有田中井手の合戦(五)
二十に近い敵影が指呼の間に迫っていることを知り、重蔵は逃げることを諦めた。ここで敵に背中を見せれば後ろから無数の飛矢を浴びるに違いなく、たちまちのうちに射殺されてしまうであろう。
「兜首が見えたぞ! あれに逃げてゆくわ!」
「鳩の指物は熊谷の武者に間違いないぞ!」
「逃がすな! 余さず討ち取れ!」
敵兵たちが口々に叫んだ。
――どうせ逃げられぬなら、せめて孫次郎殿が遁れる時を稼ぐか。
重蔵はとっさにそう肚をくくった。
ただし、
――ここで敵を一人でも殺せば、わしはなぶり殺しにされる。
ということも心得ている。
逃げられぬ以上、重蔵が生き延びる道はもはやひとつしか残っていない。
「まずはお前からじゃ!」
毛利軍の雑兵が二人、駆け寄る勢いをそのままに重蔵に突きかかって来た。
「待て待て待て!」
迫り来るニ本の槍。重蔵はその一本の穂を引き抜いた太刀で斬り飛ばし、もう一本を脇下に流して柄を掴んだ。相手が慌てて槍を引こうとするタイミングに合わせ、その槍を思いっきり押してやる。相手は勢い良く仰向けにひっくり返った。
槍を奪った重蔵は、すでに太刀を鞘に収めている。横をすり抜けて進もうとした兵の足をかっ払い、さらに向かって来る二人の兵を石突で突き倒した。ほとんど一瞬の早業である。
「待てと申しておるに、判らぬか!」
この凄まじい働きを目の当たりにした武者たちは、さすがに重蔵がただの雑兵でないことに気付いた。剛勇の武人の出現は、戦場の雰囲気を変える。武者たちは目が覚めたように慎重になり、重蔵を半円に包囲した。
長く戦場で暮らして来ただけに、重蔵には戦場ずれした図太さがある。
――捕虜になるのは仕方がないにしても、殺されるのは御免だな。
重蔵は熊谷氏の家来ではなく、歴とした武士というよりは雇われ足軽のような身分であり、いわば雑兵に過ぎない。その首を獲ったところで大した手柄にはならず、毛利氏にとってどうしても必要な首というわけでもないであろう。敵兵を率いる将の器量次第だが、上手く立ち回れば、あるいは殺されずに済むのではないか。もし助かる道があるとすれば、それしかない。
片手で顎紐を解き、鉄笠を投げ捨てた重蔵は、あえて顔を見せて笑みを作った。
「中井手の合戦の勝敗は、すでに決した。民部少輔殿は討たれ、熊谷の兵は逃げている。逃げる敵を討ったとて、さしたる手柄にもなるまい。毛利の武士は敦盛の首を欲するのか。毛利ではそれが名誉になるのか?」
と武者たちに穏やかに語り掛ける。敵の鋭鋒を柔らかく逸らすには、言葉をもってするのが良い。何より時間も稼げる。
「そもそも敦盛を討ったは熊谷の先祖ではないか! その家の者が敦盛のように討たれるは、因果応報じゃ!」
武者の一人が喚き返した。
武者たちは重蔵に油断なく槍を向け、隙あらば突きかかろうとしているが、重蔵の余裕を凄みと感じたのか、真っ先に進み出ることには躊躇した。左右に目をやりながら、無言で順番を譲り合っている。
「なるほど因果応報――するとそなたらが敦盛の首を討てば、そなたらの主人は、熊谷直実のように武士を捨て、一生を悔いて過ごすことになる。そなたらは主人を仏門に入れたいか」
「足軽風情が偉そうにほざくな!」
武者たちが猛り立った。
「足軽、足軽と言うてくれるな。こんな格好だが、これでも身は上北面・秦 出羽守の末裔だ。氏も素性もある」
重蔵にとってはすでに捨てた姓だが、こういう時は己を高く持するに限る。この時代、まだ人々は血の尊貴に対する信仰を濃厚に持っており、都会の京よりむしろ地方においてその傾向が強い。
「『北面の武士』と言えば、田舎者でもその名を聞いたことくらいはあろう。わしは熊谷の侍ではないが、いま逃げて行った男にはいささか借りがある。逃がしてやってはくれまいか」
