有田中井手の合戦(七)
毛利軍と武田軍が激突した主戦場は、有田城の南東――武田軍の本陣がある丘陵の東側であった。南西の方角から有田山に沿うように流れて来た又打川と、南北に流れる冠川に挟まれた地域である。
元綱たちは主戦場からニ町ばかり北方で戦っている。毛利軍が苦戦を重ねる様子は、当然ながらよく見えていた。毛利方は度重なる猛攻で疲弊し切り、開戦時の位置から三町以上も北東に押し込まれ、もはや壊滅寸前である。善戦を続けていた吉川勢も、孤軍になることを恐れてか――あるいは敵の前進に引きずられてか――戦いながら徐々に退き始めていた。
眼前の敵の三度目の攻勢を退け、一息ついて主戦場の様子を確認した元綱のところへ、桂広澄が馬を寄せて来た。
「残念ながら、お味方の負けでござるな」
辺りを憚るような小声である。さすがに歴戦の男で、その表情には焦燥の色が少しも浮いていおらず、ふてぶてしいほど落ち着き払っている。
「我らも、このあたりが潮時かと存ずる」
毛利本軍が総崩れになるのは時間の問題である。元綱たちは敵の一軍を抑え切ったという意味でその役割を十分に果たしたが、このまま対陣を続けていれば敵中に取り残されることになり、退路を断たれて全滅するであろう。その前に、眼前の敵を牽制しつつ整然と退き、敵が追撃してくればこれを叩き、戦っては逃げ、逃げては戦いしながら北東へと移動し、崩れて逃げて来るであろう本軍の退却を援護すべきではないか。
広澄の提案に、元綱は首を振らなかった。丘の上に陣取る敵を悠然と眺めている。
「あの連中も、我らが当然そう動くと考えておるだろうな」
そこで振り向いた元綱は、肩越しに広澄を見て、悪童のように笑った。
「このまま敵の思惑通りに負けてやるのも業腹ではないか?」
広澄はやや不審げに眉を寄せた。
「同じ退くなら敵の本軍を裏から突き破って退き、刑部少輔(武田元繁)に冷や汗をかかせてやるというのはどうだ」
広澄はその意図を即座に察した。毛利本軍を追撃して進む武田軍に、背後から突撃してやろうと言うのである。
元綱たちから見て左前方にいたはずの武田軍は、毛利本軍を押しまくって進むことで今や元綱たちの左やや後方にまで進出している。時計と逆廻りに移動すれば、敵軍の背後に出ることは容易い。たとえ小勢でも、背後を脅かせば敵はうろたえるに違いなく、前進する勢いも一時的には止まるかもしれない。そうなれば毛利本軍が退却するための時間をわずかでも稼げるであろう。
元綱の提案は戦術的にも悪くない。勝ちに驕り、敵を追って走る軍勢は、前方にしか意識がないのである。後ろから襲われることなど考えもしないであろうから、意外に脆く崩れるかもしれない。それより何より、敵の大将を慌てさせ、その心胆を寒からしめてやるのは、痛快ではないか。負け戦には違いないが、敵に一矢報いたことにはなろう。
ただひとつ、丘の上の敵が追撃して来る恐れがあり、それだけが心配であったが、後ろに退いたところで追撃されるという事に変わりはない。武田の本軍をも引き受けて毛利軍の退却を援護するとなれば、全滅覚悟の死戦になるのは間違いないであろう。そう考えれば、乱戦の主戦場に飛び込んでしまうというのは、むしろ一案であるかもしれない。敵軍を引っ掻き回し、混乱させることができれば、その先、戦がどう転ぶかは判らないのである。
広澄は不敵に笑った。
どうせ負け戦であれば――
「面白い・・・・。やりますか」
「決まりだな」
元綱は二百数十人の麾下の兵を素早くまとめ、
「これより敵中を突破して退く! 生きて吉田に帰りたいと思う者は、いちいち敵に構うな! 俺に続いてただひたすらに駆けよ!」
と短く訓示した。
「では、往くか」
元綱は広澄に言い、手綱を動かした。その声と表情には少しも悲壮なところがなく、それどころか遠乗りにでも出るような気安さがあり、周囲の武者たちに奇妙なまでの安心感を与えた。この大将に従ってさえいれば、つまらぬ討ち死にをすることだけはないであろう。少なくとも元綱の近侍たちはそう信じていた。
