愛の誓いを奪った日
バレンタイン。聖バレンチヌス司祭が真実の愛を推進した結果処刑された事から行われるようになった行事である。愛の誓いの日と言われて、世界各国でこれが祝われている。しかし、こと日本においてこの行事は、チョコレートの有る無しで男の明暗を分ける不毛な物へと変貌してしまった。
元凶は明らか。チョコレート会社のド腐れ共が恋人にチョコレートを送る様に推進したからである。その目的はバレンチヌスの様に崇高な物ではなく、自社の利益という薄汚い欲望に満ち満ちた物であった。
しかし、そんなチョコレート会社の思惑から外れて、義理だろうがなんだろうが、チョコレートを貰う事すら出来ない男達はごまんと居る。これはその男達の物語である。
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二月十三日。バレンタイン一日前の癖して街中がチョコレート臭くとても歩けた物ではない為、俺はその臭いを少しでも上書きしてやろうと、バイト先のラーメン店でにんにくをたっぷり入れたラーメンを食べてきた。バレンタインを迎えれば、このチョコレート臭さに加えて甘ったるい臭いが蔓延すると思うと吐き気がする。
暦の上では立春を迎えたらしいが、春は立つどころか地の獄まで落ちてしまったらしく、寒風が肌を撫でた。
二日前、俺の悪友たる望月から、またも恋人狩りを提案された。今度は恋人への直接的な攻撃ではなく、手渡すチョコレートを溶かす。という計画らしかった。
「どうやってチョコレートを溶かすんだ」と、俺が聞くと、望月は酔っ払って赤くなった顔をにやりと歪めて、「虫眼鏡だ」と言い放った。阿呆らしすぎて、俺は目頭を押さえた。女とあまりに関係を持たないと、こんなくだらない計画まで立ててしまうのか。その後、酔って煮蛸のようになった望月を家まで引きずる羽目になったので、こっそり望月の顔に小麦粉パックと落書きを施しておいた。
クリスマスに俺が行ったカップル狩りはある意味で成功を収めたが、それと同時に自分の抱える虚しさの大きさを理解してしまった。二度とあんな惨めな真似はごめんだ。
街を歩いていると、制服に身を包んだ男女が包装されたチョコレートを渡し合っていた。なるほど、今日は金曜日。学生なら土日に会わない事も考えて、今贈っているのか。それにしても、今時はお互いに贈り合うのか。と、感心したと同時に、自分より二つは若い筈の者達が既に恋路に関しては俺の遥か先を行っているという事実に直面して、腹に溜まった麺を戻しかけた。
一本の太麺が舌の上まで来た時、悲鳴が上がった。
「チョコレート泥棒よ!」
俺の脇を銀行強盗が使っていそうな目出し帽を被った男が駆けていった。その手にいくつもの包装されたチョコレートが入った紙袋を持って。
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「で、お前は本当に何もしてないんだな?」
「当たり前だろ。チョコレート泥棒なんてしたら犯罪じゃねえか」
「じゃあ虫眼鏡で集めた光をチョコレートに当てるのは犯罪じゃねえのか」
「それは、まあいいじゃねえか。それより、これ見ろよ」
話を逸らした望月が取り出したのは、赤い包装紙に包まれ、緑のリボンで飾り付けられた箱。この時期となれば、その中身も想像がつく。
「誰から貰った。いや、大体わかるが」
「渚からだ。今日の朝届いてな」
渚とは望月が故郷に置いてきた妹の名前である。ことこの妹に関しては、望月は類稀なる気色悪さを見せる。その嫌悪感たるや、道端でナメクジの交尾を眺めて一日を潰す方が楽しいと言えるほどである。
喫茶店から連れ立って出た俺達は同じ帰路につく。右が風上になっていたので、俺は望月の左に立って寒風から身を守った。
「お前はいくつ貰ったんだ」
望月が勝ち誇った顔をして俺に聞く。今すぐに殴り倒してやろうかと思ったが、望月の妹の作ったチョコレートには罪は無い。望月が打ち倒された衝撃で壊れてしまうかもしれない。それは心苦しいのでチョコレートが望月の体から離れたら殴る事にしよう。
「一つだ。自分で買う」
「ほー、ほー、そうかいそうかい」
