有田中井手の合戦(六)
安芸・武田氏は、八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光から発する甲斐源氏の名門である。かの武田信玄と同族と言えば解りやすいかもしれない。
武田氏の本貫地は甲斐であるが、安芸と若狭にも守護代を置いて統治していたことが知られ、安芸・武田氏は「承久の乱」の後に武田信光が安芸の守護に補任されたのが初代であるという。守護職は武田氏が一貫して継いで来たわけではないが、三百年近い期間、安芸において勢力を培っていたことは間違いない。佐東郡の銀山城に拠り、近隣の国人たちを家臣化し、荘園・国衙領を押領するなどして力を蓄え、安芸中央部に根強い勢力を保持していた。
その武田氏の現当主である武田元繁は、陽によく焼けた肌と黒々とした立派な顎鬚を持っている。中背だが肉厚な体躯は雄偉で、すでに五十代の半ばだが、年齢による衰えをまったく感じさせない精力漢である。この男が「刑部少輔」を私称していたのは、先祖である新羅三郎義光が、その晩年、刑部少輔の官職を得たと伝わるからであろう。
武田氏は、隣国・周防の大勢力である大内氏とは厳島神領家の帰属を巡って長く対立関係にあった。厳島は広島湾の海上交通の要であり、その対岸の廿日市の町と合わせて交易の一大拠点である。厳島神領家を従属させることは巨大な交易利権を得ることと同義であり、武田氏と大内氏はそれを奪い合っていたと言っていい。両者は元繁の代で和解し、元繁は大内義興の上洛戦にも兵を率いて協力していたのだが、しかし――やはり厳島の社領が欲しかったのであろう――厳島神領家の家督相続争いが起こるや、元繁は京から国許に戻って大内氏から離反し、神領家の内訌に介入して勢力を伸ばし、さらに出雲の強豪・尼子氏と結んで反大内の立場を明確にした。
これに驚いた大内義興が、毛利氏、吉川氏、小早川氏といった安芸の国人領主たちに武田氏討伐を命じた、というのは先述した。京から帰国した毛利興元、吉川元経らは九家の豪族を糾合して国人一揆を成立させ、強大な武田氏に対抗したのである。
毛利興元はその人柄を大内義興から愛され、厚い信頼を受けていた。まだ年若い興元が国人一揆勢力の盟主的な存在となれたのは、大内義興の後ろ盾によるところが大きかったであろう。武田元繁にすれば、脅威とまでは言わぬとしても目障りな存在であったに違いない。
その毛利興元が病死したことが、この永正十四年(1517)の騒乱の契機になった。
毛利・吉川の勢力を叩くべく、大軍を発して北上した武田元繁は、先年奪われた有田城を囲み、熊谷元直に命じて中井手に陣城を築かせた。
中井手の陣の役割は、毛利・吉川軍の出戦を誘うと同時に、有田に陣取る武田本軍への奇襲を不可能にする、というのがその第一である。今回の場合、朝駆けを掛けて来た毛利軍を足止めし、その存在を武田本軍へと伝えた時点で、戦略的意義は十分に果たされたと言っていい。
確かに、中井手に足止めした敵を武田本軍で討つというのが事前の作戦であり、元繁もそのつもりであったのだが、敵の規模や戦況によっては、武田本軍が中井手に駆けつけるまで陣を支え切れぬ場合もあり得る、ということも、元繁は最初から判っていた。その場合、熊谷軍は無理せず陣を捨てて退却し、武田本軍に合流すれば良く、熊谷元直も当然そうするであろうと元繁は考えていたのである。元繁は熊谷元直という男の気質を理解しているつもりであったが、まさかそこで死戦を演じるなどとは思いもしなかった。
「民部少輔が討ち死にしたと・・・・!?」
その報告を聞いた武田元繁は、だから仰天した。
熊谷元直は武田軍第一の武将であり、元繁にとってもっとも信頼のおける協力者であったと言っていい。その元直が戦死し、精鋭である熊谷軍が壊滅したというのは、まさに痛恨事であった。
