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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第二章 西の桶狭間
16/62

祭りの後

 多治比元就は、初陣にして安芸の守護 武田元繁を討ち取り、味方に倍する強大な武田軍を撃退してのけた。過程はどうあれ結果としてそれは事実であり、その結果だけを知った毛利の領民たちは、当然ながら驚き、かつ喜んだ。毛利家の領地には非戦闘員だけで三千を越える人々が暮らしている。そこへ凱旋した元就は、雪崩のごとく押し寄せる賛辞と賞賛の美辞麗句の中で、溺れるような数日を過ごすことになったのである。

 しかし、戦勝の酒宴の席にあっても、領民たちの歓呼の声に囲まれても、元就の顔は誇らしげでも嬉しそうでもなかった。常にお愛想ほどの微笑か、あるいは控え目な苦笑を浮かべるのみで、合戦の事はほとんど口にしようとしない。

 ――とても褒められたものではない。

 というのが、元就の偽らざる気持ちだったのである。

 有田の合戦は、結果だけを見れば確かに勝ち戦であり、戦史にも稀な形の大逆転勝利であったわけだが、元就にとっては苦すぎる敗戦の記憶でしかなかった。

 ――あの合戦いくさは大失敗だった。

 元就は、何の策もなく武田の大軍に正面からぶつかり、当然の帰結としてまさに完膚なきまでに叩きのめされたのである。死力を尽くして敢闘し、善戦した毛利の軍兵たちは、実に三人に一人が首のない遺体となって有田の地に倒れ、夫を喪った妻、息子を亡くした母、父親を奪われた子供を、無数に作り出すことになった。すべて、自分の采配の誤りのせいだと元就は思っている。

 ――あの時、もし刑部少輔が突出するような愚を犯さなければ・・・・。

 そのことを考えると、元就は背筋が寒くなる。

 毛利軍が総崩れとなった時、武田元繁が豊富な軍兵を再編して整然と追撃を行っていれば、毛利軍は確実に壊滅していたはずである。毛利方の軍兵たちは散り散りになって吉田まで逃げ帰らざるを得ず、武田軍は一気に毛利の本拠まで雪崩れ込んで来たであろう。吉田の毛利兵はそのほとんどが有田合戦に参加しており、ごくわずかな守備兵を除けばまったく出払っていたわけで、郡山城を守り切ることさえ困難だったに違いない。最悪、毛利はそのまま滅んでいたかもしれないのだ。

 有田城救援のために武田軍と戦うという選択自体は、間違っていなかったと元就は思っている。そのことは信じているが、有田の合戦の戦い方は、一から十まで間違っていた。彼我の戦力差を冷静に見詰めることをせず、中井手の合戦の勝利によって得た「勢い」に安易に乗ってしまったのだ。

 ――騎虎きこの勢い、というヤツだ。

 ひとたび虎の背に乗って駆け出してしまえば、止まることはできない。止まれば虎に食い殺されるわけで、それこそ死ぬまで走り続けるしか選択肢はないのである。その勢いを、元就は「戦機」だと思い込んでしまった。

 ――いや、あのとき私はそう思いたかったのだろう。

 希望的な観測。自分に都合の好い状況判断。唾棄すべき楽観と思考停止。その無様な帰結として、元就は数百人の毛利兵を死なせてしまった。彼らの死が無駄だったとは思わないし、思いたくもないが、元就がより正しい采配を振っていたなら、あれほどの人死にを出すこともなかったはずなのだ。

 ――私が無能であったばかりに・・・・。

 元就は、愚痴屋である。済んでしまったことでもウジウジと思い返し、牛の胃のように思考を反芻はんすうしては後悔し、懊悩おうのうするというような、実に粘性で面倒な性格をしている。もっとも、この男は口数自体がそもそも少ないし、家来の前では毅然とした主人の姿を演じてもいたから、そうと知る者は継母であるお杉とその侍女たちくらいであったが。

 ――あの時、せめて四郎の献策を容れておれば・・・・。

 有田城でも、吉田に帰ってからも、元就は何度も心中で悔やんでいた。

 中井手の南方の小山に陣を敷き、冠川を堀に見立てて防戦に徹していれば、その夜にも吉川本軍が援軍にやって来ていた。決戦するなら、それからにすべきであったのだ。あるいはあくまで守戦に徹し、武田軍に時間を浪費させるという手もあった。たとえ勝敗がつかずとも、雪が落ち始めても有田城を抜けぬとなれば、敵も遠からず撤兵せざるを得なかったであろう。

