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鷲爪伝  作者: 堀井俊貴
第二章 西の桶狭間
12/62

有田中井手の合戦(四)

 熊谷軍は大きな傷を負って中井手の砦に戻った。

 山中を徹夜で行軍し、朝から合戦をし、さらに二里半を歩いて帰ってきた兵たちにはさすがに疲労の色が濃い。遅い昼餉を終えて落ち着くと、多くの者が崩れるように眠り込んだ。

 疲れた顔でそれらを見回りながら、


「敵からすれば、今が我らを攻める絶好の機ということになろうな」


 と孫次郎が言ったので、重蔵は頷いた。

 ――さすがに解っておるな。

 敵が動くとすれば、今宵か明日の明け方であろう。そこで動きがなければ、敵に出戦の意志なしと断定していいのではないか。


「兵はこのまま夜まで休ませ、今宵は夜討ち朝駆けに用心すべきでしょう」


 重蔵が言うと、


「万端備えはしておるさ」


 孫次郎は薄く笑った。

 吉川氏の大朝、毛利氏の吉田の双方に諜者が張り付いているし、中井手への経路にも物見を埋めてあるという。熊谷元直は武将としての才質に乏しくなく、経験にも不足はない。さすがにそのあたりに手抜かりはないらしい。


「わしも横にならせてもらいます。孫次郎殿も少し眠っておかれた方がよい」


「あぁ、そうしよう。毛利に出て来るほどの戦意があるとは思わぬが、吉川は狙っておるやもしれんからな。油断はせぬよ」


 果たして――

 その夜の深更、ニ、三の諜者が中井手に駆け戻って来た。

 多治比に集結していた毛利本家の兵が出陣し、あと半刻ほどで中井手に到るという。それにやや遅れて、大朝で吉川氏の兵も動いたという報告が続いた。闇のために敵の数までははっきりしないが、毛利本家の兵は多治比に千五百ほども集まっていたようだし、吉川氏の動員力は毛利氏を凌ぐというから、両軍合わせればかなりの兵力になるであろう。

 熊谷元直はただちにこのことを武田軍の本陣へ伝え、中井手の全軍に防戦の準備を命じた。

 当然、休んでいた者たちは叩き起こされる。中井手の空気はにわかに緊張した。

 時刻はとらの刻(午前四時)あたりである。この日(新暦の十一月十五日)、夜明けは午前六時十五分ごろだから、天が白むまでにまだ一刻ほどある。夜討ちにはおそすぎ、朝駆けにはやや早い。

 熊谷の陣地を除けば周囲は無明の闇であり、視界はまったく利かない。が、大軍が動く気配というのは注意さえしていれば必ず感じ取ることができる。中井手の砦の前には又打川が流れているのだが、数町ばかり川下の森で、眠っていたはずの鳥たちが飛び立つ羽音や鳴き声が聞こえた。


「来たようだ」


 孫次郎が呟いた時、熊谷元直は用意したおびただしい篝火に火を入れるよう命じた。

 中井手の砦全体が、昼のような明るさになった。森の闇までは見通せないが、又打川の川辺にも捨篝火すてかがりび(敵の目をくらますために本陣から離れた所に焚く篝火)を二十近くも据えてある。敵を弓矢で迎撃するにはこれで十分であろう。

 中井手の陣地の異変を見て、敵も奇襲が失敗したことを悟ったらしい。正攻法に切り替えたようで、森から無数の軍兵の影が溢れ出し、河川敷の向こうでいくつもの松明が灯った。薄く立った川霧が、その炎をぼやけさせている。


「昨日今日合戦いくさを覚えたような孺子こぞうの浅知恵など、百戦錬磨の我らに通用するか」


 誰かがそう嘲笑し、熊谷の兵たちがどっと笑った。

 やがて敵方から鏑矢かぶらやが射込まれた。鏑が風を切る音は破邪のまじないであり、戦神への祈願でもある。その矢が熊谷の陣から射返され、戦場における礼の交換が終わった。この時点で敵の攻撃はすでに奇襲ではなく、正々堂々とした合戦になった。