中井手の陣に熊谷勢を配したのは、寡兵でも大軍を押さえられる元直の戦術能力と熊谷の兵の強悍さを高く評価していたからだが、元直の我の強さと誇り高さが裏目に出た。あの男は陣を崩されて激怒し、敗走するくらいなら死んだ方がマシと思い切ってしまったのであろう。
――選ぶべき将を間違えた。
と、元繁は悔いざるを得ない。純軍事的に言えば中井手の陣城は落とされたところで痛くも痒くもなく、極言すれば、敵に攻められた時点でそれを捨てたって良かったのである。熊谷元直のような剛勇の男ではなく、臆病なほど慎重な者を配するべきだったのだ。
麾下の主立つ武将を集めた武田元繁は、
「わしが加勢を遅らせたばかりに、あたら兵を討たせてしもうた」
と己の非を認め、
「民部少輔とは義兄弟の契りを結び、同じ死ぬ身ならば一所に死のうと言い交わしたほどの仲であったのに、無念至極である」
と言いながら涙をはらはらと流した。
熊谷氏は武田家の家来ではなく、独立の豪族であるという意味で同盟者と言うに近い。元繁にすれば、これを捨て殺しにしたと諸将に思われるわけにはいかないのである。武田軍に従っている豪族たちが元繁に対して不信感を持ち、
――第一の盟友であった熊谷殿さえ冷然と捨て殺しになさるような大将では、とても恃むに足りぬ。
などと思うようになれば、安芸の守護として立ってゆけなくなるであろう。元繁は剛勇をもって自ら誇りとする男だが、大内義興に面従腹背しつつその信頼を勝ち得たことでも判るように政治家として無能なわけではなく、その程度の政治的配慮はある。
「かの者が死んだ今、わしのみが生き長らえ、命をまっとうしようなどとは露ほども思わぬ。この上は、毛利の奴輩を皆殺しにし、敵の大将を討ち取って、民部少輔への供養にするぞ!」
この台詞には多分の演技が含まれていたが、豪族たちの多くは大将の情の深さに感銘を受け、熊谷元直の弔い合戦に向けて闘志を奮い立たせた。
中井手で快勝を収めた毛利・吉川の連合軍は、有田から退却した別働隊と合流し、軍を再編して有田へ向けて進軍しつつある。すでに朝霧も晴れ、その様子は武田軍の本陣から見通すことができた。その数は、せいぜい二千と少しであろう。熊谷軍が壊滅したとはいえ、五千の武田本軍から見れば敵は半数以下であり、野戦で正面から戦えば負けるはずがない。その自信が武田軍の将兵の士気を高め、緒戦の敗北の悪影響を最小限に留めていた。
元繁はあらためて陣立てを決め、諸将を部署し直し、満を持して全軍を出陣させた。
五百の別働隊を率いた元綱は、多治比元就が指揮する毛利本軍と無事合流を果たした。
中井手の陣は激戦の余韻が未だ覚めやらず、周囲には首のない遺体が二百以上も転がっていた。残敵の掃討を終えた毛利・吉川軍の武者たちは、又打川の流水をすくって喉を潤し、河原や土居に座り込んで疲れを癒し、呻きながら受けた手傷の応急処置をするなど、それぞれに過ごしている。河原には、幔幕を張って矢楯を並べただけの本陣が作られており、そこで武将たちが今後の方策について話し合っているところであった。
元綱は、福原父子、赤川兄弟と共にそれに加わり、未だ動きの見えない武田本軍について報告した。
「お前の策が見事に嵌ったというわけか」
元就が朗らかな笑顔を浮かべて言った。
「いささか期待外れだったがな。まぁ、勝ったから良いようなものだが・・・・」
元綱にすれば苦笑せざるを得ない。
「有田には物見を配ってきた。敵が動き出せば、すぐに報せが入るはずだ」
合戦の詳細を聞きたいところであったが、今はそれどころではないということも元綱は弁えている。軍議を再開するよう促した。
緒戦に大勝利を収め、猛将・熊谷元直を討ち取ったことで、武将たちは妙に鼻息を荒くしていた。
「この勢いにて武田が陣へと押し寄せ、一息に刑部少輔を討ち取るべし!」
「我らが一丸となって命も惜しまず働けば、武田の軍兵とて恐るるに足らんわ!」
などと、やたら積極攻勢を主張する者が多い。穿った見方をすれば、吉川勢に敵の大将首を攫われたことが悔しかったのかもしれない。