元綱隊は、丘の上へと攻め懸かって行くかのように静々と前進して見せ、不意に敵前で左に転進した。元綱を先頭に、杉なりになって猛然と走り出したのである。
この元綱隊の動きは、丘の上にいる武田方の諸将を驚かせた。
逃げるつもりならば背後――北東へと駆けるはずであるのに、敵軍はなんと南方に向けて駆け出したのである。その先にあるのは三千以上の武田の武者たちが乱戦を演じている修羅場であり、三百にも満たないあんな小勢でそこに突っ込んでゆけば、たちまち磨り潰されるのがオチであろう。
己斐宗端、香川行景、福島信方といった将たちは、元綱隊が退けばもちろん追撃するつもりであった。しかし、敵の動きが予想外のものであっただけに、これからどうすべきか協議せざるを得なくなった。
そもそもこの一軍は、主戦場で武田軍と毛利軍がぶつかるのを待って、毛利軍の側背を衝くという作戦意図をもって編成された部隊である。しかし、主戦場の毛利軍はすでに壊滅寸前であり、ほとんど軍勢の体さえ成していない。今さら横撃もないであろう。そこまでは諸将も一致しているのだが、その先の意見は割れた。
大将格である己斐宗端は、この際元綱隊は無視して北東へ進出し、毛利軍の背後に陣を敷いてその退路を断つべきだと主張した。毛利の軍兵たちが吉田へ逃げるには、いったん中井手まで北上するしかないわけで、戦場の北方を封鎖されたと知れば、粘っている連中もさすがに腰が砕けるであろう。勝利への決定打になるのは間違いない。宗端の判断は戦術的に極めて妥当であり、もし実行されていれば毛利軍は全滅していたかもしれない。
他の二将は、眼前の敵――つまり元綱隊を追撃すべきであると主張して譲らなかった。毛利軍と主戦場で戦い、苦労して敵をあそこまで追い崩したのは武田家の諸将の功績なのである。当初の作戦通り敵軍を横撃していたならともかく、主戦場で一切働かなかった自分たちが今さらその首を獲りに走るのは、彼らから手柄という果実を横取りするような匂いがあり、気が進まなかったのであろう。これは将としての戦術的思考ではなく、外様の豪族としての政治的配慮であった。
格に上下のない外様衆によって編成された部隊の悲しさで、大将格の己斐宗端にしても諸将に対して強い指揮権があるわけではない。自説が通らぬことに腹を立てた宗端は、やむを得ず、武田元繁の元へと急使を走らせ、敵の背後に軍を回すことの裁可を求めた。諸将を思い通りに動かすには、総大将から命令を発してもらうしかない。
宗端は合戦巧者として知られた男であるだけに、敵を全滅させ得る好機をむざむざ逃してしまうことの馬鹿馬鹿しさに、嘆息せずにはおれなかった。急使が帰って来る頃には戦場の様子は必ず変わっている。あるいは退路を断つ前に毛利軍が壊走してしまっているかもしれない。機に臨んで変に応ずべき戦場において、総大将の指示をいちいち仰がねば動けないというほど愚劣なことはないのである。
余談ながら、己斐氏は先年まで武田氏とは敵対関係にあり、宗端自身、武田元繁に従属してはいても心服しているわけではなく、その利益のために身を捨てて尽くすというような殊勝さは持ち合わせていなかった。眼前の風景は武田軍の揺るぎない大勝利を示しており、その気分的な余裕と、「手伝い戦」という気安さが、宗端から必死さと果断さを失わせたと言えなくもない。
いずれにしても、遊軍として重要な役割を果たすべきこの一軍は、主戦場からニ町ばかり離れた丘の上に陣取ったまま動きを止めた。壊滅寸前の毛利軍にとって、この事はまったくの僥倖であったと言うしかない。
ところで――
その頃、羽田重蔵は、毛利家の雑兵たちに混じって元綱の後ろを駆けていた。
――妙なことになった。
我ながらおかしな気分だが、重蔵にすれば他に選択肢がなかったのである。
