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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第三章 乱世の梟雄
17/62

出雲の神女

 部屋は薄暗かった。

 夜具に仰向けになった女は、己に覆いかぶさる男の頭越しに、暗い天井を眺めていた。

 ――つまらない男・・・・。

 頭の中で何度そう呟いたか解らない。

 しかし、そこは仕事である。愉悦をこらえるようにときどき表情を歪ませ、腰をくねらせ、白い喉を反らせ、声をあげてやった。男という生き物の悦ばせ方を、女はすっかり体得していた。

 男はますます昂ぶり、息を荒げ、身体を性急に動かした。どこかなまずに似たこの四十男の顔は、実にだらしなく弛緩している。天井に映る影の濃淡が、灯明の火のわずかな揺れに合わせてゆらゆらと変わり、闇色の生き物がうごめいているように見えた。

 男が夢中になればなるほど、女の心は冷え冷えと醒めた。

 ――殺そうと思えば、こんな男、いつでも殺せる・・・・。

 たとえばしとねの端に短刀でも忍ばせておけば、男の胸なり首なりを突くのは造作もない。この乱世に、我が城を持つほどの男がこんなうつけかと思えば、失笑さえ湧いてしまう。

 男はほどなく一人で満足し、転がるように女から身体を離した。隣で仰向けになるや、すぐに鼾をかき始める。酔いも回っていたのだろう。

 ――もう寝ついたの?

 女はやや閉口した。二度、三度と付き合わされるよりは、寝てくれた方がよほどマシではあるが、女の目当ては、この男の寝物語を聞くところにこそあったのである。ねやで語られる他愛ない会話――愚痴や不満、自慢や悪口といったものの中に、女の仕事にとって重要な情報が含まれている事が多いのだ。

 が、眠ってしまったものを起こすこともできない。

 女は「ぐったりした」というていの演技をやめ、白小袖の乱れを手早く直すと、男の身体に夜着を掛けてやり、襖を細く開けて静かに部屋を出た。次室で舟を漕ぎつつ座っていた宿直とのいの若侍に軽く会釈し、与えられた部屋へと帰る。

 水でも浴びたい気分だった。


「おゆきさま、お帰りかえ?」


 小女こおんなさちが寝返りをうち、眠そうに夜具から身体を起こした。気配で眼が覚めてしまったらしい。


「起こしちゃったね。ごめんね。私も休むから、幸ももう一度お眠り」


 頭を優しく撫でてやると、安心した童女は崩れるように夜具に沈み、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。

 ――そろそろここを離れようかしら。

 自らも夜具にもぐり込み、ゆきは考えている。

 引き留められ引き留められしているうちに、滞在は半月ほどになっていた。あの男――高橋 弾正左衛門だんじょうざえもん 盛光は、ゆきとの情事がよほど気に入ったらしく、夜ごと、それに昼間にも二度、ゆきを求めてきた。身体を重ねるうちに、ゆきは男の性格や嗜好、器量などをおおよそ掴んだ気になっており、もうこれ以上得るものがないように思えたのだ。

 石見国邑智おおち郡を本貫とする高橋氏は、石見と安芸に広大な領地を持つ大豪族である。弾正左衛門 盛光は、高橋氏の当主・興光おきみつの伯叔父に当たり、この城――鷲影わしかげ城の主だった。権力者にはよくある型だが、女をモノのように扱う男で、睦言むつごとのひとつも吐こうとしない。そのくせ欲望が強く粘質な性格で、己の情欲を満たすまでゆきを離さないのである。

 いかに仕事とはいえ、ゆきもいい加減うんざりし始めていた。

 ゆきは、出雲の「歩き巫女」である。

 歩き巫女というのは、諸国をわたり歩き、村々を歴訪しては出雲大社の神符を売るのが表の稼業で、霊能者として諸人の願いに応じ、病気平癒や雨乞いなどの祈祷をし、あるいは神や死者の霊をその身に降ろしたりもする。求められれば酒の席にはべり、白拍子しらびょうしのように歌い、舞い、踊る。相手と条件の次第では色を売ることもある。この時代、巫女は、傀儡師くぐつし(人形使い)、放下僧ほうかそう(曲芸師)、河原者などと同様、賤しき者とされているのだが、加持祈祷といった特殊な技能を持っていることもあり、神に仕える者としてそれなりの尊崇を受けてもいた。余談だが、後年、出雲の歩き巫女の中から阿国おくにという歌舞の達者が出て、「ややこ踊り」を創始し、それが現在まで続く歌舞伎の元になったりしている。