これらの声の中であえて自重を唱えているのは、志道広良くらいである。
「民部少輔が首を獲たは、この上なき大勝利でござる。せっかくの大勝を無にしてはなりませぬぞ。徹夜の働きで兵も疲れており、ここはいったん吉田へ帰るが分別というものでござる。武田がこの先も有田から兵を退かぬようなら、また機を見て攻めることもできましょう」
が、元就はこれに頷かない。
「ここで退けば、武田に必ず追い討たれよう。進むも退くも、死なば一緒である。退きつつ戦うより、むしろ進んで戦おう」
諸将の熱気に煽られたわけでもないのだろうが、決戦の決意を変えなかった。
元綱も、武田本軍と戦うという総大将の決定自体に異存はないのだが、このまま有田へ進軍し、敵と正面からまともにぶつかるというのは、いくらなんでも無謀である。毛利・吉川連合軍は二千と少しに過ぎず、この寡兵をもって五千の武田本軍に挑むというなら、大軍が展開できない山間に敵を誘導するなり、防戦に有利な高地にいち早く陣取るなりして、兵数の差を補うような戦い方をすべきであろう。
「あれに見える山に陣を据え、冠川を堀に見立てて敵を迎え撃つのがよい」
中井手から数町南の丘陵を指差して元綱は説いた。
敵軍を冠川の川辺まで引き付け、渡河しようとする敵を矢戦で防ぎ、敵が打ちかかって来れば高所から突き崩し、突き崩しては再び態勢を整え、地の利を生かして時間を稼いでいれば、今夜にも吉川氏の本軍が有田へ出張って来るに違いない。武田軍の本陣は有田城の南の丘陵にあるから、これと前線とは間延びせざるを得ず、しかも大軍を引き付ければ有田城の囲み自体が手薄になる。兵の一部を割いて城衆と呼応させ、城から打って出させ、敵の背後を脅かすような手だって使えるだろう。いずれにしても、守戦の態勢さえ築いておけば、戦術の巧緻を尽くして戦うことができるのである。もし全軍の指揮権を与えてもらえるなら、勝てぬまでも負けない戦をしてみせる自信が元綱にはあった。
が、元綱の進言は容れられなかった。
精強な熊谷軍と死闘を演じた直後の諸将は血の猛りが未だ収まっておらず、戦闘に参加しなかった元綱とはかなりの温度差がある。いわば興奮状態にある彼らからすれば、元綱の作戦案は積極性を欠き、物足りなく思えたのであろう。
「他の敵には目もくれず、刑部少輔の本陣に遮二無二に斬って入り、手詰めにして勝負を決しよう」
大将の元就までが、この時は正々堂々とした正面決戦を望んだ。
――兄者までが逆上せておるのか。
常に思慮深いはずの兄が、血気に逸っているとしか思えぬ言辞を吐くことに、元綱は当惑せざるを得ない。合戦は博打でやるものではなく、勝敗を度外視して戦うなどは愚の骨頂なのである。今朝ほど熊谷軍に起こった地獄絵図が、毛利軍にも起こり得るということを、なぜ想像できないのか――
元就は元綱の進言のすべてを退けたわけではなく、その一部を採用した。
「執権殿は、戦場を迂回して有田城へ向かい、城衆と呼応して敵の背後を衝いてくだされ」
志道広良の一隊・二百を、毛利軍が武田軍と戦っている隙をついて戦場を大回りに迂回させ、有田城の城山に登らせる。広良は城衆と一手になって城から出戦し、武田軍の背後を脅かすのである。重要な作戦ではあるが、決戦に消極的な志道広良を主力から外したとも取れぬことはなく、諸将は元就の決定に異を唱えられなくなった。
元就は続けて全軍の戦立てを決めた。
「先陣は二つの備えをもってする。一軍は四郎を将とし、本家の兵・二百と桂左衛門尉(広澄)を付ける。もう一軍は井上河内(元兼)と福原左近(貞俊)に任せる」
元綱を右翼の将として桂広澄の手勢と合わせて三百ほどの兵を与え、井上党と緒戦で消耗しなかった福原党を合わせて四百ほどを左翼に配置する。これを両先鋒とし、ニ陣は元就自らが率いる主力の五百。後陣には井上資忠に百の兵を預けて予備隊とした。