 物事には必ず裏表があり、禍福は常に紙一重である。もし元就がそのような守勢の戦略を採っていれば、確かに被害をより少なく武田軍を撤兵させることができていたかもしれないが、しかし、そうなれば敵の総大将である武田元繁を討ち取るという奇功もなかったであろう。武田元繁は毛利家にとって当面の最大の敵であり、たとえ敵軍を撃退できたとしても、元繁を生かしておけば来春にも再び攻勢に出て来たに違いないのである。あの男をたった一度の合戦で殺し得たことはまさに僥倖と言うしかなく、勝敗が逆転したことで武田方の多くの武将が命を落とすことになり、結果として武田氏の威勢は大いに衰えた。その意味で、元就は最小の被害で最大の戦果を挙げたとも言えるのだ。

 元就は、政・戦略において徹底した合理主義者だが、一方で熱心な念仏信者でもあり、神仏の導き――超自然的な力の働きや、運命、宿命といったものに対しては真摯な受容力を持っている。自分の采配の誤りに気付きながらも、その誤りによって最大の強敵を除くことができたという現実に、奇妙な不思議さを感じざるを得ない。その不思議さを、人々は元就の「武運」とか「天運」といった言葉で片付け、無邪気に戦勝を喜んでいるわけだが、愚痴屋の元就にすれば――そういうものの存在を心の片隅で確かに感じながらも――外野の声に素直に同調するような気にもなれないのだった。

 ――あんな合戦いくさは、二度としてはならない。

 勝敗は廟算びょうさんにおいて決すべきものであり、合戦は勝つべくして勝つということでなければならないのだ。元就はそれを言葉として、知識として知っていながら、流されるように勝算の立たない決戦に突き進んでしまった。知ってはいても、解ってはいなかったということであろう。

 成功から得るものよりも、失敗から得るものの方が遥かに多い。いずれにしても元就は、この華々しくも無様な初陣によって、実に多くの教訓を得ることになった。

 教訓ということで言えば、終戦後の志道広良の処置が、政略家としての元就にとって大きな教材になった。

 有田合戦が終わり、有田城で休んでいたその夜に、諸将の前で広良はこう言ったのである。


「大内のお屋形に逆らい、国を乱す元凶であったとはいえ、刑部少輔は歴とした安芸の守護でござる。これを私闘によって討ったとなれば、毛利の家に対する幕府の聞こえも悪しかろうと存ずる」


 広良は、幕府の管領代たる大内義興よしおきにただちにこの合戦の報告を行い、大内義興から将軍・足利義稙よしたねへと話を通してもらい、武田元繁を討ち取ったことに対するお墨付きを貰っておくべきだと主張した。将軍から御教書みぎょうしょでも貰えれば、この合戦は毛利氏と武田氏の私闘ではなく、幕府のための忠戦、天下のための義戦であったということになり、名分が立つ。そのことが世に聞こえれば毛利家の(同時に元就の)評判もより高くなるであろう。筋目を尊ぶ謙虚さを示しておくことは、世間に対しては大義を、権力者たちに対しては可愛げを見せることになり、いずれ損はない。

 ――なるほど、そういうものか・・・・。

 元就は未だ二十一歳の若者であり、しかもその身分は多治比の分家に過ぎず、毛利家の当主ですらない。当然ながらその世間は狭く、これまで「天下」を相手にして思考を巡らすというような必要もなかったから、政略家としての広良の視野の広さと老獪さに大いに感ずるところがあった。

 広良が熱弁を振るっている時、元就の弟である元綱は、勝手にやってくれ、とでも言わんばかりに、興のなさそうな顔で大あくびをしていた。

 元綱という男は、合戦に関する話題となれば眼を輝かせ、常に強い入れ込みを見せるのだが、事が政略、政治といった分野になると、途端に関心を失うようなところがある。特に家中の小政治や、内政、雑務といった分野の話題には、ほとんど興味を示さない。