熊谷軍が壊滅し、孫次郎ともはぐれてしまった以上、熊谷家の家来ですらない重蔵は、戦場にいるべき法的な根拠を失ったに等しかった。これは、敵の毛利軍からだけでなく、下手をすれば味方の武田軍の武者からも首を狙われるということであり、まったく危険この上ない状態なのである。歴とした武士は別としても、雑兵たちにはほとんど倫理観などはないから、たとえば味方を背後から殺してその首を獲り、褒美に与ろうとするような悪例も実際には無数に行われていた。味方を討つのはもちろん重罪だが、それが確かに味方だったと証明されなければ罪は発生しない。その点、浪人者の重蔵は安芸に地縁もなく、知り合いもおらず、身分を証明するすべもない。「敵の雑兵首」として格好の標的になり得るのだ。
こうなってしまった以上、さっさと戦場を離れて逃げれば良いと考えるのは、この時代の戦場を知らない素人であろう。たった一人で戦場から離脱し、右も左も判らない山野に紛れ込むなどというのは、まさに自殺行為なのである。
ひとたび合戦が始まれば、戦場の周囲には多くの土匪(賊)や百姓たちが、どこからともなく群がり集まって来る。彼らは少人数の落ち武者を見つければ多数を恃んで襲撃し、その首を戦勝軍の陣に届けて勝利のおこぼれに与り、哀れな犠牲者たちの武具や身包みを剥いでは己の懐を温めるのだ。合戦のたびに略奪などによって迷惑を蒙る地元の住民たちにすれば、その程度の副収入はいわば当然の権利であり、これを獲るチャンスを虎視眈々と狙っているのである。
その意味で、戦場とその周辺は、まさに異界であった。平時は純朴で親切ですらある百姓たちが、手に手に錆び槍や竹槍を握り、徒党を組んで襲い掛かって来る。地元の山野を知り尽くす土匪が神出鬼没し、逃げても逃げても襲われ続ける。そういった恐怖を、京周辺の数々の戦場で重蔵は何度も味わっている。
結局のところ、戦場では軍勢の中に混じっているのがもっとも安全なのである。そして、重蔵が混じり込むことができる軍勢と言えば、現在のところ元綱の隊しかなかった。
「俺に従いたければ従えばよく、逃散したくばすればよい」
という大将の有り難いお言葉を頂戴しているのである。生き延びるためなら、利用できるものは何でも利用すべきであり、重蔵はその事に躊躇いはなかった。
重蔵は、袖に付けていた熊谷家の合印をむしり取り、雑兵の一人から毛利家の合印をわけて貰い、それを袖に付けて元綱隊に従った。
今朝ほどまで毛利の武者と戦っていた自分が、今は武田の武者と槍を合わせている。こういう無節操な転身はさすがに重蔵も初めてであり、奇妙な感慨を抱かざるを得なかったが、しかし、倫理的な罪悪感とは無縁であった。
重蔵は孫次郎との個人的な友誼をもって熊谷軍に――というよりは孫次郎個人に――協力しただけであり、命を張って孫次郎を援けたことで、これまで受けた寝食の恩には十分酬いたつもりでいる。武田元繁から恩を受けた覚えはないから、仰ぐ旗を換えたところで寝返ったというような後ろ暗い気持ちはなかったし、むしろ、
――命を助けてもらった恩を返さねばならぬ。
という想いの方が強い。元綱のために働くことに、重蔵の裡で違和感はなかった。
ただ、孫次郎たちがそのまま可部へ帰らず、武田軍に合流を果たしたとすれば、重蔵が毛利軍の合印を付けて戦場にある以上、敵として彼らに出会ってしまう可能性がある。そんな偶然はまず起こらないであろうが、毛利軍の雑兵として戦う重蔵をもし孫次郎が見たとすれば、重蔵がもともと毛利方の諜者で、熊谷家の内情を探るために自分を騙していたのだと誤解するに違いない。その点だけが不安と言えば不安であったが――
実際のところ、重蔵に不安などを感じているヒマはなかった。わずか三百ほどの寡兵で、倍以上の敵と戦わなねばならなかったからである。重蔵は、生き延びるためにそれこそ必死で働いていた。
重蔵から見て、元綱の戦闘指揮は惚れ惚れするほど見事だった。敵との距離の取り方や攻守の切り替えのタイミングが絶妙で、決して無理をせず敵の勢いを上手にいなし、味方の損傷を少なく抑えるよう配慮しながら、倍以上の敵を相手に互角に渡り合っている。
――これが今義経の采配か。