吉川氏の軍兵・五百数十は、遊軍として自由に働いてもらうことにした。「鬼吉川」の異名を持つ強悍な兵団であり、できればニ陣にでも配して布陣を重厚にしたいところだったが、元就には客将である宮庄経友に対して指揮権がないから、その自由裁量を尊重したのである。
吉川勢を思案の外に置けば、毛利軍の陣立ては、あくまで正統な、正攻法の布陣であった。彼我の戦力にそう差がなければそれも良かろうが、敵には味方の倍以上の兵力がある。
――苦戦は必至だな。
と、元綱は思わざるを得ない。
元綱の不安をよそに、再編を終えた毛利軍は続々と冠川を渡河し、有田へと歩武を揃えて南進して行った。
有田山の山裾を洗うように南西から北東へと又打川が流れている。有田周辺はゆるやかな起伏のある荒野で、放棄された田畑、背の低い藪や雑木林などがわずかにある他は障害物らしきものもない。有田山の南方に武田軍が本陣とする丘陵があり、その東側――又打川と冠川に挟まれた平野が、大軍が大合戦をするのに適した広々とした地勢になっている。
毛利・吉川軍の進出を見た武田軍は、丘陵を下りて北東に向けて陣を敷いた。土地の高低で言えば冠川が流れる東側が低く、丘陵がある西側が高い。毛利軍は低地から敵を見上げ、武田軍は高地から敵を見下ろしていると思えばよく、この点でも毛利軍は不利であった。
――敵の備えは五つ。いや六つか・・・・。
武田軍も先陣が二軍ある。一軍が向かって右に大きく開いて小高い丘に布陣し、一軍が全軍の正面に陣取っている。その後ろに二陣が控え、さらにその後方にひときわ大きい軍勢の三陣が見える。あの三陣が、武田元繁が率いる本軍であろう。本軍の背後には後備えの一軍があるに違いなく、さらに有田城の兵を抑える部隊をも配置しているはずである。
――右手に離れて陣取ったあの連中が曲者だな。
元綱は即座にそのことを見抜いた。数はざっと七、八百ばかりで、その旗印から己斐氏、香川氏、福島氏の兵と知れる。三者ともに武田元繁に従う独立豪族で、熊谷氏と合わせて武田の四天王と言うべき連中である。あの一軍は、戦がたけなわになるのを待って毛利軍の側面を衝こうとするに違いない。そうでなくとも寡兵の毛利軍が、半包囲を受けるような形になれば、敗北は確実である。
兄の元就も同様の観測をしたらしい。
「四郎はあの一軍を抑えてくれ」
使い番がその指示を伝えに来た。
元綱はその命に従い、麾下の兵を右手に向けて進ませた。三百の兵で八百の敵を足止めできれば、本軍の決戦が少しは楽になるであろう。望まぬ形の戦いではあったが、今は武将として最善を尽くすしかない。
陽はすでに高く昇り、時刻は巳の刻(午前十時)に掛かろうとしている。両軍の距離が詰まり、三町ばかりの距離を置いたところで兵たちは足を止め、対峙した。
「民部少輔殿の弔い合戦ぞ! 安芸の守護たるお屋形に従わぬ奸賊どもめ、この矢を受けよ!」
武田軍から鏑矢が射込まれた。
頸弓を誇る井上源三郎が一騎で前に進み出、
「幕府の管領代たる大内のお屋形から安芸の鎮めを命ぜられながら、恥知らずにも帰国するなりお屋形に叛き、私利を追って国を乱し騒がす刑部少輔こそ、公儀に対して不義不忠の至り!」
と叫んでその矢を射返した。
両軍、これを合図に矢戦を開始した。
数百本の矢が空気を切り裂きながら雨のように飛び交い、並べられた矢楯には無数の矢が突き立った。武者たちはその隙間から次々と矢を放ち、不幸にも矢を受けた者は呻き声や断末魔の悲鳴をあげた。
――始まったか。
その様子を馬上から遠望した元綱は、丘の上に陣取る敵軍に視線を戻した。
「始まったようですな」
副将格の桂広澄が、元綱に馬を寄せて来た。
桂広澄は鋭角な顎と苦味走った相貌を持つ四十男で、中背で細身ながらよく鍛えられた鋼のような強靭な体躯を持ち、内面の剛鋭さを表すように眼光が鋭い。これまで数え切れぬほどの武功を積み重ねており、口数は決して多くはないが、十五老臣の中でもその存在感は小さなものではない。もともとこの男は毛利庶家の名門・坂氏の嫡流に生まれたのだが、父の代で分家して桂村に居を構え、桂姓を名乗るようになった。同じ坂一族である坂広秀や志道広良とは従兄弟の関係である。