 ――もういいわ、あの男は・・・・。

 明日、この城を発とう、と、ゆきは思った。

 たっぷりと礼銭をはずんでもらわねばならない。吹っかけてやった時、男はどんな顔をし、どんな言葉を発するだろう。それを見ることが、ゆきがこの城でする最後の仕事になる。

 つらつらと考えているうちに、すこしまどろんだ。

 目覚めたとき、すでに夜は白々と明けていた。

 朝餉を終えたゆきは、旅の身支度を整えると、城主の高橋盛光の居室を訪ね、当地を立ち退くことを告げた。


「何もそう急がずともよいではないか」


 盛光はゆきににじり寄り、その手を取って抱きすくめ、裾の間に手を入れてきた。


「もうしばらくここにおれ。いや、いっそわしに奉公せぬか」


 女奉公人――すなわち妾になれ、ということである。

 男に身体を預け、その手を自由にさせながら、ゆきは平静な声で言った。


「出雲の巫女は旅の空が棲家。一所に長う留まりますと、出雲の大神からお叱りを受けまする。そうなれば、お殿さまのご武運は必ずしゅうなりましょう」


 無論、口から出任せである。しかし、戦場往来の武士は多くが「運」の信奉者で、縁起を担ぐものだから、武神の加護を失うぞ、と脅してやれば、たいていの男が二の足を踏む。ゆきは何といっても神に仕える神女かんなぎなのである。その言葉には、ある種の通力がある。


「左様か・・・・」


 男は、ゆきの言葉というより、自分に向けられたその冷たい眼に興を醒ましたのかもしれない。ゆきの身体を離し、近侍を呼んで、礼銭を言い値で払ってやるよう命じた。


「いずれまた、当地に巡って参ることもございましょう。その折は、よしなにお頼み申しまする」


 型通りの挨拶をして御前を退いたゆきは、老僕の市兵衛いちべえ、小女の幸と共に、鷲影城の城山を下った。


「さすがに大身の高橋さま、金払いはようございましたな」


 旅の荷を背負った市兵衛は、ほくほく顔である。

 市女笠を傾け、ゆきは老人を睨んだ。


「ゆきは出雲の神女かんなぎじゃ。遊びか何かのように申すな」


 ゆきは遊女ではなく、あくまで巫女なのである。男たちはゆきの身体を通して神と交わり、その加護を賜り、神への捧げ物として謝礼を払うのだ。身体を売って銭を稼いだような言われ方をされるのは心外であった。

 ゆきはこの年、二十四になる。

 物心ついた頃から旅の空にいて、正式に巫女になってから数えても九年をこの稼業で暮らしている。十代の頃は華奢きゃしゃで薄っぺらい身体つきであったが、二十歳を越えた頃からしし置きが豊かになり、いかにも男好きする色気を身に付けるようになった。

 土地土地の権力者や有徳人(金持ち)たちは、ゆきの美貌を見ただけで、たいてい喜んで寝床と食事と礼銭を提供してくれた。無論、男に騙されたことも一度や二度ではないし、旅の途中で難儀に遭うようなこともあったが、そういうさまざまな経験をすることで、ゆきは女として、歩き巫女として、一人前になれたと思っている。

 ゆきたちはその足で、この村――羽須美はすみ村の鎮守の社へと向かった。土地の神主にお礼と出立の挨拶をするためである。

 古びて苔むした鳥居を抜け、鬱蒼と繁る雑木の林に入ると、くぬぎの大樹の根に男が腰を下ろしていた。行商人のような格好をし、大きな木箱を背に担いでいる。やや小柄だが、引き締まった身体つきの三十男である。頬が薄く、顎が尖り、苦み走った渋い面相をしている。