望月は緑と赤に彩られた箱を右手に持ち、それを振って強調する。顔を背けても、わざわざ視界に入るように振ってくる為に逃げ場が無かった。そろそろ目潰しでもしようかと思った時、突然に箱が消えた。いや、盗まれたのだ。後ろ姿からでもわかる。先ほど見た目出し帽の男だ。
「追うぞ!」
「一人で行け」
俺は騒ぐ望月を尻目に家に帰った。こんな寒い日に向かい風を受けながら走るものか。高校生のマラソン大会ではないのだから。
***
蜜柑はやはり冬に食べる物だろう。暦の上ではいくら春と言われようが寒い以上、今は冬だ。箱で買った蜜柑を口に入れる。
家で毛布に包まりながら電熱ヒーターで暖を取っていると、扉を叩く音がした。
この温もりから一時足りとも離れたくはない。無視しよう。そう決意を固めて来客との根比べを繰り広げたが、近所への迷惑も考慮して応じる事にした。俺は毛布を剥がして寒々とした空気に全身を犯されながら、扉を開けた。
そこに立っていたのは望月であった。寒さに歯を鳴らしながら、望月は部屋に押し入り、毛布を勝手に羽織った。
「チョコレート、取り返せなかった」
「そうか、よかったな」
「渚が、わざわざ俺の為に作ってくれた物だったんだ」
「自慢か、自慢しに来たのか」
「くっそぉ。返せよ、返してくれよ。俺のチョコレートぉ」
他人の部屋で毛布に包まりながら芋虫のように蠢きながら、恨み節を吐く男。それが今の望月であった。幸せの絶頂から転がり落ちた結果であるその醜い姿に、俺は拳を入れられなかった。と言うよりは、涙と鼻水に塗れていたので触れたくなかった。
***
二月十四日、バレンタイン当日である。街中はチョコレートと恋人達の醸し出す臭いで満たされ、チョコを持たぬ者が近づけば死を招く。
さて、そんな中で俺が何をしているかと言えば、目出し帽を被って恋人達からチョコレートを奪っていた。俺が何故そのような犯罪的行為を行っているか、それは昨日の夜まで遡る。
昨晩、俺がコンビニに夜食を買いに向かった際、背後から声がかかった。
「おや、久しぶりじゃないですか」
その顔には微かに見覚えがあった。そうだ、思い出した。クリスマスにカップル狩りを行った際に、俺と共に罵声を吐いた男ではないか。
「奇遇ですねえ」
「奇遇、奇遇」
そういう事にして早くその場を離れたかった。この顔を見ているとクリスマスのあの事件を思い出して今でも体が震える。
「そうだ、奇遇ついでに。この辺りでチョコレート泥棒がいるって話知ってますか」
「知ってるとも」
目の前で二度もその現場を目撃したのだ。知らない方がおかしい。
「それ、俺なんですよ」
つまり、こういう事らしい。あのクリスマスの事件で結託した敗北者の行軍の面々は、今度はバレンタインに目をつけたのだ。恋人からチョコレートを奪い去って、自分達が惨めにならない様に活動していたらしい。その行為自体が不毛であり、惨めさの象徴的行為である事には誰も気が付かなかったのだろうか。
「なるほど、警察に通報すればいいのか」
「いやいや勘弁してくださいよ。あなただってチョコレート貰ってないでしょう。同類ですし、ここは見逃してくださいよ」
「なぜ、俺がチョコレートを貰ってないと思った」
「見れば大体わかるんですよ」
俺は自身の耳を疑った。俺は他人から見て、まず間違いなくチョコレートを貰っていないと、惚れる女や義理を渡してくれる女すらいないと、そう言い切れる様な容姿なのか。それとも、何やら望月から怪しいオーラでも受け取ってしまったか。
「あなたもどうです。チョコレートを失った恋人共の阿呆面は見ていて楽しいですよ」
「生憎、俺はそんな歪んだ行為で心の隙間を埋められるほど狭い心をしていない」
「そうですか。と、言うとでも思いましたか」
突如聞こえる人が走り寄る音。あっ、とも言えずに俺は五人ほどの男に囲まれた。全員があの目出し帽を被っていて、一目で先ほどから話していた男の仲間だとわかった。
「秘密を知ってしまった以上、帰す訳にはいきません」
「貴様が勝手に話しただけだろうが!」
俺の反論は簡単に流されて、男達に引きずられるまま、俺はいくつかの貸倉庫が並ぶ町外れに連れられた。男が、その内から一つの倉庫のシャッターを開き、中に入る。