 敵陣で陣貝かいの響きが闇を裂き、開戦を告げた。陣太鼓が乱打され、敵兵が闇の中から次々と現れ、飛沫しぶきを蹴立てて猛然と川を渡り始める。

 敵兵の旗印は「一文字三星」――毛利氏の軍兵だ。


「敵をよう引き付けよ。我が合図するまで射てはならんぞ!」


 先陣の大将である水落直綱が、土塁の上で叫んだ。

 土塁の柵の中では三百の射手が弓を立てて敵をめつけている。


「それ射取れ――!」


 水落の声と共に三百の矢が風を切り、敵兵が川辺でばたばたと倒れた。

 毛利軍はそれをものともせず、喚声をあげながら果敢に挑みかかって来たが、熊谷軍の兵たちは万端準備を整え、敵を待ち構えていたのだから、精神的な余裕がある。怯むことなく落ち着いて敵を狙撃し、たちまち数十人を射倒した。

 中井手の防御柵は又打川に沿う形で東西に築かれている。重蔵は、孫次郎の家来らと共に柵の西側を守備していた。土塁の上から矢継ぎ早に矢を射かけ、闇の中から現れる敵兵を何度も撃退した。

 ――ここが切所だ。

 武田の本軍がやって来るまで柵を維持できれば熊谷軍の勝ちである。柵を破られれば、寡兵の熊谷軍は窮地に陥るであろう。


「どんどん矢櫃やびつを運んでくれ!」


 重蔵は景気良く叫んだ。矢を射尽すまで射まくってやるつもりである。

 熊谷の兵には弓の達者が少なくない。毛利の軍兵たちは柵に取り付くどころか、又打川を渡ることさえできなかった。熊谷方の防ぎ矢に辟易したのであろう、やがて敵は突撃を止めて河原に矢楯を並べ、川を挟んで矢戦を始めた。

 毛利方にも頸弓けいきゅうを引く者がある。桂元澄、井上就良なりよしなどが名が高く、その名を記した矢が熊谷の兵を何人も射倒した。

 が、これを見ている熊谷元直は、

 ――こちらの思う壺よ。

 と余裕の笑みを浮かべていた。

 熊谷軍は昨日の戦で七十余人が討ち死にし、数十人が重傷で戦闘不能である。加勢にもらった山中、一条、板垣らの軍勢・三百はそのままこの砦に篭っているが、戦えるのは七百に満たない。一方、敵は闇に紛れてその数がはっきりしないが、毛利軍だけでおそらく千数百、これに吉川軍が加われば三千は覚悟せねばならぬであろう。この兵力差では野戦では戦えないから、砦に篭って守戦に徹するしかない。時を稼ぎたい熊谷元直にすれば、数に物を言わせた無理な突撃をされるより、矢戦に応じてくれる方が有り難いのである。

 ――このまま一刻も支えておれば、我らの勝ちよ。

 やがて武田本軍・五千が中井手に到着し、敵を横撃するであろう。その時に砦から打って出て敵を突き崩せば良い。つまり、敵の奇襲を察知し、その不意打ちを許さず、これを待ち構えて防いだ時点で、熊谷方の勝ちはまず動かない。

 熊谷元直だけでなく、重蔵や孫次郎ももちろんそう考えていた。



 馬上から敵陣を遠望している多治比元就は、機嫌が悪かった。


「何をやっておるのだ!」


 と何度も怒声を放った。

 熊谷方に奇襲を見破られたのは仕方がないにしても、毛利軍の先陣に配した井上党、桂、渡辺、児玉、粟屋らの諸隊は、熊谷軍の矢に圧倒されて吶喊とっかんを諦め、矢戦を始めてしまっている。この合戦が時間との勝負であることを思えば、老練の武将たちの手ぬるい戦い方が元就には信じられない。