と重蔵が笑いかけると、その武芸の冴えを目の当たりにした武者たちは気圧されたように半歩退いた。
騒ぎに気付いた周囲の兵が集まり始めている。武者の人垣がさらに増え、重蔵の背後にまで敵兵が回った。
「わしただ一人をこれほどの人数で囲んでおきながら、誰一人として名乗って槍を付けようとする者がないとは、驚いた。毛利の武士には人がないのか」
武士らしく正々堂々と戦う者はおらんのか、という挑発は、数に任せて打ちかかるのは卑怯だと言っているのと同じで、重蔵が我が身を守るための方便である。表情とは裏腹に重蔵に余裕はまったくなく、生死のぎりぎりの境で駆け引きをしている。
「憎き雑言を並べるものよ!」
人垣から一人の若武者が進み出た。
「我は江家の裔孫、福原広世が末孫、福原俊秋!」
高らかに名乗りを上げた若者は、毛利氏の長老・福原広俊の孫であり、福原貞俊の三男坊である。年はまだ十代で、血気の盛りだ。
「おお、良き若武者と見えたり」
福原俊秋は槍を従者に預け、すらりと太刀を抜いた。重蔵の槍を手強しと見て、あえてそうしたのかもしれないが、これはかえって失敗だった。当然、重蔵も槍を捨て、太刀打ちの勝負となったが、剣の腕で重蔵に敵う者などそうはいない。俊秋はたちまち籠手を打たれ、その太刀を叩き落とされた。
峰で打たれた――つまり手加減されたという事実が、若者をさらに激昂させた。
「組まんず!」
怒気を漲らせて挑みかかって来たが、
――冗談ではない。
組み討ちなどになったら、たとえ重蔵がこの若者を組み伏せたとしても、その瞬間、周囲の武者たちが若者を救うために重蔵を突き殺すであろう。
素早く飛び下がった重蔵は捨てた槍を拾い、その石突で俊秋をあしらうように突き倒した。
「おのれ、卑怯な!」
地に転がされた俊秋は羞恥で顔を真っ赤にして怒鳴った。が、重蔵にすれば生き死にが賭かっている。なりふり構ってなぞいられない。
俊秋の怒りに煽られ、周囲の武者たちがさらに殺気立った。四方から一斉に懸かられれば、いかに重蔵とてどうしようもない。
なんとかせねばと思った時、人垣の背後に十騎ばかりの武者が近付いて来るのが見えた。
先頭の鹿毛の立派な馬に跨った若者が、一際目立つ武者ぶりをしている。細面だが、肌はよく陽に焼けており、狼を思わせるような精悍な顔立ちである。緋威しの見事な大鎧に身を包み、兜の前立ては細長い金の鍬形。弓手に重藤の弓を握っている。
「わしがその気であったなら、そなたらのうち七、八人はすでに死んでおるぞ! これから武田のお屋形の大軍と戦うのであろう! 落ち武者狩りなぞに心血を注いでおる場合か!」
大将まで聞こえよ、と念じ、重蔵は大声で怒鳴った。
「何事だ!」
天に抜けるような大声を放ったのは、馬上の若武者である。
武者の一人が慌てて駆け寄り、早口で事情を説明する。若武者はそれを聞く風でもなく、そのまま人垣を割って進み、重蔵を馬上から見下ろした。
重蔵は構えを解き、槍を立てた姿で昂然と胸を張った。戦意がない、というサインと言っていい。
「名は」
「上北面・秦 出羽守が末孫、秦 重蔵 武元!」
「熊谷の侍か」
「さにあらず。兵法の道に迷い、師とするに足る人物を探して浪々とした末に、安芸に流れ着いた者とお思いくだされよ」
「兵法の道――芸者(武芸者)か」
「北面の武士は御所を守るが務め。我が秦家は、義経流の兵法を家伝として参りました。我はそれを父祖から受け継いだまで」
「ほう――」
義経流の兵法、という言葉に、若者の興味が動いたらしい。
が、その表情の揺れは一瞬で消えた。
「中井手の陣が落ち、民部少輔が討ち死にしたというのはまことか」
「まことでござる。民部少輔殿が死なぬうちは、熊谷の兵は決して崩れませなんだ。熊谷の兵が逃げておるということが、その証拠でござる」
「そうか・・・・」