「我らも始めますか?」
広澄の問いに、
「いや、こちらからは攻めぬ」
元綱は冷静に応じた。
三百の兵で八百の敵の動きを封じておれば、それだけで役割は十分に果たせている。高所に陣取る倍以上の大軍を相手に、寡兵で攻め上ってゆくほど元綱は能天気ではない。
「そのうち焦れた敵が坂を下って来よう。それまでは、桂の者の弓勢を見せつけてやるだけでよい」
「承った」
しばらく矢戦に徹せよ、という元綱の命令が、己の考えと合致していたのであろう。広澄は口元だけで笑い、家来たちに戦闘準備を命じた。
敵から三町ばかりの距離を置いて、元綱の部隊は一重の陣を敷いた。陣頭に矢楯を並べ、あえて敵に近付かず、対陣したまま静観の構えである。
このままでは合戦にならないから、敵軍は矢の届く距離まで坂を下り始め、やがて矢戦が始まった。
桂党には弓の達者が多い。広澄自身が家中でも屈指の弓の名手であり、家来たちをよく鍛えたのであろう。中でも息子の元澄は、まだ十七という若さながら父に優る精兵(弓の名手)と評判が高く、その矢は射るたびに確実に敵を殺傷した。
元気者ばかりが集まっている元綱の近侍たちも、桂党に負けていない。
ちなみに部屋住みの元綱には家来を養うべき領地がなく、元綱個人の家来と言えば、馬の口取りと槍持ちの従者があるのみである。しかし、重臣たちは己の息子や一族の子弟の中から嫡子から遠い三男坊や四男坊を選び、元綱がまだ幼い頃から近侍として十人ばかりを側に付けていた。元綱にすればいずれも共に育った竹馬の友であり、ガキ大将であった昔の子分たちと言い換えてもいい。元綱と性格が合わない者は去り、現在まで残っているのは気心の通じた者ばかりである。その関係は正確には主従ではないが、彼らにとって大将といえば元綱以外に考えられなかったであろう。
矢は射下ろす方が有利であり、低地から敵を見上げる元綱たちは当然ながら不利であった。しかし、射手の勇気と狙撃の正確さにおいては敵兵に優り、倍以上の敵軍を相手に互角の矢戦をして引けを取らなかった。
自軍から攻める気がない元綱はもちろん、敵軍も白兵戦の契機を見出せないまま、飛矢の交換で半刻ばかりが過ぎた。
南方の主戦場では、すでに両軍主力の激突が始まっている。
その様子を見て焦ったのであろう、丘の上で不意に陣太鼓が乱打され、陣貝が鳴り渡り、敵軍の半数ほどが一斉に坂を駆け下り始めた。
「波のように敵をあしらえ! 退いては押し、押しては退け!」
元綱にすれば、合戦の序盤で手持ちの軍勢を疲弊させたくない。たとえ眼前の敵を蹴散らしたところで、戦況全般にはほとんど影響がないのである。主戦場において寡兵の毛利軍は苦戦必至であり、本軍が危機に陥ればこれを援護に向かわねばならないから、できるだけ余力を残して戦いたい。
元綱は、坂を駆け下って来る敵の勢いにあえて逆らわず、自軍をゆるやかに後退させながらその勢いをいなした。鋭鋒に鋭鋒をぶつければ、双方が大きく傷つく。彼我の兵力に大きな差がある以上、消耗戦になれば勝ち目がないということを、元綱は弁えていた。
どれほど大力の者が射た矢でも、推進力を失えばやがて地に落ちるのが道理である。元綱は防戦に徹しつつ三町ばかりも引き退き、敵の勢いが尽き、兵たちが息を入れたその瞬間に、絶妙のタイミングで反撃に転じた。
桂広澄は戦場巧者である。元綱が攻勢に出たのを見るや、それに呼応して麾下の兵を躍進させ、敵の側面に激しく槍を入れた。
潮の流れが変わるように攻守が入れ替わった。
「さすが左衛門尉、馬齢を重ねてはおらんな」
馬上で手綱を操る元綱の頬に、思わず笑みが浮いた。
敵軍には意外に粘りがなく、元綱たちは押しに押し、丘の上へとこれを追い上げた。しかし、深追いするような愚は犯さない。素早く兵を元の位置まで戻し、一息つかせ、一陣とニ陣を入れ替えた敵の再度の攻勢に備えた。