「こう矢戦ばかりして悪戯に時を移せば、武田の本軍が助勢に来てゆゆしき大事となろう。あの者たちはそれが解っておらんのか!」


 元就は怒鳴った。

 すでに半刻ほどが無為に過ぎている。元就が苛立つのも当然であったろう。

 実は元就は、吉川氏の援軍が中井手にやって来る前に、毛利軍一手で熊谷軍を潰してしまいたい。せめてそれくらいのことができねば、元就と毛利軍の武威を示す戦にはならないのである。そう思い、吉川氏には無断で開戦を早めたのだが、元就の甘い予想に反して、毛利軍はわずか四、五百人が守る熊谷陣に手を焼ききっている。

 あと半刻ほどもすれば夜が明けてしまうであろう。幸い霧が立ち始めているから中井手の様子は有田の武田軍からはしばらくは見えないだろうが、霧が晴れれば武田軍は毛利方の「策」を見破り、中井手に急進して来るに違いない。


「槍で攻撃を掛け、あの目障りな柵を押し破るぞ!」


 元就が自ら旗本の軍兵を率いて打って出ようとしたから、傍らで戦を眺めていた志道広良が慌てた。


「まずお待ちを! しばしご自重くだされ!」


 広良にしてみれば、血気に逸った元就が前後を忘れ、敵陣に突出するというような展開が一番怖い。総大将が流れ矢にでも当たれば、その時点で毛利軍の負けなのである。


「仰せはごもっともでござる。わしが一隊を率い、柵を押し破りましょうほどに、その機に多治比殿はお旗本をもって熊谷の本陣を切り崩してくだされ。それまではこちらにお控えあって、決して旗本の備えを乱されますな!」


 広良は元就の馬の口取りに向かって、


「もし多治比殿が駆け出そうとなされても、決してお馬の口を放してはならんぞ!」


 と怒鳴るように命じ、自らの手勢と坂党の軍兵たちを率いて駆け出した。

 が、元就はその指示に従うつもりはない。


「馬の口を放せ!」


 と鋭く命じ、口取りがその命に従わぬと見るや、もう一度怒鳴って自ら太刀に手を掛けた。その怒気に口取りたちが怯え、思わず手を放した。

 元就は馬腹を蹴り、一騎駆けに駆け出した。それを見た数百の旗本たちが、遅れてはならじと津波のように走り出した。

 ――左手の柵の守りがぬるい。

 志道広良の隊が敵陣中央に猛攻を掛けたため、敵陣の東側の兵が中央に寄り、やや薄くなっている。そう見た元就は、軍頭を左手に向けて一息に又打川を渡り、


「ここを攻め破れ!」


 と敵陣の前で輪乗りしながら絶叫した。

 当然、矢が殺到する。元就は巧みに馬を乗り回し、太刀を振るって飛矢を払ったが、鎧には二筋の矢が立った。幸い、肉に食い込んだという感覚はない。

 大将のこの気迫に打たれた毛利の軍兵たちは、飛矢を受けながら面も振らずに柵に取り付いた。柵を守ろうとする熊谷兵を槍で突き、柵を揺すぶって引き倒そうとする。

 それを見て驚いたのは志道広良である。


「大将自らが先駆けとは、何たる軽率!」


 と舌打ちし、


「多治比殿は勇みすぎておられるぞ。万が一にも敵の矢に当たられるような事になってはならぬ! 急ぎ後ろへ下がらせよ!」


 先陣の井上元兼、渡辺すぐるに元就の護衛を頼み、その兵を敵陣の右翼へ遣った。

 が、広良も老練の武将である。自身の猛攻と大将・元就の吶喊で敵陣が防戦に手一杯になっていると見て、とっさにこの機を生かそうと思い立った。遊軍に残しておいた二百の兵に柵を回り込ませ、横あいから敵を攻めるよう命じたのである。