と呟いて、この若者はなぜか苦笑した。
が、すぐに気を取り直したらしい。
「我らの役目は終わった。これより兄者の本軍と一手になる。全軍に、速やかに中井手へ戻るよう伝えよ。川筋に配った者たちへも使番を走らせよ」
左右の武者たちに大声でそう命じた。
若者はそれっきり重蔵を無視し、馬首を返して進み始めたから、これには重蔵の方が慌てた。
「御大将とお見受けしました。お名をお聞かせ願いたい!」
馬上で振り返った若者は、昇ったばかりの朝日を受け、輝いている。その眩い姿が重蔵にはなぜか武神のように見えた。
「毛利の四郎 元綱」
その名には聞き覚えがある。
――相合の四郎。
先代・毛利興元の舎弟で、今義経と渾名される男ではなかったか。
「四郎殿、命をお助けくださるならば、降り申す」
「好きにしろ」
その素っ気ない返事が、重蔵をさらに驚かせた。
「四郎さま、この者、なかなかの手錬ですぞ!」
「縄を打っておかねば、お味方にいかなる災厄をもたらさぬとも限りませぬ!」
周囲の武者たちが言い立てたが、
「放っておけ。俺に従いたければ従えばよく、逃散したくばすればよい」
元綱は面倒そうに言い捨て、馬腹を蹴った。
ここに味方の死骸でも転がっていたなら殺さねばならぬところだが、見たところ大きな手傷を負った者もなさそうである。この武芸者の言葉の通り、手加減してもらったのだろう。もしこの男を捕縛して連れてゆけば、その事にも人手と手間が取られる。元綱にすれば、そんな馬鹿げたことに割くような余分な人数はなく、それをするくらいなら男を殺してしまう方がマシである。が、この武芸の達者を殺そうとすれば、味方にも数人の死傷者が出るに違いなく、それこそ無駄でしかない。今は、武田本軍との戦いに向けて、寸刻を争う時なのである。
――些事に構っている場合か。
というのが正直なところであった。
が、重蔵の心は、この言葉で逆に縛られた。
捕縛され、捕虜として扱ってくれれば、重蔵は逃げ出す機会を虎視眈々と窺ったであろう。しかし、好きにしろと言われてしまうと、不思議と黙って去る気になれない。孫次郎から受けた恩を返すために自分の命を賭けたことでも解る通り、重蔵には妙に律儀なところがある。借りをそのままにしておけない性格と言ってもいい。その重蔵が、命を救われるという巨大な恩を受けてしまえば、それを返さずに済ませられるものではない。
重蔵を囲んでいた武者たちは、ある者は重蔵を憎々しげに睨み、ある者は罵声を浴びせかけるなどして、次々と大将を追って走り始めた。
「命冥加な奴よ!」
重蔵に槍を奪われた雑兵が、重蔵の手にあった槍をひったくるように奪い返した。
「四郎さまがあのように申された上は、おぬしの首を獲ったところで手柄にはしてもらえぬ」
ほとんど呆然としていた重蔵は、思わずその男に尋ねた。
「あの殿は、ああいうお人柄か・・・・?」
「あぁ、身分の貴賎を問わず、わしらのような物の数にも入らぬ雑兵にまでお情けを掛けてくださる、慈悲の心の深いお方じゃ。じゃが、戦となれば、鬼神の如きお働きをなさるぞ。他国のことは知らぬが、この安芸では、あれほどの若大将は二人とおるまい」
「古えの義経に、優るとも劣らぬ、か・・・・」
「おう、聞いておるか。今義経の異名は伊達ではないわい」
重蔵は、全身が総毛立つような興奮を覚えた。
――面白い。
この瞬間から、重蔵の運命は大きく変わることになる。
なぜ元綱が中井手の戦場から十町ばかりも離れた場所に居たのか――
それを語るには、時間を半日ばかり遡らねばならない。
場面は、多治比の猿掛城の広間である。毛利の諸将が顔を揃え、武田の大軍とどう戦うべきか、激論が交わされていた。
「中井手の熊谷は問題ではない」
議論の中心にいたのは、誰あろう元綱である。