 ゆきたち一行を見ると、男はゆっくりと立ち上がり、尻の砂を払った。


蓮次れんじか・・・・」


 市女笠をあげ、ゆきが言った。

 幸はこの男が怖いらしく、市兵衛老人の足にすがりついている。


「存外、長く掛かったな。あの城は居心地がよかったかい」


 ぞんざいな口調で男が言った。


「よいものか。引き留められておっただけじゃ」


 ゆきも負けずにぶっきら棒な声音で返した。


「お前さんの身体がお気に召したか。まぁ、気持ちは解らねぇでもないが――」


 男は下卑た笑いを浮かべながらゆきに近付き、肩を抱こうとした。


「よせ」


 面倒そうにその手を外す。


「お前の相手は遊び女か傀儡女くぐつめ(宿場女郎)が相応しかろう。たって出雲の神女かんなぎと寝たいというなら、永楽銭の百枚も持って来よ」


「古い馴染みを相手に、権高う出るじゃねぇか。いつぞやの夜は、一枚の銭も取らなかったくせによ」


「あの時は私の方に男が要り用だったというだけじゃ。別にお前でなくともよかった」


「憎ったらしい女だよ・・・・」


 男は苦々しげに顔を歪めた。


れに来たわけでもなかろう。用件を言うたらどうじゃ」


 男は左右を窺い、近くに人がないことを確認すると、声を落として言った。


「首尾の委細は、今宵、お前さんらが泊まった宿で聞く。それと――」


 男は市兵衛老人に顔を向けた。


「市兵衛じい、夜までに城内の絵図を描いておいてくれ」


「承知した」


「曲輪の並び、櫓、兵糧蔵、井戸の位置なぞを、知り得た限り、なるべく細かくな」


「ご念には及ばぬ」


「では、また後で――な」


 男は背の木箱を背負いなおし、鳥居へ向かって足早に歩きだした。

 ゆきはその背をしばらく眺めていたが、


鉢屋はちやめ・・・・」


 と憎々しげに呟いた。

 出雲に、「鉢屋」と呼ばれる集団がある。

 元々は飯母呂いぼろという名の血族集団で、平将門の乱のときに将門に味方して敗れ、領地も地位も剥奪されて、いわゆる賤民の境涯に落ちた。定住する土地を失った飯母呂の人々は、生きてゆくために多種多様な方法で糧を得ねばならなかった。狩りを行って獣の肉を食べ、その皮をなめし、武具を作って売った。あるいは鉄を掘り、製鉄の技術者となり、あるいは笛、舞い、傀儡(人形使い)などの芸能の腕を磨き、それを売り歩いた。近隣で合戦が起これば、戦場の諜報、偵察、連絡、敵の後方霍乱などの仕事を大名から請負って、銭を稼いだ。なかには野盗になった者もあり、山賊になった者もあったであろう。「鉢屋」という名の由来は、京の五条河原に住み着いた者たちが、托鉢たくはつや門付けに歩く時、叩くかねがなかったので鉢を叩いて歩き、「鉢屋者」と呼ばれるようになったからだという。飯母呂一族の人々は全国に散ったが、その多くが山陰へと逃れ、出雲に土着したらしい。

 いずれにしても、出雲では、飯母呂一族の末裔たちが「鉢屋」という名で根付いていたのである。

 この時代、出雲の覇権は尼子氏が握っているのだが、太守である尼子経久が、この鉢屋衆と繋がっていたことはよく知られている。

 尼子経久は、出雲守護代・尼子清定の嫡子であった。若き頃、父の清定が守護の京極氏から独立し、出雲を横領しようとして、幕府から討伐を受けた。幕府軍に月山がっさん富田とだ城を攻められ、出雲から追放されたのである。清定は各地を漂白するうちに病死したという。

 弟の久幸と共に流浪の身となった経久は、十数人の尼子家譜代の郎党と連絡を取り合い、鉢屋賀麻がま党の棟梁であった鉢屋弥之三郎やのさぶろうに助力を仰ぎ、彼らの力を借りて、奇策によって月山富田城を一夜にして奪い返した。尼子経久の自立と発展を陰で支えたのが鉢屋衆であり、経久は賤民階級だった鉢屋の主立つ者たちに領地と武士の身分を与え、これを家中に組み込んだのである。以来、鉢屋衆は、尼子氏の裏面の仕事を引き受けて暗躍する存在になっている。平たく言えば、尼子氏子飼いの忍者集団と考えていい。

 出雲の「歩き巫女」は、この鉢屋衆と繋がりがある。諸国を渡り歩く彼女たちは諜報要員としてまさにうってつけであり、国々の人情、政情、地理、大名小名の噂話といった情報が、鉢屋衆を通して尼子氏へと吸い上げられる仕組みになっていた。