これほどの駆け引き上手にはめったにお目にかかれないであろう。あの若さでは実戦経験をそれほど積んだとも思えないから、やはり天与の才があるのかもしれない。重蔵は感心したが、傍観者のように感心してばかりもいられなかった。元綱隊の善戦も虚しく、主戦場では毛利軍が押されまくり、削り取られるようにその人数を減らし、ついには敗勢が濃厚になってきたのである。
――そろそろ退き時か。
と思っていると、大将の元綱は、なんと武田軍の武者で溢れる主戦場を突っ切って退くという。これにはさすがの重蔵も仰天させられた。
「敵に構うな! 一散に駆け抜けよ!」
物頭たちが、大将の指示を叫びながら駆ける。
左手に進路を取った元綱隊は、自然の曲線を描きながら武田軍の背後に回り、そのままの勢いで乱戦の中に突っ込んだ。
主戦場にいる武田軍は人数で言えば三千近かったが、部隊として機能しているのは武田元繁が率いる本軍と、吉川勢と戦い続けている八百ほどの部隊くらいのもので、四散した一陣、ニ陣の武者たちは、本軍と一手になっているか、その後を追って走っているか、出遭った敵と自侭に戦っているか、あるいは激戦の合間に息をついて休んでいるか――いずれにしても後方からの襲撃に備えていたような者は皆無であった。彼らは不意に背後に出現した敵部隊を見て、仰天したであろう。
元綱隊から見れば武田軍は十倍以上の大軍だが、元綱たちが小勢であるだけに実際にこれと槍を合わせられるのはそのごく一部でしかなく、しかも同士討ちになる恐れがあるから弓矢も使いにくい。味方の壁が邪魔をして、ほとんどの者が敵を眺めていることしかできなかった。前線で戦っている兵たちは、後方で何が起こっているかさえ判っていなかったであろう。何より元綱隊の動きが疾風のように素早いために、武者たちは将も雑兵もとっさにはこれに対応できず、ひたすら狼狽し、右往左往するのみであった。
「裏切りじゃ! 笠間刑部が裏切ったぞ!」
元綱は近侍に命じて、そう連呼させた。戦場では、敵を惑わすためにこの手の虚言を弄することは別に珍しくない。小さな混乱が波のように広がり、慌てた者たちはその虚言を真実だと思い込み、同士討ちを始める者まで出た。特に前線の者たちは後方の様子が判らないから、後方で起こった混乱が味方の裏切りのせいであると信じ込む者も少なくなかった。後日、この噂を伝え聞いた厳島神社の棚守(上級神職)が、そのことを事実として後世に書き残している。
ちなみに笠間刑部というのは山県郡に根を張る国人領主――つまり半独立の小豪族で、その妻は『鬼吉川』――吉川経基の娘であった。現在は武田氏に臣従しているものの、そもそも吉川氏との繋がりが深い人物だから、その意味で元綱の人選は慧眼であったと言える。
元綱は自ら槍を振るい、雑兵は馬で蹴散らし、騎馬武者は槍で馬から叩き落しながら、ほとんど一直線に戦場を駆け抜けた。麾下の武者たちは、その速度に遅れまいと必死になって走るしかない。武田方にはこの突撃を組織だって受け止めようとする部隊がなく、元綱たちは、たまたまその進路にあった数十人の敵の塊を三つ、四つと蹴散らし、四散させ、足を止めずに戦場の南東まで四町ばかりを突き抜けた。
そのまま東へ駆けて冠川を渡河すれば、山に紛れ入って逃げることもできたであろう。しかし、元綱はそこで馬首を返して北進し、遅れて退却しつつある吉川勢と戦っていた武田方の部隊に背後から突っ込んだ。
この武田方の部隊も、後ろから敵が突撃して来るなどとは思ってもいない。たちまち後陣が崩れて中央に穴が開き、その崩れが前線の兵たちを驚愕させた。
吉川勢を率いる宮庄経友は合戦巧者である。突然の敵の崩れに驚きつつも、この機を逃さない。
「敵が乱れたぞ! 懸かれ懸かれ!」
疲弊し切った軍兵たちを鋭く叱咤し、退く足を止めて敵に逆撃を掛けた。前後から挟撃される形になった武田軍は大きく左右に崩れ、元綱隊は敵軍を中央突破し、吉川勢と合流を果たしたのである。
「おぉ、相合殿でござったか!」
吉川勢も討ち減らされて三百ほどにまで減っていたが、元綱隊と一手になれば人数は五百を越える。退却するには味方が固まる方が良いに決まっているから、経友は素直に助勢に感謝した。