 毛利の遊軍は主戦場を西に逸れて川を渡り、柵の西端を迂回して敵陣に攻め込もうとした。

 熊谷方の侍大将・水落直綱は、この毛利方の兵の動きを瞬時に察知した。


「敵が柵を迂回し、我らの背後に回ろうとしておるぞ!」


 後詰め(予備兵)として後方に控えさせていた山中、一条、板垣らの軍勢・三百をすぐさま走らせ、毛利の別働隊を押さえ込み、この奇策を封じた。

 水落直綱は激戦となった主戦場の戦闘を指揮しつつ、自らも弓を執って奮迅の働きをしていた。毛利の別働隊が篝火から遠い闇の中を進んでいたにも関わらず、戦いながらそれに気付いたこの男の戦場における洞察力は、非凡と言うほかない。

 ついでながら付け加えれば、三百もの兵を後方に待機させていた熊谷軍は、わずか四百にも足らぬ熊谷家の兵のみで毛利軍の猛攻を支えていたことになる。安芸屈指と謳われた熊谷の兵のつよさは伊達ではなかった。

 両軍が火花を散らして戦ううち、やがて天が白み始めた。深夜にはさほど気にならなかった霧が、明け方にかけて少し濃くなった。毛利氏の側は運があったと言うべきであろう。

 この頃、吉川氏の援軍が五、六百人ばかり、中井手に到着した。


「しゃっ、すでに戦が始まっておるわ!」


 と叫んだのは、先陣の二百騎を率いる侍大将・宮庄みやしょう 下野守しもつけのかみ 経友つねともである。吉川氏の先代・国経の弟であり、当主・元経の叔父に当たる人物で、吉川家中で屈指の侍大将と言われている。


「毛利め、抜け駆けしおったか・・・・!」


 戦場を睨んだ経友は苦々しく吐き捨てた。

 毛利からは、「明日の夜明けと共に中井手の陣に攻め込む」という連絡が昨夜にあった。多治比に集結を終えていた毛利軍と違い、吉川氏はそれから兵を集めざるを得なかったわけだが、大朝にいる者は兎も角、石見に領地を持つ家来が集結するにはどうしても一日は掛かってしまう。とりあえず集まった兵を一陣とし、経友がこれを率いて駆けつけたのである。だが、いざやって来てみれば、まだ夜明けの前だというのに、合戦はすでにたけなわになっているではないか。


「毛利に遅れたとあっては鬼吉川の名折れぞ! 者ども懸かれ!」


 経友は軍兵たちを中井手の陣にぶつけるように突撃させた。

 ちょうどこの頃、元就が攻めていた熊谷陣の右翼の柵がついに破れた。


「よし! 一気に乗り破れ!」


 河原のあたりで兵を叱咤していた元就は、軍兵たちにそう命じ、自らも進もうとしたが、井上、渡辺といった老臣たちがうるさく諫言するので、少し下がって川を渡り、戦場が遠望できる土手まで戻った。

 右手を見渡すと、見慣れぬ軍勢が戦場に参陣している。

 ――引両ひきりょう

 その旗印は、言うまでもなく吉川氏のものである。

 ――間に合わなんだか。

 元就は無念さに嘆息したが、同時に安堵もしていた。正直、ここまで苦戦させられるとは思ってもみなかったのである。熊谷の兵を侮っていたつもりはないが、奇襲で一気に陣を抜けるのではないかと甘く考えていたことも否めなかった。決死になった頸兵の粘りがどれほどのものか思い至らなかったのは、経験不足と言うしかない。しかし、ともかくも敵陣の一角は破った。これに五百を越える新手が加わったとなれば、熊谷軍を壊滅させるにさほどの時間は掛からぬであろう。

 敵陣の右翼の柵が破れたため、そのあたりでは熊谷軍の兵も弓を捨て、両軍が白兵戦で戦うようになった。


「敵も味方も聞け! 一番槍の高名は、この井上源三郎じゃ!」


 敵陣に真っ先に飛び込み、二人の敵兵と渡り合って一人を突き殺した井上 源三郎 就良なりよしが、功名の一番と決まった。それに甥の井上就助なりすけが続き、その後も敵を仕留めた武者たちが挙げた首級を誇らしげに掲げて続々と本陣へ駆け戻って来た。