 ゆきが、高橋氏の領内を歩き、弾正左衛門 盛光に近付いたのも、無論、偶然ではない。


「高橋盛光に探りを入れよ」


 それが、ゆきに与えられた裏の仕事だったのである。



 鷲影城がある羽須美村は、石見と安芸と備後の国境くにざかいである。

 羽須美村を発ったゆきたち一行は、江の川に沿う形で南東に道を取り、備後の三次みよしに入って投宿した。神主、僧侶はもちろんだが、巫女、修験者、神人じにんなども、各地の関所を素通りすることができる。神仏に仕える人々は「方外ほうがいの者」であり、罪さえ犯さなければ浮世の法に縛られることはないのである。

 その夜、ゆきたちの部屋に、蓮次がその言葉の通りに忍んで来た。どこから入り込んだのか、宿の者は気付きもしない。

 ゆきは、知り得た高橋盛光の人となりや、高橋家中の噂話などを蓮次に報告した。

 高橋氏は、隠居の久光が実質的な権力を握っている。先代の元光は三年前に備後の三吉氏との合戦で討ち死にし、その跡を継いだのが現当主の興光である。興光の「興」の字は西の大大名・大内義興から貰った偏諱へんきであり、高橋氏が大内氏の与党であることは言うまでもない。

 興光は久光の次男の子で、長男・元光の子ではなかった。この点、家督相続の筋目に乱れがある。久光は政治力もあり合戦も巧みな出来物で、彼が暗然と実権を握っているから高橋家中の不満はまだ顕在化してはいないが、興光が横から宗家を継いだことを面白く思っていない者は家中に少なくなかった。

 なかでも露骨に不平を鳴らしているのが、弾正左衛門 盛光である。

 盛光は久光の弟の子で、久光の甥に当たる。盛光から見て当主の興光は従兄弟の子であり、まだ若輩の興光が、元光の子を差し置いて高橋の当主になったことが納得できぬらしい。

 ――正嫡の万千代殿ならともかく、なぜ興光ごときが・・・・。

 という不満が、盛光にはある。万千代の幼少を理由に別の当主を立てるというなら、年長で世故にも長け、武勇の実績もある自分の方が、宗家を継ぐにはよほど相応しいではないか――

 しかし、高橋氏の一族間では長老・久光の威光が圧倒的に強く、誰もこれに異を唱えられない。盛光も久光にだけは頭が上がらず、そのやり方を真っ向から批判することもできないから、興光に対する不平を鳴らすくらいしか仕様がなかったのであろう。

 盛光の不満は、かなり根が深い。鷲影城の酒席に侍り、盛光と閨を共にし、耳にした言葉の端々から、ゆきはそのことを看取していた。

 蓮次は、帳面になにやら書き付けながら熱心にゆきの話を聞いていた。一通り聞き終えると、市兵衛老人が描き上げた絵図と一緒にその帳面を油紙に包み、木箱の二重底に大事そうに仕舞った。

 木箱を背負って立ち上がり、蓮次が言った。


「『海蛇のおばば』からの言伝ことづてだ。このまま南の安芸へ入り、吉田へゆけ、と」


「安芸の吉田――毛利さまのご城下じゃな・・・・」


 ゆきも何度か通ったことがある。毛利氏の居城である郡山城の山麓にすが神社という大きな社があり、そこの神職の顔は憶えていた。


「毛利の当主は幼少で、重臣の合議で家政を執ってると聞く。必ずしも一枚岩じゃねぇだろう。毛利は大内の与党だが、重臣の中には尼子寄りの者もあるはずだ。誰が尼子に心を傾けてるか、誰と誰の仲が良いか、悪いか――そういったことを、探ってもらいたい」


「・・・・・・・・」


 ゆきが返事をせずにいると、


「俺はいったん出雲へ戻る。備後の情勢をしばらく探ってから吉田へ入るつもりだ。繋ぎはその時に入れる」


 蓮次はそう言い捨て、足音も立てずに部屋から出て行った。


「因果な稼業でござるな・・・・」


 市兵衛老人がゆきをいたわるように言った。

 出雲大社の神使さきがみは「海蛇」である。出雲の巫女を裏で束ねる長老は、代々「海蛇の婆」と呼び慣わされている。その命令だと言われれば、従わぬわけにはいかなかった。出雲大社の神領家は尼子氏に従属しているから、出雲大社に属する歩き巫女は尼子氏の間接的な支配を受けざるを得ないのである。