元綱は、この兵力をもって武田軍の後背をさらに脅かし、毛利本軍の退却を援護するつもりなのであろう。そのことに気付いて、
――いやいや、驚いた。
と、重蔵と似たような感慨を抱いていたのが、副将格の桂広澄である。
元綱の父である弘元は、政略の手腕には優れていたが、とても合戦上手と呼べる器ではなかった。先代である兄の興元もそれは同様で、臆病ではなかったにせよ、彼をして名将と呼ぶ者は誰もいなかった。それらに比べ、元綱は誰に合戦を習うでもなく、二十歳にしてすでに卓越した戦術眼を持っているらしい。それはまさしく天性のものであろう。
――この若殿は合戦の申し子か。
人間の中にはごく稀に、戦場の臭いのようなものを嗅ぐ特殊な嗅覚を持って生まれる者がある。二十数年の戦歴を誇る広澄は経験的にその事を知っており、元綱がまさにそういう人間なのではないかと思わずにはいられなかった。
話を主戦場へと戻し、時間を少しばかり遡る。
多治比元就は、二百ほどの兵力をなんとか掻き集め、まさに最期の突撃を敢行した。
「あれが多治比の元就ぞ! 逃がさず討ち取れ!」
敵将を間近に見た武田元繁は興奮を隠さず、怒鳴るようにそれを命じた。元繁自らが槍を取って戦ったというから、この男はよほど血の気が多かったのだろう。
武田軍は、半刻にも満たぬ戦闘で毛利軍を完全に撃ち砕いた。毛利方の武者たちは数十人が討たれ、生き残った者は命からがら逃げ、まったく総崩れとなった。元就自身も、わずか数騎の武者に守られながら辛うじて虎口を逃がれた。
――負けた・・・・!
刀折れ、矢尽き――とはこの事だ。元就は肚の底からそれを痛感した。昨日、初陣を終えたばかりの元就である。負け戦を経験するのも当然初めてであり、その惨めさに涙が流れた。
元繁の本軍は、元就の軍勢と戦ううちに前へ前へと進み、気付けばほとんど全軍の先頭に立っていた。元繁は猛将と呼ぶべき気質の男であり、戦闘による血の滾りに酔い、それに身を任せていたと言えなくもない。元繁を囲う旗本は今や四百ほどに過ぎないが、彼らは猟犬のようになってそれぞれに逃げた毛利の兵を追った。その頭には勝利の興奮と功名に対する執着しかなかったであろう。
ちょうどその頃に元綱隊が武田軍の後方を掻き乱している。これに驚いた武田方の将たちは背後の敵に備えねばならなくなり、四散した兵をまとめて軍勢を再編することに忙殺された。この事が後続部隊の足を止めさせ、元繁の本軍をさらに孤立させる結果になった。本軍が味方の群れから三町ばかりも突出してしまっていることに元繁は気付いていたが、敵の大将を討ち取ることを優先し、自ら先頭に立って逃げる元就を追った。
「敵に息を継がせるな! なんとしても元就を討ち取れ!」
毛利方はもはや大将を囲うニ十騎ばかりが残っているに過ぎず、ここまで来て敵将を討ち漏らしたのでは、せっかくの大勝利に画竜点睛を欠くことになる。多治比元就は義兄弟の契りを結んだ盟友・熊谷元直の仇であり、この首を獲って元直の墓前に供えねば、かの義弟の無念は晴らせぬであろう。
もし、は無意味だが――
もし己斐宗端らの一軍が毛利軍の背後を封鎖していれば、元就たちは逃げ場を失って全滅したに違いなく、元繁は完全なる勝利を手中にできたはずである。しかし、毛利軍の退路を断つ部隊はなく、元就たちは算を乱して北へ北へと敗走し、元繁たちはそれをひたすらに追った。
元就にとってわずかに救いであったのは、合戦の序盤から中盤にかけて四散した毛利方の兵たちが、吉田へ逃げ帰ることはさすがに憚って、主戦場から七、八町ばかり北方の又打川の川辺あたりで踏みとどまっていたことであろう。時が経つにつれてそれらが十人、ニ十人と増え、元就が逃げて来た頃には数十人にまでなっていた。彼らは戦場を早々と離脱して休んでいただけに疲労が少なく、何よりその箙には数本の矢が射尽くされずに残っていた。
又打川を渡河した元就は、これらの兵を見つけて麾下に加え、やっと百人ばかりの兵力を得た。
――なんとか一矢報いねば・・・・!