 武者たちにすれば、己の手柄を首注文の帳面に付けて貰わねば、後日の恩賞がもらえない。他人ひとが獲った首を盗んででも手柄にしたいという時代であり、戦場における当然の風景と言える。

 ところでこの時、逸話が伝わっている。


「わしが八番とはどういうことじゃ!」


 首を持参した粟屋あわや源次郎という男が、首注文を付ける祐筆ゆうひつ(書記官)に食って掛かったのである。

 源次郎は井上源三郎らと共にほとんど先頭で敵陣に乗り込み、熊谷方の大兵と渡り合って見事に敵を突き伏せ、その首を獲った。順番で言えば三番首であったのだが、首を持って引き返そうとした時に背後から太ももに矢を受け、歩行が不自由になってしまったために、味方の武者たちに次々と追い抜かれ、本陣に戻った時には八番目まで順番が下がってしまっていた。


「軍中の首注文は坊主・比丘尼びくにが付けるものではない。よう目を見開いて付けんか!」


 そう怒鳴られても、祐筆にすれば迷惑な話であったろう。


「私は千里眼は持ち合わせませぬ。この場に居ながら先陣の様子を見分けられるわけがないではありませんか。一番に首を持って来れば一番首と書き、二番に持って来れば二番首と付けるだけのことです」


 それを聞いた源次郎は――よほど腹が立ったのであろう――祐筆の筆を奪い取り、それで祐筆の顔面をしたたかに打ち、さらにその男を仰向けに突き倒した。哀れなのはその祐筆で、泣きっ面が筆の墨と鼻血にまみれて珍妙な顔になり、それを見た周囲の者たちからさんざんに笑われた。

 源次郎にしてみれば、戦場で汗もかかぬ祐筆風情が、命のやり取りをして功名を挙げてきた武士に対してあつい礼を示さず、その働きをねぎらうこともせず、あまつさえ口先で言い負かそうとしたその態度が、腹に据えかねたのであろう。

 それを間近で見ていた元就も、苦笑せざるを得ない。

 大将である元就は、敵の首を獲って個人的な武勇を誇らねばならない立場ではないから、大局的な合戦の勝敗より個人の功名に必死な武者たちの行動は愉快でなく、本音を言えば「そんなことより早く敵陣を破れ」と叫びたかったが、武者の働きを見定めて恩賞を沙汰するのが大将の務めであることも知っている。ことに元就は大将であるとはいえその立場は多治比の分家に過ぎず、毛利本家の武者たちの主人であるわけではないから、彼らの自尊心には過剰なまでに配慮せねばならない。


「源次郎、そう腹を立てるな。各々の手柄は私がしかと見届けておる。異論があれば、後にきちんと詮議を致す。が、今は論争のいとまはない。武田の加勢が来ぬうちに、一刻も早う敵陣を切り崩されよ」


 ねんごろに諭して、源次郎を再び戦場に送り出した。

 元就にしてみれば、毛利の武威を誇示するためにも、この合戦で確かな戦功が欲しい。


「すでに吉川の加勢が来ておるぞ! 吉川に民部少輔みんぶのしょう(熊谷元直)の首を渡しては無念である! 何としても毛利の手で民部少輔の首を獲れ!」


 帰って来る武者たちを大声で鼓舞し、再び戦場へとけしかけ続けた。



 その頃――

 重蔵は、だるくなった腕で懸命に弓を引き続けていた。その背後には空になった矢櫃が三つも転がっている。


「あとしばらくの辛抱じゃ! 武田のお屋形の軍勢はもうすぐそこまで来ておるぞ! あとしばらくだけ支えれば、我らの勝利は疑いない!」


 孫次郎は何度もそう叫び、家来たちを励ましつつ奮戦を続けている。

 開戦からすでに二時間以上が過ぎ、さすがに矢がすくなくなってきた。重蔵は弓を槍に持ち替え、柵に取り付く敵兵を何人も土塁の下へと突き落とした。

 ――遅い・・・・!