「因果でない稼業なぞ、この世にあろうか・・・・」


 ひとつため息をつき、ゆきは夜着を掴んで横になった。

 市兵衛老人は灯明を吹き消し、幸がすでに眠っている次室へと消えた。

 ゆきは父親の顔を知らない。母親はおふゆと言い、やはり歩き巫女であった。若い頃は出雲一の美女と謳われ、その踊りの巧みさと歌声の美しさは同業の者からさえ尊敬を受けた。ゆきは幼い頃におふゆから引き離され、別の巫女のお付きの小女として春から秋まで諸国を歩き、冬は故郷の村で他の娘たちと共に歌や踊り、必要な教養などを仕込まれた。

 故郷の村では、歩き巫女が生んだ娘、孤児みなしご、捨て子、人買いから買った童女などが、常時、数十人養育されている。その中で器量の良さそうな者、踊り、歌に才能がありそうな者が選ばれ、巫女としての教育を受けるのである。ゆきは巫女以外の生き方を知らなかったし、同じような境遇の仲間もいたから、自分が取り立てて不幸だと思ったことはない。

 年長けてゆきが女になり、男を知った頃に、おふゆは廃業した。現今いまは故郷の村に腰を落ち着け、歩き巫女として必要な技能を娘たちに仕込みながら暮らしている。この稼業の女はほぼ例外なく親との縁が薄く、ゆきにとっておふゆは母というより芸事の師匠である。現職の「海蛇の婆」が引退すれば、次はおふゆがその座に就くのではないかと取り沙汰されたりしているが、ゆきはそのあたりの事にはほとんど興味がない。

 ただ旅の空を自由気ままに歩いて暮らしたいと思っているだけである。

 ゆきにとって色を売ることは、感覚的に自由恋愛に近い。ゆきほどの美貌があれば、歌舞や祈祷などの収入だけで十分食べていけるのである。意に沿わぬ男と枕を交わす必要などはない。気に入った男とだけ、納得した相手とだけ、寝る。そして、ちぎった男に運をけてやる。それが歩き巫女としてのゆきの誇りであり、その矜持であった。

 だから、雲の上の連中が決めた男と寝るよう強要されることは、ゆきにとって尊厳と神性を踏みにじられるような不快さがある。特に、あの高橋盛光のような男に抱かれることは、仕事とはいえやり切れなかった。


「吉田では誰に取り入ろうか・・・・」


 声に出さず呟き、ゆきは夜着をかぶった。

 ゆきたち一行は、備後の三次からさらに江の川に沿って安芸に入り、宍戸氏の甲立を経て、吉田の城下に到った。たまたまゆきに月の障りが来てしまったために、道中、巫女としての仕事ができず、余計な長逗留をすることもなかった。

 季節は、永正十五年(1518)の春である。

 郡山は新緑に溢れ、山桜が満開であった。郡山の山裾を多治井川が洗い、光の帯となって可愛えの川へと流れ込んでいる。野には、菜の花やスミレやカタバミやウドといった花々が、その短い命を謳歌するように咲き誇っていた。

 不浄の血をはばかり、しばらく城下の旅籠に逗留したゆきは、月のモノが終わるのを待って清神社へと参り、まず神主に挨拶した。

 神主はゆきのことを憶えてくれており、出雲大社の神符を売ることの許可と、滞在中の便宜を約束してくれた。広い境内の中には社務所と共に社僧や神人じにん(下級神職)たちが住まう長屋が幾棟か建っているのだが、その二部屋をゆきとその従者のために提供してくれるという。


「以前に見たそなたの舞いは見事であったな。どうであろう、ちょうど田植えの時期でもある。舞台はこちらでしつらえるゆえ、神前で豊作祈願の神楽かぐらを奉納してはくれまいか。お城下の百姓たちにも喜ばれよう」