元綱が戦っている己斐氏、香川氏、福島氏というのは武田家の家来ではなく、元繁に従う半独立の豪族たちである。彼らは同じ境遇であった熊谷元直の戦死に少なからぬ衝撃を受けており、その戦意にやや積極性を欠いていた。
――民部少輔のようになっては阿呆らしい。
という想いが彼らにはある。彼我の戦力差は歴然であり、どうせ合戦は勝つに決まっているのである。勝ち戦の中で戦死するほど馬鹿げたことはなく、大事な家来たちを無駄死にさせる気にもなれない。どうせ眼前の敵は、主戦場で毛利の本軍が壊走を始めれば逃げざるを得ないのだ。今のところは無理押しをせず、追撃戦になってから首を稼げば良いではないか・・・・。
将たちのそういう思惑というのは口に出さずとも兵には伝わるもので、彼らの槍から鋭さを失わせ、足腰から粘りを奪った。大将である宗端入道・己斐師道は兵を入れ替えてさらに突撃を繰り返したが、元綱の部隊は大きな損害を受けることもなくこれを押し返した。
この間に、毛利の本軍は武田軍に突き崩され、主戦場は混沌の乱戦になっていた。
毛利本軍と武田本軍の間で戦端が開かれ、矢戦を始めたところまで話を戻す。
飛矢の交換で半刻ばかりが経った頃、武田軍の先陣から大野美修理亮という男がただ一騎で両軍の中央まで進み出た。燃えるような赤具足を付け、兜には赤熊を戴き、真紅の軍配を握っている。その姿は酒に酔った猩々(しょうじょう)のようであったと『陰徳太平記』にある。<*注1>
大野美は、周囲に落ちている毛利軍の矢を芝居がかった仕草で悠々と拾い、
「これしきのしょろしょろ矢は、わざわざ弓で射るまでもない。打矢でたくさんじゃ!」
と大声で嘲った。
この派手な物頭を討ち取って手柄にしようと、毛利方の先陣から数人の雑兵が駆け寄って行ったのだが、大野美はこの足軽たちに拾った矢を手裏剣打ちに投げつけた。矢は見事に二人を射倒し、怯んだ雑兵たちは怪我人を抱えて慌てて引き下がった。
「おのれ、憎き敵の振る舞いよ! 何をしておる、あやつを射取れ!」
先陣の大将である井上元兼は激怒し、弓足軽たちに命じて大野美に矢を集中させたのだが、雨のような飛矢を浴びながら矢は大野美の鎧や兜に当たるだけで、不思議とその身体を傷つけることができなかった。
大野美はからからと大笑し、
「おのれらの射る矢など、それがしの鎧に百筋も射付けたところで、鹿の角に蜂、蛙の面に水よ。効き目なぞありはせぬわ!」
と毛利軍の将兵をさんざんに嘲弄し、味方の陣の中に戻って行った。
武門を「弓矢の家」と表現するように、武士にとって弓矢の腕を馬鹿にされるほどの屈辱はない。毛利軍の武者たちは激怒し、いわばこの挑発に乗って白兵戦に転じた。先陣の井上党・福原党の四百が、弓を槍や薙刀に持ち替え、切っ先を揃えて敵に突っ込んだのである。
武田軍の先陣は、辺坂道海入道、毛木民部大輔、筒瀬左衛門大夫らが率いる武田家の精鋭で、その数は一千。外様の豪族たちでなく、家来で先陣を固めたところに武田元繁の矜持が表れている。毛利軍の先陣は凄まじい勢いでこの敵軍に突っ込み、支えようとする敵兵を切り立て切り立て、ものの半刻ほどで備えの中央を突き崩した。
しかし、武田軍の布陣には十分な厚みがある。ニ陣の一条繁高、板垣繁任、小河内繁継らは少しも動揺せず、先陣の崩れを兵の壁でもって堰き止め、毛利軍の突撃をも防ぎ止めた。
勢いが尽きれば、流れも変わらざるを得ない。崩れた一陣の兵たちが態勢を立て直すと、毛利軍は圧倒的な敵の洪水の中に包囲される形勢になり、たちまち崩された。
それを見た大将の多治比元就は、味方の崩れを支えるために本軍・五百を前進させ、再びその流れを押し返した。
が、敵の一陣は四散せず、崩された中央を埋め、再び毛利軍とがっぷり四つに組み合った。
豊富な兵力を持つ武田元繁は、三百人ほどの弓足軽を八つの組に分け、これらを自軍の右翼――つまり毛利軍の左側に展開させ、藪や雑木林などに埋めておいた。白兵戦が始まるとこれらが群がり立ち、遠矢をもって毛利軍の側面をうるさく脅かし、その出足の勢いを殺ぎに殺いだ。