このままおめおめ逃げて帰れるか、という想いが、元就に一計を案じさせた。兵たちを土手の背後や左右の木陰などに隠して弓矢を構えさせ、自らは八騎の武者と二十人ばかりの雑兵を従え、河原の土手に馬を立てたのである。大将である自分を囮にし、突出した敵の先頭集団に痛撃を与えてやるつもりであった。
これを見つけた武田方の武者たちがニ百人ばかり、猛然と川を渡り始めた。
驚いたことに――というか、むしろ呆れたことに――そのほとんど先頭に、敵の総大将である武田元繁の姿がある。
「あれ! 射落とせ! 者ども!」
元就は思わず太刀を振って叫び、自らも元繁目指して馬を駆けさせた。
数十本の矢が鋭い風切り音をあげ、武田方の先頭集団に襲い掛かった。そのうちの一矢が、元繁の鎧の胸板を深々と貫き、この猛牛のような男を馬から転落させた。
元就は、この瞬間から数秒間のことは、ほとんど覚えていない。周囲のことはまったく目に入らず、ただただ倒れた敵将に殺到しようと必死だった。
元就の麾下にあった井上光政という男が、誰よりも早かった。うめき声をあげて起き上がろうとする元繁に飛びかかり、ほとんど同時に喉元に鎧通しを突き込み、噴き上がる血潮を浴びながら手早くその首を掻いた。太刀の切っ先に首を刺し、天に高々と掲げて叫びをあげる。
「日ごろ、鬼神のごとく恐れし武田殿をば、井上左衛門尉が討ち取ったりぃ!」
両軍の武者たちが、一瞬、動きを止めた。叫びの意味を理解すると、毛利方の武者たちは狂喜し、武田方の武者たちは呆然と立ち竦んだ。
百人ばかりの毛利方の武者が、喉を嗄らして声をあげ、箙を乱打し、勝ち鬨をどっと作った。その音が周囲の味方を呼び集め、どこに隠れていたものか、毛利方の敗残兵が喜色を浮かべて続々と駆けつけて来た。その数が瞬く間に三百人にもなったというから、戦場というのは不思議な場所である。
武田方の武者たちにしても、いつまでも茫然自失しているわけにはいかない。ある者は主人の弔い合戦とばかり怒り狂って毛利軍に駆け入り、ある者は命あっての物種とばかり後ろも見ずに逃げ出した。いずれにしても、指揮すべき大将を失った武田軍の旗本たちは、まったくの大混乱に陥ったと言っていい。
元繁の本軍を追って、千人以上の武田方の軍兵が北へと進んでいた。彼らは、算を乱して逃げて来る味方の武者たちに仰天せざるを得ない。
総大将のまさかの討ち死にを聞かされた一条、板垣、内藤、青木といった武将たちは激憤し、悲怒の声を撒き散らした。すぐさま弔い合戦を決意したが、いかんせん総大将の死に武田方の兵たちは動転し、その士気がまったく瓦解してしまっている。雑兵たちは浮き足立って我先に逃亡し、兵が逃げれば将も逃げざるを得ないといった有様で、軍勢を組織だって運用できる状態ではなくなってしまった。
それでも元繁に忠節を誓っていた武田家の家来たちは、悲憤と怒りに任せて敵に突進して行ったが、これは自殺するようなものであったろう。彼らは又打川の河原に累々と骸を並べ、先に黄泉路に旅立った主人の供をすることになった。
己斐宗端、香川行景、福島信方らの一軍は、丘の上に陣取ったまま急使の帰りを待っていたが、北方に押し進んで行った武田軍の武者たちが壊乱し始める様を遠望して、やはり仰天した。
ほどなく、逃げて来た味方の兵たちが、彼らに凶報をもたらした。
「お屋形が討ち死になされただと・・・・!?」
にわかには信じられない話である。