 ――困ったヤツだ。

 その様子を横目で眺め、元就は内心で苦笑した。

 軍事というのはあくまで政治の一部であり、合戦をするためにも様々な根回しや準備という意味で政治が不可欠である。たとえば兵糧や馬糧、武具や矢などが不足を起こさぬよう常に備えておくことも内政の重要な仕事であろうし、あるいは重臣たちの融和を図ったり家中の結束を高めたりといった小政治もなおざりにして良いものではないであろう。戦争は大名家の総合力で戦うのであり、いざ合戦という時に準備ができていなかったり、家中の重臣たちがいがみ合っているようでは、それこそどうにもならないのである。

 そういう点に関する配慮が、元綱には生まれつき欠けているようであった。

 元綱の関心は、戦い、勝つ、というところにしかないように見える。戦場に立ちさえすれば比類ない働きをしてみせるといった強烈な自負はあるものの、それ以外のことに関しては、やや潔癖で一本気な、世慣れぬ若者というに過ぎなかった。元綱が己の領地を持たず、家来を抱えていないこともその一因であろう。元綱は部屋住みの御曹司であり、領地の徴税に心を砕いたり民心の掌握に気を配ったりする必要がなく、家来たちを養ってゆくといったことの気苦労も味わったことがなかった。

 苦労人の元就から見れば、ひとつ年下のこの弟は、「自分の好きなことには熱を入れるが、嫌いなことには見向きもしない」という意味でいかにも貴公子然として、どこか危なっかしい。元綱は確かに優れた戦術家であり、そのことは今度の合戦で元就も実感として知ったが、政治家としてはまだまだ幼く映るのである。元就の本領は戦術よりもむしろ戦略、政略の分野にこそあり、ことに政略家、政治家としての元就は、弟より遥かに精神年齢が高いのだった。


「執権殿の申されること、いかにも道理にも情理にも叶うておる。さっそくそのようにしよう」


 元就は自ら親書をしたため、それを持たせた使者を京へと走らせた。

 この政略は図に当たった。大内義興の取り次ぎによって事態を知った将軍・足利義稙は、上野民部大輔を上使として吉田へ派遣し、元就の功を賞してくれたのである。


「武田の事、国中静謐せいひつのために差し下されしところ、かえって兵乱を企て、下知に背いたにつき、毛利がこれ(武田元繁)を討ち果たしたことは、忠節少なからずと御感ぎょかん遊ばされ――」


 上野民部大輔は上機嫌に将軍の言動を伝え、その御内書を届けてくれた。

 元就たちが家を挙げてこの貴人を饗応したことは言うまでもない。将軍の上使がわざわざ吉田まで下向したという事実が、この合戦の勝利をいっそう意義深いものにした。



 毛利本家の御曹司として、伸びやかに、なに不自由なく育てられた元綱と比べると、元就のこれまでの人生は、より過酷で、悩みの多いものだった。

 五歳の時に母を、さらにその五年後には父を、相次いで亡くした元就は、わずか十歳で多治比の領主となり、猿掛城主になった。無論、十歳の子供に家政が執れるはずがないから、宿老の井上元盛という老人がその後見役となり、一切を取り仕切っていたのだが、この井上元盛が野心を起こし、多治比の領地を横領し、元就を城から追い出すということがあった。元就が十二歳の頃の話で、頼りの兄と主立つ重臣たちは大内義興の上洛戦に従軍して国を空けていたから、この不正をただせる者は誰もいなかったのである。

 この時、孤児同然になった元就を守り育ててくれたのが、死んだ父の側室であったお杉の方だった。お杉は百姓に頭を下げて多治比の片隅に廃屋同然のあばら屋を借り、貧窮に耐えながら女手ひとつで元就を養育した。子を産めなかったお杉は、元就の父が死んだ時点で毛利家との縁は切れており、二十代の若さとその美貌を考えればしかるべき相手と再婚するのが自然であったのだが、この女性は血さえ繋がらない亡夫の継子ままこを懸命に守り、己のすべてを捧げて尽くしたのである。

 家来に裏切られて領主の座を奪われた幼い元就が、それでも過度な人間不信に陥らず、その人格に大きな歪みや圭角けいかくを生じさせずに済んだのは、お杉の方の存在があったればこそであろう。元就のこの不遇期は井上元盛が病死するまでニ年ほど続いたのだが、子供心に乱世の厳しさと人の表裏を痛感させるには十分であった。