その倉庫の中には山積みとまではいかないが、多数のチョコレートが放り出されていた。丁寧に包装された物から、五円チョコまで大小様々な種類のチョコレートであった。
「これがここまでの戦利品です。明日はバレンタイン本番、人手が少しでも欲しい所にあなたがいてくれて助かりましたよ」
「俺がそんな汚い行為をするとでも」
「しないならどうなるか、わかりますよね」
目出し帽を着けた男数十名がこちらをじろりと睨んでいた。しかし、そんな脅しに屈するほど俺は弱い人間ではない。例え顔が三倍の大きさに膨れ上がろうが、正義を貫いてみせるとも。そう言い放とうとした矢先、倉庫の床に広がるチョコレートの中に緑と赤で包装された物を見つけた。
「喜んでやってやろうではないか」
俺は悪に屈した。しかし、これは決して我が身可愛さから来る物ではない。沈む望月を再び起き上がらせる為に必要な事なのだ。決して、目の前の男が鍛え抜かれた上腕二頭筋を見せつけてくるからではない。
***
結果から言って、彼らの行ったチョコレート狩りは大成功に終わった。あらゆるデートスポットに潜んでいた刺客が、決定機を逃さずに全ての手渡されるチョコレートを回収してきたのだ。寒さに肌を痛め、人恋しさに心を病み、目の前で脳がとろけるほどの甘い恋愛を見せつけられようとも、彼らが戦った。傍から見れば恋の邪魔者。もし本当に、人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られるのであれば、彼らは一人残らず、その脚に蹴られて原型を残さぬ程に潰れているだろう。
俺はと言えば、心の内で「すまん」と言いながら女の手から男へ向かおうとするチョコレートを奪い去っていた。後ろを一切振り返らず、飛んでくる罵声にもめげず。
そうして、バレンタインはほぼ終わり、時計の長針が二回目の十一時を指した頃、彼らのアジトたる倉庫では宴が始まっていた。
肴は戦利品のチョコレート。ハート型を好んで砕き、チョコペンで文字が書いてあれば舐めて消し、メッセージカードは火を点けて燃やしていた。
これでは暴徒だな。俺がおそらく義理であろうウイスキーボンボンを齧りながらそう思った。
敗北者達の熱は高まっていき、大声で歌を歌う者。チョコレートケーキでパイ投げをし合う者達。チョコレートを鍋で溶かし、チョコレートのチョコレートフォンデュを楽しむ者。逆恨みを晴らした者達はとても良い気分で酒に酔っているらしかった。
隙は今か、と俺は望月の妹が作ったチョコレートを回収した。後はこれを望月に届けるだけだ。と思ったその時。
「そこまでだぞてめえら!」
倉庫のシャッターを開けて、ぞろぞろと男達が入ってくる。そして、叫ぶ。
「よくも俺達のチョコレートを盗んでくれおったな!」
「てめえら全員血祭りじゃ!」
恐ろしい恫喝。普通に生きていれば一生に一度聞くか聞かないと思える程の物であった。間違いなく、堅気ではない――。
まずい。まさか、こんな連中からも盗んでいたとは。分別を知らないのかこいつらは。
迫る男達から、チョコレート泥棒達は逃げ出した。
***
結論から言う。
俺は全身に溶かしたチョコレートを塗りたくられた。
俺達は一人たりとも逃げる事は出来ず、制裁を受けた。
単純に殴られただけの者。体中の穴という穴にチョコレートを流し込まれた者。中でもリーダー格は酷い責め苦を受けていた。
そんな地獄からようやく抜け出した俺は、望月の住むマンションへ向かった。二月の夜、吹く風は冷たく、人通りは無い。もし、今の俺の姿を夜道で見かけたならば、十人中七人が妖怪か何かと見間違えるだろう。残り三人は泡を吹いて気絶する。
玄関口の鍵を開ける番号を打ち込み、無人のエレベーターに乗り込み、望月の部屋のインターホンを押した。
「はい?」
望月は嫌々という感情を隠しもせずに扉を開く、そしてこちらを見た瞬間。「ぎゃあ」と叫んで泡を吹いて気絶した。
俺は倒れ伏した望月の体に緑と赤の箱を置いてその場を立ち去った。
溶かしたチョコレートを塗られた際に負った火傷が疼いた。そして、結局自分にすらチョコレートを贈ってもらっていない事に気付き、泣いた。