しかし、戦況の激変にうろたえた雑兵たちが、逃げ遅れては死ぬとばかりに逃散を始め、七百以上いたはずの軍兵が、わずかの間に二百を切るまでに減少してしまった。歴とした武士はさすがに逃げはしなかったが、雑兵はほとんど踏み止まれない。こうなってしまえば、もはや弔い合戦どころの騒ぎではなく、将たちも逃げるしか選択肢がなかった。
一方、元綱が元繁戦死の事実を知ったのは、それよりわずかに後である。
元綱たちは、武田軍の背後を脅かすために吉川勢と共に北を指して進んだ。しかし、武田軍にも眼の利く武将はおり、一陣を率いていた辺坂道海入道、毛木民部大輔らが四散した兵を再編し、数百の一軍を作って元綱たちの進撃を防ぎ止めていた。
武田方にすれば、すでに勝利は確定的な状況である。毛利本軍を壊滅させ、敵の大将を討ち取るまで、ほんのしばらく元綱たちを抑えればいい。辺坂、毛木らは無理押しをせず、ゆるやかに退きながら防戦を続けていた。
吉川勢はもとより、元綱隊の兵たちにも連戦の疲れが色濃く、その槍に鋭さを欠いている。さすがの元綱も正面からの戦いでは守戦に徹する敵軍を崩しきれず、武田の本軍を追うことができなかった。
――このままではまずい。
と元綱が焦りを深めているところに、北方から武田方の武者たちが数百人、無秩序にどっと雪崩れ込んで来たのである。
「お屋形さまが討たれなさった!」
「合戦は負けじゃ! 早う逃げよ! 皆殺しにされるぞ!」
などと彼らは口々に叫んでいる。戦場は騒然となり、武田方は大混乱を起こした。
――そんなことがあり得るのか・・・・!?
元綱もさすがに信じられぬ想いで、傍にいた桂広澄と顔を見合わせた。
倍以上の敵を相手に負けに負けを重ね、ついには壊滅して総崩れを起こしながら、敗走の途中で敵の総大将を討ち取り、一瞬で勝敗が逆転するなどという合戦は、お伽噺にも聞いたことがない。実際にそれが起こったとすれば、奇跡と呼ぶしかないではないか。
が、敵の崩れが事態の本質を如実に表している。たとえそれが虚報であったにしても、この機は最大限に生かさねばならぬであろう。
「押せ! 押せ! 敵は崩れるぞ!」
元綱は大声で兵たちを嗾けた。喜色を取り戻した兵たちは疲労を忘れたように攻勢に転じ、うろたえた敵を突き崩した。
元綱は四散して逃げる敵を追わせず、吉川勢と共に北方へと駆けた。又打川から二町ばかり南で、崩れる武田軍を追って南下して来た元就の本軍と行き会い、これに合流を果たした。
総勢二千を越えるほどであった毛利・吉川連合軍は、今や八百ほどにまで減少している。どの将もその兵の大半を失っている中で、二百人以上が脱落せずに残っている元綱隊は、むしろ異常であったかもしれない。
元綱が見た兄の顔は、奇跡の逆転勝利を挙げた戦勝軍の大将のものではなく、疲労感がたっぷりでまったく精彩を欠き、悪く言えば――ほとんど茫然としていた。
「刑部少輔を討ったというのはまことか!?」
噛み付くような元綱の声に、傍らにいた井上光政が武田元繁の首級を高々と掲げ、我が功を誇った。その首が本物であるかどうか元綱には判断がつかなかったが、いずれにしても、この男の手柄話を聞いてやっているヒマはない。
元綱は無理やり気持ちを切り替え、強い口調で言った。
「細々とした話は後じゃ。大将を討ったとはいえ、敵の人数は我らより遥かに多い。弔い合戦を期して、奴らがいつ攻め返して来ぬとも限らぬぞ。逃げる敵を追うより、まずは味方をまとめ、有田城に入って備えを整えよう。毛利の旗が城頭に立てば、逃げ散った者たちも集まり始めよう」
