういうわけか、相合の屋敷の侍女には一切手をつけてないようなのである。もちろん、これは元綱に直接に聞いたわけではなく、重蔵がそう直感しているというだけであったが――。
坂広秀の娘は、名を さと と言い、脂っこい顔の父には似ず、なかなかの器量良しである。年は十八と聞いた。やや適齢期を過ぎてはいるが、二十一の元綱と釣り合わぬ年齢でもない。さとは、父に言い含められているのか――あるいは自身が望んでいるのか――酒席などの機会があるごとに元綱の傍に侍り、酌をしたり話しかけたりしている。見ている重蔵がいじましくなるほどなのだが、元綱はこの娘の気持ちに応えてやった風ではない。
――どういうおつもりなのか?
重蔵もそのあたりの元綱の心情がよく解らない。
正妻にするとか妾にするとかは別にして、毛利家の御曹司たる元綱の立場なら侍女に手をつけても何ら問題はないわけで、女好きの元綱がそれをしないというのは、奇妙と言えば奇妙だった。同居している母親の手前ということもあるだろうが、元綱は幼い頃から女姉妹に囲まれて暮らしていたらしいから、思い出が染みついたこの屋敷の中では、女を抱こうというような気にはなれないのかもしれない。
「わしも、なにも下戸に酒を強いておるつもりはござらん。四朗殿とて女子がお嫌いというわけではありますまい。いろいろと噂も小耳に挟んでおりますぞ」
そのぶしつけな言葉に、元綱は目つきを厳しくした。
「我が娘になんぞ到らぬところがあるのであれば、そう申してくだされ。あるいはどのような女子ならお気に召すのか――この広秀にお漏らしくだされば、家中はもとより近隣の家の姫からそれに見合う女子を探してさしあげてもよろしゅうござる」
「いらぬ世話だ。坂広秀ともあろう者が、女見(女衒)のような口を利くな」
元綱はピシャリと言い、席を立った。まだ何か言おうとする広秀を残して足早に廊下をわたり、裏手の厩へ出る。元綱は愛馬の『紗霧』を引き出すと、その背に鞍を置き、裏門を出るや鐙を蹴った。
三人の近侍が慌ててそれを追う。馬を持ってない重蔵は、刀を左手に握り、小袖の裾を尻までからげ、徒歩で駆けた。
光井山を正面に見ながらしばらく走った元綱は、相合川が多治比川に流れ込むところで進路を南東に変え、多治比川の土手沿いを疾風のように走る。左右の田には、百姓たちがそこここで田植え唄を歌いながら泥田に苗を植えこんでいる姿があった。田植えはもう八分通り済んでいる。
多治比川は吉田の集落の南側を洗い、光の帯となって江の川に合流する。元綱は浅瀬を選んで多治比川を渡り、蛇行する江の川筋に沿ってそのまま南西へと向かった。
重蔵は懸命に駆けたが、馬の脚に追いつけるはずもない。田の百姓や道ですれ違った里人たちに馬が去った方角を尋ねつつ一里ばかり走ると、江の川の河原で近侍たちが馬に水を飼わせているのを見つけた。ひときわ馬格の大きい『紗霧』も見える。が、元綱本人の姿はない。
「四朗さまは?」
低い土手を駆け下った重蔵は、荒い息を整えながら尋ねた。
「常楽寺です」
井上又二郎という青年が、光井山の南尾根にあたる小山を指差しながら答えた。鬱蒼と茂る木々に遮られて見えないが、あの小山をしばらく登ると常楽寺の山門がある。
常楽寺は曹洞宗に属する禅寺で、元綱の腹違いの弟が僧になって修行をしている。この弟は幼い頃に足疾を患ったために武士としての春秋を絶たれたらしいのだが、兄弟仲は良いようで、元綱は遠乗りなどで通り掛かるとよくこの寺に立ち寄る。
「一子出家すれば九族天に生ず」という言い伝えがある。この時代に生きる人々は神仏に対する尊崇の心が篤いし、豪族たちにとっては領内の寺社との関係は軽視できないものでもあるから、族人の中から一人は仏門に入れるというのは常識であり、実利でもあった。