「吉川の兵も合わせれば味方は二千を越える。民部少輔は侮ってはならぬ武将だが、その兵はせいぜい五、六百に過ぎぬ。明朝の奇襲が成功すればひとたまりもないだろう。たとえ敵が我らの奇襲に気付き、備えておったとしても、中井手の陣を抜くこと自体はそれほど難しくないと見る」
そこで元綱は諸将の反応を計るように一同の顔をぐるりと見回した。
「むしろ問題なのは、武田の本軍がどう動くか、という事だ。我らが中井手を攻め落とせぬうちにこれが援軍に来れば、我らは必ず負ける」
その観測はもっともであり、誰からも異論は出ない。
「で、四郎はどうすべきだと申すのか」
上座に座した多治比元就が、続きを促した。
「なに、難しい話ではない。緒戦に勝つには、要するに武田の本軍が動けぬようにすればよいのだ」
そもそも中井手の砦は武田軍が仕掛けた罠であり、これに喰らいついた敵を討つというのが武田方の軍略であろう。この罠を噛み破るには、武田本軍の動きを封じ、熊谷軍と武田本軍の連携を断ち、熊谷軍のみを先に撃破すべし、というのが元綱の主張である。
「そこで、俺に五百ばかりの兵を預けてもらいたい」
「わずか五百の兵で、五千の武田を足止めすると申されるのか」
志道広良が声を上げた。諸将も一様に難しい顔をしている。
「何も五百の兵で武田本軍と戦うと申しておるわけではない。敵を動けぬようにすると言っただけだ」
「どうするというのだ?」
元就が低い声で問いを重ねた。
「兄者は『孫子』は読んだか?」
元綱は逆に兄に尋ね返した。
「ん? あぁ、一通りは目を通したが――」
と言ったのは元就の謙遜で、実は一通りどころではない。
元綱はそれを知らないが、元就は多くの漢籍に精通し、知識の量で言えば元綱を遥かに上回っているのである。『孫子』はもっとも著名な兵法書と言ってよく、元就はそれを繰り返し何度も読み、書写までし、そのほとんどを諳んじていた。
が、元就はそういうことを誇りがましく口にはしない。
「一通りは目を通したが――」
と穏やかに返しただけである。
「兵は詭道なり、とある。兵は詐を以って立つ、とも書いてあったな。いずれ合戦は騙し合いということだ」
元綱が言った。
「そして敵を騙すには、まず味方を欺かねばならぬ」
その頬には、悪戯を考え付いた悪童のような笑みが浮んでいる。
「毛利・吉川・高橋が兵を挙れば五、六千にはなろう。国人一揆の我ら三者が中井手で軍を集結し、一部の兵で熊谷の軍を押さえ、本軍はそのまま有田へと進み、武田本軍と決戦する――と、兵たちに伝える。もちろん嘘だがな」
毛利軍の雑兵の中には武田方の諜者が当然入り込んでいるはずだ。この偽情報を武田方が掴めば、毛利方の兵力を過大に想像するだろう、と元綱は続けた。
「刑部少輔(武田元繁)が恐れるのは何か、ということだ。刑部少輔は毛利を恐れず、吉川を恐れぬだろうが、毛利・吉川・高橋の兵が一手になれば、武田軍を数で上回るということくらいは承知しているだろう。国人一揆の側が兵を挙ることは、恐れているに違いない」
武田元繁にとって、今度の有田の合戦は、毛利氏との戦い、吉川氏との戦いというよりは、守護の自分に従わない国人一揆勢力との戦いであり、さらに言えばその背後にいる大内義興から安芸の支配を取り戻すための戦いなのである。吉川氏の有田城を攻撃すれば、最悪の場合、毛利・吉川・高橋の連合軍との合戦になるということも、当然視野に入っているであろう。実際、高橋氏は有田へ兵を出さないわけだが、そんな国人一揆側の事情は、高橋氏が敵と通じているというようなことでもない限り、武田元繁が知るはずもない。
「このことを逆手に取るのだ。兵たちには毛利の旗だけでなく高橋や吉川の旗も持たせ、軍を鶴翼に薄く横に広げ、有田へ進軍する振りをする。昼間にこれは通用せぬが、夜と早暁なら別だ。朝霧が晴れるまでは視界が利かぬからな。敵方は、我らの兵数を見極めることができず、対処に迷うだろう」