せっかくの奇跡を無駄にしてはならない。この戦勝を勝利と確定づける作業を怠れば、敵に再び勝敗をひっくり返されぬとも限らないのである。そうでなくとも味方はその大半が四散し、残っている者たちも疲弊し切っている。そして、逃げ去ったとはいえ敵には味方の倍以上の兵力がある。ともかくも有田城へ入り、防戦の態勢を整えることが絶対の急務であった。
「あぁ、お前の言う通りだな・・・・」
元就は疲れ切った顔で応え、傍にいた宿老の井上元兼、渡辺勝などに兵をまとめるよう命じた。
元綱たちが有田城へ入ったのは、未の下刻(午後三時)あたりであったろう。有田城を抑えるための武田方の部隊はすでに遁走しており、志道広良と城将の小田信忠が城門で毛利・吉川連合軍を迎えてくれた。
元就は深追いを禁じて味方の武者たちを呼び戻し、敵の夜襲に備えて用心を怠らぬよう諸将に厳命した。有田城はその夜、無数の篝火によって明々と照らし出され、闇に浮かび上がることになった。
吉川元経に率いられた千余の吉川本軍が有田に現れたのは、夕陽が西の山並みに沈みこんだ直後であった。援軍の来着に、城内の士気はにわかに騰がった。
「これは驚いた。すでに刑部少輔を討ち取り、武田軍を総崩れにしたてか」
と声を上げたのは、なんと吉川経基翁である。九十歳になんなんとする老体を鎧で包み、しっかりとした足取りで城山を登って来たその姿を見たとき、元綱はほとんど唖然とした。
「驚いたのはこちらの方です。ご老体おん自らがご出馬とは・・・・・」
元綱の声に、
「なに、合戦はこの年寄りのただひとつの道楽でな。馬に乗れぬようになるまでは芝居(戦場)に立つつもりじゃよ」
経基翁は血色の良い顔で呵呵大笑した。
この祖父の元気さには義兄である吉川元経もやや閉口しているようで、
「爺さまはわしより長生きしそうだろう?」
と苦笑を隠さなかった。
吉川元経は、元就や毛利方の重臣たちにあらためて丁重に挨拶し、遅参を詫び、有田城救援の労を謝した。
その夜、壬生あたりの百姓たちが、武田方の落ち武者の首を多数獲って有田城へ進上にやって来た。勝ったからこその風景であり、もし毛利軍が敗れていれば、百姓たちは毛利方の敗残兵の首を刈り取って武田軍へと届けていたであろう。
討ち取った敵の首の点検は、夜から翌日の昼まで掛かった。その数、なんと七百八十余である。毛利・吉川連合軍の方は、行方不明の者が多くその数がはっきりしないが、死者は六百人ばかりと推測された。
物見の報告では、逃げた武田軍は後方基地と呼ぶべき今田城に兵を集結させているという。武田元繁が死んだとはいえ、武田軍にはまだ名だたる武将や屈強な武者が多く残っているはずであり、これが弔い合戦に来るのではないかと懸念された。事実、武田軍の一部が翌日になって有田城へ押し寄せて来たのだが、無傷の吉川本軍が主力となってこれを痛烈に破り、己斐宗端、香川行景らを敗死させた。両軍の士気と勢いの違いが如実に現れたと言うべきであろう。
その翌々日、武田軍はついに今田城からも兵を退き、南方へと退却していった。
ともあれ、元綱や元就にとっての長い一日は、こうしてようやく終わったのである。
有田中井手の合戦は、後に中国地方の覇者となった毛利元就の初陣として歴史に名高い。多治比の分家に過ぎぬ身分で寡兵の毛利軍を率い、安芸守護であった武田元繁の強大な軍勢を打ち破り、総大将の元繁まで討ち取ったのである。それまでまったく無名だった元就の名は、この一戦で近隣に雷鳴のように鳴り響いた。彼の飛躍の端緒となった記念碑的合戦と言っていい。
この合戦は、彼我に圧倒的な兵力差がありながら、一戦のもとに敵の総大将を討ち取ったというその類似性から、後の織田信長の「桶狭間の合戦」に比され、後世、「西の桶狭間」などと呼ばれるようになる。