「こうしてただ待っておるというのも無聊だな・・・・」
陽光に煌めく川面を眺めながら、又二郎が言った。この若者は元綱の二歳年長で、近侍の中でリーダー格である。毛利家中で最大の勢力を持つ井上党の出だが、一族の中では傍流の次男坊で、家では厄介者(相続権のない部屋住みの子)であるらしい。やや狷介なところがあり、お調子者でもあるが、根は善良で、戦場では勇敢である。剣の筋も悪くない。
「重蔵殿、『紗霧』をお願いします」
又二郎は『紗霧』の轡を重蔵に預けると、あとの二人の近侍を誘って水馬を始めた。
「うひゃぁ、冷たいのぉ!」
若者たちははしゃぎながら大声で馬を励まし、巧みに手綱を操る。元綱には及ばぬものの、三人とも馬術はなかなか達者である。満々と水をたたえる江の川は、広い所では一町ばかりも川幅があり、瀬もあれば淵もある。深いところでは馬の脚が川底に届かないから、習練にはちょうど良いであろう。
『紗霧』はすでに十分に水を飲んだようなので、重蔵は手綱を引いて低い土手を登った。すぐそばに雑木の林がある。手ごろな樹を選んで『紗霧』を繋いだ重蔵は、そのあたりの枯れ枝や落ち葉を集め、焚火の用意を始めた。若者たちが水から上がったとき、冷えた身体を温めねばならないし、濡れた衣服も乾かさねばならない。
相合の屋敷を出るときに中天にあった太陽が、やや西に傾いた。
人の気配に気づいた重蔵がその方に視線を向けると、木々の隙間から坂を下る元綱の姿が見えた。重蔵に気づいたようで、まっすぐにこちらに歩いて来る。
「お早いお帰りでしたな」
「あぁ、茶を飲ませてもろうてきた」
重蔵の隣に並んだ元綱は、江の川を眩しげに眺めた。
「ほう、水馬か」
その顔がうずうずと笑っている。
「あの馬鹿どもめ、水を飼わせておけとは言うたが、俺を忘れて遊び惚けておるとはなんたる虚仮じゃ」
元綱は『紗霧』の手綱を解き、それに跨るや一散に土手を駆け下り、川に馬を入れた
「おぉ、四朗さまじゃ!」
近侍たちが喜色を浮かべ、馬の向きを変える。
「又二郎、馬が水に沈み過ぎじゃ! 戦場では具足をつける分、身が重い! それでは馬が溺れてしまうぞ!」
元綱は河水の浅深が水面の姿で解るらしく、浅瀬を選んであっという間に川の半ばまで進み、さらに『紗霧』を声で励ましながら巧みに泳がせ、やがて向こう岸に跳ね上がった。『紗霧』に息を入れさせ、その首を撫でて褒め、再びざぶりと水に飛び込ませる。
――好い景色だ。
眺めている重蔵は、思わずため息をついた。
降り注ぐ陽光のなか、四匹の人馬が水飛沫を跳ね上げながら河水に遊んでいる。中国の山々を背景に悠久に流れる大河――その自然に溶け込みながら、若者たちが「若さ」の可能性を迸らせているようなその風景は、生き物の美しさを雄渾に描き出していた。
「あれが相合の元綱か・・・・」
対岸の雑木林から、ふたつの人影がそれを見つめていた。浪人風の身なりをした一人は世鬼政時であり、いま一人は農夫のような格好をした若者である。
「今義経は武芸も達者らしいな。人馬一体――なかなか魅せる」
政時が言うと、若者が不平そうに反論した。
「御殿でぬくぬくと育てられた殿さまなぞに、真の武芸がござろうか。戦場で馬上槍を取って戦うならともかく、一人と一人とで斬り合うというなら、我ら忍び武者の半人前も働けますまい」
「そうかな? 元綱は義経流の兵法にも通じておると聞く。たとえお前でも、兵法の手練と昼間に斬り合えば、そうやすやすとは勝てまい」
若者は政時の子で、名を新太郎という。
「もっとも、夜に仕合うというなら、我らの敵ではなかろうがな」
政時はその言葉を残して林の奥へと歩き去った。
農夫姿の若者はしばらく川面を見つめていたが、やがて父とは別の方向に消えた。