この軍の役目はそれだけではない――と、元綱は続けた。
「我らが中井手の陣を攻めれば、民部少輔(熊谷元直)は援軍を求める急使を有田へと走らせるはずだ。また、有田の武田本陣からは必ず物見が出て、敵情を確かめようとするであろう。これらを討ち、中井手と有田の連絡を断つ。要は、刑部少輔(武田元繁)に目隠しをすると思えばよい。夜が明け、霧が晴れるまで、中井手の様子も我らの動きも判らぬようにしてやるわけだ」
人は視界を封じられると想像が逞しくなる。将も士もそれは変わらないが、将たる者は、常に最悪の状況まで視野に入れて軍略を巡らさねばならない。国人一揆の大軍が有田に向かっていると武田元繁に思い込ませ、それがいつ闇の中、霧の中から現れるかもしれぬと想像させ、有田で決戦になると覚悟させれば、中井手の救援どころではなくなるであろう。武田軍は有田山の南の丘陵に陣を据えている。迎撃に有利な高所に陣取っているだけに、その場から軽々に動けなくなるに違いない。武田元繁は、敵軍の規模と動きを確実に見極めるまでは、自軍の備えを固めて待つ、という選択をせざるを得なくなる。
「ほぉ・・・・」
「なるほど・・・・」
諸将からため息のような声が漏れた。多くは元綱の吐く言葉に感心したらしい。
「兵は詐を以って立ち、利を以って動き、分合を以って変を為すなり――か・・・・」
元就は呟き、腕を組んで考え込んだ。
敵にこちらの全容を掴ませず、有利な状況を作り出すべく手を打ち、兵力の分散と集中を巧みに用いて状況を変化させることが、軍略の要諦である、と唐土の軍略家は教えている。戦に勝つとは廟算において勝つということであり、勝つべくして勝つということでなければならぬであろう。
武田元繁と熊谷元直の連絡は、確かに断つべきである。それをするには、冠川の川筋に沿って伏兵を埋め、熊谷陣から出るであろう連絡将校を討つのが適当だが、その網をすり抜ける場合もあり得る。また、武田本軍の物見が駆け回って周囲の状況や中井手の様子を知ろうとすることも間違いない。有田と中井手の間に軍兵を展開させて、通行を物理的に阻むというのは確かに有効ではある。
が、最悪の場合、その軍は武田本軍から攻撃を受けることになるのではないか――
元就の思考は、志道広良があげた反論の声によって遮られた。
「軍議の席ゆえ、憚ることなくまっすぐに申し上げる。相合殿の申される事は、穴が多い。博打のようなものですぞ。明日、霧にならぬかもしれぬ。武田軍が夜の闇も霧も苦にせず、ただちに中井手に向けて動き出すかもしれぬ。そうなった時、どうなさるおつもりか」
広良は常に慎重な常識家で、無理を嫌う。戦場経験にも不足はなく、個人的な功名に恬淡としているために大功をあげたことはないが、これまで戦場で大きなしくじりを演じたこともない。先代・興元が幼い頃からこれを輔け、毛利家の舵を執って来た名臣と呼ぶべき男である。
その広良から言わせれば、気象を軍略に織り込むのはいかにも危うい。霧が出れば確かに有田から中井手は見通せぬようになるだろうが、明日の朝、必ず霧が立つという保証はないのである。もし霧にならなければ、朝靄が晴れるだけで視界は通る。毛利方の兵が寡少である事はすぐさま看破され、武田軍は猛然と中井手に向けて進軍するであろう。毛利軍は分割した兵を各個に潰されることになる。
「今日は雲ひとつない晴天だ。風もほとんどない。天気は今夜も崩れぬであろう。雲がないゆえ明朝は必ず冷え込み、川から霧が立つ。百姓どもも同じ事を申していた。霧がいつごろ晴れるかまでは判らぬが、中井手は低い湿地だ。十町、二十町が見渡せるようになるには、早くとも夜明けから半刻ほどは掛かる。霧が濃ければ一刻は見えぬ」