 疲労と共に、焦りがじりじりと深くなってゆく。

 夜はすでに白々と明けた。武田本陣へは何度も使番の武者が走っているはずだ。武田元繁にその気があれば、とうの昔に武田の大軍が霧の中から現れていなければならないのに、いつまで待ってもその気配がないのはどういうことか。

 ――武田の本陣で何事か起こったか。

 そうとでも考えなければ道理が立たない。

 戦場の喧騒に混じって、


「東の柵が破られたぞ!」


 という声が遠くで聞こえた。

 水落直綱が手兵を率いて右翼へ走り、どうにか敵を斬り防いでいるらしい。大将の熊谷元直自身が旗本を率いて防戦に参加している有様で、熊谷方はまさに手一杯である。

 ――武田のお屋形は何をしておるのだ!

 重蔵だけでなく、熊谷軍の誰もが心中でそう叫んでいたであろう。

 薄くもやってはいるが、辺りが明るくなって視界が開けたため、河原に参集する敵兵が見渡せるようになった。敵は吉川氏の援軍が参戦しており、総勢は千五六百もいるであろう。戦前に予想していたよりはすくないが、死傷者が増えた熊谷軍は戦える者がすでに三百を割り込んでいるから、五倍以上の大軍と戦っている勘定である。毛利方は兵力にさらなる余裕ができ、防備が手薄なところを狙って兵を繰り込んで来る。当然、熊谷方はその防戦に振り回されざるを得ない。

 ――そういつまでも保たんぞ・・・・!

 熊谷の兵がいかにつよいと言っても限界はあり、これでは闘死する前に疲労で押しつぶされてしまうであろう。

 そんなことを想いながら、ふと戦場を遠望した重蔵は、血が凍った。

 ――まずい。

 毛利軍が、いったん退いて休んだ兵を河原の土手で再編している。あの三、四百の兵が新手となって押し寄せて来れば、さすがに支えきれまい。あれが敵の本陣であり、馬上の将が多治比元就に違いない。兜に輝く三鍬形みつくわがたの前立てに見覚えがある。

 その光景は、熊谷陣の中央で兵を指揮していた熊谷元直の目にも入っていた。


「あれが敵の大将、多治比の元就ぞ! この方より打って出て、一息にあの首を獲れ!」


 と叫んだ元直は、すでに自軍の敗北を悟っている。

 元直が有田の武田本陣へと走らせた使番の武者は、四人とも未だに戻って来ない。武田元繁に裏切られたとは思わぬが、何かしら援軍に駆けつけられぬ事態が発生しているのであろう。武田軍が来ないとなれば、この中井手の合戦は熊谷氏が主体の戦いであり、武田軍の戦いの一部ではない。熊谷には熊谷の作法があり、熊谷の意地がある、というのが元直の自負であった。

 主君を守って奮戦していた水落直綱が、元直の鎧の袖を掴んで怒鳴るように言った。


「なりませぬ! 甲斐なき討ち死になぞなさいますな! この場はいったん退き、武田のお屋形の軍勢と一手になって再度の一戦をなされませ!」


 水落から言わせれば、熊谷の大将ほどの者がここで討ち死にするのはどう考えても馬鹿げている。今なら大将を戦場から落とすことも不可能ではなく、兵も少なからず生き長らえることができるであろう。武田の本軍に駆け込みさえすれば、あの敵ともう一度戦うことができるのである。たとえここで一敗地に塗れても、最後に勝てば良いではないか。


「ぬかすな、源允げんのじょう!」


 元直はおとこ臭い顔で笑った。


「我が先祖・次郎直実なおざね以来、熊谷の大将が敵に後ろを見せたためしはないわ! 毛利なんぞに陣を切り崩され、多くの郎党どもを討ち死にさせて、何の面目あって生き長らえようか!」