 願ってもない申し出である。ゆきは喜んで承諾した。



 二日後、清神社の社殿の前に即席の舞台が作られた。

 境内にいくつものかがりが据えられ、夕闇の頃になってそれに火が入れられた。夜のとばりが降りるにつれ、境内が幽玄の雰囲気を帯び始める。

 話を聞きつけた百姓や武士、城下の男女が、昼の仕事を終えて続々と境内に集まり始めた。舞台の周囲は黒山の人だかりとなり、人垣が幾重にも取り巻いている。

 やがて、清神社の神人たちによって神楽が演じられた。


「ちはやふる 玉の御すだれ巻き上げて――」


 儀式舞である『神降ろし』から始まり、『塵倫じんりん』、『天の岩戸』、『五穀種元』といった演目が続いてゆく。

 ゆきは、純白の千早に赤い袴をつけ、金の天冠を頭上に戴いた清らかな巫女姿である。演目の終盤で、出雲の巫女神楽を三番演じた。

 お囃子は、幸が龍笛りゅうてきを、市兵衛が太鼓を、それぞれ務める。ゆきが舞い始めると、境内に集まった群衆は息をするのも忘れ、篝火に浮かび上がるゆきの美貌とその舞いの美しさに酔いしれた。

 奉納神楽は深夜まで続き、大成功のうちに終わった。

 思いのほか多くの賽銭が集まったようで、神主も上機嫌である。ゆきたちに酒食を饗し、礼銭をはずんでくれた。

 ゆきは、心地よい疲れに酔いが加わり、夜具に入ると落ちるように眠った。

 ひどく淫らな夢を見た。

 夢の中で、ゆきは逞しい男に犯されていた。

 いや、ゆきを犯していたのは、あるいは武神であったかもしれない。己の神域に、出雲の巫女が眠っていることを幸い、清神社の祭神である素戔嗚尊すさのおのみことが自分を犠牲にえになされたのではないか――。

 神女かんなぎらしく、ゆきは眠りながらそう思った。そう思い至ると、「神」を受け入れるのが当然であるように思えた。

 眠りと覚醒の端境はざかいで、酔いも手伝って意識が朦朧としたまま、ゆきは悩乱した。「神」はときに激しく、ときに緩やかに、ゆきを責め立てた。鋭い愉悦が幾度も背筋を突き抜け、眠っているはずなのに意識を失いそうになった。

 律動的な動きの中で、「神」がゆきの両手を掴んで引いた。その握力、腕の痛みによって、ゆきは不意に覚醒した。

 闇の中で、男の影に犯されている。

 そういう自分を発見したが、犯されていることなど、この瞬間のゆきにとってはどうでもよかった。ゆきは自ら男の腰に足を絡め、さらに深く男を迎え入れ、我を忘れて声をあげた。

 男の所作がさらに荒々しくなった。

 不覚にもゆきは何度か気を失い、ことが終わったときにはしばらく起き上がることさえできなくなっていた。

 ゆきがようやく呼吸を整え終えたとき、男はすでに衣服の乱れを直して胡坐をかき、静かにゆきを見下ろしていた。

 ゆきは夜具の上に横臥したまま、横目で男を睨んだ。


「無体なことをなさいます・・・・」


「無体?」


 男の影が、驚いたように聞き返した。


「無体であったかな。そなたは悦んでいたように思えたが・・・・」


 その台詞にわずかな笑いが混じっている。


「ゆきに断りもなく、勝手にお抱き遊ばしたのは無体でございましょう。ゆきがどうであったかとは関わりがございませぬ」


 拗ねた口調にも、知らず知らずのうちに艶めいたものが篭った。まだ身体の奥に痺れるような余韻が残っている。


「ゆきと申すのか。よい名だ。そなたの肌は吸い付くように触り心地が好かったが、その色も雪のように白かろう。この暗がりでも、肌だけが浮き上がって見える」


 言いながら男は立ち上がった。納戸の棚を探って灯明皿を探し出し、火具を取り出して灯明に火を灯す。

 闇が去ると、男の顔がゆきの前に露わになった。

 思いのほか男が若いことに、まずゆきは驚いた。女の扱いの巧みさから、それなりに成熟した中年男を予想していたのである。歳は二十歳前後であろう。やや細面で陽によく焼けている。男っぽい顔立ちだが、大人になりきれぬ童臭が目元と口元に残っていた。月代さかやきは剃らず総髪を後頭部で無造作に束ね、顎のあたりに不精髭がまばらに生えている。その相貌の精悍さは、どことなく狼の野生を連想させた。

 男はゆきの傍に再び腰を下ろし、その姿をまじまじと眺めながら、


「舞っておるときも美しかったが、こうして近くで見ると、また格別だな」


 と嬉しそうに言った。

 汗で湿った白い肌が、灯明の明かりを受けてぬめるような光を放っている。だらしなく乱れた白小袖の襟元からは、形の良い乳房が覗く。艶やかな黒い髪。上気し、薄赤く染まった頬。目の切れは長く、黒目がやや大きい。その瞳が、上目遣いでじっと男を見詰めている様が、たまらなく色っぽい。