この厄介な小部隊を駆逐したのは、宮庄経友に率いられた吉川氏の兵団である。吉川勢は戦場を掃除するようにこの弓隊を蹴散らしつつ、主戦場を左側から迂回して武田軍の本陣――つまり元繁が率いる三陣へと直接襲い掛かった。
この横撃が、苦戦する毛利軍をどれほど救ったか判らない。
もし吉川勢にあと五百ほどの兵力があれば――あるいは吉川元経率いる本軍がこの戦場に参戦していれば――武田軍の側面からさらに背後を脅かしていたであろう。武田元繁はその手当てのために大軍を割かざるを得ず、その分、正面の毛利軍に対する兵力が不足したに違いない。武田軍はあるいは防戦一方という展開になっていたかもしれない。
しかし、吉川勢がいかに強悍で、宮庄経友の戦術能力が優れたものであったにしても、わずか五百ほどの兵力では、せいぜい武田軍を苦しめるというところが精一杯である。武田軍は元繁が率いる本軍だけで千五百もの兵力があり、元繁は本軍を二分し、八百ほどの兵を吉川勢の防ぎに回して急場を凌いだ。
元就は、愚直なまでに粘り強く戦った。崩されるたびに数町引き下がり、そこで敗走した味方を掻き集め、兵を纏めて再び突撃する。
「逃げるは卑怯者のすることぞ! 元就はここにある! 我より退いて恥を残すな!」
逃げて来る味方を大声で叱咤し、その崩れを繕い、再編しては突撃を繰り返した。しかし、武田軍は一陣が崩れてもニ陣でそれを支え、ニ陣が崩れかければ三陣がそれを防ぐ。毛利軍はその重厚な壁をどうしても突破できなかった。
ところで、毛利軍が激闘を繰り返している頃、別働隊を率いた志道広良が有田城の抑えのために配された武田方の部隊を背後から痛撃している。
武田方は伴繁清、品川信定が率いる七百ほどの部隊であったが、毛利軍の来援を見た城将・小田信忠が三百の兵を率いて城から出戦したために、武田方は挟撃される形になり、苦戦に陥った。
これを見た武田元繁は、
「もし伴、品川らが打ち負けるようなことになれば、敵は我が後方から押し寄せてゆゆしき大事となろう」
と憂慮し、後備えとして本軍の背後に控えさせていた三百の一軍を有田城へ向かわせたのである。このことによって、武田軍は予備兵力を使い切ることになった。
何度も何度も敗走しながら、それでも毛利軍が全面崩壊に到らず、壊走しては軍を立て直し、盛り返すことができたのは、敵の側面を攻撃している吉川勢のお陰であったと言っていい。武田軍は元繁の本隊を「鬼吉川」の鋭鋒で直撃されており、その防戦に足が止まっているために、前面の毛利軍に対して追撃に厚みと迫力がなく、決定的に突き崩すことができなかったのである。
『陰徳太平記』には、
「割菱の旗と一文字三星の旗が三度入り乱れ、三度離れた」
とある。武田元繁がこの時点で前線に馬を出すはずがなく、大将同士が行き違うほどの接戦、というのはおそらく誇張だが、寡兵の毛利軍はまさに死力を尽くして善戦したと言うべきであろう。
しかし、善戦するということは、この場合、無理に無理を重ねるということでもある。毛利軍は昨夜から徹夜で行軍し、今朝から連戦を続けているのである。入れ替えるべき予備兵力もなく、兵たちはさすがに疲労困憊し、それにつれて死傷者の数は激増した。ことにもっとも過酷な最前線で戦い続ける井上党の損傷は甚大で、すでに十数人の物頭と百人近い雑兵がその首を失っている。
元就は思い通りにならない戦況に激怒し、逃げながら悔し涙さえ浮かべた。井上党の総領である井上元兼が前線から退却して一息入れているのを目ざとく見付け、
「井上の者どもは、日頃の大言壮語をどこへやった! おのれらが持ったる弓に弦が張ってあるのは何のためか! 矢を射る気がないのなら、その弓を踏み折って杖につけ!」
と怒鳴りつけた。「弓を折れ」とは「武士を辞めろ」というほどの重大な意味があり、最大級の罵倒であったと言っていい。