 苦難は人を必ず成長させ、その精神を強靭にする。元就の場合、抱いた危機感は武技をることに向かわず、大人に負けぬ知恵を身に付けることに向かった。これは元就の性格というより、元就を庇護したお杉の意向であったろう。元就が武張った評判を立てれば、「やがて虎に育つかもしれぬ」と井上元盛が必ず警戒する。そうなれば、最悪の場合、元就は暗殺される危険さえあった。この哀れな幼童が多治比の領主として復帰するには、兄や重臣たちが京から帰国するのを待つ以外に方策はなく、それまでは井上元盛を刺激せぬように大人しく過ごしているしかなかったのである。こういう知恵の巡らせ方は、子供にできる事ではない。

 お杉の勧めに従って寺に通うことにした元就は、好きだった歌物や王朝物の書物を脇に置き、外典げてん(儒書、史書、兵書など仏典以外の書物)を実に真剣に学ぶようになった。少しでも早く大人になろうと、子供なりに必死だったのである。周囲から文弱と揶揄やゆされるようになったのもその頃だが、幸いにも十四の時に井上元盛が病で頓死し、元盛の横暴を憎んでいた井上一族の人々の尽力もあって、元就は兄の帰国を待つことなく多治比の領主に返り咲くことができた。

 この二年の歳月が、元就の精神に与えた影響というのは計り知れない。

 下克上で主人の領地を横領する家来があれば、血も繋がらぬ孤児のために無償で人生を捧げようとする女もいる。朋輩の悪を見て見ぬ振りして平然としている武士もあれば、幼い領主の悲運に同情して涙を流してくれる百姓もある。元就は子供心に人というものの不思議さをつくづくと考えさせられた。と同時に、己の能を隠すこと――韜晦とうかいすることが、己の身を守ることになるという事を学んだ。忍従を強いられ、命の危険にさらされながら、そのなかにあって人知れず静かに己の爪を研ぎ続けた少年は、人変わりしたように物静かになり、その後は妙に老成した思慮深い青年へと成長を遂げたのである。

 元就は兄の存命中はその影のように振る舞い、家中でもまったく目立たなかった。いざ合戦という時は留守役ばかりを命ぜられていたために戦場に出たことさえなく、当然ながらその名は周囲にほとんど聞こえていなかった。

 それだけに、有田の合戦が近隣の人々に与えた衝撃は、ことさら大きなものとなった。


「多治比の元就とは何者ぞ?」


「あの毛利興元おきもとの舎弟であるらしい」


「武田元繁は五千とも六千ともいう大軍を集めておったそうだ。これを破るほどの男が、これまで名も知られずにおったのか」


「まだ二十歳そこそこの若造だという。しかも此度が初陣であったらしい」


「京にある公方(将軍)さまが、わざわざ毛利に上使を遣わし、戦勝を賞したというぞ」


 噂は風のように四方に飛び、安芸どころか隣国の人々もこの合戦の詳報を知りたがった。

 吉田から二十五里(百キロ)を離れた出雲にも、この話題に耳を傾けている男がいた。


「――ほう・・・・」


 よく陽の当たる小書院である。初老のその男は文机ふづくえの上で墨をっていた手を止め、呟くように言った。


「刑部少輔が死んだか・・・・」


「は。武田は翌日の合戦にも敗れ、有田から兵を退いたよしにございます。武田に従った熊谷元直、香川行景、己斐こい宗端らも討ち死にしたとのこと」


「多治比の元就――か・・・・」


 どこか眠たげな、茫洋とした雰囲気の男とは対照的に、その背後に座した話者は、いかにも切れ者といった印象を人に与える。眉が濃く、彫りが深く、鼻筋も通ったなかなかの美男で、年はまだ二十代半ばといったところであろう。


「何年か前、『鬼吉川』が、元就の嫁を我が家から迎えたいと申してきたことがあったな」


「は。そのように伺うておりますが、私はその頃はまだ家督を継いでおりませず、詳しきご内談にはあずかっておりませぬゆえ――」


「あぁ、そうであったかな」


 男は再び静かに墨を磨り始めた。


「人の世とは思いもかけぬことが起こるものよ。あの刑部少輔を討つほどの男が安芸におろうとはな。元就がそれほどの武将なら、あのとき一族の端の者でも我が養女にして、くれてやれば良かったか・・・・」


「お言葉ではございますが、此度のことは、元就が云々というよりは、刑部少輔が愚かであったと申すほかござりませぬ。総大将ともあろう者が、一騎駆けの葉武者の真似をして討たれるなぞ、笑い話にもなりませぬ。猪はしょせん猪。人並みの知恵がなかったというだけでございましょう」