「喉が渇いたであろう」


 若者は気軽に再び立って、土間に置かれた水桶から水を汲んで来てくれた。

 木碗の水を飲み干したゆきは、ようやく人心地ついた気分になり、白小袖の乱れを直した。


「お名を、お聞かせくだされませ」


「毛利の四郎 元綱」


 あ、っと、ゆきは声を呑んだ。さすがにその名前くらいは知っている。毛利氏の先代・興元おきもとの実弟で、毛利家の御曹司ではないか。


「毛利さまと申せば、この吉田のご領主さまではございませんか。その御曹司たるお殿さまが、このように夜這いなどと、ご身分に関わりましょう。村の若衆でもございませぬのに・・・・」


「夜這いは若衆ばかりがするものでもあるまい。京のかしこきあたりでも、妻問いと言えば夜這いと、平安の昔から相場が決まっている」


「まぁ、ゆきのような賤しきものを、妻にしてくださるのですか?」


 無論、本気で言っているわけではなく、言葉の遊びである。が、声が弾んでしまっていることをゆきは自覚した。


「俺は別に構わぬが、正室に迎えるとなれば家の老臣おとなどもが許すまいなぁ・・・・」


「ゆきのような素性賤しき者が、お武家さまのお正室へやさまにして頂けるなぞとは思うておりませぬ。お側室そばで十分でございますのに」


「尼子の諜者を側室そばめに飼う、か。それも面白いかもしれんな」


 尼子の諜者――という言葉に、ゆきは再び声を呑んだ。


「ゆきを諜者と申されますか」


「出雲の巫女は、当然、尼子の諜者であろう。そうではないのか?」


「ゆきは出雲の大神に仕えておりまする。俗世の権力に仕えておるわけではございませぬ」


 同じことさ――と言って元綱は笑った。


「そなたのように諸国を巡っておる巫女は、出雲にはどれほどおるのか?」


「さて。どれほどでございましょう。ハキとは解りませぬ」


「五十人も百人もおるのか?」


「ほほ。五十人かもしれませぬし、百人かもしれませぬ」


 揶揄からかうような笑みが、ゆきの頬に浮かんだ。

 それを見て、若者もわずかに苦笑した。


「尼子経久殿は、さすがに稀代の傑物だな。出雲に居ながらにして、天下に起こる様々なことを細大漏らさず知ることができる。この一事だけでも、英雄と呼ぶに足る」


 大内氏の与党である毛利氏の御曹司から意外な言葉が出たことに、ゆきは軽い驚きを覚えた。若者の表情を注意深く眺めながら、何気ない口調で訊ねる。


「出雲のお屋形さまが、お好きなのでございますか?」


「あぁ、好きだな」


 元綱は躊躇なく言った。


「武士と生まれたからには、死ぬまでにせめてあれほどの仕事を成したいものだ」


 尼子経久は、浮浪人という徒手空拳の境涯に落ちながら、わずか数年のうちに月山富田城を回復し、出雲一国を平らげ、さらに昇竜のような勢いで近隣を切り取ろうとしているのである。その奇跡のような英雄譚は、中国地方の武士ならば知らぬ者はない。

 この若者は、一人の武士として、憧憬に似た感情を抱いているらしい。


「お、いかん。明るくなってきたな」


 すでに明け方なのであろう。部屋の中の闇が薄まり始めている。


後朝きぬぎぬの別れ、というヤツだ」


 元綱は立ち上がり、悪戯っぽく笑った。


「まだ別れの涙で貴方さまのお袖を濡らしておりませぬのに・・・・・」


 ゆきの台詞は、『新古今』にある「讃岐さぬき」という女流歌人の和歌を踏まえたものである。「夜はまだ明けていないのに、後朝きぬぎぬの別れには早すぎる」という意味を込めたのだが、男は和歌をたしなむ風流は持ち合わせていなかったらしい。不思議そうに首を傾げ、女を泣かすのは好きじゃないな、と見当外れなことを言った。


「また夜這うとするさ」


 元綱は灯明の火を吹き消すと、軽い身ごなしで部屋から出て行った。

 夜具に、男の匂いが残っている。

 それに包まって、もう一度寝よう――と、ゆきは思った。





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