そう言い切る元綱も大胆ではある。実際に現地の様子を我が目で見て知っているという自信が、それを言わせるのであろう。
が、広良は引き下がらない。
「危ない橋と断ぜざるを得ませぬ。我らは寡兵、その軍をさらに分けるというのは、軍略上の禁忌でござる」
「寡兵であるがゆえに、策を弄さねばならぬのではないか。寡兵の上に無策では、求めて刑部少輔に勝たせてやるようなものだ」
元綱は声に力を込めた。
「確かに、合戦はすべてが事前の思惑通りに運ぶものではない。それは当たり前のことだ。思惑通りにならぬということまで算術に入れて策を巡らすのが、武略というものであろう」
実際問題として、武田軍が即座に動くという可能性も決して低くはない。五千のうち、たとえば千ばかりの兵を大物見(威力偵察)に出すかもしれぬし、あるいは軍を二分し、二千、三千の兵を中井手の援軍に差し向けて来るかもしれぬ。全軍で打って出るという事もないわけではないだろう。こればかりは敵将・武田元繁の決断次第で、事前にそれを確実に予見することはできない。また、毛利軍が中井手の陣を抜くのに手間取り、そのまま霧が晴れてしまうことだってあり得る。そうなれば目隠しも何もあったものではなく、この策はあっさりと見破られる。敵は中井手へと猛進し始めるであろう――と、元綱は怒涛のようにまくし立てた。
「それでも、我らが中井手の陣を抜くまでは、武田本軍を必ず足止めせねばならぬ。つまり、その時の状況や敵の打つ手に応じ、敵を討ち破って追い払うか、後拒を行いながら退くか――まさに臨機応変の働きが求められる。この役はそれほど難しいということだ。なればこそ、俺が将になると申している」
――俺以外の誰がこの難役を担えるか。
と元綱は思っている。根拠は一切ないのだが、こと合戦に関しては、昔から自分でも不思議なほど自信がある。
そういう元綱の態度は、元就にとっても不思議であった。
元綱は元就のひとつ年下で、未だ二十歳の若造に過ぎない。その武勇は衆に優れ、戦場での勘も抜群に良い、という評判を聞いてはいるが、元就は弟と戦場を共にしたことがなく、その異能を実見したことも実感したこともないのである。
――今義経の異名は伊達ではない、ということか。
とりあえずそう理解しているが、元就自身に戦場経験がほとんどないために、弟の能力をどう評価すべきか解らない、というのが正直なところだった。
「いやいや、なんとしてもという事なれば、その役はわしのような年寄りにお命じくだされ。相合殿を捨て駒に使い、討ち死にさせたとあっては、わしはあの世で悦叟院さま(弘元)にも秀岳院さま(興元)にも申し訳が立たぬ」
と広良が言った。
武田本軍を足止めするための部隊は、全滅覚悟の死戦になる、というのが当然の見方である。元綱のような未来ある若者に相応しい役割ではなく、同じやるなら、五十に近い自分のような老将がそれを担うべきだと広良は思った。
元綱はこの良臣と押し問答することに飽き、
「総大将は兄者じゃ。兄者が決めてくれ」
そう言って元就に決断を委ねた。
元就は腕を組んだまましばらく考えた。
志道広良に限らず、毛利家には老練な武将が多い。井上党の将たちはどれも勇猛だし、福原貞俊、桂広澄、渡辺勝なども優れた将器を持っており、戦場経験にも不足はない。彼らにそれを命じることは簡単だが、
――私や四郎が安全な場所で安穏としているようでは、兵たちに決死の戦いを強いる資格がない。
と元就は思っている。
自重論を唱える重臣たちを抑え、毛利を武田氏との決戦に引き込んだのは、いわば元就と元綱なのである。自分たち二人がこの一戦に対する決死の覚悟を見せなければ、そもそも戦に乗り気でなかった重臣たちの中には、
――若造どもめ、主筋というだけで主人顔をし、我らを無理な戦に放り込み、無駄死にさせる気か。
と反感を覚える者がないとも限らない。