井上元兼はこのとき三十二歳。人に後れを取るくらいなら死んだ方がマシと思うほど自尊心の強い男で、尊大にして不遜なところがある。若い元就の暴言に激怒し、
「戦い疲れ、しばらく休んでおっただけじゃ! 申しておくが、決して命を惜しんで退いたわけではござらぬぞ! もとより我ら一党、挙って身命を投げ打つ覚悟でおり申すわ! 武田が何ほどのことやある! あのような陣ひとつ、切り崩さずにおろうか!」
と怒鳴り返した。
「さぁ、井上の一族の者ども! 武士の死に様を見せるはこの時ぞ! 今こそ一所に集まって討ち死にせよ!」
元兼は大声で叫び、周囲にいた一族の百人ばかりを率いて真っ先に立って敵陣に突っ込んで行った。
この井上党の決死の吶喊で毛利軍は再び勢いを盛り返した。元就は周囲の兵をまとめ、井上党に続いて突撃した。この四度目の攻勢は、兵力としてはわずか四百ほどに過ぎなかったが、武田軍のニ陣を突き破り、その将の一人であった山県備中守を討ち取るほどの威力を見せた。ついに元繁の本軍を剥き身にしたのである。
もともと千五百を数えた元繁の本軍は、吉川勢の横槍によって兵が散り、ニ方面の防戦に振り回され、元繁を囲う兵力自体が五百ほどにまで減っていた。瞬間的には五百 対 四百の戦いになったわけで、元就はそれを勝機と見、ほとんど先頭を切るような勢いで突きかかって行った。武田軍はすでに後備えの予備兵まで失っており、ここで初めて総大将の元繁自身が陣頭に立ったのである。
「毛利の大将は、多治比元就と言ったか。昨日今日戦をし始めたにしては、なかなか頑張るではないか」
元繁は性格的には猛将と言うべき男で、その個人的武勇は鬼神とまで恐れられている。わずか四百ばかりの敵を相手にうろたえるはずもない。むしろ馬上で愉しげに頬を弛ませた。
「長生きをすれば、末は良き武将にもなったかもしれぬが、今日を命日とする不憫さよ」
健気に戦う毛利軍を間近に見つつ、元繁は嘲笑した。
元繁の馬廻りは一騎当千の頸兵揃いであり、しかも今朝からまったく戦いに参加しておらず、鋭気が漲っていた。対する毛利軍は、敵に倒される前に疲労で倒れてしまうのではないかと思うほどに疲弊し切っている。両軍の拮抗状態は当然長くは続かず、武田軍は楽々と毛利方を押し返し始めた。
ひとたび勢いを止められると、周囲は武田の軍兵だらけであり、これが群がり襲って来ることになる。毛利の兵たちは包囲されることを恐れ、見る間に崩れた。毛利軍は哀しいかな兵力に厚みがなく、先頭の一列が崩されるとそれを押し止めることができないのである。
毛利軍はまたもや壊走し、元繁の本軍と、踏み止まった一陣、ニ陣の兵たちがこれを追撃した。
元就が予備隊として後方に配しておいた百人ばかりの兵が、辛うじてこの追撃を食い止めた。お陰で元就はどうにか敵の槍から逃れることができたわけだが、しかし、一息ついた元就は、あらためて絶望感に苛まれざるを得ない。
毛利軍はすでにほとんどの軍兵が四散し、軍勢としての体を成していないのである。ざっと見渡しても、元就を囲んでいる兵は二百人を割り込んでいる。
――もはやこれまでか・・・・。
合戦は、どう見ても負けであった。大将の元就が戦場から逃げずにあるから、兵たちは大将の周囲に辛うじて踏みとどまっているというだけで、誰の目にも勝敗は明らかである。
しかし、それでも元就は逃げることを考えなかった。若さゆえの血気であったと言ってもいい。
「今やこの元就、討ち死にすべき時が来た! あれに見える割菱の旗が、武田元繁の本陣じゃ! この上は、あの旗に向けて遮二無二駆け寄り、元繁と刺し違える! 皆みな、我に続け!」
元就は生き残った兵をまとめ、最期の突撃を試みた。
<*注1>
「赤熊」とは、騾馬の毛を赤く染めて作った兜の飾り。輸入品であるために当時は非情に希少であった。
「猩々」とは、中国の想像上の動物。赤面赤毛で猿に似ているとされ、人の顔と足をもち、人の言葉を解し、酒を好むという。