 墨を磨る手を止めぬまま、男は窘めるような口調で言った。


「わしは京で刑部少輔に逢うたことがあるが、思慮もあり、勇気もある、なかなかの男と見えた。そう悪し様に申すものではない」


「は・・・・」


能登のとよ、お前は人に優れた知恵と才があるが、いささか知恵が鋭すぎ、才が走りすぎるのがたまきずよな。それが若さというものかもしれんが・・・・」


 若さ――

 男は苦笑し、羨ましいことだ、と声に出さずに独語した。

 男はこの年で六十になる。老人と呼ぶには眼光が若々しく、その容貌にも枯れたところはない。体力的にもまだまだ衰えてないつもりだが、髪や髭にはずいぶん白いものが目立つようになった。


「その元就、いくつであったかな」


「確か二十一かと・・・・」


「若いな。ゆくゆくお前のよき敵手になるのではないか?」


 その台詞は男にとっていわば知的会話のあやで、それ以上の意味はなかった。しかし、後々の事を思えば、何やら予言めいた響きがあったと言えなくもない。


「まさか――」


 若者の口調にわずかにわらいが篭った。


「毛利のごとき吹けば飛ぶような小家こやけ、問題にもなりますまい」


「そうかな・・・・」


 男は口元だけでわらったが、その背を見詰める若者からは、表情までは窺い知れなかった。


「生まれたばかりの虎は猫と区別がつかぬが、育てばやがて人の手に負えぬようになるぞ」


「元就とか申す男、虎だと申されますか」


「さて、どうであろうかな・・・・。ただ、誰しも最初はひなから始まるものよ。このわしにしても、今でこそ出雲の国主のような顔をしておるが、お前ほどの年の頃は、国を追われ、城も兵も失い、河原者かわらもの同然の境涯であった」


 この初老の男――名を尼子経久つねひさという。

 出雲の守護代から戦国大名へといち早く脱皮し、近隣を切り取って山陰山陽に巨大な武威を張り、後に「十一州の大守」と仰がれた稀代の英雄である。後世において、北条早雲、斉藤道三と共に、「戦国の世をひらいた男」と評価されている。


「畏れながら、お屋形さまの偉業は、何人なにびとにも真似できぬことでございましょう。比べることさえ無意味かと・・・・」


 男はその迎合には乗らず、興を失ったように話題を変えた。


「石見のことが済めば、次は安芸じゃ。刑部少輔が死んだとなれば、国人一揆の者たちが大内に味方し続けるようでは、少々面倒だな」


 同盟した武田元繁に安芸を取らせ、安芸の大小名を遠隔支配するのがこの男の青写真であったが、元繁が死に、武田氏が大いに衰えてしまったことで、その戦略は大きな変更を強いられることになった。


「元就が猫にせよ虎にせよ、いずれ飼い馴らさねばなるまい・・・・」


 呟いた男の眼が、その一瞬、猛禽もうきんのように鋭くなった。

 若者――亀井 能登守のとのかみ 秀綱は、主人の背に向けてすぐさま叩頭こうとうした。


「さっそく手を打ちまする」


 安芸の国人一揆の衆を大内氏から引き離し、尼子の味方に付ける。それが自分の仕事であると、この明敏な若者は理解した。



 羽田重蔵が可部の高松山城下に入り、熊谷孫次郎の屋敷を訪ねたのは、有田で合戦が行われた日から十日ほど後のことであった。


「重蔵殿! よう無事で・・・・!」


 玄関まで駆け出して来た孫次郎は、顔をくしゃくしゃにして喜び、重蔵の肩を抱くようにして屋敷に招じ入れた。生き残った孫次郎の家来たちも主人と感動を共にし、口々に重蔵の生還を祝ってくれた。