 この男は、すでに死を決していたのであろう。己が死ぬことによって、熊谷軍を捨て殺しにした武田元繁に対して「恥」という煙毒を吐き掛けてやる気であったと言ってもいい。


「幸いにも毛利の大将があれに見えるわ。わしはあの孺子こぞうと刺し違える!」


 それが熊谷の武士の死に様よ、と主人に言われれば、家来とすれば是も非もない。


「しかとうけたまった!」


 水落直綱は旗本と傍にいた数十人の兵をまとめ、元直を中心に一塊になって陣地から打って出た。

 毛利と吉川の軍兵が、手柄を求めてこれに殺到する。

 熊谷元直は自ら槍を振るい、群がる敵兵を槍で突き伏せ、その柄で殴り倒し、鬼神の如き奮戦を見せた。さすがに熊谷の大将であり、その武勇は並みの武者では歯が立つものではない。これを守る元直の旗本も一騎当千の頸兵揃いであり、雑兵などは相手にもならない。

 熊谷の一団は、激流をさかのぼる小船に似ていた。群がり寄せる敵兵を押しのけるように進み、又打川を蹴立てて越え、土手を駆け下りた毛利軍の本陣の兵とぶつかった。

 が、その時である。

 熊谷元直が内兜に矢を受け、馬から逆さまに転げ落ちたのだ。


「殿!」


 矢は元直の頬骨を貫き、深々と突き刺さっていた。即死ではないが、瀕死の重傷であることに違いはない。

 熊谷の兵たちは倒れる主人を囲んで足を止め、絶望的な戦いを演じた。圧倒的な兵力の前に磨り潰されるようにして次々と討たれてゆく。ついに吉川軍の宮庄経友が動けぬ熊谷元直に駆け寄り、その首を落として太刀に突き刺し、


「当陣の大将、熊谷 次郎三郎 元直をば、宮庄 下野守 経友が討ち取ったり!」


 と叫びをあげた。

 吉川軍が歓声を上げ、毛利軍からは歓声と共に無念のため息が漏れた。

 毛利軍に抜け駆けされた吉川軍の兵たちにすれば、


「してやったり!」


 と叫びたい気持ちであったろう。

 逆に毛利軍の兵たちは、


「やられた・・・・!」


 と歯噛みしたに違いない。


「情けなし、主君あるじに死に遅れたぞ!」


「こうなれば何のために命を惜しもうぞ!」


 水落直綱をはじめ、大坪孫四郎、細迫ほそさこ弥七、桐原与七朗などといった生き残った武者たち三十数人は、首のない主人の遺骸を守って戦い、多くの敵兵を道連れにしてその場で闘死した。数十本の矢を浴び、ズタズタに斬られても倒れるまで戦い続けた熊谷の兵の気迫は鬼気迫るものがあり、毛利・吉川の兵たちを戦慄させた。



 宮庄経友の叫び声は戦場の喧騒に紛れ、陣の西端で戦い続けていた重蔵の耳には届かなかったが、熊谷軍の中央の兵が打って出た事と、それが壊滅したことはもちろん見えている。

 毛利・吉川の兵の歓声が大気を振るわせた時、熊谷軍の兵たちは熊谷元直の戦死を直感した。


「孫次郎殿、もはやこれまで! はや落ちられよ!」


 重蔵が叫ぶと、


「馬鹿な!」


 孫次郎は重蔵を睨みつけ、怒声を放った。


「殿までが討たれ、何の面目あって家来のわしが生き長らえようか! 熊谷の侍でないおぬしは好きに落ちよ! わしはこの場で死ぬ!」


 すでに孫次郎は怒気が突き抜け、平常心を失い切っている。

 重蔵は孫次郎に顔を近づけ、その耳に吹き込むように大声で怒鳴った。


「それが熊谷の武士の忠義か!」


 孫次郎の両腕を掴み、前後に激しく揺さぶった。


「おのれは民部少輔さまお一人に仕えておるのか! 熊谷の家に仕えておるのか! それを考えよ! 民部少輔さまが討ち死になさった今、おのれの主君あるじは、可部かべの城におわす若君ではないか! まだ幼き若君をお援けせねばならぬとは思わぬのか! おのれ勝手に死ぬが主家への忠義か!」