君臣一体となり、将も雑兵も心をひとつにして戦わなければ、とても武田の大軍には勝てないであろう。この合戦に関しては、自分も弟も、先頭に立って戦うべきなのだ。
「わかった」
元就は断を下した。
「刑部少輔を巧く謀ることができるかどうかは別にしても、武田軍が加勢に来たならば、我らが中井手の陣を破るまでこれを防ぎ止めねばならない。四郎の申すように、この役は絶対に必要なものだ。それを四郎がやってくれると言うなら、私に異存はない」
「おぉ、ならば決まりだ」
元綱は我が膝を叩いた。
「四郎には、福原父子、赤川兄弟の兵を預ける」
長老の福原広俊は高齢のため郡山城の留守をしているが、子の貞俊が一党の百数十人を率い、貞俊の子である広俊、元勝、俊秋の三兄弟も揃って参陣している。貞俊は偉大な父に肖て名将と言ってよく、機転と才覚に優れ、その用兵の柔軟さと粘り強さには定評がある。
赤川氏も毛利家中では有力な族党で、就秀、元保、元久という兄弟がそれぞれ一家を立てている。末弟の元久は二十代の元気者で武勇に優れ、三十代の就秀と元保は十五老臣に名を連ねる文武兼備の将である。赤川党三家の兵力をすべて合わせればニ百ほどにもなる。
これに、毛利本家の足軽を加え、五百ばかりの別働隊を編成した。
「敵が大軍を発するようなら、決して無理はするな。速やかに退き、私の本軍と一手になれ」
元就が言うと、
「まぁ、そのあたりは任せてもらおう」
元綱は不敵に笑った。
最悪の場合、五百の兵で十倍の大軍を相手に戦わねばならなくなる、ということを元綱は知っている。そうなった時は、まさに侍の本懐だと思っていた。粘り強く遅滞戦闘を繰り返し、敵の進軍を遅らせ、中井手の毛利本軍が態勢を整えるなり逃げるなりするための時間を稼ぐつもりである。
「何があろうと無様な敗軍だけはせぬつもりだ。知り得た武田軍の様子は、逐次兄者に報せるようにする」
十月二十一日の夜半、毛利軍は猿掛城を出陣した。
多治比川に沿って粛々と西へ進み、津々羅山の南麓を突っ切り、可愛川筋に出る。
寒さは酒で紛らわせることができるが、隠密行動に灯火は使えない。山野は無明の闇であり、山に囲まれた谷状の道を月明かりのみを頼りに歩むのは困難を極めた。わずか二里半の距離を進むのに、実にニ刻(四時間)以上を要した。
壬生の手前まで来ると、山陰から抜け、平坦な平野に出る。又打川が可愛川に流れ込む合流点の近くで、元就は全軍を渡河させ、土手を降りて近くの林に軍兵を隠した。
驚いたことに、その直後、数町先の中井手の陣で無数の篝火が灯り、そこだけ昼のように明るくなった。
「さすが民部少輔、防ぎに抜かりはないか」
元綱が感心したように声をあげた。
熊谷元直は百戦錬磨の武将である。こちらの動きはお見通しであったらしい。
「こうなれば奇襲も何もない。正面から堂々と戦うのみだな」
そう応えた元就は、覚悟を決めた。
毛利軍はここまで隠密行動を行っており、馬には嘶かぬように枚を噛ませ、武者の鎧の草摺りを縄で縛るなど、消音措置を施してある。元就は全軍にこれらの解除を命じ、松明を灯させ、戦闘準備をさせた。
言うまでもないが、元綱の一隊だけはそれを行わない。
「我らはこのまましばらく潜んでおく。兄者の本軍が戦を始めたら、戦場の後方を大回りに迂回して有田へ向かう」
「承知した」
言うなり、元就は口取りが曳いて来た馬に颯爽と跨った。
「民部少輔は必ず手強い戦をするぞ」
馬上の元就を見上げ、元綱がそう忠告した。
「心得ている。夜明けにはまだ早いが、吉川が来る前に仕掛ける」
「ほう――」
その言葉は、元綱にはやや意外であった。
「毛利の一手で熊谷の陣を抜くというのか」
「それくらいのことができねば、とても武田の大軍には勝てまい」
「よう申された。その通りだ」
元綱は嬉しげに声を弾ませた。