 重蔵は離れに通され、すぐさま酒が運ばれてきた。


「お互い生き残り、こうしてまた酒を酌み交わせて、よかった」


 注いでもらった酒を美味そうに飲みながら、重蔵が言った。


「あぁ、わしがこうして生きておるのは、まったくおぬしのお陰よ」


 この言葉に誇張はない。孫次郎は重蔵を命の恩人であるとさえ思っていた。


「して、おぬしはあれからどうしておったのだ?」


「三十人ばかりの兵に囲まれ――しばらくは斬り防いだものの、どうしようもなかった・・・・」


 重蔵は経緯を短く説明した。


「あの一軍を率いておったのが、例の今義経――毛利の四郎 元綱殿だったのです。わしは四郎殿にくだり、命を助けられた」


「そうであったか・・・・」


 孫次郎の声に落胆と申し訳なさが混じった。

 降る、というのはこの場合、「その相手の奴隷になる」といった意味を含んでいる。相手に生殺与奪の権を認め、命だけは助けてもらう、と考えればいい。それでも重蔵が熊谷家の歴とした武士であったなら、たとえば人質交換などの政治的措置で自由を取り戻す可能性も皆無ではないのだが、雑兵が捕虜になったような場合、それは「人」とは看做されず、下人(奴婢)同様に扱われ、奴隷売買の対象にさえなる。


「では、捕らえられた後、毛利方の目を盗んでのがれおおせたというわけか」


「いや、そうではない」


 重蔵は一息に盃をあおった。


「四郎殿というご仁は、若いながら器量が大きい。わしのことなど眼中にないというだけかもしれんが――『従いたければ従え、逃げたければ逃げよ』なぞと申して、わしは縄を掛けられることさえなかった」


「ほう・・・・」


「合戦が終わって、毛利軍が吉田へ戻るというので、わしは吉田まで従った。そこで四郎殿に断りを入れ、ここへ帰って来たという次第です。ここにはわしの荷物がそのままになっておるし、何よりわしが生きておるという事を、孫次郎殿には報せておきたかったので――」


「なに? すると、おぬしは吉田に戻る気でおるのか?」


「あぁ、明日にも戻るつもりです」


 静かに頷く重蔵に、孫次郎は声を荒げた。


「馬鹿な。せっかく自由の身になったのではないか。その四郎殿か、その仁にしても、おぬしが戻って来るなどとは思うておるまい」


 よほど優しい人柄なのか、単に甘いだけなのかは知らないが、自由にしてやるつもりで重蔵を送り出してくれたと考えるのが自然であろう。わざわざ奴隷になりに戻るなど、馬鹿正直にもほどがある。


「いや、これはわしの心持ちの問題なのです。あの仁からは大きな恩を受けてしまったので。それを返さずにおいては、わしの気が済まんということです。気が済んだら、その時は吉田を離れるつもりですが――」


 事情を理解した孫次郎は、重蔵の律儀さには好意と敬意を感じつつも、なお釈然としない。重蔵ほどの男が下人になるというのがいかにも惜しく、納得できないのである。まして、毛利氏と熊谷氏は敵同士であり、ひとたび合戦となれば、戦場で重蔵と殺し合うことになるかもしれないのだ。

 しかし、人にはそれぞれの生き方があり、それぞれの筋の通し方がある。重蔵がそう決めたというなら、孫次郎にもどうしてやりようもない。

 孫次郎は、あらためて重蔵に頭を下げた。


「わしを援けてくれたがために、上北面の末裔すえたるおぬしほどの男が、あたら下人同然の境涯に落ちた。詫びのしようもない」


「よしてくだされ。わしはもともと浮浪の身、境涯というなら、さほど変わりもしません。それに、あの今義経――四郎殿という仁は、なかなか面白い」


 重蔵はことさら気軽な笑みを浮かべて言った。

 男惚れした、とまでは思わぬが、あの男の下でまた戦をやってみたいという気持ちがないわけでもない。今まで主取りをしたことがなく、人に仕えたことのない重蔵だが、あのような男の家来になるのは侍にとって幸せなのではないか、とさえ思っているのだった。

 重蔵は久しぶりに孫次郎と差し向かいで心ゆくまで語り、かつ呑んだ。話題は自然と、今度の合戦とその後のことが中心になる。


「おぬしも知っておろう、水落源允げんのじょう殿、大坪孫四郎殿、細迫弥七、末田源内、桐原与七朗――家中で武勇を誇った者たちがみな死んだ・・・・」


 いずれもあの御前試合に出て来た勇者たちである。なかでも重蔵と戦った水落 源允 直綱は、熊谷元直の叔父であり、孫次郎とも血縁がある。家中随一の槍仕で、安芸でも名の知られた侍大将であった。熊谷元直と共に彼らを喪ったことはまさに痛恨事と言うしかなく、熊谷家の武威は無残なまでに衰えていた。