 重蔵の言葉は、孫次郎の深いところをえぐった。


「民部少輔さまお一人に仕えておったと言うなら、止めはせぬ! この場で追い腹切って死ね! わしが介錯してやる!」


 逆上してしまった武士の心を沈静するには、これほど激烈な言葉が必要であるということを、重蔵は心得ていた。


「若君・・・・・!」


 絞り出すような声で孫次郎が呟いた。


「生き恥は、主君あるじのために忍べ。幼くして父を亡くした若君の哀しみを想えば、忍べぬということがあるか」


「おぬしの申す通りじゃ。わしが間違えておった・・・・」


 その頬には滂沱ぼうだの涙が流れていた。

 熊谷元直の旗本が壊滅したことを受け、生き残った熊谷家の兵たちは四散して逃げ去り始めている。多くの者が陣の背後の山を目指して走っているが、陣地の東側に居た者は、戦場を東から迂回し、壬生みぶ城を目指したという例も少なくない。

 重蔵たちは陣地の西端にいる。川筋に沿って南へ走るしかないであろう。


「この場は退く! それぞれ有田の武田のお屋形の軍を目指して駆けよ!」


 涙を払った孫次郎は、生き残った二十数人の家来を集め、そう宣した。

 ――今なら、まだどうにか逃げ切れる。

 というのが重蔵の直感である。

 毛利・吉川軍の将たちは、熊谷元直を討ったことでこの合戦は終了と考え、次の武田本軍との戦いに意識を移しているであろう。敗兵の追撃に時間を割いている余裕はあるまい。幸い霧も出ている。敵の視界から隠れてしまえば、さほどの深追いには遭わぬに違いない。

 目立つ馬も捨て、重蔵たちは全員がかち立ちで駆けた。

 川筋は湿地が多いが、このあたりの地形は何度も調べて熟知している。一行は川辺のあしやススキに隠れるようにして南へ走り、浅瀬を選んで冠川を越えようとした。

 ――!?

 矢が風を切る音を聞いた、と思う間もなく、数人の雑兵が矢を受け、二人が倒れた。霧に霞む川筋の草むらから十数本の矢が飛んで来たらしい。そう気付いた時には、二十人ばかりの武者が声も立てずに草むらから駆け出し、こちらに向かって来る。

 ――伏兵だと・・・・!?

 落ち武者狩りの土匪どひではない。なぜこんなところに敵がいるのか、考えているいとまもなく、一行はそのまま走って川を越え、霧に隠れるように逃げた。逃げ遅れた数人はそのまま首を獲られたに違いないが、構っている余裕はない。

 冠川を越えれば、辺りは枯れた田畑と荒野である。霧さえ晴れれば、視界は広く利く。西の有田の山並みの南側に武田の大軍が布陣しているはずであり、距離はほんの十数町に過ぎない。

 南西へしばらく走ると、乳白色に霞む遠景の中に無数の人影と旗が見えた。

 ――武田の軍がすでにここまで来ておったのか。

 一行の誰もがそう思い、安堵の息をついた。

 が、虫が報せる、ということはある。


「孫次郎殿、あちらへ!」


 足を止めた重蔵が小声で叫び、孫次郎たちを南へと走らせたのは、戦場の勘と言うしかない。

 霞む視界の中で徐々に明瞭になってゆく軍兵たちの影は、こちらに殺到して来る。その旗の紋は「武田菱」ではなく、「一文字三星」――!

 ――馬鹿な・・・・!

 こんなところに毛利の軍勢が展開しているはずがない。

 はずがないのだが――

 現実に目の前にそれを突きつけられ、重蔵は愕然とした。





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