元就の本軍が中井手の陣に攻め懸けるのを眺めた元綱は、率いる部隊を出発させた。闇に紛れるようにしていったん北へ進み、中井手を大回りに迂回して南進し、又打川を越えて南西へと馬を向ける。
有田山の数町東というあたりまで進むと、元綱は全軍に松明を灯させ、戦闘準備を命じた。五百の軍兵を五隊に分け、一隊を自ら率いて遊軍とし、三隊にはそれぞれ毛利の旗、吉川、高橋の紙旗を持たせてある。最後の一隊は百人をさらに五組に分け、冠川の川筋に五箇所、二十人ずつ伏兵として埋めた。
――これで準備は万端整った。
三百の人数を鶴翼に薄く並べ、元綱自身はその後方に布陣し、有田へゆるゆると進軍してゆく。
あとは敵がどう動くか、である。何人もの物見を先行させ、武田軍の陣の様子を探らせた。
夜明けが近付くにつれ、やや霧が濃くなった。これも毛利方には天佑であった。
元綱にとってある意味で誤算であったのは、敵将・武田元繁が、考えられる中でもっとも消極的な反応を示した、ということであろう。
熊谷元直から敵軍出現の一報を受けた武田元繁は、敵軍の詳報と戦況を知ろうとし、ただちに手元から物見を出した。
「休んでおる者どもを起こし、急ぎ戦支度をさせよ。各陣、油断無く堅固に備えを固めるよう諸将に申し伝えよ」
物見が帰るのを待つ間、元繁が取った措置というのは、具体的にはこれだけである。
「毛利の他に、吉川、高橋の旗も見えました!」
「敵は思いのほか多勢と見え、一軍はこの方へ向けて進軍しておる様子!」
松明を掲げた武者たちが次々と馳せ帰っては報告する。
――さては毛利め、吉川、高橋と一手になり、熊谷の陣には押さえの兵を置いて、本軍はこの有田の陣へ押し寄せる肚か。
そういう諜者の報告も元繁の耳に入っていた。あるいはその通りかもしれぬと思った。
無論、さらに多くの物見を出して戦況を探り続けたが、暁闇が明けると薄い霧が立ち、視界が悪いということもあって、敵の総数がはっきり掴めない。千にも足らぬという者もあれば、いやいやニ千以上であるという者も居て、元繁は判断に迷った。
この間、中井手を守る熊谷元直は、武田本軍へ戦況を伝え、援軍を求めるための使者を四度も出している。が、これは一人も有田へ辿り着けなかった。このために武田元繁は中井手の様子を掴めず、さらに敵軍の詳細も知り得なかった。
武田元繁にとって確実な事実とは、敵の先鋒軍がすでに数町の距離まで接近しているという事と、その先鋒軍には毛利、吉川、高橋の旗が混在しているという事だけである。こうなると、その先鋒軍の背後にどれほどの兵力があるのか判らぬことには、迂闊に軍を動かせない。
――あと半刻もすれば朝霧も消え、敵が見えるようになろう。戦立てを決めるのはそれからだ。
と、元繁は判断を保留し続けた。
しかし、しばらく時が経っても、敵の先鋒軍は一向にこちらに攻め掛けて来る気配がない。
――敵の狙いは、あるいは時間稼ぎか。
という事にようやく気付いた。
「敵は熊谷の陣ばかりを攻め、こちらには懸かって来ぬ。熊谷は小勢ゆえ、陣を捨てて逃げると思うておるのであろう。急ぎ馳せ向かって、加勢せよ」
辺坂道海入道、毛木民部大輔、筒瀬左衛門大夫の三将に八百の兵を授け、出陣するよう命じた。
が、時すでに遅し。
ちょうどその頃、中井手では熊谷元直が戦死し、毛利・吉川軍が高らかに勝ち鬨をあげていた。
その事を知った元綱は、苦笑せざるを得ない。
――まるで働き場がなかったわ。
策がツボに嵌った、と言ってしまえばそれまでだが、虎狼のごとく恐れられた武田元繁ともあろう者が、熊谷軍を捨て殺しにし、一兵も動かさないというのは、元綱にとっても予想外であった。
――しかし、本当の戦いはここからだ。
気を取り直した元綱は、毛利本軍と一手になるべく、軍を素早く中井手へ転進させた。