「殿のご遺体さえ城にお帰しすることができず、わしは奥方さまにも若君にも合わせる顔がなかったわ」


 孫次郎は自嘲気味に笑った。生き残ってしまった者の悲哀と言うべきであろう。


「その夜のことじゃ。奥方さまが供も連れずに城を抜け、たった一人で中井手に向かわれた。翌日になってそのことを知らされた我らは、驚くやら慌てるやらで、えらい騒ぎであった」


 帰ってきた家来たちから事態を聞かされた熊谷元直の妻は、熊谷の大将ほどの者の遺骸が戦場に放置されていることの無念さと不甲斐なさにいた。居ても立ってもいられず、たった一人で馬を飛ばし、中井手まで出かけたのだという。

 距離的に見て、元直の妻が中井手に着いたのはどんなに早くても翌日の昼以降であろう。元就は有田合戦が完全に終息した後、敵・味方を問わずこの合戦で戦死した者たちを丁重に弔っているのだが、この時はまだ中井手の戦場の遺体はそのまま放置されていた。すでに百姓や土匪どひによって武具や衣服を剥がれた首のない裸体が、二百以上も河原に転がっている風景を想像すればいい。

 元直の妻は、女手ひとつでいちいち遺体を確かめて回り、その中から執念で夫の遺骸を見つけ出した。長年連れ添った夫の身体であり、首がなくともそれと判ったものらしい。しかし、女の非力では、遺体を馬に載せることがどうしてもできなかった。元直の妻は涙を流しながら夫の身体から片腕を切り落とし、その腕を胸に抱いて馬に乗り、高松山へと帰った。熊谷氏の菩提寺である観音寺には「清泉」と呼ばれて現在まで残ってる湧き水の井戸があるのだが、彼女はその水で夫の片腕を洗い清め、熊谷氏累代の墓に入れたのだという。


「そのようなことが・・・・」


 戦国の世にも珍しい美談である。重蔵も思わず感動した。

 ちなみに熊谷元直の妻は、安芸の豪族である香川氏の娘である。香川氏当主の香川行景は熊谷元直とは義理の兄弟で、元直と共に武田元繁の腹心と呼ぶべき男であった。有田の合戦では行景は己斐宗端らと遊軍を形成し、武田元繁が戦死したその翌日、元繁の弔い合戦を期して有田城を攻め、奮戦の末に討ち死にしている。彼女にとって有田の合戦は、夫と兄を同時に死なせた悪夢のような出来事であったに違いないが、家臣たちの前では取り乱すこともなく、高松山城の女城主として気丈に振舞っているのだという。


「武家の妻女のかがみというべきか・・・・」


 あの御前試合の時、殿舎の広縁に座った夫人の凛とした姿を重蔵は思い出していた。


「若君はまだ元服さえ済ませておられぬ。奥方さまが毅然としておってくださることで、我らは救われておるのだ」


 孫次郎は詠嘆するように言った。

 その翌日、重蔵は吉田へ戻った。

 高松山から可部街道を取り、北東へ六里ばかり歩けば吉田である。毛利家の関所は、元綱から貰った「飛脚」を示す印判状を見せることで、往路と同様、銭も取られず難なく抜けることができた。

 元綱の屋敷は、毛利氏の本拠である郡山の西尾根――天神山の山麓の相合あいおうと呼ばれる地にある。

 重蔵がその裏門を潜った時、辺りはすでに火灯し頃であったが、元綱は数人の近侍と共に裏庭にいた。この寒空にもろ肌脱ぎになり、薪を割っている。ずいぶん長い間その作業を続けていたのであろう、身体中から汗が噴き出していた。


「四郎殿」


 近付いて声を掛けると、振り向いた元綱は怪訝な顔をした。


「おぬし――本当に戻って来たのか」


「はい」


 笠を取った重蔵は、慇懃に頭を下げた。


「四郎殿から受けたご恩は、我が命でござる。この命をもって返さねば、我が一代では返し切れぬやもしれませぬが・・・・。借りを返せたと思える日まで、お仕えさせていただきとうござる」


「律儀というか、酔狂な男だな・・・・」


 元綱はやや呆れたように言い、額の汗をぬぐって磊落な笑顔を見せた。


「まぁ、気の済むようにするがいい。だが、俺は部屋住みの身で領地を持たぬゆえ、禄は与えてやれぬぞ。ここに住むというなら飯くらいは食わせてやるがな」


「それにて十分」


 若者の笑顔に釣り込まれたように、重蔵も笑った。





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